詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤公成『カルシノーマ』

2014-01-17 10:56:15 | 詩集
伊藤公成『カルシノーマ』(澪標、2013年11月10日発行)

 伊藤公成『カルシノーマ』の「カルシノーマ」というのは「がん」のこと、とあとがきに書いてあった。あとがきになくても、詩集を読み進むと、それとなくわかる。動物(マウス)実験のことが書かれていたり、体の部位のことが書かれていたりするからである。でも、なぜ、「わかってしまう」のかなあ。わからなくたっていいのになあ。きっと「がん」にまつわるいろいろなことばが日常のなかにあふれてきているのだろう。知らず知らずに、そのことばに触れて、「がん」を語るときはこういうことばがつかわれるということを、おぼえてしまうのかもしれない。
 タイトル作品の「カルシノーマ」の書き出し。

50倍でみるとそれはまるで航空写真
視野の上のほうでは
山と山の間に川が流れて
大きく平野へとひろがる扇状地
視野の下のほうでは
田んぼや池がいくつもあって
のびやかで肥沃な田園地帯

 たとえば「がん(癌細胞)」を「がん(癌細胞)」とは呼ばずに「それ」と指し示す。その「回避」のし方、そこにもすでに「がん」について語るときの共有された方法がある。「あいまい」、けれども「意識できるだろう? わかるだろう?」というような気持ちのこもった「それ」。
 こういう言い方を私たちは、どうして覚えてしまうのだろうか。
 わからないが、そういうものなのだろう。
 で、この詩は、その何というのだろう、何かを回避しながら語るときの、ひとつの方法にきちんとのっとっている。「癌細胞」は、私は顕微鏡ではみたことがないが、摘出された病巣そのものなら父の手術のときに見たことがある。「癌」という字に似ている。こぶというか、突起というか、漢字の「品」のように凝り固まったものが「山」のようになっている。「癌」という漢字はだれが考えたものかしらないけれど、うーん、似ているなあ、と驚いてしまうのだが……脱線したかな?
 そういう凸凹を見ると、なんとなく「地形」にも見えてくる。土地というのは、平らでも凸凹している。(あ、平らなら凸凹とはいはなわけれど……)ふくらんだところは山に見えてしまう。何かが見えてしまうと、意識は「見える/見る」ということに集中する。「見る/見える」ものは、それがたとえ知らないものであっても「知っているもの」をとおして見ることになる。
 つまり、

100倍に倍率を上げる
山を覆うのは
照葉樹の森と落葉樹の森
針葉樹の群生は見えない
池の多くには水が満ちているが
なかに水が枯れて
底のドロまで乾ききっているものもあるようで

 ここに語られるのは、「癌細胞」そのものではない。むしろ、伊藤の記憶が語られている。伊藤はきっと山や森のあるところで育ったのだ。池があるところで育ったのだろう。それは田んぼのための溜池だろう。ときには乾き切った池の底も見たことがあるのだろう。そういう「記憶」(肉体が覚えているもの)を引き出しながら、ひとは「もの」を見ている。つまり、正確にではなく、「歪めて」みてしまう。科学者(医者)でさえ。
 そういう部分が、なんともいえずおもしろい。

自分のふるさとの地形に似たところを探して
さらに200倍に倍率を上げてみる
生まれた家がそこに見えてくるような
裏庭のアオキが赤い実をたくさんつけて
ちいさな家の玄関さき
ふるい自転車もある
死んでしまったおじいちゃんとおばあちゃんが
そこにいまでもひっそり暮らしているような

 そうて、こうやって「癌細胞」に自分の「歴史」を重ねてみると、まるで「癌細胞」自身もそれぞれの「歴史」をもっているように見えてくる。実際、それぞれの細胞はそれぞれの「歴史(時間/成長過程)」をもっていて、その変化の仕方によって癌になったりならなかったりするのだろうが。 

 この詩は、最後に、きちんと「現実」にもどってくる。

腫瘍の病理観察
米つぶのような病巣の切片が
顕微鏡の視野いっぱいにひろげられる
鳥になって飛びまわり
自在に舞いおりる自分の眼
ここには
過去と未来の時間がながれ
物語がつきることなく語られる

 病気の研究は、細胞の「物語」を復元し、ことばにすること。ことばにしながら、「過去」を探る。「原因」を探るということなんだろうなあ。
 それは、そのとおりなんだね。(と、ことばに、つまって私は書いてしまうが……。)で、この詩のどこがおもしろいかというと、ひとつは先に書いたように、何かしらないことをいうときにひとは知っているもの(こと)を重ね合わせて語るということと。
 もうひとつ。
 その行為を伊藤が「物語がつきることなく語られる」と意識していること。癌細胞に自分のふるさとの地形を重ね、自分の歴史を重ねるというところまでは、なんとなくだれでもがやりそうなことである。だから、詩を読みながら、自然にその世界へ誘われる。癌細胞の中で自分を見つめれば、そこで詩は完結する--はずである。ところが伊藤はそこでは詩を完結しない。そこで完結させると、それは「現実」ではなく「虚構」になってしまう。嘘になってしまう。医者としては、たしかに、そうだね。「これは裏山です。水が湧き出て、そこから川が始まるのです」なんて言っていたら治療にならない。
 そういう自分を伊藤は突き放している。「物語」におぼれてしまわない。逆に、それは「物語」だと言ってしまう。「語り(語ること/語ったこと)」は、ある種の「提示(あるいは暗示?)」であって、「事実」ではないと認識している。ここが、伊藤のいちばんの特徴だと思う。「語り」を「語り」だと認識し、そのうえでなおかつ「語る」というのが伊藤の「思想(肉体)」なのだ。
 別な言い方をすると、伊藤は語らずにはいられないのである。「癌」を語りたいというよりも、ともかく語りたい。たまたま、「癌」をとおして語るのであって、「癌」が目的ではない--というと、ちょっと誤解を拡大することになるかもしれないが、癌そのものを語ること、癌の治療は伊藤の「語る」という欲望とは別の、「医学の現場」で処理されている。その「医学の現場」を超えて、なおかつ「物語る」のは「語る」という欲望こそが伊藤の本能だからである。
 癌細胞にふるさとを重ねてみる、というのはちょっと情緒的で、引き込まれてしまうが、それ以上に私は最後の一行が伊藤らしいなあと思うのである。あ、私は伊藤には会ったこともないし、ほんとうに医者であるかどうかも知らないのだけれど、最後の一行を読んだ瞬間、伊藤が目の前にいるように感じたのだ。

カルシノーマ―詩集
伊藤公成
澪標
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西脇順三郎の一行(61)

2014-01-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(61)

 「えてるにたす Ⅰ」

たたなくなる」                          (73ページ)

 この一行は前後の行をくっつけるととてもわかりやすい。「「教養をつければつけるほど/たたなくなる」艶美なるイムポテンス」。
 だが、前後のことばがなくても「たたなくなる」だけほうりだしてもインポテンスを連想させるのはなぜだろう。
 たぶん、インポテンスについて語るとき「性器が」という主語を省略することが多いからだろう。日常の会話ではわざわざ「性器が」とはいわない。
 これは逆に言えば(?)、西脇はここでは「ことば」を「会話」そのまま、肉声として書いているということである。ことばの背後には、ことばを発した人がいる。他人(西脇を含む)がいる。そのことばをとおして、「意味」ではなく、私たちは「人間」を見る。
 人間が見えると、それに遅れるようにして「意味」がやってくる。「たたなくなる」は勃起しなくなる、インポテンスになるという意味だとあとからやってきて、あとからやってきたくせに、その人間を覆い隠してしまう。
 この人間を覆い隠してしまうことばを、どうやって引き剥がして、もう一度人間そのものをそこに「いる」という感じを取り戻すか。そのためにことばに何をすべきなのか(ことばをどう動かすべきなのか)。
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岬多可子『賦香紙』

2014-01-16 10:27:01 | 詩集
岬多可子『賦香紙』(私家版、2014年01月01日)

 岬多可子『賦香紙』はこぢんまりした詩集。その大きさ(軽さ)くらいの、何かが残る。変な感想だけれど。
 「冬は柚子」という詩が最後に掲載されている。

ひくい陽のめぐりを惜しみ
いくつも灯った珠を うけとる午後。
心を放ち しずまっていくように
枝々は ほとり ほとり
ふくらかな光の荷を下ろす。
一顆。てのひらにあり
さいわいというものの 重さは これくらい。
そうしているあいだにも
沁みるほどに香るのは
いきいきとした傷もあってのこと。

 冬の午後、柚子の木から柚子をもいでいる。みずから落ちるように、充実した柚子--その充実を、岬は「ひらがな」で確かめようとしている。ゆっくりと。
 「ひくい」「いくつも」「うけとる」ということばのゆっくりした動きが「しずまっていく」につながり、「ほとり ほとり」という音になる。
 「ほとり ほとり」と、一般に言うのかどうか、私はよくわからない。「ぽとりぽとり」と落ちるという表現は聞く。私もつかうかもしれない。で、その「ぽとりぽとり」から「ほとり ほとり」を実の落ちる音と私は思うのだが、「ぽとり」よりも「ほとり」の方がやわらかく、あたたかい。ぬくみがある。
 この感じが「ふくらか」--これも、私はよくわからない。「ふくよか」と「やわらか」がまじった感じを、そのことばは私の「肉体」のなかから引き出すけれど、それでいいのかどうかは、まあ、わからない。詩なのだから、わからなくてもいいのだと思うが。私がかってに「ふくよか」と「やわらか」という感じを思い出し「肉体」のなかでまぜればいいだけである。
 で、それが、なんというか、まじってしまうのである。
 あ、これはきっと「ひらがな」の力だなあ。
 「脹よか+柔らか」から「脹らか」という「表記」をつくりだしたなら、それは、「えっ、これ、なんて読む?」とつまずいてしまう。「ひらがな」にはそういうつまずきがない。で、つまずくことなく、というよりも、音にひっぱられて、そこに書かれていることを納得してしまう。「誤読」かもしれないけれど、私はかってに、柚子を手のひらで受け止めたときの感じを「思い出す」。実際に木から柚子をもいだことはないのだけれど、そういうことをしているような気持ちになる。
 こういう「経験」(錯覚?)はなかなか楽しい。
 で、そこから「さいわい」というものを実感するのは、よくわかる。

 よくわかるのだが。
 ここからは、この詩への批判。
 「さいわい」というものの「重さ」、それは「重さ」ということばにしてしまった瞬間から、何か「抽象的」になる。それまでの「ひらがな」の肉感的なものが、払いのけられてしまう。これはおもしろくないなあ。
 「重さ」ということばを、そしてそこに「漢字」をまじえたことが、この詩の「音楽」を狂わせている。「沁みる」「傷」ということばが、「さいわい」の確かさを傷つける。まあ、小さな傷があっても果実は実る、傷が逆に果実の充実を教えるということかもしれないけれど--うーん、文体(音楽)が違ってしまっている、と私は感じる。

 もうひとつ「螢」を引用してみる。

水の夜は 草のように香り
草の水は 夜のように香る。
そういうところから なのね、
光が ふあり 浮き上がってくるのは。
黒く濃く、夜と 草と 水と
とけあっている 夏の壷、
古い 珠の魂も ふたつ みつ
沈んでいるでしょう。ふかく。
そういうところから なのね、
光が はらり 飛びたっていくのは。

 この作品は漢字と「ひらがな」がうまく響きあって「文体(音楽)」になっていると思う。最初の2行は漢詩の対句のようでおもしろい。漢字の文体を響かせている。それを「そういうところから なのね、」という「ひらがな」だけの音楽で破って、その破れ目から「ふあり」という聞き慣れない音を響かせる。「ふわり」よりも子音が少ない分だけことばのエッジがあいまいになり、はかない感じ、けれども少しも暗くない感じがいいなあ。
 さらに「魂」という抽象的なことばをまじえたあと、同じように「ひらがな」だけで音を破って、そこに「はらり」を登場させるのもいいなあ、と思う。





桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田
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西脇順三郎の一行(60)

2014-01-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(60)

 「えてるにたす Ⅰ」

この硯の石も                           (72ページ)

 1行の引用ではなんのことかわからないのだが、周辺の行を一緒に引用しても、なぜ、ここで「硯の石」が出てくるのかわからない。
 このわからなさが詩である--というのは乱暴な「感覚の意見」になってしまうが、私は、そこではっと目が覚める。この1行の周辺には「過去/現在」「記憶/追憶」「意識」「進化/退化」というような抽象的なことばがつづくのだが、そこに突然「硯の石」が飛びこんでくる。
 そして、その突然現れた「硯の石」の墨の色が、あらゆる抽象的なことばをつないでいる具体的な何かのように思える。
 それこそ「シンボル」ということになるのだろうか。
 わからないことはわからないままにしておいて、私は、あ、西脇は「墨の色」が好きだったのか……と思う。西脇の詩には茄子がよく出てくる。このページにも「テーブルの茄子の」という1行があるが、その茄子の色は紫は紫でも、和紙の上に墨で線を引いたときに黒のなかににじむ紫に近いのではないか、という思いが、突然湧いてきた。
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木戸多美子『メイリオ』(2)

2014-01-15 10:25:56 | 詩集
木戸多美子『メイリオ』(2)(思潮社、2013年11月30日発行)

 誰にも見えないものを見る木戸の視力。その肉体の、強い力。それは「成就」という作品にくっきりとあらわれている。

虹に激突される地面には
幸福を支える家が立っていて
球根のように深く眠っている
海の彼方へ背を向けて
屋根を突き抜け部屋に満ちる雨
濡れた壁は縁からゆがむ
ゆがみはゆがみのまま暮れてゆく
充血した視界に 庭へ続く石の道が現れた
月に照らされたまま誰にも踏まれず
一千億年の地層と溶け合い
わぁんと静かに核となって
誰かが拾いあげてくれるまでは輝ける闇だ

 ここにも私は東日本大震災を見る。1行目の「虹に激突される地面には」の「激突」に大地の激しい衝撃を感じ、大震災を思うのである。「虹」が激突するのだから、それは悲惨なイメージというよりも、何か明るい感じがして、東日本大震災にそぐわないような気がしないでもないが、これは「頭」がかってに「虹」を美しいものの象徴と考えているためにおきる「錯覚」のようなものだ。大震災のあとの惨状--それを津波の被害ととらえるのではなく、「虹の激突」と呼ぶことで、そこから出発しようとするしようとする決意がそこにある、と読むべきかもしれないのだから。
 でも、そういう「うるさい」ことは書くまい。「意味(流通する論理)」をそこから紡ぎだすのは、やめよう。そういうことは、頭をちょっとかすめたということだけにしておこう。
 ここではきのう読んだ詩と同じように「誰にも……せず」が重要なのだと思う。「誰にも踏まれず」、けれど木戸はそれを踏んだことがある。木戸の肉体はそれを知っている。覚えている。そして、その「覚えている」は「一千億年(永遠)」を超える。
 「永遠と一日」ということばがあるが、木戸は「1億人の誰とひとり」の「ひとり」として、その道を踏み、その道を思い出す。木戸がその道を踏み、その道を思い出すとき、そこには「誰も踏まない」けれど確実に存在する道が浮かびあがるのだ。

 この強い視力の展開のあと、後半、1字下げの部分からの展開が美しい。

おぉい とらえたか
風を
色のない静かな風だ
白鳥の遊覧船がすべってゆく
湖水浴を楽しんだ少年
そこにいろよ
今 透明な小魚が背骨を揺らし
通り過ぎるぞ
足もとから掬い取ることができたなら
君はもっと家に近づける
聞こえるか

 これを読むと「希土黎己」は「木戸れいき(?)」という名前の少年に見えてくる。その少年は猪苗代湖で遊んだことがあるのだ。その少年が、木戸には見えるのだ、と思わすにはいられない。
 少年はそうやって生きているのだから、木戸もまた生きていくのである。「生きていろよ」と呼び掛けながら。木戸に「見える」少年にむかって呼び掛けながら。

 東日本大震災を体験した人に対して言っていいことばなのかどうかわからないが。
 明るい、美しい詩だ。
 こんなに明るいこころで生きていくというのは、どんなに強いこころなのだろう。このことばを書くまでに、どんなに誰にも言えない悲しみをくぐりぬけたのだろう。
 思わず、ありがとう、と言いたくなる詩だ。

メイリオ
木戸 多美子
思潮社
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西脇順三郎の一行(59)

2014-01-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(59)

 「えてるにたす Ⅰ」

黒いコップの輪郭が残る                      (71ページ)

 この1行は、夕陽が落ちたあとのコップを描写している。だんだん暗くなる。そのなかでコップがだんだん見えなくなる。最後に見えるコップの輪郭--それを「黒い」といっているところがとてもおもしろい。
 私は実際を確かめずに、自分の記憶の中で世界を再現してみるのだが、暗くなる室内でコップを見るとき、その輪郭は「黒い」だろうか。むしろ、わずかに残る光を集めて光っているのではないだろうか。反射がどこかにあるのではないだろうか。「黒」を入れた光の輪郭が残るのではないだろうか。
 でも、その輪郭のなかに「黒い」ものが見える。だから「黒いコップ」というのだ。
 「コップの黒い輪郭」ではなく、「黒いコップ」がまずあって、それから「輪郭」がやってくる。そういう「認識(?)」の動きを、そのまま描いている。そこには「一瞬」のことだけれど「認識の時差」のようなものがある。それがおもしろい。
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木戸多美子『メイリオ』

2014-01-14 10:04:21 | 詩集
木戸多美子『メイリオ』(思潮社、2013年11月30日発行)

 木戸多美子『メイリオ』には不思議なことばがある。「希土黎己」というタイトルは私には読むことができない。そして、その1連目、

こう見えて
大地は傷だらけで
傷という字が
なだれ倒れこむ一匹の四つ足
枯れた毛並みのの揃った草むらに
じっと座り込んでいる一匹
に見えて

 傷ついた犬が草むらに座り込んでいるのだろうか。「傷」「なだれ倒れこむ」「座り込む」という動詞と「一匹」をつないで、私は、そう想像する。「傷」の「易」の部分が犬の足に見えてきたりする。でも、この犬に見える「傷」と大地の「傷」は違うんだろうなあ。違うけれど重なる部分もあるのだろうなあ。大地が傷ついているように、犬が傷ついている。
 なんとなく、何の根拠もなく、東日本大震災の被災地とそこにいる傷ついた犬を思う。大地、傷--そのふたつのことばで東日本大震災を思うのだけれど、すぐそう想像してしまうほど東日本大震災は、揺れ一つ感じなかった私の肉体にも深く染み込んでいるということなのだろう。

地平線が見える
のぞみの塊を丸ごと抱えながら

満身創痍の大地に
一匹の黎明が立ち上がる

 この最後の2連は、震災の被災地を歩く一匹の犬を想像させる。立って、歩こうとする犬。その姿に、希望を見ている、希望を託しているのだろう--と私は読んでしまうが、1連目の、

大地は傷だらけで
傷という字が

 この2行の「傷」へのこだわり方が、何か不思議。私の知らない何か、どこかで体験しているのかもしれないけれど、肉体が覚えているはずのことが、そのことばだけでは浮かびあがってこない不思議なもどかしさが残る。--ここに書かれていることが、あと少しでわかるはずなのに、その少しがわからない。木戸がここにいる、木戸の肉体がここにあるという感じはわかるが、何か背中を向けられていような、うつむいたまま自分を見つめているような--別なことばで言えば、私とはまだ目と目があわないような感じ……。
 なんだろうなあ、と思いながら詩集を読み進み、次の「深海の朝」に出会う。

高層ガラスから見える空は
深い海
白い花びらが何度も開くように
どこからかクラゲが一瞬沈み
ふたたび視界に浮く

わたしは足を空に向けて
海底に根を張る
朝の深海は明るい

 ビルの高層から、ほかのビルの影に邪魔されずに寝ころんで空を見ている。足は空の方に向いている。そういうぼんやりした朝。木戸が家庭の女性なら、夫は仕事に出ていって、朝のどたばたから解放されて、ほっとしているのかな。深呼吸でもしているのかな、という感じ。
 それが次のように変わっていく。

人としてすでに生きているので
何故ひとは生きていかなければならないのか
と問うのは狂気ではなかったか
そうなのか

計りも振り切れる
深い海
巨大な鯨の歩みのように
底の奥を ひとり
足の裏を傷めながら
歩き続ける
ひとり ひとり
誰も見てはいない
深く深い底 明るいそこ

 「計りも振り切れる/深い海」も東日本大震災を思い起こさせる。亡くなったひとがいる一方、無事に生きている人がいる。何故生きなければならないのか--そういうことを問うのではなく、生きているのだから生きるしかない、と考え自分を支える、というようなことも東日本大震災を想像させる。
 そういうことばのあとで、

誰も見てはいない

 この1行に、私ははっとした。どきっとした。あ、これが木戸なのだ。「誰も見ていない」、けれど木戸は見ている。木戸には「見える」。
 「見る」という動詞は「高層ガラスから見える空は」という書き出しにもある。そして、最初に引用した「希土黎己」の1行目「こう見えて」にも出てくる。木戸には誰も見てはいないもの、誰にも見えないものが「見える」。
 もっと言えば「傷」が見える。
 大震災のあと、津波のあとの大地の傷--それは誰にでも見える。その光景の凄まじさを見て、誰もが息をのむ。そう、私は簡単に書いてしまうが、ほんとうにそれが「見える」わけではない。ひとりひとりが「見ている」風景と私に「見える」風景が同じではない。ひとりひとりの被災者にとっても、風景はひとりひとり違う。ひとりには、そのひとりにしか「見えない」風景、「ひとりの風景」がある。
 木戸は、その「ひとりの風景」、木戸以外の「誰も見ていない」風景が見える。「希土黎己」という作品の風景、その「傷」は木戸以外には「見えない」傷である。木戸だけが見る「傷」である。--つまり、それは「犬を見る」というような形で書かれているけれど、実は、「犬」を見るときに木戸のなかに開く傷なのだ。木戸の「肉体」の内部の「傷」が、いま、犬の形をして、外に出てきているということなのだ。
 「希土」は「きど(木戸)」とも読むことができる。「黎己」は何だろうか。どう読むのだろうか。息子の名前、娘の名前、夫の名前、肉親の誰かの名前、あるいは愛犬の名前かもしれない。私には、それが「見えない」けれど、木戸にはそれが「見える」。「傷」としてはっきり「わかる」。
 いまはいない誰か/不在・非在の誰か。その傷ついた姿を、傷そのものの「文字」のように、明確に木戸は見てしまう。そして、それをしっかりと見つめながら立ち上がろうとしている。私には見えないもの、木戸にしか見えないものをしっかりと見つめている木戸の「肉体(視力)」を強く感じた。
メイリオ
木戸 多美子
思潮社
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西脇順三郎の一行(58)

2014-01-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(58)

 「えてるにたす Ⅰ」

水たまりに捨てられた茶碗                     (70ページ)

 この水たまりは、道路にできた水たまりではない。野原やがけ下にできた水たまりである。そういう水たまりは、だいたいが汚い。汚いけれど水は澄んでいることがある。汚いのは水たまりの底である。泥の感じが汚い。そこに茶碗の白がある。それも割れた茶碗だ。無意味なもの。無意味なものの美。人間から切り離されている。同時に自然からも拒絶されているような感じ。
 それは何かの「シムボル」になるだろうか。なりはしない。何もあらわさないものが、ほんとうの「シンボル」だろう。それは、何かを意味するのではなく、私たちがすがろうとする「意味」を捨て去る力なのだ。
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野村喜和夫「眩暈原論(10)」

2014-01-13 13:23:26 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(10)」(「hotel 第2章」33、2014年01月10日発行)

 きのう読んだ福田拓也の長いタイトルをもった詩の「意味」はわからない。私はわかろうともしないが、野村喜和夫「眩暈原論(10)」も、私にとっては似たような感じ。「意味」を読み取って感動するわけではない。読んでいて(ことばを追っていて)、そのことばの変化(ことばそのものの「動詞」としての存在--ことばの肉体と私はときどき呼ぶのだが)--それを楽しんでいる。

眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。鼻水垂らしていよ
うが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしな
いのだ、マイチネル小体、パチニ小体。ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長
くて、橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつう
つ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。

 「眩暈主体、それは手をもたない人間のことなのかもしれぬ。」これは野村の仮定。仮定だから、まあ、わかる。仮定しているということが、わかる。「鼻水垂らしていようが、みだれ垂らしていようが、柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ」。これは「手をもたない」の補足。手をもたなければ触ることはできない。(足で触れる、性器で触れる、舌で触れる--というような屁理屈は反論しない。)「触る恍惚」を知らずに、「目で触るという恍惚」、つまり「眩暈の恍惚」に限定される……。うーん、論理的なことばの展開。
 でも、

柔らかいものにさわって恍惚としたりはしないのだ、マイチネル小体、パチニ小体。

 この「しないのだ、」から「マイチネル小体」への飛躍は何? 「マイチネル小体」「パチニ小体」のことを知っている人には「わかる」のかもしれないが、私には、何のことか「わからない」。
 わからないのだけれど。マイチネル、パチニという音には「い」の音が多くて、光っているような、粒々のような、ちょっと遠いところにある何か(近くてもうまく触れない何か)小さいものという感じがするなあ。
 そして、この何かわけのわからない感覚、私の「いま/ここ」を拒絶して、そこに何かが存在する--その飛躍が快感。そして、そのことばが、

ほら、あれらの夢、ひどく軽くて、長くて、橋のようなので、

 と、さらに飛躍する。
 この「ほら、」がいいなあ。「ほら、わかるだろう、知ってるだろう」の「ほら」なのだけれど、いやあ、「あ、ごめんなさい、わかりません」と口をはさむ余裕がないでしょ? 野村のスピードにあわせて知ったかぶりをして読むしかないでしょ? その知ったかぶりの瞬間、私も何かを「飛び越える」(飛躍する/飛翔する)。この知ったかぶりをしたときの、次はどうなるのかなあ、知ったかぶりをつづけられるかなあ。知ったかぶりがばれてしまうかなあ、という感じがいいなあ。
 野村の詩を読んでいるのに、詩を読んでいる私(谷内)がことばから見つめ返されている感じ。(私の知ったかぶり、私の「誤読」が、ばれていない?)
 知ったかぶりを押しつけてくる(?)、このタイミング。このリズム。さらに、

橋のようなので、両側の泥土のうつつは低く小さくなってゆく。うつうつ、うつらうつら。石が脱ぐ悦びも、そこに撒かれて。

 「小さくなってゆく。」から「うつうつ、うつらうつら。」への飛躍。ここには「意味」はないね。野村の肉体が覚えている何かが、「うつうつ、うつらうつら。」というリズムを呼び出したのである。「うつうつ(する)、うつらうつら(する)」というのは直前の「夢」ということばと呼応しているけれど、「あれらの夢」の「夢」の中身と呼応しているかどうか、はっきりしない。内容(意味)と呼応するのではなく、夢みるという動詞と呼応すればそれでいいのだ。
 わからないまま、知ったかぶりをしながら、野村のことばの呼吸にあわせる、あわせながらことばを追いかける--というのは、なんだかどきどきして楽しい。

眩暈と建築との関係についていえば、基本、建築について私は崩壊へと風を代
入するのが好き、とまで浮き、透き、音楽の骨、骨の塔から流れ出る音楽、音
楽という名の塔をめぐる骨のまぼろし、などと心せくばかりなので、そこから
うねりつづく歩廊、そこに絡みつくパイプ状の旋律のきれはし、と来ては、地
の震えのあとさきのように、もうどうにも下を潜り、右や左に逸れ、死がそう
であるように、これが眩暈だ、などといえるあいだは、まだじっさいの眩暈で
はない、なぜなら眩暈とは、顔のない情熱のひろがりである、あるいは眩暈か
ら、泡のように吹きこぼれた惑乱のきみの、きみのかけらをさがせ。

 この部分は、どうか。「建築」「骨」「塔」がひとつの「意味」になろうとし、それを抽象的に「音楽」が突き破る。すると音楽が「建築」のようにも見えてきて、「歩廊」ということばとなって、融合する。「パイプ状」というのは建築のバイプを想像させると同時に、パイプ(管)楽器の音をも連想させる。そこには何かひとつの「つながり」がある。「建築」を「崩壊」させ、そこに「風」を吹き渡らせる(風を代入する)と、廃墟の柱や何かにぶつかって風の音が音が苦になるような、壁を取り払われ(壁が崩壊し、廃墟になって)透き通った空間が大きな楽器になって鳴り響くような--というような知ったかぶりへ、私は突き動かされる。野村が知ったかぶりというのではなく、「理解」しようとして、私のことばが知ったかぶりのまま動くということ。「誤読」を誘う何かがある。
 これを何といえばいいのかわからないけれど、野村の「文体」の力だね。野村の文体の中には何かそういう力がある。連想を凝縮させながら、飛躍へと突き動かす力がある。その力でことばが統一されている。そのことばにはスピードがあって、うむをいわせない。ゆっくり考えさせてくれない。
 別なことばで言えば、まあ、私はだまされているのかもしれないけれど、だまされるってうれしいなあ。その瞬間、いままで知らなかった何かが見える、何かが聞こえる。そして、何かに触れるからね。--まあ、そういう錯覚全体が「眩暈」なのかもしれないが。


芭(塔(把(波
野村 喜和夫
左右社
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西脇順三郎の一行(57)

2014-01-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(57)

 「えてるにたす Ⅰ」

シムボルはさびしい                       (69ページ)

 長い作品なので、今回も1ページ1行を選んで感想を書いていく。
 詩は「書き出し」がすべて。突然始まって、それが次のことばを生み出していくだけである。結露(?)というものは、ない。「意味」というものは、ない。あるとしたら書きはじめた瞬間だけにある。
 西脇は、このあと「言葉はシムボルだ/言葉を使うと/脳髄がシムボル色になって/永遠の方へかたむく」とつづける。ことばが交錯しながら広がっていく。
 「脳髄がシムボル色になって」の「色」のつかい方がおもしろい。どんな色かさっぱりわからない。--ほんとうは、この1行を選ぶべきだったかもしれない。
 というのは、そういう「色」のないものを「色」と呼ぶところからはふたつの「感想」を引き出すことができるからである。
 色ではないものを色と呼ぶ--それは西脇にはその色が見えた。西脇は絵画的な詩人である、というのがひとつ。
 もうひとつは、色ではないものを色と呼ぶのは、色を書きたかったからではなく、色ではないものを書きたかったからである。「シムポル色」という音を書きたかった。無意味なもの、音を書きたかった。音を中心に西脇はことばを動かしている。つまり、音楽的な詩人である。
 さて、どっちを選ぼうか。--「意味」というのは、正反対のことを平気で呼び寄せながら動いてしまうので困ってしまう。

 このページにある「夏の林檎の中に/テーブルの秋の灰色がうつる」というのも、とても美しい。この美しさは、また絵画的な印象が強い。
 けれどもこの2行からだって、「音楽」を中心にした「意味」をつくりあげることができる。
 「林檎の中」の「中」は内部ではなく、表面、皮の中にという意味である。表面と意味を正確にするのではなく「中」ということばをつかっているのは、その方が音として美しいからである。「林檎」という短い音と「テーブル」というのばした音を含む長い音の対比にも音楽がある。
 いや、「赤い皮の林檎」とは書かずただ「林檎」と書き、色は「灰色」だけを書くことで、そこにある色の変化を連想させるその視点は絵画的である、と反論もできる。
 
 詩はやっかいである。いや、意味はやっかいである。


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アリエル・ブロメン監督「THE ICEMAN 氷の処刑人」(★★)

2014-01-13 01:30:06 | 映画
アリエル・ブロメン監督「THE ICEMAN 氷の処刑人」(★★)

監督 アリエル・ブロメン 出演 マイケル・シャノン、ウィノナ・ライダー、レイ・リオッタ

 最近、どうも映画がおもしろくない。目の状態かよくないので、影像にどっぷりひたることができないせいかもしれない。感想を書かないままの映画が何本もある。この作品も書こうかどうしようか迷ったのだが……。少し気になるところがあったので、書くことにする。
 「THE ICEMAN 氷の処刑人」は実話だという。どうもすっきりしない感じがしないのだが、実話とはもともとそういうものかもしれない。主人公は人殺し。けれども非常に家族思い。非常と愛情の両極端を生きている。
 見どころはふたつある。ひとつは主人公のマイケル・シャノンの演技。怒ると感情をおさえきれなくなるのだが、顔には怒りを出さない。行動が乱暴になる。その、なんともいえない無表情がいい。隙がないのである。どこをほめていいのか、適当なことばがみつからないのだが、身長が高くて、正比例するように顔が大きい。その大きな顔の中の目が、非情に冷たい--というのは映画の中の台詞であって、もちろん目は冷たい印象なのだが、その冷たさを際立たせているのが無表情である。まるで、殺すということにおいて顔は何の働きもしないと言っているようである。実際、殺しの仕事は顔ではなく手でやる。ナイフを使うにしろ銃をつかうにしろ、それは手でやるのであって、顔ではないからね。
 とはいうものの。じゅあ、どうやって相手を油断させるか。冷酷な顔のままだったら相手が警戒する。身構える。不意打ちだけでは殺しは難しい。
 2人目の殺しのとき。「金をやるから殺してみろ」と言われてホームレスを殺すシーン。近づいていっていきなり銃で殺すのではなく、話をして、「やっぱりたばこをくれ」と言って、相手が近づいてきた瞬間に体に銃を押しつけて殺すところなど、すごいなあ、顔ではなく「態度」出会いを一瞬油断させる。その微妙な変化をマイケル・シャノンは「肉体全体」で表現する。「顔」では演技しない。
 ディスコで青酸化合物をつかって殺したあと、そこを去るとき知人と出会う。どうやってその場を去るか。かなり緊張した場面なのだが、相変わらず顔はいつも通りで(いつも通りでないと発覚するからね、これは当然なのだが)、態度の微妙な動きで「あせり」を最小限に浮き立たせる。思わずスクリーンに吸い込まれてしまう。これは、なかなかすごい。
 もうひとつは、カメラ。全体の色調。現代ではなくて、年代はちょっと忘れてしまったがポケットベルの時代。30-40年くらい前になるのかなあ。風景が全体的に「重い」というか、浮ついた「軽さ」がない。そして、スピード感がない。マイケル・シャノンの演技とも関係してくるのだが、殺しなどというものは人に見られないようにすばやくやる必要がある。そのため、いまの映画では殺しはものすごいスピードである。アクションがオーバーである。速い分だけアクションを大きくしないと「見えない」からである。いまの映画は、カメラも角度を変えて、いくつものシーンから殺しの瞬間を再現して見せる。ところがこの映画は、そういうことをしない。あくまで人間の肉体の動きそのものをとる。言い換えると、カメラが演技をしない。演技を役者に任せてしまって、演技ではなく「場」を撮る。
 家族を侮辱されて、マイケル・シャノンが怒り、侮辱した男の車を追いかけるカーアクション、最後にマイケル・シャノンがつかまるときのパトカーのアクション(?)も、それは「場」に演技をさせているのであって、カメラは演技をしない。
 これは、これは……。なつかしいというか、なんというか。久々に映画を見たという気持ちににはなる。描かれる時代が古いからではなく、映画の撮り方が古いので、古い時代を思い出すのである。ほほう、と感心する。
 でもねえ。こんなことに感心するのはなんだかマニアック。と、映画を見ながら感じてしまうのであった。もっとかっこいい、強烈で残酷な殺しのシーンを見たかったのに、という変な欲求不満が残るのである。いまの映画の過激さに私が染まっているということもあるのだろうけれど。そして、いまの映画に染まっているからこそ、この映画のクラシックな撮り方に感心もするのだが。
 なんだか、私の感想は矛盾しているが、こういう矛盾した感想を引き出すのは、この映画にはかなり複雑なパワーがあるということかもしれないなあ。★4個にしようかなあ。まようなあ。
                     (2014年01月12日、KBCシネマ1)
ザ・カオス [DVD]
クリエーター情報なし
トランスワールドアソシエイツ
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福田拓也「その言語はどこの天体のものともつかない顆粒状の……」

2014-01-12 10:59:14 | 詩集
福田拓也「その言語はどこの天体のものともつかない顆粒状の……」(「hotel 第2章」33、2014年01月10日発行)

 福田拓也「その言語はどこの天体のものともつかない顆粒状の……」は何を書いてあるのかわからない。--と書きながら、それは「わからない」のではなく、私がわかりたくないだけなのだとわかっている。「意味」がわからなくたっていい、と開き直って、私はそのことばのなかへ入っていく。

その言語はどこの天体のものともつかない顆粒状の土や砂粒や鉱物
質のものたちの浮游する中で微かに動かす息吹きがどこから来るの
かそれは誰にもわからない、

 これが冒頭の3行(行でいいのかどうか、わからないが)。主語は?「その言語」? 違うね。文の終わりの「誰にもわからない」の「誰にも」が主語であり、述語は「わからない」。じゅあ、冒頭の「その言語は」というのは何? あ、これも「主語」。じゃあ、「主語」がふたつ? 違うなあ。「それは誰にもわからない」の「それは」という「形式主語」もある。そしてそれは「補語(目的語?)」でもあって……。
 こんな読み方では、なにもわからないね。何が間違っている? 簡単。私の書いた文章はなぜ混乱し、間違いに踏み込んでしまったか。理由は一つ。「誰にもわからない」という文の終わり(?)の部分をおさえて、そこからことばを理解しようとしたから。「意味」を探ろうとしたから。結論(正解?)は最後にあるのではない。日本語は最後に結論をいうことばではないのだ。
 日本語は最初に結論がある。結論があるくせに、相手の反応を見ながら、結論を変更しつづけるのが日本語なのだ。最初に自分の言いたいことを言ったから、あとはその言い分に対して相手がどう反応してくるかを見ながら、こういう見方もありますよとつづけることでごまかせばいいというのが日本人の処方術なのだ……という見方がないわけではないのかもしれない、というのは的確な例文になりきれていないというわけでもないといえないこともない。えっ、どっち?
 最初の文章は、

その言語はどこの天体のものともつかない顆粒状の土や砂粒や鉱物
質のものたちの浮游する中で

 まで一気に読んでしまいそうだが、そこに「罠」がある。日本語はだらだらとどこまでもつながっていくのである。つながりながら、ことばのなかでことばが往復する。往復しながら意味を変えつづける。
 この文章は、「その言語はどこの天体のものともつかない」でひとまず区切られている。そして、それは「顆粒状の土や砂粒や鉱物質のものたちの浮游する中で」何かをするのではなく、その前に「顆粒状の土や砂粒や鉱物質のものたち」と同じもになる。そして同じものとして、同じように「浮游する」。その浮游、その動きは自発的な動きではなく、それを「微かに動かす息吹き」がある。「息吹き」が「その言語/顆粒状の土や砂粒や鉱物質」を微かに動かす。でも、それではその「息吹き」はどこから来るのかと問われれば「誰にもわからない」……。
 「……のものたちの浮游する中で」という部分がいちばん日本語らしいおもしろいところだ。「……のものたちが浮游する」と終止形でいいはずなのに、動詞の終止形はそのまま名詞を修飾してしまう(修飾することができる)という特質(?)を利用して、ここでは「動詞」が「動詞」でなくなる。「動詞」でなくなりながら「動詞」の痕跡(エネルギー?)を抱え込んで次のことばへ侵入していく。次のことばと一体になる。
 「主語」が「融合」するのである。融合し、変化し、融合することで別なものになる。「息吹きが/来る」の主語は「息吹き」であるけれど、その「息吹き」は「その言語」という「主語」が存在しないことには発生する(生まれる)はずがないことばなのである。「その言語」という主語のなかに、すでに「息吹き」は含まれているし、その言語について考える「だれ(か)」もすでに含まれている。すでに含まれているものが、ことばの運動によって少しずつ浮かびあがってくる。
 「浮游する中で」は「浮游の中で」と言い換えても「意味」はかわらない。「浮游する中で」と「浮游の中で」はどう違うかといえば、違わない。一方は動詞が修飾節になり、他方は動詞派生の「名詞」として次のことばとつながる。ことばには動詞派生の名詞、名詞派生の動詞(科学する--という奇妙な動詞など)がある。そのごちごちを突ききって進むには、あらゆる瞬間を「動詞」の存在する一瞬(何かが動く瞬間)と同化するしかない。常に「動詞」になりながら、ことばのなかを進んで行く。そうすると、「名詞」ではなく「動詞」がもっている何かと合体しながら先へ進むことができる。動詞の中で「主語」が融合しながら動いていく。
 こういうとき、動詞となって動くということが大事なのであって、そのときどきの「名詞」は「動詞」によって統一される「仮の姿」だと考える必要がある。「主語」が「仮の姿」であるからこそ、私たちはそこに「私」を容易に投入することができる。そして、「動詞」のなかで、そこに起きていることと一体になり、「わからない」ままそこにあることを受け入れてしまう。

 あ、こんな書き方では何のことがわからないね。何のことかわからないけれど、「意味」がありそうにみえるね。きっとこのまま暴走すれば「意味」になるのだけれど、それはうさんくさいね。ことばのいちばんうさんくさい何かにつかまってしまうことになるね。
 私は「意味」について語る替わりに、こんな感想を書く。以下のように。

 福田はなにやらいろいろなことを書いてるが、私はその中の「動詞」(動詞派生のことば)につながりながら、自分の「肉体」を動かしてみる。「肉体」と「動詞」を重ねてみる。そうすると、福田の書くことばのなかで「主語」が変化しても、その変化とは関係なしに「私の肉体」が動く。言い換えると、「主語」が複数に、次々に変わるのを無視して、私の「肉体」は「私の肉体」で追うことができる「動詞」を追いかけながら、福田が書こうとしていることとは無関係な「私の肉体」を「主語」にしていることになる。
 これは奇妙な現象のようであって、実は、そうではないのかもしれない。
 福田の詩に限らず、ひとは何かを読むとき、そこに書かれている「主語」を第三者として眺めるだけではない。「主語」になりかわって、「私(の肉体)」を主語(主人公)にしてしまうものなのだ。たとえば「源氏物語」。それを読むとき、だれだって「光源氏」になって読むのである。「ゴッドファーザー」を見るとき誰もがマーロン・ブランドになって見るのである。いや、私はアル・パチーノになって見たという人がいるかもしれないが、だれになろうとかまわない。だれであろうと「私」ではない人間に「私の肉体」のまま、融合する。
 「主語」が存在するのではなく「動詞」が存在する。「動詞」のなかで、ひとは、そこにおきている「こと」をつかみとる。「わかる」。「頭」でわからなくても「肉体」でわかる。主語を不要とする日本語で育った日本語人(日本人)は、特にそういうことが得意である。
 で、福田の詩。
 つづきを引用し、主語を次々と放棄しながら、動詞そのものになって別な主語へと移っていくことをていねいに書いた方がいいのかもしれないが、私は目が悪いのでそういうことを省略してしまう。
 ただ、次のことだけは書いておく。
 福田のことばは主語を放棄しながら動詞をたよりに変化しつづけるが、その動詞の登場するタイミング(リズム)がとてもいい。そのために動詞をコピーする肉体は自然に動く。音楽を感じながら動く。
 ことばの「音楽」には音韻の音楽と、動詞の音楽がある。肉体を動かす、その動かし方を誘う音楽がある。リズム、文体と呼ばれるものがそれになるのかもしれないが、私には、まだそれをどう呼んだらいいのかわからない。だから「感覚の意見」として書いておくのだが、こういう「音楽」の聞こえることばというのは、私は好きである。「意味」は「わからない」、けれど信じてしまう。読み通してしまう。
尾形亀之助の詩―大正的「解体」から昭和的「無」へ
福田 拓也
思潮社
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西脇順三郎の一行(56

2014-01-12 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(56)

 「最終講義」

またミミナグサの坂をのぼる                    (68ページ)

 「ミミナグサ」を私は知らない。どんな草なのだろう。読者の何人が知っているだろうか。そして、そのことばを読んだ何人が調べただろうか。私は調べない。植物図鑑を調べても、きっと忘れるだけである。図鑑で見たからといって「わかる」わけではない。
 私はただ「ミミナグサ」という音を楽しむ。そして、「また」ということばを楽しむ。そうか、西脇は何度もその坂をのぼったのだ。そうして何度もミミナグサを見たのだ。そのとき体のなかに「風景」ではない、別なものがあらわれる。坂をのぼる肉体のリズムがあらわれる。ミミナグサはそのリズムを飾るメロディーだ。
 と、書いて、私は何か間違えたと感じる。
 「ミミナグサ」よりも「また」の方が私は好きなのだ。西脇は何度も「また」ということばをつかっているが、この「また……する(した)」という繰り返し、繰り返すしかないもののなかに、何か「永遠」というものを感じる。
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麻生有里「満月の底」

2014-01-11 10:42:35 | 詩(雑誌・同人誌)
麻生有里「満月の底」(「狼」22、2013年12月発行)

 09日に書いた中尾太一の感想のつづきになるかもしれないが、私は詩を読むとき「音」が聞こえないと、どうも落ち着かない。「キー」があわないのか「リズム」があわないのかよくわからないが、どんな文体にも「音」(音楽)があって、それが聞こえるときと聞こえないときがある。私が古い人間で、昔の「音楽」しか受け付けないということなのかもしれないけれど。
 麻生有里「満月の底」は、音楽が聞こえる。

記憶の桁と同じくらいの魚たちが
海底に整列している
並んだ列の末尾は 長く漂う尾鰭

 「記憶の桁」という抽象から始まるのだが、そういうものがあると考えたことがないのに、「違和感」がない。まったく新しいものがそこにあって、それが耳にすっと入ってくる。そのとき「視力」も影響しているかもしれない。「桁」という漢字が私には妙に抽象的に感じられる。「桁」という文字を書かないせいかもしれない。「記憶」は書くが「桁」は書かないなあ。いつもつかうものと、まったくつかわないものがぶつかって、いつもつかっている「記憶」から「いつも」を洗い流す。そのために抽象的な印象がさらに強くなる。
 つづいて出てくる「同じくらい」は「同じ程度」いう意味だろうけれど、何が「同じ」なのかわからないまま、「桁」と「くらい」がどこかですれ違う。平田俊子なら、ここから「だじゃれ」へ向けてことばを解体するかもしれないが、麻生はそういうことはしない。
 2行目まで読んで、「同じくらい」が「同じくらいの数」だとわかる。ふつうなら「無数」(たくさん)という感じですませることばを、麻生は「記憶の桁」という奇妙な抽象でつかんでいる。
 で、1行目の「桁」(数)が2行目の「整列」ということばとぶつかるとき、そこには何か数学的というか、「もの」を「もの」そのものではなく、「もの」を整理する何かで把握し直す力が働いているように感じる。私の「感覚の意見(直感)」でいえば、ここには数学の音楽が響いている。抽象--というより、麻生のことばは「数学的」なのだ。数学の論理(音楽)だね。あるいは、「物理」といってもいいかも。だから、なんとなく抽象的と感じる。--抽象は、このとき「理性的」というくらいの意味を持っているかもしれない。
 野生のなまなましい肉体の音楽ではなく、そのなかから何かを抽出してととのえた音楽がことばのなかにある。文体のなかにある。

黒と白と 黒でも白でもない色と
その中間の色
口にくわえた海藻の枝葉に付着した祈り

海中では 水が意味を成さない
静かに少しずつ列は進み
捧げられた海藻が 積まれていく

海藻と海藻が触れると
そこから微細な粒子が流れる

それぞれの憂いと 多くの営み
一瞬 変わる流れの後に またつづく平穏な海流
その合間に時折 交わされる合図

 「満月の底」というタイトルから想像すると(連想すると、かってにでっちあげると)、これは満月の日の海の底の様子、金子みすゞの「大漁」(だったっけ?)のような世界を書いているのかもしれないが、その魚の様子が「中間の色」(あとの方には「合間」)「意味(を成さない)」「微細」「粒子」というような、物理(数学の具体的世界)と抽象的概念を貫く音楽(ことばの調子)がとても印象的である。「魚」というより、そこで起きている「運動」そのものが描かれているという感じ。
 で、そのあとが、美しいなあ。

朽ちるのは 物体
朽ちないのは 配列

 あ、そうなんだ。「配列」は名詞だけれど、これは「配列する」という動詞(運動)でもある。麻生は「海底の魚」を「具体」として書くのではなく、そこに起きている「運動」を抽出して、運動のみを書こうとしている。運動というのは数学で再現され、その再現された抽象は絶対に「朽ちない」。数学(物理の原理)は朽ちない。朽ちるものは「物体(存在)」だけである。
 麻生は、そういう「運動としての抽象」を「音楽」としてことばの中心に置いている。その音楽が濁らないように工夫しながらことばを動かしている。

 で、何が書いてある? それにはどんな意味、どんな価値がある?
 あ、私は、そんなことは気にしない。

表面をなぞる様な 平らな定型の話ではなく

 という1行が後半に出てくるが「意味」なんて、「表面をなぞ」れば、先に書いたように、満月の海底の魚の様子と言ってしまえる。そこにはそれ以上の価値(?)はない。そう言ってしまえる。
 でも、それが書いてあるから詩なのではなく、そのことばの書き方が詩なのである。ことばのなかから、どんな「音楽」を引き出してきて、それで一つの「世界(曲?)」をつくるかが詩なのである。



 洸本ユリナ「王林」は、麻生とはまた別の「音楽」でことばを動かしている。

私は王林という名のりんごです。
私は王林という商品のりんごです。
私はよくある赤いりんごではありません。
私は立派な商品名があります。
私は28日前まで王林の桐箱に入っていました。
私は紅玉とfacebookで友達関係にあります。
私は賞を受賞したロザリオビアンコと同じ写真に写っています。
私が話しかければ、ロザリオビアンコはいつも私と仲良く話してくれます
私は東急ストアにいいねされています。

 「facebook」と「いいね」は「意味」といえば「意味」だが、そんな「意味」など考えずにひとは「いいね」ボタンを押す。その「無意味」さのなかにある「音楽」が、この詩の全体の形をととのえるスタイルといい感じで出会っている。
 「音楽」が加速する。これを音楽用語では「ドライブする」というのかな? とてもいい感じで「音楽」が濃厚になっていく。

私は知り合いのふじと一緒に待機していました。
私は王林なのでサンふじと同じ棚には並びません。
私はりんごの王様で、肉質緻密で多汁、酸味が少なくて甘味が強いのです。
私は他の王林とは違います。
私は他の王林と違い、袋をかけられて育ちました。
私は王林というシールを貼られて売られていました。
私は王林という商品名でレシートに印刷されました。
私は手にとった男性にこれが王林だと言われたのをRT
私は王林という名のりんごです。
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今、冷蔵庫の奥で窒息しかけています。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(55)

2014-01-11 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(55)

 「最終講義」

大森の麦畑と白いペンキのホテル                  (67ページ)

 詩の後半。この1行から、ものの羅列が始まる。並列が始まる。この1行が印象的なのは、ことばの運動の口火を切っていることと同時に、固有名詞と普通名詞の対比があるからだろう。
 「大森の麦畑」と「白いペンキのホテル」。ホテルも大森にあるのかもしれないが、大森という固有名詞には染まっていない。「白いペンキ」という属性が「大森」と拮抗している。それが、なんとなく面白い。
 麦畑は金色か、緑色か。最終講義が春先に行なわれるのとしたら、麦はまだ緑だ。苗が出たばかりかもしれない。その特定できない色と白が向き合っているのも面白い。

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