愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』(土曜美術社出版販売、2021年05月19日発行)
愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』は、詩集の前半で、過去に書いた詩の「注釈」を詩の形で書いている。過去の詩のメーンイベント(?)は、勤務先の学校で「組合」をつくること。そのために愛敬は奔走している。引きずり回されている、かもしれない。ある状況があるのだが、それを完全に把握しきれない。それは、いつの時代でも同じことだが、その把握しきれないものを、これまた把握しきれない(と書くと愛敬に怒られるだろうけれど)ことばでつかみ取ろうとしている。かつて、そういう時代があったのだ。わからないことがあるからこそ、わからないことばにかける。そのことばの先に何かが見える、と思って、「ことばの肉体」に頼って動くということが。
これを裏返せば、現在の政治である。コロナ時代の「ニュースタイル(新生活?)」だったかなんだか忘れてしまったが、いまの内部へ入り込み、問題点をつかみとるというよりも、いまの問題点から目をそらすために、ひとがつかっていなかったことばを率先してつかう。この「ことばの先」に、新しい生き方がある。それを知っているのは、新しいことばを最初に口にした私だ、というわけである。小池なんとかというのは、こういう作戦にたけている。学歴詐称が問題になったが、これも同じ。ひとの知らない「学歴」をぶら下げて見せて、「その先」にあるものを暗示する。何もないのに。カタカナ語の、新しいことばが出てくるときは、たいてい同じである。現実を見せない、現実から目をそらすために何かが仕組まれている。「エビデンス」などというのは、その「証拠」である。
というのは、まあ、脱線である。
もちろん、「組合結成」の周辺を、暗号めいたことば(いわゆる難解な現代詩)で書いていたとき愛敬はそんなことは考えていない。ただ、ことばの向こうに何かが見えると真剣に信じていただろう。あのときは、詩のことば全体が、そういう動きをしていた。その潮流に、若い詩人はどうしても乗ってしまう。そのことは、とくに否定されるべきことではない。だれだって、裾の広いパンタロンを履いていたのだ。流行を無視して、独自路線を生きているのは、よほどの偏屈である。愛敬の友人である石毛拓郎(とっても感動的な帯を書いている)は、そういう詩人かもしれない。この「かつての流行」のことばを見るのは、なつかしい。こういうとき、よくひとは「なつかしい」ではなく「はずかしい」というが、私は、おもしろく、なつかしいと感じる。
でも、こんなことを書いてもしようがない。「過去の詩」は脇に置いておいて、いま書かれた詩だけ取り上げ、思ったことを書いてみる。「アパート」という作品は、組合結成のために世界史の先生のアパートに仲間が集まったときのことを書いている。「熱々の、近所のコロッケをみんなで食べたりした」という一行があるが、あの年代にはマックもケンタッキーもなかったから、「おやつ」といえばコロッケだったのである。
二間だけの、アパートの一階
本と本棚しかない部屋に
十数人が座り込み
話し合われたことの、ほとんどすべてを
いやいや、何一つ
今では、何も思い出せない
七〇年代の終わり
あれは、どういう時代だったのだろうか
新任の彼は
五月の連休明けに
そのアパートへと誘われた
あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう
みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか
「新任の彼」と書かれているのが愛敬本人である。話し合ったことを何一つ覚えていない、というのは、誰もが経験することだろう。あれはどういう時代だったのか、と思うのもだれもが思うかもしれない。熱々のコロッケをふくめて、そこまでは私は単なる思い出として読んできた。よく聞く話だと思って読んだ、という意味である。
ところが、
あの頃は
何で、あんなに時間があったのだろう
ここで、私は思わず棒線を引いた。意味としては「あれは、どういう時代だったのだろうか」に非常に似ているが、ちょっと違う。
「あれは、どういう時代だったのだろうか」は「あれ」ではなく「どんな」に力点がある。「あれ」というのは、書いているひとと読んでいるひとに共有される認識、ただし目の前にある認識ではなく、遠くにある認識、つまり「ふたり」(愛敬と私)が同時に思い出している「七〇年代の終わり」を指している。そして、「あれ」という形でテーマ(話題)を提示した上で「どういう時代だったのだろうか」と疑問を投げかけ、「どういう」に焦点をしぼっている。
「何で、あんなに時間があったのだろう」は順序が逆である。「何で」は「どうして」と言い直せば、「どうして、あんなに時間があったのだろう」であり、「あれは、どういう時代だったのだろうか」とは「どう」「あれ」の順序が逆だということがはっきりする。「七〇年代終わり」という漠然とした時間ではなく、「あの時間」(アパートに集まって、コロッケをかじりながら組合結成の夢を語る時間につながるもろもろの時間)が凝縮して見えてくる。
愛敬の今回の詩集のキーワードを指摘するなら、この「あんなに時間があったのだろう」の「あんな」である。「こそあど」ことばの「あの」である。「共有認識」を示す「あの」。愛敬が知っている「あの」時間。それは私が知っている「あの」時間であり、また石毛が知っている「あの」時間である。それは、いまの若い世代が知らない。つまり認識として(体験として)共有されていない時間、若い人にとっては単なる「情報」の時間である。でも、愛敬、石毛、私には「共有している時間」である。私は愛敬にはあったこともないから「共有」というのは変に聞こえるかもしれないが、「共有」以外では語れない時間である。
そして、ここまで書いてくれば、あとはことばが指し示す通りである。愛敬がいま書いた詩とセットで編集している「過去の詩」は単なる「過去の詩」ではなく、「あの」詩なのである。それは「共有された詩/共有されている詩」なのである。
もちろん、その「共有された詩」を再びひとが(とくに若い人が)共有すべきであると、私は、絶対にいわない。そんなことは不可能というよりも、そんなことをすれば嘘になってしまうだけである。
私は、あ、ひとは何かを「共有」しなければ生きていけない、と感じたと書きたい。いま必要なのは、それが何かわからないけれど「共有」なのだ。いま、社会では、あらゆることが「共有」しにくくなっている。「共有」を分断する力がどこまで広がっている。どんな形で何を「共有」できるかわからないが、愛敬が今回の詩集で「出現」させようとしているのは、「共有」の困難さと、必要性なのだと感じた。
みんな、どのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も
職場としての学校へ行っていたのだろうか
この最後の部分。これを、
みんな、あのようにして家に帰り
当たり前のように
翌朝も(あのようにして)
職場としての学校へ行っていたのだ
と書き直せるとき、そしてそれが「当たり前」になるとき、「共有」が絶対的な力になる。そのためのヒントは、過去の作品に隠れているはずである。かつて、私たちは「あのようにして」詩を書いたのだ。ことばを動かしたのだ。
でも、そこには「あのようにして家に帰り」「あのようにして職場としての学校へ行っていた」がない。具体的な行動がない。暗示的なことばがあるだけだ。「あの」は何よりも具体的でなければならないのだ。(過去の詩を脇に置いたままにしているのは、そのためである。)
「あの」と呼べるものを、詩は作りだしていけるか。
愛敬は、それを問いかけている。この問題は、「七〇年代終わり」を知らない若い人にも考えてもらいたい問題である。「いま」は常に「過去(既知)」になる。あした、今日(いま)起きていることの何を「あの」と「共有」できるか、そのためにことばはどう動けばいいのか。
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