詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「メタコロナ」

2021-05-17 11:02:47 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「メタコロナ」(「走都」第二次6号、2021年03月31日発行)

 野沢啓「メタコロナ」について感想を書きたいのだが、どんなことばが有効なのかわからない。と、書いてすぐ思いなおす。「どんなことばが有効なのかわからない」ということ以外に有効なことばはないのかもしれない。

われわれは試されている


 と野沢は書くが、私はこのことばに試されている。そう読み直すこともできる。

われわれは試されている
だれもそのことを知らない
ほんとうは名づけえないものが
宙を舞い
世界の組成をおびやかしている


 「新型コロナ」は「インフルエンザ」のように名づけられてはいない。「新型」という仮の名前があって、いまはさらに「新種株」まで登場し、「新型」はもう「新型」ではなくなっている。いろいろ分析されているし、ワクチンも登場しているが、その分析やワクチンが「有効」かどうか、「正しい」ものであるかどうかは、まだわからない。現実には「新型コロナ」を制御できていない。だから、私たちは「新型コロナ」に試されているといえる。いのちだけではなく、暮らし方も試されている。いや、暮らし方を試されている方がいのちを脅かされることよりももっとおそろしいことかもしれない。生きているけれど、自由には何もできないというのなら、生きていることに意味はあるのか。「新生活様式」というような不気味なことばが「新型コロナ」と同じように蔓延している。「新生活様式」の蔓延を防止する方策などない。緊急事態宣言は「新生活様式」を蔓延させるための巧妙な手段であるとさえ言える。いったい、人との接触をさけることのどこが「新様式」なのだ。
 野沢の書いていることばと私のことばがどれくらい重なるのかわからない。野沢は、こうつづけている。

これら あいだにひしめくもの
その厚い澱みのなかで
ひとびとはさかしらにたちまよう


 「厚い澱み」は、私には「新生活様式(という規制)」に見える。宙に舞う見えない「新型コロナ(ウィルス)」のあいだに「新生活様式」がひしめいている。マスクをして、手を洗って、密集を避ける。最低みっつのことをしないといけない。ほかにもいろいろ拘束はあるだろう。拘束という「厚い澱み」。ときには「密告」がおこなわれる。「路上で飲んでいる人がいます」「公園で飲み食いしている人がいます」。それは「正義」か、「正義」の名をかりた鬱憤晴らしか。「でも、これはノンアルコールです」というのは、どんなさかしらが考え出した方便なのだろう。
 どんな批判も無効だ。ウィルスは、ことばを理解しない。誰に対しても忖度しない。ウィルスは増えすぎたウィルスのなかで、どうやって自分のいのちをつないでいくか(未来に子孫を残していくか)を本能として指向し、「新種(株)」へと変身をつづけているのかもしれない。感染が爆発すればするほど、「古い新型コロナ」は生き延びることができない。「新しい新型コロナ」になっていくしかない。実際、最初に「新しい新型コロナ」が発見されたのは感染が爆発的に増えたイギリスであり、いまは「インドの新しい新型コロナ(インド株)」がウィルス戦争を勝ち抜き、次々に広がっていこうとしている。その「新しい新型コロナ」が広がる中、つまり新しい「インド株」が広がろうとする中、菅は東京オリンピックを開催しようとして躍起になっている。「新生活様式」を「個人」から「場」に広げて、自分のやりたいこと(金儲け)をやろうとしている。菅にしろ、その他のスポンサー企業にしろ「新しい経営戦略」を試みることなく、他人に「新生活様式」を強いることで古い金儲け主義の立てた作戦(既得権)を守ろうとしている。

識者も専門家も存在しない
ただ妄念のかさぶたがはがれて
ことばが悶絶していくだけだ


 それは、いったい誰のことばか。識者のことばか。専門家のことばか。私には「識者」「専門家」のことばの一部は「妄念」に見える。奇妙な「かさぶた」のようなものにみえる。そんなものはなくていい、という意味だが。そういうものが登場してくるのは特別の場合であって、ほんらい、かさぶたが生まれてこないのが「健康」な肉体のありかたである、という意味で、その不健康に対処するための特別なことばを「妄念」と呼ぶのだが。しかし、この意味が野沢の意識とどれくらい重なるものなのか、私にはわからない。私は野沢のことばに触発されて、そういうことを考えたというだけである。
 同時に、こんなことも思う。「妄念のかさぶた」には観念と肉体の結合がある。観念を肉体に結びつけ、肉体の運動として観念をとらえなおそうとする運動がある。「妄想」と「悶絶」は、どこか呼応するものがある。精神と感情がいりまじる。感情は精神から見ると「肉体」の一種かもしれない。頭(理性)では制御できない独自の運動を生きているいのち。こういう表現は、いまはもう新しいものではない(衝撃的ではない)かもしれないが、私は好きだなあ。不思議に納得してしまう。
 「ことば」は知識も生きれば、情念も生きる。悶絶していくのは、どちらのことばか。たぶん、こういう識別は無意味である。無効であるが、無効だからこの表現が好きなのかなあ。野沢は「肉体」をもって生きている、とこの部分で野沢の「肉体」を感じることができるから、とても好きなのだ。
 そういう「生きている状況」を描写し、「いや/私だって同じだ」という行を挟んで、野沢はこんなことを書いている。

本だけにとりまかれた生活
いいじゃないか
ずっとこれを願っていたわけだし
書くこともいまや自由自在だ
自分に発注し 自分で応える
それが基本だ


 「新生活様式」が「生き方の基本」を思い出させてくれる。それは、そうなのだが、私はここで少しつまずく。
 また、野沢は、こうも言い直している。

疫病を恐れることはない
他者こそもともと疫病だからだ
そのことを疫病が教えてくれる
キレイハキタナイ キタナイハキレイ
そうやって生きてきたし
これからもそうだろう
案ずることはない


 それしかないのかもしれないが、どうも気になる。後半の部分を動かしていることばは、私には

これら あいだにひしめくもの
その厚い澱みのなかで
ひとびとはさかしらにたちまよう


 という部分に出てくる「さかしら」に見えるのである。この「さかしら」は批判のことばではなかったか。そして、それは「敗北宣言」のようなものではなかったのか。「新生活様式」と「勝利作戦=勝利」を装いながら、それは負けつつあるのに、負けということばをつかわない「言い逃れ」ではなかったのか。
 私は、そう読んだ。
 少し引き返してみる。

いや
わたしだって同じだ
こんな時代を予期したわけじゃないが
世間からもずっと引きこもっている
ひともあまり訪ねてこない
べつにそれで困るわけじゃない
便りはときどきあるし
メッセージを出すならお手のものだ


 私は、実は、ここに「新型コロナ」のいちばんおそろしい「汚染」を感じた。精神的に野沢は新型コロナに感染していると感じてしまった。

べつにそれで困るわけじゃない


 この行の「べつに」が問題なのだ。「べつに」というとき、自分と他者との「切り離し」がある。他人はどうであれ、つまり他人は「べつにして」私は困らない。
 これこそ、いま、菅がやろうとしている「自助作戦」である。他人は別にして、まず、自分自身を守れば、新型コロナは終息する。それまで「新生活様式」を守ればいい。ひとりので食べて、ひとりで飲んで、ひとりで行動する。だが、その「ひとり」を実現するためには働かなければならない。そして、その労働が「飲食店の経営」であったり、「酒場の経営」であった場合、さらにはアルコールを販売してるコンビニであった場合はどうなるのか。「べつに」ということばで排除された世界とひとは、どうなるのか。
 この「べつに」は、どんなふうにでも拡大していく。
 オリンピックに世界から選手がやってくる。選手村でコロナが拡大する。「べつに」いいんじゃない、そんなこと。私はテレビで池江の活躍を見たい。金メダルを取ったら興奮するだろうなあ。私は、会場に見に行かない。テレビで見ているだけだから、コロナに感染はしない。ほかの選手がどうなろうと、「べつに」いいんじゃない? 池江が金メダルをとれるなら。
 あるいは。憲法改正。自衛隊の明記。「べつに」いいんじゃない? 私はもう高齢者。徴兵され、戦争にゆくわけじゃない。あるいは自衛隊を明記するだけで、徴兵制になるわけじゃないから、明記ぐらい「べつに」いいんじゃない? 実際に戦争がはじまれば、核兵器で敵基地を攻撃してしまえばいいんでしょ? いまは核戦争の時代。ボタン戦争の時代。ひとりひとりが鉄砲担いで人を殺しにゆくわけじゃない。
 「べつに」ということばで自分自身を切り離すことは、知らず知らずの内に、どこかでつながっている人を「排除」することになる。その危険性がある。
 野沢が、この詩の後半の部分をどんな意図で書いたのか、私にはわからない。
 「他者こそもともと疫病だからだ」という一行は、「疫病だから排除していい(駆除するべきだ)」なのか、「疫病は自己を強靱にするための存在、免疫力をつけることで共存できる(共存するために免疫力をつけなければならない)」なのか。
 わからない。

 私は、野沢ではないが、退職したら「本だけにとりかこまれた生活」がしたいと思って働いてきて、読みたいと思う本もそろえてきたつもりだ。そして「書きたいことだけを書く」ことを願ってきたが、でも、それはあくまで「家の中にいる時間」。一歩家を出たら、ひとと会いたい。ひとと話したい。社会とつながりたい。ひとがいなければ、本を読む意味、ものを書く意味もない。野沢は「べつに困るわけじゃない」と書いているが、私は非常に困る。
 私はほとんど誰にも読まれないものを書いているが、そのときだって、必ず「読者」を前提としている。そして、その「読者」というのは「作者」のことである。たとえば鴎外について何か書く、魯迅について何か書く、コルタサルについて何か書く。そのとき私は鴎外や魯迅やコルタサルと対話したいと思っている。もちろん鴎外も魯迅もコルタサルも死んでしまっているから彼らは直接は何もいわない。けれど、だれかが鴎外になったり、魯迅になったり、コルタサルになったりして、応えてくれるときがある。そういうときが、楽しい。
 ひととひととのつながりは、ことばで可能である。メールで可能である。インターネットで可能である。しかし、可能だからといって、それがすべてではない。インターネットは「出発点」や「きっかけ」にはなっても、到達点ではないと私は思う。
 私は「べつにそれで困るわけじゃない」という声ではなく、こんなに困っているという声こそ、コロナ時代に聞きたいと思う。困る、という声をどうやって発し続けるかが大切な時代なのだと思う。

 書いていることがだんだんずれて行ってしまった気もするが、野沢の今回の詩を読んで感じている「わからなさ」は、わからないと書くしかない。私がわからないと書いたことで、そこから何か対話のようなものが、野沢にしろ、野沢ではないにしろ、だれかとはじまるなら、それは野沢の詩を「有効」なものにするだろう。詩が「有効」であるかどうかが、必要なこと、重大なことであるかどうかはわからないが。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年4月号を発売中です。
137ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001228


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする