ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」、ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」(「彼方へ」6、2021年04月15日発行)
ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」は連作だろうか。「一月六日」は東京駅へ向かう地下鉄に乗っている。コロナ時代の車内風景が描かれる。
車両の中に一人
気になる男がいるのである
彼は腕を組んでゆったりと座席に沈み
目を閉じて
至福の表情をしているのである
鳥の囀りが聞こえる
山の奥 誰も知らない木立の中に
湧き出している清らかな湯
彼は今 その中に浸かり
雪を戴いた山脈を彼方に眺めている
日が沈めば
彼自身が釣り上げた渓流の魚と
一壜の澄んだ酒
私の想像を乗せて
地下鉄は走る
「目を閉じて」が自然でとてもいい。男を描写しているのだが、たぶん、つられてダニエルも目を閉じる。目を閉じるという動詞のなかでふたりが重なり、ひとつの夢を見る。
この夢をダニエルは「私の想像」と呼んでいるが、理由もなく浮かんだ想像ではないだろう。想像には、かならず想像を裏付けるもの、現実の出発点がある。
だから、詩は、それを説明するかのように展開していくのだが、これはちょっと味気ない。夢を現実の額縁に入れて飾って見せる感じがする。額縁なしの世界を見たい。ことばがすでに額縁なのだから、もう一度額縁に入れる必要はない。
*
ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」(岡野絵里子訳)は、公園で老婦人と会話する。
私たちは沈黙の中に腰掛けた。薄闇が降りて来て、
列車の個室にいるような、
閉じ込められた感覚が来た。
「降りて来て」「感覚が来た」。「来る」という動詞が二回繰り返される。この畳みかけが、とてもいい。「来た」ものにさらわれて、どこかへ連れて行かれる、ということがはじまる。
若かった時、と老婦人は言った、夕暮れに庭園の小道を
歩くのが好きだった、
もし小道が充分に長かったら、月が昇るのが見えたでしょうね、
それが大きな楽しみだったの、sexでも食べることでも
俗な娯楽でもなくね。
月の出が好きだった、その瞬間に、時々聞こえることがあったの、
「フィガロの結婚」の最後の合唱の崇高な旋律が。あの音楽は
どこから来たのかしら?
どうしてもわからなかった。
ここに、また「来た」(来る)という動詞があらわれる。「来た」もの、何かわからないものが、やはり人をさらっていく。
詩は、こう変わる。
庭園の遊歩道って環状になっているものでしょう、
毎晩散歩の終わりには、気がつけば自分の玄関ドアの前に来ていて、
じっと見つめているの、暗闇の中で、やっと見分けられる
光るドアノブを。
またしても「来ていた」(来た/来る)である。もちろん、その「意味」は微妙に違うのであるが。そして、原語が、はたして「来る」という動詞かどうか私にはわからないが、それを岡野は「来た(来る)」という同じことばで訳している。
ここにこの詩の、非常におもしろい部分がある。
「来る」とはいったいどういうことか。「あらわれる」か、「到着する」か。そして、また「来る」というとき、この詩に書いてあるように「どこから」来たのかが問題になる。また、書かれていないが「どうして」来たのかも問題になる。
思い返そう。詩人は老婦人と話している。老人はどこから「来た」のか、「なぜ」来たのか。どこからは「家」からということになるが、家とは、では何なのか。
詩は、こう展開する。
それは、と彼女は言った、偉大な発見だった、私の現実生活の
発見ではあったけれど。
ここには「来る/来た」は書かれていないが、「発見」は、やはり「来た/来る」である。それは最初からどこかに存在した。「発明(生まれる)」ではない。「発見」はすでにあるものを見つけることである。それは「来る」のだ。
そして、「来る」と「現実」になる。「現実」の奥から、必要な「現実」があらわれて「来る」。
「来る」(来た)ものは、また去って「行く」。そして、再び「来る」ときは、以前「来た」ものと同じに見えても同じではない。「往復」が明るみに出す何か。「往復」から何かがやって「来る」。動詞が「更新」される。そのとき、あらゆの存在が「更新」される。
この詩は、そういう果てしない運動へと私を連れて行ってくれる。
この「往復」のなかの「来る」、「来る」を生み出す「往復」は「枠組み(額縁)」ではない。
「私」がいて「老婦人」がいて、対話するという構造は、それ自体時間の枠組みを連想させるが、「来る」という動詞で、その額縁を破っていくものがある。
「来る/来た」という訳語は、岡野の「創作」と読みたい。「来た」という訳語によって、この詩は非常に強いものになっていると思う。
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