詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「南部高速道路」

2021-03-20 14:29:39 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「南部高速道路」

フリオ・コルタサル「すべての火は火」(Julio Cortazar Todos los fuegos el fuego)の巻頭の作品。パリの、南部高速道路の渋滞に巻き込まれた人たち。テーマは、書き出しに明確に提示される。9ページ。

時計はいつでも見られるが、右手首に縛りつけられた時間やラジオの時報の音がもはや自分たちとはなんの関わりもないものに思えた。

時間と時計の違い。しかも、この文章に見られるように、その区別は明確ではない。手首にあるのは、時間ではなく、何時かを知らせる時計である。多くのひとはそれを混同する。コルタサルは、その混同を利用して物語を展開する。まことに巧みだ。
私が敬愛しながら、敬遠もするベルグソンなら、この混同を厳しく分別し、ここから時間論を展開するだろう。
私は、そんな哲学的なことはしない。しかし、先の一文が「思えた」で締めくくられていることは指摘したい。
ベルグソンは、考える。
コルタサルは、思う。
考えると思うは、どこが違うか。考えるは、いつでも事実を重視する。思うは、事実を無視して動くときがある。急に思いだし、急に思いついたことを、ことばは追いかける。それまで思っていたことを無視することがある。でも、考えるは常に今考えていることとの、整合性を求められ、整合性がないと破棄される。あとで活用されることもあるが、それは隠れていた事実が発見され、新しい思考の土台となるときである。
簡単に言い直すと、考えるよりも、思うの方が軽い。

コルタサルは、どこまでも、軽い。
その軽さは、イタロ・カルビーノの軽さとは違う。カルビーノはベルグソンを簡略化(?)した数学的、論理的高速性の軽やかさ。
コルタサルは、ウルフの、意識の流れのスムーズな軽み。深刻なのに、ありふれている、そういうことまあったなあ、と思い出すような軽さ。

この短編では、渋滞は夏にはじまり雪もふる。季節はさらに変わる。人が死に、若い女性は妊娠する。つまり、日常の時間が、渋滞の時間をのっとって行く。時間ではなく、時計で計測する、という不思議な展開をする。
「間違い(ありえない)」という考えを、「こう思う」が乗り越えて、あふれ、暴走する。車は渋滞するが、思いは暴走する。
24ページ。

車が動かず何もすることがなかったので、人々はあれこれ憶測を逞しくしたり、

という文がある。「逞しく」はスペイン語でどう書かれているかわからないが、考えよりも思い(憶測)の方が強い。ひとを支配する。
このことをコルタサルは利用して文学をつくっている。

小説の終わり、渋滞が解消し、車が次々に動き出す段落に、次の一行がある。43ページ。

これまでの生活が一瞬のうちに崩壊するなんて考えられない。

「考えられない」けれど、主人公は「思い」つづける。
だから、これは、渋滞のなかで主人公が思いつづけた時間を書いていると言い直すこともできる。

コメント
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