「ココア共和国」という月刊誌がある。
多くの投稿詩が掲載されている。
少し気になることがある。
たとえば、佐倉潮「みかん消失じかん」
みかんはあなたに食べられて
あなたになりました
あなたはみかんを食べたので
あなたのままでした
この、論理を利用したことばの運び、リズムが、秋亜綺羅そっくりなのである。
そして、この雑誌の発行人が秋亜綺羅なのである。
秋亜綺羅は「平和」という詩をこう書き始めている。
生の野菜を食いちぎるとき
野菜は痛くないのかを考えたことはあるか
人間と人間以外のものが、「食べる」という行為のなかで交錯する。
そして、その交錯を支えるのが「考える」なのである。
佐倉は、「考える」ということばはつかってはいないが。
そして、そのことばのリズムは、いつでも考えるリズムなのである。しかも、わりと短いリズム。読み返さないと混乱する論理ではない。
一瞬の目眩ましのような、ひらめいて、消えるリズム。
それはそれでいいのかもしれないが。
私は、せっかく多くの人が投稿するのなら、異質のものが読みたいなあと思う。
多くの投稿詩が掲載されている。
少し気になることがある。
たとえば、佐倉潮「みかん消失じかん」
みかんはあなたに食べられて
あなたになりました
あなたはみかんを食べたので
あなたのままでした
この、論理を利用したことばの運び、リズムが、秋亜綺羅そっくりなのである。
そして、この雑誌の発行人が秋亜綺羅なのである。
秋亜綺羅は「平和」という詩をこう書き始めている。
生の野菜を食いちぎるとき
野菜は痛くないのかを考えたことはあるか
人間と人間以外のものが、「食べる」という行為のなかで交錯する。
そして、その交錯を支えるのが「考える」なのである。
佐倉は、「考える」ということばはつかってはいないが。
そして、そのことばのリズムは、いつでも考えるリズムなのである。しかも、わりと短いリズム。読み返さないと混乱する論理ではない。
一瞬の目眩ましのような、ひらめいて、消えるリズム。
それはそれでいいのかもしれないが。
私は、せっかく多くの人が投稿するのなら、異質のものが読みたいなあと思う。