詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

情報の読み方

2021-05-08 18:19:48 | 自民党憲法改正草案を読む

 読売新聞夕刊(2021年5月8日)に、非常におもしろい記事が載っている。
 見出しと記事。

 五輪へ WHO「日本信頼」/幹部「あらゆる決断委ねる」
 【ジュネーブ=杉野謙太郎】世界保健機関(WHO)で緊急事態対応を統括するマイク・ライアン氏は7日、東京五輪・パラリンピックについて、日本政府などを「非常に有能だ」と強調した上で、「競技会場の観客数やその他のあらゆる決断について、日本側に委ねたい。公衆の保健を守るため、非常に組織的なリスク管理の手法をとっているとみている」と述べ、信頼する姿勢を見せた。
 オンラインでの記者会見で語った。約2か月後の大会を安全に開く方法はあるかを問われ、ライアン氏は「大会を開催できるかどうかではなく、(選手の安全や観客の有無など)個別のリスクにどう対応していくかだ」と指摘した。
 現時点で観客数が未定となっていることについては、「主催者の落ち度ではまったくない。その時の感染状況によってしか判断できないからだ」と擁護した上で、「国際オリンピック委員会と東京都全体、そして日本政府が、リスクの最善の管理をするために正しい判断をすると信頼している」と述べた。

 さて、これをどう読むか。読売新聞は、マイク・ライアンの言ったことをそのまま「正しい」ものと判断している。
 「オンラインでの記者会見」に参加したのは何人なのかわからないし、どの国の記者が参加したのかもわからないが、記事がオリンピックと日本の感染対策に限定されているところを見ると、日本のジャーナリストだけが参加しているのかもしれない。いま、いちばんの問題はインドの感染爆発なのに、それについては一言も触れていないので、私は、そう想像するのである。
 さらに、マイク・ライアンがどのような政策を具体的に評価しているのかわからない。日本の感染者は、たしかに他国に比べると少ないから「日本政府は無能だ」とは言えない。言うなら「有能だ」としか評価のしようがないだろう。
 問題は最後の段落。
 「国際オリンピック委員会と東京都全体、そして日本政府が、リスクの最善の管理をするために正しい判断をすると信頼している」
 「正しいと判断している」とは言っていない。「正しい判断をすると信頼している」。これはリップサービス。そして、問題の「丸投げ」。
 オリンピックで何が起きようが、それはWHOのかかわる問題ではない。国際オリンピック委員会(バッハ)、東京都(小池)、日本政府(菅)が責任をとればいい。WHOにはオリンピック開催に関する権限はないから、知らん顔。「不安を抱いている」とも「安全を保障する」とも言わない。「不安を抱いている」といえば、日本がWHOに金を出さないと言いかねない。「安全を保障する」と言えば、感染が拡大したときWHOとマイク・ライアンの責任が問われる。
 つまり、「不安である」「信用できない」とは、絶対に言うはずがないのである。
 これは、菅がアメリカまで行ってバイデンと会見したときのバイデンのセリフそっくりである。「日本の姿勢、開催へ向けた努力を支持する」と言っただけで、アメリカが何らかの協力をする、大選手団を送りこみ大会を盛り上げると言ったわけではない。政治家だから、自分の責任が追及されるようなことは言わないのだ。そうした強い意識があるからこそ、相手に責任を押しつけた形でのリップサービスはするのである。
 だいたい、どんなときでも「決断を委ねる」というのは、「あんたが自分の責任でしなさい、私は知りません」という意味でしかない。何も外交にかぎらず、ふつうの日常生活の会話でも同じ。「好きにしたら」というのは、自己責任でやりなさい、ということである。こういうのは「擁護」でも「信頼」でもない。「放置」である。
 他紙がどう書いているか知らないが、リップサービスをそのまま信じて読者に伝えるなんて、記者のすることではないだろう。

 

 

 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞

 

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田窪与思子『サーカス』

2021-05-08 10:41:11 | 詩集

田窪与思子『サーカス』(思潮社、2021年04月19日発行)

 田窪与思子『サーカス』は巻頭の「サーカス」を読み始めてすぐ、ことばの固さが気になる。堅牢と言い換えてもいいのだけれど(この、日常的にはあまりつかわないことばの方が、たぶんぴったりなのだけれど)、なぜなんだろうなあ。

無機質なマンションが建ち並ぶ郊外の町。
赤いテントの周りはぬかるみで、
ムシロの上をそろりそろり歩く。
テントの傍にはコンテナハウスが並び、
異国の団員たちがスタンバイ。


 きっとことばの呼応が「定型」だからだろう。マンションは「無機質」でなくてはならず、そしてマンションが「無機質」なのは郊外だからだろう。新宿の酒場の多い町では、マンションはきっと「無機質」ではなく、もし「無機質」であるとしてもそれは郊外のマンションの「無機質」をつきぬけたものだろう。
 これは「ムシロ」といういまは見かけないものでも同じ。「ムシロ」はぬかるみを呼び、そこではひとは「そろりそろり」と歩く。こんなことを知っている人は、いまは少ないだろう。若者には、これが「定型の呼応」とは感じられないかもしれない。つまり、田窪は、かなり年配のひとである、ということがわかる「呼応の定型」が、ここにある。
 「異国の団員たち」にも「呼応の定型」がある。いまの時代「異国」ということばにどれだけ意味があるかわからないが、その意味のないものに意味を与えてしまう「定型の呼応」。
 「呼応」とは、しかし、あいまいなものだね。それは、ことばとことばの「距離の取り方」と言い換えることができるが、「無機質なマンション」「ぬかるみ/ムシロ/そろりそろり歩く」「異国の(サーカス)団員」というのは、いま発見されたものではなく、すでに過去に語られたものである。だからこそ「定型」(確立されたもの)と私は呼ぶのだが、この「定型」が、いま「ことばとことばの距離」としてなまなましく成立するかというと、かなり疑問だ。疑問だけれど、ここに確固とした「安定」があることがわかる。
 でも、田窪を、かなり年配の詩人と仮定しても、この「呼応の定型」だけが「堅牢さ」を生み出していると断定するのはむずかしいなあ。いちばん目につくのは「呼応の定型」だけれど、他に何かが影響している、と感じる。堅牢さの背後にもっと何かがある、という予感がする。
 何だろう。
 意外と早く、その「キーワード」が見つかる。「美容院」。

美容院に行くと、
産休明けのタキグチさんが迎えてくれた。
お久しぶり、と話が弾み、
鏡の中の彼女とあたしを眺める、「あたし」。


 ありふれた光景に見えるが、行末の「あたし」にはカギ括弧がついている。これは、何を意味してるだろう。「鏡の中のあたし(鏡像)」と区別しているのだが、カギ括弧がなくても最初のあたしは鏡像とわかり、あとの「あたし」は鏡像ではない(本物の)あたしであることがわかる。しかも、カギ括弧どころか、「あたし」ということばそのものがなくとも意味が成立する。だれが読んでも、誤解のしようがない。しかし、そのだれが読んでも「誤解」の生まれるはずがないことばに、わざわざ不要なカギ括弧をつけて目立たせている。そのくせ、「あたし」が出てくるのは、この詩では一回限りなのだ。

赤ん坊が泣き続けた時は深呼吸をして心をムにしたわ。
えっ、ム? 退院した犬が吠えつづけた時は動揺した。
えっ、ビョウキ? サンポは?


 というようなやりとりや、過去の(タイの)美容院の思い出などか書かれたあと、

繰り返し甦る舞台装置のような美容院。


 という一行がある。そこに「舞台装置」という比喩。対象として見ている。その舞台に田窪はいるはずなのに、そこにいるのは「生身」ではなく演じられた田窪なのだ。
 「鏡の中のあたし」も「鏡像」ではなく演じられたあたしであり、生身のあたしは「あたし」なのだ。
 そして、この生身のあたしを隠して、舞台で演じられるあたしを、客観的に描き続けるのが田窪なのだ。舞台で演じていても、そこに生身があるはずなのに、生身を出さない。おもしろい役者は、役を演じながらも役者自身の生身を「存在感=過去」として舞台に噴出させるものだが、田窪はそういうことをしない。「演技」を「演技」という「枠(定型)」のなかで完成させる。この「定型」が、ことばの運動となってあらわれてくるのだ。
 「定型」だから、どこも間違ってはいない。でも、それは「間違っていない」という理由で、ことばの魅力を半減させる。完成しているけれど、おもしろくない。ことばの魅力というのは、いったいどこへ動いていくのかわからない、わからないけれどひっぱられてしまう、騙されるかもしれない、でも騙されてもいい、どうなってもいいと思ってついていくとき、ことばが「わくわく」「どきどき」するものとなって迫ってくる。それが、田窪の詩には欠けていると思う。(これを逆から言うと、最初に書いた「堅牢」という評価になるのだけれど。)
 詩集の後半の「帰還」という作品は「小説」風なのだけれど、ストーリーの展開に「わくわく」どくどき」がないのは、そこでは「あたし」が隠れたままで、「舞台」のように第三者がことばのなかを動いているだけだからである。
 「坂道」という作品には「あたし」が四回出てくる。私の「キーワード」の定義では、四回もたてつづけに出てくるのはキーワードではないのだが(キーワードとは、必然に迫られて必然的に出てくるもの、というのが私の定義である。「美容院」は、その例になる。)、ここでは田窪は、あえて「あたし」を種明かししているのだ。
 だから、

脚本を書いたのは
「あたし」?                 (注・詩の形を反映していません)

      
 ということばも出てくる。「脚本」は「舞台」に通じる。田窪にとっては「舞台」(芝居)とは、「あたし」を隠し、「別人」として生きること、架空(虚構)を生きることなのだ。もちろんその「虚構」は現実を明確にするための「装置」であるが、それはあくまでも「装置」である。
 「装置」というのは、たとえば「書き割り」を例にとるといちばんわかりやすいが「定型」である。「定型」であることで「装置」になる。
 詩は、その「装置」を破って動いていかないと、いのちにならない。ことばが輝かない、と思う。
 どこにも「間違い」のないことばを読んだ。けれど、それがおもしろいかと言われると、返答に困る。「間違い」がないから、それでいい、とは感じられない。私は「間違い」を楽しんでみたい。現実で間違いを生き抜くことはむずかしいが、せめてことばのなかでくらい、思い切った「間違い」についていってみたいと思う。どうなるかわからないということほど「どきどき、わくわく」する体験はないからね。
 でも、こんな不満をついつい書いてしまうのは、この詩集が「堅牢=堅実」であるからでもあるんだけれどね。

 

 

 


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