詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『スペクタクル そして最後の三分間』(その2)

2006-09-19 14:55:05 | 詩集
 野村喜和夫スペクタクル そして最後の三分間』(思潮社)。
 2冊組詩集の2冊目。
 野村の詩は何が書いてあるか、対象が何であり、その対象のについてどう考えたのか、ほとんどわからない。わからなくてかまわないというより、わかると困るだろうと思う。そこに存在しないもの、きのう書いた文章のつづきでいえば、ことばの向こうにあるものが対象だからである。
 そうした詩群のなかにあって、「第三十七番(そして徴)」は異質である。誰が読んでも何が書いてあるか、書かれている対象(存在)が何であるかわかる。

笑ってしまった、
なまなましかった、
円が描かれていた、
と同心円がふたつ、目の前のコンクリートの壁に、
私は排泄しにやってきたのだが、
おい、なんとか言えよ、同心円がふたつ、
笑ってしまった、
さらに長い直線が一本、
縦にふたつの円を貫いていた、
なまなましかった、
外側の円には、放射状に、
短い直線が何本も描き込まれていた、
毛のつもりなのだろう、
私は排泄しにやってきたのだが、
笑ってしまった、

 描かれている対象、野村のことばを動かしているのは女性性器の落書きである。こういう単純なもの、誰もが知っているものをことばにするのは難しい。ことばを必要としていないからだ。ことばが必要とされていないからこそ、野村は「笑ってしまった」と書き始める。ことばを最初に放棄している。
 しかし、野村は「詩人」であるから、ことばを放棄したままでは、「詩」が書けないことに気づく。そして「なまなましかった」とつづける。このことばこそ笑うしかないものである。2行目の「なまなましかった」はまだ何が書かれているのかわからなかったからそのまま素直に読んでしまったが、10行目の「なまなましかった」で私は笑いだしてしまった。同心円がふたつ、縦に直線、円の周りに放射状の直線--そんなものがなまなましいというのは、そうした落書きをしたこともなければ、見たこともない人間の感覚だろう。今まで見たもの以上に「なまなましい」なら、「なまなましい」などということばに頼らず、その「なまなましさ」をもっと具体的に書きべきだろう。
 「なまなましかった」は事実ではなく、野村の願望である。そうした落書きはなまなましくあるべきだ、なまなましくなければ落書きに値しないと野村はどこかで思っているのかもしれない。だから野村はその落書きがどんなに「なまなましかった」を書かない。野村がことばにすること、対象に向かってことばを発し、その応答を引き出すことで、それがどんなふうに「なまなましく」なっていったかを書く。
 野村は、そこにあるものを描くのではなく、そこにあるものが野村と、野村のことばといっしょにどんなふうに動き(疾走し)、その動きの向こうに、今まで見えなかったものを見えるようにするかを描く詩人である。そのことが、この単純な落書きを描いた作品では、とてもよくわかる。(こんなに簡単にわかるのは、「名作」なのか「駄作」なのか、たぶん評価がわかれるところだと思うが……。)

おい、なんとか言えよ、
いや、言えないよな、口じゃないものな、
待てしかし、円がゆがみはじめ、
まさかそんな、笑い始めた、
なまなましかった、
なまのあれよりもなまなましかった、
生きていた、そいつは生きていた、
肉の厚みも、温かみもないが、
こんにちは、こんにちは、
二つのわ、わ、笑って、
笑ってしまった、おい、いつ、
だれによって、在らしめられたんだ、
なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、
ありうべからざるあれのような、
母音、零年、
燃え上がる線、

 落書きが笑い始めれば確かに「なまなましい」かもしれない。しかし、その「なまなましさ」は野村のこの作品ではつづかない。それは結局、「なまなましさ」が本物ではなく、野村がつくりだそうとしているものだからだろう。笑い始め、笑い続ければ、私はそこから「なまなましさ」が生まれてくると思うけれど、落書きは笑うのをやめてしまう。

なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、
ありうべからざるあれのような、

 こんなことを言われてしまえば、どんな落書きも沈黙してしまう。落書きは欲望によって描かれている。そこには描いた人の欲望がある。それは確かに本物の性器ではなく、理想の性器、あるいは性器だけではなく、セックスそのものを含むものとして描かれるだろ。だから、確かに「なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、/ありうべからざるあれのような、」存在ではあるのだろうけれど、そんなことを言うなよ、それを言っちゃおしまいだろう、というのが落書きである。
 落書きはぜんぜんなまなましくなくなってしまった。なまなましくないからこそ、野村はさらになまなましさを掻き立てようとする。

たわむれに私は、上に、
あの女、この女、任意のきれいな顔を乗せ、
消えろ、消えろ、
おまえたちの下の、
顔のない情熱こそ、
いとしいよう、いとしいよう、
血のめぐりもない、分泌もしない、臭いも放たない、
かまうものか、あらゆるなまのあれに先立つ、
あらゆるなまのあれよな不滅な、

 円い口をゆがめて笑ったその笑いのなまなましさから、どんどん遠くなる。落書きはどんどん記憶のかなたへ消えていく。もう、ここでは読者は(すくなくとも私は)、落書きのことなど忘れてしまっている。「そうか、野村はきれいな顔が好きなんだ。野村にとはって、セックスはきれいな顔と性器なんだ。おっぱいとか、しりとか、わきのくぼみとかは関係ないんだな。顔を見ながら、性器で起きていることを見ているんだな。セックスしながら、実際に触れ合っている性器に先立つ、不滅な性器(理想の性器?)を思い描いているんだな」と思って、それこそ笑うしかなくなる。
 野村は落書きの性器を「なまなましく」描き出そうとして、野村自身の性生活をなまなましく描き出してしまう。
 ここでおわれば、それはそれで「大変興味深く読ませていただきました」と冗談口調でしめくくれるのだが、この作品は、まだまだつつづく。

おい、笑えよ、私を笑え、
テロリストを笑え、
ひとは血まみれで生まれてくるのだから、
血まみれで死んでもいいなんて、
くだらないよな、笑えよ、
同心円がふたつ、
いやちがう、
小さな死がふたつ、だよな、
愛のあらしにおいては、
性が生を越えてゆく、
だもな、性は生よりも、
ひとまわりもふたまわりも、大きい、
その円、
うおっ、
うあっ、

 「笑えよ」と言われなくても笑っているだろう。女性性器の「落書き」にとって、ふさわしくないことばがあるとすれば、野村のことばだろうと思う。
 「くだらない」という表現がでてくるが、この落書きに対する詩が「くだらない」のは、その詩が、あらゆる「現代詩」に共通するもの、存在の根源(「あれに先立つ」もの)、存在の超越(性が生を「越えてゆく」)という観念が露骨に姿を現しているからである。存在の根源と存在の超越のあいだを往復し「現代詩」のことばは動く。その動きに野村も寄り掛かっているということを、女性性器の落書きというような対象を描きながらも露呈してしまうからである。(こうした「露呈」をわかりやすいと評価すれば、この詩はとてもわかりやすいものとして受け入れられるだろう。--たぶん、この露呈ゆえに、この詩の評価は二分するだろうなあ、と思う。)



 というものの、この詩集に含まれている詩は、きょう感想を書いた「第三十七番」のようなものだけではない。むしろ「第三十七番」は例外に属する。あす、違った作品について書いてみたいと思う。


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野村喜和夫『スペクタクル あるいは生という小さな毬』(その1)

2006-09-18 15:23:56 | 詩集
 野村喜和夫スペクタクル あるいは生という小さな毬』(思潮社)。
 2冊組詩集の1冊。
 野村の詩を読むには体力がいる。一気に読まないとおもしろくない。1ページ1ページ時間をかけて読んでいたのではおもしろくない。野村のことばが駆け抜けていくスピード、それに追いついて行けるかどうかがおもしろいかおもしろくないかの分かれ目だと思う。
 駆け抜けたあとで、私は印象に残ったことばを読み返す。少しだけ考える。この「考える」ということは、たぶん野村の詩の楽しみ方とは相いれないものなのだが、楽しみは楽しみとして、それとは別に批評を書くというのが私の「日記」の目的なので、考えたことを書いておく。

なぜ扉が、なぜ開くのだろう、そんなことをされたら、扉の隙間からまがまがしい赤光が射して、われわれは扉の向こう、扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか、       (「第二十四番(あるいはディープフィールド)」

 この一群のことばを「意味」を刺激する。野村の詩を野村自身で語っているように感じられる。野村のことばは決して閉じない。常に開かれた状態で差し出される。その結果、ことばの向こう側に私たちは向き合わされる。野村のことばの向こう側(開かれた状態のことばの向こう側にあるもの)と私たちは向き合わざるを得ないのだが、それはまるで野村がしむけるというよりも、私たちがその向こう側を呼び寄せているような感じにもなってしまう。たぶん野村の狙いはそんなふうにして読者の意識を攪拌し、覚醒させることにあるのだろう。その方法とその手段が野村にとっての「詩」、ことばの運動なのだろう。
 私はそういう「意味」は実はあまり興味がない。私はその「意味」よりも、その「意味」を語るときの野村のことばのリズムに興味がある。

なぜ扉が、なぜ開くのだろう

われわれは扉の向こう、扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか

 野村はことばを重複させてつかっている。散文なら「なぜ扉が開くのだろう」と書けばおしまいである。あるいは「われわれは扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか」と書けばことばの重複を解消できる。たぶん普通の散文なら(そして普通の詩人なら)、こういうことばの重複は避けるだろう。
 だが野村はそうしない。あくまでことばを重複させる。重複させることでリズムをつくりだす。ことばの運動を加速させる。加速したスピード、スピードを加速しなければ、「扉の向こう」(ことばの向こう)へは行けないからである。
 「なぜ扉が、なぜ開くのだろう」という文が特徴的だけれど、その重複には、ときどきことばが欠落する。「なぜ扉が開くのだろう」ではなく「なぜ開くのだろう」と書くとき、「扉が」が欠落する。ことばのスピードを上げるということは、ことばを振り捨てることでもある。何かを捨てる。捨てて身軽になる。その欠落が「扉の向こう」(ことばの向こう)を呼び寄せるのである。欠落があるから、向こうにあるものが、こちらに存在できるのである。
 ことばを重複させる、そうやってリズムをつくりだすふりをしながら、野村は「欠落」あるいは「空白」をこちら側(読者の側)につくりだしていく。(最初の読者が野村自身であることを考えれば、野村自身の側につくりだし、その新しい「空白」という場で、野村と読者が重なり合うことになる。)
 しかし、そういう「意味」に落ち着いてしまうようなことは、野村は好ましく感じていないのだろう。あくまで無意識に、つまりリズムに寄って(酔って?)、知らない内に向こうが読者の肉体のなかへ侵入してくる状況をことばでつくりだたしいのだと思う。そうした工夫(技法)を、たとえば「そんなことをされたら」という口語そのものをまじえることで実現している。意識が深まるのではなく、意識が軽く軽く、浅く浅く、疾走する。その先に、ことばの可能性があるということだろう。

 野村にとって「詩」とは野村の内部につくりだされる「空白」である。その「空白」はことばの向こうにあるもの、ことばではたどりつけないものと、ときとして重なり合う。その重なり合いを求めて野村はことばを動かす。
 「第十六番(あるいは豚小屋)」は一見、このことと矛盾するようなことを書いている。

生きることを休みたい? 苦しい私を取り替えたい? 馬鹿な、そんな私を掘り下げよ、深く、深く、すると筋肉のように不穏な、朽ちかけた豚小屋にふれる、

 私の内部に「豚小屋」がある。それは事実か、幻か。
 しかし、そのことを野村は追いかけない。むしろ、そういうものを否定することが「詩」なのだと野村は感じている。だから、次のように書く。

 母よ、私の消去をなせ

 私を消去する。私を消してしまうことがことばの向こうを受け入れることなのだ。ことばの向こうを自分自身の内部にするためには私を消去することが必要なのだ。

 「私」の否定と引き換えに野村はことばの可能性を手に入れようとしている。ことばの可能性を耕そうとしている。
 「ことばの可能性」といってもその幅は広い。何のことかわからないかもしれない。野村の「ことばの可能性」の基準はどこにあるのだろうか。
 「第十一番(あるいはゾーンゾーン)」に書かれている1行が、それを暗示しているかもしれない。

きれいとは干渉を起こさせること

 野村が求めていることばの向こうとは「きれい」なものである。「きれい」を野村自身の内部、野村の「ことば」に侵入させたいのだろう。
 最初の引用に戻る。

扉の隙間からまがまがしい赤光が射して

 「干渉」と「隙間」。
 ただ「扉」を開くのではない。細く細く開くのである。そのとき光の干渉が起きる。そのとき、干渉をとおして遠くにあるものが内部にまで届く。そしてそのとき、「私」はその光によって消去され、「きれい」そのものになる。
 この陶酔を求めて、野村はことばを動かす。この陶酔を味わうためには、私の書いた文章など読まなかったことにして、もう一度、ただひたすら早く、速読を競うようにして野村のことばを追いかけ直してみることが必要かもしれない。
 その結果、たとえば詩集の黒い装丁がきれいだ、という印象しか残らなくても、それはそれでいい。野村は詩集を「ことば」とは考えていない。「もの(オブジェ)」と考えている。つまり、そこから引き出せるのは、野村のことばであるよりも、読者のことばである。読者が自分自身のことばを引き出すために、詩集はある。そういうものを野村は提示しようとしている。


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新藤凉子、高橋順子『地球一周航海ものがたり』

2006-09-17 22:41:21 | 詩集
 新藤凉子、高橋順子『地球一周航海ものがたり』(思潮社)。
 6月13日の日記に「新藤の方が好奇心が強く、視線が内から外へ外へと向かうのに対し、高橋の視線は外から内へ帰ってくる。」と書いた。新藤の後書に

私は外側を書き、順子さんは内面を受け持たざるを得なかったと思う。

 と書いている。私は「後書」というものをめったに読まないのだが、偶然に読んで、その文章を見たとき、何だか不思議な気持ちがした。
 私はあまのじゃくなので、作者がそういうのなら、ちょっと違った点を指摘してみたいという気持ちになった。新藤と高橋の外と内について、前回とは違った作品を取り上げて、私なりの補足をしてみたいという気持ちになった。内と外を膨らませてみたい気持ちになった。

 新藤の作品で私が一番気に入ったのは「18」である。足首を捻挫した新藤が、キリマンジャロが見える丘にバスの運転手さんに助けられてのぼったときの作品である。その後半部分。

夫とわたしはよく旅行したが
アフリカが残っていた
人類の祖先はアフリカだったという説にひかされて
友人たちに呼びかけ 十数人集まったところで
夫は風邪を引いてしまった
皆が出発するときには
2ケ月寝込んだまま
本当に遠いところへ旅立ってしまった
アフリカに出発した友人たちは
飛行機のトラブルで待たされたとき
キリマンジャロが姿を現し
「あ、古屋さんが見せてくれた! 」と
叫んだそうだ

象よ 象よ 群れなして水を浴びていた象よ

 新藤は夫(古屋)が友人たちに見せてくれたキリマンジャロを自分もみたいと願い丘に登る。しかしキリマンジャロは見ることができなかった。見ることができなかったがゆえに、友人たちが語ってくれた思い出が強くよみがえる。そして見えないキリマンジャロを想像力のなかで見る。そのあと、

象よ 象よ 群れなして水を浴びていた象よ

 と一転して象を描く。
 新藤はキリマンジャロのかわりに象を見たのだ。そしてその象を描くとき、新藤は象になりたいと願っているのだ。新藤のことばには、いつも、そこで見たもの、自分以外のものを描きながら、それになりたいという気持ちが含まれている。新藤の気持ちはそんなふうにして外へ外へと出ていく。
 なぜ象になりたいのか。
 象になってその平原で暮らせば、いつの日か必ず夫(古屋)が友人たちに見せたというキリマンジャロが見えるからである。キリマンジャロを見ながら暮らすことができるからである。
 外へ外へと向かう視線、そして対象と一体になる視線。そのとき、その「一体感」のなかには愛が存在する。愛が存在するがゆえに、外へ外へと視線が向かいながら、実は新藤は新藤自身の内面を語ることにもなる。外部を描くからといって、そこに内部が存在しないわけではない。むしろ、外へ向かうという運動の起点としての内部をより印象づけることになる。



 高橋の作品では「29」がとても印象に残った。高橋の内面への旅は、たとえば「23」の

わたしたちだけがこんなに祝福されていいものかどうか
一瞬浮かんだ問いを この胸が
ずっとおぼえていますように

とか、「25」の

あそこには自分はもういないということを
決定的に知らされるからだ

というふうに、抽象的な形をとることが多いが、「23」では同じく抽象的ではあるけれど、少し違ったものがあらわれている。新藤が、高橋の連れ合いの車谷長吉のこわがりぶりをからかった詩(28)につづけて書かれたものである。

恐怖はつまり外界へのはげしい拒絶感である
パゴダニア・フィヨルドを船がゆきときも
恐怖感はあった わたしにも
陸に近いところを走るとはいえ
もっもと狭いところで三百メートルの水路を
全長一九五メートル 幅二七メートル 喫水九メートルの物体が通過するわけだから
座礁する危険はないとはいえない
氷河のほかに見たものは
迫る岩山 苔 二艘の漁船 イルカのしっぽ 白い鳥 太陽
陸の生きものは絶えて見えない
人を拒む風景が連なっていたが
拒まれていることが あのとき心地よかったのはなぜか
わたしの中の物である部分が 物である風景にふかく
呼応したのかもしれなかった

 高橋はいつも精神を、こころを描く。それは「わたしの中の物でない部分」と呼べるかもしれない。その高橋がここでは「わたしの中の物である部分」を発見している。わたしのなかには「物である部分」と「物でない部分」がある。
 「物である部分」とはぜったいに精神ととけあってしまわないもの、こころととけあってしまわないもの、高橋にとっての「異物」のことだろう。それが、しかし、高橋を否定するようであって、実は高橋を豊かにする。
 たとえば、高橋にとっての車谷。彼は高橋の精神ではないから高橋の思い通りにはならない。むしろ高橋の思いを裏切るようにして動くこともあるだろう。それでも高橋にとって精神・こころは存在する。高橋の何かが拒否されながらも、高橋は存在する。生きている。そういう生のあり方があるのである。
 そして、拒絶にあい、否定にあいながら、実は、その拒否・否定の外部にというか、否定・拒否の届かない部分にも、実は精神・こころがあるということも知る。それは高橋の精神にとっての「外部」と呼ぶこともできる。その「外部」としての精神が車谷と呼応する。その呼応によって、あるいは呼応のたびに新しい高橋が生まれる。
 高橋は単に内部へ内部へ旅するのではなく、内部にある「外部」に向けて旅をする。そして、その「外部」を「物」としてつつみこむ。つつみこめるように高橋の肉体そのものを大きく広げる。大きく育てる。つまり肉体として大きくなる。



 この連詩に車谷は直接参加していない。しかし、深くかかわっている。
 私は新藤の作品はそれほど多く読んでいないのでよくわからないのだが、この詩集に登場するように夫(古屋)は日常的に登場するのだろうか。この連詩に新藤が夫のことを書き込んだのも、車谷の存在が大きかったのではないだろうか。
 どんな内部も外部も、自分とは異質なものの存在によって照らしだされる。そして、そこから自分をどうつくり直していくかということろに本当の旅があるのだとしたら、三人の旅は、たぶんこの詩集に残されていることば以上に豊かなものだったろうと思う。これからの三人の作品がより豊かになるときの出発点がここにあるかもしれない。


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豊原清明+広田泰「僕たちの未来について」

2006-09-16 16:39:43 | 詩集
 豊原清明+広田泰「僕たちの未来について」(「ショタショタすこびっち」7)。
 「ショタショタすこびっち」は手作りの冊子である。イラスト、写真、原稿用紙に書いた詩をコピーしたものである。コピーであるけれど、手の感覚が伝わってくる。原稿用紙には修正の跡も垣間見える。
 「僕たちの未来について」は2連ずつ、交互に書いたと思われる8連の作品である。ここに引用すると手作りの味が半減するが、引用する。

不眠の夜光船が
夜の海原の静けさに眠る
「ぼくは……」と
ぼくは寝床で つぶやく

「絶望なんて、ウソ八百さ」と
窓辺のフクロウが
ぼくに目くばせする
未明

ま青な色をした 海のような
地平をくらって
生へどばっと血で溢れ…

悪夢で見ていた
夢の光を見つけて
ぼくはフクロウを 連れ。

旅連れの フクロウは語る
「コンビニの中の赤ポストから
 宇宙へ
 銀河系へ!! どばっ と!!」

悪夢を
コンビニの駐車場で
おにぎり食って
追いはらい……

ぼくは何とか生きている
明日、好きな女と会う
手に じわっ と 汗をかく

ぼくたちの未来は
夜中と朝焼けの境い目にある。
今日も 若白髪、抜く。「生きろよ」

 広田の書いたと思われる4行ずつの2連が豊原の書いた3行ずつ2連によって、ことばから肉体へと開放されていく。広田の書く海も宇宙も広田にとっては現実なのだろうけれど、まだ、どこか「ことば」にすぎないというか、「ことば」になってしまっている。「頭」のなかで落ち着いている。
 それが豊原に引き継がれると、一気に肉体になる。
 「不眠の夜光船が/夜の海原の静けさに眠る」という夢が(悪夢が)、「悪夢で見ていた/ぼくの光を見つけて」と言いなおされるとき、私が感じるのは(私に見えるのは)、暗い海に浮かんでいる船ではなく、その船を見つける目、肉眼である。悪夢とわかっていて目覚めることができず、脳と目のあいだを動き回る神経の生理のようなものが、私の体のなかで動き回る。覚醒される。
 その生々しい感覚を豊原は自分自身で言い切ってしまわない。「ぼくはフクロウを 連れ。」とことばを開いたまま広田に引き渡している。
 豊原と広田がどういう交流をしているかわからないが、そこに強い信頼関係があることがわかる。きのう触れた車谷の句の断ち切りが高橋への信頼で成り立っているように、この豊原の、開いたままの肉体の提示は、広田への信頼があってこそはじめて可能なものだろう。
 豊原のことばを引き継いで、広田は再び「頭」のなかへ帰るけれど、そこには豊原の肉体が侵入してきているので、もう「頭」だけの世界ではいられなくなる。

悪夢を
コンビニの駐車場で
おにぎり食って
追いはらい……

は、それまでの広田のことばと明らかに異質だ。悪夢で不眠の時間をすごした「ぼく」が悪夢を「おにぎりを食って/追いはら」うなんて、ああ、なんと若い体だ、若い肉体だと感嘆せずにはいられない。コンビニへ駆けつけて、おにぎりを買って、そのまま駐車場でかぶりつきたくなるではないか。
 健康な肉体は健康であることを語ることに恥ずかしさを知らない。健康であることに対する無意識の自慢がある。それが私の肉体のなかに残っている「若さ」のようなものを刺激する。

明日、好きな女と会う
手に じわっ と 汗をかく

今日も 若白髪、抜く。

 この剛直な柔らかさ、あるいは柔らかな強靱さ(矛盾した表現だが、そうとしか言いようがない)は、ことばなのか、肉体なのか、わからない。ことばと肉体が融合して、そこに、つまり目の前にある。そういうものを見ることができるのは、とても幸せだ。



 最近、豊原のことばは少し閉塞的というか自己完結的になってきていると感じていたが、広田とことばを交換することで、豊かに広がってきた。ことばの交換は「交感」であり「交歓」でもあるのだろう。
 春から夏にかけて私は梅田智江と「往復詩」をこころみたが、あ、「往復詩」ではなく「連詩」の方がおもしろかったかもしれない、常に他者に対して開くことをこころがける詩でなければ意味がなかったかもしれないともふと感じた。

 「往復詩」について書いたついでに。
 梅田智江+谷内修三の往復詩集『外を見るひと』が月内に出ます。発行部数が少ないので読みたい方はメールでお申し込みください。

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車谷長吉、新藤凉魚、高橋泣魚「地球一周航海三吟歌仙 赤道越ゆるの巻

2006-09-15 23:39:38 | 詩集
 車谷長吉、新藤凉魚、高橋泣魚「地球一周航海三吟歌仙 赤道越ゆるの巻」
 進藤涼子、高橋順子の連詩『地球一周航海ものがたり』(思潮社)に付録(?)の形で収録されている。車谷長吉の句が飛び抜けておもしろい。わがままだからである。
 名残の表の4句。

目ェ噛んで死ねとおかんに言はれたる   泣
寝ころんで見るテレビのシーン      涼
隣室で南無阿弥陀仏となへけり      長
老いの恋路や灰となるまで        泣

 「死」「南無阿弥陀仏」では句が逆戻りしてしまう。ひきずられて「灰」まででてきてしまう。歌仙としては、たぶん、よくない部分なのだろうけれど、そのよくない部分に3人の人間性のようなものが伺え、楽しい。
 破綻の原因は、実は、これに先立つ「裏」の11句目、春・花の定座で車谷が

世界虫花爛漫に帰国する  (谷内注・「虫」は正確には「虫」が3個重なった漢字)

と読んだことに始まる。歌仙が折り返さないうちに、そして世界一周の旅がおわらないうちに「帰国」してしまった。車谷としては「帰国する」の「する」に帰途へ向かう現在の姿を託したのかもしれないが、現在形・過去形のあいまいな日本語では、この「帰国する」を「帰国した」と理解するのが普通だろう。
 新藤と高橋が「歌仙」というひとつの世界をめざしてことばを動かしているのに対して、車谷は「歌仙」を気にしていない。いま、そこにあることば、現在しか気にしていない。「場」を気にしていない。
 「場」とは「歌仙」にあっては「空気」である。「間」である。人と人、句と句の距離である。距離がつくりだす広がりである。しかし車谷にとっては「場」とは自分がいるかいないかだけのことなのだと思う。自分がいる。そこが「場」なのである。距離を優先させるために自分を隠す、他人を立てるというようなことには関心がない。そんなことはほかの2人にまかせておけばいい、ということかもしれない。
 車谷の句が、新藤と高橋の世界を叩ききる。そのときあらわれる世界の断面に向き合って、もういちど新藤と高橋が世界をゆっくりと積み上げる。それをまた車谷が叩ききる。その動きがなんともいえず不思議で楽しい。

 車谷が

隣室で南無阿弥陀仏となへけり

と「けり」という切れ字までつかってしまって世界を断ち切ってしまったために、高橋はしどろもどろで

老いの恋路や灰となるまで

と詠んだのだろう。この句の運び具合は「歌仙」というより車谷・高橋の「私小説」そのものを見るようで、そしてそのおもしろさが車谷のわがままが巻き起こしているということまで照らしだしているようで、なんとも興味深い。
 もっとも私は二人の知らないのだから、そういうことまで想像させてくれて楽しい、と言い換えるべきなのだが……。

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佐藤恵『きおくだま』

2006-09-14 23:53:01 | 詩集
 佐藤恵『きおくだま』(七月堂)。
 「すずしろ」という作品が印象に残った。

大根がね、
花をつけたの
とわたしは話した

切り落とした大根を、流しの窓枠に老いたのは初冬のこと
あさい皿に張った水に切り口をさらして立つのはどんなに痛いだろう
と色のない血や涙を透かして見ながら
切り揃えられた根元から
やわらかくのびてでる葉のいとしさに
毎日水をかえつづけた

 人間には見えるものと見えないものがある。見えないけれど感じるものがある。切られた大根が流す血や涙は見えない。しかし感じることができる。そして感じたことは、ことばになって、見えないのに見えるものに変わる。そこから共感が始まる。「どんなに痛いだろう」。このことばは強い。
 共感はことばを育てる。そのことばが何を明確にするのか、誰にもわからない。わからないから、ただことばが育つままに、ことばの行方を追っていく。

やがて傷がふさがるように切り口は硬くなり
もとのかたちを思い出すかのように下へふくらみはじめ
失ったかたちをとりもどせないまますわりの悪くなったそれを
倒れないようにとジャムの小瓶に移しかえた
春になると
つまさき立つように
ゆらゆらと伸びあがり
やがて薄むらさきのちいさな花をつけたのだった

 この花は大根の花であると同時に佐藤のことばの花である。大根の変化、その切り口の変化を丁寧に追いながら、大根の肉体のなかで起きていることを大根のこころの動きとしを受け止める。そのとき、佐藤は大根のこころそのものになる。「薄むらさきのちいさな花」は「あさい皿に張った水に切り口をさらして立つのはどんなに痛いだろう」という思いが育てた花であり、そのやさしさが具体的な色と形になったものだ。
 こうした変化、ある存在の、見えない痛みをことばとして追いかけるとき、佐藤のこころのなかに起きる変化は、そのある存在が人間であるとき、とても美しい。
 この作品で、佐藤は大根の花を描きながら、実は佐藤の親しい人のことを描いている。大根の花は佐藤であると同時に、佐藤の親しい人の咲かせた花なのだ。佐藤のこころのなかで、いまも小さな花を咲かせている人がいるのだ。

私たちは顔を窓のほうにねじって
少し開けたそのむこうを
大根の花といっしょに眺めた
人通りの少ない商店街は白く乾き
道はゆるやかに光ってくだってゆく
坂のむこうから次に姿を現すものを待ちつづけるかのように
大根の花は窓のすきまに顔を寄せてゆれた

 「坂のむこうから次に姿を現すものを待ちつづけるかのように」「窓のすきまに顔を寄せてゆれた」のは大根の花ばかりではない。佐藤の親しい人こそが、大根の花になって、何かを見つめ、揺れたのだ。

すずしろ、って言うよね
とわたしが言うと
その人はまぶしそうにその言葉にふりむき
こちらを見つめた

 「その人」には「大根」のように普通に知られた「名前」がある。「顔」がある。しかし、「名前」(顔)はひとつではない。「すずしろ」と呼ばれるような、ちょっと違った姿もある。「大根」は「すずしろ」と呼ばれることは少ない。しかし、「すずしろ」という呼び方がふさわしいときもある。「その人」にもそういう瞬間がある。その瞬間を佐藤は知っている。知っていて「あなたは大根というより、すずしろという名前の方がふさわしい」と、そっと告げているのである。佐藤は「その人」に対して「わたしは、あなたがすずしろであるということを知っている」とひそかに告げているのである。

すずしろは
けなげにちいさな花を咲かせ
するとみるまに根元は、役割を終えてしぼんだ
ある日帰ると窓辺に瓶だけが残されていて
あたたかい陽気とともに伸び盛ったすずしろが見えない
誰が誰がと胸を押さえながら近寄ると
冷たくかわいた流しの中で
すずしろは花びらを散らして横たわっていた
かさかさにしぼんで軽くなった根元ではもう
上へ上へと伸びるいきおいを支えきれなかったのだろう
それから何度も
小さすぎる瓶からステンレスのひかりめがけて身を投げたすずしろ

 すずしろは小さな花を次々に咲かせ、そのいのちを終えた。「その人」も佐藤のこころに小さな花を残して去っていったのだろう。その小さな花を、それを咲かせるための痛みを、佐藤は忘れない、と、この作品で書いている。
 「その人」が誰であるか、私にはわからない。わからないけれど、こういう詩を捧げられる人は幸せだと思う。佐藤にとって「その人」に会えたこと、「その人」との出会いのなかで「ちいさな花」を発見したことは幸福なことだと思うし、また、「その人」にとってもたいへん幸福なことだったと思う。
 「一期一会」ということばを、ふと思い出した。人との出会いを大切にして生きている佐藤の姿が目に浮かんだ。


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永島卓『永島卓詩集』(その7)

2006-09-13 15:24:17 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その7)
 「現代詩文庫」にエッセイが収録されている。「詩歌句」の「後書」である。この文章が非常におもしろい。リズムがおもしろい。「創刊号」(1990年)の「後記」は次のように始まる。

 ここしばらくというもの、日常のなかで書きつづける意味の苦痛にさいなまれ、逃げきることの提示を抱えながら、意識的にも肉体的にも緩慢さが抜けきれないまま、現実と表現のはざまに揺れつづけていたが、多くの詩の友人たちや先輩たちにかろうじて支えられてきたというのが正直なところであります。

 文末の「ところであります」にひきずりこまれて何度も読み返してしまう。「ところであります」より前に書かれていることは一筋縄ではないかないというか、なんとも複雑で真摯なことがらなのだが、「ところであります」という「あいさつ」のようなしめくくりで、ふいに、永島という人間が見えてくる感じがするのだ。何を言ったか、ではなく、誰が言ったかが見えてくる。私は永島の容姿を今回はじめて「文庫」の裏の写真で知ったのだが、「正直なところであります」と言ったあと、その肥満体(に見える)を少し傾けてるようにして「みなさん」にあいさつしている姿が見えるような気がするのである。そして、そんなふうにあいさつされると、永島がそこで何を言ったかはあまり問題ではなく、あ、永島はこんなふうにして場をきちんと把握して、ちゃんとあいさつする人間だ、人に気配りのできる人間だということがすーっと伝わってきて、ちょっと襟を正して永島の言うことを聞かなければという気持ちになる。
 引用した文は次のようにつづく。

この個人年刊誌「詩歌句」を出そうと思ったのは、昨年、亀山巌さんが亡くなられる前後から、亀山さんについての声が文化芸術分野の或る側面から出はじめ、それらを読むにつれ、その浅学な誹謗に対し、突然衝動的に突きあがってくる名状しがたい波動のようなものがあり、それが、これまでわたしを取巻く日常において、どうしても区画できない精神の漂白域でものを捉えることができるものがあるとしたならば、これもひとつの許されるべき変化と考えているところであります。

 何やら亀山巌に関する誹謗があり、それに対して永島が憤慨し、自分の感じていることを他人に向けて言いたい、自分が言いたいことはまだよくわからないけれど言いたい、よくわからないものをことばを探しながら見つけ出し、伝えたいという気持ちが感じられる。永島が言いたいことは私が要約したようなことではなく、もっと精妙で複雑なことがら、じっくりと腰を落ちつけで、何度も繰り返し読まないことには理解できないことなのだが、永島が何かを伝えたいと感じているということだけは、「どうしても区画できない精神の漂白域」というような抽象的なことばを乗り越えて伝わってくる。あ、いま、永島は私の知らないことを何か言ったぞ(区画できない精神の漂白域ってなんだ?)と想いながらも「考えているところであります」ということば、その区切りで、また永島の肉体そのものが目に浮かび、何を言ったかではなく、永島がいま語ったということが印象に強く刻まれる。
 どの文章をとってもそうなのだが、一方に亀山巌が亡くなった、誹謗するものがいた、その誹謗に対して永島は納得していないという誰にでもわかる「事実」があり、他方に、「どうしても区画できない精神の漂白域」のような永島独自の表現があり、それが永島という肥満体のなかで溶け合っている。融合している。その融合の感じが、精神というよりも、肥満体の肉体として目の前に浮かぶ。何かの会場で「みなさん」の前に立ち、あいさつしている肉体として、あるいは顔をもった人間として立ち上がってくる。
 実際に会ったことがない(顔を知らない)私がそう感じるくらいだから、実際に面識のある人はもっと永島の肉体を感じるかもしれない。声の響き、呼吸の仕方、ことばがはやくなったり遅くなったり、息継ぎの微妙な変化も感じるかもしれない。そうしたものを「書きことば」として永島は再現できる。そこに永島の魅力がある。

 「第六号後書」(1997年)に次のことばがある。

毎日の行為や発言によって、わたしとわたし以外の個人がどのような場所で、絶えず反芻をくり返しながら認め合うか反目していくかはきっと長い時間の距離で測られていくものと考えられます。

 「わたしとわたし以外の個人」。永島には常にそれが見える、抽象的な人間としてではなく、具体的な、顔を持ち、肉体を持った人間として見える。認め合う姿も反目する姿も肉体として、つまり、そのときの口調や視線や肉体の素振りとして見えるのだと思う。そうしたものが見えるからこそ、永島自身をも肉体として文章の中に浮かび上がらせるのだと思う。



 精神と肉体、あるいは思想と肉体。この問題は難しい。
 乱暴な言い方かもしれないが、私は、人間は結局のところ、他人の肉体を好きになるのだと思う。思想・精神を好きになることはない。人間はいつも他人の肉体を好きになる。そして肉体を嫌いになる。触れたい・触れたくない、という感じになる。精神だとか思想だとか感情だとか、触れたか触れないかわからないものではなく、触れることができるものを好きになったり嫌いになったりする。そこには「生理」が入り込む。そうしたことを永島はとてもよく理解しているのだと思う。
 ひとと接するためには肉体として自分をさらけださなければならない。実際に何かが起きたとき、人は触れ合わなければ何もできない。
 ことばは肉体でなければならない。
 ことば、その意味などというものは乱暴に言ってしまえば、あまり意味がない。最後は、誰が言ったか、どういう文体で言ったかが問題になる。あ、これは誰それの書いた文章に違いない、とはじめて読む文章でも感じることがある。それは内容がそう感じさせるのではなく、文体が、文章とともに立ち上がってくる作者の肉体そのものがそう感じさせるのである。そして読者が(少なくとも私が)信頼するのは、内容ではなく、文体である。さらに言えば、作者の肉体である。
 永島の「後記」とこの詩集の最初に掲げられている「ひとみさんこらえるとゆうことは」は同じ文体、同じ肉体である。永島の目の前に「相手」がおり、その相手に向かって、相手の表情を見ながら、相手の反応を見ながら、自分自身の、どうしても言わなければならないことば、たとえわかってもらえるという確信がなくても言わずにいられないことば(「区画できない精神の漂白域」など)をまじえながら、ことばではなく、肉体を、そのことばを語っているのが永島だということを伝える。あなたと同じように肉体を持った人間が語っているのだということを伝える。
 こうしたことばがほんとうに相手に伝わるのかどうか(伝わったのが肉体だけであった野かどうか)は、永島のことばを借りれば、それこそ長い時間の距離で測られるものだろう。そしてたぶん永島は、それが正確に伝わるために長い長い時間がかかってもそれはそれでしようがない、いずれ伝わるはずだと、深く確信しているのだと思う。永島の文体にはそういう不思議な肉体の確かさがある。
 たとえ最後に私たちが永島を思い出すとき「区画できない精神の漂白域」ということばではなく、「……というのが正直なところであります」や「ひとみさんこらえるとゆうことは」という「内容」を含まない文章(断片)だったとしても、それは断片ではなく、実はそれこそが肉体化された思想だからである。その、まだことばになりきれていないもののなかに、永島が手さぐりしているもののすべてがあるのだと思う。


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永島卓『永島卓詩集』(その6)

2006-09-12 14:08:53 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その6)
 『湯島通れば』(1992年)。その表題作がこの詩集のなかでは私は一番好きだ。1行目がおもしろい。

 湯島通ればおもいだすを口ずさみながら五月さらにかよいつめてゆく人情無限の千代田線湯島駅はなぜか夕暮れのように充血したままでありました。

 一読しただけで意味はだれにでもわかる、あるいはわかったような気持ちになるが、ていねいに読むと迷路に迷い込む。「湯島通ればおもいだすを口ずさみながら」の主語は「わたし(永島)」だろう。歌謡曲を口ずさみながら「わたし」は何をしたのだろうか。「湯島駅はなぜか夕暮れのように充血したままでありました」ということばを読むと、「わたし」は湯島駅を見つめていたのだろう。「夕暮れのように充血した」は視力だとらえた世界である。
 そして、「わたし」が一方で「湯島通れば」の世界に身を置きながら、他方で東京の駅を見つめていたということがはっきりするのは、この作品の最後の行にたどりついてからである。

さらに寛永寺や国立文化研究所上野図書館・東京芸術大学に囲まれた国立社会教育研究所とゆう白い建物が五月の十日間のあいだ数知れぬカラスの鳴き声を聞きながら夜の湯島をおもいつつ東京にはないような夕日に栄えた新緑の明るい風景をわたしは窓際でいつまでも頬杖ついてひとりのひとのことを想いながら眺めていたのであります。

 一行目の「湯島とおればおもいだすを口ずさみながら」は、いくつかの文を挟みながら、実は最後の文の「眺めていたのであります」につづくのである。そのあいだにいくつもの文章がはさまれているが、それらの文章は便宜上句点で区切られ独立しているだけであって、永島のなかでは一続きの文章なのである。切り離すことができない文章、つながっている文章なのである。
 この長い長いひとつづきの文の連続には、永島特有の精神の動きがある。連続をつくり田していくのは「さらに」ということばなのである。「しかし」というような逆説を挟んでつながっていくのではなく「さらに」「さらに」とただひたすら「いま」「ここ」からひろがっていくのである。

 この「さらに」は1行目(書き出し)にも最後の文にも登場するし、ほかにも登場する。たいていは最後の文のように先行する文の内容を受けて「さらに」とつづく。そんなふうにして「さらに」はつかう。1行目も永島はそういう意識でつかっているのだろうけれど、読んだ瞬間、(他の読者は知らないが)私はちょっととまどう。

 湯島通ればおもいだすを口ずさみながら五月さらにかよいつめてゆく人情無限の千代田線湯島駅はなぜか夕暮れのように充血したままでありました。

 「さらに」は詩全体をとおして読んだあとでは意味がわかるが、この1文だけではなんのことかわからない。「さらに」がないとこの文はどう違ってくるのか。ない方がわかりやすい。少なくとも私にはわかりやすい。私なりにこの文章を書き直してみれば、

 湯島通ればおもいだすを口ずさみながら五月(のある日)(人々が)かよいつめてゆく人情無限の千代田線湯島駅(を眺めていれば、それ)はなぜか夕暮れのように充血したままでありました。

あるいは

 湯島通ればおもいだすを口ずさみながら五月(のある日)(人々が)かよいつめてゆく人情無限の千代田線湯島駅はなぜか夕暮れのように充血したままであ(るのを眺めてい)ました。

 ということになるだろう。「さらに」がこの文章に入り込んでくる余地はない。しかし永島はその文章のなかに「さらに」を書き加える。この「さらに」の意味は永島には明白であり、永島には必然である。しかし、他の人には意味がわからず、なおかつ不要である。こうした作者にだけ必要とされることば、作者が作者の精神を動かしていくのに絶対必要なことばを私は「キイワード」と呼ぶが、この「さらに」が永島の精神のキイワードである。
 永島の精神はある一つの存在を描写するとき、その描写だけでは存在を、存在とともにある世界を表現しきれないことを常に意識している。いま描写した世界の内部に、あるいは外部に、そしてさらに(と永島のことばを借りて書いておけば)そのとなりに、その存在をささえたり否定したりするものが存在している。「さらに」ひろがる存在を無視しては、いま描写した世界そのものすら存在しない。
 常に他者が存在するのだ。
 「わたし」が存在する。さらに(この場合、さらに以外のことばは無意味である)他者が存在する。それが永島にとっての世界である。他者は常に「さらに」存在する。無限に「さらに」存在する。無限の「さらに」とどう向き合って生きるべきか。そういう世界で「思想」はどう形成できるか。
 ひとつのことばで「思想」を形作るだけではだめである。「さらに」もう一度つくりなおさなければならない。つくりなおして、「さらに」つくりなおしつづけなけれはならない。「さらに」から始まる無限の連続性は、実は永島自身に課せられた課題なのである。そうすることを永島は選びとっているのである。

 もういちど最後の文章にもどる。

さらに寛永寺や国立文化研究所上野図書館・東京芸術大学に囲まれた国立社会教育研究所とゆう白い建物が五月の十日間のあいだ数知れぬカラスの鳴き声を聞きながら夜の湯島をおもいつつ東京にはないような夕日に栄えた新緑の明るい風景をわたしは窓際でいつまでも頬杖ついてひとりのひとのことを想いながら眺めていたのであります。

 永島は「ひとりのひとのことを想いながら」と書いている。この「ひとりのひと」とはだれのことか私にはわからないが、ここにも永島の思考の重要な動きが書かれていると思う。
 「思想」は永島単独のものではない。永島が世界と向き合い形作ったものではない。永島がつくったものであるのに間違いないけれど、それは常に永島自身以外の人物、枯れ以外の「ひとりのひと」のことを想いながらつくったのである。
 このひとりのひととは、たとえて言えば「ひとみさんこらえるとゆうことは」の「ひとみさん」であるかもしれない。いま永島が向き合っている他人である。親身になり、自分のことばを語りかける相手である。
 常に親身になり他人に語りかける。「さらに」もうひとりに、「さらに」またひとりに。その連続性のなかで「世界」がつくられていく。
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松浦寿輝「川の光」

2006-09-11 15:36:57 | 詩集
 松浦の文体は外国語の影響が強い。「川の光」42(読売新聞、2006年9月11日夕刊)を読み、再確認した。

 三匹は長いコンクリート壁に沿って走っていた。その切れ目に通用門のような扉があり、お父さんはそれと地面との間の細い隙間(すきま)にもぐりこんだ。チッチとタータも後に続く。庇(ひさし)の下にダンボール箱が転がっているのが目に入った。お父さんは駆け寄ってその上に飛び乗った。ガムテープでぴっちり梱包(こんぽう)されている。お父さんは躊躇(ちゅうちょ)することなく、その角をかじりはじめた。ほんの数分で小さな穴が開いた。それを広げるのにさらに数分。

 「その」「それ」が頻繁に出てくる。欧米の言語なら「定冠詞」である。先行する名詞の前につき、その名詞(存在)が登場人物によって意識化された存在であることを明らかにする。
 松浦は常に先行する存在を意識する。先行する存在を踏まえて意識を動かす。これはあたりまえのようで、あたりまえではない。
 「ガムテープでぴっちり梱包されている。」という文には「その」「それ」がない。しかし、何が「ガムテープでぴっちり梱包されている」のかは誰にでもわかる。前に出てくる「ダンボール箱」である。だから省略される。省略によって文章にスピードが出る。多くの作家(文章家)はそうした手法をとる。
松浦もここではそうした文章作法を踏まえているが、他の部分では「その」「それ」を多用する。定冠詞によって存在を意識することで、意識の道筋を明確にする。松浦の意識の明瞭さは定冠詞によって動いている。そうしたことを告げる文章である。そしてこれは、松浦の描きたいのは、いつでも意識の流れ、意識の運動(それが意識の「ずれ」であっても)であることを意味する。
「川の光」はこれまでの松浦の小説と大きく違っているようにみえるが、松浦の文章が、「童話」風の作品であっても、意識の運動が重視されているという点からみると、たの作品と同質であることがわかる。

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田島安江「木と鳥と」

2006-09-10 21:30:35 | 詩集
 田島安江「木と鳥と」(「侃侃」9)。
 「侃侃」9号に田島は4篇作品を書いている。そのうち3篇に「不安」ということばが出てくる。そのうち、ほんとうに「不安」が必要なのは、「木と鳥と」の次の行だけだろう。

どんな不安も消える
そんな一瞬を見たくて
屋上にあがり
小さくぽっかりと開いた空間を見下ろす

 この「不安」は存在しない。「消える」からである。存在しないゆえに「不安」ということばであらわすしかない。
 他の「不安」は私には「不安」と表現する必要があるのかどうかわからない。「木と鳥と」のつづき。

見下ろすと
揺れている木々の大きな枝先に
一羽だけ鳥が止まっている
木々の揺れに沿って鳥も揺れる
不安げに
なんともさびしげに
たった一羽だということが
なぜかわかっているので

 「不安」ということばをつかわずに「不安」を書くのが詩だ--というようなことをいまさら言っても何にもならないだろうけれど、「不安」と書くことで田島は安心してしまっている。「不安」がどのようなものであるか感じることをやめてしまっている。
 だから次の美しい行が屹立してこない。

決して二羽だったりしないことが
もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように

 「不安」はここにこんなにくっきり描かれているのに、その前に「不安」ということばがあるために、これはいったい何のこと?と読み返さなければならなくなる。まさか「不安」ではないだろうなあ。「不安」ということばは、すでに田島によって書かれてしまっているからなあ……。
 しかし、ここに描かれていることは「不安」以外の何物でもない。
 こういう詩を読むと、なんだかとても悔しい感じがする。「不安げに/なんともさびしげに」という行がなければ、もっと違った作品、もっと読者を不安そのもののなかへ引きずり込んだだろうにと思わずにいられない。

 ここには「不安」の哲学が具体的に描かれている。
 鳥にとって「不安」とは仲間がいないことではない。もう一本の木の不在が「不安」なのである。木が不在であるがゆえに、もう一羽の鳥は存在できない。つまり、自己以外の何かが存在しないと、自己と同類のもの、ここでは鳥は存在しない。存在できない。
 「不安」とは一種の「他人まかせ」のものである。

 そしてその認識のなかで「不安」は共有される。「不安」は自己以外のものによって決定されるということを共有するとき、その瞬間から、不思議なことに「不安」は「安心」にかわる。
 「不安」が存在するということが「安心」につながる。「不安」を感じることができるということが「安心」であるということなのである。

どんな不安も消える
そんな一瞬を見たくて

 と田島は書いていた。そして、実際に、屋上から鳥を見下ろし、鳥の不安を見ることで、不安が消えたのである。
 こんなに深い真実を

もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように

 という2行で具体化できるのに、なぜ田島は安易に「不安げに/なんともさびしげに」という安易な行を書いたのか。そのことが私には不満である。

*

 「不安」の共有こそが「安心」という一種の矛盾のような「不安哲学」は「新しい自分」という作品にも書かれている。電車のなかの風景。

隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
わたしにはみえない二人の関係を
想像しながら電車を降りる

あの男も女も
不安という洋服を着ていたような気がして
わたしはなぜかほっとするのである

 この哲学、田島がつかみとった真実を、「不安」ということばをつかわない形で読みたいと思う。

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古谷鏡子「ものがたり」と樋口伸子「ペコちゃんと親友」

2006-09-09 13:11:02 | 詩集

 古谷鏡子「ものがたり」(「六分儀」27)。
 「物語をつくりたいとねがっている」という行で始まるこの作品は、「物語」について、「物語」というときの「もの」について、次のように定義している。

物語なのだから なにかを語らなければならない おおきな声で
ものとは物ではない なにか かたちのない不確かなもの
もののあはれ ものがなしくものさびしくときにはもの笑いの種になり
朝 朝の光がまぶしい 散乱する光のなかの鳥たちはかえってこなかった
夜の底のほうでなにごとが起きたのか あっけなくかれらは巣を放棄する

 この定義は私もそうだと思う。同時に、その「もの」は「こと」から生まれてくるとも思う。古谷は「なにごとが起きたのか」という表現のなかで「こと」に出会っている。しかし、それは意識されていない。そのために「もの」が立ち上がってこない。
 「こと」がきちんと書かれていれば、その「こと」が中途半端であっても「もの」はくっきりと立ち上がり、中途半端は「余韻」にかわる。

遠い朝 目覚めるまえのずっとずっとむこう
深いところに生きている 夜 きつい花の香りがみちてくるとき
手さぐりで 女は 花の香りを編みこむように物語の発端をさがしている

 これは先に引用した行に先立つことばだが、こんなふうにいきなり「もの」を探すから「ものがたり」は生まれないのだ、と思ってしまう。
 「こと」を語っていけば、それは自然に「ことがたり」ではなく「ものがたり」になる。「こと」をないがしろにしてはいけないのだと思う。



 同じ号の樋口伸子「ペコちゃんと親友」。古谷が「もの」と呼んでいたものを樋口は「気配」と呼んでいる。

博多区中洲三丁目のかど
を曲がるときはご用心ください
声のない笑いの波動に出会うから
気配ですよ けはい
ペコちゃんの

 街角に「ペコちゃん人形」がある。それは「物」があるのではなく、「ある」という「こと」なのである。「ある」ことと「ない」ことを比較すればいいかもしれない。「ある」ということによって気配が生まれてくる。そこから何かが始まる。ペコちゃん人形がそこに存在するという「こと」によって意識が動く、精神が動く、感情が動く。そこから物語も詩も始まる。

この街がいく度も再開発で変わる前
歓楽街の入口の路面電車が走る大通りに
映画館と喫茶店とバンビと洋裁店と
寿司屋と飲み屋とレコード店と本屋と
デパートの上には虎と大蛇と熱帯魚
小さな観覧車と稲荷神社と鳩が
幸せにひしめきあって
わにわにわに 暑苦しい笑いのお面
大橋の上には物乞いの兄と妹
あ 兄さんと幼いわたし
だったかもしれない一瞬だけ

 電車が存在する「こと」、さまざまな店が存在する「こと」--そうした「こと」は「物」に頼らないと表現できない。「物」に頼りながら書き、そうし書いたことが「物」ではなくて、「こと」に変わったと、そこから「ものがたり」も「詩」も始まる。

わにわにわに

 この不思議な笑いの描写。それは「もの」ではない。「こと」でもない。「こと」になりきれる前のなまなましい「詩」である。「もののあわれ」にも「ものがなしさ」にも縁がない。人の意識、感情を逆撫でするかのように、ただそこに存在する。だからこそ、その奇妙な「詩」をくぐりぬけると、人は自分を忘れてしまう。

大橋の上には物乞いの兄と妹
あ 兄さんと幼いわたし
だったかもしれない一瞬だけ

 この「一瞬」をもう一度さまざまな「こと」、たとえば家族、家、街の「できごと」のなかで再構成すれば「ものがたり」になる。そうではなくて「わにわにわに」から始まる不気味さを、ただその不気味さのまま実体化しようとしていけば「詩」がさらに強い形で立ち上がる。
 「できごと」には順序がある。緊密な関係がある。そうした時間・空間を無視して、ただ「わにわにわに」につながる「こと」だけを、一瞬という時間のうちへ引き寄せると「詩」になる。

もう一人の双生児みたいな男の子
夜ふけに二人手をつないで
散歩していたのを知っている
仲よくわにわにわに
その笑顔がこわかったよ
あれは誰?

 「ポコちゃん」の発見は「わにわにわに」という笑いのなかで「できごと」として立ち上がってくる。「こわい」からこそ忘れたかったのに、「こわい」からこそ引き寄せられていく。その矛盾のなかに「ものがたり」もあれば「詩」もある。
 樋口のこの作品は「わにわにわに」という「もの」(気配、けはい)を古い路面電車や映画館、喫茶店、レコード屋、さらには見せ物小屋めいたデパートの屋上という「事実」(実際に存在するもの)を描くことで手触りのあるものに変えている。「もの」に手触りを与えるという文学の基本をきちんと知っていて、それを実践している安心感が、この作品にはある。

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映画「マイアミ・バイス」

2006-09-09 00:14:30 | 詩集
監督 マイケル・マン 出演 コリン・ファレル、ジェイミー・フォックス、コン・リー

 私の目当てはコン・リーである。「紅いコーリャン」以来、ずーっと彼女の演技が好きだ。コリン・ファレルと徐々に打ち解けていくときの表情がいい。喜怒哀楽を殺していた冷たい顔が輝く。セックスシーンの涙もすばらしい。
 だが、最後の最後が、とてもつまらない。
 コリン・ファレルが運び屋ではなく潜入捜査官だとわかった瞬間の演技。紋切り型である。裏切りに対する驚愕と憎しみが伝わってこない。暗黒街に生きて、そこで修羅場を見続け、そのうえでなお驚愕と憎しみにとらわれる、という感じが伝わってこない。「あ、嘘つき」というような軽い感じである。
 ああ、コン・リーは善良なひとなんだなあ。善良な世界だけで生きてきたんだなあ、とそのとき思った。そして、不思議なことに、そのために、そのへたくそな演技さえいとしい感じになった。
 あ、私は、コン・リーのファンなのだと、そのときあらためて思った。

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辻元よしふみ「ひそかに靴を愛する」

2006-09-08 23:57:17 | 詩集
 辻元よしふみ「ひそかに靴を愛する」(「分裂機械」17)。

ブナから削り出しのシュー・ツリーを取り出し
モゥブレーかサフィールのワックスを開け
竹へらで微量を掬って塗りつけ
馬毛のブラシでこねるようにたたくように磨き抜く
あるいはそれがドイツ製の靴であるなら無骨なコロニアル
でもよいかもしれない
シリコンクロスで磨き はき古しの下着で磨き
若干の水を落してさらに光沢が出るまで
よけいなワックスを落していく
無念無想
それが 善に通じることを
知らないものは知るまい

 私はそういうことをまったく「知らない」部類の人間だが、この詩はおもしろかった。靴に関するいろんなことばを辻元は知っている。その手入れの方法、磨き方もくわしいことがよくわかる。
 その上、次のような魅力的な描写も出てくる。(つづけて引用したが、それぞれ別の部分。)

歓喜の中で くく と身をもたげ
主人の足を守ってやろうとするのを
この趣味のない人は知るまい

一夜を置き 陰干しの後に
また堅いシューツリーを収めてやる
ぴんと背筋を伸ばしてそれは
次の出番はいつですか と向こうから聞いてくる
足を入れればしゅっと空気が抜けて吸い付いてくる

 辻元には、靴の声が聞こえるのだ。この声は、靴に触れること、肉体が直接聞き取ったものだろう。そうした肌の親しさというか、肌触りに満ちた喜びがひそんでいる。愛撫にこたえる人間の声のように、耳ではなく、肉体全体に響いてくる気持ちよさがある。
 靴のことは何も知らないが、あ、靴はちゃんと手入れしなければいけないのだ、という意識を通り越して、そうか、靴を手入れすれば靴は恋人になり、愛人になるのか、とちょっと欲望(欲情?)をそそられる。
 こういう私のまったく知らないことを、まるで肉体そのもののように実感させてくれることばは私はとても好きだ。とても魅力的だ。

 そうしたことを言った上での注文。
 辻元は「ドン・キホーテを落馬させよ」という詩も「分裂機械」に書いている。この詩も「靴」の詩と同じようにてきぱきとことばが進んで行き、とても読みやすいのだが、肉体感覚が少しおとなしい。ドン・キホーテが靴のように「声」を発していない。たとえそれが敵(?)であっても、触れ合いのなかで聞こえる「声」があるはずだ。靴から美しい声を聞き取る肉体を持っているのだから、ドン・キホーテからも何らかの「声」を聞き出し、それを詩のなかに書き留めてほしかった。



 「分裂機械」の他の執筆者の作品もそれぞれ刺激的だった。ことばを自分のものにしたいという欲望がなまなましくて、力の制御が効かない思春期の肉体のようだ。とてもうらやましく感じた。

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田中宏輔「あまりにもタイトルが長いので略」

2006-09-07 23:27:10 | 詩集
 田中宏輔「あまりにもタイトルが長いので略」(「分裂機械」17)。

ルビだけで詩をつくろうとしたら、ルビを振るには、本文が必要だった。でも、本文があったら、ルビだけでつくることにはならないとも思った。

 傑作である。思考の動き、精神の動きそのものが「詩」であることを証明する作品である。こうした作品の場合、どれだけ丁寧に精神の動きをことばに反映させるかが作品の完成度をわけるポイントになる。

ルビだけでつくることにはならないとも思った。

 この文の「とも思った」の「も」。ここに「詩」がある。この「も」によって、「ルビだけで詩をつくろうとしたら」が「思った」ことだとわかる。まず、「ルビだけで詩をつくろう」と思った。次に「ルビを振るには、本文が必要だ」と思った。それから「本文があったら、ルビだけでつくることにはならない」「とも」思った。
 「も」は、それまで書いてきた部分もすべて「思った」ことがらだということを明確にするためのことばである。強調である。
 わずか2行のことば、書かれていることが、すべて「思った」ことなら、それにつづくことばもすべて「思った」ことになる。事実などどこにもない。つまり、この作品は、事実など無視して、ことばがどれだけ「思った」ことだけを書けるかということに挑んでいる。こうした挑戦的な試みのなかに「詩」がある。「詩」とはことばの運動の可能性を広げるものである。
 ネットで書いている批評なので、ネットで簡単に表記できる部分だけを引用すると……。

ところでまた、ひらがなが読めない人のために、ひらがなのルビにカタカナのルビを振ったり、さらに、ひらがなもカタカナも読めない人のために、カタカナのルビにローマ字のルビを振ったり、ローマ字も読めない人には、その上に、点字のルビを振ったり、一般の丸い形の点字に飽き足りない人のためには、三角形の点字のルビや、ダビデの星の形のルビや、ソロモンの星の形のルビや、さらにまだ飽き足りない人のためには、星砂を貼り付けた点字のルビを振ることなんかも考えてはみたのだけれど、この作品では、印刷等の実際上の困難さを鑑みて、想像の世界にとどめることにした。(ああ、はかてく消え去ってしまった、わたしのルビのルビのルビの! )

 想像力の無軌道さ(無軌道さ--というのは、現実を無視しているからである)と、無軌道を自覚するところから始まる自己批判のおかしさ。(ユーモアとは常に自己自身を笑うことから始まる。)
 「(ああ、はかてく消え去ってしまった、わたしのルビのルビのルビの! )」以後、ことばは一気に軽くなる。笑いのなかへ突き進む。無軌道なことばの自由は笑いのなかで自由になる。精神の運動は笑いのなかでより軽やかになる。まるでモーツァルトである。


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映画「マッチポイント」

2006-09-06 11:52:57 | 詩集
監督 ウディ・アレン 出演 スカーレット・ヨハンソン、ジョナサン・リース・マイヤーズ

 この映画で一番美しいのはオペラのアリア(テノール)とともに流れるノイズである。CDではなくLP、そのアナログのノイズがとても温かい。ノイズがあるからこそ、そのノイズを越えてやってくるテノールが、こころの声として聞こえる。
 人間の生活はノイズに満ちている。ノイズに邪魔されて、本当のこころの声が出せない、聞こえないというのではない。
 たとえばジョナサン・リース・マイヤーズ。上流階級の生活を手放したくないというノイズのためにスカーレット・ヨハンソンとの愛の日々を成就できないというのではない。あるいはスカーレット・ヨハンソンへの愛欲というノイズのために上流階級の生活が破綻してしまうというのではない。どちらかがノイズであり、どちらかが本心というのではない。それは同時に存在する。
 ひとの「声」は瞬間瞬間に別のもの、矛盾するものとして表にでてきてしまう。どちらが出てくるかは、普通のひとには制御できない。それはこの映画の「テーマ」のようにして語られるテニスでのネットの上で弾んだボールのようなものだ。運がよければ相手のコートに落ち、運が悪ければ自分のコートに落ちる。自分のしたことなのに、自分では制御できず、一種の「運」任せである。
 そして「上流社会」とは、さまざまな「運」というものを見てきて(たとえば、音楽や芸術、スポーツに触れることで)、知らず知らずに「運」とはどういうものか、どんなふうにして働くかを、体得した人々のことである。(普通の人々は、さまざまな運の働きを傍観できるだけの時間的余裕がない。)
 そういう意味では、主人公のジョナサン・リース・マイヤーズは「運」を体得することで上流社会の一員となるのだが、その上流社会そのものも、最後にはノイズとして立ち上がってくる。あ、ほんとうに求めていたのは、これではなかったかもしれない、という寂しい表情として浮かびあがってくる。
 皮肉たっぷりのオチに、あらためてウディ・アレンの天才を感じた。
コメント (2)
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