森鴎外 第三巻頭 「藤柄絵」
思うと考えるはどう違うか。
コルタサルから離れて、鴎外を読んでみる。
私の見るところ、コルタサルは思う人(文体)、鴎外は考える人(文体)である。
違う国語、違うテキストを利用してこんなことを書くのは乱暴なのだが、コルタサル論、鴎外論ではなくて、ただ私は思ったことを書く。
鴎外にとって、考えるというのは、どういうことか。「藤柄絵」の18ページ。(表記は一部変更)
この考えを前の考えと連結してみると、この未知の男は、偶然同じ紋の持主であるばかりではなくて、容貌までも自分に肖ていなくてはならない。
事実を連結する(石川淳なら積み重ねると言うか)。事実を踏まえて推論する。結論を持っている出すのが、考える、である。
これは、コルタサルの「合流」に通じる。
どこが違うか。13ページ。
作者が紙に書けば長くてくだくだしいが、実際これだけの思慮は、佐藤君の脳髄の中を、非常な速度をもって通り過ぎたのである。
思慮は考え。それは「非常な速度」を持っている。これは、充実している、ということである。充実、横溢、自由にあふれてくる。思いではなく、考えが人間を動かしてゆくのである。
鴎外も(鴎外の主人公も)、いろいろ思うけれど、思いよりも事実を踏まえて推論し、結論を導き出すことを、生きる基本にしている。
考えることで自分を律している。そのために、散文的にことばを動かす。
鴎外は、ことばは人間をつくる、ということを真剣に(正直に)追求したひとである、と私は考える。
コルタサルは、人間をつくるというより、人間を受け入れて、楽しんでいる、と私には思える。
どちらも、充実したことばの運動のなかにこそ、自由な時間がある、生きているいのちがある、と考えている、と仮定すれば、そのさきに、ベルグソンの「時間と自由」が浮かび上がってくる、と書けば強引過ぎるかもしれないが、私のことばの脈絡は、そういうところを動いている。
あすはまたコルタサルに戻るつもり。