詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ギャヴィン・フッド監督「ツォツィ」

2007-05-23 22:33:30 | 映画
監督 ギャヴィン・フッド 出演 プレスリー・チュエニヤハエ、テリー・ペート

 主人公の少年ツォツィは一度嘘をつく。「犬を二度蹴ったら背骨が折れて歩けなくなった」と。しかし、実際に犬を蹴ったのは少年ではなく父である。少年はそれを目撃した。犬を蹴る父を、その暴力を、というより、蹴られて歩けなくなり、それでも腹這いになって逃げる犬を見た。少年が最初に体験した暴力が自分の体と他者の体のぶつかりあいではなく、自分自身の肉体とは遠いところ、間接的なものであったということは、この映画ではとても重要である。少年は暴力を振るったとき、自分自身の体も痛みを感じるということを最初に体験せず、単に相手が痛みを感じ、動けなくなるということを、いわば知識として知ったのだ。肉体の知恵ではなく、知識として知った暴力。間接的な暴力--自分自身は無傷である、という間接性ゆえに、いっそう残酷になる。暴力に対して、力の弱いものは服従する--そういうことを知識として知ったために、より残酷になる。(この犬のシーンは「おまえは捨て犬か」と言われて、とっさに暴力を振るうシーンの下敷きにもなっている。)
 最初の強盗のシーン。ツッツィは襲う相手を選ぶが実際に暴力を振るうのは仲間だ。最初の殺人を自分の手で、肉体で体験するではなく、他人の肉体をとおして体験してしまう。ツォツィは暴力、殺人を間接的に体験するがゆえに、人間としての感覚がおかしくなったといえるかもしれない。殺人をおかしてしまったために仲間のひとりは嘔吐する。彼は自分では肉体的に直接殺人を犯したわけではないが、人間の肉体の接触の意味を知っていたので、他者の肉体からいのちを奪うということがどういうことか肉体として反応してしまったのだ。その少年に肉体の意味を教えたのは、実は、ほかならぬツォツィであったことは、のちにツォツィのことばをとおして明らかにされる。ツォツィはかつて少年を介抱したことがある。汚れている少年をきれいにし、助けたことがある。少年はそのとき肉体と肉体との接触には暴力以外のものがあることを直接的に知ったのである。暴力以外の肉体の接触があることを知っている人間には暴力は振るえない。決定的な暴力は実行できない。
 ツッツィが実際に暴力を振るうのは、この嘔吐する少年に対してである。(この映画では。)ツォツィは名前を少年に問われる。「ツォツィ(不良)ではないだろう。両親がつけてくれた名前があるだろう。おまえは捨て犬か」。ツォツィはこのことばに逆上する。自分は暴力を振るわれて死んでいくあわれな犬にはならない、という思いがある体。その反動として暴力を振るってしまう。そして、はじめて無抵抗なものを暴力で支配することがどういうことかを知る。信頼していた仲間が見つめかえす悲しい目が、ツォツィのこころにささる。
 ツォツィにもこうした肉体のぶつかりあいの前に、肉体と肉体が触れ合う体験をする機会はあった。HIVに苦しむ母。そって手を伸ばす母。その指に触れる機会があった。それを父に禁じられ、かわりに犬に対する暴力、二度、犬を蹴り、半殺しにする様子を見てしまった。
 ここからどうやって肉体を取り戻していくか。肉体と肉体の接触を取り戻して、人間として生まれ変わるか。これがこの映画のテーマである。ツォツィは車を強奪し、その車のなかに偶然いた赤ん坊を誘拐してしまうが、その赤ん坊との接触がツォツィをかえる。何も知らない赤ん坊がツォツィののばした指先をつかむ--その瞬間にツォツィが生まれ変わる。ツォツィは、その赤ん坊のように、HIVの母の指をつかみたかった。触れるのではなく、つかみたかった。つかんで、はなしたくなかった。母は瀕死である。その瀕死の母にさえ、幼いツォツィは甘えたかったのだ。そして瀕死の母は母でツォツィを甘やかしたかった。この「甘やかし」というのは、そばにいるよ、いっしょにいるよ、と告げることと同じである。何ができなくてもいい。ただいっしょにいるよ、いっしょにいるから安心して、と告げることである。自分の肌の温もりはお前の肌の温もりと同じものだよ、と告げることである。
 いっしょにいること、肌と肌を接すること、ことばを越える何かを触れ合わせること--そういうことの大切さに気づいたツォツィが赤ん坊を両親へかえすシーンは感動的だ。自分のそばにおいておきたい、いっしょに生きたい。そういう望みを抱きながら、そういう望みを抱くからこそ、赤ん坊を両親へかえそうとする。子供にとって両親の愛情がどんなに大切なものであるかはツォツィ自身が知っている。母親の愛情がツォツィをつつんでいたら、今のツォツィは違っていたのである。手放したくない。でも手放さざるを得ない。その矛盾した行為のなかで、ツォツィは生まれてはじめての涙を流す。生きているいのちへの涙を流す。
 かなしいということばは日本語では「愛しい」とも書くが、その「かなしい」涙を流す。愛犬が父に蹴られて死んでいくのを見たときの涙は悲しい涙だったが、赤ん坊を両親へかえすときの涙は「愛しい」涙である。これは、とても美しい。
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大澤武「案内人の居ない裏山で」

2007-05-23 21:15:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 大澤武「案内人の居ない裏山で」(「SOOHA」創刊号、2007年03月15日発行)。
 句読点の意識が非常にしっかりしている文体だ。

すべてが終わって不可解に静止したその姿勢から、縦横しっかりと空箱の遠い隅にも届く視線を送って、それまでを振り返る、曲がりねじけたものたちは、土地言葉の滑らかな藤谷戸の朝市に出回らないうちに、まだ明け切らない初々しい薄闇に捨て置かれ、正当性を与える刻印や行間の油断を嫌う物語化の跋扈するこの地では、解けない縺れは観念が先行する視点とセットにされて、ごくごく日常の偶然事を畸形とか、パラドックスとか呼んでいた。

 句点まで追いかけて読むと何のことかわからない。入り組んだ何かを書いている、書こうとしているのだろうと感じる。その一方で、読点ごとの文節自体は非常に明瞭である。文節ごとを明瞭にし、文全体では全体像がわからないものになるように書かれている。
 大澤にとって、世界とは、そういうものなのだろう。文節を断片と読み替えれば、世界の断片断片はそれぞれ明瞭である。そして、その断片が明瞭でありすぎることによって全体がぎくしゃくする。世界の全体を納得できるように把握するためには、人間はどこかで「省略」を必要とする。見えているけれど見なかったことにして全体を優先するという思考の働きが必要だ。しかし、大澤はそういうことをしない。見えているものをより見えるように断片に近付いてゆく。肉眼を断片の対象にすりつけるようにして見つめる。そして、次の断片へ、さらに次の断片へと移ってゆく。全体をまとめる何かは、肉眼を対象に近づけすぎず、ちょっと離れて見るということも必要なのだが、そうした対象と距離を置くことを拒んでいる。そうした視線の動き、断片から断片への移りを句点「、」が正確に再現している。その正確さ、その強靱さが大澤の詩の魅力だ。
 大澤も同じ号で「秋空の広がりが欲しい その気分なのに」という作品を書いている。こちらは行分け詩である。その1行1行は、散文詩の読点ごとの文節のように独立している。大澤は同じ方法で散文詩と行分け詩を書いている。行分け詩の方が1行1行がより独立して感じられるはずなのに、不思議なことに、大澤の場合、行分け詩の1行よりも散文詩の1文節の方が私には独立性が強く感じられる。散文詩の方が、文節がざらざらし、ことばが屹立して感じられる。空白の効果が、たぶん大澤の詩の場合、逆に働くのだろう。行分け詩の1行がつくりだすまわりの空白、その空白のなかに1行の独立性が広がってゆく。散文詩の場合、文節がひしめき合い、そのひしめく力で文節が押されて隆起してくる。そんな感じがするのだ。
 句読点の意識が明瞭なので、こうしたことが可能なのだと思う。強靱な句読点意識、文節の意識が、文節のエッジを鋭くするのだ。とてもおもしろいと思った。


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入沢康夫と「誤読」(メモ27)

2007-05-22 15:22:31 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「校異」を記録したように装った「第三のエスキス」は仕掛けに満ちている。たとえば、「五、」の部分。

漂白された→③みおつくしをちりばめた

 「エスキス」の「みおつくしをちりばめた」は最初は「漂白された」であったものが変更されたと報告されている。「漂白」と「みおつくし」。何の関係もないように見える。しかし「みおつくし」を漢字に書き換えると一変する。「漂白」「澪標」。「漂」は「澪標」の漢字2文字の「へん」と「つくり」を組み合わせたものである。意識の「誤読」ではなく肉眼の「誤読」が隠されている。漢字の読み違えにつられて、ことばが動いた。そういうものも含めて入沢は「誤読」を考えようとしている。人間は「誤読」する。わからないものに出会ったとき、自分の知っているものでことばで間違って読んでしまう。そういう間違いの奥には、人間の意識の、何かをわかりたいという欲望が潜んでいるかもしれない。わからないものをわからないままにするのではなく、わかりたい、納得したい、そうすることで安心したいという欲望があるかもしれない。

《屋〔根〕→(削)》屋根を伝つてどこまでも走つて行く
    (谷内注・かっこ記号は原文は別。表記できないので別のものを代用した。)

 という例もある。

 「漢字」の「誤読」、「漂白」から「みおつくし」への「誤読」には「教養」というか、「文化」の「誤読」がある。ある文化的意識がないとできない「誤読」である。「誤読」とは文化があってはじめて成立するものである。このことは「誤読」が文化的行為、文学的行為であるという意味になる。「誤読」しないのは(できないのは)、文化的・文学的教養がないからである。--これは大変な「逆説」かもしれない。「誤読」してしまう程度の「教養」ではなく、それを上回る「教養」があれば「誤読」は生まれないのだから……。そうした微妙な問題を浮かび上がらせているのが次の部分。
 「第四のエスキス」の「二」の部分。

茂つた薤の露の一つ一つに億千の青い世界が映り、
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「薤露歌」を踏まえている。漢代の葬送の歌。人命のはかないことは、おおにらの上の露のようだと歌う、と「新漢語林」(大修館書店)に書いてある。
 死、そしてそれ以降の世界を前提にすると、「エスキス」の「二、」の最後の部分もよくわかる。

はるか下の下の方に、巨大な星々の都市が浮かんでいる。
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「あなた」のたどりついた天上世界から、宇宙を越える天上世界から、宇宙を眺めた姿である。
 「理想」が、ここでは「誤読」されている。「誤読」という形で「理想」が語られている。「理想」を語るというのも、ひとつの文化・文学である。

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マーク・フォースター監督「主人公はぼくだった」

2007-05-22 14:07:16 | 映画
監督 マーク・フォースター 出演 ウィル・フェレルエマ・トンプソンダスティ・ホフマン、マギー・ギレンホール

 脚本がたいへんすばらしい。ナレーションというのは映画では邪道だと思うが、ナレーションがナレーションでなくなる過程がおもしろい。そして、そのナレーション、たとえば「主人公ハロルド、そのことを知るよしもなかった」という小説のナレーション(第三者の特権的視点)と交錯し、その交錯から、映画(現実)の主人公が実は小説の主人公であり、小説と現実(映画)が交渉しはじめる。ナレーションの問題自体、文学教授のダスティン・ホフマンが語るのだが、このあたりの操作もとても刺激的だ。
 ダスティン・ホフマンは、さらに悲劇と喜劇の違いとか、「主人公は死んでも小説は死なない。傑作のために主人公は死ぬべきだ」というような、声を出して笑わずにはいられないせりふを次々に繰り出す。ダスティン・ホフマンは、笑わずに(あたりまえだけれど)、「私は文学の構造と完成度にしか興味がありません」というような感じをストレートな演技で展開し、この映画にスピード感を与えている。
 作家にかぎらずことばを書く人間というのは、ことばが現実になってしまうという印象に囚われ、書きたいけれど書けない、ということがある。逆に先に書いてしまえば、それはフィクションになってしまい、現実には起きない、だから書いてしまっておく、ということもある。その、奇妙な現実とことばのあいだでの実感を、エマ・トンプソンがいきいきと演じている。交通事故のシーンを書きたくて事故の多い現場へ出向いて事故を待っているシーンの演技などは、思わず笑ってしまう。笑いながら、ひきこまれてしまう。
 エマ・トンプソンが映画の流れを引き止め、ダステン・ホフマンが映画の流れを加速する。その間にあって、ウィル・フェレルが右往左往する。『プロデューサーズ」』でみせたような過剰な演技をおさえ、小説の主人公なのに(映画のなかの主人公でもあるのだけれど)、ストーリーの主人公をやめて逸脱し(たとえばギターに夢中になる)、自分をとりもどしてくという過程もおもしろい。
 そして、そのストーリーから逸脱し、自己を豊かにしていくという部分こそ、実は小説(そして映画)では一番重要な部分、感動的な部分でもある。そういう部分が紋切り型だと小説、映画はつまらなくなる。ストーリーから逸脱していくものだけがストーリーを豊かにする。(この映画のなかの「小説」の部分でいえば、たとえば主人公が書類を整理しているときの音--それを海の音と感じる、というナレーションの逸脱。ナレーションさえも逸脱しないと、紋切り型の駄作になる。)
 文学、映画をふくめ、芸術全般に通じる問題を、笑いーで味付けしながらさーっと流しとったマーク・フォースター監督もいい感じだ。立ち止まり、こってり描写すると、映画が映画ではなくなってしまう。脚本のよさを生かして、演出をおさえて撮っているが、この映画のほんとうの魅力かもしれない。
 文学好きの人のための、文学文学したお笑い映画だけれど、文学に興味がなくても、もしかしたら自分は小説(物語)の主人公で……と夢想したことのある人(自分は捨て子だった、もらい子だったと空想するのと同じように、だれでもそういう経験はあると思うが)なら、その夢の感じを楽しむこともできなます。ちゃんと、そういう「物語」向きに、頑固だけれどなぜか魅力的な女性、マギー・ギレンホールとの恋もあります。と、書いて、いやあ、ほんとうにおもしろい脚本、ていねいに書かれた脚本だなあ、とあらためて思った。マギー・ギレンホールについては書くつもりはなかったのだが、自然に感想に書かされてしまう。登場人物が全員ていねいに描かれているから、ついつい全員についてふれずにはいられなくなる。そういう脚本だ。そういう演出だ。

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佐古祐二『ラス・パルマス』

2007-05-22 11:02:23 | 詩集
 佐古祐二『ラス・パルマス』(竹林館、2007年05月20日発行)。
 「パントマイム」に佐古の詩の狙いが書かれている。

虚空に
てのひらを小刻みに顫(ふる)わせて
蝶を現出させる
舞い上がり遊ぶ様を目で追う
動きにあわせてゆれつづける顔
見えてくる
見えないもの

 佐古にとって詩とは見えないものが見えてくるということなのだろう。見えないものを見えるように書こうという意志がとても強い。たとえば、「幼年」。

ぼくはみた
行水するおんなの裸を
軒の鬼灯(ほおずき)は風にゆれ
下町の路地を
時が駆けぬけていった

 見えないものを見えるように書こうとする意志が強すぎて、見えないものを見えたかのように書いてしまっている。「時が駆けぬけていった」。これは肉眼では見えない。肉眼で見えないものを見えるかのように書いてしまったために、この作品はありきたりの「現代詩」になってしまっている。見えないものは見えないままに書くことが大切なのだ。見えないのは何が邪魔をしているために見えないのか--それを書くということが、見えないものが見えてくることにつながる。
 「十月の空」は美しい。

長の入院から解き放たれた
ある晴れた日のこと
飛行機雲がひとすじ伸びている
いずれは
ほどけて消えるさだめなのだが
いま
それはたしかにぼくの頭上にある
木漏れ日ゆれて
金木犀の香が運ばれてくる
ぼくは気づく
ほんとうは
ほどけて消えるのではなく
この美しい世界に
とけこんでいくのだと

 「ほどけて消えるのではなく」「とけこんでいく」。とけこんで何かが見えなくなるということは肉眼で体験できる。たとえば、塩、あるいは砂糖。水のなかにいれる。白く見える。完全に溶けてはいない。水をぐるぐるまわす。白い粒子がだんだん小さくなり見えなくなる。溶けたのだ。こういう肉眼の体験は誰もがしていることだろう。そうした肉体の、肉眼の体験をくぐることで、ことばは確実なものになる。

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石川逸子「外はみぞれ」

2007-05-21 12:51:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川逸子「外はみぞれ」(「兆」134、2007年05月07日発行)。
 不思議な詩である。

ひろい座敷の奥に
かかっているのは
掛け軸かとおもえば
ひとの顔で
なにかを叫びたそうに
ぐらぐら ゆれている

座敷には大勢集まって
宴たけなわ
笑う者 踊りだす者
ののしる声 歌う声
皿のふれあう音
さまざまのさんざめき
隅に 女の子一人
ポツンと ゆれる顔をみている

外はみぞれ
ごおっと風が吹き出した

 たとえば田舎の葬儀。葬儀のあとの宴。そんな風景を思い浮かべる。不思議というのは、顔と集まっている人、女の子の関係だ。顔(一つ)、人(おおぜい)、女の子(一人)。人だけが複数なのだが、その複数が複数に感じられない。顔、人、女の子が対等の位置を占めている。さらに、これに「外」の風景、自然が、また「一」として加わる。その瞬間、「外」はそのまま「一」なのに、「座敷」のなかの顔、人、女の子はそれぞれが自己主張するのではなく、すーっとかたまって「一」になっている。
 存在の区別がなくなり「一」になる。
 死ぬとはこういうことなんだな、とふっと気づかされる。

 「死」は、たの作品では「顔」になっているが、それはおおぜいの人(死者の知り合い--近い関係、遠い関係をひっくりめて、おおぜいの人)のなかに消えていく。悲しみだけではなく、笑いや、ののしりという「関係」のなかに吸収されていく。そういうことがわからない女の子はポツンとその動きを見ている。死の実感もないまま、ただ見つめている。女の子にとって死はわからないものなのだけれど、そうやって見つめたという記憶が、ある日、突然、死とは何かという「実感」として、やってくる。
 たとえば、外でごおっと風が吹き、みぞれが降り出した瞬間に。あ、この風景は、あのときの風景だ。誰かが死んだ日だったと思い出す。その日に、瞬間的に帰る。時間が消える。

 突然、今と過去の区別がなくなる。そういう一瞬、まざまざと死を見た記憶のなかにひきこまれていく感じ。時間が「一」になってしまう感じ。

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入沢康夫と「誤読」(メモ26)

2007-05-21 09:58:19 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 『「月」そのほかの詩』(1977年)に収録されている「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」を冒頭に掲げる詩集。詩集の構造が興味深い。「エスキス」(素描、と訳していいのだろうか)の連作(「エスキス」から「第九のエスキス」)までの連作から成り立っている。「エスキス」はそれぞれ「完成品」であることを拒んでいるかのように微細な差異を含んでいる。(ただし「第九のエスキス」だけは大きく違っている。)いわば、ある作品がどのうような「素描」を繰り返して成り立っているかを推敲過程を追う形で浮かび上がらせようとした作品だ。
 しかし、とても奇妙な作品である。
 第一の奇妙な点。
 「第二のエスキス」と「第七のエスキス」が欠落している。「第三のエスキス」は「エスキス」の「推敲過程」を克明に描いたものである。そのなかには「第二のエスキス」も含まれているから、ほんとうに欠落しているのは「第七のエスキス」ということになる。なぜ「第七のエスキス」は存在しないのか。
 第二点。
 「第三のエスキス」によれば、「九連の散文詩」は最初は「一四連」と書かれていた。推敲している内に「九」になった。「一〇」から「一四」はどこへ消えたのか。それはほんとうに存在していたのか。
 いずれの点にも、入沢は「答え」を書いていないように思える。
 「メモ25」でも書いたが、これは入沢が読者に「誤読」させるためである。「第七のエスキス」が欠落しているのは、それを読者に想像させるためである。「一〇」から「一四」も読者が望むなら想像すればそれでいいということだろう。ただし、この「一〇」から「一四」の「エスキス」に関して言えば、入沢は「第七のエスキス」ほどには「誤読」を期待していないだろう。「誤読」は一回おこなえばそれで十分である。つみかさねれば「誤読」ではなく、完全に別なテキストになってしまう。

 この詩集の、ほんとうに奇妙な点は、私だけの印象かもしれないが、「エスキス」の連作が、最初に発表された作品の成立過程を描いているとは思えないことである。「エスキス」を繰り返し、その結果として『「月」そのほかの詩』に収められた形になったとは思えない点である。
 「第三のエスキス」を読むかぎり、「エスキス」以前に「素描」があり、それを推敲する形で「エスキス」になったと考えるのが普通であろう。その端的な「証拠」となるのが次の部分である。

私たちに教〔えや→①(削)〕へ〔ようとして→②ようとあせつて〕

 ネットで書いているので表記がうまくいかず省略しているのだが、「えや」には「ママ」とルビが打ってある。これで読むかぎり、第一稿の表記の間違いに気づき、第二稿で修正したことになっている。
 もしこの「証拠」が正しいものであり、「第二のエスキス」がほんとうに存在したのだとしたら、この作品の矛盾は、もっと大きくなる。もっと大きな疑問が出てくる。
 「第四のエスキス」はいつ成立したのか。
 『月』に収録されている形が「決定稿」であり、それ以前に「第二のエスキス」を含む下書き(?)があったとするのなら、「第四のエスキス」は? 「第二のエスキス」以前に成立していたことにならないか。「校異」を特定するなら「第三のエスキス」のやり方では不十分で、「第一エスキス」を特定し、そこから順々に「エスキス」へ向けて、どのような推敲が重ねられたかを明確にすべきだろう。

 もちろん、入沢の書いているのは「詩」であり、テキストを分析し、「校異」を特定するという「文献学」の仕事ではない。だから、そういうことをする必要はない。最初から、そう考えて読むことも可能だ。むしろ、「文献学」の報告書として読むのではなく、最初からことばで書かれたもの、フィクションとして読むべきだろう。
 入沢はここでは「文献学」を装っている。「文献学」の報告書として錯覚するように工夫をこらしているのだ。

 そうして、そう考えるとき、私には「エスキス」が最初に存在し、「第三のエスキス」に含まれる形で存在する「第二のエスキス」ほかすべての素描があとから捏造されたもののように思えるのである。
 「エスキス」を書き、その「エスキス」にあたかも先行する「草稿」があったかのように捏造する。「ママ」という手の込んだ目くらましも潜ませる。入沢は「過去」を「捏造」しているのである。「エスキス」のために「過去」をつくりだし、架空の「文献学」を繰り広げる。

 これは、どういうことだろうか。
 「エスキス」の「一、」の書き出しが印象的である。

あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)私たち
は長い旅をしてきたのだが、

 だれでも作品を読むときは「決定稿」から読む。出版され、本の形になったものを読む。その後、原稿を発見する。原稿の下書きを発見する。原稿の下書き、決定稿、そして本という形では読まない。ある作者の作品を分析するときは、たいがいが「決定稿」→「草稿」という筆者とは逆の順序で作品に近付く。
 そして、逆にたどりながら、頭の中では「草稿」→「決定稿」という筆者の思考順序を再現する。頭の中では二つの動きが交錯しながら進むのである。「決定稿」から遠ざかることで「決定稿」に秘められた「真実」を探そうとするのである。
 矛盾である。
 真実を探すということは、矛盾した行為を生きることである。この矛盾にこそ、入沢は詩を感じているのだと思う。
 「決定稿」→「草稿」とたどることで、筆者の「足あと」(思考過程)をたどる形をとりながら、そこでほんとうにおこなわれているのは入沢自身の思考を受け入れてくれるもの、「草稿」に残された「足あと」を見つけることである。「決定稿」に残っていない(欠落している)ものを発見し、そこに入沢自身の「思い」を託す。そうやって「誤読」の手がかりを得ようとする。
 入沢は「誤読」の可能性を探している。夢みている。
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入沢康夫と「誤読」(メモ25)

2007-05-20 23:23:50 | 詩集
 入沢康夫『「月」そのほかの詩』(1977年)。
 「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」。同じタイトルで1978年に一冊にまとめられる詩集の冒頭の作品。全体についての感想は詩集について触れるときに回すことにする。この詩の特徴的な部分は「八、(欠落)」というところにある。
 「欠落」とは、どういうことだろうか。
 この作品は新作ではなく、入沢がかつて書いて保存していたものを発表したものだろうか。1連ごとに別紙に書かれ、番号を振っていたが、取り出してみたら「八」の部分か欠落していたということだろうか。そうだとしても、とても奇妙である。なぜ入沢は「八」を欠落させたまま発表しようとしたのか。入沢自身が書いたものなら「八」はそっくりそのままではなくても、ある程度似通った形で復元できるのではないのか。なぜ復元しないのだろうか。完全な形に復元できないまでも、どのようなことが書いてあったか補注くらいは書けるような気がするが、そういうこともしていない。なぜだろうか。
 「欠落」は「欠落」しているのではなく、入沢が意図的に「欠落」をつくりだしているのではないだろうか。「欠落」こそが、実は、この作品の「詩」の根源なのではないか。
 「欠落」はなぜ必要か。読者に想像させるためである。「八」の部分があったと想像させるためである。
 「八」はあると想像するときにのみ実在する。疑えば、実在しなくなる。
 そして、この想像と実在の関係は、入沢の書いているすべてのことばについてあてはまる。
 「座亜謙什」ってだれ? そう名乗った人間がほんとうにいたのか。
 入沢の書いている詩--そこに書かれていることは、すべて想像しなければならない。「事実」はどこにも書かれていない。入沢のことばを読んで、それが指し示すものを想像するとき、入沢の世界は読者の頭の中で具体的になる。ことばで表現さこれているあらゆるものは、想像しなければ実在しない。想像するときにのみ実在する。

 詩は、ことばである。そして、そのことばは、読者が想像するとき、つまり、書かれたことばに読者自身の体験からひっぱりだした何かを付加するときにのみ具体的になる。作者が書いたことばを「正しく理解する」というよりも、自分自身に引きつけ、そこに書かれていることが自分の感じていることだ、思っていたことだ、体験したことだと「誤読」したときにリアリティーのあるもの、実在世界をとらえたものとなる。

 「八、(欠落)」は、「誤読」されることを待っているのだ。
 そしてこの「誤読」は、「欠落」は「欠落」ではなくほんとうは「あった」という「誤読」の形をとるのではない。読者が「欠落」の部分をつくりあげる--「一」から「九」までの散文詩を読むことで、「八」にふさわしい散文詩を読者自身でつくりあげ「実在」するものとして実感することを指す。
 読者が読者自身のことばで「八」を捏造(?)するとき、この詩ははじめて「九連」になる。 

 という私の感想・批評も実は「誤読」である。私は、そんなふうにしてこの詩を読みたい。私の、そんなふうにして読みたいという気持ちが「八」をそうとらえるだけなのだ。私の「誤読」があぶりだされている。
 「誤読」であるから、もとより、「正解」とは無縁である。その「正解」とは無縁な場に詩のエネルギーがある。
 と、思うからこそ、私は、次回は同じタイトルの詩集をもっともっと「誤読」してみたい。どこまで「誤読」できるか、「誤読」をつみかさねてみたい。書きながら、そう思った。
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豊原清明「帰郷は今か(一)」「帰郷は今か(二)」

2007-05-20 21:43:03 | 詩(雑誌・同人誌)

 豊原清明「帰郷は今か(一)」「帰郷は今か(二)」(「火曜日」90、2007年05月31日発行)。
 豊原清明は中原中也を題材(?)にさまざまな場で詩を書いている。今回の2作品にも中也が出てくる。
 「帰郷は今か(一)」の書き出し。

ひとり村の中で
笑っていた山羊のひとは
時々、泣きながら
写真の兄弟に向かって
ささやいている
昨日、僕は母とケンカ別れした。
人生の青い背中を見ながら。
山羊のひとは
一人、嗚咽していたらしい。
今、僕は落ち込んでいるのだ
母の帰りを待つのは
中止します。

 豊原のことばを「詩」にしているのは1行ずつの独立性である。1行1行が前の行とは独立したメロディーとリズム(音楽)を持ちながら、つながったとき、また新たな音楽になることだ。

昨日、僕は母とケンカ別れした。
人生の青い背中を見ながら。

 というような、豊原自身の「過去」を現在に噴出させ、中也(山羊のひと)と向き合うとき、時間の広がりが、過去-現在-未来と一直線になるのではなく、三つの時制が立体的に重なり、「世界」そのものになる。中也と母、豊原は別々の時間を生きているのに、その別々の時間の区別がなくなる。和音のように溶け合う。

母の帰りを待つのは
中止します。

 この2行の場合に、「中止します」ということばの音が不思議に刺激的である。「母の帰りを待つのは/やめます。」としても「意味」は同じだが音楽が違ってくる。詩は「意味」ではなく、音楽なのだとつくづく思う。

 「帰郷は今か(二)」の後半。

しかし嗚呼
人は中也サンのため息に
恋しているのです。
中也サンは写真の肖像で
ぎゅっ~ッと唇、締めていた。
しかし、今、ふんわーりと口をあけ
笑うのかい?と思うと
欠伸して帰っていった

中也サンには
かなしい人でいて欲しい

 この1行ごとの独立性は豊原ならではの世界だろう。
 最後の「かなしい」もいいなあ、と思う。「哀しい」「悲しい」ではだめなのだ。「愛しい」が含まれているのだ。絶対にひらがなでなければつたえられない「かなしい」がここにある。
 「ため息に/恋している」とは、この「かなしい」の別の表現である。
 豊原のことばはの底には日本語の「歴史」がどっしりと広がっている。

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石川和広「プラグ」

2007-05-19 14:52:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川和広「プラグ」(「tab」4、2007年05月15日発行)。
 何も説明しない--それが詩になるときがある。石川和広の「プラグ」がそういう作品だと思う。

僕から
プラグを抜いたのはいつだったか
全く異常でも
苦痛でもなかった
ドラえもんなら機能停止だが
僕の機能は果たされている

 「プラグ」は何かの象徴だろうか。比喩だろうか。象徴や比喩は別のことばで言い直されるのが「文学」の約束事のようなものだが、その言い直しがない。たぶん言い直すことが石川にはできないのだろう。言い直すことができないから、そのままほうりだしている。
 詩のつづき。

それからしばらく

雨が降っていた
時々止んだ
雲を見ていた
まだ雨が降りそうな
雲を見ていた
しばらく何も降りてこなかった
空からも何も降りてこなかった

 2連目の「それからしばらく」という不安定な1行がおもしろい。不安定と書いたが、この詩のなかではその1行だけが非常に安定している。どっしりと、浮動の姿勢でそこにある。
 この詩は「プラグ」で読者をひっぱってゆくが、実際に詩のなかに生きている時間は「それからしばらく」という、あいまいで、思考が中断したままの、奇妙な空白だけである。その空白のなかに「プラグ」ものみこまれていく。

プラグは抜かれたままだった
プラグの先はどこへつながっていたか
考えもしないし
何も見なかった

それでも
毎日はあって
何もしないで

少しおじいさんのことを考えた
プラグとは関係なかった
もうすぐ十三回忌だった
単純にそのことだけを覚えておくようにした

 「考えもしないし/何も見なかった」。これは「それからしばらく」を言い直したものである。(ここでは石川は「文学の約束事」を守っている。)
 空白--ことばを拒絶する世界があって、その前で石川はことばをむりやりにうごかしたりしない。
 その空白をむりやりことばで追い詰めていくのが、ある時代の詩ではあったが、今はそういうことはしない。その、そういことをしない詩の、生まれる瞬間のようなものが、すーっと浮かび上がってくる。
 最終連も、とても好きだ。

プラグとは関係なかった

 「関係なかった」。これも「それからしばらく」を言い直したものである。「考えもしないし/何も見なかった」を言い直したものである。(石川は「文学の約束事」をていねいに守っている。)
 関係がないものに、むりやり関係など結びつけない。間に「空白」を「中断」を挟んだままにしておく。そういうふうに、空白や中断があっても世界は世界として存在する。
 それは「プラグ」を抜いても「機能停止」にならなかったことの言い直しであると言えば言えるけれど、そんなふうに石川の言語世界を二重化して「意味」という重力で立体化する必要はないだろうと思う。
 石川がせっかくほうりだした「空白」「中断」を、「しばらく」何もしないで見ていればいいのだという気がする。



 この詩を引用するとき、私はある3行をわざと省略した。その3行には「意味」がこめられていて、それが私には窮屈に思えたからである。
 石川はもしかするとその3行をこそ書きたかったのかもしれないが、その3行は読者がかってに想像すればいいものであって、書いてしまうと石川の考えを押しつけているような気がしたからである。
 どんな3行が、どこに書かれていたか、気になる人は「tab」を読んでください。

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入沢康夫と「誤読」(メモ24)

2007-05-19 11:41:17 | 詩集
 入沢康夫『「月」そのほかの詩』(1977年)。
 「碑文--一九七〇年の死者たちに」。最初の断章におもしろい部分がある。

       その赤い毛がわれらの心にみるみる降りつ
もつて縦横にみみず脹れを作るのだが 熱病の鶏たち 自
らの糞に汚れた鶏たちは 今度はそのみみず脹れを啄まう
として夢中でかけまはり

 「みみず脹れ」を鶏がついばむ? 鶏はミミズをついばむことはあっても「みみず脹れ」をついばむことはない。「みみず脹れ」からミミズへと意識が動くのはことばで考える人間だけである。
 ここに書かれているのは簡単に言えばことば遊びだが、その遊びのなかには、入沢がそのことば遊びを書かずにはいられない理由がある。

 ことばは現実をとらえるのではなく、ことばは現実を間違えてしまうきっかけとなって働く。「誤読」「誤解」はことばによって起こる。ことばなしには「誤読」「誤解」はなく、その「誤読」「誤解」のなかには人間だけが可能な何かがある。
 現実を離れ、夢想する力、想像する力。
 想像力を定義して現実をねじまげる力と読んだのはバシュラールだったが、現実をねじまげて、ありえない世界をつくりだす力のなかには何かがある。人間の本質のようなものがある。そういうものを入沢は見据えている。

 入沢自身の作品のなかから、この「想像力」について語った部分を引用すれば、「それ故」という断章のなかの次の部分だろうか。

                  もしもこのやうな
時にわれらが一枚の布を得てそこに未知の惑星と死んだ友
人たちの淋しげな影を強引に織り合わせ さうすることに
よつて一人の《嘆きの母親》を浮き出させようとしてゐる
といふならば

 布は糸を糸を織り合わせてつくる。ある布に糸以外のもの、「未知の惑星と死んだ友人たちの淋しげな影」を織り合わせるというようなことは現実にはできない。どんなに「強引」にこころみても、そういうことはできない。それはことばのうえで、想像力によってのみ可能なことである。したがって、その結果として(「そうすることによつて」と入沢は書いている)、「《嘆きの母親》を浮き出させ」るというのも、ことばの上でのことである。
 ことばはいつでも現実ではできないことを語ることができる。
 なぜだろう。
 なぜ、現実ではないことを語りうるのだろうか。実際に見たこともない、体験したこともないのに、それがありうるとなぜことばは語りうるのだろうか。現実にはありえない夢想を語るとき、ことばは何を根拠にしているのだろうか。
 根拠になるのは自分の願望である。夢である。自分にはできないけれど、そうあって欲しいと思うこころである。その願望、祈りの強さを根拠にして、人は現実にはありえないことを語る。
 そうであるなら、「誤解」「誤読」によってつみかさねられることば、その結果として浮かび上がる世界は、やはり人の願望、祈りによって支えられていることになりはしないか。

 「誤解」「誤読」の指摘は、そうした「誤解」「誤読」を否定するため、現実へと認識を軌道修正するために必要なのではなく、「誤解」「誤読」のなかから、人間の根源的な願望、祈りを明確にするために必要なのだ。
 人間の根源的な願望、祈りは、権力を持たない人間の内部に「誤解」「誤読」の世界を構築する。そうすることで人間の願望、祈りを守ろうとする。「誤解」「誤読」は人間にとって絶対的に必要な「聖堂」のようなものである。「誤解」「誤読」という「聖堂」のなかで、人間はこころを育ててゆく。
 その「聖堂」のひとつが、たとえば「詩」と呼ばれる文学である。
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入沢康夫と「誤読」(メモ23)

2007-05-18 14:38:05 | 詩集
 入沢康夫『倖せ それとも倖せ 続』(1971年)。
 「誤解」ということばは一般的にどうつかわれるだろうか。正しく理解されないこと、正しく理解していれば、その結果として間違いをせずにすむ、というふうにしてつかわれると思う。ところが入沢は違ったふうにしてつかう。
 「鬼百合の花粉 あるいは虎の行動」。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり

 入沢の論理にしたがえば、人生の意味を「誤解」すれば、人間は投身(自殺)をしなくてすむ。世の中には投身自殺する人間よりも、投身自殺をしない人間の方が圧倒的に多い。世の中は、ほとんどの人間が人生の意味を「誤解」している。そして、のうのうと生きているということになる。
 だが、人生の意味を「誤解」するとは、どういうことだろうか。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり
 その一番奥には小さな滝
 猫の顔をした岩のこめかみを水はかけおりる
 水の精
 そんなものには 言うところの魔境アフリカ
 あそこだってお目にかかったことがないが その岩の裏側で 少くとも
 ソーダファウンテンの女店員が 心もち首筋から頬を蒼くこわばらせて
虎を待っているのだ

 「誤解」しなかった(できなかった)人間には大都会のなかの大湖水が見え、滝が見え、そこには虎もやってくる……。こういう現実は、実際にあり得るか。常識的に考えて、存在しない。
 入沢が書いていることは「逆説」なのである。

 「誤解」とは、自分自身の考えを中心にして、自分勝手に世界を読み解くことである。自分の都合にあわせて世界を解釈することである。そういう図太い神経(頭脳)を持っていなければ、世界を生き抜くことはできない、という逆説がここには書かれている。
 世界を自分の思考にあわせて組み立てなおし、その世界を押し通す人には、東京、人口一千万人の都市の中心にある大湖水は見ることができない。それを見ることができるのは、自分の考えて世界を組み立てなおすことのできない人間、自己中心的ではない人間、いわば繊細な詩人(?)だけである、という逆説がここには描かれている。
 だからこそ、繊細な詩人の見た風景は、こんなにも美しい……と入沢は描写を重ねる。
 だが、ほんとうだろうか。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり

 この2行こそ「誤解」ではないだろうか。「誤解」ではないという証拠はどこにもない。証拠がないことを、入沢は、詩という形式を借りて書き並べているだけである。そういうことができるのが詩であると言っている。

 詩とは「誤解」「誤読」をつみかさねたものである。「誤解」「誤読」をできる人間だけが手にすることができる世界である。そうした世界のなかで、入沢は「誤解することのできなかった」人間こそが真実の世界に出会うという「誤解」を書く。
 これもまた、入沢の「逆説」なのだ。
 誤解×誤解=正解ということばの数学を入沢は証明しようとしている。

 だが、こうした数式(数学)そのものも「誤解」(誤読)ではないとは、だれもいえない。これもまた「誤解」でありうる。

 何がいいたいのか。私は何がいいたいのか。

 ほんとうは単純なことである。ことばはどんな「数学」(数式)も書くことができる。そして、その書くという行為のなかに、その数学へのあこがれのようなもののなかに、詩がある。入沢はそういう詩をめざしている。
 ことばによってできあがる世界、その魔法のような不思議な世界ではなく、そういう世界を構築する構造そのもののなかに詩があると入沢は感じている。世界そのものではなく、世界の構造そのものに詩を感じている。ことばが、そういう構造をつくりうるということに詩を感じている。

 私を攻めるためにここに集っておられる諸君よ
 君たちの怒りは出発において当を得ておるにせよ その対象の選択にお
いて誤解ありと言わざるを得ない

 私はなんだか楽しくなって、この部分で笑ってしまう。
 入沢のことばが描き出す世界、その表層のきらびやかな形に詩があるのではなく、その世界を支える構造に詩がある。入沢は繰り返し繰り返し、そう語っている。
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内田良介『アルカディアの木』

2007-05-18 10:55:52 | 詩集
 内田良介『アルカディアの木』(七月堂、2007年03月28日発行)。
 「あとがき」の文章が美しい。車のフロントガラスに衝突してきた鷺を描いている。

鷺はゆっくりと頭をめぐらせ、ぼくを一瞥した。それは不思議な眼だった。一切の余剰をそぎ落とし、生き続けることにのみ費やされてきた、ある尊厳さを湛えていた。(略)しばらく辺りを見回したのちに、すっとそらに舞い上がっていった。どんな感慨も湧かないほど一瞬のことであった。

 「どんな感慨も湧かない」。空白を空白のまま残す清潔さが光っている。気に入って、三度読み直した。

 この「あとがき」に通じる世界が「異端の頌歌(ほめうた)」のなかに出てくる。

あなたは一斉に立ち上がり
すべての内に生きて動いている
一本の弦を過去から未来に向かってふるわせる
そしてぼくのなかからあなたを目覚めさせる

こうしてぼくらは出会い
幻の主客は消える

 「主客は消える」。この瞬間の美しさ。「一」は「多」のなかにあり、「多」は「一」である。そして「多」は「他」であり、「他」との一期一会のなかで、「我」は「他」に目覚めさせられる形で「我」に出会う。「他」に出会うことは「我」に出会うことである。
 この瞬間「感慨」はたしかにあるのだが、それはことばにならない。
 ことばにならないものは、ことばにしない。それでは文学にならない、という批判もあるかもしれないが、ことばにならない感慨をことばにしないまま、大事に抱き締めるということも大切なことだろうと思う。
 今はことばにならないが、いつか、別の機会に、別の「一期一会」の瞬間に、今の「一期一会」が重なり、その瞬間に思いもかけなかったとこばとして浮かび上がってくるかもしれない。そのときまで待ってもかまわないのだ。そういう「待つ力」を、「どんな感慨も湧かない」ということばに感じた。出会いを大切にする力を感じた。

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入沢康夫と「誤読」(メモ22)

2007-05-17 22:41:45 | 詩集
 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。 「『声なき木鼠の唄』のための素描」。その「一 声なき木鼠の唄の断片」と「二声なき木鼠の唄の来歴」はおもしろい関係になっている。 「一」の最初の部分。
  1 密通 呪詛の来歴と呼ぼうと実現の笑い--苦い笑い。   2 将棋 天空を盤面とし、雲を駒として、雨至らば即ち止む。
 「二」の最初の部分。
呪詛の来歴と机に降り積つた羽毛との間で 憎しみと苦しみをむしろ意志的に失つて来た眼 それは天空を盤面としてその周囲に木炭で番号を逆に書きつけていくこと
 「一」で書かれたことばが「二」でもう一度つかわれている。ただし、そのとき「二」は「一」を踏まえているわけではない。 「一」を「誤読」して「二」が誕生している。いや、これは「誤読」をとおりこしている。 ことばはそれぞれ文脈を持っている。だが、そのことばを文脈から切り離してもことばはことばとして存在する。その独立して存在する力を利用して、文脈は捏造できる。「来歴」ということばを入沢はつかっているが、それは「文脈」を「ことばの過去」ととらえるからであろう。  「来歴」ということばに触れながら、私は、ふと三島由紀夫を思い出した。三島は「文章読本」のなかで芝居のことばと小説のことばの違いを説明していた。小説は「地」の部分で登場人物の「来歴」(生きてきた過去、今、ここにいることの理由・背景)を説明することができる。ところが芝居には「地」の部分がない。せりふで「来歴」を説明しなければならない。芝居のせりふのなかには、その人物の「過去」が必要だ。芝居のせりふでは、常に過去を語りながら現在を語り、そうすることで未来へ進んで行かなければならない。 その三島の論を借りていえば、入沢の「二」(来歴)は、「一」という「過去」の断章を取り込みながらことばを突き動かし、時間をつくり出しているのだから、これはことばの、ことばによる、ことばのための「芝居」なのだ。 芝居とは、ようするに見せ物である。見せ物には仕掛けが必要だ。「一」という過去を「二」のなかに取り込むという仕掛け--仕掛けがわかるように、実際の詩集では、「一」から引用された部分はゴシックで書かれている。仕掛けを見せながら、入沢はことばを動かしている。  だが、ほんとうだろうか。  入沢は、もしかすると仕掛けそのものを見せたいのではないのではないのか。ことばがどこかへ動いてゆく、ことばはどこへでも動いてゆく力を持っている--ということよりも、ことばは仕掛けによって動いてしまう、仕掛けこそがことばのほんとうの力なのだといいたいのではないのか。  仕掛けが「誤読」なのだ。「誤読」するとき、ひとは無意識に仕掛けをつくっている。入沢は、それを無意識ではなく意識的につくる。無意識を常に意識する。無意識こそが意識なのだ。意識のピュアな姿なのだ。仕掛けを明白にすることで、入沢は、そうしたことを「逆説的」に語ろうとしている。
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アンソニー・ミンゲラ監督「こわれゆく世界の中で」

2007-05-17 21:14:58 | 映画
監督 アンソニー・ミンゲラ 出演 ジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ、ロビン・ライト・ペン、ラフィ・ガヴロン

 ジュリエット・ビノシュにただただみとれてしまう。途中まで出て来ないので、なんだかまだるっこしいがジュリエット・ビノシュが出て来たとたんにスクリーンに奥行きが出る。空間の奥行きではなく、時間の奥行きである。映画や芝居は小説と違って「説明」がない。登場人物はそれぞれ過去を背負っている。小説は、それをことばで「説明」ができる。この映画の場合なら、ジュリエット・ビノシュは実はボスニアの難民であって、国を脱出するとき、こんな苦労をしたと「説明」ができる。ところが映画では、そういうことは「せりふ」でやらなければならない。しかも「会話」として自然な形でおこなわなければならない。当然、そこには「ことば」にはできないこともあるわけで、そのことばにできない部分(ことばにしたくない部分)をどうやって肉体で表現するか。ジュリエット・ビノシュはそのこと、ことばにしたくない部分を肉体でつたえること、過去を肉体そのものでつたえることに長けている。
 肉体といってもいろいろある。目の色(輝き)の変化。顔の「はり」と「かげり」の対比。また、着ている洋服、下着……。その着こなし。肌へのなじませ方。そういうものもジュリエット・ビノシュは巧みだが、他の女優と違った肉体がある。
 映画の途中でジュード・ロウがジュリエット・ビノシュの顔について「唇を目をつむってでも描ける」というようなことを言う。ジュリエット・ビノシュはたしかに唇で語るのだ。ことばにならない声、ことばを求めて無意識に動く唇の形--そういうものを感じさせる。目が人間の顔をつくるのはよく言われることだが、それに加えて、ジュリエット・ビノシュは唇が語る。こころが、唇までかけのぼってきて、そしてことばを発することなく引き返してゆく。ジュリエット・ビノシュの唇は、声を出すための「道具」ではなく、こころを浮かび上がらせる何かだ。
 脚本家が発見したのか、監督が発見したのか、いずれにしろ映画をつくっている誰かがジュリエット・ビノシュの唇を発見し、それをスクリーンに映像とことばで定着させた。そのことを確認するだけでも、この映画は見る価値がある。

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