豊原清明『父子』(マルコボ・コム、2014年01月01日発行)
豊原清明『父子』は句集。私は俳句のことをほとんど知らない。詩も知らない。面白いかどうか、感じたことを書くだけである。
この句集はいきなり面白い。
ことばが不思議な感じで響きあう。ことばがことばを飛び越えて結びつく。「春の鹿」がいて、春なので花が咲く。花といえば桜というのが「定説」だけれど、桜じゃなくてもいいよね。鹿と花が出会っている。鹿のそばに花が咲いている。鹿が花の近くによってきて、花を見つめている。そういう情景なのだろうけれど……情景を超えるものがある。
「冷たい」ということば。これは、この句のなかで他のことばとどうつながっているのだろうか。花を形容している。「冷たい花」というのがいちばん基本的な姿なのだろうけれど……。
冷たい春、早春、春の冷たさと感じてしまう。その冷たさのなかで咲く花。花そのものが冷たいのではなく空気が冷たい。張り詰めている。冬の透明なか感じが残っている。それが「瞬間」ということばによって固く結びつく。単なる出会いではなく、出会ったものが固く結晶する感じがある。これを「一期一会」というのかな?
春のうまれる瞬間。枝は、木の幹につながっている生きた枝だろうか。それとも足もとに落ちている枝だろうか。僕がぶつかって枝が折れるのか、僕が踏んで枝が折れるのか。あるいは枝が成長するときに(春になって枝がのびるときに)、有り余るエネルギーが内部から破裂するのだろうか。
「僕のまわり」の「僕」が不思議だなあ。俳句ではあまり僕とか私とか、「主体」をあらわすことばを見ないけれど。
この「僕」が春を感じて肉体的に変化する。それに呼応して枝が折れる。折れながら、輝かしい断面、春の透明な光を反射する断面を見せる。それは「僕」の断面のようでもある。折れた断面のなかで、春と僕と枝が出会って結晶する。
「ぱかぱか」が不思議だなあ。馬はぱかぱかというのは常套句なのかもしれないが、はじめて聞くような新鮮な美しさがある。どうしてだろう。豊原が「情景」と「ひとつ」になってしまっているから、としか言いようがない。
「ふるさとがないような」というのは抽象的だ。雲は空に浮かんでいる。ふるさとがないというのは、あたりまえのような気がするが、それが新鮮に響いてくるのは、雲と豊原が「ひとつ」になっているためだ。不思議な悲しみ、明るいセンチメンタルがある。さっぱりとした感じがいい。ただ雲とだけ「ひとつ」になるのではなく、地上を流れる「春の川」とも「ひとつ」になっている。豊原がことばにすることで、世界が新しく生まれ変わる感じだ。こういう瞬間を詩で書くのは難しいなあ。
谷川俊太郎が『minimal 』で短い詩を書いたけれど、その谷川の作品ですら俳句よりは長い。そして、何か一つだけのことではなく別のことをいっしょに書き、そこにことばの依存関係のようなものが生まれてしまうのだけれど、俳句は、互いのことばに依存しない。それぞれが関係しているのだけれど、何かそのことば自体で独立して存在しているというような感じ。
俳句はことばが日常的に結びついている関係を洗い落とし、新たに生まれ変わって出会い、結合する。結晶する運動のことなんだろう、と思う。
とても新鮮だ。そして、不思議になつかしい。「肉体」が覚えていること、それをたしかに見てきたけれど(体験してきたけれど)、自分ではことばにできなかったものを、いま豊原のことばといっしょに新しく体験している感じだ。
「孤独」ということばは私の知っている「俳句」ではあまりつかわない(と思う)。センチメンタルで感情がありすぎて、俳句のもっている「もの/ことば」の清潔さとは相いれない感じがするのだが、この句では、
ということばにならない「肉声」とぶつかることで、「孤独」からセンチメンタルな感情が消えて、誰ともふれあっていない一個の「肉体」そのものが見える。それが宇宙と向き合っている。谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」みたいだ。
少女はほんとうに少女だ。「おんな」ではけっしてない。そういう清潔さがある。(あ、おんなのひと、ごめんなさいね。少女じゃなくなると清潔じゃなくなるという意味じゃないから。)
「真面目」がおかしいね。楽しいね。うれしいね。
これもいいなあ。なんといえばいいのだろう、いま/ここにある現実と「唱和」している。あいさつをかわして「一体」になっている。俳句は(発句は)あいさつということを思い出した。「一期一会」のあいさつ。
「いま/ここ」とこんなふうに出会える力というのはすばらしいなあ。
私には説明できないが、これは今年読むべき最初の一冊です。楽しい。美しい。新しいことばが始まる--という予感にふるえてしまう。
豊原清明『父子』は句集。私は俳句のことをほとんど知らない。詩も知らない。面白いかどうか、感じたことを書くだけである。
この句集はいきなり面白い。
春の鹿冷たい花の咲く瞬間
ことばが不思議な感じで響きあう。ことばがことばを飛び越えて結びつく。「春の鹿」がいて、春なので花が咲く。花といえば桜というのが「定説」だけれど、桜じゃなくてもいいよね。鹿と花が出会っている。鹿のそばに花が咲いている。鹿が花の近くによってきて、花を見つめている。そういう情景なのだろうけれど……情景を超えるものがある。
「冷たい」ということば。これは、この句のなかで他のことばとどうつながっているのだろうか。花を形容している。「冷たい花」というのがいちばん基本的な姿なのだろうけれど……。
冷たい春、早春、春の冷たさと感じてしまう。その冷たさのなかで咲く花。花そのものが冷たいのではなく空気が冷たい。張り詰めている。冬の透明なか感じが残っている。それが「瞬間」ということばによって固く結びつく。単なる出会いではなく、出会ったものが固く結晶する感じがある。これを「一期一会」というのかな?
春きざす僕の周りの枝折れる
春のうまれる瞬間。枝は、木の幹につながっている生きた枝だろうか。それとも足もとに落ちている枝だろうか。僕がぶつかって枝が折れるのか、僕が踏んで枝が折れるのか。あるいは枝が成長するときに(春になって枝がのびるときに)、有り余るエネルギーが内部から破裂するのだろうか。
「僕のまわり」の「僕」が不思議だなあ。俳句ではあまり僕とか私とか、「主体」をあらわすことばを見ないけれど。
この「僕」が春を感じて肉体的に変化する。それに呼応して枝が折れる。折れながら、輝かしい断面、春の透明な光を反射する断面を見せる。それは「僕」の断面のようでもある。折れた断面のなかで、春と僕と枝が出会って結晶する。
ぱかぱかと馬が蛙をおつてゐる
「ぱかぱか」が不思議だなあ。馬はぱかぱかというのは常套句なのかもしれないが、はじめて聞くような新鮮な美しさがある。どうしてだろう。豊原が「情景」と「ひとつ」になってしまっているから、としか言いようがない。
ふるさとがないやうな雲春の川
「ふるさとがないような」というのは抽象的だ。雲は空に浮かんでいる。ふるさとがないというのは、あたりまえのような気がするが、それが新鮮に響いてくるのは、雲と豊原が「ひとつ」になっているためだ。不思議な悲しみ、明るいセンチメンタルがある。さっぱりとした感じがいい。ただ雲とだけ「ひとつ」になるのではなく、地上を流れる「春の川」とも「ひとつ」になっている。豊原がことばにすることで、世界が新しく生まれ変わる感じだ。こういう瞬間を詩で書くのは難しいなあ。
谷川俊太郎が『minimal 』で短い詩を書いたけれど、その谷川の作品ですら俳句よりは長い。そして、何か一つだけのことではなく別のことをいっしょに書き、そこにことばの依存関係のようなものが生まれてしまうのだけれど、俳句は、互いのことばに依存しない。それぞれが関係しているのだけれど、何かそのことば自体で独立して存在しているというような感じ。
俳句はことばが日常的に結びついている関係を洗い落とし、新たに生まれ変わって出会い、結合する。結晶する運動のことなんだろう、と思う。
昔からミモザほぐして僕の癖
我が父は一本のパラソル夏近し
歯医者に行く日々美しいアマガエル
山越えて乳房の赤子は夏つぽい
山出るとどこもかしこもヨットなり
夏過ぎて風の中央平泳ぎ
とても新鮮だ。そして、不思議になつかしい。「肉体」が覚えていること、それをたしかに見てきたけれど(体験してきたけれど)、自分ではことばにできなかったものを、いま豊原のことばといっしょに新しく体験している感じだ。
眠るまへ流星あああといふ孤独
「孤独」ということばは私の知っている「俳句」ではあまりつかわない(と思う)。センチメンタルで感情がありすぎて、俳句のもっている「もの/ことば」の清潔さとは相いれない感じがするのだが、この句では、
あああ
ということばにならない「肉声」とぶつかることで、「孤独」からセンチメンタルな感情が消えて、誰ともふれあっていない一個の「肉体」そのものが見える。それが宇宙と向き合っている。谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」みたいだ。
秋風やふつと少女のあごあがる
青葉潮服脱ぐ少女の真白な手
少女はほんとうに少女だ。「おんな」ではけっしてない。そういう清潔さがある。(あ、おんなのひと、ごめんなさいね。少女じゃなくなると清潔じゃなくなるという意味じゃないから。)
屋根裏で真面目に残る初霰
「真面目」がおかしいね。楽しいね。うれしいね。
軽トラに落ち葉一杯酒一杯
これもいいなあ。なんといえばいいのだろう、いま/ここにある現実と「唱和」している。あいさつをかわして「一体」になっている。俳句は(発句は)あいさつということを思い出した。「一期一会」のあいさつ。
「いま/ここ」とこんなふうに出会える力というのはすばらしいなあ。
私には説明できないが、これは今年読むべき最初の一冊です。楽しい。美しい。新しいことばが始まる--という予感にふるえてしまう。
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