田中慎弥『共喰い』(集英社、2012年01月30日発行)
田中慎弥『共喰い』を読みながら中上健次を思い出した。暴力とセックスが書かれている--という単純な理由によるのだけれど。で、それではどこがほんとうに似ているのか、と考えはじめると、全然似ていないことに気がつく。中上健次の文体は短いくせに粘着力がある。田中慎弥の文体には、粘着力というより、淀みがある。そして、その淀みがおもしろいと思った。田中は「淀み」とはいわずに「滞り」と書いているが、その「滞り」が田中の肉体(思想)だと感じた。
カタツムリの描写がある。46ページから47ページにかけてである。
「滞り」とは何か。引用部分の最後のことばがとても印象的である。
「そういうことといっさい関係ない」--無関係なものが、「いま/ここ」に存在し、そこで立ち止まる。中上のことばにはこういうことはなかったと思う。(しばらく読んでいないので、記憶で書くのだけれど。)
「物語」(時間)を動かすのではなく、動いていくことを邪魔する。その瞬間、その動かない部分が濃密になる。これがおもしろいと思った。中上の場合は、動く時間が濃密になる。動きのなかから「濃密」が射精のように噴出してくる。
そして、それは関係がないのだけれど、その関係がないものの存在を通らないと「考え」は存在しない。そのことを田中は書いている。
この小説は、セックスしながら女を殴る父と、その父の血をひく主人公の関係を中心に物語が進む。父と子は、父子の関係があるといえばいえるけれど、ひとりの男と男であり、独立した存在である。無関係である。たとえば父が女を殴ろうが主人公の責任ではない。息子が女を殴ろうが父の責任でもない。それが現在の社会の「法律」の制度である。
そういう「無関係」を、あえて「関係」として通過することで時間を滞らせ、「いま/ここ」を濃密にする。
--なんだか、こんなふうに書くと「むりやり」ことばを動かしている。ほんとうは逆に書いた方が田中の世界に接近できるのではないか、という気がしてくるのだけれど、それでも私は、いま書いているように、逆説的に、わざと変なふうに書きたいのである。
たぶん、そう思うのは、この小説があまりにも「古い」というか、「小説的」すぎるので、変な気持ちになるのだ。時代が逆流している感じがする。中上健次を思い出したのも、時代の逆流という印象があるからだ。
その「逆流」から、ふつうの流れ(?)に戻るためには、何か、逆説的なことばを通らないと、考えが動かない。ことばが動かない感じがするのだ。
「無関係」を「関係」にさせる。関係ないものを通りながら、自分を考える。
それは、なんといえばいいのだろう。たとえば、現代は「親子(家族)関係が稀薄」といわれる。「稀薄」は「無関係」は違うけれど、まあ、「無関係」と考えよう。その「無関係」な親子(家族)を、どれくらい希薄か(無関係か)を描くのではなく、逆に切って捨ててしまった方が楽になるものをあえて関係させる。そうすると、そこに時間が停滞し、停滞したもののなかから、何かが立ち上がってくるのだ。
それは、たとえば次のような具合だ。
母親が主人公に対して、「父親と同じ目をしている」と指摘する。父親と同じ人間であってほしくないと思うなら、そういうことは言わない方がいいだろう。同じであるということで、さらに同じになるのだ。似ていても、似ていない。無関係である--といいつづければ、そこから「断絶」がはじまる。関係が「希薄化」する。
この小説の登場人物は、そういう考え方をしない。逆に、「無関係」を「関係」にするためにことばを動かす。ここから、すべてがはじまる。「滞り(停滞)」が、重力のように、あらゆるものを惹きつけ、ブラックボックスとなり、そこからビッグバンが起きる、という具合だ。
28ページの、釣り上げたウナギの描写も、それに通じる。
「無関係」なのに、それを「関係」づけて「意識する」。「関係づける意識」がすべてを動かしている。裂けた鰻の頭に、殴られて傷ついた女の顔を関係づける。鰻と女は別個の存在なのに、関係づける。そうすると、その瞬間、鰻を処理する運動が「滞り(停滞し)」、女との時間が噴出してくる。そうして勃起する。
ここには、なにかしら、不思議な「混同」がある。
「関係」は「混同」をもたらし、人間の行動を不思議な形で支配する。「時間」をねじまげてしまう。
この「混同」は、16ページに、この小説の「テーマ」のようにして、書かれている。
ここで「時間」と呼ばれているものを、「親子(家族)関係」と読み替えてみると、テーマがはっきりする。
うーん。わかりやすすぎる。「小説」らしすぎる。
田中慎弥『共喰い』を読みながら中上健次を思い出した。暴力とセックスが書かれている--という単純な理由によるのだけれど。で、それではどこがほんとうに似ているのか、と考えはじめると、全然似ていないことに気がつく。中上健次の文体は短いくせに粘着力がある。田中慎弥の文体には、粘着力というより、淀みがある。そして、その淀みがおもしろいと思った。田中は「淀み」とはいわずに「滞り」と書いているが、その「滞り」が田中の肉体(思想)だと感じた。
カタツムリの描写がある。46ページから47ページにかけてである。
乾いた空気に晒された濡れ縁を大きな蝸牛(かたつむり)が這っている。なぜ日差の下にそんなものがいるのか分からない。円い殻の移動を、遠馬は見つめる。夢でも見間違いでもない。この川辺に流れ、時々滞りもするする時間というものを見つめていることになるのかもしれないと思ったが、どう見方を変えても、それはやはり右向きに巻いている殻と、柔らかいのに噛めば歯応えがありそうな肉でしかない。触覚の輝いている先端がはっきり見えるのは大きいからでもあるが、間近で見ているからでもある。(略)自分が仁子さんのように川辺に残るのか、琴子さんを真似て出てゆくのか、琴子さんがいなくなったことを父が知ったらどうなるのか、千種とはいつになったら元通りに会い、セックスできるようになるのかを、そういうことといっさい関係ない蝸牛の鈍い足取りを見つめながら考える。
「滞り」とは何か。引用部分の最後のことばがとても印象的である。
「そういうことといっさい関係ない」--無関係なものが、「いま/ここ」に存在し、そこで立ち止まる。中上のことばにはこういうことはなかったと思う。(しばらく読んでいないので、記憶で書くのだけれど。)
「物語」(時間)を動かすのではなく、動いていくことを邪魔する。その瞬間、その動かない部分が濃密になる。これがおもしろいと思った。中上の場合は、動く時間が濃密になる。動きのなかから「濃密」が射精のように噴出してくる。
そして、それは関係がないのだけれど、その関係がないものの存在を通らないと「考え」は存在しない。そのことを田中は書いている。
この小説は、セックスしながら女を殴る父と、その父の血をひく主人公の関係を中心に物語が進む。父と子は、父子の関係があるといえばいえるけれど、ひとりの男と男であり、独立した存在である。無関係である。たとえば父が女を殴ろうが主人公の責任ではない。息子が女を殴ろうが父の責任でもない。それが現在の社会の「法律」の制度である。
そういう「無関係」を、あえて「関係」として通過することで時間を滞らせ、「いま/ここ」を濃密にする。
--なんだか、こんなふうに書くと「むりやり」ことばを動かしている。ほんとうは逆に書いた方が田中の世界に接近できるのではないか、という気がしてくるのだけれど、それでも私は、いま書いているように、逆説的に、わざと変なふうに書きたいのである。
たぶん、そう思うのは、この小説があまりにも「古い」というか、「小説的」すぎるので、変な気持ちになるのだ。時代が逆流している感じがする。中上健次を思い出したのも、時代の逆流という印象があるからだ。
その「逆流」から、ふつうの流れ(?)に戻るためには、何か、逆説的なことばを通らないと、考えが動かない。ことばが動かない感じがするのだ。
「無関係」を「関係」にさせる。関係ないものを通りながら、自分を考える。
それは、なんといえばいいのだろう。たとえば、現代は「親子(家族)関係が稀薄」といわれる。「稀薄」は「無関係」は違うけれど、まあ、「無関係」と考えよう。その「無関係」な親子(家族)を、どれくらい希薄か(無関係か)を描くのではなく、逆に切って捨ててしまった方が楽になるものをあえて関係させる。そうすると、そこに時間が停滞し、停滞したもののなかから、何かが立ち上がってくるのだ。
それは、たとえば次のような具合だ。
「おんなじ目、しちょる言うそよ。もうちょいと、」と自分の顔を指差して、「こっちに似せて産んじょきゃあよかったけど、もう手遅れじゃわ。」(35ページ)
母親が主人公に対して、「父親と同じ目をしている」と指摘する。父親と同じ人間であってほしくないと思うなら、そういうことは言わない方がいいだろう。同じであるということで、さらに同じになるのだ。似ていても、似ていない。無関係である--といいつづければ、そこから「断絶」がはじまる。関係が「希薄化」する。
この小説の登場人物は、そういう考え方をしない。逆に、「無関係」を「関係」にするためにことばを動かす。ここから、すべてがはじまる。「滞り(停滞)」が、重力のように、あらゆるものを惹きつけ、ブラックボックスとなり、そこからビッグバンが起きる、という具合だ。
28ページの、釣り上げたウナギの描写も、それに通じる。
細かく何度も合わせたからか、釘の両端が肉を突き破り、片方は顔を引き裂いている。はりすをくわえている深緑色の細長い受け口が光っている。絡みついた道糸を振りほどこうとして鈍くのたうつ。遠馬は自分が興奮し、下腹部に熱が集中してゆくのを感じる。初めて釘針にかけて釣り上げたためもあったが、裂けて、半ば崩れかけた鰻の頭を目にしたからだと意識する。
「無関係」なのに、それを「関係」づけて「意識する」。「関係づける意識」がすべてを動かしている。裂けた鰻の頭に、殴られて傷ついた女の顔を関係づける。鰻と女は別個の存在なのに、関係づける。そうすると、その瞬間、鰻を処理する運動が「滞り(停滞し)」、女との時間が噴出してくる。そうして勃起する。
ここには、なにかしら、不思議な「混同」がある。
「関係」は「混同」をもたらし、人間の行動を不思議な形で支配する。「時間」をねじまげてしまう。
この「混同」は、16ページに、この小説の「テーマ」のようにして、書かれている。
川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。
ここで「時間」と呼ばれているものを、「親子(家族)関係」と読み替えてみると、テーマがはっきりする。
もしいやなら遠回りしたり、つまり家族から遠く離れて、ひとりで暮らしたり、場合によっては人間はそれぞれ独立した存在だから血縁などは人格とは無関係であるということもできる血縁関係(家族関係)を、なんの工夫もなく一方的に受け止め、家族と一緒に暮らしてきたために、主人公は(あるいはその周辺の登場人物は)、父親の人格と主人公の人格を完全に混同してしまっているのだ。(混同するようになってしまったのだ。)
うーん。わかりやすすぎる。「小説」らしすぎる。
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