詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「焼尽の記」

2013-06-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「焼尽の記」(「どぅるかまら」14、2013年06月10日発行)

 秋山基夫「焼尽の記」は複数の断片から構成されている。そしてそれぞれに番号が振られている。ところが、その番号と断片の順序が違う。詩はいきなり「3」からはじまり、4、1(*2、を含む)、4とつづいていく。

 3(かくて過ぐるほどに、三月十九日夜中ばかりに火いでぬ。--「竹むきが記」)
火はまだ遠いが延焼は免れないだろう。大きな声にせきたてられて北へ向かって逃げた。やっと小さな家にみんな集まり、手を取りあって夢の中にいるように泣くばかりだった。

 4
小さな防空壕にぎっしり人がはいっていて、そばに母がいないのに気づき、みんなが止めたけれど外に出た。空がまっ赤にそまっていて、走りまわっているうちに祖母に出あった。なんとか旭川の堤防におりて、途中の段になっているところにしゃがみこんでいると、焼夷弾がばらばら落ちてきた。夜が明けて下の水際には死んだ人が列になっていた。家のあったあたりに行ってみると、なにもかも焼けてしまって、防空壕もなかった。

 1
こころをこめてお仕えしたから、読みかえしているとその日のことのように思いうかぶ。元弘元年十一月朔日、日蝕、御物忌のお籠りで夜来の雪景色をご覧になれず、御不興。大納言さまがお勧めして、別室にお移りになってご覧になる。わたくしがぐずぐずしていると、大納言さまに「雪におびえているのですか」と声をかけられる。うれしかった。
 (以下略)

 私は古典(?)を知らないのだが、秋山のこの作品には「古典」からの引用(下敷き)と現実の体験が織りまぜられている。その古典と「いま(といっても、戦争中のことだろう)」のあいだには、恐怖(おびえ)と人と人との結びつき(頼りあい?)のようなものが通いあっている。恐怖には、一方に火があり、他方に雪がある--と読むと、この組み合わせ奇妙なのだが、読み進むと(引用はしなかったが)、あ、夜と夜明けなのか、と気がつく。夜と夜明けの恐怖、見えなかったものが見えるようになる恐怖……。
 そして、最後に。

 4
わたしたちは焼け跡で母に出会った。朝日がさしていた。

 という行に出会い、この詩の構造の奇妙さに頭をたたかれる。ただ番号の順番が違っているだけではなく、「4」は2回出てくる。そして、それを「頭」はが奇妙だと思うのだが、「肉体」の何かは、たしかに「思い」というものは、こういうものだ断言し、頭を激しくたたくのである。ぶつのである。。
 何かを思うとき、それは決められた順番どおりに思うわけではない。瞬間瞬間、違うことが思い浮かぶ。それを私たちは半分無意識のうちに整理して整えている。「頭」で整理して、他人にわかるように(?)工夫している。けれど、自分で「わかっていること」というのは、ほんとうは違う。誰に説明する必要もなく、あっちへ飛び、こっちへ飛び、あちこちを飛び回りながら、そのすべてを一瞬のうちに「ひとつ」にしている。
 ややこしいのは。
 この「ひとつ」は自分にとっては自明である。わかりきっている。ところが他人にはその「ひとつ」がわからない、と私たちが思い込んでいる(教え込まれている)のだが、

 こういうことは、実は、誤解かもしれない。
 私たちは何かを語るとき、ある「ストーリー」というか、時系列を考える。簡単に言うと原因があり結果があるという「ストーリー」のなかで、ものごとを説明しようとする。その「ストーリー」がより簡便に(合理的に、資本主義にそうように)動いていくと、それを「わかりやすい」と評価したりする。
 けれど、これは誤解かもしれない。その「わかった」は錯覚かもしれない。
 私たちは「ストーリー」だけで生きているわけではない。「ストーリー」を逸脱していく部分に何かを感じたりする。「ストーリー」を逸脱した部分に、あ、この人はこういう人だったのか、とその人間性に触れたような感じをもつことがある。そのことこそ、ほんとうは「わかりたいこと」だったりする。
 そういう逸脱を「詩」と呼んだりもする。

 脱線したが……。

 秋山は、空襲のあった日の夜、町を逃げまどった。母を探し回った。そして、自分は生き延びて、母の死と直面した。そういう「ストーリー」のなかに、「古典」が紛れ込む。なぜ、その古典なのか--それは説明されない。説明されないがゆえに、それは不透明な「肉体」のように、何かを隠す。--こころを隠す。悲しみを隠す。隠すのだが、そこに悲しみが「ある」ということが、悲しみそのものよりも強烈につたわってくる。その「悲しみ」は私のものではないから、私はそれを「感じる」ことはできない。
 でも。
 道に倒れて腹を抱え、呻いている人がいると、あ、このひとは腹が痛いのだということが、自分の痛みでもいないのに「わかる」ように、秋山の「悲しみ」がそこにあるということが「わかる」。
 人がもし「わかりあう」ということがあるとすれば、そういうふうに、そこにあるものが「ある」と感じる、その「ある」が自分の肉体のなかにも「ある」と感じるというかたちでしかありえないかもしれない。
 それに似た「ある」を秋山は、「古典」のことばに見ているのだ。そこにある「恐れ」と「夜明け」という必然的にやってくる時間との関係--その「ある」を「共有/分有」しているのである。

 この詩は、そして「時間」の「共有/分有」、「こと(ある)」の「共有/分有」は、時系列とは無関係であるということをも語っている。時系列というのは、合理主義(資本主義)が考え出した方便である。それは「説明」や仕事を共同で進めるためには必要なものであるけれど、その時系列とは関係なしに、人間の「おぼえていること」は動く。10年前のことも、生きたことのない古典の時代のことも、きのうのことも、「思い浮かべる」ときは「時間の間--数字で整理できるひろがり」を無視して、くっついている。
 この「合理主義」を無視した(合理主義を切断した)接続のなかに、何か、人間の不思議な「いのち」がある。

 ここで、こういう感想を書くのは不謹慎かもしれないけれど。
 それは、たとえばこの詩の最後、母の遺体に出会ったとき、母は生きていたのだ、と思い出すのに似ている。遺体を見て、母は死んだと思うより前に、ああ、母は生きていたのだ、母は秋山が母を探し回ったように秋山を探し回ったのだということが「わかる」。秋山が母を探し回ったことを、秋山の「肉体」が「おぼえている」。それが、「いのち」の動いている形で、「いま/ここ」に遺体を突き破るようにして動く。
 「時間」はいつでも「時系列」を突き破って、強烈に動く。
 秋山は、不規則な番号と断片の配列で、そういうことをも語っている。




秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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瀬崎祐「砂嘴」

2013-06-17 23:59:59 | 詩集
瀬崎祐「砂嘴」(「どぅるかまら」14、2013年06月10日発行)

 瀬崎祐「砂嘴」はとても風変わりな詩である。

乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる
そのために本を取ろうとしたときに指先でじゃりじゃりと音がした
厚い革表紙がこすて小さな傷がついたかもしれない
いつも本はこうして傷つけられていく

砂嘴の先端に立って 波の向こうにそびえる高い塔を視ていた 形をもたずにあいだに漂っているものを視てしまおうとしていた それは 触れようとして指のあいだからこぼれるものを赦そうとしなくなるようなことだ 塔の内部に隠された暗い階段をどこまでもくだりつづけるようなことだ 張りつめたものを身体から逃がし 水のなかに揺らぐ藻を真似ている

 1行目の「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」は現実そのものの描写ではない。何かの比喩と考えていい。でも、何の比喩? わからないね。わからないけれど、その「皮膚」が指先で、その指で革表紙の本を取れば、その砂のために革表紙に傷がつくことは、「わかる」。
 これが、実に、問題。
 前提がわからないのに、それが引き起こす変化、それによって起きる「こと」がわかる。これは、なぜ? 私たちは「もの」はわからなくても「こと」ならわかるのだ。というのは、たぶん、言いすぎなのだろうけれど、「こと」のなかには私たちにもわかることがある。たとえば、砂のざらざらした感じ、その硬さは、やわらかい革を傷つけるという「こと」はわかる。やわらかさと硬さ、なめらかなものとざらざらしたものがぶつかったとき、一方が傷つくということを、私たちは知らず知らずにおぼえている。だから、それが「わかる」。そして、そういう「わかること」があると、そこに書かれていることがすべて「事実」に見えてくる。「わかる」ものが含まれていることが引き起こす不思議さがここにある。
 そして、さらに不思議なのは、そういう「わかること」をいったんわかってしまうと、ことがらはすべて「わかる」ことの方へとなだれていく。

いつも本はこうして傷つけられていく

 という1行を読むとき、「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という日常的にはありえないことがらは、一瞬の比喩として消えてしまっている。「傷つけられていく」という「こと」、運動のなかに、すべてがのみこまれていく。
 そして、「傷つく」という「こと」のなかで、あらゆるものが「変質」する。
 こういうことは瀬崎は書いていないのだけれど、つまりこれから書くことは私の「誤読」なのだけれど、その「傷つく」ということばは、1行目に反響して、皮膚のなかから砂が湧いてくるのは、もしかすると「わたし(皮膚の持ち主、瀬崎?)」が何かに傷ついたことの「比喩」ではないのか。「傷ついた」感じが、肉体の中で砂のようにじゃりじゃりしている。それが、何かに触れたときに、どうしても出てしまう。隠しておけない。そうして、そのことによって、さらにやわらかい何かを「傷つける」。「傷つける」という「こと」(運動)が循環し、循環しながら、少しずつ変わっている、そういう感じがする。
 「比喩」というのはふつうは「もの」と「もの」の置き換えなのだが、たとえば美人の笑顔を美しい花と呼ぶとき、「笑顔(名詞)」が「花(名詞)」によって置き換えられているのだが、瀬崎の「比喩」は「もの」の置き換え(言い換え)ではなく、「こと」のなかにある「運動」を「別なものの運動」で言い換えているということになるかもしれない。
 で。
 比喩が「こと」であり、「運動」であるとき、それは固定できない。「運動」というのは変化があってはじめて運動になる。
 こんな説明で、説明したことになるのかどうかわからないが……。
 2連目。皮膚と砂の関係、革表紙との関係は捨てられてしまって、話者は突然「砂嘴」の突端にいる。「砂嘴」のなかに「砂」があるといえばあるけれど、皮膚の(指の)なかから湧いてきた砂が「砂嘴」となるわけではないだろう。
 ここでは動きつづけなければならない「運動」は加速し、飛躍する。
 何かが「加速」し、「飛躍」しながら、そこで「視る」という行為を行ない、「視る」ことで何かをつかもうとしている。「傷つく/傷つけられる」という「こと」そのものを「視る」--ということをしているのかもしれない。
 でも、そんなもの、見える? 見えないね。「抽象的なこと」はことばで便宜上あらわすことはできるが、ほんとうは見えない。その見えないものを、見えないがゆえに瀬崎は「ことば」で「視る」と書いてしまえば、うーん、なんとなく堂々巡りのめくらましのような論理になってしまうが。
 でも、ほら。
 「形をもたずにあいだに漂っているもの」なんて見えないし、「塔の内部に隠された階段」というものは砂嘴からは見えるはずがないし、でも「階段をどこまでもくだりつづけること」の「こと」は見えなくても「わかる」。
 ここなんだなあ。
 ありえないもの、見えないものを書きながら、そこに「わかること」をつけくわえ、その「わかる」を中心にして、というか、推進力にして、瀬崎は「わからない」ことのなかへ入っていく。「わからないこと」のなかにも「わかること」がある。「わかること」があると、「わからないこと」も「肉体」に響いてくる。そして、それは「世界」を、つまり、「わかる肉体」そのものを、少しずつ、変化させていく。
 3連目。

警告の言葉を聞いたような気もする しかし 振りかえったときにはすでに塔は消えていた 長い年月をかけて造りあげられたものも 眼をそらしただけで消えることを知った
あの営為の日々は何だったのだろうか たしかめる形が失われれば営為は残らない 消えた跡に風が吹き抜け砂がとんでくる 見えないだけで本当はそこに未だ存在しているかのような痛みとともに 砂嘴の先端に立ちつくしている

 何かの「違和感」というか、つかみきれない何か。「わからない」なにか。「わからない」ということが「わかる」なにか。
 「乾ききった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という「わからない」けれど具体的な比喩が「、営為」という具体性を完全に欠いたことばをとおって、2連目よりもさらに抽象的になっている。そのとき、「形をもたずに」には「形が失われれば」にかわるということも起きている。
 なにか、とても不思議な「運動」がある。そしてそれは、

未だ存在しているかのような痛み

 ということばのなかで、結晶する。これ、なに? 「未だ存在しない」はわかるけれど、「未だ存在している」って、どういうこと? どちらも正確な日本語ではないのかもしれないが、私の「感覚の意見」では「未だ存在しない」(将来に渡っても存在しない)はありえても「未だ存在している」はありえない。「している」は「いま/ここ」のありようであって、「している」は「持続」そのものであるからだ。後者は「まだ存在している」としか言わないと思う。しかし、瀬崎は、その「痛み」が将来も存在しつづけることを感じていて、その「持続感」が強いので、思わずことばがねじ曲がって、そういう「こと」を書いてしまうのだ。

 何かわけの「わからない」違和感があって、そしてそれはいつまでもあるということが「わかる」。その「わからない」と「わかる」のあいだで、ことばが何かを探しながら少しずつ変形し、動いていく。「動いてること」だけが、リアルに迫ってくる。
 これは、おもしろいなあ。
 わからないけれど、おもしろいなあ。「わかりたい」という欲望を刺激する不思議さがある。1連目の行わけのことばが、2、3連目には散文形式になるのも、何かを追い求めていくときの「ねばり」のようで、おもしろい。ことばが自らの「肉体」を積み重ねながら、一歩一歩動いていくおもしろさがある。





窓都市、水の在りか
瀬崎 祐
思潮社
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池井昌樹「肩車」

2013-06-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「肩車」(「花椿」2013年07月号)

 先日、秋亜綺羅と話したとき池井昌樹のことが話題になった。秋亜綺羅曰く「池井の詩はスケールが大きいのは大きいけれど、現代詩なのか。近代詩ではないのか」。あ、これは、むずかしい。というか、鋭い疑問だなあ。どう返事をしていいのか、わからない。私がなんと反応したのか--私のことなのに思い出せない。それなのに、秋亜綺羅の疑問だけはしっかりとおぼえている。私がすっぽり秋亜綺羅にのみこまれてしまって、私が消えてしまったんだね。
 「現代詩」の定義。私は西脇によりかかっているところがあるので、「わざと」書かれたものを「現代詩」と簡単に考えている。池井の詩は、「わざと」書かれた部分というのがない。そういう意味では「現代詩」ではない。でも、いま、書かれている。それなのに「近代史」という具合に、「過去」に帰属させていいのか……。
 秋亜綺羅の疑問は、ことばはどんな方向へ向かうべきなのか、という問いかけなのだと思うけれど、どんな場で具体的に動くべきなのかという問題なのだと思うけれど、うーん、池井はそういう「問題」を、問題にしていないのかもしれない。
 --という問題が、ちょっと私の頭をよぎった。でも、それはほおっておいて、ただ詩を読んでみよう。「肩車」

ささえあったさるのよう
おおよろこびでのぼったな
きだってよろこんでいたもんな
あのえだのうえそのうえへ
いつでもはだしでのぼったな
ひやひやわくわくのぼったな
かたぐるまされたよう
そこからなんでもみえたっけ
しらないまちもしらないかわも
しらないさきまでみえたっけ
ほんとにきもちよかったな
いまではだれものぼらない
きにはながさきはながちり
いつもながらにあおばして
けれどもなんだかさびしそう
こだちもこどももさびしそう
しらないまちもしらないかわも
しらないさきもみえなくて
ひやひやもなくわくわくもなく
ひはのぼりまたひがしずみ

 木にのぼる。そうするといつもと違った風景がみえる。「しらないまち」「しらないかわ」が見える。ただ風景がみえるだけではなく、その風景の向こう側に、「しらないさきまで」見える。
 「しらないまち」「しらないかわ」というのは、行ったことがない町であり、川である。ここまでは「現実」である。けれど「しらないさき」は「現実」ではない。目で見えるわけではない。けれど、見えてしまうものである。何で見るのか。
 「肉眼」というと、矛盾になるかもしれないが、私はそれを「肉眼」と呼びたい。空想、想像力なのだが、「頭の中の目」(こころの中の目)ではなく、池井の肉体から切り離すことのできない目、肉体につながったままの目が見ているのだと言いたい。
 そして、このとき「肉体につながったままの」というのは、実は、池井個人の「肉体」ではない。池井個人の「肉体」なのだけれど、池井個人に「限定されない」。そこには「他人」の「肉体」もつながっている。私の「肉体」にも、ほかの読者の「肉体」にもつながっている。--だから、ほら、池井のことばを読むと、幼いころの、木に登ったときの印象が思い出され、懐かしい感じになるでしょ? 木に登ったときのことを「肉体」がおぼえていて、それがよみがえるのである。
 それだけではない。
 その前の1行、

かたぐるまでもされたよう

 ここに、池井独自の「肉体論」がある。
 木に登りながら、池井は「肩車」を思い出す。肩車を「肉体」がおぼえている。だれかの(たぶん、父だろう)の肉体(肩)の上に乗って、いままでとは違った風景を見る。それは、いつもの風景と同じなのに、違って見える。父の肉体の上に乗ると、いままでの肉体では見ることのできなかったものが見える。そして、その「違い」は風景そのものにあるのではなく、幼い池井の視線の高さと、肩車で得た視線の高さの違いによるものだが、その「視線の高さの違い」とは「肉体の目」そのものの違いなのである。肩車されたとき、池井は、「父の肉体」を瞬間的に引き継ぎ、飛躍し、その「飛躍」の感じを「肉体」が「おぼえる」。この「肉体」の先にすべてがつながっている。
 ここには「肉体」のことが明確に書かれていないように見えるけれど、ほんとうはしっかりと書かれている。池井には、私がいま書いた「肉体論」は自明のことなので、池井は「わざと」は書かないのだ。強調するようには書かないのだ。書けないのだ。しかし、無意識に書いてしまう。書かないと、次のことばが出てこない。つまり、仕方なしに(?)書いてしまう。それが「肩車」の1行なのである。
 言いなおすと。

かたぐまのでもされたよう

 この1行がなくても、木の上から遠くが見えた、知らない町が見え、知らない川が見え、そういういままで見えなかったものが見えたために、その「知らない」ということそのものが見え、さらにその「知らない」の先にも何かあるということが見えた。--その「事実」にはかわりはない。
 でも、その「事実」を池井は「変えたい」のである。高いところにのぼって、知らないものが見える--そういう「視点の変化」を「高さ」の問題から、別の問題に変えたいのである。その変化は単なる「高さ」の変化ではない。その変化は、同時に「肉体」のつながりを含んでいるということに、変えてしまいたいのである。(というのは、まあ、強引な私の「感覚の意見」なのだけれど。)
 つまり、それをさらに言い換えると、池井は、その「知らない先」に実は「肉体のつながり」を見ているのである。いま、父に肩車されて知らないものを見たように、その知らない先にはやはり「肉体」をもったひとが暮らしていて、その「肉体」はつながっているのである。「肉体」がつながっているからこそ、それを「知らない」とも言えるし、「知らない」ということばで「知っている」ものにもできるのである。
 「肉体」のつながりが、知らない先までつづいている。そのつながりのなかで、池井は「放心」する。「放心」すると、その放心が「遠心・求心」のように、宇宙(世界)全体を「ひとつ」の「肉体」にする。

 このことを、さらに言いなおすと。
 池井は、木に登り知らない先を見たということを、肩車をしてくれた父の肉体を引き継ぎながら見ると同時に、つまり「父の肉体」になって見ると同時に、そのとき池井がのぼった木そのものにもなって、見るのである。「池井の肉体」は「木の肉体」とも「ひとつ」になるのである。
 だから、さびしいのは池井だけではない。木もさびしい。さらには、知らない町も知らない川も、知らない先も、みんなさびしい。「ひやひや」や「わくわく」だって、さびしい。世界が、宇宙がさびしい。
 「肉体」がさびしい。

 こういうことを、池井は「わざと」は書かない。しかし、それを見えない形で(見すごしてしまいそうになる形で)、無意識に書いてしまう。その「無意識」のなかに、「現代詩のわざと」につうじるものがある。それを「わざと」書かない、あくまで無意識に(必然として)書いてしまうので、それがつたわりにくい。
 池井は現代詩が「わざと」書くものを、「必然」として書いてしまう。
 それが「必然」であるから、スケールが大きいという秋亜綺羅の評言にもなる。

 池井のような「必然」の詩人がいると、私はなんだか安心してしまう。どんなでたらめを書いても、池井が詩をしっかり「肉体」として守っているという安心感がある。池井と同時代を生きていることに私は安住(?)している。
 一方に池井の「肉体(必然)」があり、他方に秋亜綺羅の「知性(わざと)」がある。(秋亜綺羅は「知性(必然)」というかもしれないが。)その両方を、私はたまたまものごころがついたころから見てきている(読んできている)のだが、これはなかなか幸運なことだと思う。

明星
池井 昌樹
思潮社
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バズ・ラーマン監督「華麗なるギャツビー」(★★)

2013-06-16 22:44:21 | 映画

監督 バズ・ラーマン 出演 レオナルド・ディカプリオ、トビー・マグワイア、キャリー・マリガン

 3D版と2D版があり、私が見たのは2D版。3D映像を意識したシーン(カメラワーク)がとてもうるさい。パーティーのシーンや車を飛ばすシーンが、ただ3Dであることを強調するためだけのために撮られている。3Dで見ても、特に驚くような感じではないだろう。しかし、そんなふうに撮らないと3Dの意味がなくなるので、わざとあざとくとったのだろう。
 そのあおりで、とてもひどいシーンがある。映画の中で重要なシーンなのだが、それが無意味に薄っぺらくなっている。質感のないつまらない映像、人間の役者で言うなら「存在感」のない映像、情報量の少ない「看板」のような映像になっている。皮肉にも、それは看板そのものの映像なのだが……。
 マンハッタンと郊外を結ぶところにある石炭ガラを処理する労働者の町の眼科医の看板。眼科医は廃業して、看板だけが残っているのだが、その看板がそこで起きることを見ている(目撃者になっている)というとても重要な「もの」なのだが……。3D版では何か工夫がしてあるのかもしれないが、2Dで見るかぎり、芝居の書き割りのように安っぽい。「目撃者」を象徴する看板なのだから、それなりにきちんとした映像にしないと、その象徴が映画を語りすぎてしまって、味気ない。映画の中で起きたことがどんなに空想的であっても、それを目撃したということだけは事実である、という「意味」が、とっても薄っぺらに浮き出てしまう。「ストーリー」の要約になってしまう。「目撃」という「要約」そのものになってしまう。
 映画に限らず、何でもそうであるが、「目撃したということ」なんかはどうでもいい。「目撃されたこと」そのものがあればいい。「目撃者」なんか、いらない。観客が「目撃者」そのものであり、カメラが「目撃者」なのだ。(小説ならば、「文体」が「目撃者」なのである。)
 「目撃者」を強調すると……。
 ギャツビーの「アメリカンドリーム」(極貧の家から独立して、大金持ちになり、美しい女と結婚する)という「夢」そのもの(夢の内容)は、まあ、とっても薄っぺらになってしまい、「夢見ること」が強調されてしまう。目撃したのは、夢を追いかけたひとりの男がいたということであって、その男の夢そのものがないがしろにされる。言い換えると、こそにはストーリーだけはくっきりと浮かび上がるが、そのストーリーを突き破ってしまう夢の具体的な(物質的な)豪華な愉悦がおろそかになってしまう。
 それだけではなく、「夢見る男」(敗北した男、失敗した男)は、実は、こんな純粋な面をもっていたということを「目撃者」が語らないとおさまりがつかないという、なんとも薄っぺらいというか、「道徳の教科書的」というか、--成功しないアメリカンドリームの言い訳みたいなことを付け足さないことには「おわり」にならないという奇妙なところにたどりついてしまう。(原作そのものが、そういうふうになっているのだろうけれど。)
 映画は、まあ、夢の具体化をできるかぎり表現しようとはしたのだろうけれど、なんとも「情報量」が少ない。ひとを驚かすパーティーのシーンも、数は多いのだけれど「質」がともなっていないので少なく見える。「質」の欠如によって「成り金」を強調しているのかもしれないけれど、うーん、そうではなく「質」そのものを、この映画は表現しきれていないのだと思う。パーティーのシーンにはたしかに豪華な「装置」は出で来るが、演じている役者から「愉悦」がつたわってこない。衣装が身についていない。着こなしていない。単なる群衆、というより、群衆以下だな。エキストラにすらなりきれていないひとがあふれているだけ。豪華なパーティーというよりもただのどんちゃん騒ぎである。実質がそういうものであるのかもしれないけれど、観客に、こんなのただのどんちゃん騒ぎじゃないかと思わせるようでは、ねえ。だって、「目撃者」のトビー・マグワイアは、それを豪華なパーティー、自分とは別の世界と見ているわけでしょ? その、別次元という感じが、ぜんぜんないからねえ。「洗練」が欠如しているのだね。成り金だから「洗練」とは無縁なのかもしれないけれど、成り金にしかできない「洗練」というものもありそうな気がするのだが、その成り金の強烈な消尽感覚もないからねえ。
 レオナルド・ディカプリオもよくないなあ。芝居をしすぎる。神経過敏に苦悩するシーンなど、顔が別人になってしまう。そういう人間はひとをだませない。結局、最後は純愛を生きるわけだから(純愛を目撃されるわけだから)、それでいいのだという見方もあるかもしれないが、そんな「ストーリー」は見終わった後でテキトウにこじつけることがらなのだから、こんなあからさまな変化を随所に見せては「紙芝居」になってしまう。ストーリーのための演技になってしまう。「キャッチ・ミー、イフ・ユー・キャン」のときのような明るいペテン師感覚が生きる歓びとしてあふれていないと、だまされる方も楽しくない。キャリー・マリガンが一生懸命フォローしているが、おいつかない。名前は知らないが、キャリー・マリガンの夫をやった役者が自然な存在感でスクリーンをひきしめていたのが印象に残る。
                        (2013年06月16日、天神東宝3)
バズ・ラーマン スペシャル・コレクション [DVD]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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森やすこ『さくら館へ』

2013-06-15 23:59:59 | 詩集
森やすこ『さくら館へ』(思潮社、2013年04月30日発行)

 森やすこ『さくら館へ』を読みながら、私が考えるのは、またしても「肉体」と「精神」との関係である。
 たとえば「新年」。

1の娘は 死にたくなったと
     ひと声のこしていなくなる
2の娘は あなたを殺してあげると
     ふた声のこしていなくなる
3の娘は もうあなたを含めてなにもかも嫌
     み声のこしていなくなる

 「1の娘」「2の娘」「3の娘」。これは「3人」とも読むことができるが、「ひとり」と読むこともできる。「ひとり」と読むとき、あるとき娘は「死にたくなった」といい、別なとき「あなたを殺してあげる」といい、さらに別のとき「あなたを含めてなにもかも嫌」と言ったということになる。
 「娘」の「肉体」はひとつ。そして、「精神」はそのときそのときによって違っている。--人間の基本的なあり方というのは、そういうものだと思う。
 娘の側から見ると。
 「肉体」があって、そのときどきによって、「肉体」といっしょに動く「精神」というものは違っている。「死にたくなった」と「あなたを殺してあげる」の間には「断絶」があるが、(つまり、それは矛盾した考えであるが)、断絶を気にしないで平気でつながってしまう。そういうつながりを「肉体」は平気で受け入れる。そして、そういう「断絶」した考えを、そのつどそのつど、どこかにしまい込む。「肉体」のなかに溶け込ませてしまう。
 で、この「肉体」と「精神」の問題なのだが、よく人間は「肉体」と「精神」でできているという「二元論」を聞くのだが、(私もいま、そんなふうに書いてきたのだが)、「肉体」と「精神」という具合にわけてしまうと、「二元論」というのは、とても奇妙なものになる。いまの娘の例で言うと「肉体」は「ひとつ」なのに、「精神」の方は「3」ある。「死にたくなった」「殺したい」「何もかも嫌」--これでは「四元論」にならないだろうか。「肉体」は「分裂」しないが、「精神」は「分裂」する、という具合に考えることもできるけれど、うーん、それでは「肉体」と「精神」は対等な関係ではない。「二元論」といわれてしまえば、「肉体」はなんだかすごくそんな感じをしたように思える。私には。だから(?)、私は「二元論」には反対なのだ。
 もちろん、いまの私の「論」は「1の娘」「2の娘」「3の娘」が「ひとり」ではなく、別々の3人であると考えれば、「肉体」と「精神」の「二元論」は成立するのだけれど……。

 で、いまの「肉体」と「精神」の関係を、娘ではなく母親(森)の側から見つめなおすとどうなるのかなあ。
 「ひとつの肉体」のなかで、そのときそのとき「違った精神」が動いている--ととらえると、これも「二元論」になる。ただし、その「二元論」を、精神はそのときどきで変化するという方便で処理している。
 あ、でも。
 「肉体」は「ひとつ」というけれど、さっきと今では見かけは「ひとつ」でも実際は完全に同じではない。細胞は瞬間瞬間に変化している。たとえば、「死にたくなった」言ったのが1年前、「殺したい」と言ったのが2年前とすると、そのときの「肉体」はずいぶん違っている。それでも「肉体」は「ひとつ」であると、私たちは思い込んでいる。なぜなんだろうなあ。
 簡単である。「肉体はそのつどそのつど変化しており、ひとつではない」(複数である)と考えるとめんどうくさいからである。そんなことは考えられないからである。考えた瞬間にも、その肉体が別のものになっているというのでは、何がなんだかわからなくなってしまうからである。そういうことは「考えない」、考えなくていいのだ。
 脱線してしまうが、世の中には「考えられないこと」というものがある。「考えること」を「肉体」が拒絶するものがある。たとえば、いまの「去年の肉体」と「いまの肉体」は別個の存在であるという考え方。これはできない。できないことを「肉体」は「おぼえている」。小さいときから、無意識に「おぼえている」。おなじことに、たとえば「人を殺してはいけない」ということがある。こういうことに「説明」を要求するひとがいるが、そんなものに「理由」などない。そういうことを「肉体」が「おぼえていない」なら、それは「肉体」が「肉体」になっていないのである。なぜ人を殺してはいけないか--ということは、考えなくていいことなのだ。そこで「肉体」と「精神」を分離させて、「精神」だけ、動かしてしまうということが、つまり「二元論」そのものが間違っている「根拠」は、たぶん、その辺りにある。
 あ、ずいぶん脱線したが、そういう風に、その時その時で違った「精神」といっしょにあらわれている「肉体」--それに対しては森はどう向き合うのか。これは「精神」の問題であるとかたづけてしまうのか。そんなことはできない。「精神」がどこかへ行ってしまえば「肉体」もどこかへ行ってしまって「あなたはいなくなる」。いなくなる、と言っても、この世からいなくなるわけではない。だから、むずかしい。

 さらに、それは次のような展開にもなる。(詩は、順序が逆で、いまから引用する方が、先の引用より前なのだが……。)

愛をもって娘を殺した
ふっと思いつく愛をもって父を殺した

 この「殺した」は「肉体」そのものからいのちを奪ったということではない。「肉体」といっしょに存在する「精神」を否定した、という意味だろう。つまり「二元論」の世界の「精神」の部分を対象にして、それを「殺した」と言っているのである。
 と、書くと……。
 私は「二元論」を否定しているか、肯定しているのか、あやしくなってしまうが。
 これは「方便」なのである。
 「二元論」をつかうと、いろいろなことはとても説明しやすいので、それを利用するのだが(利用しないと言えないことがあるのだが)、そのとき利用した方便が正しいとは言えないのである。人間は(わたしは?)、ずぼらなので、どうしても便利なものをつかって、そのときそのときで論理をでっちあげてしまうが、これは仕方のないことなのである。(開き直ってはいけないのかもしれないけれど。)
 「方便」(便宜上のなりゆき)で「二元論」をつかうけれど、その「二元論」で世界を押し切るとまたとんでもないことになるので、そういうことはしないのである。人間というものは。「二元論」は便宜であると自覚して、そこから引き返さなくてはいけない。「二元論」以前に。

 あ、ごちゃごちゃしてきだが。

 森は、「二元論」(ときには、1の娘、2の娘、3の娘、という具合に四元論になるけれど)で世界をとらえているように見えるけれど、それを押し切らずに、「肉体/精神」を「ひとつ」のものとして、そのときそのときで受け止めている。言い換えると、そのときそのときで、娘といっしょに森自身も苦しんでいる。苦悩している。いまのは、まずかったなあ、という具合に反省したりする。それは、まあ、ごにゃごにゃしたことなので、愚痴にも聞こえるけれど、そのわからなさのなかに森の正直がある。「肉体」と「精神」は「ひとつ」なので、これは「精神の問題」という具合に切り離して対応できない。娘もそうなら、森もそうである。
 森は、そのつど「老女1 2 3」にもなる。「1、2、3」は「便宜」。そうすると、わかりやすいけれど、ほんとうは「わかりにくい」(肉体と精神が混沌とした「ひとつ」、融合した「ひとつ」)があるだけである。そして、このわかりにくさと「1、2、3」のわかりやすさの便宜の葛藤のなかに、森の正直がある。
 森の「ひとつ」は、そして、森の場合、「人間」だけのことではない。「園丁の 日」という詩では、「1の草」「2の木」「3の花」という表現が出てくる。(ここから感想を書きはじめるべきだったのかなあ……)。この「1の」「2の」「3の」は無意味である。「1の草、2の草、3の草」と同じ「もの」を区別するために1、2、3という記号がつかわれているのではないのだから。草、木、花ですでに区別されているのだから。
 で、このことは逆に「1の娘」「2の娘」「3の娘」も、ほんとうは、何かをはっきり区別させるためにつけているのではないということを「証明」する。それは区別するためではなく、ただ「便宜上」つけただけのもの。無意味である。それはたとえていえば「草、木、花」になってしまった娘なのである。見かけが娘に見えるから1、2、3と番号で整理しているが、それは実は、違うのだ。--二元論、あるいは四元論が無意味であるということを証明するために、「便宜上」つけたものなのだ。
 それは森の「老女1 2 3」に対応する形で、その都度その都度、「いま/ここ」にあらわれてきた「いのち」のありかたなのである。言い換えると、「娘1 2 3」も「老女1 2 3」も「1の草」「2の木」「3の花」も「ひとつ」。「ひとつ」の何かがあり、それが「ひとつ」のままではごちごちゃしすぎてわけのわからないものになってしまうので、便宜上「娘1 2 3」「老女1 2 3」「1の草、2の木、3の花」という表現といっしょに、「いま/ここ」にあらわれてくる。すべては「ひとつ」、という「一元論」が「数元論」の便宜を経由して、ことばになっている、というのが森の世界である。

 詩集の感想というよりも、私の考えを書きすぎたかもしれない。



さくら館へ
森 やすこ
思潮社
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山本博道『雑草と時計と廃墟』

2013-06-14 23:59:59 | 詩集
山本博道『雑草と時計と廃墟』(思潮社、2013年03月25日発行)

 山本博道『雑草と時計と廃墟』の感想は、どう書いていいかわからない。認知症の母親のことを書いている。介護がたいへんである。
 「屑物入れ**」の書き出し。

十日ぶりに施設から連れ帰った母は行く前よりもさらに言葉を忘れ
ていて会話が成り立たなかったどれが紅茶のティーバッグかもわか
らなければそれをどうするのかお母さんその袋を開けないと紅茶は
出せないよと言っても「袋」も「開ける」も理解できず無表情で固
まっていた施設ではこれは白身魚ですよ今日は何月何日何曜日で外
は晴れです雨ですよそろそろお昼になりますよなんて言わないだろ
うからただ食べて寝かせて生かされていたんだろう

 母の様子と山本の感想が句読点のないまま接続していく。母親の変化と暮らしのなかでのさまざまなことは句読点で整理できないということなのだろう。
 それは、わかる。わかるけれど--山本のことばは句読点がなくても読めてしまう。
 これは、変だなあ。

 こんな言い方は酷な言い方だとは思うのだが(そして私は介護の実体というものを知らないのだが)、山本の、この句読点を必要としない整然とした意識は、母親にとってはつらいだろうなあ。母親のなかでは句読点がどんどんなくなっていく。句読点だけでなく、接続してはいけないものが接続し、断絶してはいけないものが断絶していく。関係が不明になっていく。その関係の崩壊を、関係が崩壊していますよ、ほんとうの関係はこうなんですよ、とひとつひとつ数え上げていく。これでは、関係の崩壊に苦しむ母親は逆に苦しくなるだろうなあ。いっそう苦しくなるだろうなあ。
 なぜ、こういう文体を山本は選んだのかな?
 
 句読点なし、の文体は、たしかに母親と「ひとつ」の世界かもしれない。母親の意識を再現したものかもしれない。
 でもねえ。
 「肉体」の一体感がない。意識が「母親」と「山本」を完全に区別してしまっている。「肉体」が別個に存在するから「意識」も別個に存在する。そしてその別個に存在する母の「意識」が「流通言語=流通意識?」のありようとは異なっている。異なることによって、「肉体」の個別性がいっそう強調される。山本とは違う肉体のなかで意識が崩れていくという「肉体と精神」の二元論の強調のように思える。
 うーん、そうなのかなあ。
 「意識の崩壊(認識のみだれ)」が生じたとき、「肉体」の個別性は強調されるだけなのかなあ。
 私には、実は、わからないのである。
 私の考えでは、「肉体」の個別性というのは、単なる合理主義の思想(資本主義の思想)であって、それは「精神」の運動を簡単にするための「方便」としか思えない。「肉体」は「ひとつ」しかないと思うので、ちょっと、山本の書いていることと、折り合いをつけるのはむずかしいのだが、どう言えば私の考えが山本に「感想」としてつたわるかわからないのだが……。
 母親は、「肉体(いのち)」をそれぞれ別個のものである(断絶して存在する)という考えがいやになったのじゃないのかな? ひとは「精神(愛と言い換えてもいいけれど)」でつながる(ひとつになることができる)というような、肉体と精神の二元論をレトリック、精神の強引さがいやになったのじゃないのかな? 精神で「ひとつ」になるためには、「肉体」はまず「ひとつ」であることをやめて複数でなければならない。あらゆるものは複数にならなければならない。複数になったあと、関係を整理しながら「ひとつ」になる--そういうことが、いやになったのじゃないのかな? 「精神」を経由せずに、「生きている」ということだけで「ひとつ」になりたいんじゃないのかな? 
 それは、まあ、「理想」のようなものであって、合理主義(資本主義)の世界では実現不可能なのだけれど。
 なんとなく、ほんとうになんとなくなのだけれど。
 私は山本に同情するというよりも、お母さんに同情したくなるのである。
 何もかもわからなくなって、それでも生きているという困惑。その困惑を、山本がひとつひとつ、ていねいに区別する。句読点なしで、区別を消しているようであっても、すらすらと「意味」が通じるくらいに、ことばの肉体のなかにある「区別する力」を発揮している。この強い力と、まだまだ、お母さんは向き合いつづけなければならないんだね、と想像すると、「肉体」がつらくなる。
 山本の苦労を、脇においてしまうことになるけれど。

 どうも、思っていることが、うまくことばにならない。こういうことを、どんなふうに語っていいのか、私はまだわからない。(私の肉体は、そのことをはっきりとおぼえていない、だから思い出せないのだと思う。)

 否定的なことばかり書いてもしようがないので、気に入ったところをひとつ書いておく。「春**」の2連目。

水のゆれる小樽運河を背にカメラを構えたぼくを眩しそうな顔で見
ている母の写真がどこかにあったはずだがそのアルバムの入った段
ボール箱をどこにしまったのか探してみようという気力もなくてぼ
くは小樽運河と母をもういちどみてみたいと思いながらなかなかそ
れを適えられないゆるやかな鰊御殿への坂道を上りきってふり向く
ときらめく海が広がっていた遊覧船についてきた白いカモメのくち
ばしに手で餌をやったのはそのときだったろうか

 坂を上ってふり向くと海が広がっていた。そこから思い出は、坂の上を離れ、突然遊覧船の上につながる。カモメのくちばしと餌をやる手につながる。時間と場所が、非合理的につながる。かけはなれたものが、「ひとつ」につながる。接続してしまう。--それが「認知症」と同じことだと私は思って読むのだが、どうだろう。
 何かが時空をこえて結びつくとき、その結びつきのために、何かが切断され、排除されている。それは「認知症」とどう違うのだろう。
 かけはなれたもの、突然、出会い--それが、あるときは「詩(芸術)」と呼ばれ、あるときは「認知症」と呼ばれる。
 その違いの間には、その偶然の出会いが「意識的」かどうかということがらが横たわっているかもしれない。たしかに、そういう出会いを意識的に作り上げる(わざとつくる)のが「現代芸術(現代詩)」というものだが、「わざと」ではなくても、そういうことを引き起こしてしまうこともあるからね。坂の上からみた海と遊覧船の上でのカモメとの出会いのように。
 そのときの「肉体」と「意識」の接続/切断/不連続というようなものを考えていくと、また違ったものが見えてくるかもしれない。



雑草と時計と廃墟
山本 博道
思潮社
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岩佐なを『海町』(2)

2013-06-13 23:59:59 | 詩集
岩佐なを『海町』(2)(思潮社、2013年05月31日発行)

 岩佐なを『海町』の、きのうの「感想」は、ちょっといいかげんだったかもしれない。ほかの詩人との比較であれこれ言いすぎて、岩佐の詩から離れてしまったかもしれない。具体的なことばへの感想が少なすぎた。だから、きょうは補足。
 「記憶なんか」という作品。たまたま開いたらそのページだったので、この作品について書くのだけれど(という、またしてもいいかげんな読み方なのだが……。)

頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護の時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ
その真ん中に脳がおさまり
顎を振って揺らすと
細かい刺激を受けた
脳はまん丸になって<団子状>
擂り鉢のなかでまわってる
くるりんくりりりん回ってる
さてこれをポイッと
記憶再生ダストシュートに
四階から落とす<隆ちゃんちは最上階>
シュートは螺旋状にできていて
ありゃりゃこりゃこりゃと
(あくまでそんなカンジッ)
渦巻いて脳は落ちて行くでよ

 何が書いてあるか。頭蓋骨が擂鉢型になっていて、そのなかで脳はだんごのようになっている。それをダストシュートで捨てる。--ということが書いてある(のかな?)ことばを追って、そのまま繰り返すしかないことが書いてある。
 で、そう「理解」した上で言うのだけれど、
 これって何?
 私の「現代詩講座」ではこういうとき受講生に質問するのだが、うーん、きっとみんな答えに困るだろうなあ。自分の現実とつながりのあることが書いてないからね。言い換えると、たとえばだれかに恋したとか、けんかしたとか、だれかが死んだとか、さびしいとか。あるいは、きのうこんな美しい風景を見たとか。
 こういう「自分の現実」は無関係なものを、私は「物語」と呼んだのである。岩佐は「物語」を書いている。
 「物語」にはふつう「主人公」がいて、その主人公が行動して、それにともなって精神や感情が動く。ふつう「物語」は主人公の行動を描くふりをして、その行動の奥にある精神・感情を描く。精神・感情が人間の本質だからである。--そういう「物語」の定義は、岩佐のことばの運動にはあてはまらない。
 それでも私が岩佐のことばを「物語」というのは、そこには「私」ではなく「もの」が語られているからである。--というのは、方便であって、ちょっと、私がほんとうに考えていることとは違うのだけれど、言い換えると、そういう方便をつかって、私は少しずつ論理をずらしていって、この文章を読んでいるひとをだまそうとしているのだけれど(正直なので、私は、そう告白しておく--告白というものは、いつでも嘘を含んでいるものだけれど)。
 岩佐は、ここでは、頭、頭蓋骨、脳という「もの」について語りながら(物語りしながら)、実は「もの」については語っていない。「もの」を明らかにしようとはしていない。たとえばふつうの「物語」が主人公の本質(精神/感情)を印象的に描くために「できごと」を展開するが、この岩佐の詩では頭、頭蓋骨、脳の本質など追求されていない。そのかわりに、擂鉢とだんごの関係(擂鉢のなかでだんごはこねられる)というようなどうでもいいことが語られ、さらにそのだんごは擂鉢のなかで「くるりんくりりりん回ってる」ということが語られる。(もちろんその描写から頭、脳のありようを「暗喩」として導き出すこともできるかもしれないが、そういうハイテクノロジーを駆使した読み方は、私には信じられない。--ので、)
 私は、
 これは、ただ「くるりんくりりりん回ってる」ということ、そのことばを書きたいから書いているのだと、判断するのである。岩佐は「物語」を語るふりをしながら、「語ること」(ことばを動かすこと、音を動かすこと)、そのものを描いている。
 岩佐の「物語」の主役は、「日本語」。「ことば」の「音」そのもの。
 「くるりんくりりりん」には、いわゆる「意味」はない。物がまわっている状態を「音」にしているのだが、その「音」は実際に脳がまわるときの音ではない。「音」ではないものを「音」であらわす。ベルがちりんちりん鳴っている--なら、そのちりんちりんはベルの音を模したものであるけれど、脳は擂鉢のなかで「くるりんくりりりん」という音を出しているわけではない。それに似た音を出しているわけではない。
 では、なぜ、「くるりんくりりりん」って言うのかなあ。わからない。わからないけれど、でも「くるりんくりりりん」というのはたしかに「回る」にぴったりだなあ。いいかえると、大雨が「くるりんくりりりん」降っているとは言わない。でも、太陽が「くるりんくりりりん」照っているだと、何か感じてしまうなあ。そういう言い方があっても、いいかもしれないなあ、とも思う。
 音には何かしらの意味ではないもの、無意味が含まれていて、それが意味をひっかきまわすのかもしれない。
 そういうことを強く感じるのが、

ありゃりゃこりゃこりゃと

 これはダストシュートを転がりながら落ちていく脳を描写したものだけれど、その「ありゃりゃこりゃこりゃ」は説明するのはむずかしいね。しかし、自分で「ありゃりゃこりゃこりゃ」という感じで何かにまきこまれたときのことなんかが、「肉体」の奥から引き出されてきて、そうなのか「ありゃりゃこりゃこりゃ」と落ちていくのかということが、なんとなく「わかる」。この「わかる」はあくまで、「おぼえていること」を思い出すことだできる、ということ。だから、

(あくまでそんなカンジッ)

 「そんなカンジッ」と強引に押し切ってしまうしかない。そういう「カンジ」を「肉体」で「おぼえていないひと」には、それはけっしてわからない。そしてそのカンジをおぼえているひとにだって、では、それを別のことばで言いなおすことができるかというと、できない。
 ここはあきらめて(?)、岩佐のことばについていくしかない。そのまま受け入れるしかない。
 で、そういうその詩人のことばについていくしかない、受け入れるしかない、言い換えることができないという部分が詩なのだが、
 その詩の核心って……
 それって、岩佐が独自に考え出したもの、突きつめたものではなくて、日本語が無意識的に共有している「感覚」だよね。「くるりんくりりりん」という音、「ありゃりゃこりゃりゃ」という音、その言い回し、声にこめる響き--それって、日本語の「肉体」がもっているものであって、その日本語の肉体を、私たちは「分有/共有」するだけだね。
 そのとき(ここで、私の「論理」--そういうものがあるとしてだけれど、「論理」はまた飛躍するのだが)、
 そのとき、岩佐が書いている「物語」はもしかすると「日本語の肉体の物語」ということになるかもしれない。日本語の「肉体」がおぼえている何か、それを引き出すために岩佐はことばを動かしているかもしれない。
 その「物語」が、では、どんなふうに有効なのか--と現代の合理主義(資本主義)は問いかけてくるかもしれない。まあ、強いて言えば、合理主義(資本主義)、流通第一主義を嘲笑うという効果(否定の効果)しかないかもしれないし、それも完全否定ではなく、ちょっとからかってみました暗いかもしれないけれど、

ぬるぬるのいきもの
おもいおもわれ
なつかしきしやわせ。
毎日脳を丸め捨てて
記憶なんか取り戻す
部分的でもいいじゃない。

 「部分的」でもいいのである。なにか、ふっと、あ、日本語にはこういうことができる、こういうことばをつかってきたのだと思い出せばいいのだ。そうやってことばの「肉体」にふれればいいのだ。
 私の「引用」は部分的で、いいかげんで、岩佐の「趣旨」をねじまげているかもしれないけれど(誤読しているのだけれど)、そこから「種子」が芽を吹くということもあるだろう。



 この詩集には岩佐の銅版画が挿入されている。岩佐の銅版画の題材は、いうなれば架空のもの。現実には存在しない。で、その現実には存在しないものを描くということは、私の強引な見方では、「もの」を描いているのではないのだ。岩佐は「線の肉体」を描いているのだ。「線」そのものがもっている「無意味」を描いている。何かの「輪郭」を描くふりをして、輪郭を描くことができるという線の本能を動かしている。
 詩も同じ。「意味」(物語)を書くふりをして「日本語の肉体」を動かしている。




海町
岩佐 なを
思潮社
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岩佐なを『海町』

2013-06-12 23:59:59 | 詩集
岩佐なを『海町』(思潮社、2013年05月31日発行)

 岩佐なをの詩は、かつては私にはとても気持ちが悪いものだった。いつのころからか気持ち悪さが消えた--ということは何度も書いてきたが……。また、そのことを思い出した。なぜ、気持ちが悪くなくなったのか。時里二郎、松岡政則、とつづけて読んできて、その延長線上に(?)岩佐なををおいてみると、少しわかるように思える。
 私の読み方は「誤読」なのだが、それを承知で書き進めると。

 岩佐なをの詩は「物語」である。
 「物語」を考えるとき、いちばん物語に近いのはたぶん時里の詩かもしれない。多くのひとは時里の詩に物語を読みとると思う。散文形式が多いし、ストーリーがあり、そのストーリーが入れ子構造になっていて、読み進むこと(構造を理解すること)が一種の謎解きのような快感を引き出す。「私」と「父(祖父たち)」の系譜も、物語風に時系列を整える。「私」と「父」との関係のなかに物語がある。詩は、もっぱら「父」の物語のなかにある。その周辺にある。
 松岡の詩は、物語を「私」と「父」との関係から、「私」と「土地(土地に住むひとたち(土地の祖先たち)」の関係に拡大する。松岡の詩は、土地の物語にふれる。誰一人しらない土地へ行っても、「土地の祖先」に松岡は会ってしまう。「土地の祖先」の物語を聞き取り、それが自分の知っている土地の物語と重なるのを感じる。それは土地そのものが重なるというより、「祖先たち」が重なるのかもしれないけれど、「土地」抜きにしてはありえない物語である。時里の物語では、私と父が主役だったが、松岡の物語では「土地」が主役なのである。
 では、岩佐の詩の場合は?
 主役は「私」ではない。「土地」でもない。「土地」にある「もの」や「いきもの」である。人間ではない。人間の枠の外にある存在である。たとえば、「土塀」では猫である。(ほかの見方もあるだろうけれど、たとえば土塀を主語と見る見方もあるだろうけれど、とりあえず猫ということにしておく。)

傾きながらも時代をつけて
東西に限りなくのびる
この土塀を右側に感じつつ
彼れ此れ何百年歩いていることか
徐々徐徐々々
この世のやからには到底見えない
透きとおった毛むくじゃら姿で
四本足を倦まずに進める

 この猫をもちろん岩佐の化身と見ることもできるが、そうであっても、岩佐は「人間」というか、岩佐自身をひきずらない。猫になってしまう。猫の視点をはなれない。
 で、ここで問題。
 えっ、猫ってことばをもっている? 日本語を話す? 私は聞いたことがない。猫とのつきあいは、私にはないので、実際問題として猫がことばをもっているか、日本語を話すかどうかは確かめたことがないので、間違っているかもしれないが、一般的に動物はことばを持っていない、すくなくとも日本語を話すとはいわれていない。
 その猫がことばをあやつるって、どういうこと?
 松岡が「土地」をとおして「祖先たち(の肉体)」を「分有/共有」するように、岩佐は、いま/ここにいる動物と岩佐の「肉体」を「分有/共有」するのである。(だからこそ、その動物を岩佐の「分身」とか「化身」とかいう見方も出てくるのである。)「肉体」は「ことば」を持っているから、そのことばが「肉体」をとおして「分有/共有」されて、それが日本語として動くのである。
 (私の書いていることは、ちょっと奇妙に感じられるかもしれないけれど--ほかのひとは「肉体」というものを「頭」とか「観念」という「流通言語」に置き換えて、無意識にやっていることである。私はその無意識の「流通言語」の部分を、意識的に「肉体」ということばでひっかきまわしているのである。)
 あるいは、「肉体」を動物と「分有/共有」するとき、ことばが必要になってくる、ということかもしれない。
 で、このあとがさらに問題。
 ことばというのは、個人の「肉体」とは別個に「ことば自身の肉体」をもっている。(松岡なら、ことば自身の「土地」をもっている、ということになる。)それはそして、日本語なら「日本語の肉体」ということになる。--というようなことは抽象的すぎるので、具体的に言いなおすと。
 たとえば、5行目。

徐々徐徐々々

 これはなんだろう。「徐々」が繰り返されているだけのようでもあるけれど、「じょじょじょじょじょじょじょ」と音にすると、「少しずつ」とは違ったものがまぎれこんでこない? おしっこの「じょじょじょ」、言いなおすと立ち小便の「じょじょじょ」。猫が塀にそって歩きながらマーキング(?)しているのかもしれないが、塀と立ち小便なら、そこに人間の姿も見えてくるが……その見えてくるものをふっとばして、やっぱり「じょじょじょ」の音が……。
 ことばには「意味」があるから、そういう「連想」を引き起こすのかもしれないけれど。連想というのはあくまで何かにつながってそれからのびるものであって、そののび方に決まりがあるわけではない。連想はどこへ行ってもいいのだけれど。
 意外とそういうものではなく、何かしら「きまり」をもっている。それは「日本語」という「土地」の「祖先」たちがどんな具合にことばを(音を)動かしたかということと、どこかでしっかりつながっている。
 そして、ほんとうの「物語」は、実は、その「ことばの肉体の祖先とのつながり」のなかにある。
 時里は「私」と「父(祖父たち)」という「肉体」のつながりのなかに、ことばでもって「入れ子」をつくり、それを「物語」にした。松岡は「土地の肉体」とつながることで、そこに「物語」を生み出した。岩佐は、人間の「肉体」を遠ざけて、「動物たち」を登場させ、そこに「ことばの肉体」を持ち込むことで、「日本語の肉体」を浮き彫りにしながら「日本語の肉体」そのものを「物語」にする。そして、その「物語」が完成したとき(詩が書き上げられたとき)、私たちは私たちの祖先(父をふくむ)の「肉体」ともつながる。日本語の肉体をとおしてつながる。
 強引な「誤読」かもしれないが、私には、そういう具合に見える。
 岩佐のことばが気持ち悪くなくなってきたのは、岩佐の日本語が「日本語の肉体」とのつながりが強くなったからだと思う。ことばのなかでも、特に「音の肉体」のつながりが強くなったからだと思う。--言い換えると、その日本語が、ずいぶん懐かしい日本語の音になってきたからだと思う。
 廿楽順治の音もいくらか岩佐の音に似たところがある。口語の音、肉体を含んだ音が、物語を統一する。その物語のなかで、私は新奇な世界を見るというよりも、私の「肉体がおぼえている音」を聞く。「音楽」を聞く。
 岩佐は、(と、ここで飛躍して書いてしまうのだが)、あるときから、物語の辻褄をきにしなくなった。ただ「ことばの音楽」(音の肉体の享楽)に身を任せはじめた。そういう感じがする。「物語=意味=結末」というようなむりやりな感じがなくなって、音が「肉体」そのものの輝きを発揮しはじめた、という感じが私にはする。

しみは次第にもりあがり
へこみしわになりうめき
人相をつくってから路上に
ペシッと落ちるだけ
(熟し柿の臭いで)

 「土塀」のなかほどの行だが、その「ペシッ」と「熟し柿」の連結(連想、飛躍)に、ああ、これは「日本語だ」と納得するのである。「音」が「日本語」の「肉体(歴史)」として動いているのを感じるのである。

 あ、これって、詩の感想になるのかなあ。よくわからないが、そういうことを今回の詩集を読みながら、あてどなく考えた。






海町
岩佐 なを
思潮社
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松岡政則「野のひかり」

2013-06-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「野のひかり」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 松岡政則「野のひかり」は魅力的な書き出しである。

手にも
ふけつな感情がある
ときどきけいない反射をする

 「ふけつな感情」とは具体的にはどういうことか。「いけない反射」とはどういうことか。何の説明もないけれど、なんとなく刺戟される。「肉体」が。たとえば手淫の記憶なんかが刺戟される。手淫、オナニーが不潔であるわけではないし、いけないことでもないのだが、「不潔、いけない」と言われることもある。そういうことを「肉体」は「おぼえている」。いちいち意識するわけでもないのだが、ことばを聞くと「おぼえていること」が意識をつきあげて、「思い出す」--変な言い方だな。「おぼえていること」を「思い出す」とき、それは意識を突き破ってあらわれる。「肉体」の「おぼえていること」が意識をこじあける、ということか……。
 この「肉体」の動きを、松岡はとても奇妙な形で「擁護」する。「弁護」する。

手にも
ふけつな感情がある
ときどきけいない反射をする
しかたがないからいまのは祖さまらのやったこと
いつもそういうことにする
うまいもののない土地は
ひとも育たない

 いまやったことは松岡がやったことではない。「祖さま」がやったことである。責任(?)を先祖に転嫁する。
 自分のなかに先祖を見る。そして、そのつながりを「意識」ではなく「肉体」そのものの運動としてとらえる。「肉体」は「ひとつ」である。--というのは、時里二郎の場合もそうであった、と言うことができる。
 ただし、時里二郎は「祖(先祖)」とあいまいに書かずに「父」と明確に書いていた。私はいい加減な読者だから間違っているかもしれないが、時里にとって「肉体」はもっぱら「父」とつながる。「父」から「父」へ。つまり「祖父」の系譜。「母」は登場しない。
 松岡は「父」にこだわらない。「祖」であれば、それでいいのだ。自分の「肉体」がどこから来たか、「肉体の思想」がどこから来たか、厳密につきとめない。逆に、複数のなかに「肉体」を拡散する、といってもいいかもしれない。「祖さまら」の「ら」に注目したい。
 松岡のつながる「肉体」、一体感を感じる「肉体」は複数である。だから、時里なら絶対に書かないような「肉体」の「つながり」を書いてしまう。
 2連目。

貌と貌
ですむことがある
大谷くんが先にきづいた
うどん屋のまえでしばらく笑いあった
大谷くんは昔のままだったまったくの別人でもあった
どこの親もいい貌しないのに
大谷くんとこのお母さんだけだった
上がりんさい! 上がりんさい!
あれを思い出せてよかった
こえはそのひとそのもの
ぜんぶが知れる

 「大谷くんのお母さん」。彼女は松岡とは、俗に言う「血のつながり」はない。けれども、その「肉体」を松岡を受け入れてくれる「肉体」そのものとして感じている。「大谷くんのお母さん」を思い出すと、幸福になる。幸福だったことを松岡の「肉体」は「おぼえている」。
 この「おぼえている」は1連目の「ふけつ」「いけいない」と同じように、何か、突然にあらわれてくるものである。
 しかも、松岡は、「大谷くんのおかあさん」と会って「おぼえていること」を思い出すのではなく、大谷くんに会って思い出すのである。大谷くんを通じて、「大谷くんのお母さん」の「肉体」とつながる。「大谷くん-大谷くんのお母さん」の関係は、「時里-時里の父」と同じように、いわゆる「肉親」の関係だが、その「肉親の関係」に松岡は入り込んでしまう。そこで「ひとつ」になる。
 「祖さまら」の「ら」には、そういう「つながり」がこめられている。松岡の「肉体」のつながりは、時里の感じているつながりとは異質なのである。
 時里の関係が「入れ子」構造なのに対し、松岡の場合は、逆に「入れ子の解体」といえばいいのか、拡散、ばらばら、である。どこかで接点があればそれでいいのだ。どこでもいい何かの接点を利用して、「つながっている」と言ってしまえば、もうつながってしまうのである。「ひとつ」なのである。
 これは、なんというか、時里の側から見るととても奇妙であると思う。いったい、それで安定したつながり、「入れ子」のような強固な、誰が見ても「一体」であるという感じになるのか……。
 松岡は、その不思議な一体感を、「土地」ということばで「入れ子」にしてしまう。
 「ひとつ」の土地がある。そこに複数の「肉体」がある。(これは、便宜上の説明であって、私は「複数の肉体」というものを信じていないのだが。)つまり、複数の人間が生きている。複数の人間が関係しながら(セックスしながら、と言えばもっと明確になる)、ひとを産み、育て、いっしょに生きている。まじりあっている。このまじりあいは、ばらばらに見えても「ひとつ」なのである。「土地」の各場所に、そのときそのときにあらわれる「肉体」の「ひとつ」のありようなのである。それはいつでも「土地」そのものにかえり、いつでも「土地」のなかからあらわれてくる。
 「ふけつ」とか「いけない」ということばのように。そのことばといっしょに「おぼえていること」が「肉体」にふいにあらわれてくるように。
 それは「ひとつ」の「貌」でありながら、同じではない。同じではないけれど「ひとつ」なのだ。

大谷くんは昔のままだったまったくの別人でもあった

 この不思議な、矛盾に満ちた1行はそのことを語っている。
 何年ぶりかで会った大谷くん、その顔はまったく別人といっていいくらいだが、話してみると性格はまったく昔のままだった。「おぼえていること」をそのまま「思い出す」。そこに何の矛盾はない。それくらい「昔のままだった」。さらにそれを通り越して、大谷くんの顔は、大谷くんのお母さんの顔そのものだった。お母さんの顔になっていた。大谷くんの性格はそのままだったが、顔は大谷くんのお母さんになってしまっていた。だから、大谷くんのお母さんを思い出した……。
 あるいは逆に、大谷くんは昔のままの顔だったが、性格はまったく別人だったということも考えられるけれど、この詩では、そうではないだろう。
 顔はまったく別人。だけれど性格(肉体の奥にあるもの)はまったく昔のまま。そして、その「肉体の奥にあるもの」(肉体がおぼえていること)が同じであるとわかったとき、まったく別の顔であるにもかかわらず、その顔が昔のままに見えてくる。
 こういうことって、経験したことがあるでしょ?
 「肉体がおぼえていること」は「いま/ここ」の「間違い」を修正して、一気に「正しい」何かを出現させる。その「正しい」ことのなかに、松岡は「大谷くんのお母さん」を含めている。

 「土地」が「ひとつ」。けれどひと(祖さま)は複数。--ということは、ひとによって松岡に対する態度も違うということでもある。違うからこそ、松岡は、ほかのだれかではない「大谷くんのお母さん」に「肉体」のつながりを強く感じる。よくおぼえている、ということになる。
 その「おぼえていること」を松岡は、どの「土地」へ行っても探すのだ。なぜなら、「土地」は離れているようでもつながっている。たとえば日本と台湾は離れているが、地球全体から見ると海の底でつながっている。「土地」はまたひとつの「肉体」である--と思って松岡の詩を読むと、台湾旅行記もまた違って見えてくるはずである。(これは、補足)。





口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
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時里二郎「針間國賀毛郡(はりまのくにかものこおり)」

2013-06-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「針間國賀毛郡(はりまのくにかものこおり)」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 「針間國」と読める木簡が出土したという記事を目にしたとき、わたしのどこかがちくりとした。その痛点に籠もった芯のある刺激がいつまでも退かなかった。そこがどこなのか、わたしの身体のどこかではないが、わたしのどこかにあることには違いない。そんな場所があるものだろうか。まるでわたしの飛び地のようなその場所が、「針間國」と書かれた木簡といっしょに発掘されたような感じだった。

 時里二郎「針間國賀毛郡」は、そう始まる。この書き出しに時里の詩の特徴がとてもよくあらわれている。ことばが先にあるのだ。ことばが肉体を刺戟する。そして、それは肉体の発見へとつながっていく。
 ただし、肉体といっても、「わたしの身体ではない」と時里自身が書いているように、「わたしの肉体」ではない。「わたしの飛び地」としての「肉体」である。それは、具体的には何か。

 その場所を「針間國」と名づけたわたしは、わたしの小学校の頃に父が針の行商をして巡った播磨の一地方をそこに嵌め込んだ。

 「父」が出てくる。時里は何度も父のことを書いている。あるときは歌人だったりする。ほんとうに歌人なのか、あるいは針行商をなりわいとしていたのか、私は知らない。ほんとうであっても、虚構であっても、その「職業」は問題ではない。(というのは、いいすぎだけれど、便宜上、そう書いておく。)重要なのは、「父」という「肉親」を持ち出してくるところである。「父」はたしかに「わたしの身体の飛び地」である。血がつながっている。遺伝子がつながっている。けれども、別個の肉体として存在する。
 ことになっている。
 と、私がわざわざ「ことになっている」を別行にして書いたのは、実は、私はあらゆる「肉体」はつながっていると感じている。しかし一般的には一人一人の肉体は別個のものであると考えられている。一人一人の肉体を「別個」の存在としてとらえるのは、そう考えた方が「頭」の運動にとって都合がいいからだ。合理的であるからだ。そう考えると「合理主義/資本主義」の活動がしやすいから、便宜上、そう考えているだけなのだと思っているからなのだが、これに対する私自身の考えを書きはじめると、ちょっと脱線ではすまなくて、暴走になってしまうので、ここで切り上げるけれど……。
 時里は、その「飛び地」としての「父」を手がかりに、「針間國」と現実の「土地」を結びつける。その作業を時里は「嵌め込む」と書いている。架空(虚構)の力で、ふたつの土地を結びつけることを「嵌め込む」と書いている。
 この「嵌め込む」というのは、その動詞を「わたし(時里)」と「父」に重ね合わせると、とてもおもしろい。「飛び地」を想像力で(虚構の運動)で結びつけることを、時里は「線」の運動と考えていないのだ。「嵌め込んで」、一体にしてしまうのである。「ひとつ」にするのである。
 時里の詩にはよく「入れ子」が出てくるが、それは時里の想像力が、何かと何かを結びつけるだけではなく、何かと何かを「入れ子」構造にする、「嵌め込む」ことで「ひとつ」にするという具合に動いているからである。

 で、この何かと何かを結びつけると何かを何かに嵌め込むということは、どこが違うか。何かと何かを結びつけるときは、その何かと何かは別個に存在する。つながっているのは「線」なのだが、嵌め込むの場合は、何かと何かは別個には存在しえない。「ひとつ」になってはじめて「嵌め込む」ということができる。「嵌め込む」は逆に言うと「包み込む」(のみこむ)でもある。主体(主語)も逆転すれば、動詞も逆転する。そういうことが可能である。そのために、「物語」は複雑になる。整理できなくなる。混乱する。そして、その混乱のなかの陶酔が、また「ひとつ」なんだなあ。「嵌め込む/包み込む」が区別なくいっしょになってしまうときの、陶酔。--ここに、セックスにつながる愉悦がある、と書き足すと、また私のスケベさが出てくるだけなのだが、そんな感じで私は時里のことばを呼んでいる。

 で、その「嵌め込む」という作業、「ひとつ」になる作業。これを、どうやって進めるかというと。
 きのう読んだ奥田春美の場合は、「肉体」の内部にあるものをひっくりかえして出してしまう。内部を外部にする。それを繰り返すというような作業であった--と、いま、考えているのだが(そんなふうに書かなかったけれど、一日経てば、考えていたことも変わる。新しく触れたものによって変わってしまうものである)、時里の場合は、「肉体」をつかわない。
 ことば、をつかう。
 で、(で、ばっかりでつないでいるのは、私の考えが飛躍しているからなのだが)、ことばをつかいながら、それが「頭」ではなく「肉体」と関係してくるのは。「頭」で書いている詩は大嫌いと言いながら、私が時里の詩を偏愛してしまうのは。
 そのことばに、「肉体」がいつでも絡んでくるからだ。
 この詩では「父」が「わたし(時里)」の「身体の飛び地」であったけれど、時里にとっては「ことば」も「時里の肉体の飛び地」なのである。それは時里のことばが、たとえば流行の西洋現代哲学の「流通言語」を借りてきていないところに、明確にあらわれている。時里は彼自身の「肉体」がなじんでいるもの、彼の「肉体の飛び地」であるだれかが具体的にそこで動いている土地の名前など、具体的なものにこだわる。そこから離れない。いつでも、時里のことばには「肉体」がある。「肉体」が覚えていることばだけをつかっている。
 「針間國」ということばは、時里自身の肉体が知らないことかもしれないけれども、それは「父の肉体」が知っている。「父の肉体」はその土地のことを「覚えている」。そして、その「父」が「肉体で覚えていること」は、時里の「肉体」に引き継がれる。「遺伝子」が、それを引き継ぐのである。
 こういう論理は、非科学的なものであって、証明はできないのだが。

 ついでに、もう少し大胆な飛躍をしておくと。「枕詞」というものが日本語にはある。私はそれをほとんど知らないが、昔のひとは、たくさんつかった。その「枕詞」とは、私には「肉体」に思えるのである。「肉体」で「共有」するイメージ。「肉体」が「覚えていること」を引き出す念力のようなもの。「意味」をつくりだすのではなく「肉体」に働きかけ、「肉体」が覚えている「もの/こと」を刺激する。

 で、ことばが覚えている「肉体」を時里が引き継ぐとき、そこに、やっぱりセックスの愉悦のようなものが起きる。「ことばの肉体」がセックスし、「ことば」の枠を超えて、ぶっ飛んでしまう。エクスタシー。
 そういう数行。

 吸谷(すいだに) 両月(わち) 三口(みくち) 馬渡谷(もおたに) 芥田(けた) 産坂(さんざか) 糠塚(ぬかづか) 古法華(ふるぼっけ) 二ヶ坂(にかさか) 鴨谷(かもだに)

 借りてきた播磨の地誌をたよりにそれらの土地の正しい名を声に出してみると、見えない風景が返歌のようにその余韻のなかを流れた。

 産坂のうろこぐも 芥田のタンポポ 古法華の廃道の石 糠塚の酒屋の愁い顔 二ヶ坂を下りてくる自転車の音が稲波に飲まれるように途切れ途切れに聞こえてくる 両月の村で拾った鴨の羽 苦艾(ニガヨモギ)の道へと続く吸谷の畔

 ことばの愉悦のなかに、その土地に生きる「肉体」の愉悦が「飛び地」として存在する。いいなあ。

  










翅の伝記
時里 二郎
書肆山田
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奥田春美「反復する森」

2013-06-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
奥田春美「反復する森」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 森を思い出す詩。

眼球すれすれ
それはあった
「それって何?」
美しい吐しゃ物のような
溶けだした贓物のような
粘菌のような
「それって何?」
じかに皮膚への接触をせまるような
いっそこちらからと
身を投げださせるような
意識の混濁を誘発するような
「それって何?」
だから変容途中のやまんばのような
ゾンビのような
ゴブリンのような

 ……のような、が少しずつ変わっていく。私は前半が好きで、最後の「やまんば」からあとはピンとこない。「やまんば」も「ゾンビ」も見たことはない。「ゴブリン」というのは何のことかわからない。肉体と接触のないもの、知らないものについては、私の反応は鈍くなる。とても保守的な人間なのかもしれない。
 ことばの動きとしては、吐瀉物、内臓、粘菌、皮膚と、体の内部からだんだん外へ向けて動いてくる感じが、それこそ吐瀉するときの感覚、肉体の内部にあるもの、たんに食べたものだけではなく、胃や腸の粘膜、のどの粘膜までをも引き剥がしてくる感じを思い出させ、あ、おもしろいなあと思う。すごいなあ、と思う。奥田はこういうことを肉体で覚えているのか……。私は苦しいことは苦手なので、できるなら覚えていなくない。でも、ことばを聞くとその覚えていたくないことを覚えているということを思い出ししてしまう。思い出すことを「強制」される。奥田にはそのつもりはなくても。それは、いやな感じなのだけれど、それがおもしろい。
 でも、後半はおもしろくない。それは先に書いたけれど、私の肉体が知らないことだからだ。そして、その「知らない」ことばは「意識」と関係している。奥田は「意識」ということばをつかっているが、ここから詩がおもしろくなくなる。「肉体」を離れてしまう。

 ところが。

 詩は、そのあと1行あけて、突然「変容」する。そこからが、私にはまた非常におもしろく思えた。

言葉のたどりつけないものは存在していることにはならないから
たいていの言葉が一度はそれに結びつけられた
ようなは増殖した
ほとんど一生です
ほんとうにあったことと頭の中だけにあったこと
記憶にいちいちシルシはついていない
森はもうないのに反復は止まらない
こっそり書くしかないことがあるのです

 「意識」「言葉」「頭」と「存在」の関係を書いている。森はほんとうにあるのか。それは、ない。森の反復だけがある。森を思い出すということだけがある。それは「……のような」ということばでくりかえしたものとことだけがあるということだ。
 --こういうことは、奥田のことばをつかえば「頭」の世界、「意識」の世界なのだけれど、その「……のような」の「……」に「肉体」が関係してくると、そのとき「肉体」が存在する。たとえば吐瀉物。何かを吐く。そのとき「吐く」という動詞と、「吐く」を実践する「肉体」が存在する。森はなくても、「肉体」は私がいるかぎり存在する。森は「肉体」のなかで反復される。何かを「肉体」で反復するとき、その反復を動かしているものが「頭」であっても、その「頭」は「肉体」とのつながりを生きている。「頭」は「肉体」になっている。
 「頭」が「肉体(内臓など)」に「分有」されている。「肉体」は「頭」を「共有」している。つまり「頭」と「肉体」は一体になっている。「ひとつ」になっている。
 こういう「頭」は「肉頭(肉眼、ということばにならって言えば……)」である。
 
 これは、いいなあ。
 「肉頭」とセックスすると、私の「頭」はぶっこわれる。「頭」とだけ書いて、「肉」を隠しているので、それに気づかずに接触して、「肉」がいきなり反応する。「肉体」が反応する。
 だれでもそうかもしれないが(私だけ?)、「隠れている肉」というのは、出会った瞬間にどきりとする。なんだか秘密をのぞいたようで、ぞくぞくする。しかも、その「隠された肉体」は、何度も何度も、その肉体しか知らないことを、つまり私の知らないことを反復していたのだ。
 うーん、その繰り返された「肉体の欲望」に、私の「肉体」はこたえることができるのか--と書くとまるでほんとうにセックスになってしまうが、そういう書かれていないことを読みとる(誤読する)のが、私の、楽しみである。



かめれおんの時間
奥田 春美
思潮社
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ウディ・アレン監督「ローマでアモーレ」(★★★)

2013-06-09 21:51:28 | 映画

監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、ペネロペ・クルス、アレック・ボールドウィン

 ウディ・アレンは女優の魅力を引き出すのがとてもうまい。女性が見てどう感じるかわからないが、私から見ると、ウディ・アレンの映画に登場する女優はとても自然だ。役者というよりも、「そこにいるだれか」という感じ。映画を見ていることを忘れ、女優であることを忘れ、そこにいる女にひかれる。女優を「女」にしてしまう。
 こういう映画ではペネロペ・クルスは損をしている。美しすぎて、ふつうの女性の役をもらえない。「そこにいるだれか」というのはむりで、「どこにいても目立つだれか」という役を演じるしかない。
 いちばん得をしているのがウディ・アレンの妻を演じた女優。ウディ・アレンに好きなことをさせながら、「私がついていないとどうしようもないんだから」という感じで見下している。長い夫婦生活のなかで、自然に身についた夫操縦法なのだが、これが実にいい。まわりの人間には、「夫はばかなんだ」と伝えることで、まわりを安心させる。「この場は私に任せておいて」という感じ。受けているようで、攻めている。ひとつの行動のなかに、受けと攻めの両面があるので、全体の調子がそこに収斂していく。目立つ役どころではないのだけれど、いやあ、すごいなあ。自分の連れ合いにどうかととわれると、まあ、答えに困るのだけれど、見ていて安心するね。あ、こういう人間っているなあ、こういう具合に状況をコントロールする人間がいるなあ、ということを自然に感じさせてくれる。
 役者志望の女と、田舎から新婚旅行でやってきた女--このふたりもすばらしい。ふたりの名前を私は知らないのだけれど(はじめて見た、と思う)、とても魅力的だ。とりたてて美人ではないのだが、ひとりは見栄っ張りの、いわば「見栄」の部分で男をひきつける。男の「見栄」をくすぐる、と言い換えることもできる。もうひとりは、うぶな感じで男をひきつける。
 二人のうち役者志望の女の方が、私にはより魅力的に見えのだが……。この女優のやっている演技はかなり複雑である。男の心を引きつけるために、知ったかぶりをするのだが、知ったかぶりをしているということがわからないといけない。あれ、それ、ほんとう? 芝居じゃない? 芝居なのだけれど、いいか、その嘘にひっかかってみるか、という一種の矛盾した気持ちをおこさないといけない。見ている観客にもわからないといけない。
 こんな役は、うまくやるのはむずかしいと思う。うまくやればやるほど、観客はそれが役ではなく、彼女はそういう人間なのかもしれないと思い込むからね。この女、美人じゃないということを自覚していて、どうやれば男ごころをひきつけられるかを、ずっーと考えて芝居しているんだな、と思い込んでしまうからね。(ペネロペ・クルスのやっている役なら、初めから虚構の演技とわかる。誰もそれがペネロペ・クロスのほんとうの姿とは思わないけれど……)
 そういう変な(?)役どころなのだけれど、変な女なのだけれど、そういう女にだまされてみるのもいいかなあ、などと思ってしまうのである。彼女が女優であることを忘れ、そういう状況になったら、どうするかなあという思いに誘われてしまうのである。
 うーん、どうしてかなあ。
 ウディ・アレンが、女優たちに「受け」の演技をさせているからである。「受け」の演技を引き出しているからである。「受け」というよりもさらに進んで「引き」の演技といった方がいいのかもしれない。女優たちが男優たちがどんどん自己主張しやすいようにする。ウディ・アレンの妻の役どころそのままに、男を遊ばせるのである。その気にさせるのである。
 これは男優の演技と比べるとはっきりするかもしれない。ウディ・アレンの映画では、男優はなかなか魅力的にならない。受けの演技をさせてもらえない。女を、あるいは男をでもいいのだが、人間を遊ばせる演技をさせてもらえない。アレック・ボールドウィンのやった役がそうだが、(ウディ・アレンの役もそうだが)、状況を批判したり、自分で状況を変えるために何かをしようとする。自分の主張(遊び)にのめりこむ。そのために人間のひろがり(幅)が小さくなる。受け止めてくれるひとがいて、はじめて世界が生まれる。
 この映画では、ひとり、しがないサラリーマンをやった男が、状況的に「受け」にまわる役どころで、そこはほんとうに「見せ場」なのだけれど(だからこそ、イタリア人をつかっているのだけれど)、うーん、「受け」きれていない。つまり「受け」が、まわりを遊ばせていない。まわりの遊びを引き出すところにはたどりついていない。
 それは基本的にウディ・アレンが攻めの人間だからだろう。攻める(批判する)という形で世界をみつめるからだろう。ウディ・アレンは世界を批判することで自己表現をするけれど、世界をそのまま受け入れることで自己実現をしない。受け入れてくれる人間を魅力的に表現することで、受け入れてくれる人を探しているということかもしれない。
 
 あ、映画の感想になっていないか。これでは。
 まあ、ローマを舞台に、人間の駆け引き(恋の駆け引き)が描かれているのだが、駆け引きのバランスがうまくかみ合わないのだね。演技が偏っている(人間の描き方が偏っている)からかもしれない。ウディ・アレンはローマはこういうところと切り取る形で要約するが、ローマのすべてを受け入れてはいない。
 先日見たフランチェスコ・ブルーニ監督「ブルーノのしあわせガイド」では、高校生は自分で落第を選ぶことで「ローマ帝国の時間感覚」を引き受けていた。ローマを受け入れていた。
 ウディ・アレンはパリッ子にはなれてもローマッ子にはなれないね。



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大橋政人「水を見ないで」、清水あすか「新しいむき出し。」

2013-06-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「水を見ないで」、清水あすか「新しいむき出し。」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 川の水を見ていると引き込まれるような感じになることがある。大橋政人「水を見ないで」は、そういう危険性について書いたものだろうか。

水を強く見てはいけないよ
水はこわいんだよ
水には頭もシッポもない
水は切れ目がないからお化けなんだよ

 水に「肉体」と比較している。「頭もシッポもない」は人間というより動物だろうか。この「頭」や「シッポ」を大橋は「切れ目」と呼んでいる。
 人間もほんとうは「切れ目」のない生き物かもしれない。便宜上「切れ目」をつくって「頭」とか「シッポ(ないけれどね)」と呼んでいるにすぎないのかもしれない。水は、そういう「ほんらい」の生き物のかたちを教えてくれる。
 でも、「ほんらいの形」なのに「化け物」?
 という具合に、最初は、大橋のことばにひきずられるのだけれど。
 もう一度読んだとき。

水を強く見てはいけないよ

 「強く」は何? どういうこと? そこに引き込まれた。「弱く」、言い換えると(?)、ぼんやりと見ているならばこわくはない。なぜなら、「水には頭もシッポもない」ということには気がつかない。そういうものが「ある」とだいたい考えない。そうすると、というのは飛躍かもしれないけれど……そうすると、「強く見る」とはそこにはふつうは見えないものが見える(気づく)くらいに集中してということになる。
 でも、それは「水」に集中するのかなあ。
 もちろん「水」に集中するのだけれど、集中しているうちに「水」が「水」ではなく、自分につながってくる。「頭」ということばが、それを端的にあらわしている。「水には枝も葉っぱもない」でもいいのに。あるいは「水には窓もカーテンもない」でもいいのに「頭」がない。しらずしらずに自分の「肉体」と比較している。「肉体」に引きつけてみている。
 何かを「強く」見る。「強く」接近する。そのとき、ひとは「対象(もの)」を見るのではなく、自分自身の「肉体」を見る。「肉体」と何かが違うからこそ、それは「肉体」ではないのだが、どこが違うかをはっきりさせようとすると、自分の「肉体」の「切れ目」に則して言うしかなくなる。
 自分を見る--とは、では、どういうことなのだろう。

水はじっと見ていると
だんだん長いお化けになっていくんだ
だから水を強く見てはいけないよ
ほら、さっきから見ていただけで
もう水がチカチカ光り出したろう
目もチカチカしてきたろう
そのうち頭がクラクラして
もうすぐ自分が立っていられなくなる

 「水のチカチカ」と「目のチカチカ」が重なり合う。水と目が「チカチカ」のなかで「肉体」を「共有/分有」し、「ひとつ」になる。おなじになる。
 「強く見る」とは、自分の「肉体」を「分有/共有」させることなのだ。
 そうすると、

もうすぐ自分が立っていられなくなる

 この最後の行の「自分」というのは、この詩では「強く」と同じようにとても重要である。
 なぜ、大橋はここで「自分」と書いたのか。「自分」とはだれか。「大橋」ではない。この詩の主人公は「三歳くらいの女の子」であり、大橋は女の子に向けて「水を強く見てはいけないよ」と注意しているのだが--そうであるなら、この「自分」は女の子である。「自分」というより、「きみ」である。「きみは立っていられなくなるよ」と注意すべきところである。
 でも、大橋は「自分」と書く。
 このときの「自分」には「自他」の区別がない。
 というか、自分(大橋)と他者(女の子)が「ひとつ」になっている。大橋は大橋の「肉体」を女の子に「分有」させている。そして女の子によって「共有」された「肉体」に向かって「自分」と言うのである。
 「強く」女の子を見ると、そういうことが起きる。だれであってもいいが、だれかを「強く」見ると、その「他者」の「肉体」のなかに自分の「肉体」とつながるものが見える。そして、ひとは、その「他人の肉体」のなかに「分有」されることで、「他人の肉体」を「共有」する。
 道で倒れて腹を抱えて呻いている人間を見たとき、瞬間的にたぶん「強く」見ているのだ。「強く」見すぎて、その「他人の肉体」のなかに「自分の肉体」が「分有」され、「あ、この人は腹が痛いのだ」と思う。他人の痛みなのに「自分の肉体の痛み」として、それを「共有」してしまう。
 「痛み」ということ、あるいは「腹を抱えてうずくまる、呻く」ということのなかで、自他が「ひとつ」になる。
 これと同じである。
 そして、この「分有/共有」は人間を相手にしたときだけ起きるのではない。それが「川の水」であっても、そういうことは起きるのだ。
 だから大橋は、水を「強く」見てはいけない、という。しかし、なんでも「強く」見てしまうのが人間なのだ。だから、大橋はここでは「矛盾」を書いていることになるのだが、書いていることが「矛盾」だからこそ、そこに詩がある。思想がある。



 清水あすか「新しいむき出し。」その書き出しが魅力的だ。

朝、目より先に
どこかの臓器が少しだけ、早く目を覚ます。
臓器に
四ツ足の記憶も持っている。

 「肉体」は大橋の書く「水」のように「切れ目」がない。切ってしまうと「肉体」は「肉体」として存在できなくなる。「切れ目」なくつながることで存在し、生きている。それなのに、たとえばわたしたちはその一部を「目」と呼んだり、「内臓」と呼んだりするのだが。
 その「目」よりも、「どこかの臓器」が少しだけ早く目を覚ます。
 これはどういうことなのか--を「流通言語」で言いなおそうとすると、とてもむずかしい。そういうことを「言いなおす」習慣がないからだ。「言いなおす」習慣習慣がないのだけれど--そういうふうに言いなおしたひとはたぶんいないのだけれど、つまりここに書かれていることははじめて聞くことばなのに、私は、あ、これは「わかる」と瞬間的に思う。「そうだ」と思う。清水の言う通りだと思う。
 なぜか。
 私の「肉体」がそういうことを「おぼえている」のである。この「おぼえている」は説明がむずかしいが、そのことばに触れた瞬間に、「肉体」の奥から引き出されてくる、「肉体」の奥から思い出すものなのだ。
 清水は、この「感覚」を「強い」ことばで的確につかみだす。清水は「肉体」を「強く」見つめることで、そこに起きている「こと」をつかみ取るのだ。

朝目を覚ますとき
身体から記憶がみんなこぼれていたら。
声は
四ツ足のとき
足もまだないころ。または海の
粒だったころ。わたしは
身体のかたちをすることだけで、叫ばないでいる。

 それは「未生のことば」の時代だ。「未生のことば」を清水は「肉体」の奥から引き出してくる。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書
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ヘンリー・キング監督「慕情」(★★)

2013-06-08 13:14:32 | 映画
監督 ヘンリー・キング 出演 ウィリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョーンズ

 午前十時の映画祭(第三弾)の一本。いつ見たのか記憶にないけれど、たしかに見たことのある一本で、海辺のシーン、ラストシーン(ウィリアム・ホールデンがあらわれて消えるシーン)はよく覚えているのだが、その昔何を感じたのか、さっぱり思い出せない。何も覚えていない。そして、不思議なことに何を感じたのか覚えていないので、何も思い出せない--と気づいて、
 おっと、発見。
 そうか、感情はそのとき突然生まれるものではなく、やはり昔感じたことをもう一度感じ直すようにして生まれてくるものなのだ。

 そう思って映画を思い出し直すとなかなか。

 ウィリアム・ホールデンもジェニファー・ジョーンズも、これが最初の恋ではない。男は結婚していて、妻とは別居している。別れたいのだが、妻が同意しない。女は夫と死別している。そのふたりが恋をするとき、そこには「はじめて」のものは少ない。というより、「過去」が「いま」となって、恋の行く手を阻む。女には、イギリス人と中国人の血が流れているという「過去」もある。
 そして、「過去」というのは、なんというのだろう、二人だけのものではない。変な言い方だが、二人の「過去」なのに周りの人がその「過去」を知っていて、「過去」に加担するように恋をじゃまする。この周りの人の「過去」を「世間」ともいう。ややこしいのは、それが「世間」であるとき、そこには二人の「過去」以外に「世間の過去」もまぎれこむことである。
 だれもかれもが「自分の恋」を覚えていて、それを基準にしてふたりの恋を判断(?)する。で、微妙なものが交錯する。
 あ、これが「大人の恋」か。大人の恋は自分の覚えていることだけではなく、他人が覚えていることとも向き合いながら、おりあいをつけていかなければならないときがある。めんどうくさい。そして、そのめんどうくささが、まあ、ある意味で、遅れてきた恋を純粋に洗い直すんだろうなあ。
 それにくわえて……これはなんというのか、女の視点で「私はこんな恋をしました」と整理し直した雰囲気が濃厚で、どうもおもしろくない。美男子でとおっていたウィリアム・ホールデンも人形のようだ。海水パンツ一枚になって肉体美も披露して見せるのだけれど、これもね、「私の恋した男はこんなに美しかった」と女が自慢するためだけのものであって、ああ、そうですか、という印象が強い。たぶん、当時としては、この「女の視点」で整理し直した恋物語というのはちょっと新鮮だったかもしれないけれど、うーん、私は女だったことがないので、覚えているものが違いすぎて、どうもぴんとこないのである。気取りがおおすぎる、と言ってしまうと身も蓋もないか……。
                        (2013年06月08日、天神東宝1)

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パク・チャヌク監督「イノセント・ガーデン」(★★★★)

2013-06-07 12:08:54 | 映画


監督 パク・チャヌク 出演 ミア・ワシコウスカ、マシュー・グード、ニコール・キッドマン

 この映画の主役はカメラである。カメラが演技する。役者は、申し訳ないが、添え物である。
 たとえば、叔父に対する忠告をしにきた叔母。彼女がモーテルの近くの公衆電話ボックスで殺される。そのシーンでは首を絞められる叔母の苦悩の表情、あるいは首を絞めるベルト、首を絞める男の手--これは、私はちょっといいかげんに書いているのだが、そういうものがアップで部分的に見える。電話ボックスのガラスをたたく雨粒、夜の光の反射とかも。そのあいまにニコール・キッドマンが家の中を歩くシーンがはさまる。ドアに向かって歩いていく。ドアの前で立ち止まるそのときの横顔(横から見た全身)。さらに主役のミア・ワウシコウスカが地下の冷凍庫のそばでアイスクリームを舐めるシーンがはさまる。その挿入されたカットは、いわば、同じ時間に別の時間で起きていることなのだが、そういう説明がされるわけではない。また、そこで起きていることが殺人に影響するわけではない。ただ、遠くにあるものが同じ時間にそこに映されているだけである。それなのに、何か、つながりがあるように感じてしまう。不気味な何かが映像を貫いている。静謐な恐怖というものが、場所を超えて時間を統一する。それを統一させているのがカメラである。カメラの演技である。
 この映画では何度も殺人が起きるが、その殺人は「全体」が見えない。叔母の電話ボックスでの殺人もそうだが、わりと全体が見えるような少女のボーイフレンド(?)を殺害するシーンも同じである。ボーイフレンドは少女をレイプしようとして、叔父からベルトで首を絞められる。首を絞めるといっても首全体をぐるりと絞めるわけではなく、顎にベルトをひっかけて、それをぐいとひっぱる。少女、ボーイフレンド、叔父、さらには森が部隊の芝居のように全景として見えるわけではない。部分部分が見える。登場人物が見ているであろう「局部」が見える。カメラは登場人物の目になって、しかも、人間の目が見る範囲をフレームで縮小し、つまり焦点を絞って集中的に表現する。その切断されたシーンで観客の情を揺さぶるのである。
 こういうとき、そのシーンの情報量が多いと、きっきと観客は混乱する。何を見ていいかわからなくなる。ところがパク・チャヌクは情報量をしぼりこむことで観客の混乱を避けるだけではなく、そこに「静謐」という無の情報を持ち込み、映像をつめたく洗い流す。--いやあ、これは、ぞくぞくするなあ。わっと声を出し、椅子から飛び上がってしまうような恐怖ではなく(映画館ではだれも悲鳴を上げない!)、こころの底にじわーっと下りてきて、体を凍らせるような、不思議な強さである。
 いやあ、これは、いいなあ。ハリウッドにはない新しさだ。

 だいたいが、わけもわからずただ殺人に目覚めていくという心理を描くということ自体が、とても「現代的」で新しいことだと思うのだが、それをまったく理由づけなしに押し切る監督の力業もすごい。感覚が異常に鋭くて、殺すことでしか自分の安定を保てない人間のことが--うーん、映画を見ながら、だんだんわかってきてしまうということもこわいのであるけれど。
 しかも、それを説明抜きで、その瞬間瞬間の「見る愉悦」と「見る静謐」に封印して、網膜の奥--というより、肉体の奥へとすりこむ手法が、いや、こわい。負けてしまうのである。
 殺しのシーンを例にすると問題が大きすぎるので、それは避けるが、たとえば。
 少女が少年たちに取り囲まれる。殴り掛かってくる少年に対して、少女は鉛筆で防御する。少年の拳に鉛筆を突き刺す。--そのあと、血の滲んだ鉛筆を手でくるくる回す簡便な鉛筆削りで削る。鉛筆が天辺にぎざぎざのついた皮をくるくる吐き出すあの鉛筆削り。そのときの血のついた鉛筆の皮がするする出てくるシーン。それから、その鉛筆を筆箱にならべるシーン。長さが短い方から長い方へ、きちんと鉛筆の頭分だけ違う感じで並んでいる。その整頓された静かな美しさ。
 あ、これ、やってみたい、と思う。こんろなふうに美しく鉛筆をそろえる--そのためにだれかの血を鉛筆に吸わせてみたい。
 危険でしょ?
 でも、これが危険と気づかないうちに、そこに引き込まれていく。

 ピアノの連弾で、少女と叔父が、音楽のなかでセックスするシーンもすごいなあ。ピアノを弾いているのだけれど、それは弾いているのではなく、体の中を流れる情によって弾かされているという感じ。ここでは他のシーンと違って音の情報が多いのだけれど、その音の情報を、少女の足の動き(動かさない動き)によって消して、スクリーンには写っていない少女の性器、そこで起きていることを「見せる」カメラの演技。「見えない」ものが、カメラの「演技」によって、観客の目には見えてしまう。
 その強さ。
 ね、こんなふうにピアノを弾いて、少女を引きつけてみたいと思うでしょ? あるいは少女になって、こんなふうに音楽で侵されてみたい、愉悦の寸前でほうりだされてみたいという残酷な欲望が、肉体の奥で静かにしずかに目覚めているのに気づくでしょ?

 自分の「欲望」というものが、「いま/ここ」だけではなく、何か自分とは無関係なところにあるものと呼応し合っている。そういうものと呼応してしまう力が自分の肉体の中にある--そういうことを感じさせてくれる。
 で、その不思議な呼応が--たとえば最初に書いた電話ボックスの殺人と、家の中を歩くニコール・キッドマン、アイスクリームを食べるミア・ワシコウスカの映像の「不連続の連続」のなかにもあるんだなあ。
 「静謐」というものといっしょに。きっとだれにも、とんでもない「静謐」がある。ひとは「静謐」を守っているが、それは「静謐」ではないのかもしれない。

 ミア・ワシコウスカの黒髪とニコール・キッドマンの赤い髪の対比も、瞬間的に登場する血の赤と似合っていて(二人の髪の色をあわせると、きっと血の色になる)、とてもいいなあ。



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