スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」(★★★★★)(2021年05月29日、キノシネマ天神、スクリーン1)
監督 スパイク・リー 出演 デビッド・バーン
私は音楽をほとんど聞かないので、デビッド・バーンもトーキング・ヘッズも知らない。この映画を見に行ったのは、監督がスパイク・リーだったからである。スパイク・リーは「ドゥ・ザ・ライトスィング」から見ているが、社会的意識に共感を覚える以上に、その映像の清潔感に非常にひかれる。清潔で、なおかつ強靱である。予告編でも、あ、これはシンプルで強靱だなあと感じたが、本編を通してみて、さらにその印象が強くなった。
映画はデビッド・バーンが率いるグループの舞台での公演「アメリカン・ユートピア」を撮影したもの。舞台の最初から終わり(アンコール?)までをそのまま撮っている。最後に「おまけ」がついているが、基本的に、ただ公演をそのまま撮っている。もちろん映画だからカメラはいろいろなアングルから撮影されているが、切り替えが非常にスムーズであり、まるで何回にもカット割りして撮影したかのようにさえ見える。カメラがデビッド・バーンらの動きをまったく邪魔していない。いったいどうやって撮った?と思う。でも、これはあとから思うことで、見ている間は、ともかくスクリーンに引きつけられる。
この舞台は、ある意味でとても奇妙である。音楽のこと、ライブ公演のこと、あるいはミュージカルのことを知らない私が言うのだから、きっと間違いを含んでいると思うが、何よりも舞台の出演者の服装が変である。全員が灰色のスーツ(シャツを含む)を着ている。モノトーンなのである。そして、裸足。余分なものがない。服装で観客の視線を引きつけようとしていない。デビッド・バーン自身が、もうおじさんだし、容姿で観客を魅了しようとは思っていないような感じ。
ダンスもあるが、いまふうの「キレキレ」という感じてはなく、これならちょっと真似すればできるかな、という感じ。昔の金井克子の歌いながら踊る感じ、というとデビッド・バーンに怒られるかもしれないが、まあ、そんな感じ。あとは、演奏者との関係で言うと、ちょっとしたマーチングバンドかなあ。舞台装置は、すだれカーテンのようなものが三方を囲んでいるだけで、ほかは何もない。つかこうへいの芝居のようである。何もないから、出演者が自由に動け、その動きにだけ視線がひっぱられる。ともかくシンプルである。そのシンプルが神経質を強調するようでもある。
で。
映画のもう一つの要素、音楽の方はどうか。単純ではない。とくに歌詞がめんどうくさい。単純な解釈を受け入れない。歌い方も歌を楽しむというよりも、何か神経質な苛立ちの方を強く感じる。「音」も出演者が演奏する楽器の音に限られている。隠れた音(出演者以外の楽団が演奏する音)がない。そういうことも、デビッド・バーンの神経質な(?)な声を強調する。デビッド・バーンは神経質、と書いたが、その補足になるかもしれない。途中でデビッド・バーンが解説しているが、高校(?)のコーラスのために「家においで」(よくわからない、たぶん間違っている)という曲をつくった。家に友だちを招待しておきながら、早く帰ればいいなあ、と思ったりする。でも、高校生は、まったく違う解釈で歌う。ほんとうに歓迎している。まったく別の曲みたいだった、という。そう言ったあとでデビッド・バーンバージョンを歌うのだが、それはたしかに「もう早く帰ってくれよ」という神経質な思いがあふれる歌なのだ。「家においで」には、そういう「矛盾」がある。
そして、矛盾といえば、この映画のタイトルは「アメリカン・ユートピア」である。そのユートピアのアメリカで何が起きている。ブラック・ライブズ・マター運動は記憶に新しい。そして、歌のなかには、そのプロテスト・ソングが含まれている。アメリカはユートピアじゃないじゃないか。(ポスターではUTOPIAが逆さ文字に印刷されていた。)そして、そういう抗議があるからこそ、スパイク・リーは、この映画を撮ったのだろう。問題提起だね。真剣に、何かをしないといけないと感じている。でも、誰にでもあてはまる有効な何かというのは、存在しない。と、神経質なデビッド・バーンなら言うかもしれないなあ。
で。
この問題提起が、また実に興味深い。映画は舞台と違う。映画ならではのことができる。映画の最後、公演が終わったあと、デビッド・バーンが自転車で帰っていく。そして仲間たちも自転車で移動している。その移動シーンに、もう一度「家においでよ」が流れる。しかし、それはデビッド・バーンの歌ではない。はっきりしないが、たぶん高校生の合唱である。「いやだなあ、もう早く帰れよ」ではなく、ほんとうに「家においでよ」と誘っている。いっしょに楽しい時間をすごそうと言っている。
同じことば、同じ曲が、歌い方ひとつで意味が違ってくる。それを映画はちゃんと証明して聞かせてくれる。これは、スパイク・リーの「主張」なのだ。本の少しの「演出」でスパイク・リーは強烈な「主張」をこめることに成功している。
これはまた、こんなふうに言い直すことができる。アメリカにはいろいろな問題がある。ブラック・ライブズ・マターをはじめ、いろんな運動がある。それは、アメリカを変えていくことができるという可能性のことでもある。デビッド・バーンは舞台から、有権者登録をしよう、選挙に行こう、と呼びかけている。それは、アメリカがどんな国であろうと、アメリカ国民にはアメリカを変えていくことができると言っているように感じられる。その「意図」をスパイク・リーが解釈して、語りなおしているように見える。
で。
ここからさらに思うのである。このラストシーンの音楽が映画の特徴を生かした「演出」であるとするなら、舞台ならではのものとは何だろうか。この映画は舞台を巧みにとらえているが、やはり舞台ではなく、映画である。どこが違うか。
これから書くことは、期待と想像である。
映画では、舞台の上の「肉体の熱気」がわからない。とくにスパイク・リーの映画ではカメラワークが見事すぎて、全てのシーンが「映像」になってしまっている。なりすぎている。逆に言うと、デビッド・バーン自身の「肉体」の、そして他の出演者の「肉体」のどうすることもできない熱気のようなものがそがれてしまっている。それは汗とか呼吸の乱れとかではなく、なんといえばいいのか、実態に肉体を見たときの生々しさが欠けているように感じる。このひとはいったい何を感じているのか、という直感的な印象が弱くなっているように感じる。
だからこそ。
あ、これは映画ではだめだ。実際に舞台を見たい。ライブを見たいという気持ちになる。「家においでよ」と誘ったけれど「もう帰れよ」と思っている。「もう帰れよ」言いたいけれど、それをがまんしておさえているだけではなく、「違う人間になって、もう一度家に来てほしい」と思っている。いまのきみは嫌いだけれど、きみが一緒でないと生きている意味がない。その矛盾した感情。デビッド・バーンの声を神経質に感じるのは、こういう矛盾があるからだろう。そういうときの感情というのは、肉体を直接みるときに、複雑に伝わってくるものである。カメラを通すと消えてしまう「肉体」の匂い。それを体験したいなあ、という気持ちになってくる。いま、ここに私とは違う肉体をもった人間が生きていて、いろいろなことを思っている。矛盾をそのまま味わってみたい。矛盾に「解釈」をくわえずに、「肉体」そのものとして向き合ってみたい、という気持ちを引き起こされるのである。
いや、ほんとうに生の声を聴きたい。演奏を聴きたい。動きを見たい。映画がだめだからではなく、映画がいいからこそ、そう思う。今年見るべき映画の1本だね。
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