詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「正午の島」

2021-03-25 10:57:01 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「正午の島」

飛行機の窓から見える島にとりつかれたフライトアテンダントの男。137ページ。

週三回、正午にキーロス島の上をとぶというのは、正午にキーロス島の上を飛ぶ夢を、週三回見るのと変わるところがなかった。一切がくり返し現われる空しい映像でしかなく、しょせんは幻だった。

ここから、私は再び時間と思いについて考える。
繰り返し、同じことをするのはなぜか。ひとはなぜ、幻を繰り返し見るのか。
幻を空しい映像と判断するのは、考えである。
思いは、幻を幻と判断しない。
思いは、夢に酔う。判断停止。
そして、そこに充実を感じる。いつも同じ時間。日付の違いを超えて、同じ時間があらわれる。その、喜び。

考えは、こういう「進まない時間」を許さない。
考えは行動に移され、現実を変える。
現実が変わらなければ、それは考えと、考えを実行に移すときに、何らかの間違いが入り込んだのだ。

この作品の主人公は、思いに酔ったあげく、思いを実行に移す。つまり、思いを考えに変え、繰り返し同じ時間に戻るという生活から脱出しようとする。
こういうことは、だれでもすることだけれど、、、、。
問題は、考えを計画に変え、実行するということが、男の本質(思想、肉体)ではないということである。
つまり、思いを生き続けた人間は、考えを生きようとするとき、自己の肉体をはみ出し、肉体に裏切られる。
破綻、破滅、死。
この結末は、コルタサルの思想(肉体)の本質が、「思いの流れ」にあることを象徴的に暗示している。
コルタサルにとって、時間は、思いの横溢、繰り返しの充実の瞬間のことである。
いわゆる物理的、数学的な線上に流れる時間形式、時系列は仮の存在である。見かけの時間である。言い直すと、生きている時間ではない。
ベルグソンも見かけに時間と、自由な時間、時間の自由について考えている。コルタサルがベルグソンからなにかを学んだかどうかはわからないが、私はふたりのことばを結びつけ、時間の本質は時系列を破るいのちの充実にある、と考えるのである。

コメント
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