吉野弘「夕焼け」(現代詩文庫12、1971年04月20日第四刷)
吉野弘さんの訃報を読んだ。吉野弘の詩の感想は書いたことがあるだろうか。どうも記憶にない。なぜなんだろう。とても書きにくいからだ。
たとえば「夕焼け」。
いつものことだが
電車は満員だった
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
例もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で例を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀相に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。
読んで、状況がよくわかる。老人に席を譲る(譲るように教えられ、それを実行する)というようなことは誰もが経験したことがあると思う。礼を言われることもあれば、かたくなに拒絶されることもある。どんなことであれ他人とかかわるのは難しいことである。どんな反応があっても、こころは揺れる。
その「揺れるこころ」を吉野のことばは輪郭がはっきりしたものにかえる。こころをととのえる。そうして、人間をととのえる--という具合に動いていく。
この詩の場合、お年寄りに席を譲るのは「やさしい」人間のすることである。人間はやさしくならなければならない。けれど、自分ひとりが「やさしさ」を実行するのは、なんだか理不尽である。「やさしさ」を強要されている感じがして、それをうまく実行できないことがある。そうすると、いやあな感じ、が胸の中に残る。いやな感じが胸のなかで動く。どうしていいか、わからない。わからないまま時間が過ぎる。--このつらさを、吉野は、答えを出すというのではないけれど、そういうことがあるね、とことばで肯定する。非難しない。この、肯定のことを、私は「人間をととのえる」と呼ぶのだけれど。「人間を支える」と言ってもいいかもしれない。こころが暴走しないように、ぎりぎりのところに手をそっとそえる感じだな。
そんなふうに手をそえられると、なんだか泣きたくなるね。吉野は、泣いていいんだよ、私はそばにいるよ、という具合に人間を支えてくれるのだけれど。
この「やさしさ」には反論ができない。--それが、吉野の詩のいちばんの問題点だと思う。書いていることが「わかる」だけに、それに反論することができない、という奇妙な苦しさが漂う。悲しさが漂う。
「やさしさ」を生きている人間に対して、その「やさしさが気に食わない」と言ったりすると、きっと周り中から袋叩きにあう。そんな憶測も働く。まあ、そういう気持ちが、人間の暴走を抑制するということでもあるんだろうけれど、すっきりしない。強制ではないのに、なんだか自分がととのえられていくようで、そこに違和感が残る。
快感がないのだ。何かをすることで、自分が自分ではなくなってしまうという快感がない。逆に、いつでも「自分自身」にひきもどされてしまう。自分から出て行って、自分ではなくなってしまうのではなく、自分であることを強いられる。自分であることによって、「人間」としてととのえられる。「流通言語」に似たものを探せば、自己を深める。人間性を耕す--ということなのかなあ。
うーん、それはそれでいいのだけれど。
逆の人生があっていいのではないのかなあ、と思う。自分から出て行ってしまう。自分ではなくなってしまう。人間ではなくなってしまう。そういう生き方、そういう命のあり方を励ますことばがあってもいいのでは、とついつい思ってしまうのである。
脱線しそうなので、少し引き返す。
吉野は、あるできごとにふれて自分自身を耕す。自分自身の内面を深めるようにことばを動かす。そして、その耕した深いところで、他人と触れあう。重なり合う。
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
この三行は、「娘」を主役にして読めば、
やさしい心の持主(である娘)は
他人(としより)の(立っている)つらさを自分のつらさのように
感じるから。
となるのだが、吉野を「主役」にして読むこともできる。
やさしい心の持主(である吉野)は
他人(娘)の(席を譲らなかったということでみつめられつづける)つらさ(自分の心をさぐられるつらさ)を自分(吉野自身)のつらさのように
感じるから。
ということでもある。そして、その「吉野」は、詩を読む「私(読者自身)」と重なる。読者は娘のつらい気持ちを察する「やさしい心の持主」になるのである。
娘-吉野-読者は、吉野のことばをとおして「ひとつ」になる。そして、そのことば通りに「やさしい心の持主」にととのえられていく。「やさしい心」を発見することになる。「やさしい」だけではなく、弱い心でもある。ほんとうに「やさしい」のなら、その人が席を譲ればいいのである。たとえば、娘ではなく、吉野が「おじいさん、ここにすわって下さい」と言えばいいのである。あるいは、「そこの人、おじいさんに席を譲ってやりなさい」と言えばいいのである。そういうことができないのは、もしそうしてしまえば吉野が娘や誰かを批判することになる、傷つけることになるからなのだが。そしてそれは「やさしい心の持主」がするようなことではないからなのだが……。
でも、もし誰かが「犠牲」にならなければならないとしたら、その犠牲者を選ぶということも「やさしさ」のひとつであるかもしれない。
というようなことは、ほんとうは、わからない。「意味/結論」というものは、いつでも、どんな形でも可能である。ことばを暴走させると「意味/結論」にはいつでもたどりつける。それは、みせかけの「意味/結論」だけれど、「意味/結論」というのは見せかけにすぎないからね。
あ、また、脱線したなあ。
うーん、とっても書きにくい。書いてしまうと、それこそ自分自身をさぐること、自分自身をととのえることになってしまうので、私のようにちゃらんぽらんした人間、どんなことでも、そのときそのときで乗り切ればそれでいいや、と思う人間には苦しい。
私は私をととのえることが苦手な人間である。ととのえのことができない人間なのである。
吉野は「やさしさ」と「かなしさ」で吉野をととのえている。「かなしさ」を「愛しさ」と書くと、「やさしい」と「かなしい」がすーっと結びついてしまうが、吉野は人間を愛し、愛の力で人間をささえる。それが他人を美しくするということを知っていて、そのためにことばを動かした、ことばをととのえた詩人なのだろう。
ことばを自分自身の内部をさぐるように、ことばの内部をさぐり、耕し、ことばをつらぬく「水脈」のようなものを掘りあてる。そういう詩人なのだと思う。(漢字を比較しながら、意味とかなしみを掘り下げる詩には、とくにそういうことを感じてしまう。)
で、こういう、絶対に間違えない感じの詩人、人生をゆっくりととのえて、そこから他人をみつめている詩人というのはなんだか苦手なのだが。
美しい夕焼けも見ないで。
この最終行はたまらなく好きだなあ。この夕焼けを見るために、混み合った電車に乗り込み、席を二度譲り、三度目は譲ることができなかった娘を見てみたいなあ、この詩に書いてあることをそのまま体験してみたいなあと思う。心底、思う。
人間は、席を譲るとか譲らないとか、ごちゃごちゃしたことに心を迷わせ、その揺らぎを「やさしい」と呼んだり、「かなしい」と思ったりする。でも、そういうこととは無関係に太陽は沈んでゆく。沈んでゆくとき、空は夕焼けになる。夕焼けは人が何を思い悩んでいるかなど気にしないでいつものように色を変えてゆく。非情だ。でも、それが美しい。人間の思いとは無関係なのだ。人間の心とは無関係に動き、存在しているものがある。その絶対的な何かが、人間を、別な形でととのえる。ととのえているに違いないと私は思う。
この最終行のようなことばを、もっと吉野の詩に読みたかったなあ、と思う。私は吉野の詩が苦手で(あまりにも「意味」が整然と近づいてきて、同時に少し反省を強いられるような気持ち、「夕焼け」では年寄りにちゃんと席を譲ったかと問いつめられるような気持ちになるので)、多くは読んだことがない。だから、そういう行がほんとうはたくさんあるのかもしれないのだが。私は勝手に吉野像をつくりあげて感想を書いているのだが。
追悼からは遠い感想になってしまった。ごめなんさい。吉野弘さん。