長谷川信子「親」(「詩的現代」36、2021年05月発行)
長谷川信子「親」の全行。
木という字はさびしい
枝が未熟でさびしい
ひとり 木陰で遊ぶ少年のようだ
樹と言う字はきききりんが
イメージを奪ったけれど
むかし 家の横に椎の樹があった
その洞に手紙を書いて入れておく
十二歳の私の手紙を読んだ椎の樹が
枝を揺すって
一晩中 ひゅう ひゅう泣いていた
木に手紙を書いたことはない
だって木には洞がない
私の気持ちを投げ込む箇所がない
抱きしめて耳を押しあてて
言葉を聞き出すのが
私には もう無理だ
--横にたって見ている
いいなあ、と思う。思うが、この「いいなあ」を説明するのはむずかしいなあ。
私は四連目が好きなのだ。それまでに書いてきたことが「嘘」だったと告白する。そして木と対話することができなくなった、と言う。
「もう無理だ」には、かつては、そういうことができたという意味がある。「もう」無理だけれど、昔はできた。
一連目の三行は、これはこれで「対話」なのだ。単なる「感想」ではなく、木と向き合うことで出てきたことばであり、そのとき長谷川は木の声を聞いていたのである。それは「聞く」というよりも、「聞こえてくる」。
三連目は、そうしたことを語っている。聞くのではなく、聞こえてくる。それは木からの声であると同時に、長谷川の声でもある。長谷川が椎の樹になって、長谷川にだけ聞こえる声を発している。
一連目の「枝」が、ここでも出てくる。「木」は枝が未熟でさびしいが、椎の樹は枝がゆすれる。枝がたくさんある。しかし、やっぱりさびしい。「ひゅう ひゅう泣いていた」。一連目の「さびしい」が「泣く」という動詞で言い直されている。
ここで終われば感傷的な「抒情詩」として完結するのだろうが、長谷川は、そこからもう一歩進んで行く。踏み出していく。「抒情詩」から脱けだす。
「抒情詩」なんて、嘘。
少女期(思春期)は、嘘をつく。嘘のなかで生きることができる。それは夢を生きることができるということかもしれないが。ことばで、何かが可能なのだ。ことばが「現実」なのである。
そんなことを思い出しながら、長谷川は「過去」ではなく「いま」を書いている。「いま」のなかで、ことばを動かしている。この「過去」から「いま」への転換と、「いま」を正直に生きる決意(というとおおげさだが)に、私はひかれるのである。
前半部分には、長谷川の「精神/夢/こころ」が書かれているとすれば、ここには「肉体」が書かれている。「抱きしめて耳を押しあてて」という具体的な「肉体」が書かれている。そして、「肉体」もまた「さびしい」ものなのだ、と感じている。「言葉を聞きだす」ことができない。「言葉を聞く」というのは「精神/こころ」の仕事ではなく、「肉体(耳)」の仕事なのである。この「肉体」の肯定感が、いいなあ、と感じる理由かもしれない。
最終連。
--横にたって見ている
何を見ているのだろう。木を見ているのか、木と対話できた十二歳の少女を見ているのか。あるいは「いまの長谷川」を見ているか。どれを「答え」にしてもいいが、私は「いまの長谷川」を見ていると読みたい気持ちなのである。「いまの長谷川の」横にたって「いまの長谷川」を見るということは、現実には不可能である。十二歳の少女を見るというのも現実には不可能だけれど、過去を思い出して、その過去が目の前にあるように感じるということは現実として矛盾しない。「親」というタイトルからすれば、「親」になった長谷川が、十二歳の自分を「親」として見ているということになるかもしれない。しかし、私は、そういう見方を、したくない、のである。それでは「抒情詩」になってしまうと思うからである。ここには「抒情詩」を超える何かがある。「嘘」を超える「現実」がある。
過去を思い出す(少女時代を思い出す)、その幻を見るというのは、ある意味で現実的である。それに対して「いまの長谷川」を見るというのでは「長谷川」が分裂してしまう。非現実である。人間は同時に「ふたつ」の場所には存在できない。でも、その非現実を、いま、ここに出現させるという動きが、なまなましく感じられるのである。過去を思い出すよりも、もっと未分化の矛盾があり、その矛盾に詩を感じるのである。「肉体」そのもの存在を感じるのである。
こういうことができてしまうことのさびしさ(不思議さ)は、ことばを生きる人間の特権だろう。人間のさびしさであろう。西脇の「さびしさ/さみしさ」に通じるものを、私は感じる。それは「親」であることを超越した、人間存在そのもののさびしさ」でもある。「親」は方便だ。少女期に触れた部分で、少女にとってはことばは「現実」なのであると書いたが、おとなにとってもことばは「現実」である。ことばにできることは、「現実」である。ただし、使い方が違う。長谷川は、少女時代にはことばにできない「現実」をおとなになって「現実」にしている。ここに、さびしさがある。もっと違うことばのの動かし方もあるはずなのに、それを選ばず「木に手紙を書いたことはない」「--横にたって見ている」と書く。そのさびしさが、私の胸に響く。
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