詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋秀明「家」

2013-06-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「家」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 高橋秀明「家」には一か所、とてもおもしろいところがあった。帰宅して家に入ったときのことを書いている。家にはスチームサウナのような熱気と湿気がこもっている。家にはだれもいない。

               ドアのノブに手を掛けると、その
周りや建築物の隅の方がぶよぶよにふやけているのがわかった。
                            それ
は牛乳に漬けられたシリアル食品が端からふやけていくのによく似
ていて、私の全身にひろがるシリアル食品のカサカサした軽さが、
私にその家の内部にいるのか外部にいるのかをわからなくさせた。

 すでに家の内部にいて、そこがスチームサウナのようだと書いているのだから、「家の内部にいるのか外部にいるのか」がわからないということはない。問題は「わからない」ではなく「わからなくさせた」。
 わかってるのに、わからなくなる。
 なぜ? ドアのノブがふやけているから? うーん、その「ふやけた」感じがドアのノブで終わらずに、高橋の「肉体」の感じになってしまうからだね。
 ドアに触る。ふやけていると感じる。そのとき、「肉体」はドアに「分有/共有」されている。ドアの方から「肉体」のほうにも何かがつたわってくる。そして「ふやけた」に感染してしまう。「ひとつ」になる。
 そのとき、高橋の「肉体」がシリアル食品にかわる。
 なぜ?
 これは、わからないというか、ここが高橋の個性(思想/肉体)。高橋が、そこに出てくる。「ぶよぶよ」とか「ふやけている」は、手で触った感触であったはずなのだが、高橋にとって「ぶよぶよ」「ふやけている」は手の触覚よりも、舌の、口の中の、のどの、感触なんだね。そして、「ぶよぶよ」「ふやけている」は単独(?)で存在するのではなく、「かさかさ」に乾いていて「軽い」と同居している。「かさかさ」に乾いていて「軽い」ものが「ぶよぶよ」の「ふやけた」ものになる。
 私はしらずしらずに「なる」と、高橋のつかっていないことばを書いてしまったのだが……。
 何か、高橋のこの感覚の中には「なる」という不思議な変化がある。「ある」だけではなく、何かが「なる」という変化を生きている。そしてそれを高橋は「内臓」に通じるもので感じ取っている。
 で、こんなことを書くのは強引なのだが(誤読なのだが)、その感覚が「内臓」につながっているからこそ、「家」が、なんというのだろう、「肉体の外観」と「内臓」のような感じに見えてくる。

 詩の最後。

                       ドアの向こうす
ぐに隣家が迫っていて、顔見知りの奥さんが「お子さん達はお変わ
りありませんか」と声をかけてきたので慌てて私はドアを閉めた。

 だれもいないのではなく、家族は「内臓」となっているのだ。だれもいないのは、家族が高橋とは別の「肉体」を生きているからではなく、「ひとつ」の「肉体」を生きているからだ。
 「頭」は人間はひとりひとり別人だと「整理する」。合理的で、都合がいいからだ。けれど長い不在をへて帰宅したとき、「家族」はやはり別々の人間か。そうではなく、何か「身近」なものである。その「身近」さが、高橋の「肌(手--ドアのノブにさわる手)」をするりとぬけて「内臓」にまで入ってくる。
 高橋は、家族の「不在」を書いているのだが、その不在の書き方をとおして、私には、不思議な存在の濃密さがつたわってくる。「肉体」がいやおうなしに感じる「つながり」の区別のなさが、強烈につたわってくる。
 作品のハイライトは、隣の奥さんに声をかけられる前の、四つ目のブロック(かたまり)。そこに「存在形態」はいうことばが出てくるが、高橋はたしかに、人間はひとりひとり肉体をもっていて、別個の生を生きているという「頭」がつくりだした「存在形態」とは違うものを生きている。それを「肉体(思想)」にしている、というこが、そこからわかる。

                        もういちど大
きな声で子ども達の名前を呼んだが、家の内側はやはりしんとして
壁に雨のあたる音だけが静かに響いた。不安が慙愧にうつろうなか
で、手を掛けたドアノブのひとつをちぎれないように注意深く手前
にひくとドアは開いて、ドアの隅のこのぶよぶよこそがもしかした
ら気化したあとの子ども達の新しい存在形態ではないかという考え
に取り憑かれ、私はこのドアの隅から子ども達を解放できるのであ
ればなにを引き替えに失っても悔いはないという思いを胸に畳んで
貌をあげた。






言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
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冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」

2013-06-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」(「乾河」67、2013年06月01日発行)

 冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」に、ぐい、とひきつけられた。

春の夕暮れの中で
花が家にあふれている
花、と言うが
生半可な水を含んでいる
茎が捩じれ
葉は腐り
花弁の縁が挑んでいる
肉厚の花びらは変色し
しかし、触ると指の柔らかさで
脆く壊れてしまった闇は、開いている

 盛りの花ではなく、朽ちる寸前の花なのだが、奇妙に生々しい。いちばん生々しいのは「生半可な水を含んでいる」の「含んでいる」だろうか。ものが存在するとき、それはそのもの自体であると同時に、何か別のものを「含んでいる」。
 だが、別のもの?
 花にとって「水」はいのちである。それが水を含んでいなかったとしたら、花は枯れている。つまり死んでいる。だから花が「水を含んでいる」ならば、それは「意味」にはならない何かである。花が水を「含んでいる」とは書かなくてもいいことである。それを書いてる。--いわば、矛盾?
 たしかに花は水を「含んでいる」。ただし、それは「生半可な」水。完全に含んでいるのではなく、中途半端。
 もしこれが、逆に、花は水分を半分失っている、だったらどうなるか。枯れかけた状態をあらわすことにかわりはない。ただし、「枯れかけた」だったら、この詩は生々しくない。「枯れかけている」のに、それを「枯れかけた」とは逆の、「水分を含んでいる」と書いたから、生々しいのだ。
 詩は、常に矛盾の中にあり、矛盾として噴出してくる。つまり、いままでの「流通言語」を否定し、「無意味」としてあらわれてくる。枯れかけた花を「生半可な水分を含んでいる」と書いたところで、花がよみがえるわけではない。「無意味」である。--「無意味」とは、そういうことである。むだ、不経済、合理主義にあわない……。
 で、そこに引きつけられる。不合理なものが存在する--ということが刺戟なのである。
 半分枯れている。半分死んでいる。けれど、それは半分は「生きている」ということである。その「半分」が、充実しているときよりも、何か生々しい。死によって、生が縁取りされて浮き立つ感じだ。
 「茎が捩じれ/葉は腐り」からの描写は、ていねいだが、そんなに驚きはない。しかし、そのゆっくりとした花の描写のあと、

しかし、触ると指の柔らかさで
脆く壊れてしまった闇は、開いている

 この2行が、また、非常に生々しい。「触ると指の柔らかさで」と書くとき、冨岡はほんとうに花に触れているのか。いや、花に触れているのだが、その花に触れた指が花に向かわず「指の柔らかさ」へ帰ってくる。「肉体」のほうへ逆に動いてくる。花に「肉体」が触られた感じだ。花が冨岡に「やわらかな指だね」「指には(あなたの肉体には)やわらかいものが残っているね」とささやいている感じだ。花びらと冨岡の指が、それぞれの「肉体」を「分有/共有」している。そうして「ひとつ」になっている。
 その瞬間。
 花は崩れ(花は消えて)、闇が開く。「開いている」。
 で、その「闇の花」というのは、単に夕暮れの部屋の闇? 私には、そうは思えない。花と冨岡の「肉体」が「ひとつ」になり、その一つになったものが崩れるとき。そして、そこに闇があるとき。闇と花もまた「ひとつ」だからこそ、そこに「闇の花」が開くのだが、その闇は冨岡の「肉体」の闇でもある。
 「冨岡の指(肉体)/花びらの(花の肉体)/闇(闇の肉体)」が「ひとつ」になっていて、そのすべてが「触る」という動詞で変化する。花に触っていた闇が、花に指が触ったときに花びらが崩れるので、驚いたように花の形を追いかけて花の形に開くのだが、それは部屋の中の闇であると同時に、冨岡の内部の闇でもある。冨岡の内部に闇があったというのではなく、冨岡の内部に闇の花として、その瞬間に開くのである。

帰ると
Mは不在だった






H(アッシュ)―冨岡郁子詩集
冨岡 郁子
草原詩社
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石毛拓郎「植民見聞録」

2013-06-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「植民見聞録」(「飛脚」2、2013年06月01日発行)

 石毛拓郎「植民見聞録」は感想は「月はどっちに出ている」を題材に借りている。1行目に、はっきりと書いてある。

ようやく在日をほこる月がでた
それは動物の遠吠えのコーラスの震えよりも
それは植物の日輪への拝跪よりも
それは鉱物の秘めやかな矜持よりも感動的である

 で、この1行目。

ようやく在日をほこる月がでた

 これを読んだとき、私が「肉体」を「分有/共有」できるのは「ほこる」である。「在日」は「分有/共有」ができない。私は「在日韓国人」ではないからである。彼(彼女)は他人。その「肉体」といきなり「ひとつ」になることはできない。けれど、「ほこる」という動詞なら「わかる」。それが「在日韓国人」であれ、日本人であれ、中国人であれ、その他の外国人であっても、何かを「ほこる」という気持ちの動き、その「動詞」になら、私は自分を重ねることができる。で、そこからこの詩に近づいていく。
 でも、石毛のこの1行は、とても変である。「ほこる」という動詞は基本的に「人間」に属していると思う。けれど石毛は「ほこる月が出た」と「ほこる」を連体形でつかい、主語を月にしている。月がほこる。何? 在日を。
 変だね。
 でも、変じゃないね。このとき、在日韓国人は「ほこる」という「動詞」をとおして、彼の肉体を月に分有している。月を見て何か「ほこる」という感じを実感している。それに月がぴったりかさなるので月を主語にしてしまったのである。人間は何に対しても自分を「分有」することができる。「分有」することで、対象と「ひとつ」になる。
 これを突き進めると、俳句の「遠心/求心」になる。「しずけさや岩にしみ入る蝉の声」と芭蕉が俳句をつくるとき、芭蕉は蝉でもあるし、石でもあるし、しずかさでもある。「分有/共有」が緊密におこなわれるとき、そこに新しい世界が奇跡のように誕生する。
 で、その「ほこる/ほこり」って何?
 石毛は「動物の遠吠えのコーラスの震え」「植物の日輪への拝跪」「鉱物の秘めやかな矜持」ということばで言いなおす。「分有」しなおす。「鉱物の秘めやかな矜持」というのは私にはわからないが、動物と植物の「動き」は、わかるなあ。言い換えると、動物、植物の「動き」に自分の「肉体」を「分有」することができる。歓喜でも恐怖でも怒りでもいいのだが、誰かの声にあわせて声をだすとき、「肉体」のなかで高まってくるものがある。他人の声に励まされて自分の声がしっかりしてくる。自信のようなものが出てくる。あ、これが「ほこる/ほこり」につながるな、と「わかる」。この「わかる」は「肉体」がおぼえていることを思い出すということ。植物の太陽への感謝と祈りも、「肉体」を「分有」できる。私の一家は軍人一家ではなく、田舎の狭い田畑を耕しているだけの貧乏農家だったから、太陽や雨には敏感なのだ。太陽が照り、稲が実ると祈りたくなる。稲の代わりに祈ってしまう。稲と「肉体」を「分有/共有」し、生きるのである。そして、稲の中で実が熟れてくると--その「ほこる/ほこり」を「分有/共有」する。
 「ほこる/ほこり」とは、私の「肉体」の記憶では、内部の充実、自信、というものとどこかつながっている。そういうものがあるとき、対象(たとえば、月)も「ほこる」にふさわしいものとして、「ほこる」を代弁してくれるものとして見えてくる。
 そういうことを踏まえて(肉体の中で感じて)、最初の行を読む。すると、在日韓国人も、内部の充実、自信のようなものをもって生きて、そして月を見て、「いま/ここ」を実感しているということがわかる。このとき、私はまだ在日韓国人と内部の充実、自信を「共有/分有」しているわけではない。私は、在日韓国人であるかどうかわからないだれか、石毛の見ている人間とそれを「分有/共有」している。
 そして、この「だれかわからない人間」は、最後まで、私にとってはかわらない。

頌春を知ることもなく
階下の初老の男が死にかけている
その隣の家では夫婦喧嘩をしている
向いの家では赤子に火がついている
階上では新婚のふたりがバカ笑いしている
どこからかカラオケの爆裂音もきこえてくる
転がり落ちそうな川べりの家では
死んだ老母にとりすがって月に照らされた若い女が泣いている

 ここに描かれている人間は最初に書かれていた動物、植物、鉱物の言い直しである。人間はあらゆる動物、植物、鉱物と同じように生きている。そして、ここに描かれているすべての人間の「動詞」を、私は「肉体」として「分有/共有」できる。そこに描かれている「動詞」を、私はすべて見たことがある。その「肉体の動詞」といっしょの時間を過ごしたことがあり、それが「肉体」がおほえている。でも、それが在日韓国人であるかどうか、私は知らない。そして、「肉体」を「分有/共有」したあと、この全部とていねいにつきあうのはめんどうくさいなあ、と思う。全部に対して「親身」になれない。
 あなたは、どう思う?
 石毛は、私に似ているなあ、と思う。
 詩のつづき。

そこでだ
世間の悲嘆は通いあわぬものだ
おれはただかれらがうるさいと思うだけだ

 そう、世間のひとはうるさい。どれもこれも自分の「肉体」とつながっていて(つまり、そういう姿をみるにつけ、自分のあれこれを思い出すので)、そんなものは切って捨ててしまいたい。できるなら。
 この「感覚」(感覚の動き--動詞)も、私は「肉体」で「分有/共有」できる。そこに描かれている人間がすべて「あたりまえ」であるとわかっていても、いや、わかっているからこそ、その全部につきあうなんて面倒くさい。だから「頭」で「わかった」といって知らん顔をする。「うるさい」とは声に出していわないけれど、「わかった」は「うるさい」とおなじである。

 でも、そうじゃないひともいる。動物の遠吠えにコーラスを聞き、植物の姿に太陽への感謝と畏怖を感じるひとは、あれこれの「動詞」とともにあるいのちを、そのまま「ほこる/ほこり」にまで充実させて見つめるひとがいる。

植民の悲憤を感じることなく
すでにはじめから在日の思春は病んでいたのか
あまりにも旬の美醜に身を寄せすぎていたから
いのちの地衣を壊す古物も
あるときまで列記とした眩い生きものであるということを
忘れてきたからだ
おい!月はどっちだ
夢の島のほうだ
おまえはそのまま月をめがけて走れ
おれは車を停めて怠ける

 そこに「動詞」があり、そこに「肉体」が動いているなら、ただそれに「身を寄せる」。そうすると「美醜」をこえて、それが「生きもの」であることに気がつく。「いきもの」の本質に触れる。「いのち」であることに気づく。「いのち」は「肉体」のなかにあるいちばん古いものである。核である。「いのち」のまわりに「肉体」がついているだけである。そして、「いのち」はどの「肉体」のなかへや自在に「分有/共有」される。
 そのことに気づいて、「頌春……」からつづく行を読むと「わかる」がかわってくる。「頭」で「わかっている」ものが少しずつ変化する。それが「うるさい」ことにかわりはないのだが、その「うるささ」が「頭」からあふれて「肉体」をつつんでしまう。なぜ他人のかってきままな「動詞」が「うるさい」かというと、みんなが自己主張/自己拡張しているからである。自己主張/自己拡張というのは「ほこる/ほこり」につながる。死にかけている初老の男さえ、おれは死にかけていると自己主張する。「肉体」が「私」のほうへ近づいてくる。まだ「いのち」があると自己主張する。これを何とかしてくれ、という。そんなもの、全部に耳を傾けていたら「うるさい」にきまっているが、つまり「私の肉体」がいくつあってもつきあいきれないが、それを「うるさい」と思わず、ていねいにつきあうひとがいる。死にかけているひとにさえ、そこに死に切れないいのちがあり、それは私たちの「肉体」の「動詞」とまったくおなじである。そう「肉体」が悟るとき、他人の肉体が、他人であることを超えて、突然、肉体の中で何かを照らしだす。
 道端に倒れて腹を抱えて呻いている人を見たら、あ、腹が痛いんだという「痛み」が「肉体」のなかに姿をあらわすのとおなじである。「痛み」を発見するのである。それと同じように、死にかけているけれど、生きている「いのち」の「うごき」が、輝きだす。
 月のように光って見える。
 それは、それをていねいに見るひとがいるから、輝くのである。道に倒れて腹を抱えて呻いているひとがいる。「あ、この人は腹が痛いんだ」と叫んで、救急車を呼ぶとき、道に倒れているひとはただ倒れている人ではなく、腹が痛いひとになるように、見るひとが、その「肉体」を「分有/共有」することで、ひとはひとに生まれ変わる。
 月が太陽の反射で輝くのなら、「いま/ここ」にいているひと、「いま/ここ」にあるさまざまな人生(肉体)が輝くのは、自己主張と同時に、その自己主張を照らす何かがあってのことなのだ。
 石毛はこの作品をヤン・ソギルと崔洋一への頌歌として書いているが、彼らは彼らの視線が在日韓国人の肉体を照らしているとは気づかずに、なぜ、こんなに輝いているのだろう、その輝きをどこまでもていねいに見てみたいと思って在日韓国人に「身を寄せる」。石毛も、それにならって「肉体」を動かした。そうしたら、それが、この詩になった、ということだろう。


石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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愛敬浩一「待合室にて」

2013-06-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「待合室にて」(「指摘現代」4、2013年03月03日発行)

 愛敬浩一「待合室にて」は病院の待合室でのことを書いている。

待合室の椅子に腰掛けていると
(ほぼ満席に近い)
隣りの大柄の男が
「おたくもあれですか
予約券が送られて来て」
と大きな声で話しかけてくるのが恥ずかしい

 何の作為もないような書き出しだが、きのう読んだ木下龍也の短歌に比べるとはるかに仕掛けがあって、同時に「物語」がある。病院の待合室という状況があって、そこに「他人(何を考えているかわからないひと)」がいて、他人のはずなのに「分有」する「肉体」があって、「他人」が自分に見えて、鏡を見ているように恥ずかしくなる。もしかしたら「隣りの大柄の男」は愛敬だったのかもしれないのだ。
 そうなると、どこからどこまでが「自分」なのか、わからない。「肉体」はたしかに区別できるように見えるけれど、それは便宜上のことであって、「肉体」はどこまでもひとつだということがわかって困惑する。
 その困惑をふりきるつもりかどうかわからないが、愛敬はオールナイトでやくざ映画を見たときのことなどを思い出すのだが(思い出というのは、愛敬個人のものであって
隣の男とは関係ないはずだからね)。
 うーん、

私の頭の中では
渡哲也が、潤んだ瞳の松原智恵子を見つめている場面だ
(「やくざ者には女はいらない」というくせに)
池袋の文芸座の深夜の生あたたかい空気
(渡哲也全作品上映されたのは一九七二年だったか、七三年だったか
渡辺武信も来ていて
遠くから「あれが、あの六〇年代詩人の渡辺武信か」と思いながら見た
あれから随分月日が流れた)
五本立ての三本目辺り
一番眠い時間帯だ

 そこでも「肉体」がまじってしまう。
 「渡哲也が、潤んだ瞳の松原智恵子を見つめている場面だ」の「潤んだ瞳」は、ほんとうは渡哲也にだけ「見える」ものなのだが、愛敬にも見えてしまう。それは映画だから--といえばそれまでなのだが、問題は、そんなに簡単ではない。現実には渡哲也にしか見えないはずのものが見えるのは、カメラが渡哲也の「肉体」を「共有」しているからである。渡哲也の「肉体」になっているからである。そして、そのカメラをとおして、愛敬もまた渡哲也になっているから、松原智恵子の目が潤んで見える。
 そういうことを愛敬は「頭の中で」見ているのだが、この「頭」は私がふつうに批判的につかう「頭」ではない。「肉体」となった「頭」である。「頭」で見ているのではなく、目で見ている。その「目」を愛敬は「間違えて」、「頭」と書いている。昔の「目」が「いま/ここ」によみがえって松原智恵子を見ている。
 愛敬の「頭」は「抽象」を考え、ものごとを合理化するための「頭」ではない。「肉体」とじかに結びついている。「じか」すぎて、「頭」と「目」の区別がつかなくなっている。「ひとつ」になっている。
 そういう「肉体の頭(肉頭、と呼ぶことにしようか……)」は、そこにあることを「合理化」しない。「抽象化」しない。逆に、「具体化」のなかへとどんどん分裂(?)していく。脇道へそれていく。
 池袋の文芸座、渡哲也全作品、一九七二年、渡辺武信、六〇年代詩人、五本立て……。そういう「脇道」にそれればそれるほど、そこにその当時の愛敬が「肉体」としてあらわれてくる。そのどれにも愛敬は「肉体」を「分有」する。「分け与える」そして、「分け持つ(分かち持つ?)」ことをそれらに強要する。「肉体」は「分有」されればされるほど「具体化」する。「ひとつ」になる。--矛盾なのだが、それが矛盾だから、それが「思想」なのだ。「物語」を否定し、「物語」以前にもどす。結果ではなく(結末ではなく)、すべてのことがらを素材があるがままの状態にひきもどす。「物語」として語られてこなかったものが、そこで新しく生まれる。
 このとき「古い」世界が見えてくるのではなく、古いはずの「肉体」が、「いま/ここ」にあらわれることで、「肉体」が新しくなる。「古い肉体」なのになぜ「新しい肉体」なのか--というのは、説明がむずかしいが、「肉体」には「いま/ここ」しかないから、「新しく」生きるかぎり、それは「新しい」のである。
 --という説明の仕方では、きっと通じないだろうなあ。言いなおしてみる。別の角度から言いなおすと。
 ここに書かれているのは一九七二年か七三年のことである。しかし、こうやって書かれると、「いま(さっき)/ここ」で隣の男が話しかけてきたことよりも、七三年、七二年の方が「身近」である。松原智恵子の潤んだ目や渡辺武信の方が「身近」である。あるいは七三年の、それらを見た愛敬の方が「身近」である。この「身近」の「身」が「肉体」である。「新しい」。「いま/ここ」を生きるものとして存在している。「肉体」がおぼえていることが「いま/ここ」で「肉体」を統一させている。
 この統一から何が始まるか(どんな物語になるか)、愛敬にはわかっていない。「肉体」は「いま/ここ」に生まれてきたのだから、その生まれてきた「勢い」で動いていくしかない。動いていくことで「物語」をつくる。それは「用意された物語」、つまり、何か「結論」を言うために始まる「物語」ではない。何を「言ってしまう」か、愛敬にもわからない。
 その「わからなさ」があるから、それに立ち会う私は、ついつい引き込まれていく。

どこかの女子高校の校庭でバレーボールをやっている
そのすぐ脇のドブ河で
(肯定からは河の中は見えない)
人斬り五郎・渡哲也が、ドスを振り回して死闘を繰り広げている
浅瀬の上を
タッタッタ、タッタッタと渡哲也が走って行く
上がる水の飛沫
飛び散る血
遠くから聞こえる女生徒の声
明るい日差し
ちょうどいま
映像の中の渡哲也は、
誰かに見られたか、という不安な顔を私に向けた

 「肉体」が「共有/分有」されるとき、そこには「時間」はない。スクリーンもない。渡哲也はスクリーンを突き抜けて愛敬の目を見たのだ。渡辺武信は「いや、違う。渡哲也は愛敬ではなく私の方を見た」と言うだろう。松原智恵子は「二人とも違う。私はそこにはいないけれど、渡哲也は、私が見ていると思って振り返った」と言うだろう。なぜ、そういうことが起きるかというと、その瞬間、だれもが渡哲也と「肉体」を「分有/共有」していて、全員が渡哲也だからである。そこには渡哲也しかいない。だれもが「主役」になってしまう、というのが「物語」である。「主役」の「肉体」になってしまう、というのが「物語」である。そこではしたがって「統一/分裂」が同時に起きているのである。統一と分裂が同時に起きるというのは「頭」で考えると「矛盾」だけれど、「肉体」で考えると「常識」である。どんな違うことを考えても自分の「肉体」は「ひとつ」である。
 「ひとつの肉体」の「肉体の頭(肉頭)」が、愛敬の、この詩のことばを動かしている。その「肉体」が見えるから、おもしろい。










夏が過ぎるまで―詩集
愛敬 浩一
砂子屋書房
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木下龍也『つむじ風、ここにあります』

2013-06-02 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年05月25日発行)

 木下龍也『つむじ風、ここにあります』は歌集。
 私はいつも読み違える。読み違えたまま感想を書こうとして、引用して、あ、間違えたと気づく。

裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ

 私は巻頭のこの歌が、最初は好きだった。この歌が好きだったとき、私は

裏側に張りついているヨーグルト舐めるときいつもひとりだ

 と読んでいた。「舐めとるときは」ではなく「舐めるとき」。7音ではなく5音なのだから、その段階で間違いに気づくべきだったのかもしれない。でも、気づかなかった。短歌のリズムが私の肉体になっていないためだろう。そういう「門外漢」がこの歌集を読むと、まあ、次のような感想になる。

 まず、私が読み間違えた巻頭の一種。「舐めとるときは」という音の中には「と」の繰り返しがある。そしてそれはこの歌の主題(?)でもある「ひとり」の「と」と呼応するのだが……。うーん、私の感覚では、この歌の基調音は「い」である。「と」が後半で重なると「い」の音が聞こえにくくなる。それが残念。「裏側に張りついている」には「に」を含めて「い」の音がたたみかけるように動く。それが「ヨーグルト」で別の音になり、「なめるとき」(誤読の短歌を優先して書いておく)ともう一度別な音になり、「いつもひとりだ」で「い」にもどる。
 そのとき、「舐めるときは」ではなく「舐めるとき」と「は」がないと、「き」のなかの「い」と「いつもの」「い」が重なり合うようにして動く。「とき」のなかの「い」が「いつも」の「い」を押し出して、その押し出された勢いで「ひとりだ」というセンチメンタルが動く。「は」があると……どうも「勢い」中断する。そして、なんといえばいいのか「意味」が強調される。
 この「意味の強調」は、私にはちょっと息苦しい。

 たぶん、木下にとっては、短歌は「意味」なんだろうなあ。「文学」は「意味」なんだろうなあと思う。

自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる

 自販機のなかには冷たい水がある。けれどもカゲロウはそれを飲むことができず、喉は渇いたままである。「意味」とは、ここでは「矛盾の構造」と同じようなものである。「矛盾」によって、いままで意識しなかった世界が見えてくる。その発見が「意味」であり、「詩」である、ということになる。

カードキー忘れて水を買いに出てぼくは世界に閉じ込められる

 ホテルの、だろうか、カードキーを忘れて外に出てしまったために、部屋に入れない。それは部屋に閉じ込められるの逆で世界に閉じ込められるということである。締め出されるを、逆に言ってみる。そこにも「矛盾」のようなもの、「逆説」のようなものがあり、その「逆」の視点によって世界が新しくなる。
 こういうことばの運動は、秋亜綺羅の詩にいくらか似ている。
 これはこれで木下の個性なのだろうから、これ以上「批評」しても、あまりおもしろくないことになる。
 そういう「世界の見せ方」が評価されているのだろうけれど、私には、あまりおもしろくない。「頭」で書かれた作品、という感じがどうしてもしてしまい、そこに「肉体」が見えてこない。「肉体」を「分有/共有」する感じがしない。

 私が気に入ったのは、たとえば

手がかりはくたびれ具合だけだったビニール傘のひとつに触れる

 ここにはじかに「肉体」が「おぼえていること」が出てくる。「肉体がおぼえていること」だけが、ビニール傘を自分のものと主張する。これはいい。ここには「無意味」がある。「矛盾」とか「逆説」を追いかけて、「世界」を別の角度から見るのではなく、ただじかに「もの」に触れて、触れることによって「おぼえていること」を「事実」にする。「事実」というのは「無意味」だ。「このくたびれた傘は私のものである」というのは、「新しい」世界ではない。「古い世界」であり、「古い世界」を強固にしたものである。この「強固」が、私の感覚の意見では詩であり、思想である。「肉体」である。

いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する

 「ようやく」が「肉体」である。思想である。「理解する」というのは、いつでも遅れてやってくる。(季村敏夫を、私は何度でも思い出す。私は季村敏夫の『日々の、すみか』によって、「肉体」をたたかれ、ことばをたたかれ、思想を仕込まれたと感謝している。)いくつもの手で撫でられる。その「撫でる」という「肉体」が少年の「肉体」をいままでとは違うものにかえてしまう。その「変化」のなかで少年は父の死を「思い出す」。「肉体」は、父の死をはっきりと「おぼえる」と言い換えてもいい。
 「わかる」とは「肉体がおぼえる」ことなのだ。

台本にゆれるゆれると書いてありやっぱり僕は木の役だった

 この「やっぱり」も「肉体」である。「肉体」の世界の発見の仕方は「逆説」ではなく「順接(?)」である。ただ、それをおしつづける。「肉体」をくりかえしおしつづけると、だんだん「じか」が出てくる。それが「ほんもの」になる。
 「逆説」の描き出す構図は「あざやか」というか、印象に残るが、それは「頭」が刺戟されるということであり、それは最終的にはどっちだっていい、ということになる。ほかの「逆説」もあるという感じがする。--これは、私の直感であり、印象にすぎないけれど。

爆風は子どもの肺にとどまって抱き上げたときごほごほとこぼれた

 これも順接。「肉体」には「逆説」などない。とても強烈な響きがある。

救急車の形に濡れていない場所を雨は素早く塗り消してゆく

 ここにも逆説はない。ただ時間がすぎる順序で、世界が自然に変わってゆく。「人為」がない。「人為がない」ということが自然であり、「肉体の思想」なのだ。目が生きて動いている。「写生」というのかもしれないけれど。
 ほかにも

たくさんの孤独が海を眺めてた等間隔に並ぶ空き缶

呼応して閉じられてゆく雨傘の最初のそれにぼくはなりたい

 にも私は二重丸をつけた。

 逆に×をつけたのは。

遺失物保管係が遺失物ひとつひとつに名前をつける

 これは寺山修司あたりが書きそうな「頭」の「物語」。「頭」の「物語」のセンチメンタル。大富豪が(そんなことはないだろうけれど)道に落ちているものを拾い集める趣味があって、その拾い集めているものに名前をつけているという「物語」なら、そのセンチメンタルはかなり違ったものになる。「遺失物保管係」を選んだとき、そこにはすでにセンチメンタルが用意されている。それを「頭」で増幅したのが、木下の短歌である。

少年がわけもわからず受け取ったティッシュが銃じゃなくてよかった

 「銃じゃなくて」が「頭」で考えた「平和」。寺山修司や秋亜綺羅なら「銃なら」と肯定するだろう。「銃じゃなくて」という否定、否定による世界の見せ方--この短歌に、たぶん木下のことばの運動がいちばん的確にあらわれていると思う。
 この一首が好きなひとは、私がいちゃもんをつけた短歌は全部好きだと思う。


つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌シリーズ (1))
木下 龍也
書肆侃侃房
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ジョセフ・コジンスキー監督「オブビリオン」(★)

2013-06-02 20:46:35 | 映画



監督 ジョセフ・コジンスキー 出演 トム・クルーズ、オルガ・キュリレンコ、モーガン・フリーマン

 映画が始まってすぐ、トム・クルーズの乗った宇宙船(飛行機?)が墜落する。と、思ったら、谷底から何もなかったかのように急上昇してくる。しれっとして出てくる。こんな顔はトム・クルーズ以外にはできない、という嘘っぽい顔である。この顔が「演技」なら、トム・クルーズもなかなかやるじゃないか、と思わないでもないけれど……。あ、脱線した。このシーンがなかったら、この映画はでたらめになるのだが、「伏線」というよりは、あまりにもあからさまな種明かしなので、私は、後がばかばかしくて見ていられなかった。
 トム・クルーズの飛行機は墜落して、トム・クルーズは死んだのである。ところが、トム・クルーズは何人もいて、トム・クルーズが何度死のうが関係ないのである。トム・クルーズはクローンなのである。それが半分以上すぎたところで(後半の四分の三くらい?で)、やっとクローンが出てくる。遅すぎて、映画のスリルというものがまったくない。もっと早くクローンを出して、クローン、クローン、クローンでわけがわからないくらいにしないと。
 だいたいねえ、トム・クルーズがクローンの悪人をやるのなら、まわりをもっと善良な人間味のある役者にしないと、すぐに嘘がばれる。トム・クルーズに命令を出している女の指揮官(?)なんか、出てくるのはモニターのなかだけだし、もうそれだけで、彼女は「人間ではありません」と宣言しているようなものだ。こういうのは「伏線」とは言わずに、また「種明かし」とも言えないもので、なんというかというと「底が割れている」「みえすいている」というのである。リアリティーが安っぽすぎる。
 変なおもちゃにばっかり時間と金をかけたのかもしれないけれど(ほかの映画に比べると金はかかっていないと思う)、こういうCGをつかった特撮(実際の「もの」「人間」が相手の撮影)ではトム・クルーズは演技ができない。目の前に何かがある、架空のものをあたかもあるように演技し、映像に合成するというような器用な演技がトム・クルーズにはできない。相手が実際にいても、きちんと演技できないのだから、そこに誰かがいると思って演技するというようなことはできるはずがない。だから、ハイライトの戦闘シーンでもそんなに登場しないというか、なんというか、まあ、出番が少ないのだけれどね。「ミッション・イッホッシブル」のような肉体をはったアクションというのがないのだけれどね。(だから、ほんとうに、どこに金をかけたのか、まったくわからない。)
 しかし、ひどいよなあ。月も地球も半壊し、世界中が放射能で汚染されているらしいのに、汚染されていないところがアメリカ国内(?)にあり、自然が残っていて、
 しかも、
 トム・クルーズの家にはなぜか電気があって、レコード・プレーヤーがあって、古い古いアナログのレコードを聞くことができる。谷川(?)の水も飲むことができる。こんなご都合主義を繰り広げて、それでもSF? あ、いまはこんな言い方をしないのかなあ。まあ、いいけれど。
 見るだけ、損。時間のむだ。まあ、トム・クルーズのファンなら、モノクロで見るとトム・クルーズはいっそう美男子になるねえ、顔に傷があると(血が顔にあると)美形がいっそう引き立つねえ、とうっとりできるかもしれないけれど。私は、やっぱり相手役は背の低い女優か、とトム・クルーズの身長の低さを確認し、ハリウッドの男尊女卑の思想をそこに見るのでした。はい。
                        (2013年06月02日、天神東宝2)





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南川隆雄「しろい道」ほか

2013-06-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
南川隆雄「しろい道」ほか(「胚」40、2013年05月05日発行)

 05月31日の「日記」で、中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」(「no-no-me」16、2013年04月10日発行)に触れ、「道」は「肉体」のなかにできる、と書いた。南川隆雄「しろい道」もまた人間の「内部」にできる「道」を描いているのだが、中上の「道」とは違う。違って当たり前なのだが、その違いを考えると、
 詩はむずかしいなあ、
 と思ってしまうのである。

教科書のない私のために村の上級生の家々を訪ね歩いてくれた人がいた その人が農家をおとなうたびに かじかむ手に息を吹きかけながら両側を野草で覆われた道端で私は待った わら草履と牛車が踏み固めた乾いた道は 月明かりにしろく光っていた そしてほのかな線香の香りが湿った鼻孔に入ってきた

 ここには「かじかむ手」という肉体があり、線香の香りを感じ取る「鼻孔」という肉体がある。だから、そこに南川の姿が見える。
 このあと、詩は、1連目のおわりの「線香」をひきついで、世界を変える。

その夜もどると白木の箱が届いていた こどもは見せてもらえなかったが 親指が一つ綿にくるまっていた 教科書を捜し歩いてくれた人の兄のものだった トラック部隊の二台目を運転していて狙撃されたそうだ 横死した兵に黙礼して親指を切りとる前線の光景を私はいくどもおもい浮かべた そして華北から鴨緑江を渡り朝鮮半島を横断する長々しい道を頭でたどった 月明かりに照らされる凍りついた道

 「見せてもらえなかった」が象徴的だが、ここからことばは「肉体」を離れる。「肉眼」では見ていないものが語られる。「肉眼」以外の何で見るかというと「頭」である。南川は「頭でたどった」と正直に書いている。それは「おもい浮かべる」ということなのだが、「頭」でたどり、「頭」で思い浮かべ、「頭」で書いているから、そこに書かれていることが衝撃的であっても、何か「遠い」感じがする。「意味」が抽象として浮かび上がってくる。
 そして、「頭」をいちど通り、「頭」でことばを動かしてしまうと……。

いま私はすっかり老いたが 頭頂から足の先までしろいものが一すじ走り通うのを ときたまからだに感じる かまきりを踏みつけたとき背からはみ出す一本のよく撓る黄色い靱帯のように 薬研で砕いても手を休めればもとに繋がる毒芹の反った地下茎のように どこまでも見え隠れして続く道

 最後の「見え隠れして」というのは、どうしても「頭」にとって「見え隠れ」になってしまう。カマキリを踏み潰したときのこどもの足の記憶、毒芹を砕くおとなになってからの仕事(薬剤師?)の手仕事の手の記憶を持ち出してきても、
 うーん、
 「肉体」が私には見えてこない。「肉体」が見えてこないから、変な言い方かもしれないが、南川の考えていること(頭)がとてもよくわかる。
 南川が「いま/ここ」に生きているのは、「親指一つ」で故郷に帰ってきた人の犠牲があるからだ。その人に繋がる何人もの人のおかげで南川は生きている。その人たちにつながる「道」が見える。その道の延長線上に南川はいる……。
 「意味」が「わかる」と、これは南川にはとても奇妙に聞こえるかもしれないが、その瞬間に南川は消えてしまって、南川が見えなくなる。「意味」だけが抽象的なものとして存在してしまう。
 そうすると、それは、私にとっては詩ではなくなる。
 「わからない」けれど、そこに「ある」というのが「肉体」であり、詩であり、思想なのだ。「あるということ」に「肉体」で触れる。触れて、誤読する。「無意味」なことをしてしまう--そのときに詩がある、と私は感じる。
 「肉体」が消えると詩も消える。

 同じようなことを、中原秀雪「枇杷(びわ)の忌」(「アルケー」3、2013年04月01日発行)にも感じた。

バケツ
いっぱいの
花に
きみは代価として
水道のあふれんばかりの
水を注いだ

満ちたりた器のなかに
語るべき言葉はない
静けさを
映す夏の空を
運んで
時間がめぐる
枇杷の木かげにすすむ

土をほる
石をほうる
少しひらいた口を
そっととじて
物言わぬものの
悲しみに
土をかぶせる

 ここまでは「肉体」が動いている。バケツに花をいれて、そのバケツに水をいっぱいにいれて、それを運んでいる中原。水に映る夏空を見る。枇杷の木陰へ歩いていく。それから土を掘る。なんのために? 石を放る。なんのために? 少し開いた口を閉じる。なんのために?
 そのとき、中原の手が動き、手に触れるものがある。だから、「肉体」が具体的に動くとき、「なんのために?」が少しずつ見えてくる。間違っていてほしいけれど、間違いなく、何が起きているかがわかる。「肉体」にわかる。
 この「肉体がわかる」ということのなかに詩がある。その「わかる」はまだことばになっていない。だからこそ「肉体」に「わかる」。
 この「肉体がわかる」に踏みとどまるのが詩である。この「踏みとどまる」がなかなかむずかしい。ついつい、「肉体がわかる」だけでは「頭」にはわからないののではないかと思い、「頭」が「わかる」ように、余分なことを書いてしまう。「頭でわかる」が「わかる」ということなのだという、何かしらの誤解が蔓延しているように思えてならない。
 「土をかぶせる」ということばにまで触れて、それでもなおかつ、中原の書いていることが何なのか、「肉体」でわかることができないのだとしたら、それ以後、どんなにことばを重ねてみても、その人は「肉体」で中原の詩をわかることはない。中原と「肉体」を「分有/共有」することはない。

 ことばを「肉体」で「分有/共有」するか(「肉体」をことばで「分有/共有」するか)、それとも「頭」で「整理する」か--その違いによって、詩があらわれたり消えたりする。




詩誌「新詩人」の軌跡と戦後現代詩
南川 隆雄
思潮社
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