詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中郁子『田中郁子詩集』(現代詩文庫219 )

2015-11-17 10:24:04 | 詩集
田中郁子『田中郁子詩集』(現代詩文庫219 )(思潮社、2015年10月31日発行)

 田中郁子の詩を知ったのは最近のことである。私は不勉強なので田中がいつから詩を書いているか、過去にどんな詩を書いてきたか知らない。「現代詩文庫」に収録されている作品のほとんどは初めて読む作品である。
 「降りる」は子供たちにつぶされた母蟹のからだのそばから子蟹が逃げる描写からはじまっている。

甲羅を つぶされた蟹は
子供たちの 揶揄の真ん中に
たわいなく 壊された形の 無惨さ
の 脇腹から 子蟹が逃げまどう
親蟹であることの 無惨さ
と いうものから
全身を 土の上に置いたまま
きれい さっぱりと
降りてしまうのだ
葬りのいらないまでに 陽に灼かれて

 子供たちを非難していない。そのことに、まず、田中の「強さ」を感じる。「親(母)」であることが子どものすべてを受けいれるのだろうか。子供は野蛮で残酷である。そこを通りぬけて子供は大人というよりも「人間」に生まれ変わるということを知っている。同時に、母親は子どもの犠牲になるのことを「犠牲になる」とは思っていない、ということも知っている。「母親」の蟹に共感してしまう。自分は死ぬ。しかし、そのいのちは子どもの肉体のなかで生きていくということを知っていて、「きれい さっぱり」自分のいのちに見切りをつける。「未練」がない。
 これは、ある意味では「非情」である。
 「人間の感情」など配慮しない。人間が、子どもに踏みつけられる蟹、その蟹のそばから逃げていく子蟹を見て何と思うか、そんなことを親蟹は気にしていない。私は母親のいのちは子どもの肉体のなかで生きていく、と書いたが、そんなことも親蟹は思っていないだろう。私がどう思うかなど、蟹は考えないはずだ。その考えないこと、人間を拒絶するところが「非情」であり、それが「きれい さっぱり」としていて美しい。
 この「非情」を見たあと、詩は二連目で別な「生きもの」を描いている。

その人の 全身の形というものがあって
それは皮膚でおおわれているのだが
その下に 熱というものがあって
その人の 熱というものが
その人を 降りた
残りの形 というものが
喧騒な 夜のリズムに打たれ
カウンターの上に うつぶせになり
つぶされた蟹の形をしている

 酒場のカウンターで飲みつぶれている人を見て、以前に見た蟹の姿を思い出しているのか。その酒につぶされた人の形が、子どもに踏みつぶされた蟹の形に似ているのか。そうだとして、では、その人の「肉体」から何が「降りた」のだろう。
 母蟹のように、「いきる」ことから「降りた」のか。
 母蟹は死ぬ。けれど、その人は死ぬわけではないから「いきる」ことから「降りた」わけではないだろうが……。
 「降りた」ものを田中は「熱」と書いているのだが、その「熱」とは何か。これも、言い直すのはむずかしい。
 それよりも。
 そこに書かれていることよりも、私は二連目の「その人の」という書き出しから「その人を 降りた」までの、ことばのリズム、動かし方に、激しく揺さぶられた。
 「その人の」「それは」「その下に」「その人の」「その人を」。「その(それ)」という指示詞が行頭にある。常に何かを指示しつづけている。意識しつづけている。離れない。前に書いたことをひきずりながら、いや、それを手放さないようにしながら、ことばが動いていく。手放さないから、何か、ことば(論理)が歪んでいくというか、ねじれていく感じがする。そして、そのことばがたどりついた「結論」ではなく、ねじれながら進んだということが、不思議な印象として残る。
 「結論」が正しいかどうか、わからない。けれど、ことばはそうやって動くのだ、動きながらひとつの形を保つのだということが印象に残る。
 それは一連目にもどって言うと、親蟹が死んでしまうということが「正しい」かどうかわからない、ということ。「正しい」かどうかわからないが、親蟹がしたこと、子どもを逃がし、子どもが逃げるあいだに自分が死ぬということが、答えを拒絶するような形で「生きている」と感じてしまうのに似ている。
 人間(私や田中)が、母蟹の死についてどんな「正しい答え」を出すか、そんなことを蟹は気にしない。配慮しない。「正しい答え」というものを拒絶している。その人間の感情(正しい答えを求める思い)を拒絶するところに、蟹の「非情さ」、絶対的な美しさがある。
 それに通い合う「かなしさ」を田中はカウンターでつぶれている人に見たのかもしれない。「かなしさ」を「熱」と呼んでいるのかもしれない。
 何か、はっきりとはわからないが、そのはっきりとはわからないものが、このことばのなかにある--そういう印象が残る詩である。

 詩集の二篇目は「視界」。雨のなかを車で走る詩である。

ごうごうと鳴る風が 身をよじり
山肌を降りる
ざわめく樹々の先端から
一枚の葉が
濡れた路上に吸い込まれていく
逃亡者が 嵐の中をつっ走る
車の中に わたしは乗りあわせたのか
わたしの中で
逃げよう とするものがある
逃げても逃げても 逃げることのできない
血の濃さをもった声が
らちもない ひとことではあるが
ヘッドライトのとどくあたりに
けだものの屍体の形をして 浮いてくる

 「わたしの中で」という一行に、私ははっとした。
 あ、田中は「わたしの中」を書いているのだ。「降りる」の二連目に「皮膚でおおわれている」ということばがあるが、それは、皮膚でおおわれている「わたしの中で」という意味なのだ。二連目は「その人」について書いているわけだから、「わたしの中で」ではなく「その人の中で」というのが「文法的」には正しいのだろうけれど、詩は文法ではないからね。私は、どうしても「わたし(田中)の中で」と読んでしまう。そして、そう読むとき「その人」と田中が「一体」になっていると感じる。
 これは子どもにつぶされ、はやされて死んでいく母蟹の姿に通じるものを、田中が「わたし(田中)の中に」感じているのと同じである。

 田中はいつも「わたしの中」を書いているのだ。何を書いても、それは「わたしの中」の出来事なのだ。「わたしの中」を流れている「血の濃さをもった声」を書いているのだ。「わたしの中」の「血」であるから、それは「わたし」だけのものではない。「わたし」につながる「いのち」の「血」である。そして、それは単に「肉親/親族」の「血」ではなく、生きている植物、動物の「血」も含んでいる。そういうものを含みながら「自然」そのものになっていく。
 「世界」ではなく「自然」。
 「自然」は人間に対して「非情」である。「非情」であるけれど、「非情」ゆえに「美しい」。それを感じさせることばは、初期の作品『桑の実の記憶』からはじまっているのだと思った。

田中郁子詩集 (現代詩文庫)
田中郁子
思潮社
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田島安江「雨がひっきりなしに」ほか

2015-11-16 10:19:59 | 現代詩講座
田島安江「雨がひっきりなしに」ほか(現代詩講座@リードカフェ、2015年11月11日)

雨がひっきりなしに                田島安江

駅前の小さな電話ボックス
少女の私が
十円玉を握りしめて電話の声を聞いています

人形が座っているのでした
声にならない声でひそかに話していました
夜半には人形たちが話しているのを
じっと聞いているのでした

電話ボックスのガラスを伝って
雨がひっきりなしに降っています

動物園から抜けだしたキリンと
日本橋の橋の上にいる麒麟が話をしています
どちらも飛べないのに
飛べないからこそ
キリンたちの眼に青い光が灯っています

夢などもうみなくていい
そう思うと
電話ボックスはみつかりません
飛べないカラスのように
出口のないマンホールのように
じっとそこにはいないから

蜜蜂が転落して死にました
小さな教会のかたすみで

時計のネジをまくと
耳の奥で音がふるえるのです
空を縫いこむように
谷を越え
深々と深緑をうめつくし
地中深く眠っていた声が
キリンのからだを通って
漏れでてくるのでした

電話ボックスのガラスを伝って
雨がひっきりなしに降っていました

 受講者の感想を聞いてみた。
 「こういう詩を書きたい。詩のなかにキリンが自由に入ってきて、いいなあ。」「電話の詩はいろいろ想像させる。昔の話を思い起こさせる。恋愛がいるのか、いないのか、とか。」「蜜蜂の二行がつかい方がいい。蜜蜂が次の連で、空を縫いとめるようにとつながっていく。」「蜜蜂の二行は過去を思い出しているのかな? 蜜蜂チが転落して死ぬということはないと思うなあ。」「雨がさびしい、せつないという感じにつながっていく。」「電話ボックスが現在と過去の通路になっている。キーワードだと思う。」「聞いています。話していました。降っています。死にました、と現在形と過去形がまじっている。そこがおもしろい。」
 ということろまで進んで、「現在形」と「過去形」について少し考えてみた。
 日本語の文章は「現在形/過去形」があいまい。「過去」のことを「現在」として書くことがよくある。
 文学だけにかぎらず、新聞でも、たとえば「田中首相を逮捕」という見出し。これは「田中首相を逮捕した」という文章の「した」を省略した形。新聞は出来事(過去)を知らせるものだから、そこに書かれていることは「過去」が前提。だから「逮捕した」と書かずに文字を省略して「逮捕」と名詞の形で終わる。しかし、「意味」としては「逮捕した」。動詞派生形の名詞は、新聞ではそういうふうにつかわれている。
 しかし、それだけではない。
 「逮捕した」よりも「逮捕」と名詞にした方がなまなましい。「逮捕」は「逮捕した」という意味なのだけれど「した」ということばがないと、「逮捕する/逮捕している」という「現在」の状況としても目の前に様子が浮かんでくる。その場に立ち合ったような、臨場感がある。
 「過去形」と比べると「現在形」は臨場感、感情の動きを感じさせる。
 だから、山登りのシーンなどでは、「険しい坂を上った。息が切れた。頂上に着いた。風だ。海が見える。」と書いたりする。過去形で書いていて、そこに突然、現在形をまじえる。そうすると、感情が激しく動いていると感じる。時制的には「海が見えた」なのだが「見える」と書くと、いっしょに見ている感じになる。
 「現在形」の効用である。

 この詩では、「過去形」「現在形」は、どうつかわれているか。
 一連目「聞いています」。しかし、この「聞いています」の「主語」は「少女の私」。主語を中心に考えると、「少女の私」は「過去の私」なのだから述語(動詞)も「聞いていました」と過去形になるのがふつうだが、田島は「聞いています」と現在形で書く。これは、田島が「少女の私」を「過去」としてではなく、いま、彼女といっしょに生きている存在(現在形)で感じているということをあらわしている。
 ところが二連目では「座っているのでした」「話していました」「聞いているのでした」と過去形があらわれる。それぞれの述語(動詞)の主語は何か。「人形」とは何か。おそらく、「人形」は「少女の私」の「比喩」である。この「比喩」は思い入れであると同時に客観化でもある。「少女の私」を「人形」ととらえ、あのとき(過去)を客観的に見つめなおそうとしている。「少女」になったり「人形」になったりしながら、対話している。自分を客観的にみつめようとしている。あるいは、自分の感情を整理しようとしている。そんなふうに思い出している。
 そこでも感情は動いているのだが、それを客観的に(感情的にならずに)みつめるという意識が「過去形」のことばを選択させている。
 三連目に再び現在形がでてきて、そのあと四連目。不思議なことが書かれている。キリンが出てくる。キリン/麒麟と二種類の表記が出てくるのだが。
 ここが、おもしろい。
 このキリン。キリンは現実の動物のキリン。しかし、そのキリンは日本橋の近くにいるわけではない。一方、麒麟の方は日本橋のモニュメントであり、実際にそこにいる。ただし麒麟は現実の動物ではなく、架空の動物。
 つまり、現実と架空が入り交じって、それが「世界」として書かれている。存在しないはずのキリンと存在している麒麟(のモニュメント/ただし架空の生きもの)が、「飛べない」という「動詞」のなかで結びついている。動物のキリンはもちろん飛べない。架空の麒麟は物語のなかでは飛べるはずだが、現実にはモニュメントなので飛べない。そういう交錯がある。
 この交錯は、きっと、「少女の私/人形」の関係と同じなのだ。だからこそ、二連目の「話していました」は四連目で「話しています」と言い直される。思い出が、いま、なまなましく現在形としてよみがえっている。このとき、「少女の私/人形」のどちらがキリンでどちらが麒麟か。それは関係がない。入れ替わり可能な交錯した関係が、「少女の私/人形」の「生き方」だったのだ。キリン/麒麟が話しあう。そのとき「眼に青い光が灯っています」とあるのは、「少女の私/人形」の対話でも、ふたりの目は光っていたということだろう。実際にことばが行き来するわけて派内。心が通い合っている。その証拠とてして「眼が光る」。
 一-四連が、一種の「意識」の世界だとすれば、五連目は「いま/現実」だろう。「夢などもうみなくていい」は「人形/麒麟」に頼らなくて生きている「いま/現在」の田島の姿だろう。
 六連目の、突然の蜜蜂と死。これは何か。
 田島は、「なんとなく、突然、そこで蜜蜂が書きたくなった」と説明したが、蜜蜂というよりも、きっと「死」を書きたかったのだろう。「人形の死/麒麟の死/感傷の死」。ひとつの断絶の象徴としての死。感傷というものはけっして死なないものだが、いったん、それを振り切ろうとしている。強い意識ではなく、むしろぼんやりした感じだとは思うが……。
 そのあとに書かれているのは、まあ、現実の「ぼんやりした」感じ。「いま」、生きている田島の向き合っている世界ということになる。前半ほどイメージがしっかり結晶した感じはしないが、その明確に形にならないということが「いま」だからである。しかし、明確にならない(なっていない)からといって、そこに「過去」が反映していないわけではない。「過去」との「連続」は、たとえば「耳の奥で音がふるえるのです」と「十円玉を握りしめて電話の声を聞いています」と呼応して浮かび上がってくる。さらに「耳の奥の音」は「地中深く眠っていた声」とも呼応する。「空を縫い込む」には受講生が指摘したように「蜜蜂」が呼応している。また、それは「キリン/麒麟」の対話(話をしています)をとおって聞こえても来る。
 この生々しさを、田島は「漏れてくるのでした」と客観化しようとする。突き放して、冷静になろうとする。さらに最終連で、「降っていました」と過去形で世界をとじ、ひとつの「枠」のなかにことばを収めてしまう。

 詩に何が書いてあるか、は重要なことがらである。しかし、それ以上に、どんなふうに書いてあるか、そのことばといっしょに作者はどう動いているか。その動きの方が私にはおもしろく感じられる。
 「過去形/現在形」のなかで動いている田島のあり方が感じられる詩である。



 降戸輝「少年走者」は公園を走る少年を描いた詩だが、

薄暮の日差しに
温もった風が逆走する
すれ違う日傘の女の首筋で
香水は汗と一緒に焚かれ
水滴が気化していく

 その「逆走する」がおもしろかった。女は立ち止まっている。けれどそばを走り抜ける少年には自分とは反対の方向から走ってきて、さらに反対の方向へ走っていくように感じられる。走っている少年だから感じることができる「逆走」である。「逆走」すれば、距離は立ち止まっているときよりもいっそう遠くなる。その遠くなる女を、少年は走りながら夢想している。

 山田由紀乃「あてもなく」は

考えはあてもなくぶつぶつぶつぶつ
ざくろの赤い実のように
点滅を繰り返し唾液となってのどを通る

 「ざくろ」と「のど」、さらに「通る」という動詞が肉体に刺戟的である。

詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房

*

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森田真生『数学する身体』

2015-11-15 20:48:05 | その他(音楽、小説etc)
森田真生『数学する身体』(思潮社、2015年10月15日発行)

 私は「数学」は小学生レベルのことしかできない。「算数」がせいぜいのところなので、森田真生『数学する身体』をは理解できたとは言えないのだが、とてもおもしろかった。
 最初に印象に残るのが『数学する身体』というタイトル。「数学する身体」とは何だろう。読むと、「身体」といっても外形のことでも、その組織構造のことでもない。「身体」の動き、動かし方についてを書いている。数学(算数)の初期に、指を折って数を数えるとか、鉛筆で数字を書いて計算するということから書きはじめられている。「身体」とは、ようするに「身体の運動」のことである。「身体」をどう動かして「数」を理解し、さらに「数学(算数)」として動かし、世界を理解する、ということが書かれている。「数学するとき、身体(脳を含む)はどう動いているか、それを身体に重点を置いて見つめなおす」というのがこの本の狙いだと思った。「脳/思考」という直接見えないものを「身体」の領域にまで取り戻し、考え直している本だと思った。
 「運動する身体」を私は自分なりに「誤読」して「肉体」と読み替えてみた。「動詞」とともにある「肉体」と考えてみた。「肉体」は「数学する」ときも動くだろうが、ほかのことをするときも動く。その動き(動詞)と結びついたものを「肉体」と読み直すことで、「数学する(という)運動」を、人間全体の「何かをする肉体」と思い、この本を読んだ。そうすると、この本は「哲学する身体(肉体)」という内容に変わる。「数学」を通って、「哲学(思考すること)」全体に通じる「身体(肉体)」の「運動」のことを書いてある本として読むことができる。
 人間の思考(哲学)と身体(肉体)は、どんな関係にあるか。「身体(肉体)」はどんなふうに動いて「思考(哲学)」になるのか。本の帯に、「論考はチューリング、岡潔のふたりにたどりつき、生成していく」と書いてある。森田の書いているところに従えば、チューリングと岡潔は正反対の方向に向かっている。
 そこに書かれている「思考するという運動」と「肉体」のことを、私風に読みおなせば……。
 チューリングは「脳(数学するという運動/動詞)」を「肉体」の外に具体化した。「肉体」を自分の「肉体」の外にまで拡張した。チューニングのつくり出した「コンピュータ」は彼にとっては「肉体」そのものであり、彼の「肉体」とつながっている。母親が自分のこどもの「肉体」とつながっている、と感じるときの、つながっていると同じものである。チューニングは「数学するという運動/動詞」を「肉体」として「生み出した」のである。その「肉体」はチューニングにとって「他者」ではない。他人からみれば「肉体」とは切り離された存在だが、彼にはそうではない。彼には「肉親(肉体)」である。
 一方、岡潔は、「他者」を「生み出す」のではなく、彼自身が自分という「枠」にこだわらず、それを壊し、「他者」として「生まれ変われる」と次元(領域)にまで自分自身の「肉体」を引き戻す。自分と他者の区別のないところ、自分にも他者にもなりうる次元(これを岡潔は「種」という比喩で語っている)にまで戻ることを試みている。そこまで戻れば、「種」は自然に芽を吹き、花を咲かせ、実る、という運動をする。数学をそういう運動(動詞)としてとらえている。岡が何かを生み出すのではない。数学が岡になって生まれる。あるいは岡潔が数学になって「生まれる」。
 チューリングは「生み出す」、岡潔は「生まれる」。岡潔はすでに生まれて生きているから、「生まれ変わる」と言い直した方が「論理的」かもしれないが、「実感」としては「生まれる」だろう。
 岡潔と芭蕉、道元についての考察が、岡潔の運動が「生み出す」ではなく「生まれる」であるということを強く感じさせる。私は「数学」は皆目わからないが、芭蕉は少しは読んだことがあるので、そう感じただけなのかもしれないが、岡潔が「情緒」の働きと呼んでいるもの(あるいは「共感」と呼んでいるもの)の働きは、まさに「生まれる」である。「秋深き隣は何をする人ぞ」という句についての説明部分。

そこにあるのは懐かしさである。秋も深まると、隣人が何をしているのだろうかと、懐かしくなる。芭蕉と他(ひと)との間に、こころが通い合う。その通い合う心が、情緒である。

 「懐かしさ」という「名詞」が「懐かしくなる」と言い直されている。そのときの「なる」が「生まれる」ということ。「懐かしくなる」は「懐かしい」という「形容詞/用言」が「なる」という「動詞/用言」によって、「動き」の部分が強調されたことばである。「変化」している。この変化が「生まれ変わる」ということにつながるのだが、「変わる」というのではなく、あくまで「なる」ということに目を向けなければならない。「種」が芽吹き、「花」に「なる」ように、岡潔は「懐かしい」と感じる人間に「なる」。新しく「生まれる」。
 このことを「心が通う」と森田は言い直しているのだが、ほんとうは芭蕉が「隣の人」に「なる」と私は読み直してみた。「通う」ではなく「なる」。(懐かしくなるの「なる」と同じもの。)
 「自他」の区別はなく「なる」。
 「自他」ということばをつかって、森田は岡潔の思いをさらに言い直している。

数学も、芭蕉のように歩むことはできないだろうか。/数学者は「数学的自然」を行く旅人である。そこで自他を対立させたまま周囲を眺めれば、数学的自然も所詮は頼りない。

 と、ここに「自他」ということばが出てくるのだが、「通う/通い合う」では「自他」がある。それを超えて「他者になる」。そのとき「自他」がなくなる。「ひとつ」に「なる」。
 こういう次元を、また別のことばで表現したのが道元だろう。「自他」、あるいは「過去/未来」「時間/空間」という区別にとらわれなければ、世界で起きていることはすべて自分(肉体)の動きである。あらゆるところに自分(道元は仏と言うだろうけれど)が存在し、その存在はまた自分(仏)である。そこでは「生成」がある。(道元は「現成する」と言うだろう。)それは動いていて、同時に動かない。
 これを森田は、次のように言い直している。

数学において人は、主客二分したまま対象に関心をよせるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。

 ここにも「数学になりきる」と「なる」が出てくる。「生成/現成」の「なる」である。「数学」から、そういう次元にまで考えをすすめるからこそ、岡は

根本的に新しい人間観、宇宙観を一から作り直すことが急務である。

 ということろへたどりつく。
 「数学する身体」は「生きる身体」の問題となる。つまり、生きていくこと、「思想」そのものにぶつかる。この変化というか、過程というか……それがおもしろい。それは単に岡潔の変化ではなく、そのまま森田の変化となっているところ(森田が岡潔になって、数学を超えて「思想」を語ってしまっているところ)がとてもおもしろい。
 ひとつ欲を言うと、途中で出てくる「ノイズ」と「リソース」の刺戟的な話題が、うまく岡潔の「発見」のなかに組み込まれていない感じがする。岡潔にとって芭蕉、道元が「ノイズ」のように働き、岡潔の「数学する(という)運動(肉体)」を活性化させたのだと私は勝手に想像する。「文学(ことば)」が「ノイズ」となって「リソース」を隠れた部分で動かしていると勝手に想像した。チューリング、岡潔にとって「ノイズ」は何であり、「リソース」と同関係したか、つまり「ノイズ」を取り払ってしまうとチューリングや岡潔の「数学」は結晶しなかったかもしれないというようなことを書いてくれると、もっと森田の「哲学」は刺戟的になると思った。
数学する身体
森田 真生
新潮社

*

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ガイ・リッチー監督「コードネーム U.N.C.L.E. 」(★★★+★★)

2015-11-15 19:32:33 | 映画
監督 ガイ・リッチー 出演 ヘンリー・カビル、アーミー・ハマー、アリシア・ビカンダー

 ★を5個つけたけれど、傑作というわけではない。おもしろいというわけでもない。CGだらけ、新しい映像だらけの映画が多いなかにあって、「古くさい」感じが楽しかったなあ。「現代」ではなく「過去」を描いているから、まあ、「新しい」映像では困るんだけれど、「古くささ」にこだわったところがよかった。
 唯一のアクション(?)はカーチェイスだけれど、これもねえ、車が古いからスピードも鈍い。これが楽しい。えっ、いま、どうなった? と目をこらしていなくてもいい。私は目が悪いので、これくらいのスピードがいいなあ。(「エベレスト」は見たいけれど3Dなので、パス。)
 電話がダイヤル式、呼び出し音は一種類、通話には雑音が入るなんて、いいなあ。盗聴器が大きい、ダサイ、のもいいし、女がスカートの下(ストッキングの上)につけていく「発信機」も大きくて、とってもいい。それをわざわざスカートをめくって見せるなんて、うーん、「古くさい」。いまどき、それくらいのシーンでは誰も色っぽいとは思わない。でも、それが逆に「人間臭い」。
 おっ、「古くさい」と「人間臭い」が韻を踏んでしまった。
 この「くさい」って何かなあ。「においがする」「感じられる」ということかな? で、その「においがする」というとき、鼻が動いているねえ。ほんとうに「においがする」わけではないのだから、これは「無意識の肉体としての鼻」ということになるのかな? あ、めんどうくさい話になりそう。(ここもに「くさい」が出てくるなあ。)よくわからないが「……くさい」というとき、まあ、「肉体」が反応してるんだろう。言い換えると、その瞬間、「肉体」が映画のなかに踏み込んでいる。映画なのに、どこかで「現実」と思い込んでいる。これがおもしろい。
 最近のスパイ映画というのは、「ミッション・インポッシブル」がそうだけれど、あんなこと観客にはできないね。飛行機につかまって空を飛ぶなんて、できない。風が強くて目すら開けていられないはずだよね。見ていても、その「場」に参加できない。驚きはするけれど、「肉体」がざわめかない。「痛い」とすら思わない。
 そこへ行くと、この映画は違うなあ。拷問だって、笑いながら、その拷問を自分の「肉体」で味わうことができる。ただ「痛い」と感じさせるだけではなく、「これは映画」という「オチ」のようなもので、安心させてくれる。
 で、これに、男と女のやりとりがからんでくる。「肉体」のからみだけではなく、「感情」のからみがストーリーのカギになる。クライマックスでナポレオン・ソロが敵の女ボスを呼び出すために、わざと「お前の夫は男としてだらしない」というような作り話をする。それに女が感情的に反応して、女の居場所がわかる、なんて、わっ、おもしろい。どんなときでも、怒った方が負け(感情的になった方が負け)。
 これなんて、スパイ映画というよりは「恋愛映画」の領域だよなあ。
 映像の色調や、画面を分割して、同時に複数のシーンを見せるという「手法」も古くさくて、とっても楽しい。
 あ、この楽しさは、テレビで「ナポレオン・ソロ」を見ていた年代の人間が感じるだけかもしれないけれどね。いまの若い世代は、なぜ、こんなに古くさい(レトロ?)な映画をつくらなければならないのか、わからないかもしれないなあ。
               (t-joy博多スクリーン9、2015年11月15日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ  [DVD]
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ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
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古賀忠昭『古賀廃品回収所』(2)

2015-11-14 11:20:36 | 詩集
古賀忠昭『古賀廃品回収所』(2)(書肆子午線、2015年10月30日発行)

 古賀忠昭に私は会ったことがない。一度手紙をもらったことがある。『血のたらちね』が同封されていて、「私はガンだ。もうすぐ死ぬ。死ぬ前に感想が聞きたい」というようなことが書いてあった。その手紙を読んだからではないが、私は感想を書いた。その詩集は丸山豊賞を受賞した。なんだ、なかなか死なないじゃないか。賞まで取ったじゃないか、と私はそのとき思った。そして、古賀が死んだとき、私は思い出として、そういうことを書いた。新聞に、その「追悼文」を売り込んだ。そのとき、文章が乱暴で、死者に対して失礼だ、というような批判を受けた。
 うーん、わかるんだけれど……。
 でも、私はいまでも、あのとき最初に書いた文章がいちばん古賀のことを思って書いたものだと思う。古賀の詩は、殺しても死なない、という類のものだ。「死ぬ、死ぬ」と言いながら、いのちにへばりついて、死なない。なかなか、死なない。その「死なない」様子を見ていると、なんだか元気になってくる。こんな死なない奴とつきあうと面倒だぞ。でも、つきあってみたい。「おまえ、死なないじゃないか。死ぬ気があるのか」という悪態がつきたくなる。古賀に対して残念に思うのは、私が、古賀に面と向かって「おまえ、なかなか死なないじゃないか。賞までもらって、また死ねなくなるぞ」と言えなかったことだ。もし、言う機会があったら、古賀はまだまだ詩を書いたのではないか。もっと生き続けたのではないか、と思う。
 私の書いていることは、乱暴で、非礼なことだとは承知しているが、そういう乱暴(暴力/非礼)で向き合わないことには、私は、古賀の詩とは向き合えない。自分のなかにあるいちばん野蛮な欲望、「こいつ、めちゃめちゃにしてやる、殺してやる」というような「むきだし」の本能みたいなものをさらけださないと、古賀のことばは私の「肉体」のなかに入ったこない。古賀のことばと共感できない。「おお、殺せるなら殺してみろ。殺せなかったら、おまえを切って、煮て、食っちまうぞ」。そういうやりとりがあって、疲れ切って、そのあとで「まあ、いっしょにいてもいいか」という共感が生まれる。
 と、長い前置きのあとで「テロリスト風スキヤキ会」を読む。

この前、スキヤキをたべました。朝鮮人の金さんと朴さんと台湾の陳さんと日本人の諸藤さんとわたしです。みんなボロ屋でどこにすんでいるかわからない住所不定のひとたちです。一斗缶を半切りにして、その上に鍋をのせて久しぶりのスキヤキをしました。諸藤さんがネギと白菜をもってきました。あそこからとってきた、とどこかわからないとこをゆびさしながらいいました。ああ、あそこ、とわたしがいいました。ああ、あそこね、と金さんがいいました。あそこなら、よか野菜のとれるやろ、と朴さんがいいました。あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね、と陳さんがいいました。あそことはどこのことかわからないけれど、みんなしっているつもりのあそこでした。あそこは、どこかにあって野菜がはえていさえすればいい、あそこでした。そのあそこからこれだけとってきたよ、と諸藤さんはえいようのいきとどいたネギと白菜をリヤカーからもってきました。これは、よか、つやばしとる、とわたしがいいました。そうやろが、と諸藤さんがいいました。うまかごたる、と金さんと朴さんがいいました。台湾にはこんないい野菜はないね、と陳さんがいいました。

 なかなかスキヤキを食べるところまで行かないのだが、このなかなか「こと」が進んで行かない文体、さっさと進まない非合理性のことばのなかに古賀の「肉体」を感じる。きのうの「日記」に「ていねい」ということを書いたが、古賀は「ていねい」にひとつひとつを受け止め、共感して動いている。
 ネギ、白菜は、まあ、どこかの畑からかっぱらってきたものである。「あそこ」とした言わないのは、それ以上は知る必要がないからだ。その「あそこ」を特定する代わりに、ここでは会話が奇妙な具合に「豊か」になる。
 「あそこなら、よか野菜のとれるやろ」「あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね」。「食べる」こと、野菜の味に、会話が動いて行く。こんなことはいう必要なのいことである。でも、言う。言うと、何と言えばいいのか、「野菜の味」が「肉体」にやってくる。「肉体」が「野菜」を食べている「肉体」になる。野菜を「盗む」肉体ではなく、野菜「食べる」肉体になる。「食べる」という動詞のなかで、五人がしだいに「ひとつ」になる。「ひとつ」になりながら、また五人にもどって行くという感じになる。
 野菜を盗んできた「あそこ」が「どこのことかわからないけれど、みんなしっているつもりのあそこでした」になるように、五人の肉体が、誰が誰の肉体かわからないけれど、みんなの知っている肉体、誰もが知っている肉体になる。うまいものを食べると、うまいと感じる肉体になる。うまいものを食べたいという肉体になる。そういう肉体になるために、五人は話をする。
 「よか、つやばしとる」「そうやろが」「うまかごたる」「台湾にはこんないい野菜はないね」。詩では、それぞれのことばには「主語」がある。誰が言ったか書いてある。しかし、その「主語」は、この詩では問題ではない。ほんとうの「主語」は「肉体」であり、「述語(動詞)」は「食べる」である。あるいは「味を味わう(感じる)」である。同じ「動詞」を五人で共有し、その瞬間に「肉体」が五人であるにもかかわらず「ひとつ」になる。これが楽しい。
 そして、この楽しい「肉体」になるためには、「自分」という「肉体」を突き破らなければならない。自分の「肌(他人との区別)」を脱ぎ捨てなければならない。これは、なかなかむずかしくて、私の場合だと、たとえば最初に書いたように、「死ぬといってたくせに、なかなか死なないじゃないか」というようなことを平気で言えるようになったときが、古賀の「肉体」とつながるのである。
 「この野菜、畑から盗んできた奴じゃないか」「見つかったらどうするんだ」というようなところをうろちょろしていてはだめなのである。
 この詩は、さらに醤油、砂糖、肉と、つづいていく。「食べる/肉体」のなかに、五人が入れ乱れる。肉を「食べる」のだから、そこに「殺す」も入ってくる。「殺す/食べる」が「肉体」のなかで入り乱れる。「殺す」のは「ひとり」、「私」は「食べる」だけ、という具合にはいかない。「食べる」以上、五人の「肉体」が「殺し/食べる」のである。そのために、五人はしゃべる。こどばをとおして五人の「肉体」が「ひとつ」になり、動く。
 五人の「肉体」が「ひとつ」になる、とことばで言うのは簡単だが、五人いるのだから、それは簡単ではない。どうしたって、「反発」する部分がある。それを、反発がなくなるまで、ことばをとおして近づいていく。「あそこなら、よか野菜のとれるやろ」「あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね」と言った会話のように、ひとつひとつ、ていねいに「肉」を語っていく。「味」を語っていく。語り合いながら、五人は五人の「肉体」のなかで起きていることを「共有」する。
 「食べてしまえば、どれも肉、タンパク質」というような「合理的」な処理の仕方ではなく、細部にこだわる。(こだわり方は、直接読んでもらいたいので、ここでは具体的には引用しない。)「直接」、その「肉」にふれるように、ていねいにことばは動く。「直接」、「殺す」という「肉体」にふれるのだから、それはどんなに「ていねい」であっても、どうしても「乱暴」を含む。「乱暴」の「ていねいさ」がそこにある。「概念の合理的な処理(食べてしまえばタンパク質)」からあふれてくるものが、そこにある。

 こういう「乱暴/ていねい」の強い結びつきを「肉体」で「共感」したあと、「たった一つの日本語」のような作品を読むと、なんとも悲しくなる。「なかなか死なないじゃないか」と、どうして古賀に言ってやらなかったんだろう。丸山豊賞を受賞したとき、「おめでとう」のかわりに、そんなはがきでも書いてやればよかったなあ。そう言うことで、死なない苦しさを、私は私の「肉体」に引き寄せて見るべきだったのだとも思う。
 どんなふうに書いても、古賀のことばは私のことばをはねつけ、これからもずっと生き続ける。詩は生き続ける。「なかなか死なないじゃないか」と、私はその詩に向かって叫びながら、詩のなかで動いている「肉体」になってみる。そうやって読みつづけようと思った。
 皆さんも、ぜひ、読んでください。
 アマゾンでも買えますが、「書肆子午線」の住所、電話番号、FAXを以下に書いておきます。
 書肆子午線
 〒360-0815 埼玉県熊谷市本石2-97
 電話 048-577-3128 FAX 03-6684-4040
古賀廃品回収所
クリエーター情報なし
書肆子午線

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古賀忠昭『古賀廃品回収所』

2015-11-13 11:03:34 | 詩集
古賀忠昭『古賀廃品回収所』(書肆子午線、2015年10月30日発行)

 古賀忠昭『古賀廃品回収所』は『血ん穴』『血のたらちね』につづく詩集である。古賀は『血のたらちね』を出したあと死んでいる。この詩集は、稲川方人の尽力で出版されたもの。残されたノートにあった詩を収録したものである。詩集に触れる前に、詩集をまとめてくれた稲川に、「ありがとうございました」と感謝したい。稲川がいなかったら、この詩集の作品群は公表されなかったかもしれない。

 古賀の詩は長い。終わらないのではないか、と不安になるくらいである。目の悪い私は、作品を引用しようとして、ためらってしまう。長さ、書いても書いても書き切れないところに、古賀の書きたいものがあるのに、一部だけを取り出してしまっては古賀の作品を壊してしまう。
 けれども、書きたい。古賀の詩について書きたい。
 そして、「長い」と書いたばかりなのだが、逆のことを書こう。古賀の詩は「長い」。しかし、古賀の詩は「短い」ところに、その特徴がある。「全体」は「長い」が、その「長さ」を生み出している一文一文は「短い」。そして、非常に単純である。耳で聞いて、その場ですぐわかる「簡単さ」。それを積み上げて、「長くなる」というところに、古賀の「思想」がある。「肉体」がある。
 「古賀廃品回収所」の書き出し。

古賀廃品回収所に来るには一本の道しかないけれど、それでもきっとあなたはその道に迷うと思います。血のような赤い色の駅をおりたら駅の裏口の方に出て左に曲って、そのまま、まっすぐ歩いていって下さい。そこにホームレスのひとがごきぶりのようにたむろしていると思います。その中のいちばん体の大きいひとに「古賀廃品回収所はどこですか」ときいて下さい。「あっち」とそのひとはゆびをさすでしょう。あっちですから、一本の道がのびているだけですから、のびている方向にいく他はないわけですけれど、とにかく、その道に足をふみいれて、あっちに向って歩いてきて下さい。体の大きいひとにはていねいにお礼をいって下さい。ぞんざいにあつかうとそのひとはあなたを、テロリストのように ピストルで一発、ズドーンとうつかもしれません。そのひとはわたしの友人ですからていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです。もし、あなが朝、そこにおりたつとすれば血を流したような朝やけにあうことでしょう。もし、夕方に来たとしたら、血を流したような夕焼けにあうことでしょう。

 一本の道をまっすぐに行く。途中で「古賀廃品回収所はどこですか」と聞くが、訊かなくても同じ。まっすぐに行く。--そういう「短い」ことが、書いてある。何もむずかしいことは書いていない。
 これが、なぜ、長くなるのか。「短い」を繰り返すからである。なぜ繰り返すか。「短い」のなかにある、「短い」だけでは言えないことがある、言いたいことがあるから長くなる。
 別なことばで言い直すと。
 「短い」なにごとかの「なか」に、「短い」要約を超える、「長い」何かがあるからだ。その「何か」が、ひとを(古賀廃品回収所を訪ねるひとを)迷わせる。
 詩に書かれていることにそって見ていく。まず、「あなた(読者)」は「ホームレス」に「迷う」。「ごきぶりのようにたむろしている」に「迷う」。この「迷う」は、「気後れ」のようなものである。そばを通って大丈夫? 襲われない? そういう「不安」が「肉体」のなかで動くので「迷う」。これは「偏見」かもしれないが、ひとは簡単には「偏見」を捨てられない。スーツを着たひとが歩道をふさぐ形で立ち話をしていても気にせずにそばをすりぬけることができるが、それが汗、垢、ほこりで汚れたホームレスのひとたちだったら、そばを通りぬけることに気後れする。見るからや「やくざ風」だったら、さらに困惑する。これは「肉体」が覚えている「反応」である。「反応」が「迷い」である。
 さらに、そのホームレスのなかの「いちばん体の大きいひと」に「迷う」。いちばん清潔そうなひと、いちばん若いひと、ではない。うーん、どうしようかなあ。さらに、そのひとが「あっち」と指差す、そのそっけなさに「迷う」。えっ、大丈夫? 私は嫌われている? 不審者と思われている? 自分がホームレスを不審な感じで見ていること(偏見で見ていること)を忘れて、そんなことを思う。
 一本の道だから「あっち」しかないのに、その「あっち」へ行くことが、なんだか不安になる。「不安」がことばにならないまま(こんなことをことばにすると、きっと襲われるな、追いかけられるなと思いながら)、歩く。ことばにならないことばは、それぞれが、とても「短い」。「短すぎて」ことばにならない。けれど、それが次から次へとわいてくるので、つながって「長く」なる。
 そんな「あなた」の「不安」(不安の長さ? 広さ? 根深さ?)を古賀はわかっているから、「ていねいにお礼をいって下さい」とつけくわえることになる。「ていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです」というようなことは、古賀から言われなくてもわかることなのだけれど、それをわざわざ言われてしまうと、お礼を言う/言われるという記憶が「肉体」を刺戟する。「肉体」が「お礼を言う/言われる」を思い出す。その「思い出す」ということが、「肉体」のなかで動き、その動きが「肉体」のなかにある時間を「長く」する。
 この「長い」は、また別な言い方をすれば、何かを反復(反芻)することで生じる「肉体の内部の動きの長さ」である。一秒とか一分という計測できる「時間の長さ(科学的な長さ/物理的な長さ)」ではない。繰り返しが生み出す「非物理的な長さ」である。それは「短い」ことを「耕して」生まれる「新しい時間」の長さである。そういうものが「肉体」のなか、「繰り返す」ということといっしょに生まれている。
 こういうことが、その繰り返しを確かめるように「一文」に「ひとつのこと(ひとつの「動詞)」ずつ書かれている。二つのこと(二つの動詞)を、古賀は言わない。ひとの「肉体」に「ふたつの動き」をさせない。「ひとつ」ずつ確かめながら動きたいからである。たとえば、

ごきぶりのようにたむろしているホームレスのなかのいちばん体の大きいひと

 と書かない。「ホームレスのひとがゴキブリのようにたむろしている」、「その中のいちばん体の大きいひと」と二つの文章にする。一文を短くしている。短くすることで、ひとつずつ、「動詞」を動かしていく。
 「複数の文章」の場合は、そのことがらはすでに前に書かれている。
 「そのひとはわたしの友人ですからていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです。」は
(1)そのひとはわたしの友人です
(2)(あなたが)ていねいにお礼をいう
(3)(そのひとは)ていねいにあっちと教えてくれる
であり、「……である」「(お礼を)言う」「教える(てくれる)」という三つの動詞を持っているけれど、(2)と(3)はすでに書かれていて、繰り返しである。「そのひとはわたしの友人です」といっしょに前に言ったことが繰り返されている。
 繰り返すことで、関係を緊密にしている。幾つかのことを「ひとつ」にしている。「友人」といっしょに「ていねい」が「形式」ではなく「実体」になっていく。
 友人は「あっち」と言ったのではない。言うのではない。「あっち」と「教えてくれる」。教える+……くれる。その「くれる」ことの意味が、「肉体」として、そこに浮かび上がるのである。「そのひと」が「ていねい」に「生まれ変わって」あらわれてくる。「新しいそのひと」がそこに「肉体」として生きている。もう「たむろするごきぶり」ではない。
 そして、その浮かび上がった「肉体」から、また別なものが見えてくる。
 「ていねい」ということばが繰り返しつかわれているが、その「ていねい」が見えてくる。「ていねい」というのは抽象的なことばだが、この詩をよむと「ていねい」が何であるかがわかる。どういう生き方(思想)であるかがわかる。ゆっくりと、ひとつひとつ、繰り返し、確かめながら「肉体」を動かすことである。「ぞんざい」とは逆。「ていねい」にお礼を言えば「ていねい」が返ってくる。それは相手が「あなた」の「ていねい」を、「肉体」で反復しているからである。「ことば」ではなく「肉体」で繰り返しているのである。
 「あっち」とだけ言ったひとは、ていねいにお礼を言われれば、「あっちだから、間違えないように」とか「あっちだから、気をつけて」とか「ていねい」にもう一度言ってくれるだろう。教えてくれるだろう。古賀はそこまでは書いていないが、そういうひととひととの「動き」が見える描写である。
 短い「こと(内容)」を繰り返すことで、つなぎ、そこに濃密な「世界」を少しずつ組み立てていく。「ていねい」なつながりで「世界」が広がっていく。
 ここに書かれている、その「ていねいな関係」はふつうの読者が経験しないような「関係」である。ふつうの読者はホームレスと「ていねい」にことばを交わすことはあまりないだろう。だから、その「関係」のなかで、ひとは「迷う」かもしれない。「迷う」に違いないと知っているからこそ、古賀は少しずつ繰り返し、案内するのである。そこには、古賀の「あなた」に対する「ていねい」もあらわれている。「ていねい」というのはこういう関係でしょ? 思い出した? という具合……。

 古賀の詩は、この「ていねい」のひとことにつきる。古賀の生き方は「ていねい」につきる。出会ったひとと「ていねい」に向き合う。「要約」しない。「ひとつ」の動き(動詞)のなかには、その動詞とつながる何かがある。それは「ひとつ」の「動詞」からだけではわからない。「ていねい」につないでいって、少しずつ「全体」が見えてくる。そのなかには非合理的(理不尽)なつながりのある「動き(動詞)」もあるかもしれないが、それを含めて「肉体」というものがある。生きている人間というものがいる。「ていねい」に向き合ったひとの「肉体」を繰り返していくと、「肉体」が「ある」というだけのところにたどりつく。「いのち」が「ある」。「生きている」という、だけのところにたどりつく。「生きているいのち」がむき出しになって、あらわれてくる。古賀のことばは、そういうところまで動いていく。
 「いのち」「むきだしのいのち」というのは、まあ、しかし、いいかげんなことばである。こんなことばで古賀の作品について何かが語れるわけではない。私にはたどりつけないものがある。私は私のことばの非力を、「いのち」とか「むきだしのいのち」という表現で隠す隠すことしかできない。
 人生に「ていねい」に向き合い、最後まで「ていねいさ」を失わずに生き抜いた古賀の「肉体」が、この詩集のなかにある。私はその「ていねい」に出会った、とだけ書けばよかったのかもしれない。しかし、そう気づくまでに、こう書くしかなかった。こんなことしか、いまの私には書けない。

古賀廃品回収所
古賀 忠昭
書肆子午線

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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稲川方人『形式は反動の階級に属している』

2015-11-12 08:53:56 | 詩集
稲川方人『形式は反動の階級に属している』(書肆子午線、2015年10月30日発行)

 私は長い間、稲川方人の詩がわからなかった。平出隆の詩と続けて読んだときだけ「平出には稲川の詩は天才が書いた詩にみえるだろうなあ」と感じた。平出が一篇の詩で書いていることを稲川は一行で書いている。そう感じた。その一行は、他の行を拒絶しているようも感じた。だから、とても苦手だった。私は行と行との関係のなかで「ことばの肉体」を感じるとき、それを詩と思っているからである。
 で、今回の詩集。不思議なことに、一気に読むことができた。そして、おもしろいと思った。「こういう抒情詩がいまもあるのだ」という驚きでもあった。詩集の帯に「抒情の強さ」という文字がみえた。「抒情詩か、なつかしい」と思った。

 稲川の書いていることばを、私が正確に掴み取っているかどうか、わからない。昔の詩を思い出せるわけでもない。たいがいが、記憶することを拒絶するような文脈だったと覚えている。
 ところが、今回の詩集は、巻頭の「いずこへか、鉄橋の影」の書き出し、

きみは螢のいるぼくの手を
見ることはなかったんだと思う

 読んで、音(声)が聞こえる。それがそのまま「肉体」を刺戟してくる。「見ることはなかった」という「否定形」が、否定されたものを強く印象づける。「きみ」は「見ることはなかった」。しかし、私(谷内)は、それを「見る」。いや「見える」。この「見える」は「誤読」である。私は「ぼく(稲川)」の「手」がどういうものか知らない。稲川には会ったことがないから知りようがない。それなのに「見える」。「見た」と錯覚してしまう。
 そういう錯覚(誤読)を誘うものが、この二行にある。「きみ」「ぼく」という呼応。螢を手のひらでつつむ、そしてその手のひらをそっと開いて螢を誰かに見せる。そういうことを私の肉体は覚えていて、その動きを思い出すからである。「手」「見る/見せる」という「動詞」が私(谷内)を「ぼく(稲川)」の「肉体」に重ねる。そうすると、そこに知るはずのない「きみ」さえもが「肉体」としてつながってくる。
 そして「わかった」気持ちになる。この「わかる」はもちろん「誤読」である。「誤読」であるけれど、私たちはきっと「誤読」をしたがる生きものなのだと思う。「誤読」をとおして、自分が生きていることをたしかめるのである。
 その「つながり方」「誤読の仕方」に、たぶん「抒情」というものがある。
 「きみ」「ぼく」に「見なかった」という「否定形」が重なり、その「否定形」につながるかたちで「きみ」の「不在」が浮かび上がる。「不在」は「喪失」でもある。「不在」や「喪失」への思い、それを呼び戻そうとする意識が、たぶん「抒情」である。
 それが「抒情」であるとわかったときから、「わからない」ものは存在しなくなる。そこに書かれていることが具体的にはわからなくても、そこに「感情」があると「わかる」「わかってしまう」。
 詩のつづき。

誰にでもたしかに、
半島のようなこころの澱はあり、
触れまいとしてもそれは、いつでも氷点に達する気がするんだ

 「半島のようなこころの澱」という「比喩」が何をさしているか(どういうこころの状態か)はわからない。「半島のような」という「比喩」が「わかりにくさ」の原因だけれど、「たしかに」と思うときの「肉体」のあり方を思い出すことができる。「たしかに」といわれると、それが「たしかに」なる感じがする。さらに「触れまいしても」という「否定形」が、何かに「触れた」ときの「たしかさ」となって「肉体」を揺さぶる。
 「それは、いつでも氷点に達する」というのは、冷静に考えると何かわからないが、そしてそれが「気がするんだ」ということなら、なおいっそうわからないのだが、「たしかに」という肯定と、「触れまいとして」という否定の結びつきのなかで「肉体」は酔ってしまっていて、もう「批判」する力をなくしている。「わからない」と拒絶する前に「わかりたい」という気持ちがあふれてくる。
 まちがっていたってかまわない。わからなくたって、かまわない。どうせ、他人のこころなんて正しくはわからない。自分のこころだってわからない。まちがってしまう。わからなくても、そこにあることばが指し示しているものを「失われた大切なもの」と思えばいいのだ。それは「たしか」なものなのだ。それが「ある」と信じたいのだ。
 もう少し、補足してみようか。

壊れた温室のなかで素振りしていた
左打ちの中堅手が
最後のバッターボックスに入るのを、
ぼくはひとりで見ていた

 「壊れた」は「失われた」と同じであり、また「否定形」である。「素振り」をしているのは「中堅手」であるけれど、そこには「素振り」する「ぼく(稲川)」の「肉体」が投影されている。というよりも、「中堅手」の「肉体」が「ぽく」に投影され、見つめながら「ぼく」こそが「壊れた温室のなかで素振りしていた」のである。「左打ち」という「特性」は「特性」であることによって「孤立」する。センチメンタルにつながる。そして、その「中堅手が/最後のバッターボックスに入るのを/ぼくはひとりで見ていた」と書くとき、いちばん重要なのは「最後」ではなく、「ひとり」だ。「ひとり」であることによって、「ぼく」は「中堅手」そのものになる。誰かがいっしょに見ていたら「ぼく」ではなく、だれかが「中堅手」になってしまっているだろう。
 「ひとり」であることが、そこに起きたことを「大事なもの」にすると同時に「たしか」なものにする。「ひとり/ぼく」のことばだけが、そのとき起きたことを証言するのである。これが「抒情」だ。

 それにしても稲川の詩(ことば)は、ほんとうにこうだったのか。昔はとても読みにくかったと思う。私はあまりの読みにくさに、もう手元に稲川の詩集を見つけることができない。どこかにあるかもしれないが、見えないところに隠れている。あるいは古本屋に引き取ってもらってしまってないかもしれない。
 なぜ、こんなに読みやすいリズムになったのか。
 推測にすぎないのだが、同じ書肆子午線から出版された古賀忠昭『古賀廃品回収所』と関係があるかもしれない。この詩集は稲川の尽力があって発行されたものである。稲川は、当然、何度も古賀の詩を読んでいるだろう。古賀の詩は口語である。ひたすら、口語である。しゃべったことばが、そのまま「文字」になっている。そこからは人間の「声」が聞こえる。「声」が「肉体」そのものとなって動いている。この口語の力の影響を稲川の今回の詩集は受けているように思える。
 こんなことを書くと稲川に失礼かもしれないが、古賀の口語が書かせた稲川の抒情のようにも思える。

形式は反動の階級に属している
稲川 方人
書肆子午線
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森本孝徳『零余子回報』

2015-11-11 10:22:56 | 詩集
森本孝徳『零余子回報』(思潮社、2015年10月25日発行)

 森本孝徳『零余子回報』は、読めない。

三月十三日。パーレン。トマのからだもずいぶん縮んだ。一室の、川
屋は(笈は、鳩尾のこぶみが足ぶみをふむたび、纏マらないもののい
ろみが差した朝顔から、☆型に擦りへらされた捌の巻子を)蝸牛を沈
めた。ト二白の倍音にあらいごえがたつ。

 この部分は、いくぶん読みやすいかもしれない。「纏マらない」という漢字、カタカナ、ひらがなの混合にとまどい、「ト二白」がわからないが、なんとなく「わかる」と錯覚する部分がある。
 「笈は、鳩尾のこぶみが足ぶみをふむたび、」は芭蕉の「笈の小文」を意識しているのだろうか。「鳩尾」のなかにある「おち」の「お」の音が「笈」の「お」を繰り返したあと、「ぶみ」「ふむ」「たび」と変化していくとき、旅を擦る芭蕉の姿が見えるような気がする。
 「☆型」からは平出隆が『旅籠屋』(だったかな?)で書いた「☆型のおにぎり」を思い出す。そこにも「旅」が出てくる。
 芭蕉の「笈の小文」、平出隆の『旅籠屋』が「倍音」だというのか、あるいは森本が書くことが「倍音」だというのか、よくわからないが、これは、きっと旅日記なのだ、と思って読むことができる。(誤読することができる)。
 「捌の巻子」というのは「歌仙」を巻いた、その巻紙かもしれないなあ、と思ったりする。
 そうすると、「パーレン」は括弧記号の( )を音にしたものか。そこは本来「水曜」とか「木曜」とか、あるいは「晴れ」「曇り」などの「補記」が書かれるのかもしれないが、それを省略して、省略があることだけをあらわしている。
 わからないまま「いろみが差した」というのは、いろっぽいことばだなあ、とも思う。詩は、意味ではないから、こういう勝手なことを思っていればそれでいいのだと思うけれど、目をひっかきまわすような書き方が、私にはなじめない。私は視力が弱い。だから感じるのかもしれないが、いらいらする。(いらいらも「現代詩」と言えば言えるけれど……。)
 この連に向き合う形で、次の行がある。

三月十七日。パーレン。到頭トマが満ちた。下生え。点綴された辻つ
マたちのこい之ん繞をのんで、客気に三度唇を噛んでもこの、目に留
りやすいうけばこでは凶兆も粗方は(立たない。下生へ。巻子が縺れ
て、かくれて上のうわの空で、上の笈を埋めたトみえて妻の字で)寝
ころんでいる。右記トマの回は柔軟だがその顔は見えなくしてある。

 「到頭トマ」のなかに「トマト」がいて、「辻つマ」のなかに「妻」がいる。「こい之ん繞をのんで」のなかには「こい/恋」があり、「繞」は「めぐる」か「まとう(纏う?)」が、あるいは「じょう、にょう」と読ませるのか、わからないが、「にょう」から「尿」を連想すれば、恋よりも濃密な(濃い)あやしさが「三度唇を噛む」へつながっていく。「下生え」ということばは「陰毛」想像させる。
 読むとは、作者が書いたことばを読むのではなく、読者が(私が)知っていることを読む(肉体が覚えていることを思い出す)ことだと思い知らされるが、これは、とてもめんどうくさい。こういうめんどうくさいことを、詩であると考える気持ちに、私はなることができない。
 もっと簡単でいいじゃないか、と思ってしまう。

 めんどうくささには、もうひとつ理由がある。(あるいは、これは先に書いたことの裏返しかもしれないのだが。)
 「こい之ん繞をのんで」はどう読んでいいのか(声/音にしていいのか)わからないし、「纏マらないもの」「辻つマたちの」の「カタカナ」は声/音にしたとき「ひらがな」とどう違うのか、わからない。私は詩を音読はしないが、肉体のなかでは音が鳴っている。声を出している。ときには実際に声をだすときよりも大声になっているようで、のどが非常に疲れるときがある。
 森本の詩を読むと、その「肉体」がかたまってしまう。音/声が沈黙に変わる。つまずく。それが、私の場合、とても苦痛である。「目」が何度も文字の上を往復するからである。私は網膜剥離の手術をして以来、文字を見る時間を少なくしているが、音が聞こえないと目に負担がかかるのである。
 これは個人的な肉体的事情だが、健康な目のひとは大丈夫なのか。
 ちょっとそれを聞いてみたい気がする。
 聞こえない音/声を聞く(読む)というと、なんとなくかっこいいけれど。そういう目の悪い私が想像できるような答えではなく、目の強いひとならではの、声の反応(声の倍音とでも言えるような和音)を、だれか聞かせてくれないかなあ。


零余子回報
クリエーター情報なし
思潮社

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田中清光『言葉から根源へ』

2015-11-10 16:38:07 | 詩集
田中清光『言葉から根源へ』(思潮社、2015年10月25日発行)

 田中清光『言葉から根源へ』を読みながら、私が好きと思う部分は、必ずしも田中が書きたい部分とは違うかもしれないと思う。
 私が好きなのは「鳥」。

鳥たちは
日日空から墜ちている
海なのか 砂漠なのか 山脈なのか
かすかな啼声を残して

風のなかに その声が
流れている
誰もききとれないけれど
死は このように近くにあり

突然
君の肩に乗ってくる
空から陸へ 陸から川へ
めぐっている

なんの予告もなしに
見えない距離を
風切羽に乗せられ
死もとどけられる

 途中に出てくる「誰にもききとれない」「見えない」は、一種の矛盾である。「誰にもききとれない」「見えない」ならば、田中にも聞こえないし、見えないはずである。それなのに、それが「ある」と感じ取る。
 これはなぜなのか。
 私たちは、なぜ「ない」が「ある」ということを知っているのか。どうやって、それを知ったのか。「ある」があることを知り、その「ある」が「なくなる」ということも体験しているからである。そこから「ない」が「ある」と想像するのである。ことばによって。
 一連目も、それは「ことば」によって「ある」と想像された世界である。
 鳥はほんとうに空から落ちるか。落ちて、死ぬか。木にとまって、あるいは大地に身を横たえて死ぬか。そのとき、啼くか。わからないけれど、そのわからないものを「ある」として受け止めることができる。ことばによって。
 そのとき、「ことば」とはなんだろうか。ほんとうに、私たちは「ことばによって」何かをつかみとっているのだろうか。
 説明することがむずかしいが、私は「肉体によって」つかみとっているのだと考えている。たとえば「空から墜ちている」ということばを読みながら、私は自分がどこかから「落ちた」ことを思い出す。崖の上から崖下の田んぼへ、橋の上から川へ。あるいは上から何かが「落ちてくる」のを見たことを思い出して「墜ちる(落ちる)」を理解している。「肉体」が動いている。
 「海」「砂漠」「山脈」も、「ことば」ではなく、自分の見たもの(肉体がそこにあったときの場)として思い出す。「砂漠」そのものは私は知らないが(鳥取砂丘は知っているのが)、海辺の砂がさらに連なった風景として思い浮かべることができる。「海」「砂漠」「山脈」は「名詞」だが、そこに「いる」肉体を思い浮かべるとき、それは「肉体」のひろがり、「肉体」とつながりのある「動詞」を誘う。
 あらゆる「場」と「肉体」はつながり、「肉体」は「場」へ広がって行く。そして、そこで「かすかな啼声を残して」の「啼く」といっしょに「残す」ということも「肉体」は繰り返す。鳥が啼くだけではない。自分の「肉体」が啼く。啼くときの「肉体」の動きがあり、何かを「残す」ときの「肉体」の動きがある。「残す」と同時に「残る」ということも「肉体」は覚えている。
 「覚えている」ものは、そこには「ない」。そして、覚えているものは「肉体」のなかに「ある」。「ない」と「ある」を「肉体」が繋いでいる。
 「誰にもききとれない」のは聞き取る必要がないからである、と言い換えることができる。聞き取る必要がないのは、「肉体」が覚えているからである、とさらに言い直すことができる。
 「見えない距離」は果てしないから見えないのではなく、密着しすぎているから見えないのである。それは「肉体」が覚えているから、「肉体」のなかにあるから「見えない」のであり、「肉体」のなかにあるから「見る」必要もない。「見る」かわりに「思い出す」のである。「思い出す」とき、それは「肉体」からあらわれてきて、「世界」になる。
 この緊密な「世界」を「鳥」の一語に託してとらえた、この作品が好きである。このとき田中は「鳥」であり、「空」であり、「海」「砂漠」「山脈」であり、「風」であり、「君」でもある。瞬間瞬間に、田中の「肉体」がそれらの存在(もの)と「こと(墜ちる/啼く/残す/流れる/動詞)」を生み出している。変化しながら「ひとつ」になっている。たしかにそこに「ある」。「肉体」として「ある」。

 私は、詩は、こういう形で存在すればそれでいいと思っているのだが。
 田中は、少し違うようである。
 「肉体」でつかみとったものを、「頭」で反芻したいと考える人のようである。この詩にはつづきがある。

ぼくたちの不幸
邪悪のひそむ日日の現実のなかで
喪われてゆく
平和 文化 未来 そして永遠も

 さらにつづくのだが省略する。
 田中は、たぶん、この連からはじまる「後半」のことを書きたいのだろう。後半のことばを書きたいのだろう。
 私は、しかし、そういうことは「前半」を読んだひとが、自分の「生活」と結びつけて考えるに任せておけばいいと思う。前半の「鳥」を読んだあと、どんな「鳥」になるかはひとそれぞれでいいような気がする。
 「前半」を読みながら、田中が「鳥」ならば、どんな鳥だろう、それを読者に任せた方が「詩」をいっしょに生きることになるのではないだろうか、と思う。

光が誕生した岸辺の
すももの枝で
私は鳥だったことがある
私は死者だったことだってある
空も
大地もそこにあった
いつしか 言葉だけが残った

 「鳥」は、そして「約束」のその行のなかにつながっていけば、それでいいと思う。

日本語よ
私を川に戻してください

私の声が
通ったことのない
水路を見つけ
遠景へ 遠景へと
くぼみやふくらみを探して 見えない世界を
歩いて行けるように

 この「約束」の最後の方の部分の「遠景」は、私には「永遠」と同じように見える。





言葉から根源へ
田中清光
思潮社

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佐峰存『対岸へと』

2015-11-09 19:53:21 | 詩集
佐峰存『対岸へと』(思潮社、2015年10月25日発行)

 佐峰存『対岸へと』の巻頭「連鎖」の第一連。

湾が広がっている せまってくる
遠ざかり 黒々と鮮やかに
透明に 増え続ける
生態の柔らかな連鎖は生臭く
鋼鉄の空白に 食い込んでいく

 「私」が書かれていない。でも、「私」を書かないことは、珍しいことではない。時に、日本では。
 私は瞬間的に「俳句」を思い浮かべた。

古池やかわずとびこむ水の音

 「私」という「主語」は出てこない。「私」は「世界」と「一体」になっている。そこに書かれている「もの」が「私」なのであり、そこで書かれている「こと」が「私」なのである。
 詩にもどって言えば、「湾」が「私」。それは「広がっている」と「せまっている」という二つの「動詞」を生きている。「広がる」とは何かに「せまる」ことであり、「せまる」は「間が狭まる/狭くなる」ということでもある。「拡大」と「縮小」が共存している。それは「古池」の静けさと「水の音」の静けさを破るものの共存と同じで、共存することによってはじめてそれぞれの存在がはっきりする。
 「せまってくる」が次の行では「遠ざかり」と言い直されるのも同じ。「動詞」のなかで「世界」が動きながら、拡散と濃縮を繰り返している。「黒々と鮮やかに」という一見「矛盾」したことばの結合も同じものと考えることができる。
 「せまってくる/遠ざかり」「黒々と(鮮やかに)/透明に」という「改行」に注目するなら、佐峰は「俳句」のように「遠心・求心」を「ひとつ」だけ取り出して「世界」を描くのではなく、多重焦点(楕円のよう)を導入することで、佐峰は「ひとつ」を拒絶しようとしているとも言える。増殖する「遠心・求心」である。佐峰は「俳句」よりも、もっと欲張りなのだ。それが佐峰のことばを「現代詩」にしている。
 「湾」は一方で「湾の内部の生態系」を、他方で「湾の外(湾以外)の生態系」をめざして動く。二重の「中心」をめざして、「分離」することで「遠心・求心」をつかみとろうとしているように感じられる。「鋼鉄の空白」は「湾の内部(海)」に対する「空」とも受け止めることができるし、鉄とコンクリートでできた「都市(人間の場)」とも受け止めることができる。
 おもしろいのだが……。
 二連目は、一連目の「連鎖」を「湾の内部(海の内部/魚介)」を別の視点(物の中心)からとらえ直したものとして、私は読んだ。

丸く折られた背 聞こえる
光の射さない卓上に並べられ
電燈の中で回る
木星の渦 絶えることなく
刻む 氷の中を

 「鍋」を描いているように思えた。「鍋」のなかに叩ききられた魚。背を「折られ」、切られた魚がいる。「光の射さない」は夜。太陽の光が射さない時間。電燈の下で、「鍋」を囲んでいる。「木星の渦」というのは「鍋」を「宇宙」に見立てているのだろう。「氷の中」というのは、そこに寒流育ちの魚や蟹が入っているのだろう。
 なんだか、面倒くさいくなってきたぞ。

鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 の方が、「遠心・求心」の強さが強烈である。「凍てる」「ぶちきらる」という動詞の中で人間と鮟鱇が「ひとつ」になっている。
 まあ、これは、私が「ひとつ」の「中心」の方が好きというだけのことかもしれないが。
 三連目。

水面に皺をつくる白い腕が
すーっと空を切断する 加速して
見えなくなる 心臓
腹に宿した中間体が体温を奪う
気前よく捌いたところで
誰も罪人にもなれやしなかった

 「鍋」を思い浮かべてしまったので、私はここでも「鍋」のつづきで、魚の内臓(心臓)とか「子持ち(中間体)」を思い浮かべてしまう。魚の腹の中に魚がいて、一瞬反ったとした(寒けがした/「体温を奪」われた)ということか。
 「もの」ではなく「中間」というような「抽象」(「連鎖」「木星」も似たような感じ)が、「具象」に対する、佐峰のもう一つの「中心」なのかもしれない。あるいは気の弱い読者に対する配慮かもしれない。しかし、この「楕円構造」は、私にはあまりおもしろくない。
 「頭」が働きすぎている。一連目の「肉体」の感覚、「広がっている/せまってくる/遠ざかる」のような連続感がない。
 「誰も罪人にもなれやしなかった」の「罪人」など、ことばは重いが、指し示している世界は軽い。魚を捌いて罪人になるひとなどいない。魚だけのいのちの「連鎖」と、宇宙のいのちの「連鎖」は別の次元であり、そこに「罪」などはいってくる必要はない。いのちに「罪」などない。頭で「罪」をつくり出して、抽象の二重焦点を無理矢理つくり出している感じがする。
 最後の四行。

誰も知らないここに
人の静かな頭が対峙し
骨を繋いできた金属が飛ぶ
ばらけたものにこそ 訪れる平穏がある

 「湾」が「私」であったはずなのに、そして「湾外」が「私」であったはずなのに、ここでは「頭」が「私」になって「平穏」を手に入れている。
 途中、端折ってしまったが、この「もの(対象)」から「頭」への移動、二重焦点の変わり方が、私には、どうもめんどうくさく感じられた。「頭」へ「重心」を映しすぎているように感じられる。「頭」をたたき壊して「もの」の方に重心を移し、「二重焦点(楕円構造)」を「遠心・求心」に合体させた方がおもしろいと思う。逆向きのことばの運動の方が、「肉体」がいきいきと動くように思う。
 まあ、「頭」で詩を書くか、「肉体」で詩を書くか、どっちが好みか、という問題なので、私は、こういう詩は「苦手」だなあ、というしかない。

 「砂の生活」は安部公房の『砂の女』の風景を思い起こさせた。一連目の描写もそうだが、二連目の、

食事をこしらえる
水素と酸素を 素手で握り
一日の 気管支へと流し込む

 は、家の中で蝙蝠傘をさして、降ってくる砂をよけながら飯を食っている男と女を思い出させる。
 佐峰のことばは、「文学」を風景としているのかもしれない、と、ふと思った。

対岸へと
佐峰存
思潮社
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伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」、山口賀代子「人形」

2015-11-08 14:22:41 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」、山口賀代子「人形」(「左庭」32、2015年10月25日発行)

 伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」の全行。

ランナーズ・ハイをまって走っていると
木々がたおれたり傾いたり
廃屋のような林があった
空いたところに消火器がざっと百本ほど
赤く立っていて
立っているものには使命がある
それをわからせるための赤でもある
わきにはたおされているものもある
終わったのだ
赤くてもだ
半月まえ
歩道のわきに鳥が上向きにたおれていた
廃屋のような林に
白いひとえのヤマブキが低くわたり
こんなものですが
と咲き始めていた

 「ランナーズ・ハイ」というのは、走っているとある瞬間から肉体の苦しさがなくなり、急にからだが軽くなる感じをいうのだが、一行目「まって走っていると」の「まって」がなんともおもしろい。「まって」だから、まだ「ランナーズ・ハイ」にはなっていない。けれど、二行目以下は、私には「ランナーズ・ハイ」になった状態でみつめた風景に見える。
 「ハイ」になると、意識の「連続感」がふつうとは違ってくる。「飛躍」が多くなる。「廃屋のような林」というのは、「木々がたおれたり傾いたり」という「荒れた」林の状態だろう。そこに消火器がある。異様な風景かもしれない。その異様さを「説明抜き」で「そこにあるもの」として、ただ受け止めてしまう。「説明」という「連続感」をとっぱらって、「そこにあるもの」をそのまま受けいれてしまうということろが、私の感覚では「ハイ」である。そのあと「赤く立っていて/立っているものには使命がある」と強引(?)に「使命」ということばを結びつけるところも「ハイ」である。伊藤の意識ではきちんと「連続」しているのだろうが、私から見ると「飛躍」である。
 まあ、消火器というのは、火が出たら消すためのものだが、それが「立っている」のはなかに消化剤が入っていて、火を消すという「使命」をまだもっている、ということなのだろう。つかえる期間があって、それが過ぎたので廃棄されたということかもしれないが、その姿を見て、そういうことを考えたということだろう。「たおされているもの」は使用済みのものかもしれない。「使命」は「終わったのだ」。しかし、つかったあと、わざわざ「色」を塗りかえたりしないから「赤い」まま。
 こんなことは、書いてもどうしようもないようなこと、何の役にも立たないようなことなのだけれど。そういう、どうでもいいことが「リアル」に目に飛び込んでくる。日常の「連続感」とは違った感じで、「いま/ここ」を印象づける。--それが「ランナーズ・ハイ」。私はいまは目の状態が悪くて走ることはないのだが、昔、ジョギングをしていたころ感じた不思議な「リアル感」を思い出させてくれるこのことばは、とても楽しい。「肉体」がいきいきしてくる感じがする。見えている風景よりも、そのときの「肉体」の感じを思い出す。
 で。
 一行目に戻る。「ランナーズ・ハイをまって走っていると」の「まって」は何? 二行目以下は、もう「ランナーズ・ハイ」。一行目と二行目の間に「ランナーズ・ハイ」に「なった」という瞬間が省略されているのか。

ランナーズ・ハイをまって走っていると
「ランナーズ・ハイになって、その感覚のなかで、風景は」
木々がたおれたり傾いたり

 ということなのだろうか。
 そうかもしれないけれど。
 そうではなくて「まって」の「待つ」という「動詞」そのものが、もうすでに「ランナーズ・ハイ」かもしれないなあ。走る苦しさを消えるまで、走りながら「待つ」ということ、「苦しさを持続できる」ということが、すでに「ハイ」なのかもしれない。
 だいたい「待つ」という動詞と「走る」という動詞は、矛盾している。
 「待つ」は基本的に動かない。「走る」は動く。「まって/走る」は矛盾している。
 で。
 先に私は、走りつづけると「ランナーズ・ハイ」に「なる」と書いたのだが、「なる」のではなく、「やってくる」と考えるべきだったのだと、ここで気づく。「待つ」ひとはいつでも「来る」ことを待っている。私が「行く」のではなく、だれかが「来る」のを「待つ」。「ランナーズ・ハイ」は「やってくる」。
 「やってくる」ということは、その「来る」ものの方に「意識」の重点が置かれている。「来る」ものの方が「主役」。「主役」が「動詞(動くこと)」の中心。倒れた木々も、傾いた木々も、捨てられた(?)消火器も、それぞれが「やってきた」のである。そこに「風景」として「ある」のではなく、そこへ「やってきて」、「風景」に「なる」。そういう「もの」たちの姿を伊藤は見て、またその「声」を聞いたのだ。伊藤が「見た」からそこに風景画あるのではなく、「もの」たちが「やってきた」から、そこに風景がある。「主役」は伊藤ではなく、「やってきたもの」たち。
 「ハイ」というのは一種の「エクスタシー」。自分が自分の外へ出ていくことだけれど、別な見方をすれば、枠の破れた自分のなかへ「他者」が入ってくることでもある。「自分という枠」を取り払った状態であり、「他者」を拒絶できない「忘我」の状態のことでもある。自分と他者との区別がなく、出入りが自由な「世界」が「ハイ」であり、「エクスタシー」だ。
 「ハイ(忘我)」とは自分以外のものが自分のなかへ「やってくる」こと、それを受けいれること。伊藤は自分から「出て行く」のではなく「他者」が「やってくる」のを「待つ」タイプの詩人なのだ、感じた。
 最後の方に、それがとてもよくでている。

白いひとえのヤマブキが低くわたり
こんなものですが
と咲き始めていた

 の「こんなものですが」は、ヤマブキの「声」なのだ。「私はこんなものですが、よろしく(はじめまして)」と挨拶している。その挨拶を伊藤は受け止めている。
 それよりまえの木々や消火器も、「私はこんなものですが、よろしく」と行っていたのだ。その「こんなもの」としか言えないあいまいなものを、「こんなもの」そのものとしてことばを介さずに聞き取り、受け止めていたのが前半部分なのだ。

 一行目は「ランナーズ・ハイになるまで走っていると」でも「走っているとランナーズ・ハイになって」でも「意味的」には同じようなものかもしれないけれど、そうは書かずに「まって」という「動詞」を組み込むことで、伊藤のことばは深みのある詩になっている、と感じだ。
 伊藤の詩は、いつでも「待つ」詩である。「主体的」に何かをするにしても、それは伊藤自身をととのえること。自分をととのえながら、「他者」が「やってくる」のを「待つ」。外国へ行くときでさえ、伊藤は外国へ行くのではなく、外国の歴史(時間)が理解できるように、ことばを学び、本を読み、彼女自身をととのえる。そうすると、そうやってととのえられた「感性」のなかへ、「外国の時間」が「やってくる」。そして「声」を聞かせてくれる。その「声」を書き留めると、それが詩になる。
 この詩のなかでは、伊藤は、「走る」ことをとおして彼女自身をととのえながら、「世界」が「やってくる」のを「まっていた」のである。
 一行目の「待つ」という動詞は、読み落としてはいけない動詞だ。



 山口賀代子「人形」は二人の娘と入水自殺した友人のこと、その葬儀のことを書いている。

ひさしぶりにあったひとは
ほっそりと鼻梁のたかい彫りの深い顔が
むくんで 頬と鼻のたかさの区別のない
みしらぬひとの顔をして棺のなかにおさまっているのでした

 という静かな観察と、入水自殺した湖(の岸辺?)に残された二体の人形の描写の対比が印象的だ。

人形たちはほそぼそとはなしていたそうです
「なんでわたしたちは連れていってもらわれへんかったん」
「嫌われたんやろか」
そうしてしくしくとなきつづけるのでした

 この「声」は、どこから「やってきた」のか。山口の「肉体」は何を覚えているか、何を思い出しているのか。「連れていって」(連れて行く/連れる)という「動詞」に山口の「生き方(思想)」があるのかもしれない。葬儀に行くときの一連目、

れんらくのとれるかぎりのゆうじんとつれだって

 と、そこにも「連れる」がある。「連絡」の「連」も「連れる」である。「連れる」はつながり。つながりが切れたときひとは死ぬ。死んだひとも、そのひとを思うとき、そこにつながりが生まれる。そのつながりに、何かが「連なる」。
 死の旅ではないけれど、ひとはときどき仲間はずれになる。「なんでわたしたちは連れていってもらわれへんかったん」「嫌われたんやろか」というような会話を、山口はかつてその友人としたことがあるのかもしれないなあ。
 ひとは自分のなかでととのえた自分に聞こえる「声」しか聞くことはできない。


詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

*

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藤井晴美『夜への予告』

2015-11-07 10:42:18 | 詩集
藤井晴美『夜への予告』(七月堂、2015年10月30日発行)

 藤井晴美『夜への予告』は、私にとっては、藤井の三冊目の詩集である。何冊出しているか、知らない。その三冊を読んできて、藤井晴美が女なのか、男なのか、よくわからない。「晴美」を「はるみ」と読めば女か、「はるよし」と読めば男か。わからない。好きになっていいのか、嫌いと言った方が安全(?)なのか、よくわからない。ほんとうにいい詩なのか、怖いもの見たさ(?)でいい詩であると思い込もうとしているだけなのか。うーん、わからない。

 「みんな知っている、すべて知っている」という作品。

ここから
----

----
ここまで
の間 きみは何も知らない。
ぼくがどんな気持ちでいたか。

 もちろん、知らない。書かれていないので、知ることはできない。知らないけれど、「わかる」といいたい感じがする。何が「わかるか」といえば、ひとは誰でも「ぼくがどんな気持ちでいたか」と言いたいときがあるあるということが「わかる」。その「わかる」は「----」ではさまれた「あいだ」にあるのだから、「どんな気持ち」の「どんな」は言い換えができなくて、うーん、困る。
 禅か何か(?)に「にんも」というような変なことばがあったような気がするなあ。「そのような」としか言いようのない何か。「そのような」と繰り返して、つかみとる何か。その「そのような」に似ている「どんな」。
 ほかのことばに言い換えると、きっと違ってしまう。「わかっている」のに言い換えられない何か。「知らない」何か。「知らない」けれど、「わかる」。
 と書いて、私は、困ってしまう。
 藤井は「みんな知っている、すべて知っている」と「知る」ということばをつかっている。私の感覚では「知る」ではなく「わかる」なのだが、そうか、藤井は「知る」という動詞で世界をつかむのか。
 「知る」と「わかる」の違いのなかで、私は永遠に「誤読」しつづけるのだろうなあ。藤井が女か男かわからない、好きになりたいのか、嫌いになりたいのか、わからないまま、ああでもない、こうでもないとことばを書きつづけることしかできないんだろうなあ。
 と思っていると、

拝啓
ぼくはあなたに手紙を書くわけですが、たとえば
ここから
----

----
ここまでぼくが何を考えていたか誰にも分からないようにぼくには何も書けないので、いつかぼくに会ってくれるでしょうか?

 前に書かれたのと同じような構造のことばが出てくる。この部分には「間」ということばは書かれていないが、「の間」を補って、

ここまで「の間」ぼくが何を考えていたか誰にも分からないようにぼくには何も書けないので、いつかぼくに会ってくれるでしょうか?

 と読んでしまう。そうすると、そこに書かれていることは非常に似てくるのだけれど、よく読むとまったく違うことに気づかされる。
 前半は「知らない」という「動詞」が動いていた。こんどは「分からない」という動詞が出てくる。「知る」と「分かる」はつかいわけられている。
 「知る」と「分からない」とは、どう違うのか。

 前半の「知らない」は「きみは何も分からない。/ぼくがどんな気持ちでいたのか。」と書き直しても、「意味」は通じる。あるいは、そういう言い方には「違和感」がない。「日本語」としてなじむ、と言える。
 しかし、後半の「分からない」は「ぼくが何を考えていたか誰にも知らないようにぼくには何も書けないので」と書き直すと、私の場合「日本語として変」と感じてしまう。そういう言い方は、私は聞いたことかない。「知る」をつかうなら「知られないように」になるのかな。あるいは、その受け身の形から「分からないように」は「分かられないように」と考えてみることも必要があるのかな?
 「知る/知らない」「分かる/分からない」という動詞だけではなく、そのあとにつづく「ように」も影響しているのかな?
 
 たぶん、もう一度、最初の部分にもどって考え直した方がいいのだろう。
 「ぼくがどんな気持ちでいたか」「何も知らない」。けれど「わかる」。このときの「わかる」は推測できるである。そして、推測できるのは「ぼく(藤井、と仮定しておく)」がしてきたことを「私(谷内)」がしてきたからである。私の肉体が、私のしてきたことを覚えていて、思い出す。「私の気持ちは、誰にもつたわらない。どんな気持ちでいたか、誰も何も知らない」と感じたことを思い出すからである。
 「わかる」は「他人」を「わかる」のではなく、自分を「わかる」のである。自分のこととして「わかる」のであり、それは「思い出す」ということなのだ。「過去」が「わかる」。「時間」が「わかる」。
 自分がしてきたこと(自分の肉体が体験してきたこと)は、「わかる」が体験していないことは「わからない」。体験したことかないことは、新しく「知る」のである。「未知」を「未知」ではなくするのが「知る」。
 この未知を「知る」ということを、ときどき「わかる」とも言う。そのとき「知る」は正確には「知った」と「過去形」にかわっている。自分の「肉体」のなかに、とりこんでしまっている。
 あるひとはいつも乱暴だけれど、ある日ケガをしている犬を助けているのを見る。そのひとが優しい気持ちを持っているということを、私は発見する。つまり、「知る」。そして、そのひとが優しいひとだと「わかる」。「知る」は「わかる」になるが、「わかる」は「知る」にはならない。日常の世界では。
 科学の世界では逆もあるかもしれない。理論上は、こうであると「わかる」。そのあと実験によって、その理論が証明される。そのとき、理論が新事実として生まれてくる。その生まれてきたものを「知る」ということがあると思う。素粒子の発見など、そういうものだ。理論が、あるものを「わかる/分節する」。そして実験が、それを証明する。「分節」の正しさを具体化する。具体的なものが「知る」であって、「知る」までの仮定が「わかる」である、と言い直すと、なんだか論理が逆転しているような……。

 脱線した。

 また、あとから引用した部分にもどってみる。
 「わかる」とは別の動詞が、その文で重要な働きをしている。「書く」という動詞。

誰にも分からないようにぼくには書けない

 これは逆に言えば、

書けば誰にも分かる

 ということである。
 何を書く? 文字を、ことばを、書く。
 ことばを書けば、ぼくが何を考えていたか、誰にも分かる。だから、書かない。そして、この「わかる」は「知る/知られる」でもあるね。
 書けば、ことばにすれば、「何を考えていたか」「どんな気持ちでいたか」、「知られてしまう」。「わかってしまう」。
 ことばになっていないものは、「知る」ことができない。ことばを繰り返して、だれかに伝えることのできる「もの(対象)」にはできない。しかし、ことばになっていないものでも、私たちは「わかる」。ただし、この「わかる」は「正確」ではない。
 ことばとして書かれたものは、そのことばをそのまま転写して「正確」に伝達できる。けれど、ことばになっていないものは、客観的な正確さでは伝達できない。そのかわり主観的な強さを「わかる」という形でつかむことはできる。主観的に弱いときは「わからない」になるかもしれない。

 「わかる」は主観なのかもしれない。「わかる」対象も「主観」になるのかなあ。「気持ちがわかる」は「相手の主観がわかる」。「考えがわかる」の「考え」は、「考え」が「事実/形而下」ではないという見方をすれば、それも「主観」の一種。
 「わかる」とは「主観になる」ということかな?
 人間関係で言えば、「わかる」は相手の主観が「わかる」。「知る」のは、きっと主観以外の部分を指して「知る」。

 あ、だんだん、詩から遠ざかっていくような気もするのだが……。
 でも、「主観的」に言い直せば、これが私の藤井のことばへの接近なのだ。
 で、たとえば、あとの引用の前の、ぽつんと置かれた一行。

勉強もしないのに一人前に鉛筆を削る。

 これが、「わかる」。「わかってしまう」。
 もちろん私の「わかる」は「誤読」なのだが、それでも私は自身を持って「わかる」と言ってしまう。
 鉛筆を削るということを、私はしたことがある。「肉体」が覚えている。その「肉体」が覚えていることのなかには、「勉強もしないのに」という「状況」も含まれている。「肉体」が覚えていることが、藤井の「肉体」と重なり、その「肉体の重なり(セックス)」のなかで、自分の「主観」を他人の「主観」と行動してしまう。「一体」になってしまう。
 あ、気持ちがいい。
 このときのことばのセックス。そのとき、相手が私の主観(気持ちがいい)と合っているかどうかは、わからない。私のひとりよがり。つまり「誤読」。でも、詩を読むこともセックスと似ていて、最初から二人が気持ちよくなれる、いっしょにエクスタシーにたどりつく、どこかへ行ってしまうなんてことはないだろう。最初はどちらかがかってに興奮してしまう。「誤読」してしまう。

 そういう「誤読」を誘うことばが、藤井の詩のなかにはびっしりつまっている。
 「主観」の強いことばが、その強さのままことばを破壊している。破壊されたことばが「客観」として、あふれている。たとえば、「鉛筆」なんて、だれもが知っている「客観」。「削る」も「客観的」に再現できるありふれた肉体的行動。でも、それは単純であるがゆえに、深く深く「肉体の記憶」そのものに触れてくる。
 あ、そこ、そこが感じる……という感じ。

 で、困るでしょ?
 藤井が女か男かわからなかったら。そのまま「誤読」してもいいのかどうか。詩を読むこと(セックスすること)は、自分が自分でなくなってもかまわないと思ってすることだけれど、女だと思って誘ったら男だった、男だと思ってセックスしたら女だった、ということでは、「主観」が混乱してしまう。「主観」の危機だ。
 でも、誘われるなあ……。
 そこには破壊された肉体がある、といえばいいのか、肉体を破壊して動く主観があるといえばいいのか。破壊されても動く肉体の強さがある、その肉体をととのえることばの強さがある。その強いものに引っぱられる。引っぱられる快感と、その力をねじ伏せてみたいという欲望が動くなあ。
 書くということは、何かを客観化すること(知ることができるようにすること)なのだけれど、すべてを書けるわけではないから、書くことはどうしても知られないようにする(隠す)ことを含んでしまう。そして、ひとはそういうことばに触れて、そこに「あ、ここには知られないようにしているもの(隠しているもの/こと)がある」とも感じてしまう。わかってしまう、ことがある。
 その緊張感が、藤井の詩(ことばの肉体)の魅力だと思う。


破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂

*

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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斎藤恵子『夜を叩く人』

2015-11-06 10:02:36 | 詩集
斎藤恵子『夜を叩く人』(思潮社、2015年09月20日発行)

 斎藤恵子『夜を叩く人』の表題作「夜を叩く人」の書き出し。

夜更けにドアを叩く人がいます
 ばむ ばむ ばむ
チャイムが壊れているからです

 この「ばむ ばむ ばむ」は不思議な音だ。私は、こういう音を聞いたことがない。か、どうかは、よくわからない。「ドンドン」「トントン」「コツコツ」。こういう音なら聞いたことがある。か、どうかも、よくわからない。ドアを叩く音がどんな音か真剣に耳を澄ます前に、聞いたことのある「ドンドン」「トントン」「コツコツ」を思い出しているだけである。それは私が聞いた音ではなく、だれかがドアを叩く音をそういうふうに表現しているのを聞き、ドアを叩く音はそういうふうに言うのだと思い込み、かってに「整理」しているだけである。
 犬の泣き声を日本語では「わんわん」と表現するのがふつうだが、英語では「バウワウ」と言うのに似ている。ほんとうに「わんわん」と犬が鳴いているかどうか、真剣には考えずに、みんながそう言うから、そう「聞こえる」だけである。
 斎藤は、そういう「みんなが聞いているから、そう聞こえる」という音ではなく、自分自身の「肉体」で直接、その音を聞いていることになる。
 そのあと。

ドアのガラス越しに宅配便の人の姿が見えました
 夜遅くなって申し訳ありません
ちいさな包みの上にサインをしていたら
配達の人のうしろに
黒い服を着た男がふたり立っているのが見えました

 「見える(見る)」という動詞が出てくる。
 「ばむ ばむ ばむ」は、書かれていないが「聞こえる(聞く)」ということになる。他人の「肉体(慣用表現)」をとおさずに、斎藤の耳で直接、聞く。
 そういう自分の「肉体」で「直接」世界と接する斎藤の「目」は、まず、宅配便の人を「見る」。これは、そこにいる人を「宅配便の人」と「認める」ということだろう。
 そして、配達の人のうしろに

黒い服を着た男がふたり立っているのが見えました

 これは、やはり「目」で「直接」見たものであり、宅配便の人のうしろに、男がふたりいると「認めた」ということなのだが、私がこんなことにこだわるのは、「見えました」の繰り返しが気になるからである。

ドアのガラス越しに宅配便の人の姿が見えました

 この「見えました(見る)」、「いる」「ある」と同じである。宅配の人が「いる」、宅配の人の姿が「ある」。つまり「見る」と「いる」「ある」は重複して言わなくていい表現なのである。
 だから、「黒い服を着た男がふたり立っているのが見えました」は

黒い服を着た男がふたり立っている

黒い服を着た男がふたり見えました

 の、どちらかでかまわないのである。ことばの経済学から言うと、どちらかを省略した方が合理的である。けれど、斎藤は「合理的」であることを拒み、そこに斎藤の「肉体」をしっかりと絡みつかせていく。「肉体」で、「事件」に向き合う。
 起きていることを簡単に「認識」にしてしまわないで、「肉体」で触れて(「目で見る」という動詞をとおして)、そこに起きていることをつかもうとする。「立っているのが見えました」は「肉体」の「直接性」の強調なのである。
 「肉体」は「肉体」を見る。「肉体」は「肉体」の動きに「直接」反応する。

配達の人は黒い服の男を入らせないように
ひじを張りからだでドアのすきまをふさいでくれます
それなのに
先の尖った黒い靴が生きもののように入ろうとするのです

 うーん。
 斎藤が「最初」に「見る」のは、どっちだろう。配達人の後ろから入ってこようとする男(ふたり)だろうか、それともそれ防ごうとする配達人だろうか。
 きっと配達人だろう。「ひじを張り」「すきまをふさぐ」。その「肉体」の「動き」。それを見る。そして、その「肉体の動き」に気づいて、まわりをよく見ると「尖った黒い靴」が「入ろうとする」のが「見える」ということだろう。
 男が入ってこようとする、それを配達人が塞いだ(防いだ)、という順序で書かれていないから。
 で、ここで疑問。
 ほんとうに配達人のうしろに男がふたりいるのか。
 そのふたりの男は、「見えた」と斎藤が勘違いしているだけなのではないのか。
 「尖った黒い靴」を斎藤は書いているが、それは「ふたり」いるはずの、どちらの男だろう。「ふたり」とも入ってこようとしているか。それとも「ひとり」だけが入ってこようとしていて、もうひとりは傍観しているのか。あるいは配達人と同じように、その「ひとり」を押しとどめようとしているのか。
 うーん、もしかしたら、それは「幻覚」? 配達人の姿(入口にひじを張っている)を見て、斎藤が感じたこと?
 それが証拠に、「ひじを張りからだでドアのすきまをふさいでくれます」「先の尖った黒い靴が生きもののように入ろうとするのです」には「見えました」が省略されている。「見ていない」のである。「見る」という「動詞」を省略して「肉体」で「直接」感じ取っているのである。「肉体」全体で、掴み取っているのである。見ていたら、

ひじを張りからだでドアのすきまをふさいでくれ「ているのが見え」ます

先の尖った黒い靴が生きもののように入ろうとする「のが見える」のです

  と「見る」という動詞を書くはずである。

 「耳」で直接「聞く」。他人に頼らず自分の「肉体」で「聞く」。そうすると、ふつうの人が聞くのとは違った「ばむ ばむ ばむ」が聞こえる。
 同じように、「目」で直接「見る」。他人に頼らず「肉体」で「見る」。そうすると、ふつうの人が見るのとは違ったものが「見える」。配達人がドアをひじで押さえるのは、荷物を入れるため、あるいはドアに自分のからだがはさまれないようにするためではなく、背後から人が入ってくるのを防ぐため。その背後の人(隠れている人)は、実は宅配人の背後ではなく、「内部」に隠れているのかもしれない。「内部」に隠れていると感じるというのは、宅配人と隠れている人が「同一人」ということでもある。
 ほんとうは宅配人が入ってこようとしているのではないのか。

夜の冷たい風が吹きます
わたしはからだがふるえてきました
黒い服の男に何かいわれたら
いいなりになるような気がしたのです

 「いいなりになる」のは誰だろう。斎藤か。そうではなく、宅配人だろう。宅配人は内部に「隠れている人」に何かいわれたら「いいなりになる」。誰だって「内面の声」の「いいなり」になってしまう。その結果、斎藤は宅配人の「いいなり」になってしまうかもしれない……。
 そういう「もの/こと」を斎藤は「見ている」。

 このあと、斎藤は、そんなことを感じている「わたし」の「うしろ」に「母」を感じる。宅配人の「うしろ(内面)」に「年配のがっちりした男」と「細く若い男」という「ふたり」がいたように(この部分の引用は省略)、斎藤の「うしろ(内面)」には「母」がいる。その「母」との「やりとり」は省略して、最後、

遠く夜を叩いている音が聞こえてきます
 とむ とむ とむ
生きているから恐ろしい
静かな風が吹いています

 「とむ とむ とむ」は「ばむ ばむ ばむ」よりは「静か(遠い)」感じがする。これも「直接(他人のことばに頼らずに)」、斎藤が聞いた音。
 「他人に頼らず(他人を借りず)」に自分自身の「肉体」だけで「いま/ここ」で起きていることに向き合うと、こんなふうに「幻覚(幻視)」とも「幻聴」とも言えるような、変な世界があらわれる。
 「幻覚」「幻聴」になってしまわないのは、「肉体」が、「幻覚」「幻聴」になろうとする欲望(本能)を抑えるからかもしれない。「生きている」ということは、自分のなかにある「幻覚/幻聴」を抑えながら生きること、そういう「恐ろしい」ことなのだと気づくということかもしれない。
 自分の肉体(ひとりの人間の肉体)のなかには、他人とは同じではない(自分自身とも同じではない)人間がいて、耳を澄まし、目をこらしている。他人のことばでととのえられた「耳/目」で世界と出会っているのではなく、「直接」、世界と出会っている。その「直接」生きている人間(他人のととのえられたことばの背後/内部を生きている人間)を、ほんの少し動かす。それだけで世界はこんなに変わってしまう。

 「さみだれ」にも、不思議な「音」が出てくるが、省略。
 「白粉花」はとても好きな作品だが、同人誌「どぅるかまら」で読んだとき感想を書いたので、これも省略。
 どの作品も斎藤の「肉体」が動き、それが「ことばの肉体」へと静かに変化していくところがあって、とてもおもしろい。



夜を叩く人
斎藤恵子
思潮社


*

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平田俊子『戯れ言の自由』

2015-11-05 10:20:04 | 詩集
平田俊子『戯れ言の自由』(思潮社、2015年10月31日発行)

 私と面倒くさがりやである。面倒くさいことが大嫌いである。だから、だじゃれや語呂合わせが苦手である。ひとつのことでも面倒なのに、わざわざ二つ(二つ以上?)のことを考えるのが、とてもイヤ。
 だから歴史の年号、「いいくにつくろう鎌倉幕府、1192年」という覚え方が面倒で歴史なんか大嫌いになった。これを覚えているのは、「こうすれば覚えられる」と最初に聞かされたからだが、そんな長い文章を覚えるくらいなら「1192年、鎌倉幕府」の方が短くて覚えやすい。英語に(他の外国語に)カタカナで読み方を振っているのも、見ただけでぎょっとする。私はもともとカタカナ難読症でカタカナが読めないから、「カタカナで読み方を書いておくといいよ」と言われなかったので、英語は歴史ほど拒絶反応がでなかった。
 と、余分なことを書いているのは。
 実は、平田俊子『戯れ言の自由』。これが、面倒なのである。だじゃれ、語呂合わせが次々に出てくる。多くの人は、そこで「笑う」のかもしれないが、私は、あっ、面倒くさい、何で二つのことを考えないといけない? かけ離れたものを結びつけないといけない?と思ってしまう。「かけ離れたものの出合い」が「詩」であるとしても。
 たとえば、「犬の年」。

えー、みなさま、こんチワワ。
きょうはぶるブルドッグと震えるほどの寒さですね。
わたくし、スカートの下にスピッツはいてまいりました。
家を出るのが遅くなったのでシェパード違反でここまできました。
朝食べたのはマルチーズトースト。
お昼はワンコそば。

 「ワンコそば」以外は、「犬種」の名前が「だじゃれ(語呂合わせ)」としてつかわれている。私は犬好きだから、そのひとつひとつの犬を識別できるし、「チワワ=まろ、はなちゃん」「ブルドッグ=ビー玉」「スピッツ=レオ」と、飼い主の名前は知らないけれど犬の名前なら全部言えるけれど、それをはっきり思い出してしまうと、「かけ離れたものの出合い」が「すれ違い」ではなくて、ほんとうの「親密な関係」になってしまって、ことばを駆け抜けられない。
 「いいくにつくろう鎌倉幕府、1192年」の鎌倉幕府ってほんとうに「いい国」? と考え込んでしまう感じ。だれが開いたのだっけ? 成立するきっかけは? ほんとうに大事なのは「1192年」ではなくて、他のことじゃない? と考えるのに似ているかなあ。
 うーん。
 きっと、具体的に犬を思い浮かべず、ただ「音」のなかに「犬」がちらっと見えたな(聞こえたな)、と思うだけでいいのだろうけれど。
 私は、こういう「聞こえたのに、聞こえないふりをする」というような「人間関係」に似たものも、苦手なんだなあ。「聞こえたら、聞こえた」「聞こえないなら、聞こえない」。違うことをして、その「場」をやりすごすというのも、なんだか面倒くさい。「気配り」というような面倒なことは大嫌い。
 平田俊子には幸い(?)会ったことがないが、会うときっと「気配り」に息が詰まりそうだなあ。
 「気配り」は詩の展開(ことばの展開)のなかからもうかがえる。

ブロッコリーは緑の犬です。
チビでもがんばるダックス奮闘。
お風呂が大好きな銭湯バーナード。
芝居が好きな犬は柴犬。

 だじゃれの構造が「みなさま、こんチワワ。」とは違ってきている。
 最初の方は、「こんチワワ」「ぶるブルドッグ」と「音」がそのまま「だじゃれ」になっている。カタカナ、ひらがなという「表音文字」だけで構成されている。「表音文字」で「だじゃれ」であることを意識させておいて、「ダックス奮闘」「銭湯バーナード」という「表意文字(漢字)」を組み合わせた「高級だじゃれ(?)」へと進んでいる。
 どういう具合に展開すれば、読者がことばに簡単についてくるかを考え抜いている。「スカートの下にスピッツはいてまいりました。」というのも、読者サービスだな。「下ネタ」というのは「肉体」にぐっと迫ってくるからね。人間の距離を縮めるからね。
 引用した部分と、感想の順序が前後してしまうが、「ブロッコリーは緑の犬です。」の意表のつき方なんかすごいね。
 「ブロッコリー」を「ブロッ+コリー」に分解した上で「緑の野菜+犬」と重ねないといけない。すぐには「犬」とはわからない。ちょっと考えてしまう。ここから「高級篇だじゃれですよ」と宣言している。
 すごい「気配り」でしょ?

 しかし疲れるなあ。これを読むのは疲れるなあ、と思いながら読むのだけれど、「か」「いざ蚊枕」「まだか」の「三部作(?)」はおもしろいなあ。
 「だじゃれ」が単発ではない。ひとつの作品では終わらずに、書き足りなくて、次の作品を生み出していく。平田はけっして「面倒くさい」と思わない人間なのだ。きっと、私のようになんでも面倒くさいと思う人間こそ、平田にとっては面倒な人間かもしれない。もし出会ってしまったら、どこまでも面倒みないと気が収まらないだろうなあ。そこはこうして、あれはこうして、ほらこうできたじゃない、と気がすむまで面倒を見ないとおちつかなくなるんだろうなあ。
 いやあ、一度も会わずにすんでいるのは幸運だ。(私は人に会うのが面倒だから、実際に会ったことのあるひとがほとんどいないのだけれど。)

蚊についてもう少しいわせてください              (「いざ蚊枕」)

まだかについて考えている
まだ蚊について蚊んがえている                  (「まだか」)

 平田にとってはどれだけ書いても「もう少し」なのか。「まだ」は「また」の重なって、かさなりすぎて「濁った(濁音)」になってしまった状態かもしれないが、これじゃあ、おわらないねえ。面倒だねえ。ほんとうに面倒くさいよ。
 で、面倒くさいついでに。
 「だじゃれ」について私が感じている疑問を書いておこう。
 私は平田の詩を「活字」で読んでいる。私は黙読派で音読はしないのだが、「活字」で読むことと、「音のだじゃれ」はどういう関係にあるのだろうか。

まだ蚊について蚊んがえている

 これを「朗読」で聞いたら、この書き方として聴衆は再現できるだろうか。読むときに「蚊について」の「か」は「ぶーんと飛ぶ蚊」、「蚊んがえている」は「思考している、考えている」ではなく、最初の「か」は「ぶーんと飛ぶ蚊」の「蚊」の文字ですと説明するのかな? それとも「テキスト」を聴衆に配って、そのうえで「読みながら聞いてください」というのかな?
 「気配り」のひとだから、もし朗読するとしたら、テキストをちゃんとプリントして配った上で読むんだろうなあ。でも文字で読んでいるだけだと「だじゃれ」にならない。「文字のだじゃれ」は「変換ミス」の類だろうなあ。平田のやっているのは、しかし、音に重点がある……。

 さて。
 私は40分以上書きつづけると、目がぼんやりしてきて、書くのがイヤになるのだが、次の日に持ち越すのは面倒なので、大急ぎで書けるところまで書いておこう。
 「だじゃれ(語呂合わせ)」というのは、立ち止まらずに、通りすぎる関係に似ている。あ、いま変なものを見たな、くらいの感じで楽しめばいいのかもしれない。じっと見つめて「ガンつけたな」なんてからまれないように、見るにしても、通りすぎて相手が見ていないのを確認してから、こっそり見るくらいがいいのかもしれない。
 私のように長い感想なんか書かずに、「楽しかった」「いろんな楽器で同じ音を出すと、音の種類の多さにびっくりするけれど、それを聞いた感じ」なんて、言って終わりにすればいいのかもしれないけれど。
 平田の詩は単なる「だじゃれ(語呂合わせ)」でもない。「だじゃれ/ことばの音の遊び/音楽」なら、なんといえばいいのか、その「音楽」は最初から最後まで「一定」(一種類)ではない。音楽の世界では、クラシックはメロディーを変えて演奏されることはないが、テンポはわりと自由だ。ポップスの世界ではリズムは変えないがメロディーはアドリブで変える。どちらも「変化」がある。同じように、平田のことばの展開も「変化」する。平田がやっているのがクラシックかポップスかわからないが「変化/変奏」が音楽を楽しく豊かにしていることは確かだ。
 「犬の年」では「技巧」の変化があったが、もっと変な「変化」がある作品がある。「マドレーヌ発」は菓子の「マドレーヌ」から「マーマレード」をとおって「窓」をとおり、鴎外をも駆け抜ける。この変化が、非常に自在で、あれ、あれあれっという感じ。そうか、「変化」するために、あえて「同じ(音)」を踏まえるのか、と思う。
 人間のなかにある「同じ」と「変わる」、そのときの「持続」の奥底を「ことば」のなかに探す方法として、平田は「だじゃれ」を利用している。もしかすると、それは「偽装」かもしれない。ほんとうは人間の哀しみを描いている。でも、そういうことを正面切っていうのは照れくさい。だから「だじゃれ」をくぐりぬける。これも、一種の「気配り」だなあ。
 「アストラル」は「だじゃれ」を含まないが、そのかわりに「アイスクリーム」「あめゆじゅ」「レモン」が、愛するひとの最後の食べ物の「最後の」という部分でつながり(だじゃれのように重なり)、冷蔵庫(アトラス)という変奏を経た上で、草野心平、宮沢賢治、高村光太郎という三人の人間になる。三人になりながら、同時に、ひとを愛するという「ひとり」になる。
 こういう「変化」と「同一」の関係を、平田は見つづけて、それとことばを交わらせている。「だじゃれ」の奥には、そういう精神がつながっている、と感じた。

 まだ書きたいのだが、さらに端折って……。
 『戯れ言の自由』という詩集のタイトル。これはなんだろう。「戯れ言」なんて「自由」以外の何ものでもない。わざわざ「自由」とつけたのはなぜ?
 「意味からの自由」? だじゃれによって「意味」を引き剥がし、身軽になって、既存の「意味」とは違うところへ行ってしまう。
 そうかな?
 でも「マドレーヌ発」や「アストラ」を読むと、勝手気ままな「自由」ではないなあ。既存の「意味」を超えて行きたいという欲望は、「自由」よりも何か「強い不自由」のなつかしさを秘めている。人間の本質的なかなしみに触れている感じがする。
 もしかしたら「自由」は「銃」なのか。しかも拳銃ではなく、機関銃だな。どこまでもどこまでも弾を発射しつづける銃。既存の「関係」を破壊して、破壊しても破壊してもこわれないものが、その破壊のあとから立ち上がってくる。そういうものを育てるための、あえて選ばれた「銃」、そういう世界へいくための「武器」なのかも。

戯れ言の自由
平田俊子
思潮社

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アレクサンドル・コット監督「草原の実験」(★★★★)

2015-11-04 22:29:46 | 映画
監督 アレクサンドル・コット 出演 エレーナ・アン

 この映画の成功は主演にエレーナ・アンを起用したことにつきる。美人である。そして、どこか孤独の陰がある。思わず引き込まれてみてしまう。そして、もしかすると、このことには父親(だれ?)の存在が貢献しているかもしれない。父親は、醜男である。でぶである。とてもこの父親からこの美人が生まれたとは思えない。思えないと書きながら矛盾したことを書くのだが、これが実に似ている。目元の感じ(眼差しの感じ?)、口元の感じが、あっ、父娘だと思わせる。
 うーん、不思議。
 美人の娘と醜い父親、と言えば、ナスターシャ・キンスキーとクラウス・キンスキーを思い浮かべるが、あの美醜は紙一重という感じの似方ではない。あれは、人間離れした強烈な線がととのえられることであらわれてくる「激しい美」であって、まあ、そういう「遺伝」の仕方はあるなあ、と感じさせる。ナスターシャ・キンスキーは私の感覚では「世界一の美人」だが、それは「醜さ」を内部に隠した美。「醜さ」を洗練でととのえて、それまでの洗練にない陰影を付け加えた美しさ。人工の美しさ。人工という野蛮を秘めた美しさ。美しさの影に暗い醜さが走り出しそうな予感を秘めた美しさ、という類。男優で言えば、若いときのアラン・ドロンだね。
 そういう「似方(遺伝の仕方)」とは違う。「醜さ」のなかにある強烈な線を鍛え直したという遺伝の仕方ではない。実際の親子ではないから、こんな言い方は正しくないのだが……。でも、言ってしまおう。エレーナ・アンと父親は、「おとなしい似方」である。「醜さ」を鍛えなおすのではなく、むしろ数少ない「美しさ」を大事に育て上げた美しさ。「醜さ」を捨てた美しさ。孤立した美しさ。エレーナ・アンの美しさは、どこか「おとなしい/そばにいてやりたくなるような寂しい感じ/孤独な感じ」は、少ないものを大事に育てているからである。
 で、これは、その女優の存在感そのものともなる。ナスターシャ・キンスキーから恋されたらどうしようと不安になるかもしれない。「激しい美しさ」の「激しい運動」に肉体がひっかきまわされるのではないかと不安になるに違いない。が、エレーナ・アンならうれしいだけで、不安はないだろうなあ、という感じを与える静けさ。醜い父親のなかにある、何か、「醜さ/強暴」から遠いところを大事に引き継ぎ、それを結晶させた美しさという感じ。
 あ、なかなか映画の本題に入らない?
 いや、たぶん、これが本題なのだと思う。
 この映画では、まわりに何もない草原の暮らしが描かれる。草原の暮らしといっても、まあ、よくわからない。何の仕事をしているかよくわからない父親と娘が二人で暮らしている。少女のそばに二人の青年があらわれる。一方は同じ草原で暮らす若者。もうひとりは草原ではないところ(街?)で暮らす若者。そして「三角関係」がはじまる。父親が死んでしまい、娘は一度は草原の若者と結婚して暮らそうと思うが、その若者の家まで行って、そこに暮らしている家族(親族?)を見て気持ちが変わる。「古い世界」に見えてしまう。そして、そこから逃げ帰り、もうひとりの若者と暮らす。
 そういう経緯が、何もない草原、光と風と、水(雨)のなかで描かれる。その草原は、「自然」そのもの。いわゆる「洗練(人工)」とは無縁な世界。自然は過酷かもしれないが、その過酷に耐えるものには「いのち」をわけあたえてくれる。そのわずかなものを受けいれて、大事にする。そこに「暮らしの美しさ」がある。それに通い合う美しさがエレーナ・アンにある。
 カメラはそういう数少ない自然の美しさを最大限に拡大してとらえている。透明な太陽の光。その広がりの純粋さ。夕陽が落ちて、空の色が変わる美しさ。草のそよぎ。風に散っていく最後の木の葉。これをカメラアングルという「人工」の操作で切り取り、エレーナ・アンと合体させ、世界を「静かな美」に統一していく。「芸術」にしていく。(父親がトラックで昼寝をしているとき、あるいはトラックから娘を下ろしひとりで仕事に行くときの鳥瞰アングルは、人工の美。カメラアングルをとおしてしか見ることのできない美である。)しかし、そういう「人工的操作」(映画の細工)は、あくまでエレーナ・アンの「静かな美」を強調するためのものである。
 「自然」ではなく「暮らし(人工)」とエレーナ・アンの調和した部分では、三つのシーンが忘れられない。ひとつは、トラックのバッテリーから電気を引き、ラジオで音楽を聴くシーン。ここに、エレーナ・アンが「草原」という「自然」ではなく、「街」という「人工」、街からきた若者を選んでしまう要素が隠れている。二つ目は、その街の若者がスライドを映写して見せるシーン。少女の写真をスライドにして家の壁に映す。少女はこのとき、はっきりと自分の美しさを客観的に認識する。
 もうひとつ。これは、かなり微妙。街の若者に、井戸から水を汲み上げて渡す。そのときの、井戸に映る娘と若者の姿。最初は水面が揺れて光と影が乱れるだけだが、それが徐々に静まり、二人の姿をくっきりと映す。井戸は「人工」のものだが、ラジオやスライドとは違う。娘の暮らし、「草原」の暮らしと深く結びついているものである。これが、やっぱり娘の「美」の本質だろうなあ。
 この「自然」の静かな美(おとなしい美)が「人工(街の若者)」と結びついたとき、そこにもっと大きな「人工」が「美」を破壊しにやってくる--と見るのは、たぶん、「深読み」になるのだが……。その「深読み」を誘うものが、この映画にはある。
 娘が草原の若者と結婚することを拒み、街の若者を選ぶ。その翌朝、二人は、綾取りをして無邪気に時間をつぶしている。(あ、その前に、もうひとつ、とてもメルヘンチックな美しい映像があった。裸で抱き合うふたりと同じように、選択した洋服が風に吹かれて抱き合うシーンが、とてもすばらしかった。どうやって、服を動かしたのだろう。)その、無邪気な美しさを、草原のどこかでおこなわれた核実験が一瞬のうちに破壊する。「人工」は、いつでも「自然の静かな美」を破壊するものなのだ。
 この映画は、ロシア版の「トゥモロウ/明日」と言える作品だが、「トゥモロウ/明日」との違いは、「暮らしの美しさ」よりも「自然の美しさ」の方に重点を置き、その「自然の美しさ」をひとりの少女、エレーナ・アンに代弁させていることだろうなあ。「暮らし/働き、生きること(苦労の美しさ)」を父親に代弁させ、一方でそういう「暮らしの美」のなかにある静かな美をエレーナ・アンに引き継がせていることだろうなあ。父親の死が、核実験と関係しているらしいのも「人工」の暴力を語っているかもしれないなあ。映画にあらわれる唯一の台詞(?)は、娘にふられた草原の若者が泣く、その「泣き声」だが、もし娘が草原の若者と結婚し、草原で暮らすのだとすれば、ラストシーンの「実験」はなかっただろうなあ、と思った。そういう意味でも、主演はエレーナ・アンでなければならないのだと感じた。
                      (KBCシネマ1、2015年11月04日)






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