高橋睦郎「いかにさびしき」(「現代短歌」2021年07月号)
高橋睦郎「いかにさびしき」は55首の短歌。いつものように旧字旧かなで書いている。旧字(正字)が印字できないので、一部通用字体で引用する。
<blockquote>
溺れ谷いくつ海へと溺れ入るノルウエイの白夜チリの黒日
</blockquote>
ではじまっている。ノルウエイからチリまでの果てしない距離、白夜と黒日の距離が、同じフィヨルドの時間、溺れ入るという動詞によって結びつけられる。溺れるだけでは不十分、溺れ入ると書かずにはいられない。もちろん谷そのものが溺れるのではない。谷のなかを通ってきた想像力が溺れ入るのだ。過剰な何か、現実に存在しているものを超えて、動き出した人間の何かが溺れる。
この奇妙な生きものは、いま、現在動いているのだけれど、そのいのちはいま、現在だけから生まれてきたのではない。長い時間の中を生き抜いてきて、いま、ここに生まれる。その長い時間をそのまま刻印するために高橋は旧字旧かなをつかう。だから、それを通用している俗字に書き直すことは冒涜なのだが、私の冒涜ぐらいでは、高橋の守り抜いているものは傷つきはしない。そう思って、私は通用字体で引用している。
高橋のことばのリズムは、口語的とは言えない。口語の読みやすさがない。
<blockquote>
溺れ谷背景に立ちまた坐せる男と思へば女の眩しセラフィタ
セラフィタを生ししバルザック ステンボリ いづれを母と父と呼ばむ
</blockquote>
「立つ」と「坐す」、「男」と「女」、「父」と「母」。それは「また」で結ばれるが、この「また」は「即」だろう。だから、読みやすくはない。分裂と統合が共存している。滑らかさ(整えられた流動性)を嫌った固さのなかを、奇妙に流動的なものが流れている。内に秘めている流動性がつよすぎるために、それをおさえているのかもしれない。ごつごつさせることで、流れてしまうのをおさえている。それによって、逆に、内部の激流が見える。
たぶん、この矛盾、内部の激流と、それを形に押し込めようとする精神のぶつかりあいが、高橋のことばの強さを生んでいるのだと思う。
<blockquote>
牢籠めの四とせがうちの孤食孤屎思へば寒く酸く鼻ひびく
乱倫と禁欲親しみつみつし王女姉妹笑み交はすがに
攫ひこし幼な男児の睾丸噛み長生叶はざりき西太后
</blockquote>
読みやすくはないが、声に出すと、声そのものが自分のものではない何かになってしまいそうな、恐ろしい強さがある。万葉に通じるかもしれない。繰り返し読めば、自分の声そのものが変わってしまいそうである。声が、新しく生き始めるに違いない。
それはおもしろい体験かもしれないが、危険な体験でもある。私は臆病だから、高橋の短歌を空で詠もうとは思わない。
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