詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫集2『家族の表象』

2023-03-01 22:51:21 | 考える日記

 中井久夫集2『家族の表象』の「精神科医から見た子どもの問題」という文章。その「本筋」からふっと脇にそれる形で、こんなことが書かれている。戦争体験についてである。

空襲は台風に近い天然現象であって、恐怖ではあったが、アメリカに対する敵意は実感がなかった。

 「実感」。
 これは、とても大切なことではないだろうか。
 ロシアのウクライナ侵攻から2年、それを利用する形で「台湾有事」がしきりに話題になる。
 その話題のなかに占める「実感」というものは、どんなものだろうか。
 私は、さっぱりわからない。

 ウクライナの人は、ロシアに敵意をどれくらい持っているのか。爆撃の恐怖(死の恐怖)と敵意を比べられるものかどうかわからないが、敵意を持つよりも、恐怖を持つ方が多いのではないだろうか。
 他人の感覚はわからないが、「台湾有事」が起きたとして、そのとき私は中国に対して敵意を抱くか。それとも恐怖を抱くか。たぶん、恐怖である。そしてそれは中国に対する恐怖というよりも、死に対する恐怖だろう。私の余命は、そんなに長いものではないけれど、やはり恐怖がある。何よりも、痛いのはいやだなあ、と思ってしまう。

 そこから、こんなことを考える。
 「敵意」というのは、いったい、どういうときに生まれ、どう動くのか。いったい、ロシアのだれがウクライナのだれに対して「敵意」を持ったために戦争が起きたのか。侵略が起きたのか。個人が、どこかの「国家」という組織に対して「敵意」を抱くということが、私には、考えられない。私には、そういう「想像力」はない。
 「国家」が、どこかの「国家」に対して「敵意」を持つ、というのも、かなり論理的に飛躍した考え方だと思う。「組織」が自律的に「意識」を持つというとは、私には考えられない。
 具体的に言えば。
 プーチンが、ゼレンスキーに「敵意」を抱いた? 侵攻された結果、ゼレンスキー(ウクライ人)がロシア軍に「敵意」を持ったというのは理解ができるが、それは何か「個人の感情」とは別なものに思える。多くの人は「敵意」と同時に「恐怖」を感じたと思う。もしかすると、「敵意」を持つよりも前に、恐怖を持ったのでは、と思う。
 この「恐怖」を「敵意」に変えていくのは、かなりの精神力が必要だと思う。そして、その精神力というのは、私の感覚では「実感」ではない。何か、ある意図を持ってつくっていくものだ。そして、その「敵意」を集団を動かすものに仕立てていくというのは、こもまたたいへんな「力」がいると思う。
 そこから飛躍してしまうのだけれど、こういうことができるのは「恐怖」を感じることがない人間だけだろうなあ、と思う。自分は絶対に戦争に巻き込まれて死なないと判断している人だけだろうなあ、と思う。

 それから、こんなことも思うのだ。
 多くの国がウクライな支援のために武器を提供する。(買わせるのかもしれないが。)これはどうしてだろうか。ロシアがウクライナを超えて侵略してきたら「怖い」から? それならよくわかるのだが、しかし、わかりすぎて、変だなあと思う。自分の国が侵攻されると「怖い」から、そうならないようにするためにウクライナに戦わせる? これは、なんだか「支援」というのとは違うと思う。「利用」というのものだろう。
 どういう「利用」かというと、自分の国を攻撃されないための利用だけとは限らないだろう。
 武器を買わせて、金を稼ぐという「利用」の仕方もあるだろう。アメリカのやっていることは、これだと思う。「戦争」をウクライナにとどめておくかぎり、アメリカは攻撃されない。それだけではなく、武器を売ることができる。金儲けができる。そういう「判断」があると思う。
 それは中国や北朝鮮にもあるだろう。ロシアに武器を売るチャンスと考えている人もいるだろう。
 どちらの「陣営」にしろ、そこで金を稼いでいる人は「恐怖」は感じないだろうし、「敵意」だってもっていないかもしれない。「自由を守る」というととてもかっこいいが、かっこいいものは信じない方がいいかもしれない。自然にかっこよくなっているのならいいけれど、かっこよくみせるために、かっこをつけているのかもしれない。その人たちが感じている「実感」というものが、私にはわからない。

 かろうじてわかるのは、攻撃される人は怖いだろうなあ、ということだけである。私は戦争は体験したことがないが、「恐怖」は感じることができる。私は、いろんなことがこわい。私は老人だから、道で転ぶことさえ、とても怖い。
 プーチンが核をつかうとおどしているが、私は、広島や長崎の資料館見学だけでも「怖い」。「怖くない」というのは、もっとも「怖い」ことだと思う。岸田は先頭に立って「怖い」と世界中に語りかけるべきではないのか。侵攻したロシアが悪いのはわかっているが、どちらが正しいということは後回し死にしてでも、「怖い」と言わないといけない。ウクライナのひとたちの「恐怖」を代弁しなくてはいけないと思う。
 いま、恐怖を「実感」しない人が増えているのではないのか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする