野沢啓「世相」(「ファントム」5、2021年06月20日発行)
野沢啓「世相」の書き出し。
そうか編集者なんてそんなものなんだ
一般の技術屋と同じさ
何が肝腎かなにもわかっていない
「詩人とは、痛みや悲しみといった人の心の揺らぎ、雰囲気、歴史的なものなど、
見えないものに言葉で形を与える存在」だと
こういう恥ずかしい評言を新聞ジャーナリストは平気でできる
この類い稀な凡庸さ
悲惨が型にはめられて再現される
「凡庸」は「型」と言い直されている。
その「型」(凡庸)を、ではどうやって破っていくことができるのか。
ここから思考ははじまらなければならない
この十年をなにごともなかったかのようにやり過ごしてきたもの
いまも生き延びているもの
その深い根を断つために
ことばで致命傷を与えよ
それだけが凡庸さを逃れる手段だ
ことばをもたないものたちの代弁はできない
そうした代弁者を気取るものも絶えないが
編集者はその嘘が見抜けない
再び「凡庸」が出てくる。それは「深い根」という比喩でもあらわされている。「型」も「根」も具体的に存在する。しかし、それはふつうは見えない。型は根と違い、隠れていないように見えるが、実はさまざまな意匠によって隠されている。意匠が根を隠す土なのである。
そう把握した上で(誤読した上で)書くのだが。
「凡庸」は、ほんとうに「ことばをもたない」のか。
私は、ここに疑問を感じる。むしろ、「凡庸」は手ごわいことばをもっているのではないだろうか。「凡庸」は意匠によって「型」を隠すという知恵をもっている。「凡庸」は土になって「根」を隠す(根を守る)という知恵をもっている。
困ったときは、いつでも「凡庸」に逃げる。私は凡庸な人間ですから、むずかしいことはなにもわかりません、と。「凡庸」に「致命傷」を与えるということは、むずかしい。むしろ「凡庸」によって、あらゆることばが「致命傷」を受けざるを得ないというのが現代かもしれない。
自然は不穏なままに現前している
人間どもの浅知恵など簡単に洗い流してみせる
汚染水を海に流すという二重の過ち
自然は許さないだろう
ここに書かれている「自然」は、人間以外のもの、人間の支配できないものを指している。
それとは別に、人間の「自然」というものが、どこかにないだろうか。
これから書くことは、おそらく野沢には、トンチンカンなことばに感じられるかもしれない。
私は「人間以外の自然」と同様に、「人間の自然」も「不穏なまま現前している」と感じている。それは、あえていえば「凡庸」であり、それは「浅知恵」といえるかどうかはわからないが、他人のことばから自分のいのちの根っこをまもるための「意匠」であり「土」である。
いたるところで、そういうものにぶつかる。
たとえば、安倍批判をする。そのとき、「だって、安倍以外にだれもいないでしょ?」ということばでかえってくる反応。さすがに、私は「だって、菅外にだれもいないでしょ?」ということばはいままで聞いたことがないが、「でも、だれがいるかなあ」という「凡庸」を聞いたことは何度もある。
野沢のことばを借りて言えば「思考」の放棄である。自分で考えない。他人の考えを待つ。自分の考えでないから、自分自身が傷つくことはない。いざとなれば、「私も実はそう思っていた」と言えばいい。最初から「二重」を生きている。最初から、「型」にしたがって「意匠」のなかに生きている。それは、やはり「知恵」なのだ。
いまを屋内ですごさなければならないわたしには
頼るのはひとのことばではない
時代はたそがれても わたしはたそがれない
あくまで知ろうとすること
自分のことばそして信頼すべきことばを手放さなければ
思考することだけはできる
それで十分ではないか
「自分のことばそして信頼すべきことば」。この不思議な並列。「信頼すべき」のあとにことばが省略されていないか。信頼すべき「自分の」ことばではなく、信頼すべき「他人の」ことば。野沢は、そう言っているように、私には聞こえる。直前に「頼るのはひとのことばではない」と書かれているが。信頼すべき「自分の」ことばであるなら、自分のことばそして信頼すべき「自分の」ことばと、同じことをくりかえしてしまうことになる。どうしても「自分の」以外ことばを補わないと、私にはこの一行が理解できない。
「自分以外の信頼すべきことば」と読むのは、私の「誤読」だろうけれど、私は「誤読」したまま考える。考えるということは、もともと「誤読」といわれる領域へ踏み込んでゆくことだと私は思っているからである。「誤読」を繰り返し、その果てに、何を考えていたのかさえわからなくなる。そして、ほうりだしてしまう。それが私の「考える」というこことだからである。「わからない(答え=結論が出せない)」から、何度も繰り返す。
で、野沢がいう「信頼すべき(他人の)ことば」とはいったいどういうものなのか。私は、ここでつまずくのである。野沢が読み、理解し、選んできたことば。「文献」のなかのことば。野沢の思考を支えてくれることば。それを「信頼すべき」と呼んでいないか。たとえば著名な哲学者のことば、尊敬する詩人のことば。詩の最後に書かれている「古い時代もまんざらではない/死んだものたちからいろいろ拝借するだけで/いまを豊かにすることができる」は「死んだ先人の信頼できることばを拝借するだけで/いま(の自分のことば)を豊かにすることができる(強くすることができる)」と読み直すことができる。
しかし、こういうことは、野沢だけではなく、だれもがそうしているのだ。野沢が「信頼すべき」と思っていることばと、ほかの人が「信頼すべき」と思っていることばが違うとき、どうするのか。野沢は怒るかもしれないが、安倍を支持してきた多くの人は、たとえば吉本隆明のことばよりも安倍のことばの方が「信頼できる」と考えているのである。そして支持しているのである。あるいは、安倍に逆らう(安倍批判をする)と首になるという「知人(上司)」のことばを「信頼」しているのである。それは、野沢から見れば、もちろん「間違っている」。しかし、その「間違い」を「間違い」であると証明するのはむずかしい。何よりも、安倍を支持している人(支持していた人)、上司の意見に従った人は、野沢のことばを読んだりしないからである。
いちばんの問題は、ここにあるのだと思う。
「信頼すべきことば」は、また、次のようにも読み直すことができる。「ことば自身のもっている信頼すべき力」と。ことばには、ことば自身の「論理力」というものがある。それは「伝統」というものかもしれない。どこの国のことばでも、翻訳できない「文法」をもっている。それは長い間、「国語」として共有されることで育ててきた「力」である。それを掘り起こし、「自分のことば」を鍛えるのにつかうということかもしれない。野沢は、そういう「国語」の力をさらに拡大し、「ことばの運動する力/人類のことばの到達点」という意味でつかっているのかもしれない。しかし、そうすると、それはそれでやっぱり「他人のことば」につながってしまうと、私は感じる。
野沢の力点は、そこではなく、「いまを屋内ですごさなければならないわたし」にあるのかもしれない。「孤立」している、私。この「孤立」を、野沢は別のことばであらわしている。
こんな時代でもひとは子どもを産む
いい年で離婚もし再婚もする
いいじゃないか
不幸な時代は誰もが自立する
そのことにもっとはやく気がつけばよかった
でもまんざら遅くもないか
技術だけは身につけたし
ことばも豊富にある
ひとの役にたとうと思わなくても
結果はそうでもない
「自立」。そして「ひとの役にたとうと思わな」い。野沢の決意は決意として、私は、少しだけ「違う」ことを書きたい。私は特に「社会」のために役立ちたいとは思わないが、何かしている人の役に立ちたいとは思う。私のやっていることは、役に立たない、とわかっていても、役に立ちたいとは思う。誰かの何かの役に立たないなら「自立」しているとは言えないと思う。
たとえば、この文章を読んだ人が、何かを感じてくれたら(反発でも、賛成でもいい)、それはその人が考えることの「役に立った」と思いたい。これを野沢の詩に当てはめれば、野沢の詩は、私がこれだけの長さの文章を書く(これだけことばを動かし続ける)ことの役に立っている。野沢も「結果はそうでもない」と書いている。野沢は、それは「役に立っている」のではなく、野沢を批判しているだけだと受け止めるかもしれないけれど。
まあ、それはそれで、しかたがない。
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