詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『永島卓詩集』(その5)

2006-09-06 11:28:54 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その5)
 『なによりも水が欲しいと叫べば』(1984年)。
 「新川橋」「水門橋」「鼬橋」……と橋が次々にタイトルになって登場する。すべて実在の橋なのだと思う。橋の下の水は「油ヶ淵」に通じているらしい。碧南市へは私は行ったことがないが、おびただしい橋を永島のことばにしたがって渡るとき、とても不思議な気持ちになる。橋の一つ一つは別個なものなのに、必ずそこで永島に出会うので、どれもこれもが区別がつかなくなる。その区別のつかない濃密さのなかで、私は酔っぱらってしまう。ことばのうねりに。ここにあるのは橋ではなく、永島の肉体である。ことばをうねらせる永島の肉体である。
 「明治橋」の書き出しの2行。

風景が老いるように油ヶ淵の人称にまつわるわたしの幻
 想はどこまでも捨てきれぬ残党としてのみ成立する橋
 を囲みながら少しずつ腐敗していた

たえまなく跫音が去ってゆくとき歳月とともに孤立する
 わたしの橋はだれに告げることもなく累積した感情の
 債務を背負い風土の陰で息づくものたちを見つめてい
 た

 このうねる文体は、主語・述語・修飾節というふうに分析しても、何かがわかるわけではないと思う。1行目は「わたしの幻想は」(主語)「腐敗していた」(述語)と分析できるかもしれない。2行目は「わたしの橋は」(主語)「見つめていた」(述語)と分析できるかもしれない。だが、そう分析したところで、いったいどうなるわけでもない。「明治橋」の何がわかるわけでもない。そこからどんな風景が見えるのか。たとえば市役所が見えるのか、鉄橋が見えるのか、学校が見えるのか。「橋」を書きながら、実は橋そのもの、その橋の意味(碧南市にとってその橋が地理的にどういう意味を持っているか、あるいは歴史的にどういう意味を持っているか)は無視されている。
 ここに書かれているのは「橋」ではないのだ。
 1行目、2行目の主語を「わたしの幻想は」「わたしの橋は」と私は定義してみたが、本当の主語は「幻想」「橋」ではなく、そのことばを修飾する「わたしの」の「わたし」なのである。この2行には「わたしの」という表現はは1回ずつしか登場しないが、本当は無数に「わたしの」が隠されているのだ。

(わたしの)風景が老いるように(わたしの)油ヶ淵の(わたしの)人称にまつわるわたしの幻想はどこまでも捨てきれぬ(わたしの)残党としてのみ成立する(わたしの)橋を囲みながら少しずつ腐敗していた

 ここに省略されている「わたし」は少しずつ違っている。つまり、「わたし」とはいつでも一人であるけれど、常に一人以上「わたしたち」という存在であり、ある一瞬一瞬において「わたしたち」を構成する世界は違う。「風景が老いる」と感じる「わたし(たち)」、「残党」という意識を持つ「わたし(たち)」……。それぞれに違っているけれど、そのどれもが「わたし」にとっては、「わたしの」肉体から切り離すことができないものである。「わたしの」肉体のなかにうごめき、ことばになろうとしている。ことばになろうとしてなりきれなず、すべてがからみあい、粘着質をつくっている。「わたし」とからみあうというより、書かれていない「わたし(たち)」とからみあい、強い粘着力で結びついている。そのために一直線にことばは動かない。必ず、うねる。
 そのうねりのなかで、これは「わたし(たち)」とは矛盾したいい方になってしまうが、永島は「わたし(たち)」から「わたし」を引き剥がし、「わたし」そのものになろうとする。「わたし(たち)」を生きながら、そのなかで「わたし」とは何なのか問い、「わたし」を引き剥がすことで、同時に「わたし(たち)」を照らしだそうとする。

 「わたし(たち)」を無視して「わたし」と単独で(孤立して)、ことばを動かすことができなれば、永島はもっともっと簡単にことばを動かすことができるだろう。「うねり」のある文体ではなく、だれにでも主語・述語がめいかくにわかる、「意味」の明確な文章を書くことができるだろう。
 だが、永島は、そういうことをしたくないのだと思う。
 「わたし」は常に「わたし(たち)」である。「わたし」は碧南市に住んでいる。そこには無数のひとの生活があり、その生活の積み重なりと永島自身がどこかで重なっている。「見えない橋」が永島と無数のひとをつないでいる。そのつながりのなかに永島は生きている。そのことを無視して「意味」を明確にしても何にもならない。
 ことばは誰かに通じればいいというものではない。ことばはいっしょに生きているひと、触れ合うひととわたしを結ばなければならない。「ひとみさん」(「ひとみさんこらえるとゆうことは」の登場する人物)に語って、それが通じなければ、ことばではないのである。「ひとみさん」につたえるためには、ひとみさんの肉体が吸収できることばでなければならない。肌と肌を重ねるとき、無言で通じる何かがあるが、その無言の力に似たものを取り込むために、永島は無数の「わたし(たち)」をくぐりながら「わたし」を差し出すのである。肉体としてのことばを差し出すのである。

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山岡遊「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」

2006-09-05 23:23:19 | 詩集
 山岡遊「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」(「犯」29)。
 タイトルは「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」だが、同時に「アレン・ギンズバーグに捧ぐ」といった感じの詩である。山岡は競馬場にいて、アレン・ギンズバーグを思っている。その前半が美しい。

走り梅雨に
アレン・ギンズバーグを偲ぶ
158ページからの詩「アメリカ」は
わたしが生まれる
ちょうど四日前に
バークリーで書かれたらしい
あれから五十年
吐しゃするにふさわしい歴史と弁疏
まるで陰間の撒き散らす
透明な精液のようだった
わたしは今日
新しく創設されたレース
第一回『ヴィクトリアマイル』の連単馬券を
ポケットに入れ
東京競馬場の二階席を徘徊している

 美しいけれど、ちょっとつまずく。「陰間の撒き散らす/透明な精液」が山岡の実感なのかどうか私にはわかりかねた。実感ならいいのだけれど、どうもことばだけのように思える。肉体が感じられない。
 「陰間」はもう一度出てくる。

アメリカはまるで
大興行団体WWEプロレスの
常軌を逸した巨漢レスラー、マーク・ヘンリーの下半身と
冷徹な殺し屋と呼ばれるHHHの上半身に
スクリーンから飛び出したダーティハリーの顔をのせ
チャールトンヘストンの
銃で出来た両手をトレンチコートのポケットに隠し
マイケルジャクソンの腰つきでやってくる
私こそ日本 日本こそ私 老いた陰間

 日本が陰間というとき、アメリカは何だろうか。弱々しい少年を犯す巨漢の男色家ということになるのだろう。巨漢レスラー以降の描写はそれをあらわしているのだろう。(マイケル・ジャクソンがそうした巨漢の部類に入るとは私は思わないが……。)
 この構図はかなり図式的である。巨漢を描きながら肉体が不在である。「陰間の撒き散らす/透明な精液」に向き合う「濃厚な精液」がない。あるいは性交がない。肉体としての接触がない。
 ここからは悲しみも愛憎も切なさも生まれない。

 ギンズバーグと山岡、アメリカと日本--その関係が、「陰間の撒き散らす/透明な精液」というような、切実な比喩を媒体にしてつながらない。肉体が精神によってないがしろにされている。そこに不満を覚えた。
 肉体にはもっと丁寧に向き合ってもらいたい。

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エンリケ・コルタサル「越境」、パスカル・ペティット「父の身体」

2006-09-04 23:11:26 | 詩集
 エンリケ・コルタサル「越境」越川芳明訳(「現代詩手帖」9月号)。
 パスカル・ペティットの作品を読んだあと、エンリケ・コルタサルの作品を読むと不思議な気持ちになる。人にはけっして消し去れない思い出がある。幸福を私たちはけっして忘れることができない。そして、その幸福な思い出が私たちを苦しめる。
 「越境」の最後の部分。

何も 何も持ってません
違法品は何も
わたしが持ってきたのは
息子たちが跳ねまわる村の夕べ
わたしが持ってきたのは
大きな苦痛 棘のような沈黙と
帰郷への思いです
それだけです ほかには何も
持ってきていません

 この「思い出」は、それがここにないがゆえに切ない。「帰郷」とは単にふるさとへ帰ることではなく、「思い出」のふるさとへ、祖国へ帰ることである。

 と、ここまで書いて、私は、急にパスカル・ペティットを読み返したくなった。エンリケ・コルタサルについて書こうとしていたのだが、ちょっとそれはどうでもいい気持ちになってしまった。

 エンリケ・コルタサルの「思い出」は、それが「いま」「ここ」に存在しないことによって引き起こされる。祖国、なつかしい村は「いま」「ここ」にない。だからこそ「帰郷」への思いがわきあがる。彼を苦しめる。彼の意識は、「いま」「ここ」から、遠い祖国、村へと動いていく。動いていくのに、肉体はそこへ動いていかない。動いていけない。それが彼の悲しみだ。彼の悲しみは、彼の肉体が原因で起きるのではなく、彼が存在している「場」が引き起こす悲しみである。自分の力ではどうすることもできない「場」の絶対的なありようが引き起こす感情である。
 パスカル・ペティットの「思い出」は、それとは少し違う。
 父が母を強姦して彼女は生まれた。その「記憶」は突然外部からやってくる。そして彼女をのっとってしまう。自分のものではない「記憶」「思い出」あるいは「事実」が彼女の外からやってきて、むりやり彼女の「記憶」「思い出」になってしまうのだ。
 「場」は関係ない。どこへ行こうと、何に出会おうと、それは「記憶」をひっかきまわすのである。彼女の肉体が「場」である。それはほかの誰のものでもない。彼女の肉体である。彼女の肉体を誰もかわってやることはできない。それがひっかきまわされる。
 そこから始まる感情が悲しみであるか、憎しみであるか、それとも喜びなのかわからない。
 たとえば「父の身体」(熊谷ユリヤ訳、「現代詩手帖」9月号)。

お父さんが、かつて強姦者だった事実を知りながら、
こうして枕元に腰掛けて手を握っていると、
その頭を乾かして拳の大きさに縮めるだけでは
復讐としては不完全だと思ってしまう。

 父を首狩り族の「首」のように縮めてしまいたい欲望。その欲望・憎しみのなかで、強姦された結果生まれたという悲しみは、復讐の愉悦を味わう。それは想像のなかで「首狩り族」になって蛮行をおこなうという絶対に実行できないはずの愉悦である。それは実現されずに、ただ彼女の肉体のなか、精神のなか、感情のなかで、何かになろうとして蠢く。暴れ回る。「詩」ということばになる。「詩」になるしかない。
 「詩」とはことばにならないことばが、ことばにならないとわかっていながら、なおことばになろうと動き回るエネルギーであり、運動だ。
 なぜ、ことばになろうとして、ことばにならないのか。なれないのか。
 人間の肉体のなかで蠢いているのは、精神でも、感情でもない。肉体そのものだからである。肉体はことばをもたない。ことばをもたないのに、ことばになりたがる。ことばにならないと、肉体は、ことばになろうとする力によって破壊されてしまうのだと思う。ことばにならないまま、その定義不能なもの(悲しみ、絶望、憎しみ、喜びのいりまじった不定形のもの)を、むりやり吐き出すことでかろうじて肉体は存在しているのだ。
 パスカル・ペティットのことばは、精神・感情であるまえに、まず肉体なのだ。彼女は精神・感情を描いているように見えるが(強姦されて生まれた私という存在の精神的・感情的苦悩を描いているように見えるが)、本当は肉体そのものを描いている。精神として、あるいは感情として、問題と向き合っているわけではない。それは先に引用した行の2行目をよく読むとわかる。

こうして枕元に腰掛けて手を握っていると、

 「手を握る」。
 精神と精神、感情と感情が触れ合うかどうかは、実は、よくわからない。しかし肉体ではどうか。手を握る。そのとき父の存在は肉体としてゆるぎがない。父が何を考えているか、感じているか、あるいは彼女が何を考え、何を感じているかということを無視して、肉体は肉体と触れ合える。肉体の現実性は否定できない。
 そして肉体に触れてしまえば、人間は、他人を何らかの形で理解してしまうのだ。相手がどんな人間であれ、その人間の肉体の苦悩、痛みをわかってしまう。腹を抱えてうずくまる人間がいれば、彼が(彼女が)何を考えているか知らなくても(はじめてあった人間であっても)、その肉体の痛み、腹痛をわかってしまう。そしてそれを見るだけではなく、手で触れてしまえば、その瞬間から、他人の痛みなのに、その痛みを自分のものとして引き受けてしまうことになる。その痛みをなんとかしたいと思ってしまう。
 肉体が触れ合うことの危険と愉悦が、そこにある。
 ことばを肉体として感じていると思われるパスカル・ペティットなら、なおのこと、そんなふうになるだろうと思う。
 パスカル・ペティットは父親を首狩り族が「首」をつくるように、父親そのものをミニチュア化する夢と愉悦をことばにするが、その最終部分、

パパ人形を地面に横たえる。そうして、
子どもたちがひそひそ話をしながら人形を取り囲み、
ちっちゃな指に触るのをじっと見つめている。

 「手を握る」から「指に触る」までの変化は何をあらわすだろう。
 子どもが人形の指に触るように、父の手を握ることができたら。それはパスカル・ペティットの見果てぬ夢ではないだろうか。その見果てぬ夢にたどりつくまでには、パスカル・ペティットは私が引用しなかった部分に書かれている過激な首狩り族まがいの行動を、本当はことばではなく、肉体で実行しなければならない。そんなことは肉体では実行できない。だから、それはより激しく、パスカル・ペティットの肉体そのものを傷つけながら、なまなましい「詩」、ことばになりきれないことばとして、そこにむきだしのまま立ち上がってくるの。



 エンリケ・コルタサル「越境」、その透明な悲しみは、肉体が傷つかないことによる透明さなのかもしれない。祖国、ふるさとの村では、エンリケ・コルタサルはたぶん貧しさゆえに肉体が苦しんでいる。その肉体の苦しみ(空腹、病気など)からのがれて国境を越えた。そのときから肉体は苦しみから解放され、精神・感情が傷つき、望郷が始まるのかもしれない。
 肉体と精神、ことば。そのあり方がエンリケ・コルタサルとパスカル・ペティットではまったく対極にあると思う。

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パスカル・ペティット「火蟻の手袋」

2006-09-03 15:24:35 | 詩集
 パスカル・ペティット「火蟻の手袋」熊谷ユリヤ訳(「現代詩手帖」9月号)。
 あらゆることがらが越境する。精神・感受性は、あらゆる越境と融合のなかで形成される--と、私の頭のなかで、未消化なままのことばが動く。強烈なイメージの交錯、いや、イメージではなく、現実の交錯がある。パスカル・ペティットのことばの動きには。そして、その動きに、私は翻弄される。受け止めることができない。受け止めているのではなく、投げかけられたことばが、私の体にぶつかる。そして、そのときそのことばが痛いというのならいいのだが、自分の痛みよりも、そのことばを投げつけているパスカル・ペティットの痛みの方がはるかに強烈に感じられる。奇妙な言い方かもしれないが、ことばを投げつけるパスカル・ペティットの痛み、肉体の痛みを感じてしまうので、ことばを受け止めているという感じがしない。
 「火蟻の手袋」の書き出し。

お父さんへ。お母さんが死んだあと、お父さんと
 お母さんが交わした手紙を全て読んで、自分が

強姦の果実なのだと知ってしまいました。そして、
 密林の奥深くへと入って行きました。そこで会った

部族の人たちが、手紙の儀式を手伝ってくれました。
 成人式の試練に耐えようとする少年の介添えを

するように。長老たちは 巨大な火蟻の巣を襲い
 黒く艶のある獰猛な兵隊蟻を三〇〇匹捕らえ

蟻の腹部に生えた毒針が内側にならぶように
 シュロの繊維でつくった手袋を編み込みました。

 パスカル・ペティットは出生を秘密を知る。強姦の結果、生まれたのだと知る。そうした事実に向き合うことは、事実の「密林」に入り込むようなことだろう。入り組んだ事実という密林のなかで自分の肉体・精神・感性を捕らえなおそうとしている--そう思って読むと、そうではなく、パスカル・ペティットの描く「密林」は本当のジャングルなのである。「密林」は比喩ではなく、現実なのである。
 実際に密林を訪ねる。そこで成人式の儀式を体験する。火蟻の手袋に手をつっこみ、その痛みに耐えるという儀式を体験する。
 そこでの体験は、どれがパスカル・ペティットの体験であるのか、よくわからない。火蟻の攻撃に悲鳴もあげず耐えるのは彼女の肉体なのか、それとも母親の肉体、強姦されるときの痛みなのか、わからない。また火蟻が分泌する匂いは、自分が嗅いでいるのか、母が嗅いでいるのかわからない。そして、自らの分泌するにおいをもしかすると父も嗅いだのではないのか、と問わずにいられない。あるいは、父は、母の押し殺した悲鳴を聞いたのか、聞こえたのかと問わずにはいられない。それは火蟻の攻撃の痛みに耐えるために想像した幻だろうか。それとも、その幻があるからこそ、火蟻の攻撃する痛みがあるのだろうか。
 こうしたさまざまな痛みの融合は、父と母の手紙の往復のなかにもある。そして、それを読んだ詩人のなかにもある。すべてが入り組む。火蟻が刺すときの肉体の痛みが、手紙のなかの痛みを引き出す。精神が痛いのではなく、肉体が痛いのだ。
 腹が痛くてうずくまる人間を見ると、それが自分の肉体の痛みでもないのに、人間はそれを自分の痛みのように感じる。腹を抱えてうずくまっている人が腹が痛いのだとわかる。それと同じように、パスカル・パティットは父と母のやりとりした手紙を読みながら、彼らが互いに痛みをかかえていることをわかってしまう。肉体でわかってしまう。そのわかったことが火蟻の手袋という成人式の儀式でよみがえる。よみがるえとき、それは肉体の痛みでありながら、同時に、精神の、感性の痛みに変わる。

強姦の果実なのだと知ってしまいました。そして、
 密林の奥深くへと入って行きました。そこで会った

 その2行の、切れ目のない連続。「密林」が象徴(精神のありようの比喩)ではなく、現実のジャングルだったように、火蟻の手袋という儀式のなかで、肉体と精神が密着し、入れ代わる。
 強姦の事実を知ったことと、密林へ行くことの間には、時間的、空間的な「断絶」というか、距離がある。しかし、その隔たりを、先の2行はないものとして描く。そして、実際には、その密林と部族の人たちは切り離せないものなのに、1行の空白があって、

部族の人たちが、手紙の儀式を手伝ってくれました。
 成人式の試練に耐えようとする少年の介添えを

という具合にことばが進む。散文の構造とはまったく違った構造でことばが展開される。遠く離れたものが密着し、密着しているものが分離される。そして、その密着しているものを分離したときに生じる空隙に、遠く離れたものが侵入してくる。あるいは密着しているものの密着の内部から、遠くにあるものが、その密着の秘密はこれなのだというふうに自己主張してあらわれる。密着を破って噴き出してくる。
 強姦の結果生まれた子どもであると知ったから密林へ行ったのか、密林へ行ったから強姦の結果生まれた子どもであるということを再び思い出し、その事実と向き合ったのか。そうしたことは、分離してみても無意味なことである。強姦の事実を知った。手紙を読んだ。密林へ行った。火蟻の手袋の儀式を耐えた。そうした体験は、融合して、切り離せないものになっている。切り離せないものになっているからこそ、切り離せないことばのまま噴出し、それがパスカル・ペティットという肉体としてその前に立ち上がってくる。詩を読む私の前に、ことばとしてではなく、肉体として立ち上がってくる。
 「現代詩手帖」には他に3篇の詩が訳されているが、どれも強烈である。どこに触ってみても、そこから生の声が噴出してくる。まるで裸の女に触れたとき、女がもらす声のように。肉体に触ったのか、声に触れたのか、まるでわからない。そんな強烈さがある。

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「鰐組」217

2006-09-02 14:17:59 | 詩集
 「鰐組」217 を読む。巻頭に、吉田義昭「私の慣性」。

ここに一つの物体があります。
その物体を質量のある私の肉体とします。
物体はいつも怠け者で止まっているなら止まったまま、
動いているならそのままの状態をつづけるものであると、
私がこの法則を私の生涯の運動量に当てはめた時、
慣性に気づいたガリレオから、
慣性を法則に導いたニュートンまで、
時代を超えて身近な友人のように感じました。

 この作品は「怠け者」である私を弁護するために「慣性の法則」を持ち出している。その文体に一定のリズム、正確さがあるので、落ち着いて読むことができる。吉田は注釈に「慣性とはギリシャ語の『も気ぐさ』という単語から出た言葉」と書いている。できれば、そういうニュアンスを注釈ではなく、本文中に書き込んでほしい。そうでないと、なんだかだまされた気持ちになる。文体の清潔さとは相反する注釈の仕方である。

 仲山清の「すはだに木綿のきみが」を書いている。

ついにきみにも背後の人にわかれを告げるときがくる
いつにもまして すはだの木綿がなじみ
汗がひときわにおう
こちらの世界ではすでにもめんがたたかっている

 「木綿」と「もめん」。「もめん」から先は、映画のスローモーションのように、人込みのなかで倒れる瞬間が描写される。「もめん」という表記は、実は、ここから先は「木綿」を「もめん」と分解して書いたような世界なのだよ、と知らせる「キイワード」である。「木綿」と「もめん」の違いを読み落としたところで、「もめん」以後の世界がかわるわけではないが、気がついた方が楽しく読むことができるだろう。
 このスローモーションの描写には「わたし」が登場する。「きみ」が「わたし」にかわり、再び「きみ」へと交代する。こうした交代はしばしば読みにくいものだが、この作品ではとてもおもしろい。
 「わたし」の部分の文体が前後の文体とまったく違っているからである。

あ、ゴムのカエル
おばかさんの弟がだいじにしているゴムのカエル
あれににているけれど
お尻にホースなんかついていないし
もちろんレモンのかたちのポンプもない
でも どうしてわたしがカエルなの

 この鮮やかな文体の切り替えかあるために、この詩は楽しいものになっている。同時に、こうした文体の切り替えを読んでいると、仲山という詩人は、体質として詩人というより小説家(散文家)としての才能の方があるのでは、と思ってしまう。
 引用した「わたし」の部分の方が他の「地の文」よりも詩的であるのは一種の皮肉のようにさえ思えてしまう。
 地の文はかなり粘着質が高く、これをそのまま散文として読むのはつらい感じもしないではないけれど、それでもなおかつ、「わたし」と「きみ」の切り替え、そのなかでの文体の切り替えという操作を読むと、仲山は複数の人が違った文体で生きる「小説」の書き手だと思うのである。

 坂多宝子「ヤギ」。(「宝」はウ冠の上の部分が「火」が二つ、文字が表記できないので、代用しました)

スーパーの袋をかかえて
帰ってきたら
アパートの前に
やせこけたヤギがいる
いそいで
部屋に戻らなければならないのに
うす目をあけて
私を見ている
パンをやる
食べない
牛乳をやる
無理に食べさせようとすると
悲鳴をあげる

 詩はこのあともつづくのだが、「ヤギ」が何であるか(何の象徴であるか)説明はない。その説明がないことが、この詩の美しさになっている。吉田が「慣性」を説明したように「注釈」をつけると、この詩は破綻する。詩には、わからない、ということも重要な要素である。「ヤギ」がなんであるかわからなくても、坂多が「不条理」と向き合っていることはわかる。不条理と向き合っているといことさえわかればそれでいい。説明がない美しさとは、自己弁護がない美しさである。


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杉山平一『詩と生きるかたち』

2006-09-01 23:39:54 | 詩集
 杉山平一『詩と生きるかたち』(編集工房ノア)。
 詩と詩人(あるいは大阪の作家)について語っているが、そのなかに映画がときどきまぎれこんでくる。たとえば、藤澤桓夫の「首」という作品の冒頭を引用しながら、批評した文章。

《まるで疾風(はやて)だ。電柱は突如現われ、腰を屈(かが)めて消えた。ハンドルを捻(ひね)ると、教会の尖塔が痙攣(けいれん)しながら自動車に倒れ掛かって来た》というふうな映画のような描写でですね。

 「新感覚派」といえばすむのだが、(実際、補足するようにして、先の文章につづけて杉山は横光利一の文章を紹介して比較している)、そこに「映画のような」ということばをはさむ。ここに杉山の思想がある。杉山は映画が好きで、映画の視点でことばを読んでいる。
 「映画のような」と言っても、たぶん映画を見慣れていない人には先に引用した藤澤の文章がどこが映画的なのかわからないかもしれない。電柱や教会の尖塔の動きの描写は、気取っていて(というか、普通の人が書かないような書き方をむりやりひねり出しているようで)、奇妙な印象しか残らないだろうと思う。
 杉山が「映画的」というのは、実はリズムが映画的だ(すぐれた映画のリズムのようだ)というのである。車が猛スピードで走る。その描写を車のなかから描いているのだが、電柱が現われる。電柱が消える。ハンドルを切る(カーブを、角を曲がる)。教会が見える。倒れ掛かってくるように迫ってくる。その描写のスピードが「映画的」だといっているのである。特に「教会の……」の描写が、私には映画的に思える。角を曲がるとき(カーブを切るとき)車のスピードは幾分落ちる。だからこそ「痙攣しながら」という少しゆっくりした描写が入る。その描写が入ることで車のスピードが落ちたことがわかる。車に乗っている人間には、スピード落ちたからこそ、「痙攣しながら」ということばをさしはさむ時間があったのだ。ここには単に風景だけではなく、車のスピードも描写されている。それが「映画的」だと杉山はいうのである。
 こういうこと、車のスピードの変化まで、藤澤の文章を引用しながら「映画的」のひとことで説明し、理解しろ、というのは、かなり無理がある。ところが杉山はそれを無理とは感じていない。杉山が映画にどっぷりと浸っており、映画が杉山の肉体となっているからである。
 映画にはいろいろな要素がある。映画の何が好きになるか。映画から何を吸収するか。杉山が一番影響を受けているのはリズムである。(先のスピードの変化もリズムの変化である。「電柱は……」と「ハンドルを……」のことばのリズムをみれば、前者が短く、後者がスピードを落した分だけ長くなっている、時間かかかっていることがわかる。)そのことを語っている部分が「詩と形象」という文に出てくる。山中貞雄のデビュー作を語っている。磯野源太が親分を助けに走る部分を杉山は次のように説明する。

 (磯野源太は)「助っ人一人ー! 」って叫びます。無声映画ですから、声はありません。「助っ人一人ー! 」という字幕がはさまります。続いて走っている姿に、また字幕が「常陸の国は」って出るんです。走り続けるとまた「茨城郡」また走る。「祝の生まれの」また走る。「磯野源太だー! 」って出るんですね。その疾走感のダイナミズム、走り続ける姿に、名乗りの声を、字幕をちぎってバッ、バッ、バッといれていく、そのリズムの快感に非常に感心しました。

 この文章には二つの大事な「思想」(杉山の肉体)が書かれている。
 「字幕をちぎって」と杉山は書いている。映像が、磯野源太が走る映像が、字幕の瞬間途切れる。切断される。リズムとは切断を含むものである。切断があることによって、逆に、連続性が強調される。切断によって作り出していく連続性がリズムであると杉山は考えている。
 これは別なことばで言えば切断されたもの、つまり断片をつなげていくとき、そこにリズムがあれば、その断片は連続性に変わるということである。映画は実は、そのようにしてできている。つまり断片を独自のリズムによってつなぎあわせることで、一つの世界、連続した世界としてみせる、というのが映画である。
 この断片が連続性に変わるときのリズムを杉山は「快感」と呼んでいる。快感には精神的な快感もあるだろうけれど、ここでの快感は肉体の快感の方が大きい。目がとらえる世界、そこからやってくるリズムが、杉山の肉体そのものに、たとえていえば心臓に影響している。走るときの鼓動が山中の映画から杉山の肉体に響いてきて、それに共鳴している。それが「快感」だ。
 杉山は肉体でリズムを感じ、肉体でリズムを快感だと感じている。リズムこそがいのちだという「思想」がここから生まれる。

 こんなふうに映画に快感を覚える杉山は、どうして映画人にならずに詩人になったのか。映画と詩は、リズムによってつくられているということを、知らず知らずのうちに感得したからだろう。
 山中の映画を説明して、杉山は「字幕をちぎってバッ、バッ、バッといれていく」と書いていた。「字幕をちぎって」とは、一続きの文章をちぎってという意味である。(その挿入によって、結果として映像がちぎれる)。詩も一続きの文章をちぎっていく。簡単な例でいえば、改行によって。ただし、改行だけではリズムは生まれない。そこには明確な切断がなければならない。つまり前の行とは明らかに違った世界がそこに独立して存在しなければならない。
 実際の杉山の作品をみてみる。(杉山は、私とは違ったふうな説明の仕方をしていが、私は私の説明の仕方で杉山と映画の関係を書いてみたい。)「下降」という作品。

仲好しと、いま別れたらしい
娘さんが笑みを頬にのこしたまま
六階からエレベーターに入つてきた
四階で微笑んだ口がしまり
三階で頬がかたくなり
二階で目がつめたくなり
一階で、すべては消えた
エレベーターの扉があくと
死んだ顔は
黒い雑踏のなかに入つていつた

 少し図式的だが、娘の顔の変化が行ごとに描かれる。一行ごとに違った顔があらわれることによってリズムがリズムになる。杉山はことばで映画をつくろうとしているのかもしれない。
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