詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中慎弥『共喰い』

2012-02-12 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
田中慎弥『共喰い』(集英社、2012年01月30日発行)

 田中慎弥『共喰い』を読みながら中上健次を思い出した。暴力とセックスが書かれている--という単純な理由によるのだけれど。で、それではどこがほんとうに似ているのか、と考えはじめると、全然似ていないことに気がつく。中上健次の文体は短いくせに粘着力がある。田中慎弥の文体には、粘着力というより、淀みがある。そして、その淀みがおもしろいと思った。田中は「淀み」とはいわずに「滞り」と書いているが、その「滞り」が田中の肉体(思想)だと感じた。
 カタツムリの描写がある。46ページから47ページにかけてである。

 乾いた空気に晒された濡れ縁を大きな蝸牛(かたつむり)が這っている。なぜ日差の下にそんなものがいるのか分からない。円い殻の移動を、遠馬は見つめる。夢でも見間違いでもない。この川辺に流れ、時々滞りもするする時間というものを見つめていることになるのかもしれないと思ったが、どう見方を変えても、それはやはり右向きに巻いている殻と、柔らかいのに噛めば歯応えがありそうな肉でしかない。触覚の輝いている先端がはっきり見えるのは大きいからでもあるが、間近で見ているからでもある。(略)自分が仁子さんのように川辺に残るのか、琴子さんを真似て出てゆくのか、琴子さんがいなくなったことを父が知ったらどうなるのか、千種とはいつになったら元通りに会い、セックスできるようになるのかを、そういうことといっさい関係ない蝸牛の鈍い足取りを見つめながら考える。

 「滞り」とは何か。引用部分の最後のことばがとても印象的である。
 「そういうことといっさい関係ない」--無関係なものが、「いま/ここ」に存在し、そこで立ち止まる。中上のことばにはこういうことはなかったと思う。(しばらく読んでいないので、記憶で書くのだけれど。)
 「物語」(時間)を動かすのではなく、動いていくことを邪魔する。その瞬間、その動かない部分が濃密になる。これがおもしろいと思った。中上の場合は、動く時間が濃密になる。動きのなかから「濃密」が射精のように噴出してくる。
 そして、それは関係がないのだけれど、その関係がないものの存在を通らないと「考え」は存在しない。そのことを田中は書いている。

 この小説は、セックスしながら女を殴る父と、その父の血をひく主人公の関係を中心に物語が進む。父と子は、父子の関係があるといえばいえるけれど、ひとりの男と男であり、独立した存在である。無関係である。たとえば父が女を殴ろうが主人公の責任ではない。息子が女を殴ろうが父の責任でもない。それが現在の社会の「法律」の制度である。
 そういう「無関係」を、あえて「関係」として通過することで時間を滞らせ、「いま/ここ」を濃密にする。
 --なんだか、こんなふうに書くと「むりやり」ことばを動かしている。ほんとうは逆に書いた方が田中の世界に接近できるのではないか、という気がしてくるのだけれど、それでも私は、いま書いているように、逆説的に、わざと変なふうに書きたいのである。
 たぶん、そう思うのは、この小説があまりにも「古い」というか、「小説的」すぎるので、変な気持ちになるのだ。時代が逆流している感じがする。中上健次を思い出したのも、時代の逆流という印象があるからだ。
 その「逆流」から、ふつうの流れ(?)に戻るためには、何か、逆説的なことばを通らないと、考えが動かない。ことばが動かない感じがするのだ。

 「無関係」を「関係」にさせる。関係ないものを通りながら、自分を考える。
 それは、なんといえばいいのだろう。たとえば、現代は「親子(家族)関係が稀薄」といわれる。「稀薄」は「無関係」は違うけれど、まあ、「無関係」と考えよう。その「無関係」な親子(家族)を、どれくらい希薄か(無関係か)を描くのではなく、逆に切って捨ててしまった方が楽になるものをあえて関係させる。そうすると、そこに時間が停滞し、停滞したもののなかから、何かが立ち上がってくるのだ。
 それは、たとえば次のような具合だ。

「おんなじ目、しちょる言うそよ。もうちょいと、」と自分の顔を指差して、「こっちに似せて産んじょきゃあよかったけど、もう手遅れじゃわ。」(35ページ)

 母親が主人公に対して、「父親と同じ目をしている」と指摘する。父親と同じ人間であってほしくないと思うなら、そういうことは言わない方がいいだろう。同じであるということで、さらに同じになるのだ。似ていても、似ていない。無関係である--といいつづければ、そこから「断絶」がはじまる。関係が「希薄化」する。
 この小説の登場人物は、そういう考え方をしない。逆に、「無関係」を「関係」にするためにことばを動かす。ここから、すべてがはじまる。「滞り(停滞)」が、重力のように、あらゆるものを惹きつけ、ブラックボックスとなり、そこからビッグバンが起きる、という具合だ。

 28ページの、釣り上げたウナギの描写も、それに通じる。

細かく何度も合わせたからか、釘の両端が肉を突き破り、片方は顔を引き裂いている。はりすをくわえている深緑色の細長い受け口が光っている。絡みついた道糸を振りほどこうとして鈍くのたうつ。遠馬は自分が興奮し、下腹部に熱が集中してゆくのを感じる。初めて釘針にかけて釣り上げたためもあったが、裂けて、半ば崩れかけた鰻の頭を目にしたからだと意識する。

 「無関係」なのに、それを「関係」づけて「意識する」。「関係づける意識」がすべてを動かしている。裂けた鰻の頭に、殴られて傷ついた女の顔を関係づける。鰻と女は別個の存在なのに、関係づける。そうすると、その瞬間、鰻を処理する運動が「滞り(停滞し)」、女との時間が噴出してくる。そうして勃起する。
 ここには、なにかしら、不思議な「混同」がある。
 「関係」は「混同」をもたらし、人間の行動を不思議な形で支配する。「時間」をねじまげてしまう。
 この「混同」は、16ページに、この小説の「テーマ」のようにして、書かれている。

川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。

 ここで「時間」と呼ばれているものを、「親子(家族)関係」と読み替えてみると、テーマがはっきりする。

 もしいやなら遠回りしたり、つまり家族から遠く離れて、ひとりで暮らしたり、場合によっては人間はそれぞれ独立した存在だから血縁などは人格とは無関係であるということもできる血縁関係(家族関係)を、なんの工夫もなく一方的に受け止め、家族と一緒に暮らしてきたために、主人公は(あるいはその周辺の登場人物は)、父親の人格と主人公の人格を完全に混同してしまっているのだ。(混同するようになってしまったのだ。)

 うーん。わかりやすすぎる。「小説」らしすぎる。

共喰い
田中 慎弥
集英社
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誰か教えてください(3)(公開メール)

2012-02-12 11:52:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 「これが最後の私信だ。」と前回の武田肇のメールには書いてあった。しかし、最後ではなかった。ほんとうに面倒くさい人である。
 以下が武田からのメール。(1行あきなどは一部省略)

谷内修三へ最後の私信

ワカラン男だねェ。
「批評を書いたから御一読を」。ここまではいいのだよ。そもそも君にしてみりゃ頼みもしないホンを一方的に送られた立場だ。
自著を送る者への返礼として当然の文ともいえる。そのくらいのこと、若い時分の武田だって書いたかもしれない。
で、ブログを開けば・・・
「感想を書くのが面倒くさい」の一言で、君の「御一読を」が押し付けに一変するのだ。もっといえば、押しつけは作者へのストーカー行為にも等しいのだよ。
そればかりか、君の「面倒くさい」が、じつは、いいかね、じつはこれこそ君が君のブログ読者に向けて一番公言したいこと、要するに君の余裕を示すこれ以上の誇らしい言辞は無い、という君の文弱、貧しさなんだ。されば・・・
さらに言えば、凡百の寄贈本は君の野心を満たすための素材ってことにもなる。
ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。送られても無視すりゃいい。それが出来ないのも君の野心だ。
今回、質問が一つに絞られて、ラクだったがね。あとは雑誌を見てくれ。君にはワルイが、森川と言うオトコと谷内を一からげに、ちょっとした好読物に仕上ったと自負している。
2500人読者が待っていてくれる(城戸朱理が3000部と書いているが、現在は2500プラス予備)。ダシに使ってごめん。君にも深謝。ちなみに此処で一言。君が読んで決してイイ気分の記事じゃない。・・・
しかし、「船/岡山」。あれを指摘、もしくは注意されて意趣返しはないね。お陰で有名な話題になったよ。しかも、誤読をこれからも続ける? これはもっと笑っちゃう。いいか。
読み間違えなんざ、ちっとも恥じゃないんだよ。しかし、あの読み方をされては、作者の一分が立たねぇんだ。「ははーん、こんな解釈もあったんか。これもオモシロイな」の次元じゃねえんだ。立場を変えても、まだ分らんか?
そこで尻をまくるのが田舎モンの田舎芝居というんだ。だから・・・質問だの何だのと、言葉尻を何とか探してまでの延命保身は、もうやめれ。
以後、panchan は開かずに失敬する。二度も開いたんだ、感謝しろ。3月末には詩壇周知の記事だよ。それまでの辛抱。
武田

 理解できない点がいくつもある。全部書いていたらきりがないので少しだけ書いておく。私は武田の「船岡山」の句を読み間違えた。山の名前と気づかず、「船/岡山」と読んだ。そして間違えたまま感想を書いた。その後、武田から「間違えています」という指摘が電話であった。そのとき、私はその指摘に対して「ありがとう」と答えた。
 それが、どうしたの?
 そんなこと、「詩壇周知」になるからといって、何が問題なの? 「詩壇」って、武田の句を正しく読むかどうか、誰が誤読したかどうか、ということに、そんなに関心があるの? へえーっ、知らなかったなあ。武田の句を中心に動いている世界なのか。前回のメールにあった「詩人団体云々」も何のことかわからなかったけれど、「詩壇」「詩人団体」って、武田の句をどう評価するか、どう解釈するかをテーマに成立している世界なんですかねえ。知らなかったなあ。
 知らないついでに書くけれど。
 詩壇の「構成人員」って何人? 教えてもらえませんか? 「ガニメデ」を読んでいる2500人、3000人のこと? 武田が引き合いに出している城戸朱理はいつか「ブログの読者が1万人になったから、やめられなくなった」と書いていたから、その城戸の読者に比べると四分の1から三分の一が詩壇になるのか。城戸は詩壇をはるかに超える読者をもっているということですね。そうか、そして、そういう人が武田のことを正確に理解しているということなのかな?
 ふーん。
 よくわからなけれど、その2500人から3000人が、武田の「船岡山」の句を正しく解釈し、谷内は間違えて読んだという事実を「周知」するんですね。よかったですね。「船岡山」の句をきちんと理解してくれる人が多くて。
 私のブログは、コメントやトラックバックからわかるように、読者がほとんといません。1日に多くて数人かな? そのブログを2500人から3000人に紹介してもらえるなら、まあ、ありがたいことですねえ。読者の数と、私の「野心」は、あまり関係がないのだけれど、それでも私の考えていることについて、もし誰かが何かを考えてくれるというのなら、それはとてもうれしいなあ。
 もし武田の書く文章で、そういうことを思ってくれる人がいれば、ということだけれど。まあ、武田は私の批判を書くようなので、私のブログの読者は減りこそすれ、増えはしないということなのかもしれないけれど。

 「野心」といえば。
 武田はどう理解しているか知らないけれど、私の「野心」はひとつ。「ことばは肉体である」ということを「証明(?)」すること。ことばを肉体との「一元論」でとらえなおすこと。--これは、どうやったらいいのか、よくわからない。私のなかで「予感」のようにして、何かが動くけれど、うまくことばにならない。
 2500人か3000人のなかから、誰かヒントをくれないかなあ。そういう機会になればなあ、と願っています。
 --ということを含めて、「ガニメデ」に書いてもらえるととてもうれしいけれど、きっとそういうことは書かないでしょうねえ。

 それにしてもねえ。
 私は武田さんのストーカーですか? 句集の感想を書くことがストーカー? メールの返信を書くことがストーカー? 私は武田さんから句集をいただいたので感想を書きました。その内容は武田さんの気に食わなかった。だからストーカー? また、私は武田さんからメールが来たので返信を書きました。その内容が気に食わないから、ストーカー?
 なんだか変だなあ。私から武田さんに働きかけたのではなく、武田さんから働きかけがあったから、それにこたえただけ。そして、それが武田さんの気に食わない。だからストーカーというのか。
 さらに「ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。」だって。
 ね、面倒くさいでしょ? (これは、この「日記」を読んでいる読者への問いかけ。)

 でも、わからないのだけれど。
 1月26日に、私は「面倒くさい」ということばを含む感想を書いたけれど、そのことは武田さんにはお知らせしていません。年賀状で「感想を書きました」と書いたのは昨年の感想のことです。私はいま体調が悪くて、どんなはがきも手紙も書いていません。「1月26日の日記を読んでください」と書いたはがき(年賀状?)があるなら、それを見せてもらえませんか? 武田さんと私では、事実関係(時系列)が合っていない。事実を確認して話さないと、さらに面倒くさくなるだけ。


薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎
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南原魚人『TONIC WALKER』

2012-02-11 23:59:59 | 詩集
南原魚人『TONIC WALKER』(土曜美術社出版販売、2011年11月25日発行)

 南原魚人『TONIC WALKER』は日常との「ずれ」を「非日常」に託して書いている。その場合、非日常とは「比喩」である。たとえば「サンザシになるまえに」。

「暑いので明日から金魚になってはだめでしょうか?」
僕は部長にかけあってみた。
「うちの部では金魚は一人までと決められているからダメだ。」
僕の希望はすぐさま却下された。

 今月からシマモトさんが金魚になられた。デスクの上に置かれた氷の中をシマモトさんは泳いでいた。

 「金魚」が具体的に何の「比喩」かは説明がない。ただそれがいつもと違う何かであるということだけが示される。
 この非日常と「僕(南原、と仮定しておく)」はどう向き合うのか。

シマモトさんが金魚になられてから僕は彼女に見とれるようになった。僕は彼女のかつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。そんな時、僕の背筋に緊張が走り、一瞬背びれが浮き上がってくる。僕は慌てて背中を乾かす。

 非日常を「肉体」で具体的に言いなおすところがいい。「かつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。」こういう部分は肉体をとおして、非日常が日常にかわる。非日常なのに「うなじ」というひとことが金魚と人間を結びつけてしまう。
 だから「好き」という感情も肉体のなかで動く。
 そのあとの「彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。」も「好き」という感情ととても緊密な関係にある。
 こういうとき日常と非日常があいまいになり、ふわーっと、その世界に誘い込まれる。いいなあ、と思う。
 しかし、南原のことばはときどき説明的になりすぎる。それが日常と非日常の境目をぎすぎすさせる。非日常を強引に「ストーリー」にしてしまう--ストーリーを目指してことばを動かしすぎるのかもしれない。ことばにとって(詩にとって)ストーリーはどうでもいいものなのだけれど、ストーリーにしないと南原の気持ちが落ち着かないのだろう。
 「僕の背筋に緊張が走り」--この「背筋に緊張が走り」が「流通言語」の「比喩」。で、それがストーリーを推進するのだけれど、私には、いやあな感じがする。いやな感じが残る。あ、ストーリーになってしまう。だから「一瞬背びれが浮かび上がってくる」という魅力的なことばさえも、何だか汚れたものに感じてしまう。「背筋に緊張が走り」がなくて、「僕の背中に背びれが浮かび上がってくる」と直接ことばが進んでいった方が、肉体には説得力があるだろうと思う。
 
 いったんストーリーに引っ張られると、ことばは「結論(結末)」を求めてしまう。それも、なんだか残念な気持ちにさせられる。
 「翌朝、僕がオフィスに出社すると氷が割られていた。」そして、その底の方にシマモトさんが口をパクパクさせている。

誰か心無い人間がヒマモトさんを恨めしく思ったのだろうか。それとも、誰かが優雅に泳ぐシマモトさんに発情したのだろうか。僕はシマモトさんを抱きしめたくなった。

 「感情」がすべて説明され、肉体化されていない。ことばは「結末」へ急ぎすぎている。肉体を迂回することでほんとうのストーリーが、つまり詩の内部の迷路が豊かになるのだけれど、南原はその機会を自分で壊している。

 僕は出来るだけ優しくシマモトさんを掌ですくいとり近くの河に彼女を放流した。僕はヒクヒク泣きながら会社に戻らず地下鉄に乗った。

 ことばは日常に戻ってしまう。南原は会社にもどらないことによって日常から違う世界へ行ったつもりかもしれないけれど、それは「敗北」という名のいちばん簡単な日常のようにしか私には見えない。
 もっと肉体にこだわれば世界は変わるのに、と思った。「恨めしい」とか「発情」とか、簡単な「流通言語」に頼らずに、そのことばを肉体で回避する(肉体にくぐらせる)とおもしろくなるのに、残念だなあと思った。



詩集 TONIC WALKER
南原 魚人
土曜美術社出版販売
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誰か教えてください(2)(公開メール)

2012-02-11 11:39:43 | その他(音楽、小説etc)
 きのう「誰か教えてください」という「日記」を書いた。
 そのあと、武田肇さんから、再びメールが届いた。「まさか返信が来るとは」というタイトルがついていた。
 何が書いてあるのか、よくわからない。
 短い返信を書いたが、そのとき書かなかったことを含めて、少し書いておきたい。引用部分(字下げ部分)が武田のメール。それ以外は私のことば。

谷内修三へ最後の私信

まさか返信が来るとは思っていなかったね。これは意外だった。よほど知名度が欲しいらしい。ちと薬が効き過ぎたようだ。

 武田さんは何を期待して、どんな薬を処方したのですか?
 私は武田さんの書いていることは、私に対しては無効ですよ(薬が効きませんよ)という意味でメールを書きました。
 「知名度」ということばを武田さんはつかっていますが、私はもちろん誰にも知られていません。ブログの閲覧者は限られています。コメントを寄せてくれる人もほとんどいません。
 でも、武田さんにメールを書くと知名度が上がるのですか?
 どんなふうに?

蒼い顔をしながら相手の「怒りのメール」も「非難」も受け入れない頑迷さには、周到なインテリジェンスも年齢相応のユーモアも余裕のかけらもない。

 「怒り」「非難」を受け入れないも何も、私には武田さんの書いていることがわかりません。武田さんのことばを借りて言えば「インテリジェンス」がないということになります。私のことばで言いなおせば、私と武田さんでは共通することばがありません。

武田は自分が気に入るような評を望んでいると思うのか。毀誉褒貶は当然だろう。それこそ君の書きたいように書けばいい。誰も邪魔はせぬ。

 私は書きたいように書いています。
 武田さんにじゃまされたとも感じません。
 じゃましたつもりなんですか?

そもそも歌枕という自明の読み間違いを著者から正された時、何故それをひとまず率直に受け入れて、陰で舌でも出せないのかね。それをそうせずに開き直る。成熟したオトコの弁じゃないね。

 「船岡山」の句に対して、私は武田さんの指摘を受け入れませんでしたか? 私は「船/岡山」と読んだけれど、「船岡山」という山というのが武田さんの指摘だったと記憶しています。
 私はそのことに対して、自説を再度書くというようなことはしていません。「船/岡山」と読むのが正しいと、その後、どこかで私が書きましたか? 武田さんは、それをどこで読みましたか?
 武田さんから電話で指摘を受けたとき「ありがとうございます」と言ったと思いますが。

あろうことか、公器ともいえるブログ上で「感想を書くのが面倒くさい」「読みたいように読む」とエラそうに開き直る。駄々をこねてまで正当化する。「読め」と幾度も催促しながら何という大人気ない方便かね。

 感想を書くとき、この感想を書いたら武田さんはどう思うか。私の読み方は武田さんの意図にそっているかどうか確認してから感想を書かなければならないのだとしたら、それは私には「面倒くさい」ことです。
 だから、私は読みたいように読み、読んだ通りに感想を書きます。
 それ以外のことはしません。

甘ったれるな。根こそぎ軽蔑する。言い訳に言い訳を重ねては、自分から人格を貶めていることに気づかない。

「この作品はこう読んでもらいたいという「主張」があるのなら、それを明記し、そう読んでくれる人だけに読んでもらえばいい」?

そんな気弱でオメデタイ著者がいたら見てみたいものだ。「私は誰の作品も、同じように勝手に誤読します」? 良い歳をして、今度は文学論が無いとの宣言か。それならそうと、君こそ「日記」の大前提として万人を前に掲げておくべきだろう。結局は武田にくさされて、行きがかり上自分の大事な文学論まで公然と修正する始末だ。まあ、尤もこれは気味がよいがね。

 私は武田さんに「くさされた」とは感じていません。
 私自身の「文学論」も修正していません。
 どこを、どう修正したと武田さんは感じたのですか?
 具体的に指摘してください。

田舎者の木の葉天狗だ。陰湿で稚拙で文弱の野心家で、だから詩人団体を切る勇気も無い。

 私は田舎の生まれだし、田舎に住んでいます。
 で、私の「野心」というのはなんですか? 私は書きたいことを書きたいと思っています。それが野心なら、その野心のどこに問題がありますか?
 武田さんの考えに合わないこと?
 私の考え方に合わない人なら、たくさんいると思うけれど、なぜ、私が武田さんの考え方にあわせなければならないのか、それが私にはわかりません。
 「詩人団体を切る勇気」とはなんのことでしょうか。
 私とどの詩人団体との間に問題があるのですか?
 どこかの詩人団体が私のことを批判していて、それに私が反論しない?
 私はあいにく、そういう批判を聞いたことがありません。
 また詩人団体の活動についても熟知しているわけではありません。どこかの詩人団体で、何か批判しなければならないような主張をしているのですか?

今回たまたま武田によって暴き出された(今や内心悔いているのはワカル)、己の劣悪で歪んだ性向から出た、いわば狭い谷内状況内の事情だけを主張するのに、持って回った屁理屈に縛りつけられて、「非難を楽しみにしている」の智恵の無さで嗤ったよ。可哀想なオトコだ。

「楽しみにしている」と言った以上、G誌は京都の三月書房に注文したまえ。必ずそうしたまえ。それが、もうすでに「読む機会」があるのないのと、場当たりのせいにして怖がっている。あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。G誌を読んで、君の公器で弁解しろ。

 私は何も悔いていません。何を悔いる必要があるのですか?
 私は武田さんのように、いろいろな文学知識を持ち合わせていません。だから、武田さんがひとつのことばにこめた意図を読み違えることはあります。これは武田さんの作品だけでなく、誰の作品に対しても同じです。
 私は私の知っている範囲でことばを読み、私の感想を書きます。
 そのとき、間違ったまま、筆者の意図とは無関係なことを感想に書くことはあります。これは、どうすることもできません。
 私は「ガニメデ」(なぜ、武田さんは「G誌」と書いているのですか? タイトルをかえたのですか?)を注文してまでは読みません。そんなことをするのは「面倒くさい」。「読みたい」というのは単なる「社交辞令」の類です。「読みます」さえも「社交辞令」で言うことがありますけれどね。
 武田さんは「あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。」と書いていますが、私の感想は、武田さんから句集いただいたから、書いたものです。私が自分で句集を買って、感想を書いたものではありません。送ってくださいと依頼したこともありません。
 武田さんが私に句集を送るのは「押し付け」ではなく「寄贈」であり、私が武田さんに感想を書きました、読んでくださいというのは「押し付け」になるようだけれど、ふーん、そうなんだ、と思うしかないですねえ。
 武田さんから貴重な句集をいただきました。ありがたく拝読しました。読み方で間違いがありましたら、ご指摘下さい。読み方を間違えて申し訳ありませんでした。--という具合に、武田さんと向き合わないといけないのかもしれないけれど、これはほんとうに面倒くさい。
 私は誰に対しても、そういう向き合い方をしたことがない。
 私はいただいた詩集や詩誌の感想をブログで書いています。これは返礼を手紙・はがきで書くかわりにしていることです。書いたことを年に一度、詩集などを送ってくれた人に、ここに感想を書いていますとお知らせしています。それが「押し付け」と感じるのでしたら、読まなければいいでしょう。

安心したまえ。これが最後の私信だ。眠くなった。

武田

 武田さんからのメールがくることが、私にとって不安? 私は武田さんのメールに不安を感じないといけないんですか? こないとわかったら安心しないといけないんですか?
 武田さんのメールは脅迫状だったんですか?
 私は鈍感なので、そういうことはまったく感じなかった。
 「これが最後の私信だ。」がほんとうかどうか、まあ、楽しみです。





薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎
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池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」

2012-02-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」(「歴程」578 、2012年02月01日発行)

 池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」はつづけて読むと、一瞬区別がつかなくなる。池井の詩はひらがなで書かれており、行分け詩の形をしている。粕谷の詩はいわゆる散文詩である。形は明確に違うのだが、そして題材も違うのだが、うーん、似ているなあ。
 池井の作品を引用する。

かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
すりがらすまどしまっており
まどのなかではだれかしら
まだやすらかにまどろんでおり
それをだまってみつめている
けさもだまってみつめている
でんしゃはづぎのえきにつき
おおぜいひとがのりおりし
でんしゃはつぎへそのつぎへ
ながれつづけてゆくけれど
かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
むむりやまないまどのなか
みんなだまってみつめている
だれかのゆめのさめるまに
でんしゃはつぎのそのつぎへ
だれのゆめともしらぬまに

 柿の木がある。窓があり、そのなかには誰かがいる。それを柿の木は見ている。--というのは、もしかしたら、誰かの夢かもしれない。あるいは柿の木の夢かもしれない。電車が走り、時間がすぎるけれど、その誰かと柿の木の関係はかわらない。そして、そこに永遠がある。
 
 粕谷の詩はどうか。女と男と白狐が出てくる。後半部分。

     男は、一晩中、夢中で、芒ばかりの野原を這
いまわっていたという。いや、途中で、いきなり、男の
目の前に、女が現れて、頭に小石を乗せて、宙返りした
途端、一匹の白い狐になったともいう。
 狐は、頭に小石を乗せて、もう一度宙返りすると、ま
た、観音さまのように美しい女になったそうだ。
 何れにせよ、月並みに、一生を永い旅路と考えれば、
道中で何があってもおかしくない、その一生で、たとえ、
自分の女房が、芒ばかりの野原で初めて出会った、正体
はよく分からない女だったとしても、どうでもいい。
 遠い永遠の三日月に見守られて、優しく睦み合って、
生涯を終ることができれば、何一つ、文句はないのだ。

 粕谷の作品では男と女がいれかわることはないが、そのかわりに「睦み合う(セックス)」が書かれる。セックスは、互いの肉体とこころが入れ替わることだ。相互が行き交うことだ。そして、その相互の行き交いのなかに永遠が姿を現わす。

 永遠は、池井にとっても粕谷にとっても、どこかに存在するものではなく、存在がたがいに交流し、入れ替わるときに、その運動のなかにあらわれてくるものなのだ。


遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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誰か教えてください。

2012-02-10 18:52:36 | 詩集
武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』(2)(銅林社、2011年12月16日発行)

 01月26日に武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』の感想を書いた。
 気に食わなかったらしい。02月10日に、怒りのメールが来た。
 とてもおもしろいので、公開します。私の考えを書いておきます。このブログの私の感想の姿勢を明確にするためにも。

谷内修三へ

 今度のブログは下劣の一言。

 賀状に再三「感想を書いたから読め」と押しつけておいて、読めば万葉や古今集の歌枕も知らぬトンチンカンの読み違え。それを慇懃に注意すれば腹イセに作者の事情等知ったことかと開き直る。あまつさえ、「面倒臭い」「読みたいように読む」?

あいにく武田は他の大人しい著者とはちょっと違う男でね。全体ナニサマかね。次号のガニメデで完膚なきまで君の無礼を非難する。そもそも自分の日記を「読め」のオメデタイ三枚目までなら見逃すが、今回のブログに舐められるほど武田は人がよくない。少年句の読みは、あれは何だ。口に出すのも憚られる品性下劣の「感想」に、切れた。きょうは、以上。

武田肇

 私は次のように返信を書いた。

怒りのメール、わざわざありがとうございます。

私は誰の作品も、同じように勝手に誤読します。
いただいた本の感想は、できる限り書きます。
でもそれは、武田さんに気に入ってもらうためではありません。
著者に気に入ってもらうために、思ってもいないことを書いたりするつもりはありません。
そんな面倒くさいことはしません。
武田さんが、この作品はこう読んでもらいたいという「主張」があるのなら、それを明記し、そう読んでくれる人だけに読んでもらえばいいのではないでしょうか。
武田さんの非難を楽しみにしています。
「ガニメデ」を読む機会があるかどうか、わかりませんが。

                              谷内

 ほかの人はどうか知らないが、私は、私の書いた感想を筆者がどう読むかを気にしたことがない。筆者に気に入られたくて感想を書いているわけではない。自分はこう思ったと書くしかない。そのとき、私はたくさんの間違いを犯す。私の知っている範囲で私のことばを動かすから、対象が私の知らないことの場合、どうしても間違える。それは私は仕方のないことだかと思っている。間違いを犯さないために何かを勉強してから感想を書けばいい、勉強が終わるまで感想を書くべきではない--という人もいるかもしれないけれど、そんなことはしていられないなあ。
 いただいた本を読むために、何かを勉強をしているわけではない。著者の「試験」を受けるために、本を読んでいるわけではない。私には私の関心ごとがあり、その範囲で自分のことばを点検している。
 私の「読み方」が間違っていたなら、それは私のことばが著者のことばの領域と重ならなかったためである。それは私がものごとを知らなすぎるからかもしれない。でも、どうしようもない。あ、間違えたんですね。ご指摘ありがとうございました、というしかない。
 こういう態度を「開き直り」というらしいが、まあ、そうだねえ。私はいつでも開き直っている。知らないことは知らない。知っているとは言わない。

 それはそうとして。

 私の武田の「少年」の句に対する感想は「口に出すのも憚られる品性下劣」というのは、よくわからなかった。以前「船岡山」の句を読み違えたときは、具体的な指摘があったが、今回はどういう指摘なのか、私にはわからない。
 問題の句は、

少年が春の厠に香を残し

 それについて、私は次のように書いた。

 この句も、「意味」が強すぎる。射精の、精液のにおい。それと「少年」「春」「厠」が近すぎて、オナニーの「意味」が噴出してくる。鼻で感じる前に、そして肌で感じる前に「頭」が動いてしまう。--これは私だけのことかもしれないが。

 武田がどういう「意味」(感情)をこめて句を書いたのか、わかりかねる。私は少年が厠(トイレ)でオナニーをした。そのときの射精のにおい(精液のにおい)がトイレに残っていると思って読んだ。
 で、どこが「口に出すのも憚られる品性下劣」なの?
 私はトイレでオナニーをしたことがある。オナニーを覚えたばかりのころというのは、どこででもオナニーをしてしまう。そういう少年は武田に言わせると「品行下劣」なのかなあ。私には、ありふれた行いにしか思えない。
 私は田舎育ちなので、そのころのトイレはくみ取り式。糞のにおいがそのまましてくる。でも、精液のにおいは糞のにおいよりも強く鼻を刺激してくる。そのにおいを思い出すことは、品行下劣?
 少年のころは、挿入とか膣とか月経とか、あるいは勃起ということばを辞書で見つけてオナニーをしたことがあるが、それって品行下劣? あることばからセックスに関して連想すれば品行下劣?
 だいたい文学において品行って何? 下劣って何?
 何を書いてもいいのが文学だと思う。それをどんなふうに読んでもいいのが文学だと私は思っている。セックスについて書いてなくてもセックスについて書いてあると思っても構わないし、セックスについて書いてあるのに精神世界を書いてあると思っても構わないと思う。
 いろいろなセックス、オナニーに関することばを読み、これは好き、これは嫌い、これは興奮したと書いて何か問題があるのだろうか。
 ちなみに、私はオナニーに関して言えば勝新太郎が言ったことばが大好きである。「俳優はナルシストでなくてはいけない。おれは鏡に映った自分を見てオナニーができる」。すごいねえ。これ。かっこいいと思う。このことばを知ったのは勝新太郎が死んでからなので、あ、こんなかっこいいことばを吐く役者なら、もっと映画を見ておけばよかったと思った。

 脱線してしまった。
 さて、

少年が春の厠に香を残し

 は、どう読むべき句なのだろうか。どんな高尚な思想がここに書かれているのだろうか。私はさっぱりわからない。
 誰か教えてください。



ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎
コメント (4)
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北川透「記号」ほか

2012-02-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「記号」ほか(「歴程」578 、2012年02月01日発行)

 北川透「記号」は「夢遊譚 六片」のなかの一篇。夢なのだから、これ、何? わけがわからないじゃないか、という部分があるのがおもしろいと思うのだが、この「記号」だけは、わかるわけではないのだが、うーん、と考え込んでしまった。
 原文は行頭が書き出しから一字ずつ下がっている体裁なのだが、ここでは行頭をそろえて引用する。(原文は「歴程」で確認してください。)

橋は流れた
野原や田畑の上や学校の教室の中を
ビルの谷間や商店街の中を
橋は時と場所を構わず 無差別に流れた
橋はひどく傷つき 折れ曲がり
砕けて一本の錆びた釘となる 棒千切れ
コンクリートの破片となる
一筋の記号となる

 私が、うーん、と考え込んでしまったのは最後の一行である。「記号となる」。うーん、「記号」でいいのかな?
 「記号」とは何だろう。
 北川の他の詩集と連続させれば特別な「意味」が浮かび上がるかもしれないが--記号は私にとっては(私はいつでも、どんな作品でも「私にとっては」--つまり「誤読」の対象なのだが)、具体(肉体)の対極にあるものだ。
 簡単な例でいうと、たとえば999角形と1000角形がある。その具体的な形は、私は手では書けない。四角形、五角形なら書けるが。つまり999角形、1000角形というのは、私にとっては「具体」ではない。抽象である。頭で考えることはできるが、肉体では考えることができない。手で書けないのはもちろん、肉眼で識別することも、たぶんできない。でも、ことばでなら、999角形と1000角形ははっきり区別できる。このときの「ことば」が「記号」である。それは、私とにっては「具体」ではない。その存在が目の前にあったとしても「具体」ではない。つまり、頭で私の意識を動かしていかないかぎり、その999角形、1000角形は存在しない。
 それは、別なことばで言えば「意味」になるかもしれない。
 「もの(存在)」そのものは「意味」を持たない。「無意味」である。その「無意味」をことばで「意味」に仕立て上げる。それも「頭」をとおして。「もの-意味-頭」という関係が、そのとき成り立つ。人によっては「もの→頭→意味」かもしれない。どっちでもいい--わけではないけれど、ようするに、そこには頭が割り込んでくる。
 で。
 これでいいの?
 これは北川に対する私の質問である。
 「夢」は「記号」となって、「意味」をすくい上げるものなのか、という疑問が突然沸き上がってくる。
 もちろん、そうした詩はたくさんある。「夢」を解説するといえばいいのか、「夢解き」をするといえばいいのか、それとも「夢占い」と言ってしまえばいいのか。「夢」になんらかの「ストーリー」と、「ストーリー」へ向けて存在を統合する力を書いている詩はたくさんある。そのとき、たとえば「橋」は「記号」である。いろいろなものを整理する便利なものである。
 999角形と1000角形に戻って、もり「記号」っぽく定義し直すと、「X角形」と「(X+1)角形」の関係。「X」が小さな数字であるときは、それが「記号」であることになかなか気がつかない。しかし「X」が999などの大きな数字になると、それは「記号」であることがはっきりする。頭を働かせて把握するしかないものになる。
 うーん、と私がうなったのは、
 「それじゃあ、北川さん、いま書いた夢を頭で整理し直して把握すること、理解することを読者に求めているんですか?」
 と、問いかけたくなったということと、ほとんど同じである。
 あ、いやだな、と私は直感的に思う。これは、まあ、生理的反応である。

 逆の言い方をした方がいいのかな。

橋は流れた
野原や田畑の上や学校の教室の中を

 書き出しの2行。その2行目の「教室の中を」が私は好きである。「橋」の大きさが書いてないのでどんなふうにも考えられるけれど、私はひどく大きな橋を思い浮かべた。それが「野原や田畑の上を」流れるのは想像しやすい。けれど、それが「教室の中を」ながれるというのは、かなり変である。巨大な橋は教室の中を流れるということはありえない。--ありえないのだけれど、それが「見える」。野原や田畑の上を流れていく橋は、そこにぶつかるものがないのでおもしろくないが、教室のなかではどうしたって机や椅子や壁や黒板にぶつかる。教室を破壊してしまう。「流れる」は「流れる」ではなく、違うものになる。「流れる橋」は「被害者(?)」かもしれないが、「教室の中」では「加害者」になる。立場が逆転する。
 それが、私には、とてもおもしろいと思った。
 で、「逆転」するから(これを、私はふつうは「矛盾」ということばで書いているのだけれど、「矛盾」ということばをここでつかうと、面倒な書き方になるので、省略して「逆転」ということばをつかっておく。「逆」に「矛盾」の意識をこめて)。
 で、「逆転」するから、「ひどく傷つき 折れ曲がり」ということばが痛切になる。橋は流れながら傷つき折れ曲がるのだけれど、その傷や折れ曲がりは橋以外のものとの激突の証拠であり、それは橋が何物を破壊してきた証拠でもある。
 こういう「矛盾」を「記号」にしてしまっていいのだろうか。
 詩はむしろ「記号」を解体し「矛盾」に還元するところにあるのではないのか、と思ったのである。

 他の作品と比較して言いなおしてみよう。
 「家畜たち」という作品。

地面が空中に浮かんでいた
地面から吊り下がっている円柱状の魂たち
牛の生首 馬の両脚の蹄 犬の縫いぐるみ
猫の長くのびた霊たち 山羊や鶏の黒い影
地面が腹を抱えて ひくひく笑っているぞ
地面は腰を揺らしながら 浮遊し始めたぞ
更に引き千切られて散乱する 家畜たちは
何処まで墜ちて行くのだろう
地面から見放されて

 ここに「記号」を見出すとしたら、1行目「地面が空中に浮かんでいた」、つまり「浮かぶ地面」が「記号」というものになる。「浮かぶ地面」をみつめる(定義する)「私」の位置(存在の場)は、「浮かぶ地面」とは別の場にあるからだ。対象とは「距離」がある。その「距離」を操作しているのが「頭」であり、「距離」のなかで頭に都合がいいように整理される(合理化される)のが「記号」だからである。
 しかし、この作品では「地面が空中に浮かんでいた」を「記号化」する余裕はない。私はたまたま「記号」という作品から逆戻りしてきているから、「地面が空中に浮かんでいた」を「記号」と定義しているだけである。
 それに。ほら。

地面が腹を抱えて ひくひく笑っているぞ

 この変な一行が「記号」を破壊する。「腹を抱えて」「ひくひく」は常套句ではあるけれど、「肉体」そのものに働きかけてくる。「頭」ではなく「肉体」。地面と「私」の「肉体」が「腹を抱えて」「ひくひく」ということばのなかで一体化する。
 ここから北川は「地面」になって、「腰を揺らしながら 浮遊し始め」る。
 最終行は「地面から見放されて」となっているが、それは「傍観」ではない。「地面」になってしまった北川にとっては、それは「見放す」ということなのだ。「見放されて」と「見放す」が、不思議な形で同居している。反対のものがひとつのことばのなかに存在している。つまり、「記号」であることを拒否している。

 ぼんやりしたことしか書けないが、ここにある「矛盾」、何らかの「拒絶」が詩なのだ。
 「清潔な手」には、その「拒絶」が別の形で書かれている。

裸の丘が 幾つも転がっていた
  たいていは溺死していたが
なかにはまだ生きていて 薄目を開けている丘もいる
丘の生命を救いたいと
  天から幾本もの清潔な手が伸びて来たが
生きている丘も 溺死している丘も 身を縮めて拒んだ
  なかにはしつこい救援の手を 食い千切った
  瀕死の丘もいる

 「拒んだ」。それは「抽象」ではない。「救援の手を 食い千切った」というときの「肉体」。その、主張の強さ。
 私は覚えている。何か、気に食わないことがあったとき、姉や母の手にかみついて自己主張したことを。そのときの感覚がここにある。ほんとうは何かしてほしい。でも、いましてくれていることは、いや。--というような肉体の力。
 これは「記号」ではないね。




海の古文書
北川 透
思潮社
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詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」

2012-02-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」(「現代詩手帖」2012年02月号)

 詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」は詩と版画の組み合わせなのだが、ここでは詩についてのみ引用する。また、廿楽の詩は特殊な形式で書かれているが、ネットでは再現がむずかしいので、行頭をそろえた形で引用する。(どのような配置になっているかは、「現代詩手帖」確かめてください。)

 廿楽のことばは、きのう読んだ瀬尾育生のことばの対極にある。簡単に言うと「非論理的」である。ただし、この「非論理的」というのは「論理」の中心にあるのものが瀬尾のものとは違うということである。「論理」をつらぬく運動のエネルギーが瀬尾のものとは違うということである。廿楽は廿楽で「論理」がある、と言うに違いないからである。
 では、なぜ「非論理的」というか。
 これはいいかげんな言い方になるが、瀬尾のことばの運動、強靱な精神による自己統一の方が、現在の日本では論理の姿であると思われているからである。(まあ、これは私の印象だから、異論はあると思う。)純粋なことばの整合性。構築力。完結性。そういうものが、まあ「論理」をリードしていると思う。どれだけ明確な、そして巨大なことばの「建築物」を構築できるか(構築しているか)--によって「論理性」の優劣(?)が判断されているように思う。その力によって、どれだけ精神に新しい領域を切り開くことができるか、ということが「論理」の評価の分かれ目になっているように思う。
 そういうものが「論理」だとすると。
 廿楽のことばは、そういう方向を目指して動いていない。だいたい「新しい」何かを切り開こうとしていない。廿楽は、忘れられたものを拾い上げ(すくい上げ)、こんなものがまだあるよ、という。「新しさ」ではなく「古さ」--あ、「古さ」でもないなあ、「古さ」なら、もっと強烈だ。「古さ」にもならない、残滓のようなものを、まるで絞りきれない贅肉の脂のように見せつける。「肉体」の「くせ」を見せつける。「肉体」の「くせ」を生きていることばを、ていねいに存在させる。
 簡単に言いなおすと。
 瀬尾のことばは「知性」で動く。だから「論理的」。廿楽のことばは「知性」ではなく「肉体」で動く。だから「非知性的」、つまり「非論理的」。

 こんなことを書くと廿楽に怒られそうだけれど。
 まあ、これは、特徴を浮かび上がらせるための「方便」だから、見逃してね。
 これから「方便」を言いなおすからね。

 つまり……。
 で。
 その「非論理的」な「肉体のくせ」。これは「知性」や「精神」から見ると、それは「肉体」が「覚えている確かなもの」。そして、その「確かさ」が「論理」の基盤。「精神・知性」なんて、見えない。存在しないかもしれない。でも「肉体」は見えるねえ。ふつうに話していることば、日常の会話は、ことばは、まあ見えないけれど、それを話している人間が見える。手で触れる。なんとなれば、「ばかやろう」と怒鳴って殴ることだってできる。そこにある「肉体」の「確かさ」。そのときの「肉体」の「逃げ方」(叩かれる一方はいやだからね)。
 これって、とっても本能的でしょう? 本能というのは、いのちの論理(?)の基本でしょ?
 変に見えても、肉体の本能の方が「論理的」。精神の運動なんて「非実在的」。
 そうだねえ。
 廿楽の「論理」というのは、それが「存在する(実在)」かどうかなんだなあ。その存在を「肉体」で確かめられるか。体験できるか。そして体験したことを「肉体」が覚えているかどうかということなんだなあ。
 「肉体のくせ」は私がさっき書いたのは、こういうことを考えていたから。
 ほら、誰かが歩いてくる。暗くて顔は見えない。でも、歩くときの「くせ」で、あ、あれは誰それだとわかるときがあるでしょ? 特に親しい人なら、はっきりわかる。「肉体」が「覚え込んでいる歩き方」--そういうものが、「ことば」のなかにもある。その「覚え込んでいるくせ」が、その人間が生きている「確かさ」なのだ。
 それはつまらない(?)無意識かもしれない。でも、それは、「意識」を超越して「無意識」にまで昇華された思想なのだ、哲学なのだ、と私は思う。
 こんなことをくだくだ書いていてもしようがないので、具体的に作品を読んでみる。「不思議な尾行」。

わたしたちはだんご状になることのほかえらべない
団をなすのはたのしいね
死んだひとのうしろを隠れてつけていく
(気をつけろ、影はふむな)
死んだやつらはみんなうたがわしい
あれは怪人だからな
すこし離れて尾行しなければならない
あ、曲がった
人生の曲がり角だ
(そんなわけはない)
見失わないよう
おれたちも身をあやしくして曲がっていく
ぬかるな
せたがやの一生はとてもくらい

 ふいに、「肉体」が覚え込んでいる何かが噴出してくる。たとえば、2行目。「だんご状態になるほかえらべない」という人生はつまらないはずだが、そういうときだった「団をなす(群れる、あるいは団欒する)」という「たのしみ」はある。そういうことを、そういうときにいう奴がいる。
 誰かを尾行する。そのとき、4行目のように「気をつけろ、影はふむな」(影をふむような近さに近づくな--ということなのだけれど、でも、ほら、影を踏んだら影に気づかれ、相手にも気づかれるぞ)と注意する声がする。その声のなかにある「影もふまれたことを気づく」という「不安」。こういうのは「非論理的」だけれど、「肉体」には現実に感じられるねえ。そういう注意をする人がいるねえ。

あ、曲がった
人生の曲がり角だ
(そんなわけはない)

 まるで漫才だが、ことばはそんなふうにして現実に動いている。だれもが、ちょっと気の利いたことをいい、またはぐらかす。「肉体」はそういう体験を覚えていて、それを発揮しなければならない「場所/時」ではないにもかかわらず、そういう具合に動いてしまうときがある。
 そのとき、私たちは、そのひとの「くせ」、そして「肉体」を見ている。
 その「なつかしさ」が廿楽のことばにはある。
 絵は引用できないが、宇田川新聞の版画にも、そういう不思議ななつかしさがある。あ、これ知っている。「覚えている」という感じのなつかしさ。その「覚えている」は、その絵(版画)によって呼び覚まされるものであって、私自身はえがけないけれどね。
 あ、廿楽のことばも、「あ、これ、こういう具合に動く肉体とことばを覚えている」という感じなのだ。その廿楽のことばも、まあ、私には書けない。書けないけれど「覚えている」。
 これは--話が少し脱線するが、きっと他人の肉体を見た時の反応と同じだね。
 「できない」ではなく「できる」ことを例にするとわかりやすいかもしれない。
 たとえば誰かが自転車をこいでいて倒れそうになる。その瞬間、見た瞬間、あ、ハンドルをこうして、ペダルにぐいと体重をのせて、と「肉体」が叫びそうになる。誰かの「肉体」(私のものではない肉体)に、私の肉体が反応してしまう。
 その裏返しのようなことが、廿楽のことばを読むと起きる。「覚えている」何かが動きはじめる。
 そういえば、そうだったなあ。
 この感覚のなかには、とても多くの人間の肉体が同居している。私たちの肉体はそれぞれひとつに限定されているにもかかわらず、その「ひとつ」を越えて、しかも「ひとつ」である「肉体」の--その矛盾した何かがある。

 「小林少年の危難」も、とてもおもしろい。

こだやしくん、きみはあぶない
(こばやしです)
こどもができないのはきみが言葉だからで
根をたやしてはならないぞ
助詞も
この舶来の紅茶も
わかったね、ねだやしくん
(こばやしです)
きみ
ちいさいことにこだわってはいけないな

 こんなやりとり聞いたことがあるでしょ? 最後の「きみ/ちいさいことにこだわってはいけないな」なんて、一種の「常套句」だけれど、この「常套句」と同時に、誰かの顔、誰かの口調そのものが思い出されない? それは「知性」が覚えていることがらではなく、「肉体」が覚えていることだ。耳が覚えていて、その覚えていることが目を刺激し、脳も刺激する。
 このときの「覚えている」の「覚え方」--それが廿楽の「思想(肉体)」だね。





化車
廿楽 順治
思潮社
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瀬尾育生「分割」

2012-02-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「分割」(「雷電」1、2012年01月25日発行)

 瀬尾育生「分割」を読みながら、この作品の感想を書くのはむずかしいなあ、と思った。ことばの次元が私のことばの肉体と合わないのである。

時間の地層が二十八世紀になる。
ヤコブは傍らに人がいることに耐えられない病気だ。
神の文字の見張り人はおまえにふさわしい官職だが、
残された者にはくりかえし恐ろしい夕ぐれが襲うだろう。
もし人が「待つこと」をやめたら……。
地の分割がすべての執務をむなしいものにする。
どんな政治も収税も
どんな祭儀も集会も、どんな修理も建築も、
家畜の小屋の毎夜の藁屑掃除さえ。
九千の恐ろしい夕ぐれのなかを人は遠ざかってゆく。

 これは書き出し。「神の文字」とは聖書だろう。私はキリスト教徒ではないので、聖書は読んだことがない。ヤコブについても知らない。そのことが、この詩をむずかしく感じさせるのではない。--というと、かなり語弊があるのだが……。たしかにキリスト教について、あるいはヤコブについて知っていたら、「意味」がわかりやすくなるとは思うのだが……。
 まあ、面倒くさいので、省略して書いてしまうと。
 ここには「ヤコブ」の矛盾が書かれている。「神の文字の見張り人」は「神の文字を見はる」と同時に「神のことばを伝える」こともするだろう。けれど、そのとき「ヤコブ」のなかで「分割」が生じるのだ。「土地の分割」(国境?)のように、「ひと」の分割がはじまる。ヤコブに属する(?)人、そうではない人。--これは致し方のないことなのだけれど、でも、結果的には「神の文字(ことば)」に、その「分割」は矛盾しないか。矛盾する。だから、ヤコブの苦悩がある。
 --ということを(と、私は勝手に「誤読」するのだが)、瀬尾は、独自の論理性のなかに閉じ込めてことばを動かす。完結させる。別な言い方をすると、瀬尾にとって重要なのは、ことばの運動(論理)を矛盾なく構築することであり、それはどんなに「対象」を描いても、彼の内部でしかない。瀬尾の判断でしかない、ということだ。
 あ、なんのことか、わからないね。いや、私にも、どう書いていいかわからない部分があり、こんな変な言い方になるのだが。

 瀬尾にとっては、「真実(と仮に呼んでおく)」はたった一つしか存在せず、それはことばの運動の論理性であり、それは瀬尾の判断で完結するという特徴を持っている。ここに書かれている「ヤコブ」は一つの「真実」である。ややこしいのは「ヤコブ」が「人間」であり、「真実」というのは「人間」のように「具体」ではなく、いわば「抽象」であることだ。「具体」と「抽象」の「結合」があり、それを瀬尾は「知性の力(論理)」でのみ構築しようとする。

 書きながら、だんだん頭が痛くなってくるが--これって、「日本語の文体」じゃないね。「これ」というのは「私の文体」ではなく、「瀬尾の文体」のことだけれど。
 直感で言うのだけれど、「ドイツ語の文体」だね。「ドイツ哲学の文体」だねえ。私はカントもヘーゲルも1-2ページくらいしか読んだことがないから、いいかげんなことを書いてしまうのだが、ことばを自分で定義して、その定義に従って「論理」を作り上げていく。「知性」がそのままことばの運動のエネルギーであり、「実体(?)」でもあるという文体。
 で、こういう文体には、なんといえばいいのだろうか、「批判」というものが通用しない。それ自体で完結することを目指しているのだから、どんな批判もその文体にとってはあらかじめ排斥したものだからである。
 どんな批判も「矛盾」でしかないからである。
 あ、このときの「矛盾」というのは、その「批判」を組み込めば「論理」が成り立たなくなるという純粋に「論理上の矛盾」なのだけれど、このときの「論理上の矛盾」というのは、瀬尾の自己判断だね。

 なんのことか、わからないでしょ? 私の書いていること。まあ、いいや。私だけのための「メモ」だね、きょうの「日記」は。

 で、この強さ--それが「強引」ならいいのだけれど、つまり、簡単に「嫌い」と言えばすむのだけれど、瀬尾の場合、「強引」ではなく、「強靱」になっている。
 ことばの「強靱さ」。
 論理も強靱なのだけれど、論理以前の、それぞれのことばの強靱さが、不思議な形で迫ってくる。それに圧倒される。
 それは私の「肉体」には合わないのだけれど、合わないがゆえに、圧倒され、あ、ここに「特権的な力(詩人の力)」があると感じてしまうのだ。

どんな政治も収税も
どんな祭儀も集会も、どんな修理も建築も、
家畜の小屋の毎夜の藁屑掃除さえ。

 この抽象と具象のリズム。

 それから「恐ろしい夕ぐれ」ということばの繰り返しの罠。ことばは繰り返されると、そこに必然的に論理(意味)を引き寄せる。繰り返しは、ことばを「二重」にすることであり、その緊張感のなかに、いままで存在しなかった何かが「意味」となって結晶するというのが、あらゆる「論理の構造」である。

おまえは末端におり、
おまえは種族の戸口の外におり、おまえは
存在が中空に向かって開く部分であり、
路傍でとつぜん
横倒しになって息絶える死だ。その傍らに
「二人の人間を収容できる
ひとつの遠近法はけっして存在しない」
と書かれている。

 「おまえ(ヤコブ)」の、世界とのかかわり。「部分」の複数化。「部分」の集合が、それでは「ヤコブ」かというと、あるいは瀬尾の「論理」かというと--うーん、違うんだろうなあ。「ひとつの遠近法(哲学/神)」はそれ自体で完結する。「分割」され得ないから「哲学/神」。

 「ひとつ」というとき、たぶん瀬尾は「知性」で「ひとつ」をとらえている。「ひとつ」は、私の場合どうしても「肉体」に向かってしまうが、瀬尾は「知性」なんだろうなあ、「純粋論理」なんだろうなあ、とふと、思った。

 きょうの「日記」も感想というよりも、思いついたことの「メモ」になってしまった。


アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
思潮社
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斎藤健一「都会の日」、みえのふみあき「青島にて」

2012-02-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「都会の日」、みえのふみあき「青島にて」(「乾河」63、2012年02月01日発行)

 ことばとことばの距離、そして孤立感を私はいま夢想している。きのう読んだ中田敬二の詩には「空白」が大きな位置を占めていた。その「空白」は絵画的だった。牧野伊三郎の絵が中田のことばのあり方をうまい具合に照らしだしていることに、私は感想を書き終わってから気がついた。で、きょう、書き直そうかな、と一瞬思った。思ったけれど、やめた。こういうことは、きっと、一瞬思ったということのなかにいちばん純粋な形で何かが結晶している。それを書きはじめると、また何か変な具合になるに違いないからである。
 きょうは中田のことばの孤立感というか、散らばりかたとは対極にある斎藤健一の詩を読むことにする。「都会の日」。

ぼくがただ認めるのは自身だけである。つまり自身が肉
眼に映らない。頬にいきなりひたひたと血液が沸く。而
して誰もいない公園。楽観が過ぎるのだ。夕闇の太い草。
ななめに垂れる。眉色のうす明るい光。線。古い洋服の
如く捨てられている。掌。動作が退行する。石はひとつ
ひとつ乾き切る。知らぬゆえなのだ。

 ここには何が書かれているか。さっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、「夕闇の太い草。」からつづくことばが、それぞれにしっかりとそこに存在していることが感じられる。
 ことばは「意味」ではなく、「無意味」の「もの」としてそこに存在する。そして、その「無意味」が私の「意味」へ向かって動く意識を破壊する。私の「意味」への意識は砕けて、ただ「もの」に向き合う。私は「斎藤」になって、公園にいる。夕暮れ。そして、公園にいながら、公園にいない。「太い草」になる。「ななめに垂れる(葉っぱだろう)」の「ななめに垂れる」という形、動作そのものになる。
 この瞬間、ことばとことばの距離が、とても変な具合に動く。
 それぞれのことばは「散文」の形で書かれているので、「距離」がない。(中田の書いていることばのように「空白」がない。「距離」と「空白」は、このとき同じものである。)そして、「距離」がないのだけれど、何か深い亀裂がある。
 「太い草」から「ななめに垂れる」ということばへ動くとき、私はそこに「葉っぱ」ということばを仮に挿入してみたが、これは便宜上そうしたのであって、私の肉体に起きていることは、先に書いたこととかなり違うのだ。
 「ななめに垂れる」ということばに向き合った瞬間、その直前の「太い草」が消える。完全になくなる。すぐそばにあるし、それを思い出すことができるのに、何か絶対的に辿り着けない「間」を感じるのである。
 二つのことばの間にあるのは「空間」ではない。もし「空間」だとしたら、それは水平方向に広がる空間ではなく、垂直方向に広がる(深まる、あるいは高まるかもしれない)空間である。
 あれこれ考えはじめると複雑になりすぎるので、とりあえずその垂直の空間を「亀裂」と読んでみる。
 さらに変なことには(?)、その深い亀裂--亀裂の深さには、何か「音楽」がある。響きあうものがある。それは音がまったくない音楽である。音が聞こえる--とときどき錯覚するが、そのとき聞こえる音楽は、ことばそのものが、すぐそばにまで密着してきている亀裂に震えるための、ことばの音楽であって、亀裂が抱え込む音楽ではない。それは、いわば深い谷に谺したことばの孤独の響きである。
 こんな印象があるからだろう。そこにあることばは、深い深いところから立ち上ってきた孤独という感じがする。そうして、その深い深いところから立ち上ってきたという印象があるから、「亀裂」ではなく、つまり垂直方向に深まるのではなく、垂直方向に立ち上がるという矛盾した印象も同時に存在することになる。

 あ、こんなことは、いくら書いても何も書いたことにならないね。私の感想は「印象」にすぎなくて、それを誰かに伝えるには、もっと違ったことばが必要なのだが、それが今のわたしには見つけることができない。

 逆のことを考えればいいのかもしれない。孤立することば。そのことばが周囲に抱え込む深い亀裂。あるいは、逆さまの亀裂--高い高い透明な壁。それを飛び越える、あるいは突き破って動く「もの」。
 何が、この動きのエネルギーなのか。どうして斎藤のことばはこんなふうに動くことができるか。
 「断定」の力かもしれない。迷いがない。意識を叩ききって、意識を断ち切って、「もの」として放り出す力が斎藤の魅力なのかもしれない。「だけである」「すぎるのだ」「ゆえなのだ」には、それが強調された形であらわれているが、「映らない」「沸く」というような動詞の断ち切りかたが、とても清潔で、それが力を感じさせる。
 いま、「断ち切る」と書いたが、たぶん「断定」とは「切る」ということと関係があるのだ。その「切る」は「乾き切る」という形でもこの詩には登場するが、この「切る」はある意味では余分である。「乾く」でも「意味」は通じる。しかし、「乾く」を「乾き切る」と書いたとき、それは乾くという運動が完結した(完了した)というだけではなく、石の存在を他の存在から切り離し、独立させるような響きがある。そして、そこからはじまる音楽がある。
 あ、これもまた、印象感想になってしまったなあ。

 しかたがない。私は斎藤のことばの運動が好きなのだ。好きに理由(意味づけ)などいらない。だから、何か書こうとしても、知らず知らず、「意味」を遠ざけてしまうのだろう。
 


 みえのふみあき「青島にて」の「Occurence  40」。

なぞなぞ遊びのあぞの迷路のその果ての
はかなくしどけない怠惰な春の夢のうえ

 途中に出てくるこの2行が魅力的である。斎藤のことばが孤立感が強いのに対し、みえのこの2行は、切れ目がない。全部つながっている。そしてつながりながら、つながった瞬間に順番に消えていくような--何もかもが消滅していくような音楽がある。
 それこそ最後のことばの「夢」のようなものがある。




方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉)
みえの ふみあき
レアリテの会
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谷川俊太郎「シミ」

2012-02-06 21:31:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「シミ」(「朝日新聞」2012年02月06日夕刊)

 谷川俊太郎の詩はときどきとても変である。どこまで本気(?)かわからないときがある。今回の「シミ」にもそういうものを感じだ。

妬(ねた)みと怒りで汚れた心を
哀しみが洗ってくれたが
シミは残った
洗っても洗っても
おちないシミ
今度はそのシミに腹を立てる

真っ白な心なんてつまらない
シミのない心なんて信用できない
と思うのは負け惜しみじゃない
できればシミもこみで
キラキラしたいのだ
(万華鏡のように?)

 谷川の詩は「意味」で動くときがある。「意味」が常識をひっくりかえす。あるいは気がついていなかったことを明確にする。そういうとき、何かを発見した気持ちになる。あ、そうだったのだ、と納得し、その納得を「詩」と感じるときがある。
 1連目の最後の行「今度はそのシミに腹を立てる」が、それにあたる。「シミに腹を立てる」--ああ、そうなんだ、と思う。それは私がまだ気がついていないことがらだった。自分ではことばにできなかったが、肉体で感じていたことだと思う。あるいは、あ、こういうことがあった、覚えている--と思い出す。
 そういう感じがある。
 ところが2連目は、同じ調子では読めない。「真っ白な心なんてつまらない/シミのない心なんて信用できない/と思うのは負け惜しみじゃない」という3行が、とても理屈っぽい。論理的でありすぎる。1連目の「シミに腹を立てる」というような、直接性がない。
 なぜだろう。
 2連目をていねいに読み返すよりも1連目に引き返した方がいいのかもしれない。なぜ、「シミに腹を立てる」ということばに私は強く惹かれたのだろう。すーっと引き込まれ納得したのだろう。
 たぶん「腹を立てる」ということばが腑におちたのだ。
 「腹を立てる」は冒頭の1行目に出てくる「怒る(怒り)」と同じことを意味している。でも、「今度はそのシミに怒る」では、たぶんすとんとは納得できなかったと思う。理屈っぽいなあ、と感じたと思う。
 「怒り(怒る)」の方がことばを正確に引き継ぐことになるから、「今度は」の意味もよくわかる。でも、そんなふうにわかりすぎると、理屈っぽく感じると思う。
 「腹を立てる」と「肉体」を直接ことばにしているから、私の「肉体」に響いてきたのだ。「怒り(怒る)」だと、肉体ではなく、感情に響いてくる。--その肉体と感情の違いの差--肉体の方が納得しやすいのだ。
 2連目には、その肉体がない。「つまらない」「信用できない」「負け惜しみじゃない」--ここには肉体がない。
 「キラキラしたい」の「キラキラ」に肉体じゃない。
 最終行の「万華鏡」は、もう完全に「肉体」とは別なものだ。
 「シミ」は肉体についてはいないのだ。
 もちろん、谷川は最初から「肉体」とは書かず「心」と書いているのだが……。

 あ、私は谷川の書いている「心」を「肉体」と感じていたけれど(1連目の「腹を立てる」は「心」が「腹」であるという証拠だと思う……)、2連目でその「心」と「肉体」の関係が、「心」と「論理」になっている。
 そこで私はつまずいたのだ。
 「万華鏡のように?」で、私は完全に谷川のことばと離れてしまった--分離してしまった。首をかしげてしまった。
 書いている谷川自身はどうなんだろう。2連目に満足しているのかな?
 よくわからない。
 最終行が括弧に入って、疑問符までついているのは、谷川も納得していないということ?




ひとり暮らし (新潮文庫)
谷川 俊太郎
新潮社
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中田敬二『転位論』

2012-02-05 23:59:59 | 詩集
中田敬二『転位論』(港の人、2012年01月28日発行)

 中田敬二『転位論』にはいくつものスタイルの詩がおさめられている。どれについて書いていいのか少し迷ってしまう。
 最初に掲載されているのは「るばいやーと・片言集」という4行が1篇(でいいのかな?)の作品。372 から375 までが、最初に読むせいなのかもしれないけれど、印象に残る。

酒は夜なかに飲むのがいい
HARD AND CLEA
サカナもいい
HERBS & SPICES

サルデーニャ島のミルト酒
Miro ギンバイカ 銀梅花
ヴィーナス 愛
金星

夜のひとり歩き

またいい
酔って

ながれる雲と
傷ついた木の葉のゆくえを追う
老いた風
よって

 ことばが「意味」になるまえに逃げていく。「意味」の追跡をふりきって弾ける感じがする。「ヴィーナス 愛/金星」というのは読み方によっては(読み方によらなくても)意味そのものではあるけれど、動詞(述語)がないために、とても軽くて気持ちがいい。述語があると重くなる。ことばが「もの」ではなく「意味」になる--と書いてもしようがないね。これは、私の「感覚」。
 私が感じているものを、どうことばにすればいいのか、実はわからない。
 酒の興奮--というより、酒により気分が軽くなる瞬間の解き放たれた感じが気持ちがいいのだろうと思う。やわらかい酒にじっくり酔うのではなく、荒々しい酒で一気に酔うのがおもしろいかもしれない。スピリットのぶつかりあい、とでもいえばいいのかな。
「ミルト酒」というのは、私はどういう味かまったく知らないのだけれど。

 他の作品は、ことばがページの上に散らばっていて、正確な再現(転写)ができない。(こともないのかもしれないが、私は面倒でできない。)中田は「空白」にも気を配っているのかもしれないが、私は、ばらばらなことばの配置を把握する視力がないので、空白を無視して引用する。(原文は詩集で確認してください。)
 「無明と無名」

さむい
無明

さみしい
無名
情死だったそうです

 突然出てくる「情死」がなかなかおもしろい。「無明と無名の情死」というのは、いいかな、と思う。何かがぶつかりあう感じが、たぶん、詩の基本なのだと思う。それが、ここには単純な形で存在している。
 私の引用したスタイルでは、かなり窮屈な感じがするが、こうやって引用してみると、うーん、そうか、やっぱり散らばっていた方が、中田のことばは輝くのかとも思う。(反省)。

 「フラミニア街道を行く」の途中(?)もとても生き生きとしている。

切り立った断崖が
フルロの峡谷を見下ろしている
まさしく’フルロの喉’である
息がつまる
深いミドリの恐怖が
わたしを呑みこむ
夕陽が
影を落す
静謐
私は
空翔する鷲である

 この作品も、活字の頭をそろえ、行間もなくして引用すると、何だか違ってくるなあ。実際に引用してみないと、わからないものだなあ。

 --ということで、書きたいことが、引用している間に消えてしまった。かわってしまった。というべきなのか、この形式では中田のことばの輝きは伝えられないので、詩集で読んでくださいと言うべきなのか。
 私はもともと何を書きたいか、きちんと「結論」を考えてから書きはじめるのではないので、しょっちゅう、こういうことが起きる。

 中途半端だけれど、きょうの感想は、ここまでにしよう。
 いや、強引につづけて書こう。いままで書いてきたことを否定して(といっても、書き直したりはしない)、思いついたことを書いておく。
 中田のことばは、ことばそのものの音楽ではなく、そのことばを視覚化したときに聴こえてくる音楽と向き合っている。空白のなかにある音楽--それはことばの持っている音楽を分断し、意味を拒絶する。
 あるいは「意味」は、それぞれのことばのなかにあるけれど、他のことばとは結びつかない。切断されることによって、ことばの持っている音楽と空白の音楽が拮抗する。そこに不思議な美しさがある。

 でもねえ。
 私は、中田の書いている詩を、私の「肉体」にはできない。「肉体」で覚えることができない。
 そういう気持ちが、最後に、ぽつんと生まれてきてしまう。
 やっぱり、中途半端におわるしかないね、私の感想は。



 この詩集には、牧野伊三郎の絵と中田の写真も同時に掲載されている。牧野の絵はとてもいい。画材がはっきりしないのだが、クレヨンと水彩をつかっているのかな? 水彩絵の具がクレヨンではじかれてできる断絶が、中田のことばと空白の感じによく似ている。ことばが空白にはじかれてばらばらに飛び散るように、水彩絵の具がクレヨンにはじかれて飛び散る。飛び散りながら、それでもそこに連続というか、接続がある。
 あ、この感想から書きはじめれば、中田のこの詩集の輝きは、もう少し私の「肉体」に近づいたかもしれないなあ。
 でも、これもここまでにしておこう。
 牧野の絵はモノクロだが、原画はきっとカラーだと思う。(カラーの絵を見たい。)印刷された絵は絵ではないから、感想を書いてもはじまらない、と思うので。



転位論
中田敬二,ジェームス・ケティング,アダ・ドナーティ
港の人
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トーマス・トランスロンメル「青い家」

2012-02-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
トーマス・トランスロンメル「青い家」(エイコ・デューク訳)(「現代詩手帖」2012年02月号)

 トーマス・トランスロンメル「青い家」にも不思議なところがある。

 陽の照り輝く夏の夜。私は茂りの深い林に立ち靄がかかった青色
の壁の私の家に視線を送る。まるでつい今しがた死んだばかりの自
分が家をあらためて眺め直すかのように。

 「死んだばかりの自分が家をあらためて眺め直すかのように」という表現には「自己離脱体験」とでもいえばいいのか、まあ、一種の変な感覚がある。それはきのう読んだ詩の3篇目(3連目)に通じるものである。トランスロンメルが、詩を書くトランスロンメルと詩に書かれるトランスロンメルに分離するようなものである。
 ここに不思議はない。不思議なのは、その家では死者が出るたびに家の内部が塗りかえられると書いたあとの、3段落目。

 家の向う側には野原が展がる。以前の庭が、今は野生の茂み。野
原の造る波のしぶきの静止、野草のパゴダ、文字が前に投げ出され
た野草のヴェーダ、野草のバイキングの船が一つ、その竜頭が反り、
槍、まさに野草の主権国家!

 この描写は、どうも1段落目の「私は茂りの深い林に立ち」ということばがあらわす「立ち位置」とは違っているように感じられる。2段落目は林のなかから家のなかを想像した(あるいは追想した)描写だが、3段落目は、私には家のなかから見た風景にしか感じられないのである。
 いつの間にか、詩人は林から家のなかへ移動している。2段落目の、家族の歴史の描写が詩人を家のなかに引き込んだといえるのだが、ここがちょっとおもしろく、そして、4段落目に、わけのわからないことばが突然出てくる。

 家はこどもの描く絵に似る。童児の期からあまりに早く抜け出し
た誰かが、身内に育ててしまったこどもっぽさの故だ。扉を開けて、
なかへどうぞ! このなかは天井が不安で壁には自由がある。寝台
の上には17の帆布を掲げた帆船のしろうと絵がかけられ、白く泡だ
つ波がしらと金の類縁も防ぎきれぬような風が描かれている。

 「身内」。これは、どういう意味なのだろう。「肉親」なのか。それとも誰かの「身体の内部」なのか。
 幼いこどもが死んだ。そのこどもが生きていたままのこどもの部屋。こどもの部屋がこどもが生きていたときのままに保存されているということなのだろうけれど、それを育てているのは「肉親」。それとも誰かの「身体(の内部)」?
 ふつうに考えれば、肉親の誰か、ということになるのだと思うが、私は「身体の内部」という感じとしてとらえたくなるのだ。「身内」は「肉親」ではない。文字どおり「身(の)内」、つまり「身体の内部」「肉体の内部」と。

 この室内には、常に、とても早い、その時代に先行した感覚があ
る。帰路の前、取返しのつかぬ選択の前に立つかのような。この生
活に感謝! しかし、なお、私は別のものを得たい。思い描いたす
べてを実現させたい。

 こどもが「実現」したもの。帆船をとおして思い描いた夢。帆船のなかに描かれた、おさない夢。--だけではなく、こどもが「身体の内部」で描いたもの、ここに「実現」されていないものをも、トランスロンメル自身の実感として取り戻してみたい、と書いているのだと思う。

 遠くの水上に響く機動音が夏の夜を引き伸ばす。喜びと悲しみが
露の鏡に拡大する。何としても私たちにわかることではないが、想
像は働く。私たちのいのちには、まったく別の航路をたどる姉妹船
が存在する。その間も、島々の後に陽は輝くのだ。

 「私たちのいのちには、まったく別の航路をたどる姉妹船が存在する」。トランスロンメルは、いつも「別の世界」があり、「別の世界を生きているいのち」があるということを感じているのだと思う。
 そしてそれを「身(の)内」にこそ取り込もうとしているように思える。ことばをとおして、「別の世界」を自分自身の「肉体」にする。
 そしてそのための「出口」(入り口)を書こうとしているようにも思える。「別の世界」そのものを書かなくても、その「出口」(入り口)さえ書けば、そこを通って人は「別の世界」を生きることができる。その「出口」(入り口)を短く切り取ったのが、詩人が書いている「俳句詩」ということになるだろう。





悲しみのゴンドラ
トーマス トランストロンメル
思潮社
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トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」

2012-02-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」(エイコ・デューク訳)(「現代詩手帖」2012年02月号)

 トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」は「俳句詩」と呼ばれる4篇の作品で構成されている。それぞれ独立しているとも読めるし、ひとつづきの作品としても読める--のかもしれない。
 私には一か所、これはどういうことだろう、と迷ってしまったところがある。

野うさぎ一匹が消えた
見知らぬ出口を抜け出たものか
野の風景から去った。



風吹きすさぶ春の一夜。
なべて 樫の樹々が
空の扉を打つ



遠ざかり行く足音が
床に沈みこんだ
さながら梁(やな)に落ちる葉のように。



森が空に浮き--
松の枝々が広がり--
そして 森ごと飛び去った。

 「野うさぎ」の3行は非常によくわかる。こどものころ、こういう世界に私は何度も出合っている。私たちの見る世界は限られている。そしてそこには私たちの知らない世界もある。野うさぎだけが知っている「出口」がある。それはきっと別の「野」につながっている。私たちの見る「野」の真裏(?)にあるのかもしれない。
 「風吹きすさぶ」もわかる。木々が風のなかで激しく乱れる。その枝が空の扉を叩いているというのも、あ、春だ、と思う。エリオットは四月の雨と大地(気の根っこ)を描いたがトランスロンメルは空と木の関係を描いている。うさぎにとって「野」が私たちの「野」と違うように、樫の樹にとっても私たちの「空」とは違う「空」があり、そこへ向かって、その「扉」を叩くのである。それは私たちの「空」からの「出口」であり、樫の樹にとっては樫の樹の「空」の「入り口」ということだろう。
 こういう作品を読むと、俳句というより、私には宮沢賢治の「童話」の世界が近づいてくる。私たちの世界とは別の世界が、いま/ここに同時に存在し、その別の世界を生きているものが、なまなましく動いている。それは、私たちの世界から見えるといえば見えるが、いつでも「消える」ものでもある。私たちの意識できない「出口」「入り口」を利用して、その別の世界の主人公たちは動いている。
 「森が空に浮き--」も、わかる。そういう別の世界を生きているものたちは、いつかは完全に別の世界へ行ってしまう。私たちは私たちの世界に取り残される。野うさぎは野から去った。そして森は大地から飛び去って、空へ--だが、その空は、私たちの見ている空ではない。私たちの見ている空の反対側というのか、それともそれを超越した特権的な空といえばいいのか、特別な空へ飛び去った。私たちは、森が飛び去って消えた空をみているつもりだが、ほんとうはその空は見えない。これも、私には、とてもなつかしい風景である。
 私がわからないのは、「遠ざかる足音」の3行である。
 ここには何が書かれているのだろうか。
 「足音」とはだれの足音なのか。「床」とは、どこにある床なのか。「梁」は川に仕掛けられた「梁」なのだと思うが、どこにある川なのだろう。そして「梁に落ちた葉のように」「沈みこむ」とはどういうことだろうか。葉っぱは簡単には沈み込まない。まず水に浮く。浮いて流れる。それが梁にぶつかり、流れかねて、やがて沈む。そこには「時間」がある。野うさぎが「出口」から去るのに「時間」は必要がない。一瞬である。でも、梁に葉が沈むには「時間」がかかる。--これは、なんだろうなあ、どういうことを書いているのかなあ。それがわからない。

 別の読み方をしてみなければならないのかもしれない。4篇の詩。それは4篇ではなく、1篇だとすれば、この作品には「起承転結」があるということになるかもしれない。
 起「野うさぎ」は野の風景。野うさぎが消える。
 承「風」は樫の樹と空の風景。樫の樹が空に入れてくれと訴えている。
 転「足音」--これは、わからない。保留。
 結「森」。森ごと(野うさぎの野、樫の樹を含めて)空に消えてしまう。
 「転・足音の世界」は、どうも「自然」の世界ではないように感じる。人間の世界かもしれない。自然の世界を「起・承」と描いてきて、「転」でその世界とは別なものを描く。そのあとで「結」のことばを動かすことで、全体をもう一度統一し直す、ということかもしれない。
 で、ここからは、まあ、私の勝手な想像である。
 トランスロンメルは、この4篇(あるいは1篇)を「家」のなかで書いている。家のなかから世界を見て書いているのである。家のなかから野と野うさぎを見ている。家のなかから樫の樹と空を見ている。家のなかから森を見ている。空を見ている。
 そしてそのとき、野に私たちの見ている野と野うさぎが生きている野の違いがあったように、もしかすると私たちの見ている家と詩人(トランスロンメル)の見ている家との違いがあるのかもしれない。
 野うさぎの3行では、私たち(私、と言い換えた方がいいかもしれない)とトランスロンメルは「一体」になって生きている。野うさぎという人間以外のいのちがそこにあるために、私とトランスロンメルは「人間」という「ひとくくり」のなかに生きていることになる。
 しかし、「家」のなかでは、そういう具合にはいかない。「家」はあくまでトランスロンメルの家であり、私の家ではないのだから。
 で。(ここから飛躍してしまうので、「で」としかいいようがないのだが。)
 で、その「家」のなかで、トランスロンメルは、トランスロンメルと「トランスロンメル」に分離(?)する。変なたとえになってしまうが野から消えた「野うさぎ」としての「トランスロンメル」。野から「出口」を見つけて消えていく野うさぎのように、「家から消えて行くトランスロンメル」--それを見ているトランスロンメル(詩を書いているトランスロンメル)。
 そして、「トランスロンメル」が家から消えていく(去っていく--この詩では「床に沈みこむという形で消える)とき、「トランスロンメル」は「野うさぎ」であり、「樫の樹」であり、「森」なのだ。つまり、私たちの世界から「消え去る」。そのとき「トランスロンメル」は「野うさぎ」「樫の樹」「森」と「一体」になっている。
 この「一体感」のなかに、「俳句」の神髄につながるものがあるのだけれど--うーん、私の感じる「俳句」とは違う。まあ、違って当たり前なのだけれど。
 何が違うかというと……。
 俳句の場合、「世界」は消えない。「私」も消えない。「世界」と「私」の区別がなくなる。私は世界にとどまりつづける。私は消滅しているが、それは便宜上の言い方で、私は世界そのものとして現前している。
 けれど、トランスロンメルの場合、「去る」ということばが象徴的だけれど、何かが動いていくのである。別の世界へ行くのである。




悲しみのゴンドラ 増補版
トーマス トランストロンメル
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高岡淳四「腹がゆるい」

2012-02-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「腹がゆるい」(「現代詩手帖」2012年02月号)

 高岡淳四の「正直」は、ことばそのものに対する「正直」なのかもしれない。「腹がゆるい」を読むと、高岡はことばを確実に「肉体化」している。

多摩川河川敷を
自転車をころがして通勤していたら
腹がゆるい感じがするのだが
ゆるくても大丈夫かな、
色々聞くから心配になるよ、
と、お医者さんの
ともだちに言ってみたら
全身運動をする時は
マスクしなさい、と
言われた。言う通りにしたら
ゆるくなくなった

 ここでのことばの「肉体化」というのは、単純に「お医者さんのともだち」の言ったことばを実践してみたら、それが肉体に反映したということなのだが、この「笑い話」のようなことばと肉体の関係が、意外と、深いところで「ことばの肉体化」ということそのものとつながっているように思えるのだ。
 「ことばを聞く」が「肉体に効く」。「肉体」は「ことばを理解する」のかな? あるいは「肉体」はことばにだまされるのかな?
 何か不思議なつながりがあるかもしれない。
 このつながりを、強引に「思想」にしないで、つまり強引に論理で解明した振りをしないで、そのままほうりだすことを、高岡は得意としている。そのほうりだし方に、また、高岡の正直があらわれていて、私はとても好きである。
 「頭」で考えた論理ではなく、「いま/ここ」にある「肉体」が「肉体」のまま、目に見えてくる。「肉体」のなかには、ことばにはなりきれない(論理にはなりきれない)なにかが動いている。それが、そのまま「肉体」としてわかる。
 詩のつづき。

うちのちびすけが
遠足に行く筈だった公園は
枯れ葉が深く積もる場所。
放射線量が高かったと
報道されたのがそこで
春の遠足が中止になった
続報は聞かない

 放射線量はどうなったのか。枯れ葉はどう処理されたのか。何もわからない。わからないまま、公園と高岡の肉体(高岡のこどもの肉体)は中途半端にほうりだされている。中途半端なまま、何かが「肉体」のなかにたまりつづける。「あの公園へは行ってはいけない」というような「抑止」が「肉体」のなかで動く。
 「続報」を聞けば、その「肉体」のなかの「抑止」には変化か起きるかもしれない。けれど、「続報(ことば)」を聞かないので、「肉体」はかわりようがない。「放射線量が高かった」「遠足が中止になった」ということばが、高岡の「肉体」に効いているのである。

 詩の最終連。

年の瀬ですね
うちは、ボーナスがでました、
一息つけました。
きょうテレビをつけていたら、
ふくしまだいいちげぱつじこしょりの
ステップ・ツーは終了、
そのような言葉が聞こえました

 ことばは聞こえた。「肉体(耳)」はたしかに、それを聞いた。「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」。でも、このことばは、高岡自身の「肉体」でどう反復していいのかわからない。
 「全身運動をする時は/マスクをしなさい」。これはすぐに「肉体」で反復できた。その結果、悩みの種だった「腹がゆるい」という状態は改善された。ことばと「肉体」は親密に交流している。
 「放射線量が高い」公園へは、行かない。そのとき「肉体」はことばが伝える「行ってはいけない」を反復している。反復しているが、「続報」がないので、つぎに何をしていいかわからない。そのまま、「行かない」があいまいにつづいている。「肉体」はあいまいを生きている。
 さて、「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」はどうすべきなのか。
 わからない。
 このわからなさが、「福島第一原発事故処理」を「意味」のある「漢字」ではなく、単なる音「ふくしまだいいちげぱつじこしょり」に解体する。「肉体」は、その「音」だけを受け入れている。「意味」をつかみ、その「意味」を「肉体」で反復することをほうりだしている。
 ことばというより、音は聞こえた。けれど、それを高岡の「肉体」は覚えることができない。肉体で反復することはできない。
 言い換えると。
 たとえば自転車に乗っていて腹がゆるくなったとする。そのとき、「あ、そうだ、こういうときはマスクをして自転車に乗ればいいのだ」ということを、「ことば」ではなく「肉体」が覚えている。「肉体」がマスクを要求する。
 「肉体」が覚えていることは、私たちはいつでも反復できる。そして、この「肉体が覚えていること」こそが、人間のほんとうの「思想・哲学」である。「肉体」の正直な反応こそが「思想・哲学」である。






現代詩手帖 2012年 02月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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