詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(69)

2014-01-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(69)

「まさかり」

「ここの衆

 ある村で見かけた若い男のことばである。このあと「まさかりを貸してくんねえか」とつづくのだが、近所の家に向かって「ここの衆」と呼び掛ける、その呼び掛け方に西脇は驚いている。
 状況から、そしてそのことばから、「意味」はわかるのだが、詩は「意味」ではない。「意味」をこえる何かだ。ここでは、その何かとは「音」である。西脇のつかわない音。西脇は、「ここの衆」と呼び掛けて誰かの家を訪ねることはないだろう。だからこそ、その音に驚いた。
 こうした音の驚きを西脇はそのまま詩にしている。
 ことばの「意味」の土台に「音」がある。「音」が、そこに人間を屹立させる。
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田代田「灌木」

2014-01-24 11:11:09 | 詩(雑誌・同人誌)
田代田「灌木」(「孑孑」71、2013年12月25日発行)

 田代田「灌木」は最初に俳句(?)らしきものが本文とは違った字体で書かれているのだが、それは省略--などと書くくらいなら、引用した方が早いのだが。省略したいのだ。

狭い庭のゆすらうめ

毎年たくさん実をつける
ホームセンターで買い求めたぶん十年は経つだろうか枝は広がるが
腰ほどの高さからありがたいことに少しも成長はしない
ジムの更衣室でミヤベさんとの会話である
背の高い人はいいねえ
まったくしかりそのとおり御意でござりまするなぜ背の話になったのだろう

 作品は、「なぜ背の話になったのだろう」ということばがあるように、なぜこんな展開になるのだろう、どうして最初のテーマ(?)から離れて行ってしまうのだろう、という具合につづく。
 どんな句が冒頭にかかげられてあったか、見当がつかないでしょ?
 で、あえて省略したのである。
 そして省略したあとで、こんなことを書くのはいいかげんなのだけれど、あの句は「連歌の発句」なのである。あいさつなのである。集まっている人に向けてあいさつし、そのあいさつから連句(連歌)を、「さて、はじめましょうか」とつづく。その流儀で田代の詩は動いている。
 でも、実際は、

狭い庭のゆすらうめ

 これが「発句」としてことばを動かしつづける。俳句はない方がスピード感がある。俳句があると、スピードがあわない。これは、変な言い方だけれど、リズム、テンポがあわないと言いなおした方がいいかも。

 田代の詩は、リズムがといっていいのか、テンポがといっていのか、音楽にうとい私にはちょっとむずかしい判断になるのだが、まあ、リズムだろうなあ。そのリズムが独特である。
 引用した冒頭の部分だけでもわかるが、一行の長さがふぞろいである。二行目は「が」という助詞だけである。そのうえ句読点の意識がずれている。そして、この「ずれ」がリズムである--田代の場合は。

ホームセンターで買い求めたぶん十年は経つだろうか枝は広がるが

 これは「ホームセンターで買い求め」「たぶん十年は経つだろう(か)」「枝は広がる(が)」という三つの文章に分けることができる。動詞が「買い求める」「経つ」「広がる」と三つあるのだから。動詞が三つあるということは「主語」も三つあるということである。そして学校文法では「主語」が共通のとき、「動詞」が複数あっても正しいことばと判断する。「私は朝の七時に起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて、行ってきますと言って学校へ行った」。へたくそな文章(散文)は「主語」にあらゆる動詞をつなげてしまうものである。
 田代は学校文法とは違う文法でことばを動かしている。「私は」木を買い求めた。買い求められた「木は」植えられてから十年は経つ。その十年の間に木の「枝は」広がる。主語がかわっているのに、ひとつの文章にしている。三つを接続させている。
 これが、田代の「文体(リズム)」。主語がなしくずしに横滑りしながら、滑って止まるところまでがひとつの文章。田代の肉体の中にあるリズムが優先して動き、それが「主語」を揺さぶっているのである。田代は「主語」でことばを動かさないのだ。
 「動詞」が動きながら「主語」を探すのである。なぜ「背の話」になったのか。それは「主語」を維持しつづける「散文」のリズムではたどりつけない。探し出せない。田代のことばは「動詞」が主体なのだから。
 勝手に想像すると、木が育つとときどき枝を切らなければならない。背の低い木は簡単に枝が切れる。でも、もし木が高いなら、高いところの枝を切るのは大変だ。背が高い人は簡単に切ることができるだろうけれどねえ。背の高い人はいいねえ……。剪定する(枝を切る)という動詞のなかで主語が変わってしまったのだろう。
「動詞」を基本にし、「主語」を変化させる。そのあとで新しい「主語」に新しい「動詞」を接続しなおし、またその「動詞」に新しい「主語」を選ばせる。--という具合に動いていくのが、田代の「ひとり連歌形式の詩」なのである。「連歌」であることを見えなくするために、田代は「五七五/七七」の音韻のリズムはつかわないのだけれど。

 詩のつづき。

キクオはねえ鴨居をくぐっていたのだよ
キクオという名の戦争で死んだ背の高かった父のことを思い出していた顔など
一枚
の古い
写真でしか知らない遺伝の話しだった

 「背の高い人はいい」か。背が高いと鴨居をくぐらないといけない。つまり背をかがめなければならない。それは「いい」とは言えないかもしれない。--ということは、どうでもよくて、私が指摘しておきたいのは、「高い」は「用言」であり、「動詞」と同じように働いているということと、その「用言」によって、突然「キクオ」という新しい主語が登場していることである。その主語は「突然」なのだけれど、「高い」という「用言」の力でことばがひきずられているということ。田代は、田代のリズムを守ってことばを動かしている。
 そしてときには「名詞」も「用言」化されて、文章を接続する。
 詩のつづき。

目が悪いのは劣性遺伝ですよメガネをかけた父の遺伝は
貰ったが
背は通りすぎてしまった

 「遺伝」は「遺伝する」という「動詞」に変わり、「遺伝する」というのは遺伝子を「貰う(引き継ぐ)」、という具合である。
 こういう「変化」、文章の「乱調」を装いながら、しっかり「動詞(肉体)」をおさえているというのは気持ちがいい。一行一行の長さをばらばらにすることで「外形のリズム」を崩しているふりをしながら「文体内部のリズム(ことばの肉体)」の基本をおさえている。そこに田代の「音楽」がある。



 田代のことばは「肉体(動詞)」を基本としているから、実際の「肉体」の報告はおもしろい。「孑孑」には「フルマラソン」というタイトルのエッセイがある。フルマラソンを走ったときのことが書いてある。「走る」ということばで「肉体」を常に固定しながら、あっちこっちに逸脱する。「気持ち」はその瞬間瞬間でつぎつぎに変わる。変わりながら、変わることが、変わらない「肉体(主語)」を彩るという形だ。
 田代は、たぶん、詩よりも散文の方が「流通」に乗りやすいだろうと思った。

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谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(68)

2014-01-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(68)

「コップの黄昏」(この作品から『宝石の眠り』収録)

男へ手紙を書いて切手をなめる時だ

 切手を貼る、ではなくて切手を「なめる」。もちろん貼るためになめるのだが、これがおもしろい。切手を貼るよりも、肉体の動きがなまなましい。俗っぽい。そして、そこに力を感じる。肉体が剥き出しであらわれてくる感じがする。
 西脇の詩には抽象的(精神的)な要素が多いのだけれど、それをときどき、こういう生々しい肉体が破る。この乱調(?)の音楽がとても楽しい。私は大好きだ。
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小田桐生「鉄橋」

2014-01-23 10:58:12 | 詩(雑誌・同人誌)
小田桐生「鉄橋」(「トーキョーローズ」創刊号、2013年09月10日発行)

 小田桐生「鉄橋」は少し古い作品。01月17日発行の「トーキョーローズ」2にも作品が掲載されているが、創刊号の「鉄橋」の方がおもしろい。と、書きながら、どこがおもしろいか説明しようとするとわからない。読み返す。

列車が橋を渡る度に
左側に座る女はため息をついた
靴底でセミのぬけがらばかりを踏みくだく季節
橋の下で
川の名前が水の重みにやわらかく傾いだ

 あ、この5行目--これだね。こで私は立ちどまり、おもしろいと思ったのだ。書いてあることが「事実」ではないからだ。「事実」ではなく、じゃあ何かというと、まあ、詩なんだろう。
 詩は、嘘なんだね。
 それは前の行と比べるとわかる。ほんとうにあったことかどうかわからないが、列車が橋を渡るということはある。左側もある。女が座っていて、ため息をつくということもある。セミの抜け殻を靴底でくだくこともある。
 でも、

川の名前が水の重みにやわらかく傾いだ

 こういうことはありえない。「川の名前」「水の重み」「やわらかく」「傾いだ」ひとつひとつは「わかる」が「川の名前」が「傾ぐ」というのがわからないね。「名前」というのは「傾い」だりしない。「事実」としてはありえない。ありうるとすれば、それはことばのなかだけで起きることである。
 と、書きながら、私は「傾ぐ」のつかい方に、あ、そうか、名前が傾ぐのかと引き込まれる。「傾ぐ」という動詞が、肉体のなかでよみがえり、それが名前に作用して、名前が何か変化する--「川の名前」が川から離れて別なものの上に倒れこむような感じがする。
 あ、世界がずれた、
 という感じなのだ。
 これは、すべて、ことばのなかのできごととして起きる。
 だから、「事実」ではなく、ことばをみていく。みていかなければならない。
 「傾ぐ」の前に出てくる動詞「渡る」「座る」、ため息を「つく」「踏みくだく」が肉体にすんなり伝わってくるので、(肉体で簡単に再現できる、肉体の動きとして思い出すことができるので)、つられて「傾ぐ」という動詞でも肉体が先に動いてしまうんだろうなあ。「頭」が「川の名前」は「傾がない」という前に、肉体が「傾いで」、そのあとで「主語」が傾ぐはずがないものだと知って、あ、ではいま感じたことはなんだったのだろうと自分の感覚を再点検する。
 そんなことをせずに、「この文章は日本語としておかしいよ」と批判する人もいるだろうけれど、私は「日本語としておかしいよ」と思う前に、「日本語としておもしろいよ」と感じる。そして、それから、そのおもしろさを「詩」と呼んで、それからさらにごちゃごちゃと「感想」をでっちあげるのである。でっちあげたくなるのである。でっちあげることで、そのことばを「詩」にしてしまうのだ。

 そのあと、

濡れた髪のこどもたちは
土手に寝そべり
美術教師の後ろ姿を水に映す
水槽のぬるんだ時間が
水彩画に描かれた朝を真似る

 ことばがだんだん抽象化してくる。こうなると、「おもしろい」がだんだん「おもろくない」に変わる。私はすぐに気が変わるのである。
 「寝そべる」は肉体で再現できるが、「水に映す」がむずかしい。「ぬるむ」が変形(活用?)した「ぬるんだ時間」が、うーん、むずかしい。「ぬるむ」というのは肉体の「運動」ではなく、触覚で感じ取る「感覚」だから、どうも「わかる」といいにくい。でも、そのあとの「真似る」はいいねえ。そうか、「真似る」にはこういうつかい方があるのか。
 でも、最初に引用した5行に比べると、あまりにも抽象的すぎるなあ。

「ぬるんだ」時間

「描かれた」朝

 この二つの動詞のつかい方が「抽象」に拍車を書けるのかもしれない。連体形(で、いいのかな?)+名詞--それが抽象を複雑にしてしまうのかも。
 前の5行と「音楽」が違ってきたような感じがする。--これは私の「感覚の意見」であって、うまく説明できないんだけれど。
 この抽象化は行が進むにしたがって強くなるから、抽象的であることが小田の個性なのかもしれないけれど、このあたりから最初に感じた「おもしろい」が消えていく。消えていく、ということが私の肉体のなかではっきりしてくる。
 ただの「現代詩」(きざったらしいことばの結びつき)になっていく。

おびえるように
ただ、おびえるように
顔のない季節が
こどもたちの声に沈む

 という部分では、「おびえる」という「動詞」が肉体に働きかける前に、かってに、おびえる「ように」と比喩になってしまっている。それまでの動詞のように肉体に直接さようしなくなる。これは、つまらないね。

 あ、最初は「おもしろい」と書いていたのに、だんだん「おもしろくない」の方が多くなってしまったなあ。

 2号に掲載されている「部屋」にも、

玄関に置かれた水槽の中
魚たちの時間が早くも転倒している

 という魅力的な行があるのだけれど、その行がもっている「詩」が持続しない。ことばを「頭」で動かしすぎるのかな? わからない。

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谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(67)

2014-01-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(67)

 「えてるにたす Ⅱ」

スカンポのように                         (79ページ)

 「スカンポ」を標準語で何というのか私は知らない。「スカンポ」が標準語かもしれない。正しい植物の名前かもしれないが。
 私の記憶(印象)では、それは、田舎の呼び方だ。
 道端に生えている草。茎の中が空洞で、かじると酸っぱい味がする。「スカンポ」の「す」は「すっぱい」、「スカンポ」の「すか」は「すかすか(空洞)」の「す」、「スカンポ」の「ンポ」は茎を折ったときの「んぽっ」という音。
 「スカンポ」は私にとっては草の名前というよりも、その草がもっている「音」。それをかじったときの私の肉体が感じた「感覚のすべて」。
 私は富山で生まれ育った。西脇は新潟の出身。富山と新潟は、まあ、完全に文化圏が違うのだけれど、隣り合っているのだから似ている部分もあるだろう。その似ている部分を私は「スカンポ」に重ねながら西脇を読むのである。

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吉野弘「夕焼け」

2014-01-22 09:00:01 | 詩集
吉野弘「夕焼け」(現代詩文庫12、1971年04月20日第四刷)

 吉野弘さんの訃報を読んだ。吉野弘の詩の感想は書いたことがあるだろうか。どうも記憶にない。なぜなんだろう。とても書きにくいからだ。
 たとえば「夕焼け」。

いつものことだが
電車は満員だった
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
例もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で例を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀相に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

 読んで、状況がよくわかる。老人に席を譲る(譲るように教えられ、それを実行する)というようなことは誰もが経験したことがあると思う。礼を言われることもあれば、かたくなに拒絶されることもある。どんなことであれ他人とかかわるのは難しいことである。どんな反応があっても、こころは揺れる。
 その「揺れるこころ」を吉野のことばは輪郭がはっきりしたものにかえる。こころをととのえる。そうして、人間をととのえる--という具合に動いていく。
 この詩の場合、お年寄りに席を譲るのは「やさしい」人間のすることである。人間はやさしくならなければならない。けれど、自分ひとりが「やさしさ」を実行するのは、なんだか理不尽である。「やさしさ」を強要されている感じがして、それをうまく実行できないことがある。そうすると、いやあな感じ、が胸の中に残る。いやな感じが胸のなかで動く。どうしていいか、わからない。わからないまま時間が過ぎる。--このつらさを、吉野は、答えを出すというのではないけれど、そういうことがあるね、とことばで肯定する。非難しない。この、肯定のことを、私は「人間をととのえる」と呼ぶのだけれど。「人間を支える」と言ってもいいかもしれない。こころが暴走しないように、ぎりぎりのところに手をそっとそえる感じだな。
 そんなふうに手をそえられると、なんだか泣きたくなるね。吉野は、泣いていいんだよ、私はそばにいるよ、という具合に人間を支えてくれるのだけれど。
 この「やさしさ」には反論ができない。--それが、吉野の詩のいちばんの問題点だと思う。書いていることが「わかる」だけに、それに反論することができない、という奇妙な苦しさが漂う。悲しさが漂う。
 「やさしさ」を生きている人間に対して、その「やさしさが気に食わない」と言ったりすると、きっと周り中から袋叩きにあう。そんな憶測も働く。まあ、そういう気持ちが、人間の暴走を抑制するということでもあるんだろうけれど、すっきりしない。強制ではないのに、なんだか自分がととのえられていくようで、そこに違和感が残る。
 快感がないのだ。何かをすることで、自分が自分ではなくなってしまうという快感がない。逆に、いつでも「自分自身」にひきもどされてしまう。自分から出て行って、自分ではなくなってしまうのではなく、自分であることを強いられる。自分であることによって、「人間」としてととのえられる。「流通言語」に似たものを探せば、自己を深める。人間性を耕す--ということなのかなあ。
 うーん、それはそれでいいのだけれど。
 逆の人生があっていいのではないのかなあ、と思う。自分から出て行ってしまう。自分ではなくなってしまう。人間ではなくなってしまう。そういう生き方、そういう命のあり方を励ますことばがあってもいいのでは、とついつい思ってしまうのである。
 
 脱線しそうなので、少し引き返す。
 吉野は、あるできごとにふれて自分自身を耕す。自分自身の内面を深めるようにことばを動かす。そして、その耕した深いところで、他人と触れあう。重なり合う。

やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。

 この三行は、「娘」を主役にして読めば、

やさしい心の持主(である娘)は
他人(としより)の(立っている)つらさを自分のつらさのように
感じるから。

 となるのだが、吉野を「主役」にして読むこともできる。

やさしい心の持主(である吉野)は
他人(娘)の(席を譲らなかったということでみつめられつづける)つらさ(自分の心をさぐられるつらさ)を自分(吉野自身)のつらさのように
感じるから。

 ということでもある。そして、その「吉野」は、詩を読む「私(読者自身)」と重なる。読者は娘のつらい気持ちを察する「やさしい心の持主」になるのである。
 娘-吉野-読者は、吉野のことばをとおして「ひとつ」になる。そして、そのことば通りに「やさしい心の持主」にととのえられていく。「やさしい心」を発見することになる。「やさしい」だけではなく、弱い心でもある。ほんとうに「やさしい」のなら、その人が席を譲ればいいのである。たとえば、娘ではなく、吉野が「おじいさん、ここにすわって下さい」と言えばいいのである。あるいは、「そこの人、おじいさんに席を譲ってやりなさい」と言えばいいのである。そういうことができないのは、もしそうしてしまえば吉野が娘や誰かを批判することになる、傷つけることになるからなのだが。そしてそれは「やさしい心の持主」がするようなことではないからなのだが……。
 でも、もし誰かが「犠牲」にならなければならないとしたら、その犠牲者を選ぶということも「やさしさ」のひとつであるかもしれない。
 というようなことは、ほんとうは、わからない。「意味/結論」というものは、いつでも、どんな形でも可能である。ことばを暴走させると「意味/結論」にはいつでもたどりつける。それは、みせかけの「意味/結論」だけれど、「意味/結論」というのは見せかけにすぎないからね。
 あ、また、脱線したなあ。

 うーん、とっても書きにくい。書いてしまうと、それこそ自分自身をさぐること、自分自身をととのえることになってしまうので、私のようにちゃらんぽらんした人間、どんなことでも、そのときそのときで乗り切ればそれでいいや、と思う人間には苦しい。
 私は私をととのえることが苦手な人間である。ととのえのことができない人間なのである。
 吉野は「やさしさ」と「かなしさ」で吉野をととのえている。「かなしさ」を「愛しさ」と書くと、「やさしい」と「かなしい」がすーっと結びついてしまうが、吉野は人間を愛し、愛の力で人間をささえる。それが他人を美しくするということを知っていて、そのためにことばを動かした、ことばをととのえた詩人なのだろう。
 ことばを自分自身の内部をさぐるように、ことばの内部をさぐり、耕し、ことばをつらぬく「水脈」のようなものを掘りあてる。そういう詩人なのだと思う。(漢字を比較しながら、意味とかなしみを掘り下げる詩には、とくにそういうことを感じてしまう。)
 で、こういう、絶対に間違えない感じの詩人、人生をゆっくりととのえて、そこから他人をみつめている詩人というのはなんだか苦手なのだが。

美しい夕焼けも見ないで。

 この最終行はたまらなく好きだなあ。この夕焼けを見るために、混み合った電車に乗り込み、席を二度譲り、三度目は譲ることができなかった娘を見てみたいなあ、この詩に書いてあることをそのまま体験してみたいなあと思う。心底、思う。
 人間は、席を譲るとか譲らないとか、ごちゃごちゃしたことに心を迷わせ、その揺らぎを「やさしい」と呼んだり、「かなしい」と思ったりする。でも、そういうこととは無関係に太陽は沈んでゆく。沈んでゆくとき、空は夕焼けになる。夕焼けは人が何を思い悩んでいるかなど気にしないでいつものように色を変えてゆく。非情だ。でも、それが美しい。人間の思いとは無関係なのだ。人間の心とは無関係に動き、存在しているものがある。その絶対的な何かが、人間を、別な形でととのえる。ととのえているに違いないと私は思う。
 この最終行のようなことばを、もっと吉野の詩に読みたかったなあ、と思う。私は吉野の詩が苦手で(あまりにも「意味」が整然と近づいてきて、同時に少し反省を強いられるような気持ち、「夕焼け」では年寄りにちゃんと席を譲ったかと問いつめられるような気持ちになるので)、多くは読んだことがない。だから、そういう行がほんとうはたくさんあるのかもしれないのだが。私は勝手に吉野像をつくりあげて感想を書いているのだが。

 追悼からは遠い感想になってしまった。ごめなんさい。吉野弘さん。



吉野弘詩集 (現代詩文庫 第 1期12)
吉野 弘
思潮社
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西脇順三郎の一行(66)

2014-01-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(66)

 「えてるにたす Ⅱ」

がまぐちのしまる音                       (78ページ)

 詩の中で「がまぐち」を書いた人が何人いるか知らないが、こういう俗っぽいことばをつかうのが西脇は得意である。--というより、そういう俗っぽいことばがでてきたとき、私は衝撃を受ける。
 「詩は高尚なものである」という考えに私はまだまだ汚染されていて、その「高尚」がぱっと突き崩されることに驚く。その驚きの中で、私は、あ、そうか、どんなことばでも詩になるのだ。そこにあることばとぶつかり、新鮮な音を響かせれば、それが詩なのだとあらためて気づくのである。
 中井久夫のカヴァフィスの訳を私はふと思い出す。中井久夫の訳のなかでは、現代の標準語(書きことば?)、雅語(古くおごそかなことば)、巷の口語(俗語)がまじりあう。やくざな口調が乱入する。そうすると、そこに見たことのない人間が突然「音楽」としてあらわれる。そういうおもしろさ、新鮮さがある。
 西脇のことばにも、そういうものを感じる。

 このがま口の音は、

風とともに
野原の中へ去つた

 と、視覚を新鮮に洗いなおしもする。ことばといっしょに「肉体」が変化する感じが、私にはとても楽しい。
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アンドレ・ケルテス『読む時間』

2014-01-21 09:45:31 | その他(音楽、小説etc)
アンドレ・ケルテス『読む時間』(創元社、2013年11月20日)

 アンドレ・ケルテス『読む時間』は写真集。先日、谷川俊太郎さん(作品について触れないときは、敬称をつける)と話す機会があり、私のブログの誤字・脱字の多さが話題になった。「私は目が悪いので書いたものは読み返さない」と開き直ったら(?)、「これなら目に負担がかからないよ」と一冊わけてくれた本である。(どうも、ありがとうございました。--あのとき、お礼を言い忘れたような気がする。緊張して、どきどきしていたんだなあ、きっと。--「日記」なので、こういうこともたまには書いておこう。)
 
 で、写真集。
 私は写真のことはわからないのだが、その作品に引き込まれた。そして、すぐにひとつのことに気がついた。アンドレ・ケルテスの写真の特徴ではなく、この写真がとらえている「時間」の特徴に気づいた。
 「読む」というのは必ずしも「本」だけではなく、新聞やチラシ、食堂のメニューなども含まれるのだが、その「読む」瞬間、読んでいる瞬間、ひとの「肉体」は動かない。あたりまえのことなのかもしれないが、へええっ、と思った。そして、写真というのは人間の動きを固定してとらえてしまうものだけれど、その「動かない肉体」を表現するには最適の媒体かもしれないとも思った。
 そして、いま書いていることと矛盾するかもしれないのだが、肉体が動かないのに、何かが動いていることに気づく。それは、「頭」で考えたことばで言うと、「思考」が動いている。肉体は動かないが、読むときの人間の「精神」が動いている、「感情」が動いているということばになって広がっていくのだが。
 あ、これは、違う。もちろん、本を読みながら精神が動くのだけれど、そんなものはことばによる説明であって、写真がつたえているものじゃないからね。ことばはいつだって「意味」になって、適当な「感動(結論?)」をでっちあげる。動かない肉体をとらえた写真の奥に、動きつづける精神を見た。本を読むときに動く人間のこころをアンドレ・ケルテスは表現している--なんて書いてしまうと、それなりに「かっこいい意味」になってしまう。こういう「かっこいい意味」になってしまうことばというのは、危険だね。ことばは積み重ねればかならず「意味」になってしまい、そこに何か人が見落としていそうなことを付け加えると「かっこよく」なる。そのとき、私は、なんにも考えていない、ということが起きてしまう。だいたい、そんな「見えない精神」なんて書いても、写真とは関係ないよなあ--と私は思うのである。
 書いていることがごちゃごちゃしてきたね。
 何を感じたのか、見えない精神ではなく、何が私を引きつけたのか。何が動いていると見えたのか。「精神」などという「頭のことば」を捨てる。目だけになってみる。
 読むひとの肉体は動いていない。写真だから動きようがないのだが……。その動かない写真ということと矛盾してしまうのだが、たとえば2ページ目のニューヨークのビルの屋上の写真。剥げた男が椅子にすわって新聞を読んでいる。そのまわりには蓋をした煙突(?)のような何かわけのわからないものがある。その煙突のようなものが影をつくっている。その影も写真だから動かないのだが……。動かないのに、私には動いて見えた。影の方向、影と光のコントラストの影響があるのかもしれないが、その影は太陽の動き(時間の経過)とともに少しずつ動きつづける、ということが伝わってくる。この太陽の動きと影の変化というのは「空想」だけれど、その「空想」は現実でもある。だれでも太陽が動けば影が動くことを知っている。その動き--新聞を読む男とは無関係な動きが写真には同時に存在していて、それが何といえばいいのか、新聞を読む男の内部で動いている「精神」と呼応して「音楽」になっている、と感じたのだ。
 男が新聞を読んでいる。一瞬、夢中になって、肉体が動くのをやめている。でも、そういう人間の動きとは無関係に動く何かが世界のほうにある。男の外部にある。その外部を男は一瞬忘れているが、その忘却の空白で世界が静かに鳴っている。そこに音楽があると感じたのだ。

 まるで知らない曲を聴くように、私はつぎつぎにページをめくっていく。1枚1枚の写真がもっている「音楽」はそれぞれに違う。本のまわりで鳴っている「音」は違う。けれども、たしかにそこには本(本を読む人)とは別の「音」があって、それは「和音」になっている。

 写真には、光と影のように「時間」とともに動くものが描かれているときと、まったく動かないものが同居している作品がある。17ページ。ワシントンスクエアの路上の「蚤の市」(?)かなあ、女が本を読んでいる。その隣のテーブルにだれも買わないようなフクロウのオブジェ、膝をついた人間の彫刻のようなもの(いわゆるアート?)がある。背後の道を車が走っている(あるいは駐車している?)が、このオブジェ(アート)はどんなに時間が経っても変化しない。しかし、それが女性の本を読む行為と響きあう。そこに「音楽」が生まれるのはなぜなのか。それぞれのオブジェ(アート)が「過去(時間)」をもっているためだ。あるものがある形になるまでの「時間」。それがゆっくりとあらわれてくる。人間が動いているときは、どうしても人間の動きにひきずられて見えなくなるのだが、どんな「もの」にもそれぞれの時間があり、その時間は人間の肉体が沈黙しているときに、そっと静かな音を響かせる。それが写真全体のなかで「和音」になる。
 紹介が逆になったが、16ページの写真は逆。路上に額に入った写真(?)がある。写真の男はテーブルの上で何かを読んでいる。メニューかな? その男は写真だから動かない。その写真の前を手をつないだ男女が写真にちらりと目をやって通りすぎる。写真は足もとと男女の手しか写していないが、男の写真を見ているだろうなあと想像できる。そして、その足の形や組み合わさった手の形から、ふたりの「過去(関係)」のようなものもかってに想像できる。動くものは、動くことで「音」を立てる。ここにも動かないものと動くものの出会いがつくりだす不思議な「音楽」がある。

 というようなことを感じると、ふと、また違ったことばが私のなかで動きだす。
 本を読む(活字を読む)というのは、「意味」なんかではなく「音楽」を聞くためである。自分の肉体の中にある「音楽」を聞くためである、と思うのだ。「いま/ここ」にある肉体は、「意味」にしばられている。何かをしなければならない、という「仕事」にしばられている。そういう「仕事/社会的意味」を拒絶(排除)して、「無意味」にかえる。自分を忘れて、自分の肉体と響きあう「音」に耳を傾ける。忘我、だね。
 この文章の最初の方に、「見えない精神の動き」なんていう気障なことばを書いたけれど、そしてそれは危険な嘘だと書いたけれど--いや、ほんとうに、それは嘘なのだ。本を読むとき「精神」なんて動かない。「精神」を捨てる、忘れる。「頭」を忘れる。そして、「肉体」が覚えていること、遠い遠い昔の肉体が体験したことが奏でる「音」を聞く。その「音」は最初は何かわからない。わからないけれど、少しずつ「音楽」になって、私の「肉体」を気持ちよくさせてくれる。
 実際、本を読んでいて感じるは、そういうことだなあ。「音」を聞く。その「音」が「音楽」になって、何か肉体をととのえてくれる。それがうれしい。

 あ、写真から離れてしまったかな?



 この写真集には「読むこと」という谷川の詩がついている。(作品について書くので、敬称はつけない。)

なんて不思議……あなたは思わず微笑みます
違う文字が違う言葉が違う声が違う意味でさえ
私たちの魂で同じひとつの生きる力になっていく

 「違う」と谷川が書いていることを、私は、私の書いてきた「時間の動き」を重ねる。「音」を重ねる。そして「ひとつの力」を「音」が重なり合ってできる「音楽」と言い換えてみる。
 「読む」とは「音」をつかわずに「音楽」を聞く方法なのだと感じた。
 (谷川の詩については、はしょりすぎた感想になってしまったが、私は40分以上つづけて書くと目がおかしくなるので、こんな中途半端な形になってしまう。「日記」だから、これでいいかな、と私は思っている。)



読む時間
アンドレ・ケルテス
創元社
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西脇順三郎の一行(65)

2014-01-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(65)

 「えてるにたす Ⅱ」

鉛管のしめりのように                       (77ページ)

 きのう書いた「肉体」の問題をつづけたい。
 この1行は何を描写しているか。私は水道の鉛管を思い浮かべる。暑い日。水道管のなかを水が動いていく。そうすると鉛管の表面に水滴がつく。鉛管がしっとりしめる。そういう状況を思い浮かべる。
 このとき動いている感覚器官は何だろう。
 「目」で見て、鉛管の表面を描写しているのというのが基本かもしれないが、そのとき、そこには「触覚」(手で触った感じ)もまじっている。その「触覚」は「しめっている(ぬれている)」だけではなく、「冷たい」も感じる。
 ある「もの/こと」が描写され、ことばになるとき、そこには「ひとつの感覚」があるのではなく、複合された感覚がある。その複合は「頭」のなかでつくられるではなく、「肉体」のなかに分離できない形、融合する形で存在する。そういうことを西脇のことばは教えてくれる。
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ハイファ・アル=マンスール監督「少女は自転車にのって」(★★★★)

2014-01-20 09:12:39 | 映画
ハイファ・アル=マンスール監督「少女は自転車にのって」(★★★★)



監督ハイファ・アル=マンスール 出演 ワアド・ムハンマド、リーム・アブドゥラ

 サウジアラビアの映画を見るのは、たぶん、初めてである。中東の映画はイラン、トルコなどの作品を見たことがあるが、サウジアラビアは、たぶん、ない。映画で見るかぎり、サウジアラビアはイラン、トルコなどに比べてイスラム教の戒律がかなり厳しいようだ。女性の生きている状況が、他の国よりも抑圧的に感じられる。
 そんな国で、ひとりの少女が自転車に乗りたい、という夢を実現するためにコーランの暗唱大会に出場し、自転車の代金を稼ごうとする--というストーリー。(これは、予告編で知った予備知識)。あ、したたかだね。イスラム教を逆手にとっている。この「したたかさ」が、そしてサウジアラビアの女性の「位置」をあぶりだしていく、それも少女の目から描いていくという構図の中でいっそうしたたかになる。少女(女性)が自転車に乗るのはもっての外、という「枠」を超えて、母親が夫からないがしろにされるという問題、何人もの妻の一人になる悲しさ、悔しさまでも描いていく。そういうストーリーの構造もおもしろいが……。
 冒頭の主人公の少女の青いスニーカーがいいなあ。他の少女たちが黒い靴を履いているのに、主人公だけがスニーカー。貧しいから? ではなくて、彼女はスニーカーが好きなのだ。スニーカーなら男の子と競走できる。男の子に負けない、ということを証明できる。革靴では走りにくいからね。実際、少女はスニーカーで走る。そして自転車の男の子に負ける。ここから同じ自転車なら負けない、自転車がほしいという気持ちへと少女が動いていくのだが、これが実に自然でいい。走るのなら負けないが、自転車と走るのではどうしても負けてしまう。理不尽な競走だ。もし、同じ条件なら負けない--というのは、単に、自転車だけの問題ではない。自転車だけの問題ではないのだが、それをあたかも少女のかわいい願望(自転車がほしい)であるかのように見せかけて、もっと複雑な問題を描く。テーマはあくまで少女と自転車、と言い張ってサウジアラビアの現実の問題をえぐっていく。その「象徴」というか、切り込み隊長のようなものがスニーカーなのだ。
 このスニーカーの色が青というもの、なかなかおもしろい。少女は「黒い靴にしなさい」と言われて、マジックで青を黒に塗りかえていく。あくまで革靴を拒絶する。そこに彼女の(あるいは、この映画を撮っている監督の)信念の強さが結晶している。さらに、この少女の上級生(?)がつかっているペディキュアの色が青というのも、とてもおもしろい。私はサウジアラビアについては何も知らないし、コーランについても何も知らないのだが、青(紺)には何か特別な「意味」があるのかもしれない。男が白い服を切るのに対し、女は黒い布でからだを隠すが、その白と黒にもイスラム教の意味があるかもしれない。病院で働く女性は白衣を着て、顔を出しているが、白衣を着ると女性も「男」になるのかもしれない。白衣を着ているときは、「女」というくくりから自由になって動いているのかもしれない。そういうふるまいをサウジアラビアは許しているのかもしれない。--そんなことを思うと、青にも「意味」があるように思える。母親が買う赤いドレスの赤にも意味があるかもしれない。それが何を意味するかわからないが、きっと意味をもっていると思う。
 白にもどって、もう一つ、いや、もう二つ付け加えると。少女のスニーカーは青一色ではなく、ゴム(?)のつなぎの部分は白である。そして、少女がほしいと思っている自転車もグリップが白い。タイヤの周りも白い。あの白には、男と対等になるという「意味」がこめられているとしか思えない。
 で、最後に、自転車に反対していた母親は娘に自転車を買ってやるのだが、それは少女がほしかった自転車そのもの。つまり、白いハンドル、白いタイヤの自転車である。そこには、夫が「第二夫人」と結婚したことへの「反発(反抗)」のようなものが反映されていると見ていいのではないかと私は思う。ストーリー上は単に自転車を買い与えるという意味だが、白い色の自転車であるのは、それが「男の自転車」と同じものを意味する。そこには「男女平等」が意図されているのである。
 こういう見方を「深読み」というのかもしれないけれど、私は「深読み」という「誤読」が好きなので、色の問題をさらに拡大すると……。
 さっき、母親が結婚披露宴用に赤いドレスを買う、その意味はわからないと書いたのだが……。赤はこのときだけではなく、もう一回出てくる。実際には映像化されないのだが、少女が自転車に乗る練習をしていて転ぶ。膝から血を流す。このとき、母親は「生理でもないのに女が血を流すなんて」と目を覆い、血を見ないようにする。娘がけがをしているのに、それを見ない、見ようともしない--ということろに、サウジアラビアの独特の感性がある。ふつうは娘のけがを心配して駆け寄る。手当てをするものである。で、このことから、私は、サウジアラビアのイスラム教徒にとっては赤は血であり、女にとっては血とは生理であると考える。そうであるなら、母親が赤いドレスを選ぶのは彼女が女として「現役」であるという主張がこめられているのだ。映画のなかの会話から推測すると、少女は難産だった。その結果、母親はもう子どもが産めなくなった。男の子どもがほしい父親は第二夫人と結婚する--ということになるのだが、子どもを産めなくなったから妻を捨て、第二夫人と結婚するというのは、女を子どもを産むための「道具」とみているという証拠である。そんなことは許せない。子どもを産めなくても、女は女である。母親は、その怒りをドレスの赤に代弁させている。こんなことは、映画では「台詞」として語っていないが、私には、その声が聞こえる。
 こういう映画の「小道具」(色のつかいわけ)などを見ていくと、映画というのは情報が多くて、とてもおもしろい。映画は影像と音楽が勝負ということがよくわかる。台詞は、なくても映画はできる。

 いま私が書いてきたメインのストーリーのほかにも、おっ、と思うことがこの映画には描かれている。男は妻を何人も持てる。でも女は夫がひとり。男は女を見てもいいが、女は男に見られてはいけない。これは理不尽な制度だろう。その制度の中で女性はどう生きるか。主人公の少女の学校の校長は女性である。その校長は、セックスをどう処理しているか。
 あるとき、校長の家に「泥棒」が入ったらしい。校長は「泥棒」と言っているが、それは恋人(男)である。「泥棒」というのは「嘘」ではなく「方便」であるということを、誰もが知っている。大人だけではなく、少女たちも知っている。コーランの暗唱大会で優勝したあと、賞金を取り上げられた少女は、そのことを校長に向かってはっきり言う。「私の言っていることは、先生が言う泥棒と同じ」と。
 これは、少女が大人を告発しているというストーリーを借りて、女だって方便をつかって生きていると、したたかにサウジアラビアの現実を語っているのである。このあたりの処理が、うーん、しぶとい。
 頑張り屋の少女の物語--と思って見ると、映画のおもしろさの半分以上を見逃してしまうことになる。
                      (2014年01月19日、KBCシネマ2)

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西脇順三郎の一行(64)

2014-01-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(64)

 「えてるにたす Ⅱ」

あけびの青さがみたい                       (76ページ)

 いろいろな欲望が書かれている。すぐあとには「欲望を捨てたいと思うこと/も欲望だ」という行がある。論理的というか、抽象的というか、「頭脳」を刺戟してくることばである。そういうことばのなかにあって、「あけびの青さがみたい」だけは直接的である。肉感的である。この肉感的な手触りのようなものが、私は好きである。どんなに抽象的なものを書いていても、それを突き破って突然具体的な「もの」が出てくる。そのときの、「音楽の乱れ」が好きである。
 「音楽の乱れ」と書いたのだが……。
 西脇は、ふつうの人が書くと完全に「音楽の乱れ」になってしまうところを、強い「和音」にしてしまう。世の中には「不協和音」というものはない、あらゆる「和音」だけがあると誰かが言っていたような気がするが、異質なものが飛びこんできた瞬間、いままで知らなかった「和音」があると気づく--気づかされる。そういう感じがする。
 どうして、こんなことができるのだろうか。こんな音楽になるのだろうか。
 西脇が「もの」をしっかりと把握しているからだ、「肉体」でつかみきっているからだ、つまり嘘がない(頭で作り上げたものではない)ということだと、私は感じている。

 「肉体でつかみきった」というような言い方は抽象的で、抽象的であるが故に何とでもいえそうな気がして、うーん、まずいなあ、と思う。
 「あけびの青さ」。ここから「肉体」のことを、どう書けるか……。
 私が思うのは「青さ」の「青」の不思議さである。
 私は西脇のことばから「青」を思い浮かべない。絵の具の三原色の青をこのときに思い浮かべない。海の青、空の青を思い浮かべない。どちらかというと紫を思い浮かべる。紫をうすくしたときの、そのなかの「青」。その「青」は「日本語」としては正確ではない。色をただしく言おうとすれば「青」ではなく「薄紫のなかの青の成分」くらいになってしまう。で、その「青」のまじりぐあい--これは、実際にあけびをもいで、あけびを食べるという「肉体」の動きと関係している。
 夏、緑のあけびがだんだん熟してきて紫に近くなる。そういうものを見ながら、食べごろを判断する。そのときの「肉体」が、そこにある。
 その確かさ、「肉体」の確かさによって支えられたことばの動きが、私は好きである。「肉体」に支えられているから、そのことばがどんな音とぶつかっても「音楽」になるのだ。
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原口哲也『花冠(ステファノス)』

2014-01-19 11:49:39 | 詩集
原口哲也『花冠(ステファノス)』(書肆山田、2013年11月25日発行)

 原口哲也『花冠(ステファノス)』は日本語を読んでいる感じがしない。
 巻頭の作品は「Regenbogen」。何語? わからない。わからないことは、私は気にしない。ほんとうに重要なことなら、ひとは何度も口にする。その繰り返しの中で、だんだんわかってくる--と信じている。私は網膜剥離の手術以来、眼の具合がとても悪い。それを口実に、辞書も引かない。(昔から、辞書はめったに引かないのだけれど……。そのときは、何を口実にしていたのか、思い出せないが。)
 で、わからないまま読みはじめる。

弓鳴りにどよめく抽象の柱群。
広がりながら退縮していく廃墟の闇は
既視(デジャビュ)の残磋をきみの目の中に積み上げている。

 「弓鳴り」って何かな? 弓を射たときの音? 弦の音? 弓が飛ぶときの音? まあ、戦争があったんだろうねえ。強者どもが夢のあと、という感じで廃墟の柱がある。でも、その柱は具体的な柱ではなく「抽象の柱」。これは、想像力によって見る柱ということかな? その柱の間を闇が広がりながら退縮していく。広がりながらどこかに隠れるように闇を深める? わからないけれど、わかったような気持ちになる。2行目の、「広がりながら」「退縮していく」という対立する運動が何かおもしろいね。矛盾の中に、一瞬、何かが見えたような気がする。この一瞬の視覚の幻が「既視」なのかな。
 わからないまま、私は、ヨーロッパの廃墟をかってに想像する。ヨーロッパの廃墟を知っているわけではないから、まあ、適当だけれど。石が転がっていて、柱が突っ立っている、くらいの感じだけれど。
 そこに、「僕(あとで出てくる)」と「きみ」がいる。僕は、きみの視線の動きを見て、それからきみが考えていることを思っている。こういう状況だろうね。
 ここから何が始まるか。

どの朝焼け、どの夕暮れでもない、「この時」
……「この」という指示詞の前では、ヒマワリ色の抱擁も、深海
底をさぐっていく薔薇色の指たちも力無くみえる。……外は雨?
トートロジーは君を眠らせ、釈義の言葉は僕と君の間に
一つ以上の天球を介在させる。

 あ、わからない。「釈義」なんてことばは、私は聞いたこともない。(「弓鳴り」というのも聞いたことがない。)聞いたことがあってもわからないことばがたくさんあるが、聞いたことのないことばはわかるはずがない。「漢字」で見ると、まあ、「解釈、定義、説明」くらいかなあと見当はつくが……。
 で、わからないことはほっておいて(わきに置いておくというより、もう、どこか目につかないところへ遠ざけて)。私は「わかる」ことばに目を向ける。「わかる」けれど、変だなあ、自分のことばとは違うなあ、ということろから接近していく。

「この時」

 ふーん、朝焼けでもない、夕暮れでもない、となれば「昼」なのだが、昼じゃないよね。「闇」があるのだから。薄暗い。朝方か夕方かのどちらかなのだけれど、それはきっと一回かぎりの時間--だから「この時」と原口は言うのだ。
 おっ、おもしろいじゃないか。詞は一回かぎりのことだ。その一回かぎりと原口は向き合っているのだ、と私とどきどきする。
 けれど。

……「この」という指示詞の前では、

 あれれ、一回かぎりの「時」がほうりだされて、「この」と呼ぶこと、その意識の方にことばが動いていく。「この時」というのは僕ときみ(君--つかいわけているのかな?)を存在させる「場(空間/時間)」なのだと思うけれど、その「場」を離れてしまう。私には離れて行ってしまっているようにみえる。
 何かなあ。どうなったのかなあ。わからないぞ。

単純な雨……。それが君と僕との徴(しるし)、二つ以上の宇宙が溶け合う午後。

雨上がりの空。沈殿した光の層を切り裂き
きらめく虹が舞い立つ。

 ふーん。突然の雨--にわか雨の前の暗闇。その中で、原口は「一つ」と「二つ」について考えたということなのかな? 「いま/ここ」と「歴史(廃墟に記されている)の時間/ここ」、「きみ」と「僕」、地球と気象(天体/宇宙)。あれこれ考える意識の中ですべてが溶け合い、輝く。その溶け合った一瞬の象徴が虹のきらめき。
 わかったような気持ちにはなる。
 けれど、わからない。

……「この」という指示詞の前では、

 この、こだわり。もしほんとうにこだわるのだったら、「一つ以上の天球」「賦活以上の宇宙」というような「外」の世界へ向かうのではなく、もっと内向しないと。「この」というのは、そのことばを発する人間の「内部」にあるものだ。内部に何かがあって、それが「指示」する。指示するように動く。
 私の読み方が間違っているのかもしれないが、何か、ことばの動きが分裂している。方向が定まっていない。原口は「溶け合う」ということばをつかっているが、私には、その「溶け合う」が見えない。
 そして不思議なことに、原口は「溶け合う」瞬間を見たい、それを書きたいと欲望している--ということがみえる。原口が見たといっているものが見えずに、見ようと欲する原口が見える。いや、原口ではなく、その肉体ではなく……。あ、これは何だろうなあ。私は何を見たのだろうなあ。

 わからないまま、詩集を読みつづける。そうすると、

「きみ」と出会うためには、全身の皮膚が理性とならなければならない

 という行に出会う。「天使と出会う」という作品だ。
 あ、そうなのか。原口が問題にしているのは「理性」なのか、とやっと気がついた。「この」という指示も「理性」によるものなのだね。あらゆることを「理性」経由でとらえなおす。きみがいる。僕がいる。廃墟がある。雨が降る。虹が立つ。そういうことを「理性」でとらえ直すとどうなるか。そこには「一つ以上の天球」があり、「二つ以上の宇宙」がある。「二つ以上の宇宙」に「一つ以上の天球」がふくまれるのではなく、「一つ以上の天球」を把握する「理性」、「二つ以上の宇宙」を把握する「理性」--「理性」の運動の中で分節される世界、というより、そんなふうに分節していく「理性」として原口は存在したいということなのかな?
 あ、これでは何のことかわからない? そうだろうなあ。私も書きながらわからなくなったのだから、読んだ人にわかるわけがないなあ。どう書き直せばいいのか、どう書き直せば論理的(理性的)になるのか--あ、めんどうくさい、と思う。

 感じるのは。
 原口は、世界を「理性」というものを経由してとらえたいと思っている。そして、その「理性」というのは、詩集のタイトルやほかの詩にもしきりに出てくる「外国語」、自分の育った場で語られることばではなく、自分とは離れた場所にある何か、自分に染まっていない確立された何かなんだね。日本の「いま/ここ」、あるいは原口の肉体が育ってきた「過去-いま/ここ-あそこ」というよりも、原口が、「いま/ここ」にはないことばとして学んできたことば--それによって、「いま/ここ」を洗い直したいと思っている。
 「いま/ここ」を「理性(学んだことば)」によって洗い直す時、そこに新しい世界があらわれる、それが詩。
 --そう原口は考えている、と私は「誤読」する。

 これは、むずかしいぞ。なかなか、できないことだぞ、と私は思う。
 西脇順三郎がやったことが、原口がやろうとしていることに通じるかもしれないけれど(原口は、そんな具合に見ているのかなあ、西脇の詩を一つの理想形として見ているのかなと思うのだけれど)、--私の「感覚の意見」ではぜんぜん違うなあ。西脇はたしかに「ギリシャ的抒情詩」を書いたけれど、そこには「風景」が書かれていたのではなく「日本語」が書かれていた。外国の「理性」ではなく、日本語の「理性」が動いている。西脇にとって「理性」とは抽象ではなく具体だ。西脇はあくまで具体にこだわり、具体だけを書いた、と私は思う。




花冠
原口 哲也
書肆山田
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西脇順三郎の一行(63)

2014-01-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(63)

 「えてるにたす Ⅱ」

永遠を象徴しようとしない時に                  (75ページ)

 「えてるにたす Ⅱ」の書き出し。この行だけでは意味はわからない。2行目は「初めて永遠が象徴される」とつづき意味が完結する。意味には深入りせずに……。
 この1行目が印象に残るのは「しようとしない」という音があるからだ。言い換えると。
 「しようと望まないとき」「しようと欲しないとき」「しようと試みないとき」「しようと努めないとき」など、いろいろな言い方をしても、意味は変わらない。(と断言できるかどうかわからないが、類似の意味の周辺をことばが動いていることがわかる。)
 それなのになぜ西脇は「しようとしない」、「しょうちょうしようとしない」と「し」の音が3回出てくるようなことばを選んだのか。その音のなかに何かを感じたのだ。この感じは「直感」であって、ほかには説明のしようがないものかもしれない。
 その説明のできない音の好み--それに、少し触れる。
 そういう瞬間が、私は好きである。
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手塚敦史「電子音に消えた」

2014-01-18 10:06:01 | 詩(雑誌・同人誌)
手塚敦史「電子音に消えた」(「ふらんす堂通信」138 、2013年10月25日発行)

 手塚敦史「電子音に消えた」の書き出しに魅力的な表現がある。

ぢぢぢ川の字に浮かび上がる老婆は
弁当箱の中身をぶちまけた
ぢぢぢ水気を吸ったどろどろの飯やおかずは
辺りに蒸す草花の熱気に
最初はふかく息をしたと思う

 「ふかく息をした」。このことばが強烈である。「水気を吸ったどろどろの飯やおかず」というのはぶちまけられたから水気を吸ったのか、それとも水気を吸って腐敗しはじめているからぶちまけられたのか--それがわからないのだけれど、水気を吸ってどろどろになるという状態(腐敗)は、まだ、生きている。そこに生きているものがある。これが乾いてしまうと死んでしまったという感じなのだが、腐っているというのは死んでいるというよりも強烈に生きている感じがする。清潔とは相いれない狂暴なものが生きて、暴れている。そして「息をした」。「息をした」という「過去形」は、その息が臨終(?)の息を感じさせるが--うーん、すごい。
 「老婆」であればこそ、その「ふかい息」に触れることができるのだろう。肉体のなかにある生と死がからみあって動く。
 このリズムのままことばが動くと傑作になると思うのだが、手塚のことばは何か書き急いでいる。

ぢぢぢその施設までの道のりは、湯元、ゼニゴケ、…
風がからだを吹き抜けていった
ぢぢぢでもちがうよ。銀色の突風を音をたてて、せかせかと急ぐ
まなこの監督さんよ。水脈のたわめた
光暈よ。ものもらいの目がやがて痛みはじめ、求めすぎて爪で引っ掻いた
幻覚が、はだの皺が、半田付けするコートよ。

 書き出しには「ふかく息をした」--息をするときにつかう「鼻」の存在があった。水気を「吸った」の「吸う」は「鼻」の呼吸とはちがうのだけれど、「吸う」のなかにある何かを自分のなかに取り込むという動きが似ていて、それが狂暴と触れあう。腐敗した何かが鼻から通って肉体の内部で暴れようとする何かを刺戟する。そういうおもしろさがあったのだが、その後が、どうも変である。
 私の「感覚の意見」でいえば、「音楽」が違ってしまった。呼吸は吸って吐くという二拍子だが、吸わないと吐けない、吐かないと据えないという、どうしようもない二拍子だが、その後は「視覚(まなこ)」の不規則なリズム(音楽)になってしまう。「せかせか」と手塚は書いているが、いや、ほんとうにせかせかしている。人工的(?)であって、自発的ではない。
 「水脈のたわめた」の「たわめる」という動詞には、まだ、「時間」を感じさせるものがあるが、「光暈」「幻覚」という「名詞」の世界で世界が動いてしまうと、「肉体」のリズムが違ってきてしまう。「吸う/吐く(呼吸)」や「たわめた(たわめる/たわむ)」には実際に肉体(全身)を動かすエネルギーのようなものがあるが、「まなこ(視覚)」は自分では動かなくても、見える対象が動く。視覚は何か「肉体」とは離れて存在できる「知識」のようなもので、「知識」はひたすら「合理的なスピード」を要求するという性質があるからなのかもしれないけれど、何ちがうよなあ……。
 つづいて、

ひとつのうつくしく老いた襟あしをなぞって膨らんだり縮んだり

 「なぞる」「膨らんだり縮んだり」という動詞が出てくるけれど、どうもそれは肉体そのものが動いているというよりも「なぞる」のを見ている、「膨らんだり縮んだり」するのを見ている感じがして、自分の「肉体」が動く感じがしない。
 「情報量」がどんどん増えてくるのだけれど、濃密な感じがしない。「肉体」にとりこまれる前に消えてしまう。「せかせか」という感じがしてしまう。「視覚」のスピードが、詩を「物語」へと変えてしまう感じがする。最初に出てきた老婆の、何かに触れて肉体の内部で「感覚」が濃密なものになっていくという感じが、外部の濃密さにすり替えられる感じ。「内部」が濃密にならずに、外の景色が複雑になっていくという感じ。複雑ななかに、その複雑をつらぬくものがないので、情報の垂れ流しという感じ。
 「肉体の内部」を「外部」に代弁させる、ということなのかもしれないけれど。「文体」を選びきれていない。そのために「音楽」が乱れる、ということなのかなあ。「音楽」が流れるというよりも、「音楽」になるまえに散らばってしまう感じ。

 この詩については、感想を書かずに、ほうりだしておけばいいのかもしれないけれど、最初の「ふかく息をした」はとてもいいし、その次の部分も、と引き込まれるなあ。引き込まれた部分については書いておきたいなあ、という気持ちがあってね……。
 次の一行も、とてもおもしろい。

ぢぢぢ財布から一〇〇〇円札を引き抜くと、紙にまだ何かの温みが残っていた

 この「残る」という動詞のなかにある「時間」。「息をする(呼吸する)」という動詞(動き)に似たものがある。「ふかく息をする」には意思的なものがあるかもしれないが、「息をする」そのものは意思的でありながら、意思とは無関係でもある。生きているかぎり「自然」に呼吸してしまう。「残る」にもそういう感じがある。「残す」ではなく、残ってしまう何か。そこには「消える」までの「時間」がある。
 その「時間」のなかへことばがもっと具体的に入っていくと、とてもおもしろい作品になると思う。実際、「息をする」「残る」という動詞が動く部分では「時間」がストーリーを逸脱して「無時間」になっているのだが、その「無時間」の「詩」を老婆が施設に帰るという「意味」で統一しようとしているので、あ、何かがちがうと思ってしまうのである。私は。
詩日記
手塚 敦史
ふらんす堂
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西脇順三郎の一行(62)

2014-01-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(62)

 「えてるにたす Ⅰ」

町で聞く人間の会話                        (74ページ)

 「意味」について書きたくないなあ、と思っているのだが、きょうはとても疲れているのか、頭が「意味」に頼ってしまう。
 この一行は、「淋しさ」をあらわしている。西脇の「淋しさ」の定義に合致するのが「町で聞く人間の会話」である。その会話というのは「あいさつ」である。何も意味しない。ただ人間が存在することを互いに認めるときのことば。それを西脇は「淋しい」と呼んでいる。
 他の「淋しい」がたくさん書かれているが、どれも、存在する「もの」である。ただ存在するだけの「もの」、「意味」をもたない「もの」。「意味」をもたないけれど、存在すると認めることができる「もの」。
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