ベルグソン「時間と自由」
時間について考えるとき、もう一冊、忘れられないのが、ベルグソンの「時間と自由」。
この本も、ハイデガー「存在と時間」と同じように、よくわからない。手とハンマーのように、私が知っているも出てこない。抽象的で、とても困る。
私は、「持続」ということばに注目して、かってに考える。
「持続」とは「充実」である。これは特に感情、意識、精神の充実と言い直すと、いわゆる「意識の流れ」の文体に直結する。自在な流れを、「自由」と読み直せば、私のなかで、ジョイス、ウルフ、コルタサルはつながる。
この感じと、鴎外の「正直」を結びつけることは、たぶん、多くの人には予想外かも知れないが、あるできごとを自己を捨てて見つめるとき、そこに他者(もの)独自の運動が自律してくるときがある。他者(もの)が独自に、つまり他者の自由意思で動く瞬間がある。それを、鴎外は散文で再現する。
で、これは、私の中では、石川淳への通路なのだが、まあ、これ以上は説明が面倒くさい。
私は、ベルグソンが「継続」「自由」と呼んでいるものを、「いのち(肉体)の充実、感覚の横溢」と読み直している、とだけメモしておく。
小林秀雄の文体は(文章は)、たぶん、ベルグソンの思想の延長線上にあると思うのだが、小林秀雄は「数学的論理」から逸脱しているので、私にはやはり難解すぎる。勝手きままなわがままな文章に見える。
鴎外や石川淳に比べてという意味だが。
こんなことは、メモのメモのようなものだが、入院中でなければ書かないだろうなあ、と思いながら書いている。