詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

君野隆久「冬の地図」ほか

2023-03-23 11:14:07 | 詩(雑誌・同人誌)

君野隆久「冬の地図」ほか(「左庭」52、2023年03月15日発行)

 君野隆久「冬の地図」は、定型詩が乱れたような詩である。

ゆきのはだらの
なげきはあれど
うすらひをふみ
ふゆのひを
法外なひかりの
つよさのもとに
ひとどもの
恐るおそる歩む
さまはさながら
地に
ひそむいかづち
を避けるが如く
蛇行し、跛行し

 ことばの形を統一しようとする思いと、乱れても書くしかない思いが交錯しているのか。ここにあるのは邪心か、正直か。よくわからない。そういう風に乱れるのがこころかもしれないと思うが、君野がそれを意識しているか無意識なのか、それもよくわからない。そして、そのよくわからないことが、私にはとても気になる。
 何よりも「はだら」「うすらひ」という柔らかな音と、「法外」「蛇行」「跛行」の硬い音の交錯が気になる。視覚も、聴覚も、何か、統一されることを嫌っている。

そのような地図
があったとして
折り目が
綻ばないように
音のない動悸の
苦しみに緊張し
しずかにたたむ

 詩を「意味」に要約してしまっては詩にならないが、ここには確かに「苦しみ」という名前の「緊張」が「たたまれている」のだろう。「折り目」はどんなに注意してみても、くりかえせばかならず「綻びる」。そうであるなら、「たたむ」と同時に、それを「逃がす」ということも必要だろう。
 その「逃がす」行為としての、詩、ということになるのか。
 そのことを告げる、この最終連は、とても美しい。「冬の地図」とは「折り目」がつくる地図である。「苦しみ」とは言わずに、私は、それを「時間」と思って読んだ。

 江里昭彦が俳句を書いている。

樹下にして省く色なし岩清水

 「樹下にして」という漢語調(?)の響きが「省く色なし」と強く結びついていて、とても美しい。「省く色なし」のあとに「即」が隠れていて「岩清水」とつながる。遠心・求心の強さがある。
 これが少しずつほどかれて

やがて来む弟を待て湧きみずよ
みず飲んで旅も盗みも同じこと
風哭かずば弟の声聴きとれず

 と静かに悲しみに変化していく。「弟」が実在か、虚構か、私は知らないが、ここには何か虚構の響きがある。こころは虚構のなかで解放される、その解放のために詩はあるのかもしれない。
 私は弟を持たないが、江口の句を読みながら、弟を思ったひとの、悲しみ(苦悩)と甘えを思った。「甘え」と書くと語弊があるかもしれない。「安心」と言い換えれば、それは君野の書いた「地図」になるだろう。
 「地図」は、その道を歩いたときだけ、ほんとうの「地図」になる。「地図」は、歩いたあとに、うしろにできるものである。あらゆることばが遅れてやってくるように、地図は遅れて完成する。つまり、地図にしたがって歩いても、どこにもたどりつけない。その不可能の記録が詩である。

 君野は、また中井久夫の思い出を書いている。私なりに要約すれば、それは「ことばはとどく」ということである。冨岡郁子の「なんて強いことば」というエッセイも、同じことを語っているかもしれない。
 私の経験を書いておくと。
 「ことばはとどく」と感じたのは、つい先日、中井久夫集3(みすず書房、2017年07月10日発行)を読んでいたときのことである。私は「解説」というものを、ほとんど皆無というくらいに読まない。先日、その本を読んでいたとき、たまたま、解説の中に中井の訳した詩が載っていたからである。最相葉月は詩をどう読んでいるのか、とふと思って読み始めた。そうしたら、そこに私の名前が出て来た。私は、どんなひとのことばに対する感想でも、その書いたひとに向けて書いている。ほかのひとが読んで、何もわからなくてもいい、書いたひとに伝えたいことがあって書いている。私が書いた中井訳の詩に対する感想も、中井に向けて書いたものである。だから、平気で「誤読」を書きつらねている。カヴァフィスやリッツオスの詩に対する批評でも感想でもないからだ。カヴァフィスやリッツオスの詩の読者に向けての「紹介」ではないからだ。翻訳した中井に向けて、この詩はこういう詩です、といってみたってしようがない。中井の方が私よりはるかに詳しく知っている。私が考えることができるのは、中井のことばについてだけだからである。そういうことばが、中井以外のだれかにとどくとは思ってもいなかった。ところが、最相にとどいたように見える。これは、私にはたいへんな驚きであった。そして、たいへんな励ましでもあった。
 しばらく「詩はどこにあるか」で詩の感想を書くのを中断していたのだが、再会する気になったのは、そのためである。

 

 

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