詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松川紀代「先祖」

2015-09-17 10:29:48 | 詩(雑誌・同人誌)
松川紀代「先祖」(「オリオン」31、2015年08月20日発行)

 松川紀代「先祖」の書き出しがおもしろい。

 きのう、先祖に会ってきた。
 なぜ先祖とわかったかというと、会うなり内臓のかたちが私と似ているような(気がした)し、指先の爪にも見覚えがあったからだ。

 「内臓のかたちが似ている」か。うーん、「内臓のかたち」って、見える? 見えない。見えないけれど、言われると見えるような気もするのだ。「内臓のかたち」なんて、外見(人間の外の形)に比べると、きっと区別がつかないなあ。私は外科医ではないので、区別ができるほど「内臓のかたち」を見ていないしねえ。「区別できない」から、瞬間的に「似ている」ということばに納得してしまうのかなあ。
 道にだれかが倒れている。腹をかかえてうめいている。あ、腹が痛いのだ。自分の肉体ではないのに、そういうことが「わかる」のに似ているかな?
 で。
 「気がした」ということばがカッコに入っている。カッコに入っているけれど、それは隠れているのではなく、カッコを突き破ってはみだしている。「気」は、「肉体」からあふれてくるものなのだろう。この「気のあらわれ方」が、たぶん、何よりも「似ている」。言い換えると「気がした」ということばこそが「内臓(のかたち)」に思えてしまう。松川の表記を見ていると、何だか、「気」がはみだした「内臓」のように思えてしまうのだ。
 ちょっと脱線するが……。
 「気」とか「こころ」、あるいは「精神」とか「魂」とかいうことばがある。「気」は「魂」にいちばん近いかな? よくわからないが、私は実は、そういうものがあるとは思っていない。
 「頭」というものにも、何かしらの疑問をもっている。
 人間は「肉体」のどこで考えるか。感じるか。「頭」で考え、「こころ」で感じる。そう言う言い方が一般的だが、もしかすると「膵臓」で考え、「盲腸」で感じているかもしれない。髪の毛や指先で「考え」たり「感じ」たりしているかもしれない。「脳」はそれを整理しているだけかもしれない。「こころ」とか「精神」とか「魂」ということばをつかって。私はそう思っている。
 「どこ」と特定できないところで動いているのが「気(気持ち/こころ/感情)」というものではないか。「肉体」の全体が微妙に交わりながら動いているのが「こころ(精神/魂)」ではないか、と思っている。
 そんなことを考えているから「内臓のかたち」(気がした)ということばに反応したのかもしれない。うまく説明できないが、うん、わかる。うーん、とってもよくわかる、と納得したのである。
 そのあとの「爪にも見覚えがあった」の「見覚え」もいいなあ。目が(肉体)が「覚えている」。覚えていることは、見れば、思い出す。思い出して、これは「だれそれの爪だ」と言うことができる。覚えていることは「つかえる」のである。この詩では、それを「つかう」ところまでいっていないが、はんぶん、つかっている。はんぶん、納得している。この感じもいいなあ。

 私は女に生まれたので、その先祖は男であるような気がした。先祖とは私の命をのばしてくれる存在だと聞いている。だから男なのだろう。

 ここには「論理」があるのか。「だから」と松川は「論理」としての「結論」を導くためのことばをつかっているが、ここには「だから」をつかえば「論理」になるという「ことばの肉体」があるだけで、実際は、こういうことを「論理」とは言わない。言わないからこそ、とてもおもしろい。
 何それ。
 そう思うとき、私は松川の「不透明なもの」に向き合っている。松川の肉体が何かを隠しているのだが、その隠しているものが見えず、ただ松川の肉体(存在)だけが見える。こういうときが、おもしろい。
 「だから」は、「内臓のかたち」のようなものである。それは「似ている」。その「似ている」ということを「つかって」、「だから男なのだろう。」という「論理(結論)」になるのだが、まあ、こんなことは、カッコ入りの「気がした」くらいのものである。

 私たちは横並びに座って、草原のほの明るい風の動きを感じていた。何かおしゃべりしたような気がするが、何を話したか今はまったく覚えていない。ただ、何か二三話しただけで満ち足りている。その先祖はいつ消えるかわからないような風情で、時々雲がさあっと流れ、草の上を光のゴムまりが走ってゆく。満ち足りるとはこのようにもの悲しく、特に人にことばを漏らすようなことではない。

 何を話したか覚えていない。けれど、話したことは覚えている。「気がする」という形で「覚えている」。「気」は「内臓」となって「肉体」のなかへ帰っていったのだ。「内臓」が動けば、きっと「思い出す」ことができる。そして「覚えている」ということができるだが、そんなことは、まえ「思い出す」必要はない。「内臓」が「満ち足り」れば、それでいい。

時々雲がさあっと流れ、草の上を光のゴムまりが走ってゆく。

 この美しい光景を「目(肉体)」が覚えていればいい。
 ほら、「見覚え」があるでしょ? 雲の動きも、光の動きも。この動きに「光のゴムまり」という「比喩」をつかったところが、松川の「肉体(個性)」をあらわしている。松川はゴムまりで遊んだことを「覚えている」。「肉体」が覚えていて、それが「光のゴムまり」という「気(魂/純化されたこころ?)」になって噴出してきたのだ。
 いいなあ、この部分。
 「だから男なのだろう」の「論理」は不透明でよくわからないが、この「ゴムまり」の「比喩」は透明で美しい。「永遠」と触れ合っている。

 詩の最終行。先祖と会ったことが、

 私の記憶には白っぽい紡錘形の内臓のあたたかみが残っている。

 あ、また「内臓」が出てきた。
 松川は「内臓」で感じたり、考えたりする詩人なのだ。「内臓のかたち」は「内臓のあたたかみ」に変わっている。「かたち」は触覚でもとらえることができるが、もっぱら視覚でとらえるのが一般的だろう。「あたたかみ」は視覚でも感じることがあるが、触覚の方が一般的だろう。その二つが、「内臓」という「場」で融合している。「ひとつ」になっている。融合して、新たに「覚えられている(記憶されている)」。この「覚えている感じ」は、また別のときに、「形」になり、「あたたかみ」になり、「気」として噴出してきて、人間を動かすのである。

異文化の夜
松川紀代
書肆山田
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豊原清明「シナリオ こころ・の・手」ほか

2015-09-16 09:40:46 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「シナリオ こころ・の・手」ほか(「白黒目」55、2015年08月発行)

 豊原清明「シナリオ こころ・の・手」はことばのなかに「過去」がある。ことばが「過去」をもって動いている。つまり、生きている人間として、肉体として動いている。その「過去」は具体的にはどういうものかわからないが、「過去」があるということがわかる。実際に生きている人間(肉体)に出会ったとき、その人の「肉体」が生きている、「過去」を生きてきて、「いま/ここ」にいると感じるのと同じである。

○ 交通道路前の歩行道(朝)
  赤土誠(41)が、リュックから煙草の箱をとり出して、
  向うの歩道に届くように投げられるか、どうか、試している。
声「あの赤土さん…」
  赤土、はっと、振り返る。
  山内真由子(41)が立っている。
真由子「まだ届く?(赤土の手を見る)」
  赤土、無言でベンチに座る。
  煙草吸って、咳き込む。
  真由子、石を握る。
赤土「危ないで、やめとけ。」
  真由子、投げる。
  走っている車の窓が割れる。
  逮捕される、真由子。
赤土「違う! わてや。 違う! わてやって!」

○ 横断歩道(夜)
  信号を渡って通る。
赤土の声「始めからこうしとったらヨカッタわ。」
  真由子、じっと、窓を見つめている。
  焼き芋屋の声がする。
真由子「あっちいこ!」

 赤土が「過去」に何度か煙草の箱を向こう側の歩道まで投げていたことがわかる。なぜ、そんなことをするのか。ただ自分の力を確かめたいのである。こどものとき石をどこまで投げられるか確かめたくて、河に向かって(海に向かって)投げるようなものである。しかし、それは、まあ、あとからつける「理由」。別に自分の力を確かめるという明確な目的があるわけでもない。なんとなく、投げるのである。説明できる「理由」もなく、投げる。
 それは、赤土の「過去」なのか。豊原の「過去」なのか。あるいは、私の「過去」なのか。「過去」というのは、どこかで混じりあっている。「ひとつの肉体」になっている。その「ひとつ」を感じさせる素早さが豊原のことばのなかにある。赤土、豊原、私(谷内)を区別している余裕を与えないスピードの剛直さが、豊原のことばのなかにある。

声「あの赤土さん…」
  赤土、はっと、振り返る。
  山内真由子(41)が立っている。

 この「声」の登場の仕方(登場のさせ方)が、また「過去」である。何かを無意識にしようとしていて、ふいに声をかけられる。その声によって、無意識から意識へ、ぐいっと引っ張られる。こういうことも、だれもが経験したことである。人間に共通する「ひとつの過去」である。
 声をかけてきたひとに、何度か同じ「過去」を目撃された。そして、いま「過去」を繰り返そうとしているのか、と問われる。

「まだ届く?」

 その「まだ」という短いことばのなかに「過去」がかたまっている。
 そして、その「過去」が「ひとつの過去」であり、「人間に共通するもの」であるからこそ、そこから石を握った真由子がふっとあらわれるとき、それは「煙草の箱を投げる赤土」ではなく、「石を投げる真由子」の肉体になる。真由子が石を握っただけで、赤土には真由子が石を投げるということが、「肉体」として、わかってしまう。「ひとつの過去」という「無意識」を通って、真由子の「肉体の運動」があらわれるのを、赤土は自分の「無意識の肉体」の動きとして、「肉体」の内部でわかってしまう。それは赤土が抑制している赤土の「肉体(欲望/本能)」でもある。わかってしまうから、「危ない。やめとけ。」ということばが行為よりも先にあらわれる。
 こういう「瞬間」を豊原は説明抜きで、がしっと掴み取り、ことばにしてしまう。
 そのあとの、「事故」と「逮捕劇」も必要最小限のことばで書かれている。「映画」だから、ことばはいらない。シナリオだから、「行為」の指示だけが書かれている。この省略が美しい。
 「夜」の描写もおもしろい。具体的には何も書いていない。書いていないけれど、そこに「過去」があることが、わかる。そんなふうにして赤土と真由子が歩いたことは何度かあるのだ。そのときのふたりの台詞は逆だったかもしれない。きっと、逆だったに違いない。逆だけれど「ひとつの肉体」なので、区別がなくなっている。
 「焼き芋屋の声がする。」というのは、唐突な「現実」の挿入だけれど、こういう現実の侵入を取り込んでしまうことを、映画では「クオリティーが上がる」と呼んだりする。虚構が現実にかわり、現実が虚構を突き破って動いていく。

真由子「あっちいこ!」

 「あっち」が「どっち」か、ことばだけではわからない。けれど、「過去」を抱え込んでいる「肉体」には、それが、わかる。
 豊原は、こういう「肉体がわかっていること(ことば)」を書き留めるとき、とてもいきいきしている。とても美しい。

 「白黒目」55には俳句、短歌も書かれている。

夏石を捕まえてからけふが来る

 「捕まえてから」が強い。朝の光が転がっている石をつかみとる。浮かび上がらせる。そこから一日が始まり、夏がはじまる。石にあたる夏の強い光の始まり、それを見た記憶「過去」がふいに目の前にあらわれてくる。忘れていた「過去」(無意識になってしまっている過去)が、噴出してくるのを感じる。

海を見て自由感ずる我なりて山は大きな課題となりぬ
コンビニで立ち読みという暮しにも我は慣れしや今は行かない
手の中に収まるものは手のみじつと見つめて泣いているのか

 「肉体」とことばが激しく拮抗している。互いを突き破ろうとしている。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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野田順子『蟻の日』

2015-09-15 10:04:02 | 詩集
野田順子『蟻の日』(土曜美術者出版販売、2015年09月30日)

 詩集を全部読み終わったあと、ふいに思い出す詩というものがある。最初に読んだときは、これは何かなあ、という奇妙なひっかかりが残る。それが何かわからないまま、最後まで読み、そのとき、ふっと思い出す詩というものがある。野田順子『蟻の日』の場合、最初に書かれている「かっぱのひみつ」が、そうした作品である。

真夏の真昼の草むらにひとりでたたずむ女の子
池からかっぱがねらってる
それ見てセミは笑ってる

だれかがかっぱにさらわれた
だれかがかっぱにさらわれた

かっぱを見た子は しばらく無口
じぶんがかっぱを見たなんて
じぶんがかっぱに見られたなんて

親友できたら打ち明け話
なんとびっくり親友も かっぱを見たことあるという
じぶんだけではなかったと ふたりで一緒にほっとする
親友の好きな男子の名前なら みんなに言っちゃう子もいるが
かっぱの話はだまってる
おとなはだれも気づかない
こうしてかっぱはいつまもひみつの場所に棲んでいる

 最後の「ひみつ」ということばが、最初に読んだとき、ひっかかった。
 「かっぱ」は架空の動物。その架空の動物を取り込んで、これはいったい何の寓話として書いているのか。かっぱは何の象徴なのか。そんなことを思うのだが……。
 詩集を読み終わると、そうか、「ひみつ」か。かっぱではなく、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がつく。

 『蟻の日』は、十分に愛された記憶のないひとの、暗い感じが漂う、不思議な詩である。怒るでもなく、悲しむでもなく、「こんなことがありました」と冷めた感情で、ねちねちと書いている。このとき、「ひみつ」は「十分に愛されなかった」という「事実」ではなく、そのときの「ねちねちとした気持ち」(そういう気持ちをもったということ)が「ひみつ」なのである。
 「秘密」には二種類ある。ひとつは「聞きたい秘密」。「絶対に言ったらだめだよ」と言い、「言わない。だから聞かせて」。しかし、その「言わない」という約束は必ず破られる。それは「笑い話」として広がっていく。
 もう一つは「聞きたくない秘密」。聞いても楽しくない。気が滅入る。それはカウンセリングか何かをするひとが「聞く秘密」かもしれない。『蟻の日』に書かれているのは、そういう「暗いひみつ」である。
 「かっぱ」は、そういう「聞きたくないひみつ」の「比喩」、あるいは「象徴」である、と詩集を読み終わって、私は、やっと気づいた。そして、また、ほかのことにも気がついた。
 この詩には「じぶん」という人間と「親友」が登場するが、この「親友」は「他人」ではないのではないか。「ふたり」ということばも出てくるが、「じぶん」と「親友」は「ひとり」の人間のことなのではないか。「じぶん」と「じぶんのなかのもうひとりのじぶん」。
 「秘密」は聞かれたくないと同時に「聞いてほしい」ものである。「じぶん」ひとりで抱え込むのは、つらい。でも「聞いてもらえる」相手がいない。じぶん自身のなかに、もうひとり人間をつくりだし、そのひとに語ることで、気持ちを軽くするしかない。

親友できたら打ち明け話

 最初は読み落としていたが「できたので」のはなく「できたら」。四連目は「過去」のことを書いているのではない。「仮定」のことを書いている。「仮定」なのだから、それを「仮定」するとき、そこには「親友」はまだ存在しない。「親友」は「じぶん」がつくりだしてものである。つまり、そこには「じぶん」という人間が「ひとり」いるだけである。
 で、「ひみつ」とは、何か。
 「かっぱ」か。「かっぱを見たこと」か。
 そうではなくて、「おとなはだれも気づかない」ということ。「かっぱを見た/かっぱに見られたこと」におとなが気づかない、ではなくて、「かっぱの話はだまってる」ということにおとなは気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
 おとなは「じぶん(野田)」の体験していることに気づかない。「体験」を話さない(だまっている)ということに気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
 私は、先に、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がついたと書いた。これは、だから、おとなが気がつかなかった(おとなには話さなかった、おとなには隠していたということ)を書きたかったという意味になる。
 実際、この詩集には野田がこどものときには話さなかったことが書かれている。特に、野田がおとなをどんなふうに見ていたかを書いている。このとき「おとな」は「かっぱ」である。「かっぱ」とは、野田が見たおとな、見ながら「見た」とは言わなかったおとなである。
 その一例。「傷」という作品に描かれている、おとな。祖父の禿げ頭には傷がある。

祖父の傷は わたしがナイフでつけたものだという
「あのときおじいちゃんは黙って耐えていて
それだけあんたを愛していたんだよねえ」

傷は何センチもの長さで 幅と深さも一センチぐらいある
切りつけたというより肉を切りとったような感じだ
仮にわたしがひどく荒れていたとしても ここまではできないだろう
しかし家の者たちは 美しいものを見るかのような態度で
祖父のわたしへの愛情の証として傷をたたえている

 引用の最後の二行は「批評」である。これが「ひみつ」、つまり「だまっていたこと」。行動は隠せない。しかし、「批評」はことばにしないかぎり(黙っているかぎり)、正確にはつたわらない。
 おとなは、「じぶん(野田)」を利用して、「美しい」嘘をついている。「美しい」をおもてに出すことで、何かを隠している。そのことを見抜いている。しかし、見抜いているということを、野田は「ひみつ」にしたのである。

そもそもわたしは祖父に対して
暴力をふるいたいほどの激しい感情を抱いた覚えがない
もしもわたしが切りつけるなら 父か母が相手だったはずだ
なんなら今からやって見せようか……

 ここには「いま」の「ひみつ」もある。「なんなら今からやって見せようか……」という決意は「ひみつ」。そして、そういうことばが「いま」、野田の肉体を突き破って出てくるのは、それに似た決意がずーっとつづいてきたということだろう。野田の肉体は、その決意を「覚え」つづけていた。決意を「抱き」つづけていた。「かっぱ……」に出てきた「ひみつの場所」とは野田の「肉体」のことである。野田の「肉体がおぼえていること」である。

 こんな陰湿な詩集は嫌いだが、こんなに陰湿な詩集、そのことば魅力的だ。すごい。何度も読み返し、「ひみつ」をじぶんのなかにためこみたいような気持ちになる。私の肉体も野田の肉体のように「ひみつの決意」を抱え込めるようになると、私はずいぶんかわるだろうなあ。おもしろくなるかも。そんなふうにはなりたくないけれど。
 矛盾。
 嫌いだけれど、傑作、と言わずにはいられない。

うそっぷ―野田順子詩集
野田 順子
土曜美術社出版販売
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橋本千秋『夢の箱』

2015-09-14 09:00:39 | 詩集
橋本千秋『夢の箱』(編集工房ノア、2015年08月01日発行)

 橋本千秋『夢の箱』の詩篇には、亡くなったひとがたくさん出てくる(ように感じられる)。亡くなったひとと、静かに交流している。それは夢のようでもあるし、現実のようでもある。
 それについてはあとで触れることにして、まず、現実的(?)な詩。「濡れる木」。

新緑のブナ林を歩く。時折落ちてくる雫に首
を竦める。幹を撫でると手のひらが濡れる。
葉に溜まった雨が、雫になって幹に滴り落ち
ていく。ブナの根元に染み込んでいく。

雨の降る街角で傘も差さずに立っていた人。
雨が髪を濡らし、首筋を伝って落ちていく。
雫はもう、足元まで届いただろうか。

 ブナの木に触れて、街角で見かけた人を思い出している。あるいは逆かもしれない。街角で雨に濡れる人を見たとき、かつてブナの木に触れたことを思い出したのかもしれない。区別はない。
 違いは、ブナの木は実際に幹に触れて、雫の滴りを知った。そして、ブナの根元に雫(水分)が染み込んでいくのを、手で触って確かめたのだ。幹の根元が濡れる。土が濡れている。その「じわっ」とした冷たい感触。「見た」という視覚をこえる実感が「染み込んでいく」にある。一方、街角のひとの実際は、想像であるということだろう。「雫はもう、足元まで届いただろうか。」の「だろうか」は想像をあらわしている。
 ただ、この「想像」は「想像」だけれど、何か不思議なものを含んでいる。単に「想像」しているようには感じられない。「客観的想像」とは私には思えない。橋本自身が傘を差さずに濡れる人になっている感じがする。そして、髪を濡らし、首筋に雫が落ちるのを感じている。橋本には、そういう体験があるのかもしれない。雫が足元まで届く、ということも経験しているのかもしれない。経験があるからこそ、そこまで「想像」している。そのときの「想像」は「空想」ではなく、肉体がおぼえていることを「思い出す」ということでもある。
 で、この「思い出す」ということと、ブナの木の体験が重なる。もちろん、逆に言うこともできる。ブナの木の体験があるから、街角のひとの姿を自分の体験のように思い出すことができる。そういうこともできる。
 どちらの場合であっても、それは橋本の肉体的体験、橋本自身であるということ。「肉体」というのは、完全に「個別的」なものだからね。そういう「肉体」を思い出すとき、橋本は他人になっている。橋本の「肉体」が他人の「肉体」と重なり、その重なりの中で他人になって、濡れるということを私たちに語っている。それがおもしろい。
 この自分と他人の混じること(重なってしまうこと)を「交流」と呼ぶことができるかもしれない。そして、この「交流(自分と他人が混じること、融合すること)」というのは、橋本の詩集全体を貫くテーマになっているように思える。

 「梅雨晴間」という作品は、喫茶店かどこかの窓際にすわって人を待っている。歩道を待ち人が歩いてくる。手を振るが、見えないらしく、電話で「どこにいるの?」と問いかけてくる。「こちらから見えても、向こうからは見えない。」というのが一連目で、二連目は……。

晴れた空を見上げる。携帯電話に耳を当てる。
元気にしているかしら、別に用事はないんだ
けど、ちょっと顔を見たくてね。メモリーに
残った最後の声。向こうからは見えても、こ
ちらからは見えない。

 最後の部分が一連目とは違う動き。そして、そこに不思議なものがある。こちらからは見えないというのは、そのひとが死んでしまっているから見えない、ということ。でも携帯電話のメモリーを再生すると、まるでその人が生きているように声が聞こえる。それを聞きながら「向こうからは見える」と言い直している。これはもちろん橋本の「錯覚」なのだが、これがおもしろい。
 そうか、橋本がその人を思い出しているのではなく、その人が橋本を思い出し橋本に電話をかけてきている。そんなことは現実にはないのだけれど、そんなふうにことばを動かす。このとき、橋本はそのひとを思い出しているのではなく、そのひとに「なっている」。
 他人と交流するとき、橋本は自分ではなくなる。他人に「なる」。そして他人から橋本に呼びかけてくる。他人は、いつでも「生きている」。橋本は「交流する」のではなく、「交流される」のである。「交流する」という「動詞」はあっても、「交流される」という「受け身」の形では、ふつうはつかわれない。だから「交流される」というのは間違った言い方なのだが……。でも、「交流される」のだ。
 「主語(主体)」はあくまで他人、死者。
 「死者」が生きかえり、「交流する」ということは、もちろんありえない。そのありえないことが、「交流される」という奇妙な動詞のあり方としてなら、存在しうる。こういうことは「論理」を逸脱しているが、こんなふうに論理を逸脱してしまうところに、詩がある。ことばで説明しようとすればするほど、何か間違ってしまうしかない生々しい部分に、詩がある。

夢の箱―橋本千秋詩集
橋本千秋
編集工房ノア
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ホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」(★)

2015-09-13 20:02:55 | 映画
ホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」(★)

監督 ホウ・シャオシェン 出演 スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡

 久々のホウ・シャオシェンの作品。カンヌで監督賞を取っている。期待して見に行ったのだが、非常にがっかりした。
 中国の歴史を知らないせいもあるのだが、人物像がまったくわからない。黒衣の女は刺客で昔の許嫁を殺せと命じられている。しかし、「情」に邪魔されて殺せない。というのは、字幕だけではなかなか理解できず、予告編でそういうことが語られていたからそう思って見ているのだが、「感情」が伝わってこない。感情の起伏がわからない。
 一羽で飼われている鳥が歌わない。鏡を見せたら、歌い、舞い、翌日に死んだというような中国の古い歌(?)が「心情」を代弁したりするのだが、象徴的すぎて、「映画(映像/役者の肉体)」そのものからつたわってくるものがない。ことばで説明する「意味」ではなく、役者の肉体が動くときにあらわれることばにならない不透明な説得力というものがない。
 この「鏡」の話に、妻夫木聡の「鏡」を磨くシーンや、その他の鏡のシーンが「伏線」として動いているのはわかる(鏡で自分の顔を確かめる女は、単に顔を見ているのではなく、自分の心情をのぞいている。主人公ではなく、ほかの女に鏡をのぞかせ、女はいつでも自分の心情を気にしている、と間接的に説明する)が、これは「頭」でわかるのであって、肉体が反応してわかるのとは違う。スー・チーの能面のように動きのない顔から、チャン・チェンと再開したときこころがどう動いたか、導師(?)との戦いのときこころがどう動いたかを感じ取れといわれても、私にはできないなあ。
 見どころがあるとしたら「映像の美しさ」ということになるかもしれない。しかし「美しい」と感じながらも、これにも私は失望した。薄っぺらい美しさだ。「美」の表現方法がひとつしかない。
 ホウ・シャオシェンの映画を最初に見たのは、「童年往時」か「恋恋風塵」か。そのあと傑作の「非情城市」とつづけて見て気づいたのは「映像」のつくり方である。日本人の感覚に似ている。世界をとらえるとき「近景・中景・遠景」という感じで「遠近感」をつくる。世界を「横」に広げずに、「奥行き」で広がりをとらえる。日本と同様、台湾も島国だから、「広がり」とらえるとき、どうしても「遠近法」にしてしまうのだろう。(オーストラリアの映画では、突然「遠景」だけが広がったりする。アメリカや中国映画でもそうである。世界が広いから「近景」なんか気にしないのだ。)この方法を延々と繰り返している。
 狭い室内においてさえ、「近景・中景・遠景」という遠近法をつかう。手前に壁、開かれたドアの向こうに次の部屋の室内、という方法がいちばんわかりやすい。この映画では、それに「紗」の遮りを組み合わせている。「紗」越しにひとが動く。手前と、奥、があることを常に印象づける。それは、まあ、主人公が「紗」に隠れているということをあらわしているとも言えるのだが、とてもうるさい。
 屋外では、わざと焦点を近景にあわせ、中景をぼかしてしまう。「紗」にかけたようにしてしまう。そうすることで、狭い場所にも「遠近感」をつくり出している。
 もっと広い「原野(山岳)」では、水墨画の技法のような手法。遠景の山は稜線が明確だが、手前の山と重なる部分は薄い色の影になる。すべてが、あまりにも「遠近法」の絵になりすぎている。これでは単調すぎる。おもしろみがない。
 非情な歴史を描いているのだから、人間の非情を上回る非情な自然(風景)を描かないことには人間が生きてこない。非情なドラマのなかの、繊細な感情を描きたかったと監督は言うかもしれないけれど、退屈すぎる。
 映画の半分くらいで、右隣のさらに右隣の客がひとり出ていったが、正解だなあ。さらにその直後、今度は左隣のおんなががさごそしはじめ、席を立った。お、もうひとり出て行くのか、と思ったらしばらくして戻ってきた。トイレだったのか--というようなことを思うくらい退屈な映画である。
 「歴史(人事?)」とかかわりのない鏡みがきの妻夫木聡を送って行く(いっしょに旅をする)という終わり方は、「鏡の中の自分」がほんとうの自分がいる(ほんとうの自分をわかってくれたのは、人事とは関係ない妻夫木聡だけ)、ということを暗示しているのかもしれないが、うーん、くだらない「文学趣味」。あきれてしまった。 
                        (中洲大洋3、2015年09月13日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
悲情城市 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」

2015-09-13 09:20:58 | 長田弘「最後の詩集」
こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」(「幻竜」22、2015年09月20日発行)

 詩は不思議である。書き方にきまりがないせいだろうか、「幅」が非常に広い。「現代詩手帖」を拠点とする「現代詩」の書き手がいる一方、そういう世界とは無縁なところで書いているひともいる。
 きのう読んだ、阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』のなかのことばは、どちらかというと「現代詩手帖」ではあまりみかけないことばの運動である。ことばの運動の可能性を切り開くという類のものではないかもしれない。けれど、私は、何かひっかかる。「現代詩ではない」と、感想を書かずにそのままにしておくのは「もったいない」感じがする。そこに書かれていることば、ことばのなかで動いているものを引き継いで、ほかのことばを動かしてみたいという気持ちになる。
 そういう作品を、きょうも読んでみる。
 こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」は「神々たそがれ七十年」というタイトルでくくられた作品のうちの一篇。「七十年」は「戦後七十年」を踏まえている。こたきの体験を描いている。こたきの家で「隣組常会」が開かれた。

「この戦争は負けだね」こう言い放ったのはウチのお婆ちゃん
皆は一瞬息をのんだ 立ち聞きされたら大変だ ややあって
「そうですか やっぱり負けですかね」と商店のおやじさん
お茶を配るのは二年生の私で駄菓子の配給もなくがっかりだった
「負けるだなんてとんでもない 非国民です」うわずった声は母さんだった「大和魂がありますカミカゼが吹きます」
日頃おとなしい母が言い募る 隣の小母さんが驚いて顔を見る

 というようなことが書かれていて、その最後にこたきの「感想」が書かれている。その「感想」に、私はうなってしまった。

戦後多くの真相を知ったが私は一度だけ国の強権ぶりに感謝した
あの 口答えひとつ許されなかった姑に初めて母は反発できたのだ
国を味方にして 母の一生に一度の自己主張であった

 この「感想」を、どう思えばいいのだろうか。どう「定義」すればいいのだろうか。「定義」などしなくてもいいのだけれど……、うーん。
 おもしろいなあ。
 嫁・姑の「関係」のなかで、母は姑に口答えできなかった。姑は絶対だった。そういう関係は、どこの家庭でもあった。母は一度だけ姑に口答えをした。そのときの「口答え」は、いまの常識から言えば間違った認識である。「おかあさん、あなたは間違っていた。国にだまされていた」と、いまなら言える。
 けれども、こたきはここで

国の強権ぶりに感謝した

 と書いている。その「感謝した」という「動詞」が何とも言えない。どう言っていいか、わからない。おもしろい。
 母親は(母親だけではなく、多くの国民は)、国にだまされていた。だました国に対して「感謝する」(感謝した)というのは、変である。「国民」はいわば犠牲者なのだから。
 しかし、「批判を許さない国」の存在(考え方、ことば)が、気弱な母親を強くしている。母がほんとうに「カミカゼ」を信じていたかどうかはわからないが、絶対的な「ことば」を支えにして、母は姑に反論した。母に反論する力を与えてくれた。母は一度でいいから反論したかった。その機会を待っていた。そして、その望みをそのときにかなえた。そこに「喜び」のようなものがある。そしてそれは、こたきの喜び(願いの実現)だったかもしれない。お婆ちゃん、おかあさんをいじめないで。おかあさん、お婆ちゃんの言いなりにならないで、お婆ちゃんに勝って、と思いつづけていた。それが、いま、実現している。その「喜び」がここにある。「おかあさん、大好き」という気持ちが、ここにある。「大好き」が実現した(?)ので、国に「感謝」している。
 この「感謝」は、大きな「世界」からは否定される「こころのあらわし方」である。「論理的」には「意味」のない「感謝」である。「倫理的」には、と言い直してもいいかもしれない。「倫理的に無意味」。こんなときに「感謝」ということばをつかうのは、理にかなっていない。
 でも、「感謝」する。
 こたきにとっては、国の問題などどうでもいい。戦争の問題もどうでもいい。大好きな母親をいじめる(?)姑に反撃するということが大事なのだ。母親が姑に向かって反論し、一歩も譲らない。そこに「信頼できる母親」が存在する。
 母親にとって、子どもがどんな間違ったことをしようが、「子どものしていることは絶対に正しい」と子どもを味方する(信頼する)ように、子どももまた「母親は絶対に正しい」と信頼したいのだ。「絶対的な正しさ」のなかで母と子はしっかりと結ばれるものなのだから。他人が見て「間違っている」と判断しようが、そんなことは関係ない。他人の判断などにはまどわされない「つながり」がある。その「強いつながり」を、こたきは、このときにつかんだ。「大好き」という「強い感情」は、こういうところから生まれている。

 これを、どう引き継いで行くか。

 難しくて、私には、これ以上書けない。
 特に、いまの状況(「戦争法案」を国会が可決しようとしている状況)を考えると、ことばが動かない。母親を支えた「国の強権」は、もちろん間違っている。「国」を弁護することはできないし、したがって「国に感謝する」ということも、あってはならないことである。でも、それは「戦争」のことを考えるとそうなのであって、母親への「愛情」のことを考えると、それは事情が違うのである。
 私たちはどこかで「論理的」ではない何か、「倫理的」ではない何かにつながっている。「論理」や「倫理」とは違うところでも生きている。そして、それを的確にあらわすことばを知らない。「間違い」を通してしか言い表すことのできない何かが人間にはある。「気持ち」は簡単にことばになってくれない。
 「論理的」には「間違い」である。けれど、その「間違い」のなかにある、「間違い」とは別の、「論理」とは無関係に動くこころの動き。「だって、お母さんが好きなんだ」というときの、「だって」としか言えない何か。そのことばにはならない、人間の「こころの動き」。詩を読みながら、そういう「つながり」とつながり(変な言い方だが……)、ことばを動かしていけたらいいなあ、と思う。

 「論理」や「倫理」という、頭で整理したものではどうすることもできない何かに、私は「つまずく」のが好きである。つまずかせてくれる「ことば」が好きである。



幻野行
こたき こなみ
思潮社
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阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』

2015-09-12 11:30:27 | 詩集
 阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』は認知症の母親のことを書いている。特別にかわったことが書いてあるわけではないのだが、おもしろい。
 「ボケはありません」という作品。

「今日は 何曜日ですか」
今は仕事も家事もしていません
もう何曜日は ないんです
「昨日は何を食べましたか」
食事はおいしく食べています
これでもお肉が大好きです
「それで 何を食べましたか」
ですから 全部食べています
食べてしまったので なくなっています

 まるで「とんち話」である。するりと逃げていき、それが論理的なので、追及のしようがない。「そうですね」としか言えない。安倍の国会答弁より、はるかに「高級」である。知性を感じる。
 ほんとうに認知症?

あんた 役所の福祉の人やな
物忘れはありません
頭だって はっきりして
ボケはありません
私の悪口 書類に書いたら
あかんで

 たしかに「ボケ」とは言えないなあ。というか、こんなに「論理的」に応答できるのに「認知症」と言っていいのだろうか。
 「論理的」に反応することと、「認知症」は別の問題なのか。「脳」の、つかう部分が違うのだろうか。「脳」というのは有機的に結びついていないのだろうか。
 こういう作品に対して、どう感想を書いていいのかわからないのだが、あ、こういうことってあるなあ、と思う。私は実際に「認知症」のひとと向き合ったことはないのだが、こういうひとっているなあ、と思う。こういう「認知症のひと」がいるというのではなく、こういう具合に「反論」できるひとがいるなあ、という感じ。「認知症」であるか、どうかを通り越して、「こういうひとがいる」という感じ。そして、その「ひと」が見える。阪井の書いている母親は「認知症」なのかもしれないが、その「認知症」という「枠」を突き破って、母親の中から「新しい母親(ほんとうは、隠されていた母親)」が生まれてくる感じなのかなあ。
 阪井は、たぶん(きっと)、「おかあさん、ばかなこと言うんじゃないよ」という感じで母親を見ている。でも、どこが「ばかなこと」なのかは、よくわからない。「まっとうなこと」にしか見えない。求められる答えを答えないということが「ばか」なのか。求められる答えを答えれば、「正しい」のか。
 従順じゃない、自分の言うことを聞いてくれない、という「いらいら」を「ばか」と呼んでいるだけかもしれない。他人を「ばか」と呼ぶとき、ひとは自分を「正しい(ばかではない)」と言いたいだけなのかもしれない。
 考えはじめると、ちょっと難しい問題にぶつかってしまう。詩を読んでいるだけなのだから、そこまでは深入りせずに、うーん、おもしろい。こんなひとがいる、そのひとが目の前にいるように描き出すことばは楽しい、というところで止めておく。
 何かあったら、もう一度考えよう。
 と、思いながら読んでいくと「おいしい目玉焼きの食べ方」。

半熟の目玉に
フォークを刺すものだから
持ち上がらず
黄身は皿の上に流れ出した

母はいきなり 手でつかんで
口に入れた
流れ出した黄身を
皿を持ち上げ
ベロベロと舐め始めた

パンをちぎって拭くものよ
野菜で絡め取るのも一つの方法
教えてくれたのは母だった

テーブルマナーなんかいらない
母は おいしい
目玉焼きの食べ方を発見したのだ

 「認知症」の母は「マナー」にのっとった食べ方を忘れている。「忘れている」ということを指して「認知症」と呼ぶことはできるかもしれない。でも「認知症」だからといって何もできないことではない。卵焼きを食べることができる。それも「おいしい食べ方」で食べることができる。このときの「おいしい」は母親にとって「おいしい」ということである。母親は「食べ方」を発見したというよりも「おいしい」を発見している。
 その「おいしい」は、たぶん母親が「肉体」で覚えていたこと。実際に崩れた卵焼きを舐めたのかどうかはわからないが、何かを舐めたことがあって、舐めるとおいしいということを覚えていて、それをつかっているのだ。「おいしい」が、どういうことか、「わかっている」のだ。「わかっている」ことを肉体をつかって、実践している--と、しつこく書いてしまうと、私の考えている「わかる」と「知る」の違い、「おぼえる」と「つかう」の関係など、「肉体」の問題になってしまうけれど……。阪井は、これを「ややこしい」ことにはせずに、ただ母親の姿を「描写」することでおしまいにしている。
 で。
 この詩のおもしろいのは。
 「母は おいしい/目玉焼きの食べ方を発見したのだ」と阪井は書くのだが、この「発見」は母親の発見というよりも、阪井自身の「発見」だね。
 「発見」は「発明」とちがって、すでに、そこにあること。「そこ」というのは、この詩の場合、ちょっとややこしいが「肉体」の内部。「肉体」が「おいしい」をおぼえていて、その「おいしい」を「おいしい」と感じたとき、どんなふうに「肉体」をつかったかをおぼえていて、そのおぼえている通りに、「肉体」を動かし、やっぱりこうするとおいしいということを再確認している。その再確認があまりになまなましいので「発見」したと思い込むだけで、実際は、そういう「食べ方」は、いつでも、どこでも見ることができるはずのものである。ただひとは「マナー」を前面に出して、そういう「食べ方」と「おいしい」を隠している。
 母親が、その「おいしい食べ方」を「発見した(思い出した)」とき、それは母親が「発見」したというよりも、阪井が「発見」したのである。
 母親がベロベロと皿を舐めている。崩れた卵焼きを食べている。この姿は、眼で見て、確認できる。けれど、そうやって食べたとき「おいしい」かどうか、それは母親が「おいしい」と言わないかぎり、確認できない。「わからない」。けれど、阪井には、それが「おいしい」と「わかる」。
 これは道に誰かが倒れて腹を抱えてうめいているのを見たとき、あ、この人は腹が痛いのだと「わかる」のと同じである。他人の肉体の内部で起きていることが「わかる」。それが「わかる」のは、そういう「肉体の動き」を自分自身が「おぼえている」からである。自分が覚えていることを「発見」しているのである。
 最後の行の「発見」には、そういう意味がある。
 阪井は母の姿を見て、阪井自身がかつて皿をベロベロなめて、おいしいと思ったことを思い出している。過去を発見している。その阪井をたしなめた母の姿とことばも。

 「発見」ということばは「おおげさ」かもしれない。でも、「おおげさ」ではない。「発見」ということばは、誰もが知っているので「おおげさ」には感じられないかもしれない。でも、これは「おおげさ」と感じなければならない、「大事」なことである。
 この詩に「発見」ということばがなければ、この作品は詩にならない。

 阪井の作品は、だれもが日常的につかうことばが、日常とおなじような感じでつかわれている。そこに書かれていることも、私たちが日常でみかけることがらである。「認知症の母親」ということばが引き寄せる「情報」は阪井がここに書いている以上のものである。阪井は、私たちの知っている「情報」だけで詩を書いているようにも見える。しかし、よく見ると、少し違う。この「少し違う」は、どうしても見過ごしてしまうし、また通りすごしてしまう。
 私の感想は、阪井の書いていることを深く耕し直すというものではないけれど、あ、おもしろいと感じ、そこに立ち止まったということだけは書いておきたい。
 「えんぴつがあれば」という作品。

僕はえんぴつが好きだ
サラサラと
どこにでも書けて
すぐに消せるから

ぼくの思いつきや空想は
すぐ変化してしまうので
強いボールペンの字より
消しゴムで消しながら また書いて
心に強く残しておきたいから

 この「心に強く残しておきたい」も、「発見」と同じ様に、とても美しい。この作品を中心に阪井の詩について書けば、また違った感想になる。この詩も好きだが、私は、母を描いたことばの方が不透明で、なまなましくて、やさしさがあふれていて好きだ。

おいしい目玉焼きの食べ方
阪井 達生
澪標
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颯木あやこ『七番目の鉱石』

2015-09-11 08:53:49 | 詩集
颯木あやこ『七番目の鉱石』(思潮社、2015年08月30日発行)

 颯木あやこ『七番目の鉱石』に登場する「わたし(私)」は少し変わっている。「雨だれ」という作品がいちばん印象的だが、説明の都合で「音の梯子」という作品について先に触れる。

騎士のように迷いなく
まっすぐな道を駆けてくる狼が
横たわる私の 見開いた瞳
硝子体を破って
棄てがたく 奪っていく

 ここでは「主語」が「狼」。そして「私」は「私の」という「所有格」で出てくるだけで、「主語」にはなっていない。「私」は、誰かによって語られている。「私」は、そこに登場する人物(動物/生きもの)、あるいは「もの(存在)」のひとつにすぎない。
 詩の多くは「私」の思いを書いたもの。「私」は「主語(主人公)」であることが多いが、颯木の「私」は「主人公」ではない。

私より少し背丈の小さい狼を抱いて
見えない瞳や掴めない指を
香煙ほどの思い出にして

 このことばの「主語」は何か。書かれていない「私」が「狼を抱いて」いるのかもしれない。興味深いのは「私より」という表現である。「私」は「比較」の基準になっている。「ものさし」になっている。「小道具」になっている。「主語の私」は省略されるが、「小道具の私」は省略されない。「小道具」は「少女の背丈」でも「低い木」でも置き換えが可能だが、颯木は「私」にこだわる。
 この「こだわり」に「主人公・私」がいるにしろ、その自己主張は「狼」の自己主張よりも小さく感じられる。 「主役」はあくまで「狼」である。

けれど狼は
腕の中からすり抜け
物語から無数に生まれる星の子のように増えて
空に混ざって消えていく

 このことばの中で「狼」が「主語」であるか、それとも、比喩として書かれている「無数に生まれる星の子」が「主語」であるか。判断は難しいが、「形式的」には「狼」が「主語」である。ここでも「私」は「主語」ではない。
 「私」が登場してきても「主語」(主役)として活躍しない。そういうことが、颯木の詩の特徴であると言えると思う。

 で、「雨だれ」。

黒豹だ

きっと雌だ

いま 屋根に爪先で着地した
ひとあし ひとあし歩き回り
(大きく育ったマグノリアの花をむさぼり)

 ここには、まだ「わたし」は登場しない。「主語」は「黒豹」だ。「黒豹が」いま 屋根に爪先で着地した、「黒豹が」ひとあし ひとあし歩き回り、「黒豹が」大きく育ったマグノリアの花をむさぼる、ということが書かれている。
 「わたし」は、それを「感じ」、そして「書いている」と、言い直すことができる。
 次の連が、そのことを語っている。

天井の下 わたしは
毛布をかぶり直し
その 爪の先端から放たれる
ぬれぬれとした光から 身を守る
身を

 「わたし」は黒豹が着地した屋根の下(つまり、天井の下)で、毛布をかぶり、身を隠している。黒豹の爪の先端から、ぬれぬれとした光が放たれる。
 その爪の光に穿たれると、

爪の光に穿たれて
全身 孔だらけ 灰色の蜜 噴き出し

 ということになってしまうから、そうならないように身を隠しているのである。
 ところが、このことばにはつづきがあって、ほんとうは、ただ単に身を隠しているというわけでもない。

爪の光に穿たれて
全身 孔だらけ 灰色の蜜 噴き出し
寝床に染みだけ残して
消え去ってもよい
こんな夜に

 実は、黒豹に襲われて、全身孔だらけになって、灰色の蜜を噴き出して、「消え去ってもよい」。「わたし」が「消えてもいい」(死んでもいい)と思っている。いや、それを願っているとさえ言えるかもしれない。
 それだけではない。

きっと雌だ

 と書いているから、黒豹は「わたし(颯木)」そのものであるかもしれない。

 「黒豹」は「比喩」である。そして、その「比喩」は、「わたし」を「外形化」したものといえばいいのか、「わたし」を別な形で「生み出した」ものである。
 「わたし」という「主語」が「黒豹」という「比喩」を生み出した。そのときから、今度は「黒豹」が「主語」になり、「わたし」の欲望を引き継いで行く。「わたし」の欲望は「黒豹」の欲望として語られる。
 「黒豹の」爪で「わたしの」全身に孔をあけ、そこから「灰色の蜜」を噴き出したい。その「灰色の蜜」は「黒豹の」ものか、「わたしの」ものか。
 区別ができない。
 区別をしないことによって、「黒豹」と「わたし」は融合し、欲望を発見する。欲望に「なる」。

黒豹になる

きっと雌になる

 「わたしは黒豹だ(である)」と言うとき、そこには欲望は「ある」けれど、まだ動いていない。「黒豹になる」「雌になる」と言うとき、欲望は、目覚め、動く。「比喩」は颯木にとって、欲望を生み出していくこと、欲望そのものになること、欲望として「動く」ことなのだ。
 新しい「肉体」として生まれ変わる。それが「比喩」であるとも言える。
 この「新しいわたしの肉体」の行為を「純粋動詞(本能/欲望)」の運動そのものとして描くために、「わたし」は表面から姿を消す。「比喩(黒豹)」そのものを「主人公」にして、「時間」を動かす。「物語」を描く。

黒豹だ

きっと雌だ

いま 屋根に爪先で着地した
ひとあし ひとあし歩き回り
(大きく育ったマグノリアの花をむさぼり)

 これは、「わたし」が「黒豹」になって「時間(物語)」を動かしているのだ。「わたし」はその「物語」を語るだけの「脇役」になる。

 「わたし」を「脇役」にし、「比喩」を通して「新しく生まれた(生み出した)わたし」を「主役」にして、そのなかで「本能」をより生々しく動かす。
 それは「ことばになる前の私(未生の私/私の本能)」をことば(比喩)によって解き放つということでもある。
 そういうことが、この詩集では行なわれている。


うす青い器は傾く
颯木 あやこ
思潮社
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白井知子「コーカサスの山並」

2015-09-10 09:45:10 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「コーカサスの山並」(「幻竜」22、2015年09月20日発行)

 ひとは何を手がかりとして(入り口として)他者に出会うのか。白井知子「コーカサスの山並」を読みながら、私がきょう感じたのは、白井は「耳」をとおして他人とであっているということだ。安藤元雄『樹下』は、「目」で世界と出会っていたが、白井の場合は「耳」で世界と出会う。

グルジアの古都
ムツヘタの昼下がり
野外の椅子の背にもたれ ワインをのんでいた
不意に 弦楽器の音色がちかづいてくる
初老の男が リュート属のタール コーカサス古来の弦楽器をかかえて歩いてくるなど 思いもよらなかった

 「弦楽器の音」。その「音」は日本人の「肉体」になじみのある音ではない。白井は、それを識別し、「リュート属のタール コーカサス古来の弦楽器」と呼んでいるが、私にはそれがどんな音かわからない。わかるのは、白井がその音を識別し、しかもその楽器の名前も知っているということである。何と呼ぶか、その「音」を知っている。
 書き出しの「グルジアの古都/ムツヘタの昼下がり」。何でもないことのように書いているが、白井は自分がいる「場」をきちんと「音」として語ることができる。「音」を身に着けている。「古都」とか「昼下がり」という「状況」を語る前に、固有名詞を語る。「固有の音」を語る。
 すべてには名前がある。名前は「音」として存在する。「音」は消えていく。消えていくからこそ、何度も何度も繰り返し「声」にして、そのたびに、「いま/ここ」に出現させる。
 そのとき「出現」してくるのは「音」だけではない。

スキタイ人の末裔 オセット人が暮らす地
グルジア領内の東に位置する南オセチア自治州
グルジアから国境をこえ
地つづきの北オセチア共和国の方角
わたしは 音色にみちびかれながら
指先から肩へと波だっていく

 「音(固有名詞)」の背後には「歴史(時間)」がある。その「過去」が「いま」となってあらわれてくる。そして、その「過去」というのは、白井そのひとの「過去」ではない。その土地にいるひとの「過去」である。「他人の過去」である。
 「他人の過去」だけれど「末裔」という時間を含む名詞、あるいは「暮らす」「位置する」「(国境を)こえる」という「動詞」となって白井の「肉体」を刺激する。「ひとの血(父母の血)」を引き継いで生きる、暮らす(暮らしの場所、位置をきめる)、「境」をこえるというような「動き」をとおして、「他人の時間」と重なる。「他人」のなかに白井の「肉体」と共通する「時間」があり、それを、「固有名詞」の「音」を突き破って引き受ける。つまり、

音色にみちびかれ

 ということが起きる。「指先から肩へと波だっていく」というのは、たぶん、弦楽器をひくときの指の動きに白井が反応するということだろう。無意識の「内部」で指が動き、それは「指」だけではなく「肩」の方までつたわってくる。「肩」までつたわってくるというのは、「肉体の内部」までつたわってくるというのと同じである。

身体を劃する輪郭を去りがてに
騎馬の達人 スキタイ人が駈ける草原の波から波へと
渡っているのだった

 これは「音楽(音)」のことではなく、スキタイ人の「歴史」(暮らし)を語っているのだが、「音色にみちびかれ」ることで、白井は、そういう「過去」へ「肉体」ごと入っている。スキタイ人になっているのだ。

わたしは 牛がひく天幕の小屋のなかへ
違和を感じることなく入り 天幕の綻びを繕ってしまう
なんという名 どんな人物の持ちものであるか知らず
ただ 猛猛しくも 未明にはあたたかなスキタイの男だということは なぜだかわかっていた
ギリシャ神話の冒険譚や
褪せることのない哀しみ 喜びのつらなりまでをも囁かれる
わたしは涼やかに応えている
蜜語は薫りだつ声だった

 スキタイ人になっているから、「スキタイの男」とわかる。「日本人」のままでは「スキタイ」がわからない。実感できない。
 肉体の交わりは、声の交わりによって強くなる。声が(ことばが)交われば、肉体が交わらなくてもセックスしたにヒトシイ。声の中で「褪せることのない哀しみ 喜びのつらなり」がかたく結びつき、「蜜語」になる。
 このことを白井は、

いま目覚めれば
わたしは 畢竟 スキタイの女
ユーラシア大陸を家畜とともに移動していく一族の女になる

 と言い直している。単に「スキタイ人(スキタイの女)」になったのではない。「一族の女」(末裔/過去をもった人間)になる。
 その「一族の女」である白井に、老婆の声が飛ぶ。料理を作っている白井に檄が飛ぶ。

「かまけるな
骨を火に投げ込め
炊け もっと炊け 火を焚くのだ
よいか おまえたちの血こそ 滾りはてるほどにだ
馬の乳 蜜蜂 果実は揃ったか」

 この檄に、白井は「意味」ではなく、「肉体」の動かし方を読み取っている。音楽を聴き、それに反応して歌ったり、踊ったりするように、「肉体」そのものが反応している。もし、実際に「肉体」を動かし、骨を火にくべないとしても、このとき白井はいっしょに叫んでいる。「声」を引き継いでいる。つまり、たぎらせている。
 白井の詩のことばは、どれも強さを感じさせる。たぎっている感じがする。剛直な感じがする。
 それは白井が、ことばを「意味」ではなく、「音」として受け取り、白井自身の「肉体/声」をとおして発しているからだ。どのことばも、たとえば「グルジア」「ムツヘタ」という地名さえも「聞いて知っている」ことではなく、自分の「声」で実際に何度も何度も発した「音」なのだ。

入りくむ山襞 峡谷 果しれぬ稜線
放牧された馬や牛 羊の群れとともに暮らしている多彩な民族
かき鳴らされるコーカサスの精霊
スキタイ人のもと しのばせてきた
わたしの素のままの声を--

 その「声」は「わたしの素のまま」と言える深みにまで到達している。「素」と言える深みから発せられ、強い「和音」となって響く。
 白井が書いているのは、もう「異国」の風景(情景)ではなく、白井の「肉体」なのである。「耳」で聞いたものが、「声」を通して出現している。

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セオドア・メルフィ監督「ヴィンセントが教えてくれたこと」(★★)

2015-09-09 21:51:46 | 長田弘「最後の詩集」
監督 セオドア・メルフィ 出演 ビル・マーレイ、メリッサ・マッカーシーマ、ナオミ・ワッツ、ジェイデン・リーベラー

 困ったな、というのが最初の感想。困ったな、というのは、いやだな、というのと同じこと。
 ビル・マーレイの不良老人。一生懸命やっているのだけれど、問題は「不良」に見えないこと。目がどことなく寂しい。その寂しさを隠しきれない。「地」が出てしまう。映画にしろ芝居にしろ、もちろん「演技」と同時に役者の「地」を楽しむものだから、それはそれでいいのかもしれないけれど……。
 で、ビル・マーレイが介護施設を訪問するシーン。認知症の妻に会いにゆくのだけれど、あまりにも「ストーリー」になりすぎていて、おもしろくない。「善良さ」を浮き彫りにするというより、「善良さ」を描きすぎている。何より、少年をつれていくというのがよくないなあ。少年に隠れて妻に会いにゆき、そのことを少年が「発見する」という具合でないとね。
 まあ、脚本家としては、介護施設でのことを少年が聞いてまわるということろに、少年の「発見」を折り込んだつもりなのかもしれないけれど、これではまるで「子ども向け」の「粗筋映画」。
 「粗筋」だから、ついつい「ことば」で最後にもう一度説明し直してしまう。「身近な聖人」(だったかな?)というタイトルの「作文」を少年に読み上げさせてしまう。人間は「ことば」によって認識を深めていく、事実を自分のものにしていく、ということなのだろうけれど、これでは映画ではなく、「小説(物語)」になってしまう。
 もちろん、そういうことは承知で、だからこそ、少年のキャラクターを説明するのに、最初の方で本を読むシーンを組み込んでいるのだろうけれど。寝る前に、大人が子どもに本を読んで聞かせるのではなく、少年が母親にこんな本を読んでいると読んで聞かせる。手の込んだ「伏線」なのだけれど、安直というか、手をかけすぎているというか、映画であることを最初から否定している。
 ビル・マーレイは、この演技でアカデミー賞の候補になったようだけれど、これは「演技」というよりも「役のひとがら」が好かれたということだろうなあ。アカデミー賞はいつでも「演技」と、そこで「演じられている人物」の評価の区別がなくなる。だから実在の「偉大な人間(尊敬されている人間)」を演じると賞をもらいやすい。
 あ、最後の、オナミ・ワッツが赤ん坊におっぱいを飲ませようとするシーン、そのとき、ビル・マーレイがナオミ・ワッツのおっぱいが見られる(ひさびさ!)という期待に満ちた目をする。その演技だけば、とても好きだ。こういう「不良/健全」を、もっと見せてくれないとねえ。「不良」こそが「健全」な人間の姿であるということ見せてくれないと、生きる喜びがはじけてこない。
                     (ソラリアシネマ8、2015年09月09日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ライフ・アクアティック コレクターズ・エディション(初回限定生産) [DVD]
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ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
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安藤元雄『樹下』(2)

2015-09-09 13:36:57 | 詩集
安藤元雄『樹下』(2)(書肆山田、2015年09月05日発行)

 詩のことばは詩集のなかで呼び掛け合う。安藤元雄『樹下』の、たとえば32ページ。

行き過ぎる者たちは知らない ここに私がいて
ここに一本の樹があることを
道筋はいつかここを離れ
水場は遥かに遠く
樹がひたすらにしたたらす露は
ことごとく地に落ちる

 「道筋はいつかここを離れ」という一行はとても美しい。「道筋」自体は動くわけではない。そこを通って人が行き過ぎるということなのだが、ここにいる樹(ここにある私)には、道そのものが遠く去っていくように思える。
 ほんとうは(学校文法では?)「ここにいる私」「ここにある樹」と言わなければならないのだが、「樹」と「私」が「同一のもの(一体になった存在)」であるとき、「動詞(述語)」が無意識に入れ代わることで「一体感」そのものになるのと同じ様に、「道(筋)」と「行き過ぎる者」もまた「一体感」のなかで「動詞(述語)」を入れ換えてしまう。入れ代わってしまう。
 この「道筋はいつかここを離れ」の「道(筋)」は42-43ページの詩では、「樹」になって動く。

闇の中では樹も見えず
葉の揺らぎも見えない
風があれば葉のそよぐ気配だけはするが
むしろそれは葉よりも風の音だろう
たとえば冬 樹が
ことごとく葉を失ったあとも
風は高らかに枝を鳴らす
闇の中で私はそれを聞き 風が遠くへ
私の思念の届くよりも遥か遠くへ
樹を運んで行こうとするのだと思ってみる

 「樹」は動かない。しかし「風」が樹を運ぶ。このとき「風」と「風の音」は「行き過ぎる者」で「樹」は「道(筋)」である。そして、動いていくのは、実は「樹」でも「道」でも、あるいは「行き過ぎる者」でも「風(の音)」でもない。
 「私」であり、「私の思念」である。
 「樹」と「私」が「一体」になるとき、それはそれぞれの「内部」において「一体」にになる。「内部」とは「思念」のことである。
 安藤の「思念」が遠く遠く、遥かなところへ動いて行こうとするとき、「樹」も「道(筋)」も遥かなところまで行くのである。「道」と書かずに「道筋」と安藤が書くのは、「筋(つながり/ストーリー/思念)」の方に重心があるからだろう。

 また32ページの「水場」、「露」は37ページでは、次のようなことばと呼応する。

日が落ちても日なかの暑さは薄れない
陽炎(かげろう)が野づらに立ちこめ
遠いものをことごとく影絵にする
そこに大きな河が音もなく流れていて
水のおもてがたぶん私の目の高さにあるのを
樹の下に坐ったまま私は感ずる

 「露」はあつまり「河」となって流れ、遠く遠くへゆく。その遥か遠くで「道(筋)」と「河」は出会う。そのとき「行き過ぎる者」もまた「河(水)」と出会う。それは「私」が「河」と出会うということでもある。
 「思念」するとき、「私」は「河」であり、「行き過ぎる者」であり、また「河」の最初の一滴の「露」としての「樹」でもある。
 世界は、そんなふうにして立体的になってゆく。
 こうした変化のことを36ページでは、「奥行きを増す」と書いている。

枝の先を日が落ちて行く
赤と黄のしずくを垂らして
大きなくだものに似た日輪が
葉むらより低く
野の向うへとずり落ちて行く
飛ぶものはみなどこかの巣に帰り
世界が不意に奥行きを増す
私のためではない

 「私のためではない」。ここに「思念」はないように見える。表面的には、そう見える。しかし、そうではなく、ここでは「思念」が「私」を超えるのだ。
 「私」はすでに「樹」であり、「行き過ぎる者」であり、「道筋」であり、「風」である。「露」でもあり「河」でもある。「私」という「枠」を超えてしまっている。だから「私のためではない」というしかないのである。
 「私のためではない」。そして、もしかすると、安藤は、それは「樹のためである」と言い換えるかもしれない。「樹の下に坐ったまま」、そう考えるかもしれない。

 いま引用した36ページの詩行のあとに、もう一行、

私はただそれを目でうべなうだけだ

 という行がある。
 きのう書いたが、ここに登場する「目」は、安藤の「思念」が「目」で統合されていることを証明するかもしれない。「風音」と「聴覚」といっしょに動くことばも出てくるが、「河(水のおもて)」を「目の高さ」と「目」でとらえ直しているところも、その「証拠」のひとつといえるかもしれない。
 見えない「内部」、見えない「遥か遠く」も「目」で「見て」、それを「思念」として「筋(ストーリー)」にし、「世界の奥行き」とする。これが安藤の詩だ。


樹下
安藤元雄
書肆山田
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安藤元雄『樹下』

2015-09-08 10:46:07 | 詩集
安藤元雄『樹下』(書肆山田、2015年09月05日発行)

 安藤元雄『樹下』の作品にはタイトルがなく、書き出しの一文字が大きく印字されている。「樹」ではじまる詩が巻頭から三篇つづいている。私が引用するのは三篇目。活字の大きさをうまく反映できないので、同じ大きさで引用する。

樹は記憶のない昔からそこにあった
物ごころついたときにはもう葉先が揺れていた
つい笑い声を立てるほどに
それを追うのが楽しかった
目に見えるてのひらや爪がたしかに私そのものであるように
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じだろうか
樹があって 私がいて
その二つが実は同じことで                     (12ページ)

 樹の葉、その「葉先」が揺れるのを「追う」。何で「追う」かというと、次の行に出てくる「目」で追う。書き出しの「記憶」とは「目の記憶」になるだろう。安藤の感覚は「目」で統一されている。「目」が感覚を統合している、と言えるかもしれない。繊細というよりも、強靱な「目」である。その「強靱さ」が「葉先」をとらえる。
 この詩に先立つ、巻頭の詩。

樹は 私の背後から
小屋の屋根越しに枝を伸ばして
窓の前で葉裏の先を揺らす                     (8ページ)

 私は、この詩の書き出しの「背後から」にずいぶんとまどった。なぜ、「背後から」と書きはじめるのか、わからなかった。次の行の「小屋の屋根越しに」もわからなかった。実際に「目」に見えるのは「窓の前」の「葉裏の先」。
 しかし、「目」は見たものを「記憶」している。そのことが先に引用した三篇目の詩でわかった。樹の位置を記憶している。樹の枝の形を記憶している。その「記憶」を抱え込んで、いま「背後」ではなく、「窓の前」の「葉裏の先」を見ている。「記憶」が「いま/目の前」にある存在をととのえている。そして、ととのえながら、焦点をしぼりこんでいる。
 「目の記憶」の強さが、目の前の存在を明確にする。「目の前の存在」を「ことば」にする。
 「葉裏」ということばは、単に「葉の裏側」を意味するわけではない。樹の幹の側から、言い直すと樹の内部(中心)から葉を見つめることである。安藤はいま「小屋」の「内部」にいる。「内部」をつくりだすのは「記憶」である。外部を見る、内部を見る、という複合的な記憶が、内部を「内部」にする。その「内部」から外の風景を見ている。そのとき「小屋の内部」は「樹の内部(樹の中心)」と重なっている。
 安藤の「目」は対象を外から眺めるだけではなく、対象の内部からも眺める。対象の内部というのは、突然、その内部に入り込めるわけではない。対象も世界も「立体化」して把握し、そこに見えない「内部」というものをつくり出す動きがあって、はじめて内部に入り込める。そういう動きの中にも「目」は働いている。
 安藤にとって「目」は世界を立体化し、内部をつくりだし、「見えない内部」を見えるようにする力である。

私を誘おうと見えかくれする
高みから垂れた糸の先の
毛針のように                           (8ページ)

 ここに書かれている「私」は「小屋の内部にいる私」であると同時に、「私の内部の私」でもある。樹を見ている「肉体(外形)」の「私」というよりも、樹を見ているときの「私の内部で動いている私」である。
 「見えかくれする」という表現は、安藤の「目」を「誘う」のにふさわしい。「隠れる」は別なことばで言えば「見えない」。見えるのは「外部」、見えないのは「内部」。したがって、「葉裏の先」は、「私の内部の私」を「誘う」ために、わざと「樹の内部」に隠れる。つまり、「樹の内部に誘う」。
 このとき、「高みから垂れた糸の先の/毛針のように」という比喩がつかわれているが、重要なのは「高み」ということばだろう。「高み」が「樹」の高さを印象づけ、さらには「樹」を超える「高さ」を誘う。つまり「天」を象徴する。
 「樹」を描きながら、このとき安藤は「樹と私」という関係を超える。

身じろぎせずにその誘惑に身をまかせて
葉の一枚一枚が別々に揺れるのを眺めていると
時は止まり
あとはまぼろしのように遠い景色ばかり               (9ページ)

 安藤の「目」は、

時は止まり

 と「時」さえ「止めて」見てしまう。「目」に見えないものに到達してしまう。「永遠(過ぎ去らない時、充実した時)」に到達してしまう。それは「目」で見たものとして再現できないから「まぼろし」と呼ばれる。
 「葉の一枚一枚が別々に揺れる」というのは強靱な「目」がとらえた樹の姿だが、その「目」があってこそ、「時」も見える。そして、「時」を止めさせる。
 「時が止まる」とどうなるか。
 最初の引用した詩にもどる。

樹があって 私がいて
その二つが実は同じことで 

 区別がなくなる。樹と私の区別は消え、「ひとつ(同じ)」になる。樹と私という「二つ」が「実は同じ(ひとつ)」というのは矛盾(非論理)だが、それは「時が止まる」という不可能のなかで起きる。
 そして、その「同じ(ひとつ)」は「外形(外部)」のことではなく、「内部」のことなのだ。「時」も「内部」で「止まる」のだ。
 「目に見えるてのひらや爪」は「外部」である。しかし、その「外部」は「肉体の内部」と連続しており、「内部」なしには存在しえないものである。樹の「葉が揺れる」のは樹の「外部」の姿である。しかし、その「葉(外部)」は樹の内部と連続しており、「外部」だけで存在しているわけではない。
 あらゆる存在には「外部(外形)」と「内部」があり、それは連続している。安藤の「目」はその「連続」を見ることができる強靱な「目」である。「外部」と「内部」の連続を見る「目」には、

葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じ

 に見える。そして樹が内部で感じていること(思っていること)を、安藤もまた「内部」で感じている。思っている。それが樹と「同じ」になること。「ひとつ」になること。この「同じ(ひとつ)」は、樹と安藤のあいだでは、「無意識」にまでなっている。「肉体」になっている。
 そのことが、詩の後半に書かれている。

私の背中は部厚い樹皮
葉や枝を眺めながら幹を一向に目にしないのも
自分の背中を見ることはできないからだ
ときとして こそばゆく
また うずたかく
相も変わらず樹はそこにあり
相も変わらず私を誘って葉先を揺らす
私が気づいているといないとにかかわりなく             (13ページ)

 気づかなくても、安藤にはそれが「わかっている」。もう「無意識」となって肉体にしみついている。だから、書くことができる。確かめる必要もない。
 こうした「交感」がゆるぎのないことばで、「内部」のできごととして書かれているのが、この詩集である。


樹下
安藤元雄
書肆山田
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冨岡郁子「しゃれこうべ」、夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」

2015-09-07 10:21:34 | 長田弘「最後の詩集」
冨岡郁子「しゃれこうべ」、夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」(「乾河」74、2015年10月01日発行)

 きのうは書きすぎた。詩を壊してしまった。きょうはなるべく少なく書いてみよう。
 冨岡郁子「しゃれこうべ」。

しゃれこうべが二つ
白い地面に
離れすぎず近からず
微妙な空間を置いて
転がっている

どこかに光があるのだろう
地面はまばゆく白く輝き
二つはそれぞれ
影をうすく作って
カラン
コロン と呼応している

それが
コロンが
まるで
カランの方へ
すり寄るように
頭を少しかしげて

 最終連がとてもおもしろい。コロンは女の頭蓋骨? カランは男の頭蓋骨? と読むのは、私が男だからだろうか。女は、すり寄る方が男の頭蓋骨と思うだろうか。冨岡は、どう読んだのだろう。
 一連目の四行目の「空間」が、また、とてもおもしろい。「離れすぎず近からず」というのは「距離」のこと。だから、微妙な「距離」を置いて、でも「意味」は同じ。
 でも、「空間」の方がはるかにおもしろい。「距離」は二つの頭蓋骨のあいだだけを指し示すのに対し、「空間」はそのまわりも含んでしまう。「線」であらわすことのできる「距離」ではなく、「面」としての「空間」。あ、「空間」は「立体」なのだけれど……。
 「まわり」というものがあるから、最後の「すり寄る」というのも効果的なのかもしれない。単に二つの頭蓋骨の問題ではなく、なんとなく「まわり」の人間(ふたりをとりまく人間関係)のようなものが、見える。ふたりを見ている視線になって、その「空間」のなかに入り込んでしまう。



 夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」。その書き出し。

「木漏れ日」と言う言葉は美しい
そこから想起される情景も美しい
けれど、初夏の午後
道幅いっぱいの木漏れ日の中に実際に立った時
それは何倍も美しかった
両腕を広げ、同化する
その幸せな時間につける名はない

 このあと「言葉と現実に差はある」という具合にして、夏目の「思い」が語られるのだけれど、その思っていることよりも、思いはじめの、ことばを探している感じの部分が自然でとてもいい。「美しい」ということばが三回も出てくるのは、すこし安易かもしれないが、その「安易」がいい。気楽に考えはじめている。気楽にことばを動かしはじめている。かまえていない、自然がそこにある。
 特に、

両腕を広げ、

 これがいい。ことばを探す前に「肉体」が「木漏れ日」に反応している。ことばでとらえるよりも「何倍も美しい」。それは「肉体」でつかむしかない。
 もちろん両腕を広げたからといって、木漏れ日の美しさをつかまえることができるわけではない。「同化する」と夏目は書くが、「同化」できるわけでもないかもしれない。それでも「両腕を広げ」るのである。自分を広げるのである。
 ここに「ことば」にならない「ことば」がある。
 冨岡の書いている「すり寄る」に通じるものがある。
 「肉体」の領域をはみだすものがある。
 「両腕を広げ」ても、人間は「肉体」より大きくなれない。頭蓋骨は自分自身では「すり寄る」ことはできない。その不可能が、ことばによって、すばやく乗り越えられる。この瞬間が、詩なのだ。

H(アッシュ)―冨岡郁子詩集
冨岡 郁子
草原詩社
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クリスティアン・ペッツォルト監督「あの日のように抱きしめて」(★)

2015-09-07 09:24:15 | 映画
監督 クリスティアン・ペッツォルト 出演 ニーナ・ホス、ロナルト・ツェアフェルト、ニーナ・クンツェンドルフ

 人が人を認識するとき(識別するとき)、何を手がかりにしているのだろう。この映画では「顔」がひとつのテーマになっているが、どうもよくわからない。
 アウシュビッツで顔を大怪我した女(ユダヤ人)が、顔を手術する。そのあと、夫を探す。そして夫と出会う。夫は女が妻とは気がつかない。しかし、似ている。その似ていることを利用して、妻の財産を狙う。女の一族は資産家であり、その財産を「夫」であることを理由に手に入れようとする。女に妻を演じてくれ、と頼む。
 なかなかおもしろいストーリーなのだけれど。
 夫が女が妻であることに気がつかない、最後に「スピーク・ロウ」を歌うまで気がつかないという設定が、どうも腑に落ちない。顔はたしかに整形して変わっているが、人が誰であるかを識別するときの判断材料は「顔」だけ?
 途中に「歩き方が妻とは違う」というようなことを言うシーンがあるが、それを言うなら最初にであったとき、歩き方で妻と感じてもいいはずだ。女の方は妻であることを気づかせようとしているのだから。体型に識別の手助けになるだろうし、目の表情、声の具合、話し方でもわかっていいはずだ。筆跡を「真似る」シーンもあるが、そのときに気がついてもいいはずだ。赤の他人が、ちょっと見ただけの筆跡を正確に真似ることなどできない。口頭で文章を読み上げ、書かせて筆跡を比較する。その筆跡が「同じ」になるなんて、同一人物でないとできないだろう。そこだ彼女が妻だと気づかないのは、どうみてもおかしい。気づかないにしろ、妻かもしれないと思わないということは、あまりにも不自然。
 こんなことは、映画だから、どうでもいいのかな? ストーリーさえ緊迫感をもって動けばいいということかな?
 でもねえ、そうすると、ベルリンに帰り着いたときの駅のホーム。そこで出迎える親族が、女が「ほんもの」であるとすぐに気づくのはなぜ? 化粧で「顔」がまとも(?)になっているから? 声も聞かず、歩き方もそんなにじっくり見るわけでもない。ホームに立っているだけで、女とわかる。女が帰ってくる、という「情報」が、女を探し出す力になっている? たしかに、そこに「知った人がいる」と知っていれば、記憶を総動員して似た人間を探し出すということはある。しかし、親族の全員が、だれひとりとして「この女は偽物かもしれない」と思わない。「ほんもの」と信じ込むというのは、ちょっと不思議。
 映画は、最終的には、女が男の「裏切り」に気がつく、財産目当てであって、愛されて結婚したのではない、ということを悟るという形で終わるのだが、この映画を、逆に見てみたらどうなるだろうか。
 男は女が妻であると気がついた。気がついたけれど気がつかないふりをして、財産を手に入れるという「芝居」を演じる。ほんとうに愛しているなら、男のために芝居を演じつづけてくれるのではないか。男がしたこと、妻がユダヤ人であると密告し、自分だけナチスの迫害を逃れた、ということを許してくれるのではないか。女は自分を許してくれる、もういちど愛してくれるということを確認したかったのではないのか。試されているのは男ではなく、女の方ではないのか。
 まあ、そんなことはないのだろうけれど、そんなふうに見たみたいと思わせるのは、この男がなかなかいい男だからである。「金目あて」という野卑な感じがない。下品な印象がない。つまり、ストーリーにそぐわない顔をしているのである。キャスティング・ミスかもしれないなあ。(アラン・ドロンのような、野卑な美貌だと、この映画はぐっとおもしろくなる、真実味が出てくるのだが……。)
 この映画を分かりにくくしているのは、もうひとつ、最初に女を助ける別の女の存在。彼女はナチスの追及はもちろん、ナチスへの協力者をも断罪しようとしている。そのために働いている。主人公の夫が「裏切り者(ナチスの協力者)」であると認識している。けれども主人公が夫を「裏切り者」として追及するのを拒んでいることを知り、絶望して自殺してしまう。これが、どうも私には唐突に感じられる。彼女は主人公を助けたいというよりも、「ナチスの協力者」を探し出し、追及したいがために主人公を「利用」しているとも受け止めることができる。ほんとうに「ナチスの協力者」を追及したいのだったら、主人公を説得し、夫の正体を暴けばいいのに、そうしない。これは、なぜ? 追及を諦め、自殺してしまうのは、なぜ? 彼女もまた主人公の「財産」が目当てだったのだろうか。イスラエル建国の資金にしたかったのか。
 主人公は女が主人公の財産目当てであることを知ったので(二人は何度も財産の話をしている)、彼女よりも夫の方を選んだのか。そんなことさえ思わせてしまう。
 最後の親族の会合も、妙に空々しい。家族を亡くした男は主人公に冷たい。「おまえだけ生き残って」という反発だろうか。もしかすると、全員が「彼女がいなければ、その財産を相続できるのに」と思っているのかもしれない。だれもかれもが主人公の財産を狙っている、ということに主人公は気づいたのか。だから、全員を集めて、そこで「スピーク・ロウ」を歌ったのか。主人公が求めているのに愛なのだ、と全員に告げて、その場を去るのか。
 よくわからない。
 男は、主人公が「世界」の「真相」を知るための、途中経過だったのか。「よかった。問題が解決した」という爽快感のない、暗い映画だった。映画に「ハッピーエンド」を期待しているわけではないが、いやな映画だなあ。
                     (KBCシネマ1、2015年09月06日)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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斎藤健一「郊外」

2015-09-06 14:56:28 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「郊外」(「乾河」74、2015年10月01日発行)


 斎藤健一の詩に触れるたびに、そのとき私が感じたことをどう書けばいいのか、とまどってしまう。書いてあることが、わかる。けれど、わからない。その「わかる」と「わからない」をつないでいるもの、切断しているものをどう書いていいのかとまどう。
 「郊外」という作品。

桃色に染まる花火。靴下よりはるかにつめたい硝子。写
真師は黒い布の中。眼鏡と同時に上顎をとじる。無色の
光は楕円形である。コンクリートの床は細長く。四角い
額縁や置時計や。ザラ紙に午前十時と書いてある。セロ
ファンと包まれた桔梗。理髪店の鏡に似せてひろいのだ。

 わからない(知らない)ことばは何一つない。ひとつひとつの文(句点「。」で区切られたことば)は、それぞれ完結している。わかる。けれど、そこで「断絶」し、そのあと次の文へ動くとき、そこにあるのが「接続」なのか、さらなる「断絶」なのか、あるいは「飛躍」なのか、よくわからない。
 別なことばで言うと「ストーリー」にならない。「時間」の流れにならない。ことばを「肉体」で追いかけるとき、そこに自然に「肉体」の運動が生まれ、それが「ストーリー(意味)」になるのだが、斎藤のことばは、そういうことを拒んでいる(ように見える。)
 そして、不思議なことに、その「拒絶」を私はいいなあ、と感じるのだ。そこにひとりの人間がいるという感じが伝わってきて、妙に寂しさと安心を覚える。
 他者に頼らない。ただ斎藤とことばとの関係があるだけだ。その関係を他人(私)がどう読もうが関係ない、という潔さのようなものがある。潔癖を感じる。
 こんなことは、いくら書いても「批評」にはならないし、「感想」でもないのだが。

 具体的に感じたことを書いてみる。

桃色に染まる花火。

 これは花火の描写。いろいろな色があるが斎藤は「桃色」に目を止めた。私は色よりも「染まる」という「動詞」がおもしろいと思った。花火について、その色について、「染まる」とは、私は、言わない。書いてあることはわかるが、そこに、私と斎藤との「ずれ」のようなものがある。「ずれ」はそのまま斎藤という人間がそこにいる、私とは違った人間がいるということを教えてくれる。
 「染まる」というのは「変化」。斎藤は花火の色の中に「変化」を見ているのだな、と思う。

靴下よりはるかにつめたい硝子。

 硝子越しに花火を見ているのだろうか。「染まる」のは「花火」ではなく窓ガラスかもしれない。そして花火を見ている斎藤の顔(目)かもしれない。花火の変化ではなく、斎藤の「肉体」の変化が、書き出しの文に、遅れて反映しているのかもしれない。「靴下よりもつめたい」というのは不思議な表現である。斎藤の「肉体」の冷えが、「つめたい」ということばとぶつかっている。あたたかさのための靴下が肌に触れた瞬間につめたい(靴下があたたかいのは、はいた人間の体温をためこむから。最初からあたたかいわけではない)と感じる、その肉体感覚が、肉体がそこにあるということを強調する。
 その衝突の中に「硝子」がやってくる。
 このあとは、「硝子」越しの世界がつづく。「硝子」は「レンズ」と通じる。

写真師は黒い布の中。眼鏡と同時に上顎をとじる。

 硝子窓越しに、区切られたフレームのなかで花火を見ているのは、写真師が写真を撮るときの様子に似ているかもしれない。斎藤は「写真師」という人間を出すことで、彼に自分の「肉体」を重ねている。自分を「比喩」にし、対象化している。
 硝子のこちら側(部屋のなかは)暗い。それは古い写真機をかまえる写真師に似ている。「シャッターを切る」は「眼鏡」を「とじる」と言い直されるが、同時に「上顎をとじる」とも言い直される。「上瞼」ではなく「上顎」。なぜだろう。私はつまずくが、つまずきながら「肉体」が「目」から「顔」全体へと広がった、押し広げられた感じを覚える。

無色の光は楕円形である。

 これはシャッターを切った瞬間に、写真機の内部で起きる「光の切断」(光の分離)のようなことを書いているのだろうか。「楕円形」。焦点がふたつある。
 世界が、ふたつにわかれていく。
 「花火」を見ていたとき、そこには斎藤の「肉体」と、斎藤の「外部(の世界)」があった。「花火」を見ているということを意識するとき(写真師になって、外部を把握するとき)、その「外部」に向き合うようにして、斎藤の「肉体」の「内部」に、花火とは別の「外部」が生まれる。それは「外部」であると同時に、斎藤の「内部(記憶)」と交錯する。

コンクリートの床は細長く。

 どこの場所だろう。不明だが、その不明よりも「細長く」と中途半端に終わっている、そのことばの形が気になる。一瞬長いコンクリートの床(廊下?)が目に浮かぶが、それは「廊下」という知っていることばになる寸前に中断され、

四角い額縁や置時計や。

 と別なものに焦点があてられる。「花火」の光っては消える光のせいで、照らされているものが違うということか。それは「現実」の斎藤のいる場所の風景のようにも見えるが、私は斎藤の「記憶の風景」(斎藤の肉体が覚えている風景)のように感じてしまう。
 光っては消える花火のように、斎藤の記憶が光っては消える。「細長く。」につづいて「や。」と、また中途半端な形でことばが終わる。
 何が起きているのだろう。
 「上顎をとじる」ということばに対して、「記憶がひらく」という感じで「ひらく」という「動詞」を補って読みたい。

無色の光は楕円形「にひらく・の」である。コンクリートの床は細長く「ひらく」。四角い額縁や置時計や「他のものも、かたちとしてひらく」。

 「ひらく」は存在がその形に姿をあらわす、存在をひらいてみせる、ということ。それが、花(花火)がひらいて見えるように、見えるということ。

ザラ紙に午前十時と書いてある。セロファンと包まれた桔梗。

 これも、斎藤の「肉体」が覚えている記憶、記憶がいま花のようにひらいて、そこに存在している。ことばの「脈絡」は、そこに書かれていない「ひらく」という動詞の動きにある。最初の

桃色に染まる花火

 の「染まる」も「ひらく」と読み直すことができるかもしれない。「桃色にひらく花火。」
 そして、そうであるなら、記憶が「ひらく」ということは、記憶に斎藤の「肉体」が「染まる」ということと同じである。「染まる」ことで、「過去(記憶)」そのものになる。「過去(記憶)」が、そして「いま」になる。「いま」「過去」の区別がなくなり、ここに存在する。
 とじられていた記憶が(存在が)、次々に「ひらく」。「いま」が「過去」に「染まる」。そこに存在から存在への「切断」と「接続」がある。そして、その切断/接続、過去/いまの、交錯が「世界」であり、その世界は……

理髪店の鏡に似せてひろいのだ。

 「ひろい」のである。

 「ひらく」は「ひろい」という「用言」のなかに隠れて、詩はとじられる。
 最初、斎藤は硝子窓から、外の花火を見ていた。その窓硝子が、いま、「鏡」にかわっている。鏡に映るのは斎藤と、その背後。斎藤と、過去というふうに読み直すと、

コンクリートの床は細長く。四角い額縁や置時計や。ザラ紙に午前十時と書いてある。セロファンと包まれた桔梗。理髪店の鏡

 そういう「断片」が「過去の記憶の断片」として、もういちどよみがえってくる。「過去」が「いま」となって、動きはじめる。「過去」を思い出している斎藤の肉体が静かに感じられる。その肉体はどこかへ動いていくというのではなく、「いま/ここ」にあって、「ひらく」「染まる」という動きを生きている。世界を「ひらく」「染まる」という動詞のなかで確認している肉体の孤独を感じる。

 私の読み方は「誤読」以外の何ものでもないだろう。
 こういう「誤読」を斎藤のことばは許してくれるが、同時に、きっぱりと拒んでもいる。私の「誤読」に染まらずに、斎藤のことばは、そこに最初から同じ姿で、ただ存在している。
 その強靱さに、私はいつもひかれてしまう。
 この強靱さは、私が何を言おうとゆるがない。だから、私は、何回でも「誤読」を繰り返す。そのことばを楽しむ。

*

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