木村草弥『四季の〈うた〉続』(2)(澪標、2021年05月25日発行)
昨日の感想は、木村草弥が書いていることへの感想か、ピカソの「泣く女」についての感想か、よくわからないものになってしまった。「対象」への感想か、「ことば」への感想か。これはいつでも起きることであるが。
たとえば、これから書くことも。
「エピステーメ」という作品群がある。木村の第五歌集『昭和』の抜粋である。
千年で五センチつもる腐葉土よ楮の花に陽があたたかだ
手漉紙のやうにつつましく輝る乳房それが疼くから赤い実を撒かう
紅い実をひとつ蒔いたら乳房からしつとりと白い樹液が垂れた
おんなの体を描いている。しかも、それは男の立場から書いているというよりも、木村がおんなになって書いている。たとえていえば、森進一が、「惚れて振られた女のつらさ……」と女の心情を歌うようなものである。歌っているのは男、しかし、「内容」は女の気持ち。こういうとき、どういう感想が「正しい」のか。たぶん、「正しい」かどうかは考えず、ただ、思いついたまま書くしかないのである。
この三首では、「千年で」は男の歌か、おんなの歌かわからない。「手漉紙」は「乳房それが疼く」ということばから「男の乳房ではない」と感じるが、なかには乳房が疼く男がいるかもしれないが、私は古くさい概念にとらわれている人間なので、これはおんなだな、と思う。「紅い実」は乳房から「白い樹液が垂れた」を乳房から「乳」が垂れたと読み、やはりおんなだと判断する。「白い樹液」という比喩は、私から見ると、ちょっと客観的すぎる。肉体の内部から生まれてきたことばというよりも、肉体を外から見ている感じがするので、おんなの歌であるけれど、男の視線が動いていると感じる。
で。
こういうことを書くと、いまの時代は、時代後れというか、フェミニスト(あるいはジェンダーフリーの立場の人)から批判を受けそうだが、その「白い樹液」と同じように、「陽があたたかだ」の「だ」という音の響き、「白い樹液が垂れた」の「垂れた」という断定の響きにも、男の語調を感じる。「撒かう」のきっぱりした意志の表明にも、男を感じる。リズムが男っぽい。
そして、このおんなの歌なのに、男の感覚がつらぬかれているところに、森進一のうたではないが、何かさっぱりした「客観性」(どろどろした情念を洗い流したような、さびしさ)を感じる。
呵責とも慰藉ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は
フーコーは「思考の台座」と名づけたがエピステーメ、白い裸身だ
「呵責」「慰藉」「思考の台座」というような、漢語のつらなりも、おんなのことばというよりも男の概念、一種の非情さを含んだ響き。
振り向いてたぐる時間は紙子のやうにしなしなと汚れているな
われわれはひととき生きてやがて死ぬ白い紙子の装束をまとひ
「たぐる」や「やうにしなしな」はおんなの肉体から発せられる響きにも感じられるが、「時間」ということば、「汚れているな」の「な」の響き。ここに、わたしは、やはり男を感じる。
「われわれ」は、やはり男だ。この「われわれ」とは基本的には男とおんな、二人のことだが、ふたりをはみだして「人間(人類)」を視野に含んでいる。それは、前の歌の「時間」ということばにつうじる。「ひととき生きて」というが、この「ひととき」は「わたしだけの時間」ではなく「われわれの時間のなかの一瞬」という、奇妙な「哲学」を含んでいる。「短歌」を超えて「概念」がひろがる。
惜しみなく春をひらけるこぶし花、月出でぬ夜は男に倚りぬ
この歌で、はじめて(?)おんながおんならしく振る舞っている(男に倚りぬ)が、そう感じるのは、男の視点というものだろう。
くるめきの季にあらずや〈花熟るる幽愁の春〉と男の一語
これもおんな。「男」を出すことで、「わたしはおんな」と主張している。「惜しみなく」と同じ構造である。
そうやって、種明かし(?)をした上で、歌はつづいていく。
花に寄する想ひの重さ計りかね桜咲く日もこころ放たず
これは作者が伏せられていたら、おんなが詠んだ歌と思うかもしれない。「こころ放たず」の「こころ」が「肉体」という感じで響いてくる。
ほーっ、と思わず声が漏れてしまう。私は。
異臭ある山羊フロマージュ食みをりぬ異臭の奥に快楽あるかと
私が掴まうとするのは何だろう地球は青くて壊れやすい
「快楽はあるかと」の「と」の使い方、「青くて壊れやすい」の断定。ここで、木村はふたたび男にもどっておんなを呼んでいる。
木村にとって、おんなが認識の出発点、ということを書いているのかもしれないが、おんなに溺れていない、淫していないことろが、ちょっと森進一の歌い方に似ている、と私は感じる。
ついでに書いておくと、私は森進一の歌い方はとても好きなのである。美空ひばり、森進一、都はるみが、私は好きである。もちろん、山口百恵、ピンクレディーも大好きなんだけれどね。ピンクレディーのあとの、サザンオールスターズまでは知っているが、その後の歌手はまったく知らないから、私の感想は、まあ、古くさいかもしれない。
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