詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「くるくるくるみ」、松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」

2017-10-24 12:02:05 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「くるくるくるみ」、松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」(「イリプスⅡnd」23、2017年10月10日発行)

 北川透「くるくるくるみ」をどう読むか。

くるくる草繁み 啼く鳥潜み
くるくるまわる 野の頭蓋骨
ぐるぐる悪巧み 潜水艦潜水
くるくるはずれ 赤蜻蛉墜落
くるくる果てよ 白麻経帷子

 意味はあるか。一行目は、草の繁みに潜んでいる(隠れている)鳥がくるくると啼いているのか。二行目は、野原を頭蓋骨がころころ転がりながらまわっているのか。あるいはあまりの軽さに風にまわっているのか。三行目はどうか。悪巧みを企てている潜水艦が、どこかを潜水したまままわっているのか。四行目はつがっていた赤蜻蛉が、セックスがおわり、いのちが果てて輪がほどけて落ちていくのか。トンボはセックスするとき輪をつくるなあ。五行目は、四行目で死んだ赤蜻蛉に対して、いいんだよ、そのまま「果てなさい」と言っているのか。死んだから帷子を着るのか。
 「潜水艦」を野にある池のなかの鯉か鮒か、あるいは蛙と考えると。セックスの果てに落ちてくる蜻蛉を狙っている姿にも見える。ある日の野原の動物たち(いきものたち)の姿が描かれている、というふうに「意味」にすることもできる。「潜む」と「潜水艦」、「頭蓋骨」と「(白麻)帷子」というのは「意味」をつないでいるとも読むことができる。
 でもね。
 こういうことは、強引な「意味の後付け」であって、ことばの運動とは関係ないね。「意味」とはいつでも捏造できる。「意味」なんて、ことばを読む楽しみとは無関係。読んでいて、あ、なんとなくおもしろい、と感じているとき、「意味」なんか考えていない。
 読んでいるときは、私は、そこに「音がある」ということしか感じていない。「似た音」が「似た音」を引き寄せながら動いている。へええ、どこまで「似た音」があるのかなあ。北川は、どこまでこれをつづけるのかなあ。そういうことを感じている。
 ついでに言うと。
 この、北川の「音」というのは、谷川俊太郎・覚和歌子『対詩 2馬力』のなかで動いている「音」とはぜんぜん違うなあ、とも思う。「自己主張」が強い。「独唱」の「声(音)」であり、鍛え上げられた「地声」だ。
 二連目は、こうだ。

くるくるの影 わが骨まで喰らえ
神も死に悪魔息絶え くるくる生きる
くるくるちゃん 渦巻く波間から舌だしペロリ
潮流は遠くまですたれ ぐるぐる荒れてる濁ってる
くるくる逆さ吊り 背骨の瞋りくるりくるり揺れている

 一連目の「死」(頭蓋骨、帷子)をひきずっているのか、いないのか。まあ、どうでもいい、と書くと北川に叱られるかもしれないが、私は、気にしない。「悪魔」とか「くるくるちゃん」というのは北川の「好み」なんだろうなあ。あ、北川だ、感じる。町で知り合いを見かけたとき、あ、〇〇だ、と思うのに似ている。思ったからといって、どうということはない。なつかしいと思うときもあれば、会いたくないなあ、目が合わないようにしようと思うときもある。
 そういう、どうでもいいことを感じながら。
 やっぱり「音」を感じる。私は音読するわけではないが、目で文字を追いながら、私の喉や舌が動くのを感じる。その「動き」が快感である。オナニーみたい。「荒れてる濁ってる」と「終止形(たぶん、連体形ではなく……)」という動詞の重ね方、「逆さ吊り」「瞋り」(ナニ、り? 読めないでしょ? 引用しようとすると、読めないと引用するとき漢字変換ができない、困ったなあ。実は「いかり」)と「り」を繰り返して、それが「くるくる」にまぎれこんで「くるりくるり」。ああ、ここが、最高に気持ちがいい。オナニーで言うと、射精寸前の昂り。(勝手によがってるんじゃないよ、と言われそうだが。)で、あの読めなかった「瞋り」って、読んでみると「いかり」で、それは「逆さ吊り」の「さかさ」の「か」の音を含んでいて、それが「肉体」のなかの「か」の音を明るくする。これも、快感だなあ。
 このあと詩はさらにつづいて、(途中省略)

胡桃割り胡桃を割って生き急ぎ胡桃色にて胡桃終えたり
手のひらに胡桃くるみて渡す日は秋の紅に焼かれていたり

 「胡桃」まででてきた。あ、「胡桃」は鈴木志郎康だんたっけ。まあ、いい。
 「くる+り」に「み+わ」が割り込んで「胡桃割り」なのか、「くる」と「り」が「み、わ」を「くるみ」(包み)、それが「胡桃割り」なのか。あれっ、「割る」と「くるむ(包む)」が逆だなあ。
 というようなことも思う。
 「手のひら」と「くるむ」という動詞の自然な結びつき、さらに「手のひら」から「手のひら」へ「渡す」という動詞の変化も自然でいいなあ、とも思う。
 とりとめもないことを、とりともめないまま思いながら、北川のことばの「音」に、私の肉体のどこかが反応している。
 そこから「意味」を捏造しようとすれば、また捏造できるかもしれないけれど、それはしない。なぜか。簡単に言うと、面倒くさいからなんだけれどね。「意味」というのは捏造してしまうと、それなりに「意味」になるけれど、捏造するにはあちこちを「既成のことば」でつなぎあわせないといけない。「意味(論理)」は既成のもののむすびつきだからね。それは、「音の快感」に酔っているあいだは、ちょっと、しにくい。
 一連目で「意味」を簡単に捏造できたのは、まだ「音」に驚いているだけで、「酔う」ところまで私が入り込んでいないから。それがだんだん「音」に入り込むと、「音」に「酔う」ことで満足してしまうから「意味」を捏造したくなくなる。
 こういう「変化」が私の「肉体」の内部で起きている。



 松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」。その一連目。

             あつい夏の中でかがやく真昼の日差しにつかれすずやかな
夕暮れを待ってみてもいまだあつい文脈が絡まる躰に表現がついてまわるそれは日々の
発酵日々の堆積日々の腐乱をあてどなくかきまぜて調和の取れない肉質の生理だろうか
尻尾がはえない動物だからだろうか不連続な声を聞き耳をそばだて追いすがる見えない
相手がただただ立ちはだかっているミーチャミーチャこうして粗暴になり手当たり次第
に当たり散らすあなたはなんて正直者恋で心が弄ばれて一直線に向かう破滅は崇高だよ

 「絡む」という動詞が出てくるが、ことばが「絡む」なあ。それが松尾の「文体」というよりも「文脈」というものなのだろう。
 でも、これが「隙間のない混沌」なのかどうか。
 むしろ、隙間でできた混沌、偽装された混沌と感じてしまう。
 「意味」に脈絡がありすぎる。「あつい」は「すずやか」ということばと結びつきは「混沌」を装うけれど、「真昼」と「夕暮れ」という「対比」のなかで「時間」を意識させ、「時間の意識」は「日々」へと変化する。「一日」から「複数の日々(歴史)」という具合に。ここには最初から「調和」がある。「不連続」を装っても、それは「不連続」という「連続の一形式」であり、そこには「一直線」の「意味」しか存在しない。「はげしく隙間のない混沌」という「視点」で統一された世界だ。これを「凝縮」ということばで定義しなおせば、たぶん松尾の詩を「評価」になるのだろうけれど。
 「凝縮」よりも、私は「逸脱」と「解放」の方が好きなので、読んでいて、ふーん、という気持ちになってしまう。松尾のことばから、わたしの「肉体」が離れていってしまう。

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安倍の沈黙作戦

2017-10-23 10:37:49 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦
            自民党憲法改正草案を読む/番外132(情報の読み方)

 2017年10月23日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面。

自民圧勝 与党310超/立憲民主3倍増/希望敗北 東京も不審

 と大きな見出しで衆院選の結果を伝えている。そのあとに

自公2/3(三分の二)維持

 というこぶりの見出し。
 ほかの新聞は、どう伝えているか。
 いま、手元に比較の資料がないのだが、昨年の参院選のときは

改憲勢力3分の2超す 自公、改選過半数

 というような見出しが多かったと思う。
 参院選では「改憲」は争点に張らなかったが、選挙が終わってみると一気に「政局の争点」になった。
 今回の衆院選では、安倍は最初こそ「改憲」を語ったが、途中からは改憲については語らず、あいかわらず「アベノミクス」、5年前の民主党との経済状況の比較に終始していた。(厳密な分析ではなく、大雑把に新聞を読んだ印象だが。)
 読売新聞は、社説で「今回の衆院選では、憲法改正が本格的な争点になった」と書いているが、安倍は、憲法をどう改正するのか、自衛隊を憲法に書き加えると抽象的に語っただけだし(具体的な「案」の文言を語らなかったし)、公明党は希望の党を批判するだけだった。自衛隊を憲法に書き加えることについて、どういう主張を持っているのか語っていない。

 今回は「改憲」の見出しは、3面に

改憲 希・維との連携カギ/首相、与党のみの発議否定

 が出てくるが1面にはない。関連として「自公2/3(三分の二)維持」があるのだけれど。
 この報道の仕方は、私には奇妙に見える。
 今回の衆院選が、「希望の党」「立憲民主党」という新しい党がどれだけ議席を獲得するか、与党がどれだ議席を守るかがひとつの焦点ではあったのだけれど。
 でも、それは「改憲」が控えているからのはず。
 どうして「改憲」の見出しがないのか。
 もっと具体的に「改憲」の内容に踏み込んだ記事がないのか。




 思い出すのは、2017年10月20日の朝日新聞夕刊(西部版・ 4版)の 1面の記事(見出し)である。

注目論点 かみ合わず/憲法 改憲派、低い優先順位/教育無償化 与野党ほぼ「賛成」

 改憲派が「改憲」についてあまり語らず、そのため争点にならなかった、と伝えている。
 そのとおりなのだが、こういう「現象」の紹介の仕方に私は疑問を持っている。
 「争点」にならないのなら、それを「争点」になるように、言論機関が与野党を紙面に引っぱりだすことが必要なのではないのか。
 選挙が終われば「争点」になる。そのための選挙であるともいえる。
 与野党を紙面に引っ張りだし、主張を言わせ、その主張の問題点を指摘することで、議論をさらに深める。そういうことが、言論機関に求められているのではないのか。
 言論機関は、そういうことを避けて「論点かみ合わず」と逃げている。
 これは、安倍の「沈黙作戦」に加担することである。
 もし、朝日新聞が「論点がかみ合っていない、それが大問題だ」という認識をもっているのなら、論点をかみ合わせるための「論調」を展開するべきだったのだ。
 そうしていれば、有権者の意識もかわってくる。
 投票行動もかわってくる。
 投票率も上がる。
 「論点」を報道することを避けている。避けることで安倍の「沈黙作戦」に加担する。言い換えると、投票率が下がるように協力する。投票率が下がれば、巨大政党が有利になる。巨大政党(自民党)に有利になるように、報道機関は「沈黙作戦」に協力したのである。

 安倍は重要な問題については何も語らない。
 その語らないという安倍の作戦に、報道機関が、そのままのっかっている。
 昨年の夏の参院選で、この「作戦」が顕著になった。
 籾井NHKが7月9日の7時のニュースのおわりに、「あす7月10日はナナとトウで納豆の日」と言ったのが象徴的だ。参院選があるということを伝えないようにした。
 投票率が下がるように、操作したのである。
 選挙報道も、昨年夏の参院選は、それまでの国政選挙に比べて目立って減っている。当然「争点」の報道、「争点」を掘り下げる報道などない。
 安倍の日程の調整がつかないという「理由」をうのみにして、「党首討論会」も一回しか放送されていない。
 格闘がどんな主張をもっているか、その主張にどんな違いがあるのか、それを国民に知らせないようにしている。安倍の「沈黙作戦」に協力したのである。

 「改憲」が現実味を帯びてきたいま、「改憲」ということばを読売新聞は1面の見出しから「封印」している。
 これは「改憲」をこっそりと進める安倍の「方法論」に加担することにはならないか。
 天皇の生前退位をめぐっては、安倍は「有識者会議」を設け、議論を限定した。安倍の好みの人物にだけ議論させ、その結論を押しつけた。
 「改憲」でも同じことが起きるだろう。
 国民のなかに「議論」をひろげるというよりは、議論を限定する。「憲法審査会」はまだ「広がりすぎる」ということになるだろう。もっと小さな新組織が設けられ、「密室状態」で審議され、「結論」が提示される。
 そういうことを暗示させるきょうの読売新聞の見出しである。

改憲 希・維との連携カギ/首相、与党のみの発議否定

 というのは、自民・公明以外の、希望、維新をしっかりと抱き込んで「改憲案」をつくり、それで押し切るということ。
 そこには立憲民主や共産は参加できない。
 反対意見をいえない。反対意見を言う機会がない。
 少数意見を封印し(沈黙させ)、希望、維新を抱き込むことだけで、「広く議論をした」と主張するつもりなのだ。 
 この動きが、すでに始まっている。
 そういうことを読売新聞の「見出し」は暗示している。
 「改憲」を表に出さない。しかし、確実にそれを推し進める。

 自民党のもくろんでいる「改憲」にどういう問題があるか、それをどうやって「議論」に高めていくか、そういうことが必要になってくる。
 マスコミがそういう「議論形成」をリードしないことで安倍の「沈黙作戦」に協力するのなら、なおのこと、ひとりひとりが「議論」のための「思い」を語り続ける工夫が必要になってくる。



 私の「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」は、昨年夏の参院選の、安倍の「沈黙作戦」に気づいた後、急遽、書いたものだが、そのなかでは「自民党草案」の「文言」にこだわっている。なぜ、ある文言を削除し、別のことばに差し替えたか。そこにどんな罠が隠されているか。それを書いている。
 改憲問題を考えるときの、参考にしてみてください。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 








詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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デビッド・リーチ監督「アトミック・ブロンド」(★★★)

2017-10-23 09:11:00 | 映画
監督 デビッド・リーチ 出演 シャーリーズ・セロン、ジェームズ・マカボイ

 この映画の成功は、主役が女であること。時代がベルリンの壁がある時代であるとこ、だな。
 と、書くと。
 特に「主役が女」という見方は「女性蔑視」の視点があると言われそうだが。
 そうかもしれない。
 でも、そう思うのだからしようがない。

 なぜ「主役が女」であることが映画をおもしろくしているか。
 近ごろのスパイ映画は、どれもこれもアクションが超人間的。ジェームズ・ボンドもジェイソン・ボーンも。あんなこと、できっこないよなあ。
 これがシャーリーズ・セロンがやると、まあ、同じことはできないのだけれど、こんな細身の女にできるなら、自分もできるかも、と思ってしまう。アクションスピードも、どことなく「遅め」に感じるなあ。
 こういう「錯覚」は、水泳とか 100メートル競走なら、女に勝てるかもしれないと思うのと似ている。実際にはオリンピックはおろか、県民体育大会に出てくる女性アスリートにも負けるんだけどね。水泳なんか、小学生女子のトップクラスにも私はまったくついていけない。
 でも、「勝てる」とか、思ってしまうんだね。男だから。大人だから。
 さらに、時代が「ベルリンの壁」以前。だから出てくる「小物」がみんなレトロ。盗聴器なんて、びっくりするくらいでかい。それをギプスに隠している、なんて、わーっ、懐かしい。シャーリーズ・セロンが下着姿で、自分の体に録音機をつけるのもいいなあ。「からだを張っている」感じ。ネットや通信衛星の監視網をかいくぐり、あるいは組織がそういうものを利用する、というのではない。あくまで「人間」が主体。デジタルでなくって、うーん、なんだっけ、あ、そうそうアナログ。「肉体」の延長戦に世界がある。
 オープンリールのテープレコーダーがあって、テープがからからまわったり、「テープ巻き戻して聞いてみる?」なんて台詞があったり。
 いまの若者は、この感覚がわかるかなあ、と心配になるくらい。
 それでもってねえ。
 主人公が女物のスパイ物語。ジェームズ・ボンドだと、女がからんでくる。セックスシーンがある。自分ではセックスできないような女とジェームス・ボンドがセックスするのを見て、やっぱり女はボディーだよなあ、なんと思ったりする。それが女だと、やっぱりそうか、レズビアンのセックスシーンか。あ、こういうの見たかったんだよなあ、とスケベ心が刺戟される。
 いわば「定番」なのだろうけれど、(「女囚サソリ」にもあったと思う)、これが妙にわくわくする。
 カーアクションだとか、スナイパー(昔もそういったかなあ……)も出てくるが、いまのように「派手」ではない。どうせCGという感じにならないからね。
 さらに。
 敵(?)が「ソ連」というのもいいなあ。
 へんになつかしい。
 シャーリーズ・セロンが英語、ドイツ語、ロシア語をしゃべるというのも、これがスパイだぞという感じで、うれしい。スパイには「語学力」が必要なのです、はい。英語はともかく、ロシア語なんて聞くと、それだけで「秘密諜報部員)」になれるかも、なんて男は思ってしまうんですよ。ばかですね。
 あ、アクションと女にもどろう。
 女が主役だと、おもしろく感じるのは、このアクションシーン、私なんかはやっぱり男の側から見てしまう。女をやっつける男、を。映画だから、最後はシャーリーズ・セロンが勝つに決まっているだけれど、途中までは「互角」。ほら、やっぱり男の方が強いじゃないか、女にはスパイはむりだよなあ、なんて思ったりするのだ。
 映画というのは、たいてい主人公に自分を重ね、主人公になったつもりになるのだけれど、女が主役だと、ちょっとそこに「ずれ」があって、「主観」があっちへいったり、こっちへいったり。「意味」としてはシャーリーズ・セロンの行動を負うのだけれど、「肉体」は別に動いてしまう。
 このあたりの感覚、女性はどうなのかなあ。ジェームス・ボンド、ジェーソン・ボーンの出る映画。あ、あれは敵が男か。女とアクションをするなんて、ないね。「ロシアより愛をこめて」では戦った相手がメイドのおばさん(おばあさん?)だったしね。対等で戦うというシーン、主役がやられてしまうかもしれないというような格闘はないから、そういうことは思わないかなあ。 

 という感じで、あれやこれや、とりとめもない。
 そういうとりとめもないことを思いながら、ときどきドキドキ、ワクワクしながら見る、昔懐かしい映画だね。
    (ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン6、2017年10月21日)

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「北朝鮮殲滅」横断幕の問題(安倍の責任)

2017-10-22 14:20:27 | 自民党憲法改正草案を読む
「北朝鮮殲滅」横断幕の問題(安倍の責任)
            自民党憲法改正草案を読む/番外131(情報の読み方)

 2017年10月21日の安倍の街頭演説。その会場に「北朝鮮殲滅」という横断幕があらわれた。そして、その会場を警官が警護していた。この問題を見逃してはならない。
 
 「殲滅」とは「皆殺し」という意味である。赤ん坊からお年寄りまで、全員を殺してしまう。戦場で武器を持っている敵の兵士と戦い、その結果殺すというのとは違う。

 なぜ、「北朝鮮殲滅」というスローガンが、いま、掲げられているのか。
 北朝鮮がミサイルを開発しているからか。核を開発しているからか。それが日本にとって脅威だからか。
 北朝鮮が気に入らないからか。

 この北朝鮮へ向けられた「攻撃性」は、即座におなじ日本人に対しても向けられるだろう。
 安倍批判をするのは許せない。「殲滅しろ」ということになるだろう。

 私は安倍批判を書いている。こういうことを書く人間は許せない。「殲滅しろ」。そういうことばにすぐかわる。そして実行されるだろう。
 気に食わない人間を「殲滅する」。自分の気に入っている人間だけを守る。
 「共謀罪」の適用がどんどん拡大するだろう。
 「密告」も増えるだろう。
 「独裁」が確実に日本を支配するということだ。

 きょうは衆院選の投票日であり、開票日である。
 テレビで速報があるだろう。どういう結果であれ、そこに安倍が出てきて、何か言う。そのとき、どのテレビ局が、あるいはどの報道機関が、「北朝鮮殲滅」横断幕のことを取り上げて、安倍を問いただすか注目したい。
 日本の首都、東京で、警官が警備している会場で、安倍の目の前で、安倍を支援する人間が「北朝鮮殲滅」という横断幕を掲げたのである。
 憲法を改正する(自衛隊を憲法に書き加える)という「次元」を通り越している。自衛隊員を「北朝鮮殲滅」に動員するということだ。人殺しをするということだ。「防衛」ではない。
 こういう主張を呼び寄せた安倍、それを守っている警官。

 このことに、恐怖を感じないとしたら、それこそ「平和ぼけ」というものだろう。
 すでに安倍は、批判する市民に対し「こんなひとたちに負けるわけにはいかない」と言っている。次は「こんな人たちを殺さないわけにはいかない」と言うだろう。
 意見を言う人間に対して、「殺す」と脅す。
 これは民主主義の否定である。独裁である。

 選挙後の国会で、どの党がこの問題を取り上げるか、それに注目したい。
 安倍が、いつ、どこで北朝鮮に対して謝罪するか、そのことに注目したい。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位 #北朝鮮殲滅
 
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(4)

2017-10-22 10:39:34 | 詩集
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(4)(ナナロク社、2017年10月15日発行)

 「対詩」というのは、どうはじめるのか。146ページから、「作者による解説」というのが書いてある。「封印を解くように」という「対詩」に対する解説。谷川の詩から始まる。

エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ
海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた

誰から始めるかは普通じゃんけんで決める。詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って、「彼」という人物を登場させたが、小説と違ってこの「彼」を、物語の主人公にするということは考えていない。

 そうか、じゃんけんか。しかし、じゃんけんで先か後かが決まったとして、それから詩を考え始めるのだろうか。谷川は「詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って」と書いている。先であることが決まってから、そう思ったのか。そうではなく、「対詩」をやる過程で、そうしたいと思うようになった。その意識を反映させた、ということだろう。
 まだるっこしいことを書いてしまったが、「解説」を読む前に私が感じたのは、あ、この詩は瞬間的にこの場でできたのではなく、用意してきたものではないのか、ということだった。「金銭」をどこかで書きたい。そう思って「金銭」が出てくる詩を谷川は準備して、「対詩」の場にやってきたということだろう。
 この詩には谷川の「対」の感覚、谷川の詩のひとつの特徴があらわれている。ひとりで「対」を演じている。

エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ

 まず、「エリオット」が出てくる。「貨幣」ということばも出てくる。二行目は銀行員であるエリオットのことばである、と読むのが普通である。三行目以下を読むまでは。
 朗読で聞くときは三行目以下はまだ存在しないから、二行目はエリオットの「ことば(思い)」としか理解できない。
 しかし、これに対して、

海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた

 こうつづけると、どうなるか。「彼」をエリオットと理解することもできる。「散文(小説)」ならば、普通はそう考えるかもしれない。エリオットはたしか眼鏡をかけていたし、アメリカからイギリスへ海を越えて移り住んだ詩人でもある。「海岸」(海)が挿入されているのも、エリオットを連想させるかもしれない。
 しかし、谷川は「彼」をエリオットとは考えていない。別のひとと考えている。エリオットと貨幣(金銭)について考えている男。
 エリオットと彼が「対」になっている。
 「対感覚」が谷川の特徴(ことばの癖)だから、それがついつい出た、と言えるかもしれないが、「対感覚」のあることばを用意することで、「対詩」の動きを誘い出そうとしている。そういう「もくろみ」が準備された詩である、と私は感じた。即興ではなく、あらかじめ推敲し、完成させた詩だと思った。
 「駒沢通りDenny’sⅠ」の始まりの谷川の詩も、「用意してきた詩」だろう。ここにも「対感覚」があふれている。

ランチタイムのざわめきの中に
もつれている意味と無意味
はるか遠くにたたずむ山々に向かって
幼児がむずかっている

 「意味と無意味」という「対」に対して、「幼児」が「対」になっている。「意味と無意味」というようなことを「幼児」は考えない。つまり、そこに「切断」がある。「切断」が「対」の絶対的条件である。その「切断」をうながすものに「山々」がある。(ついでに書いておけば「エリオット」では「海(岸)」が「切断」をうながしている。)「意味と無意味」が「意識」であるのに対して「山々」は「自然」。そして「山々」が自然なら「幼児」も「自然」だろう。「幼児」と谷川は書いているが「あかんぼう」のことだろう。明確な「意味と無意味」を言うことができず、そういうものが「肉体」のなかで区別されずに動いている「あかんぼう」。「意味と無意味」が「未生」の状態を指している。
 ここでは「意味と無意味」たに対して「未生の意味と無意味」が「対」になっている。こんなにすっきり(?)とした「対」なのは、この詩が瞬間的につくられたからではなく、始まる前に「用意された」詩だからだろう。
 こういう「対感覚」の強い詩が、長い「対詩」の展開のなかでも出てくる。

デッドエンドなんて嘘だと思った小学3年のころ
地獄だって天国だってあるじゃないか
時間も空間もエンドレス
子どもの宇宙は大人の宇宙よりもはるかに巨大だった

 「デッドエンド」と「エンドレス」という「対」。「小学3年」の思いと「大人」の思い。最終行の感想は「小学3年」のときには思えない。「大人」になってはじめて抱ける思いである。

天文学の本の隣に家計簿が立っている
シングルマザーで生きるのを選んで3年になる
明日の予定はスマホに入っているが
未来の予定は空白のまま

 「天文学(遠い巨大な世界)」と「家計簿(身近な世界)」という「対」が「明日の予定(身近)」「未来の予定(遠い)」と「対」になっている。
 シングルマザー(女性)が出てくるが、これはいつもの谷川の自己を他者に託す方法である。谷川は身近な存在ではなく、遠い存在、女性とか、子どもに自己を託すのが得意である。離れているから「対」になりやすい。「対感覚」を動かしやすいのだろう。
 そんなことを思いながら読んでいくと、133ページで、突然違った感じ、とても不思議な「眩暈」のようなものに襲われる。
 「対詩」は、こう展開する。

おしまいにはたったひとつの光に
からだごとめりこませて
左胸にひとつずつ
わたしたち太陽を波打たせて

百年の孤独といちじくリキュールのカクテルは
ポエタと名づけよう
太陽のピザ 月の丼 星屑のパスタ
新しいライブハウスは生誕の興奮に沸いている

 後の方の詩には「対」がある。「カクテル(飲み物)」と「ピザ、丼、パスタ(食べ物)」、「百年(時間)」き「太陽、月、星(宇宙/空間)」、「孤独(ひとり)」と「ライブハウス(複数)」。
 これも「手が込んでいる」から「用意されてきた詩」っぽい。でも、谷川の詩かなあ。谷川の詩とは違った響きがあるなあ、と思った。
 そうしたら。
 「解説」を読んでわかったことなのだが、長い「対詩」は一気につくられたものではなく、複数の回にわけて書かれている。途中で「中継(休憩)」がある。「一日」ではなく、複数の日にちにわかれていることもあるのかも。つまり「中断(休憩)」あいだに、ひとりで詩を考える時間もあるということになる。
 だから、「再開」するとき、ふいに「用意されてきた詩」があらわれることになる。その「用意されてきた詩」というのは、全体の中ではすこし「リズム」が違う。
 まったく新しいシリーズでは、「発句」のようなものなので、その「新しさ」は気にならないが、途中だと、なんとなく「あれっ」と思う。
 そして、いま引いた例では、「おしまいは」は覚の作品(一回のつながりの終わり)であり、「百年の孤独」もまた覚の作品なのである。そのために、「飛躍」というか「切断」の感覚が、いつもとはなんとなく違う。「対」の感じもなんとなく違う。
 本で読むと、谷川と覚の詩は活字が「青」と「黒」に色分けされているし、末尾に「俊」「覚」という文字がそえられているのだが、私は目が悪くて、この色の違いは「印刷の濃淡」くらいにしか感じられないし、「俊」「覚」という区別もいちいち意識するのがめんどうくさくて読みとばす。だから、よけいにつまずくのだと思う。
 直前に「中断(休憩)」があったのかなかったのか、「解説」ではわからなかったが、次の詩も印象に残った。

隣家の松の木に落雷したとき
恐怖だけではないココロとカラダも昂(たかぶ)りがあった
音楽のフォルテッシモではない
ピアニッシモでもない自然の音の限りないひろがり

 「落雷」という自然現象と「音楽」という芸術の「対」が、「音楽」のなかで「フォルテッシモ」「ピアニッシモ」という「対」を呼び寄せ、その「対(ふたつのもの)」のあいだに「無限」を生み出す。それは「ココロ」と「カラダ」という「未分節の対」のなかに「昂り」を生み出す。
 谷川の詩には「意味」の「対」があり、その「対」をあらわすことばが、ことば同士で響きあう音楽(和音)になる魅力がある。



 谷川の詩(ことば)と覚の詩(ことば)には似たものがある。共通の「音楽」があると感じるけれど、そのひとつひとつを交互に読んで、そのとき感じたことを書こうとすると、なぜか谷川の詩についての感想が多くなった。
 あ、私は覚の詩よりも谷川の詩が好きなんだなあ、とあらためて思った。
 ふたりは似ているけれど、違う、ということを実感できた。

 この詩集は、ふたりが聴衆の前でライブで詩をつくり、読むという形で生まれている。私はそれを本で読んで感想を書いた。
 実際にライブで朗読を聞いたならば、また違った感想になるかもしれない。
 本で読むと(特に目の悪い私には)、ふたりのことばをいちいち区別して読むのがめんどうで、ふたりを意識せず、ただそこにある「ことば(活字)」として向き合ってしまう。活字によって展開される「ひとつづきのことばの運動」(一篇の詩)として読んでしまう。
 このとき、私は何かを読み落としていると思う。そのことを、書き添えておきたい。
 というのも……。
 この感想を書き始めたとき、谷川俊太郎とねじめ正一の「詩のボクシング」について書いた。「テレビ」と「ラジオ」の作品について書いた。あの「対戦」をテレビで見たとき、私は谷川俊太郎が「ずるい」と思った。これは、ねじめに会ったとき、そういった。こんなふうに。
 「あんなふうに意味にしてしまうと、意味の方が絶対に勝つ。ひとは意味にならないものよりも意味の方を理解しやすい。あれでは現代詩のボクシングにならない。あの勝負、おかしくないですか。ずーっとねじめが勝っていたのに、最後に意味のまとまりをことばにできずにねじめが負け、意味を語った谷川が勝つというのは、現代詩にとってとても変なことじゃないですか。あんな勝ち逃げはずるくないですか?」
 本(活字)ではなく、ライブで「声(消えていくもの)」と向き合っていれば、違った感想になるかもしれない。覚の詩の方がおもしろい。新しい、と感じるかもしれない。ライブでは好きな時間に、好きなリズムでことばに接するということができないので、そのときの私の体調なども影響するだろう。直前に何を食べたかまで、きっと影響する。
 そんなことも思うのだった。

対詩 2馬力
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安倍の責任を追及しよう(シェア、拡散希望)

2017-10-21 23:31:49 | 自民党憲法改正草案を読む
 フェイスブックで添田馨さんが、2017年10月21日の安倍の街頭演説の様子を書いている。写真もアップされている。(借用してアップしました。)



「日の丸が侮辱された夜」(添田馨)
2017年10月21日
この日は私たちの「日の丸」が侮辱された夜になった。
対米従属権力私物化国難売国政権、安倍晋三総理とその政権の選挙応援のために、私たちの「日の丸」が大挙して振られている。
「北朝鮮殲滅」の横断幕と共に私たちの「日の丸」がたくさん振られている姿に涙がでた。
こんなことのために私たちの「日の丸」を使うな 
安倍晋三の登場にあわせて音楽が流れ、歩道橋の上からは「安倍やめろ」の激しいコール。
警官やSPが大挙動員されたものものしい雰囲気の中、怒号と拍手が入り乱れる異様な空間と化していた。


*****************************************************

 安倍は東京都議選の応援演説で「安倍やめろ」と叫ぶ市民に向かって「こんな人たちに負けるわけにはいかない」といった。
 今回、「北朝鮮殲滅」の横断幕を掲げている市民になんと言ったのか。
 それを問いたい。
 「そういう横断幕はやめろ」と言ったのか。
 また、その横断幕のまわりにいたひとは、横断幕を掲げるひとに対してどういう態度をとったのか。

 「北朝鮮はミサイル実験をやめろ、核開発をやめろ」と抗議するのとは、次元が違う。「北朝鮮殲滅」という主張は、ナチスのユダヤ人虐殺とおなじではないか。こまた、れは北朝鮮に対する「宣戦布告」ではないか。
 安倍がそう主張しているのではないが、そういう主張を呼び寄せてしまうものが安倍にあるということだ。
 そして、そういう主張に対して、それが間違っていると安倍が指摘しないなら、その主張を容認したことになる。

 この横断幕をニュースはどう伝えているのかしらない。
 しかし、これは国際問題であり、安倍の責任が問われる問題だ。

 自民党支持者、安倍を支持している公明党の支持者(創価学会員)にも問いたい。
 あなた方は「北朝鮮殲滅」というスローガンを支持するのか。
 この横断幕に抗議しないなら、私は、あなた方がやはり「北朝鮮殲滅」という思いを隠しながら安倍を支持していると判断する。
 「日本の安全を守れ」ではなく「北朝鮮を殲滅する」ために、自衛隊を憲法に書き加え、戦争法を成立させたのだと判断する。

 もし、「北朝鮮殲滅」という思いをもっていないのだとしたら、投票では、その意思をしっかりと示すべきだ。安倍自民党に投票することは、「北朝鮮殲滅」のために自衛隊が行動を起こすこと(そのために憲法を改正すること)、その自衛隊の指揮を安倍がとることを推進することになる。ナチスとおなじ犯罪者にならないために、「北朝鮮殲滅」に反対であるとはっきり態度で示す必要がある。
 まだ投票に間に合う。
 投票で明確に態度を示すべきである。

 これを読まれたあなたの知り合いに自民党の支持者、公明党の支持者がいるなら、ぜひ、私が書いたことを問いかけてほしい。
 私の書いたこの文章を転送してほしい。

 ある国家を、その国民を「殲滅する」という思想に与することは、私は許すことができない。こういう思想に対して、何も言わない安倍を許すことはできない。
 このままでは、私たちは、ヒトラーの犯罪を繰り返すことになる。

 選挙後、国会でこの問題がどう取り上げられるか、報道機関がどうこの問題に向き合うか、そのことも注目したい。特に、上田NHKはこれを取り上げるか、それに注目したい。

#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 







詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(3)

2017-10-21 15:53:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(3)(ナナロク社、2017年10月15日発行)

 覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』には詩作品だけではなく、対談が組み込まれている。裏話、のようなものである。私はその人がどんな気持ちでその作品を書いたかとか、その作品のことばの背景にどんなことがあったか、ということは気にしない。自分のことばとどう違うか、ということだけを手がかりに作品を読む。だから、たいていは「解説」のようなものは読まないのだが、なんとなく読んでしまった。
 そこで、こんな部分に出会う。「対詩リハーサル」

谷川

 8 栞は薄いのがいいのだが
   材質は紙だと平凡
   木 鉄 貝 雲母 それとも指なんかどうかな

覚 指の栞ですか?
谷川 そう。
覚 うーん、すごいシュールですね。

 私は、覚の「シュール」ということばにびっくりしてしまった。「指栞」って、言わない? 栞がないから、とりあえず「指」を挟んで本を持ち歩く。
 谷川はこのあと「指は栞になっていないんですよね。読みかけのページに挟むことはできるけれども」とフォロー(?)しているけれど。
 私は、この「指栞」からことばが独立して「指なんかどうかな」ということばが出てきていると思ったので、ここはシュールではなく、「現実」そのものと思った。「現実」の指を、そのまま栞にできればいいなあ。これって、どうしてシュール? 体験そのものに基づいているでしょ?
 「貝 雲母」という部分には、私は「現実」ではなく、「きざ」を感じる。「作為」と言ってもいい。それって、いわゆる「詩」そのもの、「詩とは華麗な想像力」という「幻想」にあわせただけの「ことば」に見えてしまう。
 で。
 なんというか、こういう部分で、私は自分とは違う「ことば」に出会った感覚になる。覚は「指栞」をしないひとなんだ。「栞」と聞いて、その後で「指」ということばを聞いて、そこで自分の「肉体」を思い出さないひとなんだ、と驚き、立ち止まる。その瞬間が、あ、こういう瞬間も詩なのかなあ、と思う。
 「ことば」と「肉体」の掴み方が違うのだと、あらためて思う。
 「栞」というのは「名詞」だが、私は「栞を挟む」という具合に「動詞」といっしょにして覚えている。「貝を挟む」「雲母を挟む」。これを「きざ」と感じてしまうのは、私のまわりには「貝」とか「雲母」というものがなかったからだ。そういうものを「挟む」ということを私の「肉体」は覚えていない。想像はできるが、それを挟むときの自分の肉体の動きを実感できない。「他人」に見えてしまう。手の届かない他人。だから「きざ」と呼ぶことで、自分とは切り離すのだと思う。
 それに、「紙」のあとにすぐ出てくる「木」、これは「枝折り」にすぐに結びつく。山歩きをする。そのとき、帰り道をまちがえないために、ところどころ枝を折って印をつける。これは山の中が遊び場だった私には、肉体になじんだことがらである。実際には「枝折り」が必要なところまで踏み込まないし、山といっても家の近くなので迷子になるということはないのだが、「こうやって印をつけておくと迷わない」というようなことを上級生から教えられて、それを覚えている。実際に小枝を折ってみたことも覚えている。
 そしてこのときの「肉体」の「癖」のようなものは、栞がないとき、本のページの耳を折る、という「癖」につながっている。「ドッグイヤー」というらしいが。折って、それを目印にする。
 「栞」は「挟む」と同時に「目印にする」(目印をつくる)という動詞につながっている。
 私は「ことば」を「もの」をあらわしているものではなく、むしろ「こと」をあらわしているもの、そこには必ず「動詞/肉体」がいっしょにうごいているものとしてとらえたいという欲望のようなものがある。

 ここから、詩へもどってみる。「栞」を挟んで、前後を引用すると、こうなる。

明け暮れは
工夫することのつらなり
日々という頁の間に挟んだ栞は
絶え間ない日射しに褪せて
いつか忘れられて

栞は薄いのがいいのだが
材質は紙だと平凡
木 鉄 貝 雲母 それとも指なんかどうかな

顔よりも指だな
あと 声かな
書き文字もしみじみしているといい
妄想で完結する恋がいい
35をすぎたら

 抽象的な「栞(意味の象徴)」が具体的な「紙」や「木」を経て、「指」で「シュール」に飛躍して、「妄想の恋」にかわる。指に恋する。声に恋する。書いた文字に恋する。指、声、手書き文字から、そのひとの「人格」を想像し、恋をするということか。
 うーん、
 何か「意味」がつならなりすぎて、味気ない。
 なぜ「意味」がこんなに強くつながってしまったのか。
 それを考えるとき、その瞬間、覚の「シュール」がよみがえってくる。そうか、「現実」ではなく「シュール」なのものを感じてしまったから、それを現実(肉体)に引き戻そうとする「反作用」のようなものが、覚のことばに働いているだな。
 この対談の中で、谷川は、こんなことも言っている。

僕と覚さんには、日本語の調べとかメロディとかリズムの感覚において、どこか共通点があるんじゃない?

 覚はこれに対して「そうかもしれません」とこたえている。
 私の感じでは、覚が谷川に対して感じる以上に、谷川が覚のことばに対して「共通点」を感じているのだと思う。(*) 
 それは、この「栞」を含んだ詩で、「栞」がそのままおなじことばでひきつがれているところにも感じる。「対詩」の「対」になることを忘れるくらい、谷川は直前の覚の詩に同化してしまったのだ。
 何に反応したのか。
 引用が前後するが、対談で、谷川はこう語っている。

忘れっぽい私としては、「いつか忘れられて」という最後の一行がすごくリアルでしたね(笑)。

 「忘れる」(忘れられて)に反応して「栞」の意識が少し変化している。「栞」は忘れないためのもの(目印)なのだけれど、忘れてしまう。
 で。
 こういうことを書くと「深読み」と言われるだろうけれど。
 「指栞」の「指」は「忘れられて」、本に挟まれたままなのだ。本の中には「指」が残っている。「肉体」が残っている。
 「肉体」はひとつだから、「指」だけが切り離されて本に挟まっているというのは、「肉体」そのものからみれば、それこそ「シュール」な現実ということになるが、「意識の肉体」としては、どうか。「栞」として挟んだ指は、そこに「忘れられて」置き去りにされているが、「指」につながる「肉体」が近づくと、「私はここにいる」と声を上げないか。「忘れられた指」がよみがえってくるということはないか。
 「指」が覚えていて、その「指」が「私」そのものになって、いま、ここによみがえってくる。置き去りにされ、忘れられていた「指」が「肉体」にくっついてきて「私」を支配してしまうということはないか。
 詩は、実際、そんなふうに展開していく。
 谷川のことばは、覚が「妄想の恋」というところへ行ってしまった後、谷川自身の「指栞」へ引き返していく。それくらい「忘れる」と「栞」、「覚えている」と「栞」が「肉体」として谷川の中で結びついているということである。
 どう展開するか。

「ダフニスとクロエー」で学んだあのこと
実際には役に立たなかったから
思い出として永久保存する

 谷川は「ダフニスとクロエー」を「指栞」をつかって読んだのだ。文字を指でたどって読んだかもしれない。「肉体」を総動員して読んだ。でも、役に立たなかった。そういうことは「忘れていた」。けれど思い出した。思い出して「永久保存する」。
 ここに谷川の少年がいきいきと動いている。
 このことを谷川は「実体験」と告白している。「実体験」というのは、「指」がよみがえってきて、過去を語り始めたということだね。「主役」が「いまの谷川」ではなく置き忘れてきた「指」に乗っ取られている。
 そのあと、「実体験」のことを具体的に語っているけれど、まあ、そこは本を買って読んでください。
 あ、だんだん脱線していくけれど。
 こんなふうに谷川の「肉体」を引き出してしまうのは、覚のことば(音楽)のなかに、谷川と共通するもの、同時にその共通性があると感じさせる微妙な違い(刺戟)があるからだろうなあ、と思う。

 対談を読まなければ違った感想になったかもしれないが、対談を読んだら、こんな感想になった。 対談を読む前は、つまらないなあ、と思っていたところが、とても生々しい動きに変わったのでびっくりしてしまった。

 

(* 共通点を強く感じさせる詩を覚からひとつ引用すると、126ページの20の詩。

かみさまがおられるとしたら
いろやかたちのなかにではなくて
おとのふるえやひびきのあいだに
たとえばあかんぼうのきこえぬあくびに

を挙げることができる。「意味」の動かし方も似ているが、最後の「あかんぼうのきこえぬあくびに」が、私の「音」の感覚では谷川と区別がつかない。署名がなければ、谷川だと思ってしまう。)
                             (つづく、予定。)
対詩 2馬力
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安倍の情報操作(なぜ、いま株が上がるのか)

2017-10-21 08:42:51 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の情報操作(なぜ、いま株が上がるのか)
            自民党憲法改正草案を読む/番外129(情報の読み方)

 2017年10月21日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面。

株14日上昇 最長に並ぶ 56年ぶり

 株のことはまったく知らないが、この記事を読みながら疑問に思う。なぜ高騰しているか。読売新聞は、こう分析している。

 衆院選で与党が優勢との見方が多く、大規模な金融緩和など安倍首相の経済政策「アベノミクス」が継続するとの期待が株高につながっている。好調な企業業績や、欧米での株高傾向も買い材料となっているが、連続上昇が始まった今月2日以降、日経平均は計約1100円値上がりしており、過熱感を警戒する声もある。

 「アベノミクス継続の期待感」だけで、株は高騰するのか。どうも、「嘘くさい」。いま日本で起きていることをみれば、「好調な企業業績」というのも疑問だ。
 おなじ21日の朝刊1面には、

神鋼 管理職が不正隠蔽/厚板加工品もデータ捏造

 という見出しの記事があり、20日夕刊(西部版4版)の1面には、

神鋼 社内調査後も不正/データ改ざん アルミ・銅事業で

日産工場停止 影響拡大/部品工場など減産必至

 という見出しが並んでいる。神戸製鋼所、日産自動車が「データ改竄」や「無資格車両検査」のためにてんやわんやしている。その影響は子会社までに及んでいる。(そのほかにも、東芝だとかシャープだとか、大企業の経営が「順調ではない」という情報が紙面を賑わし続けたのは、まだ記憶にある。)
 日本製品から「安心/安全」が消えつつある。どうしてこんな状況で日本の製造業の株が上がるのか。株を分析しているわけではないのでわからないが、他の分野で業績があがっているのだろうか。
 私が外国人であり、投資家だったら、そういう「不安材料」が出てくるようなところの株は買わないなあ。
 誰かが「株価操作」をしているのではないのか。政府が「資金運用」で株を買って、「高値」を維持しているのではないのか。これは衆院選で、安倍自民党が勝利を得るための「演出」なのではないのか。そういう疑問をもってしまう。
 「年金の原資」を株に投入し、巨額の損失を出した、というニュースは、国会でも取り上げられたことがある。同じことをしているのではないのか。
 21日の経済面(7面)には、

株高 「選挙後」を期待/14日連続上昇 「リスクある」慎重論も

 という見出しで、こう書いている。

 衆院選の投開票日翌日の23日には、15日連続上昇の記録更新がかかる。衆院選後は取引材料の出尽くし感などから株価はいったん下落傾向となるケースが多いとされる。今後の展開は予断を許さない。

 まるで、衆院選で安倍が勝利すれば、その後は株の上昇を「演出」する必要がなくなり、株を買わなくなる。そのため株価は下がる、ということを暗に語っているように思える。いや、政府が資金投入をやめるから確実に下がるのだが、それを「取引材料の出尽くし感」と言いなおすことでごまかしているだと思う。政府の株式市場への介入が高騰の原因ではないと言いたいがための、うそである。

 ここから最初のニュースにもどるのだが。

 「アベノミクス継続の期待感」というけれど、日本の企業も、もうアベノミクスなど信じていないのではないのか。
 アベノミクスで大企業がもうかるだけではなく、「トリクルダウン」でその恩恵は国民に及ぶというが、そんなことは実際におきていない。大企業は利益を内部にためこんでいるだけである。
 なぜ、内部にためこんでいるのか。
 私はここから考える。もちろん素人考えである。
 20日の夕刊記事をもう一度読み返す。

日産工場停止 影響拡大/部品工場など減産必至

 いったん「不正」がばれる、問題が生じるとどうなるか。その影響は、子会社までまきこみ、拡大する。一気に業績は悪化する。
 大企業は、これを恐れている。
 つまり、いまの「好況」はうそだと知っている。「好況」が破綻したときの備えとして、内部に資金をためこんでいる。自分の会社の業績(製品の品質)に自信があれば、「利益」をためこまない。さらに新しい「もの」をつくりだし、より稼ぐために投資する。その投資には「優秀な人材確保」もある。優秀な人材を確保するために、社員の給料も上げる、ということがおきる。それこそ「トリクルダウン」が起きるはずである。
 「トリクルダウン」が起きないのは、大企業の資本家が「強欲」であるだけではなく、経営に自信がないからだ。「アベノミクス」が生み出した「好況」が実質を伴わない虚構であると資本家が知っているからだ。
 神鋼はデータ改ざんが明らかになった後(さらに社内調査をした後)も不正をしていた。日産も無資格検査が発覚した後も、無資格検査をつづけていた。「不正」を即座にとめることができないシステムになっている。「いまのうちに稼いでおこう」という「体質」が身にしみついている。それがどんな結果をもたらすか、ということを考えない。今、この瞬間さえ、利益が上がればいいという「風潮」になってきているということだろう。

 このあと起きるのは、企業そのものの「崩壊」である。内部にためこんだ資金を食いつぶして企業が破綻する。(すでに、こういう例は、起きている。東芝もシャープも、私のような素人からみれば、「企業崩壊」であり、「倒産」である。)電気自動車で出遅れているトヨタも10年後は会社があるかどうかわからないだろう。
 金に敏感な資本家なら、金がどんなに早くなくなるかということがわかる。庶民が将来に不安を感じ、金を使わず消費が拡大しない(景気が上向かない)ということが、大企業の中で起きている。いま金を使えば(社員の賃金アップにつかってしまえば)、将来「不正」がばれたとき、たとえ「不正」がなかったとして売り上げが伸び悩み、さらに売り上げが途絶え収入がなくなったときに困ってしまう。だから少しでも資金をためこんでおく。「将来の安心/安全」のために「貯金」しておく。そういうことが日本の大企業の内部で起きているのではないか。
 「アベノミクス」のうそに大企業が一番先に気づいている。うそだと言えば、きっと仕安倍から返しがくる。だから、黙っている、という状況なのではないのか。さらには「沈黙させられている」というのが日本の経済の現状ではないのか。

 安倍の独裁は、すべて「相手を沈黙させる」という手段をとおしておこなわれている。21日の1面には、

天皇退位 19年3月末有力/即位・改元4月1日

 という見出しも見える。
 天皇を「生前退位」させることで、天皇を沈黙させる。すでに「天皇には国政に対する権能はない」とメッセージで言わせている。天皇は、政治に対しては沈黙させている。憲法改正についての思いを語ることを封じられている。あれは、安倍が「戦争憲法」をつくるための第一段階なのだ。
 籾井をつかいNHKを沈黙させ、他のテレビ局も「許認可権」をちらつかせ沈黙させた。新聞に対しては「広告を出させないようにすればいい」という形で沈黙させた。
 
 独裁は、日本にもう一度原爆が落ちるまでつづく。日本人がもう一度原爆のもとで死ぬときが、やっと安倍の独裁が終わるときになるかもしれない。
 そのとき、日本はもう一度「平和憲法」をつくるのだろうか。

#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(2)

2017-10-20 10:01:35 | 詩集
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(2)(ナナロク社、2017年10月15日発行)

 「産声にひそむ暗号」という「対詩」のなかに、こういう部分がある。

口げんかしてたヒロシが突然黙った
なぐりかかるかと思ったら
何も言わずにぼくの目を見た
ぼくもヒロシをじっと見た 変な気持ち
泣きたいような 笑い出したいような

 この「ヒロシ」とは誰だろう。「ぼく」はこの詩を書いた人。「ぼく」だから谷川か。覚が「ぼく」という人称を借りて、自分の体験を語っているとも読むことができる。
 このとき読者は、「ぼく」になり、同時にこういう経験をしたときの相手を「ヒロシ」と思う。いや、「ヒロシ」とは、絶対に思わないね。自分の知っている誰かを「ヒロシ」と仮に名付けることで、「体験」そのものを思い出す。
 ひと(個人)よりも、「体験」の方に重きがある。
 「口けんかする」「黙る」「思う」「目を見る」「見つめ返す」という「動詞」を自分の「肉体」のなかから引っぱり出してくる。「ぼく(谷川/覚)」と「ヒロシ」の「肉体」を舞台で見るように見るのではなく、自分自身と誰かとの体験を「ことば/動詞」のなかにみている。
 「ぼく」は谷川であって谷川ではないし、覚であって覚でもない。「わたし(女性)」かもしれない。「ヒロシ」も「ヒロシ」であって「ヒロシ」ではない。「ヨウコ」かもしれない。
 それが誰であっても、「体験」(動詞)が重なる。
 これは、奇妙だね。
 「舞台(芝居)」では「存在感のある役者」ということばがある。出てきただけで「過去」というか「その人個人の歴史」みたいなものを感じさせる役者。「感情」が何もしないのに、そこに立っている。
 そういう「存在感」とは逆のものがある。
 「ぼく」は「ぼく」であって、ほかの誰でもない。「ぼく」のことを読者とは思わないでくれ。これは「ぼく」の固有の体験なのだ、というような「主張」がない。

母は泣かなかった 父が泣いた
部長が言った 白無垢が人生をリセットすると
そんなこと出来っこないと腹ン中で思う
私は私をやっていくだけ

 この詩は、結婚式のシーンだね。一行目は、よく聞く状況である。二行目も、まあ、結婚式のスピーチらしい。「白無垢」だから「私」は女性か。もちろん、白無垢の女性をとなりにして、男が「ばかなことを言っている」と思っていることも想像できるが、そうすると「部長」とのつながりが悪くなるし、「私は私をやっていく」ともぎくしゃくするから、やっぱり女性。そうすると、この詩は覚が書いた? そう考える方が自然? 女性だから、自分を女性に託して書いた。
 いや、違うね。
 きのうの谷川の詩の特徴は「対」にある、と書いた。この詩も「対」でできている。一行目と二行目は「具体的な状況」。客観的。誰が見てもおなじ世界に見える。つづく三行目、四行目は「客観的(具体的)」ではなく、「主観的」。白無垢を着ている女の主観を書いている。「腹ン中」ということばが、「主観」を突き破る「具体」で、ここがいちばんおもしろい部分。「腹ン中」ということばがなかったら、この詩は味わいが半分以下に減るね。
 あ、脱線した。
 こういう「対」による飛躍と深みへもぐりこむようなことばの運動は谷川の特徴のひとつだね。
 で、これを谷川が書いたとすると、先の「ぼく」「ヒロシ」と同じことがここでも起きていることになる。
 「私」は谷川ではない。覚が書いたにしろ、ここで読者が感じるのは、谷川、覚という「固有の肉体」が体験し、思ったことではない。むしろ、「他人」の体験であり、他人の主観である。谷川/覚にとっての「他人」であり、読者(私=谷内)にとっても「他人」。「他人」と「他人」の関係。一般的な「ひと」の関係。
 個人の「存在感」とは無関係な何かだ。
 繰り返しになるけれど、こういう「他人」を描いているのに、それが「自分の体験(自分の肉体)」として重なってしまうのは、「腹ン中」ということばの力が強い。「腹ン中」ということばがなくても、詩のストーリー(意味)は、そんなにかわらない。「腹ン中」がない方が「透明感」があるかもしれない。意味がストレートになるかもしれない。でも、「腹ン中」があると、ひとは口には出さないが「腹の中」でいろいろなことを思う(思ったことがある)ということを思い出し、「状況」が「結婚式」をのりこえて広がっていく。こういう「解釈」を私は「誤読」というのだけれど、「誤読」することで、より深く「納得」するということがある。
 このふたつの部分(詩)から、谷川も覚も、「自分」を前面に出して詩を書いているのではないということがわかる。(この詩が、谷川の書いたものであれ、覚が書いたものであれ、それを受け入れて、「対」になる詩を書くということは、自分を前面に出さなくてもいいということを、二人が暗黙の了解にして、「対詩」を書いているということがわかる。)
 だから、というのは変な言い方だが。

トーストとボイルドエッグとサラダとコーヒー
平らげたあと
ナプキンで口を拭うみたいな言い方だよね
いまの「好きだよ」って台詞

 これも「個人的な体験」そのものではないのだ。
 ちょっとはやりの「現代短歌」みたいな「口語」のつかい方だが、詩だけではなく、他の文学ジャンルにも目を配りながら、「ことばを動かす」ということをしているのだと思う。
 ことばは、どう動かせるか。ことばをどう動かしたとき「詩」があらわれるか。
 それは、読者を、ことばの動きのなかに、どう誘い込むかということを二人が考えているということだとも思う。
 そして、この感覚が、ことば全体の「音楽」の共通性になっていると思う。「自己主張」よりも「他者」が入ってきやすい「音楽」。「他者の音」を拒まない、エッジの抵抗感のない「音」。
 「トースト」も「ボイルドエッグ」も自己主張しようとすれば自己主張できるけれど、むしろ「身を引いている」感じのことばだ。「ナプキン」もそうだし、「好きだよ」も。「もの」というよりも、そのまわりで動いている「肉体」を暗示している。

 で。
 それはそれでおもしろいのだけれど。
 私はときどき「むかっ腹」を立てる。「ぼく/私」(谷川/覚)の「表に出てこない」、あるいは「他人を通して自分を表に出す感じ」が嫌いになる。私(谷内)自身を、そういうことばのなかに組み込みたくないときが出てくる。
 たとえば、

眉と目と鼻と口をバラバラにして
ピカソは子どもを真似て顔を新発見した
他人の顔も部品にまで分解すると
自分の顔と変わらない

 この「対句構造」から、これは谷川の詩だとわかるのだけれど。
 ここに書かれている安直なピカソの定義に、私は腹が立つ。「ピカソは子どもを真似て顔を新発見した」というような言い方、「子どものように描いた」という言い方は、ひとつの「定型」だと思う。私はピカソが大好きなので、こういう「定型」が嫌い。ピカソに関しては、私は私の「定義」を譲れない。
 私の「定義」ではピカソは子どものようには描いていない。ピカソの視力、視線の動きはとてつもなく速い。超超超高速度カメラである。スティルカメラが「静止」しか「映像」を定着させるのに対して、ピカソは「運動」を「絵」のなかに押し込む。「運動」だから、そこには衝突や矛盾があるのだが、それを「調和」を超えた「自然」にしてしまう。こういうことは、子どもにはできない。
 多くの画家は、世界を「静止」した状態で把握している。目の訓練を、「写実」に近づけようとしている。「静止」のなかで世界を整えようとしている。多くの人の目に「共有」できるものを目指している。「静止/写実」のなかで、自分の「個性」を出すことを企てている。
 別なことばで言うと。
 どこかで半分くらい「自分(絶対的な個性)」を捨てている。「他人」に受け入れられるものを用意している。
 谷川/覚の詩の中に出てくる「ぼく」「わたし」のように、それは「ぼく」「わたし」であって、谷川であり、覚であるけれど、同時に谷川/覚ではないものを多く含んでいる。「他者」を含むことで、「他者」を誘い入れる。
 ピカソと、そうではないのだ。「子どもを真似て」というような「枠」で「他人」を誘い入れていない。描きたいものを無邪気に描いたのではなく、見えるものを見えるままにえがいている。絶対写実を実現した。時間を含めた「いのち」を写実したのだ。

 ピカソについて書き始めると、とまらなくなりそうなので、ここでやめるけれど。

 何が言いたかったかというと。
 「対詩」というのは必ずしも「個性」を見せるものではないということはわかるけれど、あまりに「流暢」に「対詩」にしてしまうと、その「流暢さ」に文句を言いたくなるということ。
 詩なのだから、もっと他人を拒否している部分があってもいいのじゃないか、と言いたくなってしまう瞬間があるということ。
 

                             (つづく、予定)

対詩 2馬力クリエーター情報なしナナロク社

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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(1)

2017-10-19 10:55:25 | 詩集
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(1)(ナナロク社、2017年10月15日発行)

 覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』を読みながら、いろいろなことを思った。その「いろいろ」を思ったままに書いていく。書いていくうちに、思ったことが違った形に変わっていくかもしれない。
 覚和歌子の作品を私はあまり知らないが、なんとなく谷川俊太郎のことばに似ている。谷川俊太郎のことばが覚和歌子のことばに似ている、と言ってもいい。何が似ているか。「音楽」が似ている。それは「自己主張する」音楽ではなく、「他者を誘い出す」音楽である。聞いている人のなかから「音楽を誘い出す」感じ。他者が「参加する」ことで完成する音楽、といえばいいのかなあ。

 「対詩」ではないが、かつて「詩のボクシング」という催しがあった。二人の詩人がリングの上で詩を朗読し、優劣をつける(優劣の判定をする)というもの。私はテレビを見ないが、偶然、谷川俊太郎とねじめ正一の「ボクシング」を見た。
 最後に用意してきた詩ではなく、即興で詩を作るという「戦い」があった。ねじめは「テレビ」というタイトルをひきあて、谷川は「ラジオ」だった。ねじめは苦戦して、詩を作ることができなかった。谷川は、こんなようなことを言った。
 文字と違い、声は消えてしまう。(ラジオは声だけを伝える)ここで聞いた声は消えてしまう。けれどもその声は思い出すことができる。家に帰って、声を思い出してほしい。声を持ち帰ってほしい。そのとき、あなたの家(部屋)のなかで詩は完成する。
 言い換えると。
 詩は詩人が読んだとき、そこで完結するのではない。読者がそれを受け止め、読者自身で反芻するとき、詩になる。読者の参加する。読者が自分の「肉体」のなかから「声」を引き出すときに詩になる。
 そういうことだと思った。
 谷川のことばは、いつも、そういうことを「狙って」いる。「音楽」は谷川のなかにもあるが、同時に聞いている(読んでいる)読者の側にもある。読者が自分のなかから「音楽」を見つけ出して、谷川の「声」にあわせるときに、ほんとうの詩になる。こういう「基本姿勢」のようなものがある。
 そうなのだけれど。
 谷川は「意味」の力で「音楽」をリードするときがある。「ラジオ」の詩は、まさにそういう作品だった。「意味」を、私はなんとなく覚えている。細部の「音楽」ではなく、「和音」をつくりだすための「基本的なテーマ(旋律)」のようなものを覚えている。「意味」は覚えやすい。読者は「意味」に参加していくことになる。そして、そこで自分自身の「声」で「音楽」を演奏しなおす。「声(音)」の引き出し方を学びなおすといえばいいのか。
 この「意味」と「音楽」の関係が、なんとなく谷川と覚では似ている。
 こういうことは、あくまで「印象」なので、表面的で、いいかげんなものである。
 ということを、ちょっと前置きにして。

 「両手のひらの星くず」という作品は、こう始まる。

たんすのひきだしをあけたら 夜があふれてきた
おばあちゃんからおかあさんにつたえられた夜
すくいとった両手のひらに こぼれて落ちる星くず

 誰の詩だろうか。
 最初の二行、特に二行目の「おばあちゃんからおかあさんにつたえられた」ということばは、私には谷川のことばという感じがする。「おばあちゃん」「おかあさん」というひとつづきのことばが刺戟する「意味」。「つたえる」という動詞の「意味」の強調の仕方が、谷川っぽい。
 この二行目によって、一行目の「たんすのひきだしをあけたら」という「記憶」への近づき方が、もういちど揺り動かされる。この詩を書いたひとは、たんすのひきだしをあけながら、おばあちゃん、おかあさん、わたしという「記憶の脈絡」を開いていく。
 そうすると、この詩の書き手は「女性」ということになるのだが、谷川は詩のなかでは平気で女性になる。女性として詩を書くときがある。こどにもなって詩を書くとき、赤ん坊になって詩を書くとき、死んでしまって書くときさえある。だから、これを谷川が書いたとしても不思議ではない。
 三行目は、少し谷川と違うかもしれない。「すくいとった両手のひらに こぼれて落ちる星くず」は「意味」としては私の記憶している谷川にもあるかもしれないが、「語順(音楽)」が逆かなあ、とも感じる。
 この詩に対して、次の詩は、こう展開する。

十三夜の月の下で富士ははにかんでいた
少年は思った ぼくはこの山に登らない
毎日この山を仰ぎ見ながら裾野で暮らしてゆく

 うーん、つまらない。
 読んだ瞬間に、あ、前の詩に「負けている」と感じた。(「詩のボクシング」のつづきとして読んでいるんだね、私は。)
 音楽が通い合わずに「意味」が動いている。
 最初の詩が、「おばあちゃん、おかあさん」とつながることで、その延長線上に「少女」を浮かび上がらせるのに対し、この詩では「少女」と向き合う「少年」が登場する。
 まあ、ことばを別な方向に広げたということなのかもしれない。同じ所にとどまっていては、ことばの動きが限定されてくるから、そういうことに配慮したのかもしれない。
 ことばを動かすための、意図的な詩かもしれない。
 そのあと、こう展開する。

旅人が目印にするのなら できるだけ大きなものがいい
じっと動かないものがいい
目をやるたびに心が晴れ晴れとして
わけもなく泣きたくなるものがいい

大伽藍に満ちるパイプオルガンの音が途絶えたとき
幻のように虫の音が聞こえてきた
どちらも静けさから生まれてきたものだが
その故郷は遠く離れていた

 「富士」を「大きな目印」と言いなおすことでことばが動き、その「大きな目印」が「大伽藍」へと引き継がれる。「目」でとらえられていた世界が、こんどは「音(耳)」の世界へと変化していく。
 この変化のなかに「対詩」の「暗黙のルール」がある。ある「意味」をひきつぎながら、別の世界へ入っていく、という「ルール」が、ここまで読んできて、なんとなく「わかる」。
 で、わかった瞬間の、四つ目の作品、「大伽藍」の作品を読んだとき、あ、これは谷川だなあ。覚は、こいう感じの「音」を書かないなあ、と気づく。というよりも、「旅人」の詩の、妙にゆるんだリズムを谷川は書かないだろうなあと気づいたといえばいいのか。
 四つ目の詩の中には、私がなれ親しんでいる谷川がいる。谷川の詩には、もともと「対」が多く登場する。「対」が世界を破壊しながら再構築する。その瞬間に「音楽」を響かせる。
 言いなおそう。

大伽藍に満ちるパイプオルガンの音が途絶えたとき
幻のように虫の音が聞こえてきた
どちらも静けさから生まれてきたものだが
その故郷は遠く離れていた

 この詩は、二行×二行の「対」になっている。
 「大伽藍」も「パイプオルガンの音」も「固有名詞」ではないので、「具体的」とは言えないかもしれないが、ある程度「具体的」である。「虫の音」(ふいに、なつかしい日本語が響いてくる。いまの若者は「虫の音」とはいなわないだろうなあ)も何の虫なのかわからないので「具体的」ではない。しかし、「大伽藍」「パイプオルガンの音」「虫の音」から、読んだ人がそれぞれの「記憶」を引っぱりだしてきて、そのことばに「参加」し、「具体化」できることがらである。「具体的」と言いなおすことができる。
 これと向き合う二行は、まったく違う。「静けさからうまれてきた」はことばだけでつかみ取ることのできる「運動」である。「遠く離れていた」も「意識(ことば)」でしかとらえることができない。実際、パイプオルガンが鳴りやんだとき虫の音が聞こえてきたのなら、パイプオルガンのある所と虫がいるところは「近い」。「遠く離れている」のは「故郷」である。「パイプオルガンの音の故郷」と「虫の音の故郷」が「遠く離れている」。ここでは「意識(ことばの運動)」そのものが「音楽」を演奏している。ここでは、この詩人は自分の「音楽」を主張している。「ここまで来い」というよりも、まあ、「独唱」しているという感じかなあ。「独唱」でも、それが気持ちがいいとついつい「誘われて」肉体が反応するけれど、つまり、無意識に「参加する」ということが起きるけれど、「参加を誘う音楽」とは違うね。
 あ、脱線したが。
 この「具象」と「抽象」の「対」によって、見えなかった「音楽」を見えるようにする。音楽だから「聞こえなかった」ものを「聞こえる」ようにする、と言った方がいいのかもしれないが。
 さて、この「自己主張の音楽」(谷川スタイル)に対して、次のことばはどう動くか。

雨の降る前には決まってざわめく心
まだ起こっていないこと 起こるかもしれないこと
起こってほしくないこと 起こりえないこと
ばかり思い描いて とうとう耳を塞ぐ

 これは絶対谷川ではない。「起こる」という動詞を四回使ったベケット風の「重力」のある運動は谷川にはない。谷川なら「まだ起こっていないこと 起こるかもしれないこと」と「対」で終わる。
 覚の方が、「息が長い」。だんだん二人の違いが明確になってくる。

 途中を省略して、この詩。

大好きなみちくんの大好きな絵本のおはなしを全部おぼえた
目をつぶってそらで言うと お話が私のものになったみたい
お話と私がひとつになったみたい
みちくんもっとおしえて みちくんの好きなもの
私はみちくんの世界になりたい

 「みちくんもっとおしえて みちくんの好きなもの」というのは、谷川が書きそうだなあ。その前のことばも「意味(内容)」としては谷川が書きそうだ。でも、こんなに「長い」ことばではないだろうなあ。
 では、この作品は?

生き変わり死に変わり 何度となくあなたに出会った
縁(えにし)というものを科学することができたとして
めぐり会い見つめ合う理由をみつけられたなら
私たちはもう二度と この星に生まれることはないだろう

 「何度となくあなたに出会った」という具体があり、それが「理由をみつけ」という「抽象」を経て「生まれることはないだろう」という結論へたどりつく。このときの「具体」と「抽象」の「対」は谷川に見えないことはない。「生き変わり死に変わり」ということばを谷川がつかうとは思えないが。

 詩集には、詩の末尾に「覚」「俊」の文字がそえられ、二人の詩は、黒と青と二色にわけて印刷されているので、どれが誰の詩かはっきりわかるのだけれど、私はそれを無視して読んでみた。無視して読むと、逆にふたりの違いがわかった。「音楽」の似ている部分について書くつもりだったのだが、違う点に重点が移ってしまった。
 似ている部分について書くつもりで書き始めたが、だんだん違っている部分に重点が映ってしまった。
 次は、また違った感想を書いてみたい。
 

対詩 2馬力
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安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)

2017-10-18 21:30:36 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)
            自民党憲法改正草案を読む/番外128(情報の読み方)





 2017年10月18日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面。

「まっとう」「国難」当てこすり/衆院選で各党 フレーズ逆手 批判合戦

 という見出しで、最近の「街頭演説」が紹介されている。各党のキャッチフレーズを、他党が逆手にとって批判合戦をしている。そのことを紹介している。政策についての具体的な言及のない記事である。こういう記事にも「選挙報道のルール」が反映されている。
 選挙報道をするときには、主張(政策)の紹介は、個人の候補者なら「届け出順」、政党の場合は現有勢力順(衆院選は直前の勢力順)。恣意的な順序ではない、ということで「公平」の「証明」にしている。
 しかし、これが、意外な罠である。順序にはルールがあるが、適用の仕方は厳密ではない。
 読売新聞の記事の場合、
(1)立憲民主党の「まっとうな政治」を安倍、公明の山口がどう批判しているか
(2)希望の党の「日本に希望を」を公明の山口、共産の小池がどう批判しているか
(3)安倍の解散時の「国難突破解散」を、希望の小池、共産の志井がどう批判しているか
 という順序で紹介される。安倍の主張が真っ先にあり、公明がつづき、という具合。批判する方を主体にして「勢力順」を適用している。まず、安倍は「働きたい人が働けるのが『まっとう』な社会だ」と言い、山口は「民主党政権がまっとうなことができず(東日本大震災のとき)被災地が困った」と追い打ちをかけている。
 あらゆる「比較」は最初に書かれていることが「基準」になる。その紹介が「上下」に配置されて紹介されると、「上」に書かれていることが「まっとう」と思われがちである。あとに言った方は、よほどのことがない限り、言われたから言い返しているという印象になる。
 安倍がきちんと批判したのに、それにこたえられずに、他党が「減らず口」で反論しているという印象になってしまう。一種の「印象操作」が無意識のうちにおこなわれてしまう。

 紹介の順序を、違う形でしてみると、印象はがらりとかわる。
 各党がどういう主張をしてきたか、それを時系列順に並べ替えると、こうなる。
(1)安倍が「国難突破解散」と銘打って、解散を強行した。これを他党がどう批判しているか。
(2)小池が「希望の党」を立ち上げ「日本に希望を」と言った。そのとき民進党の一部議員を排除した。このことについて、他党がどう言っているか。
(3)希望から排除された枝野が「立憲民主党」を立ち上げ、「まっとうな政治」と言った。そのとき「まっとうな政治」ということばには安倍政権への批判がこめられていた。これに対して、安倍はどうこたえるか。
 時系列順は、解散を強行したのが安倍であるために、主張はおのずと「勢力順」に一致する。その順序に合わせて批判を並べなおすとどうなるか。野党から批判攻めにあい、反論にこまった安倍が必死になって「当てこすり」を言っているという印象に変わる。公明の山口も訴える政策がないので、過去の民主党を批判しているにすぎないという印象になる。
 「キャッチフレーズ発表」の時系列順にしなかったのは、安倍のあせりを隠すためである。安倍の批判を真っ先に紹介することで、安倍の主張が「正しい」という印象を引き起こしたかったからである。「選挙報道ルール」を恣意的に利用し、安倍の援護をしているのである。

 こういう記事を書くのなら、「政策論争」を避け、大衆受けする「当てこすり批判」をはじめたのは誰なのか。なんのために、当てこすりをするのか。なぜ、当てこすりではなく、政策そのものを分析し、批判しないのかということが、問題点として浮かび上がるはずである。
 それは、自ずと各党の政策吟味につながる。
 安倍の言っている「働きたい人が働ける」ということが、安倍のもとで実現されているかどうか、「検証」する必要がある。検証抜きに安倍が言い放したことをそのまま報道したのでは、安倍のことばが「正しい批判」という印象をあたえてしまう。
 安倍は失業率の改善(求人倍率の改善)を根拠に「働きたい人が働ける社会」と言っているのだが、非正規社員がいくら増えても「働きたい人が働ける社会」とは言えないだろう。非正規雇用の社員は「働きたいところで働いている」という実感がない。給料に満足しているわけでもない。
 公明・山口の主張も、それでは自民・公明政権になってから、東日本大震災の被災地の「困ったこと」は解消したのか、それが問われなければならない。経験したことのない大惨事で民主党が混乱したのはたしかだろうが、それを引き継いだ自民・公明の対策で、たとえば東京電力福島第一原発の事故は処理が終わったか。終わっていない。未解決のままである。誰がやっても「未解決」のままだろう。それなのに、民主党は何もできなかったなどと言ってもはじまらない。そんなことをいうのなら、いつまでに解決するか、そのスケジュールをきちんと示したらいいだろう。
 
 こんな「当てこすり一覧表」を紹介するスペースがあるのなら、それぞれの党の政策の対比、それぞれにどんな利点と問題点があるのか、それを新聞社独自の視点で分析、解説する方がいいだろう。それが安倍ベッタリであったとしても、きちんと解説すべきである。
 昨年夏の参院選では、公示後の「党首討論会」は一回しか開かれていない。今回も一回しか開かれていない。自民党が「党首討論会」を避け、逃げている。「政策」を語らないようにしている。
 討論会になれば、「宣伝」だけではすまない。他党からの批判にこたえないといけない。問題点が明るみに出てしまう。それを避けるために「討論会」を拒否している。(国会で、加計学園をめぐっての「証人喚問」をおこなわないのと同じである。)
 批判封じが、「選挙報道の公正ルール」を逆手にとっておこなわれている。
 民主主義とは「討論」が基本である。言論機関が、「討論(言論)」を活性化できないとしたら、言論機関としての仕事をしていないということにならないか。より多くの判断材料を提供するのが言論機関の仕事であって、上辺の現象で、今起きていることの「真相/深層」を隠すのは、言論の自殺行為に思える。



#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 











詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「誤読」の批評(西日本新聞)

2017-10-18 19:17:09 | 詩集
西日本新聞(2017年10月18日朝刊)文化面に、「誤読」の批評が掲載されています。
岡田哲也さんが書いてくれました。

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藤維夫「今日はもっと」ほか

2017-10-18 19:14:16 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「今日はもっと」ほか(「SEED」45、2017年10月10日発行)

 藤維夫の作品は、どれも抽象的である。具体的なものが登場しない。固有名詞が出てこない。
 「今日はもっと」という作品。

日々の思いついた夢は何度か難渋する気配をたどる
一日の終わりは沈み込み
明日はもう閉ざされたのかもしれない
これ以上は窓は暗い

 「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」。こういう「用言」が、この作品全体をつらぬく「基調」である。固有名詞の変わりに、「用言」で全体を統一する。整える。藤が書いたというよりも、ことばが自ら書いた詩かもしれない、と思う。
 この一連目に対して、二連目の、次の一行がきびしくぶつかる。

花弁の開くしじまはいつも光って通りすぎようとしているが

 「しじま」は「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」と通い合うが、「開く」と「光って」という動詞は「通い合わない」。
 ここから始まる「乱闘(暴力)」を読みたいが、藤は、それを書かない。そこに藤の「哲学」があるのかもしれないが、私は、こういう作品を寂しく感じてしまう。「統一」を破っていくのが詩ではないのか、と思ってしまう。
 ことばを、もっとことばにまかせてしまえばいいのに、と思う。

 「早い朝」の一連目。

ことばのすみずみに風が通ってきもちいい
みんな平原まで行くと川や木や
みなれた風景を奪うのはわたしだ
旺盛に時をむさぼりさよならは遠い
なんのまねなのかしらないが
ふと鳥もはるかの高みまで疾走するだろう
ここまで生きて生かされて
あるいは絶望を知ることなく
夢はつづいていく
しあわせの痕跡の夢は残り闇の流れはつづいていく

 二行目が、私は好きだ。
 この詩の「主役(主語)」は何か、誰か。「わたし」ということばが出てくるが、私は違うものを考えたい。

みんな平原まで行くと川や木や

 この行のなかにある「行く」という「動詞」を手がかりに、私は「川」や「木」を「主語」として読んでしまう。川や木が集まってくる。「約束の場所」へ行く。そうすると、そこに「平原」があらわれる。「わたし」は平原にやってきたからこそ、川や木もやってきたのだと感じる。「やってくる」と「行く」は到達点と出発点のどちらから「動詞」を動かすかによってかわるが、結果は同じである。
 この「ベクトル」は違うのに、「同じ世界」がそこにあらわれるというのは、

ここまで生きて生かされて

 という行にもあらわされていると思う。これはさらに「夢は残り闇の流れはつづいていく」という形で言いなおされる。
 でも、これではやはり「完結(完成)」しすぎてしまうかも。破綻がなさ過ぎる。

 抽象は反芻されることで強靱になり、具体へ近づくのか、というようなことをふと思う。抽象の強固な結びつき、その透明さが、藤の「哲学の理想」なのだろう。




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服部誕『右から二番目のキャベツ』

2017-10-17 10:22:33 | 詩集
服部誕『右から二番目のキャベツ』(書肆山田、2017年10月20日発行)

 服部誕『右から二番目のキャベツ』は、詩というよりも「散文」。散文を行変えしたもの、という印象がある。ただし、散文にしてしまうと(エッセーにしてしまうと)、一文の「息」が長くなりすぎる。行変えと、ときどき出てくる「体言止め」が「散文ではないぞ」と主張している。
 「箕面線の果てしない旅」は、こどもと箕面線を何度も往復するという内容。石橋駅と箕面駅を結ぶ短い線。駅に着くたびに先頭車両へ向かって移動する。必ず先頭車両で風景を眺めるということを書いている。

目の前に見えていた線路が行き止まってしまうこのふたつの終着駅は
おさない息子にとってはおそらく<我らが世界の果て>だっただろう
四輌連結の電車のなかを行ったり来たりしながら
世界の果てからもう一方の世界の果てまで
四本のレールの上の全世界を何度も何度も往き来した至福の時間

 一文が長くなるから、その長さを切断するために、「体言止め」の文章が挿入される。切断した瞬間に「詩」があらわれる。
 「至福の時間」ということばをつかわずに「至福の時間」を書くのが文学である、というようなことを言っても始まらない。
 このスタイルが服部の「詩」の掴み方なのだ。
 で、こういうとき。
 服部はどう思っているのかわからないが、私は、実は「至福の時間」「我らが世界の果て」という「詩っぽい」ことばではなく、別なところに詩を感じている。
 引用が逆になるが、この引用の前の部分が、私は好きである。

石橋駅に着くと降車側の扉がさきに開くが わたしたちは降りずに
乗車側扉が開くまえのまだ誰も乗り込んでこない電車のなかを
最後尾つまり箕面側先頭車輛まで大急ぎで移動する
箕面駅に着いたときにはおなじようにして
石橋側先頭車輛までそのまま車内を駆け戻るのだ

 行動が、しつこいくらい丁寧に描かれている。
 「降車側の扉」「乗車側扉」と具体的に世界が描写され、そこには「さきに開く」「開くまえ」という、ほかのひとにとってはどうでもいいような「無意識の時間」も濃密に描かれる。
 いま流行のことばをつかっていえば「世界が分節される」。つまり、はっとりのことばによって、「もの」と「こと」、世界が生み出される。
 ここには「至福の時間」「我らが世界の果て」というような「情感に満ちたことば」はないが、「情感のことば/思想のことば」ではあらわせない充実したものがある。「思い」が「感情」という形にならないまま、「肉体」としてなまなましく動いている。
 これを服部は「至福の時間」「我らが世界の果て」ということばで言いなおしている。言いなおすことで「詩に昇華した」つもりのなだろうけれど、こういうことを書かない方が「詩」になる。
 行動を描写した「散文」が、そのまま「詩」になる。
 「詩っぽく」言いなおした瞬間から、それは「散文以前(散文以下)」になってしまう。

 逆のことを試みた方がいいのではないだろうか、と思う。行分けという詩のスタイルではなく、「散文」という形式をつかい、まぎれ込んでくる「詩っぽいことば(既成のことば)」を排除すると、ことばはもっと生き生きする。
 「正直」が、そのままことばになって動く。

 詩集のタイトルになっている「右から二番目のキャベツ」は、簡潔でおもしろい。「正直」が、そのまま出ている。

八百屋の店先に並べてあるキャベツの
右から二番目のを買ってきて
おおきな鍋でまるごと煮ると
それを食べた人はきっと
しあわせになるという言い伝えが
北欧の細長い形の国にはあるとしゃべりながら
自転車に二人乗りして
わたしたちを追い抜いていった
中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ
わたしは今 娘の手をひいて
やわらかい春キャベツを買いに行く
ちょうどその途中なのだよ
ありがとう

 ここには服部の「思い」は書かれていない。ふと聞いたことば女子中学生のことばが、服部の「思い」を乗っ取ってしまう。自分のものではなかった「思い」が、自分のものになる瞬間、言い換えると「自分が自分でなくなる瞬間」が詩であって、「どんな自分になったか(どんな気持ちになったか/どんな思想にたどりついたか)」という「結論」を書いてしまうと、それは「意味だけをつたえる散文」になる。
 私の「好み」を言えば、最終行の「ありがとう」は「中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ」の直後の方がいい。
 感謝が先に動いて、それから「理由づけ」がある。「理由づけ」があって、「ありがとう」がくると、感情の気持ちと微妙にずれる。感情と理性では、感情が先に動く。おさえようとしてもおさえきれずに動くのが感情というもの。
 「理由」の説明のあとに「感情(思想)」が動くと、なんだか押し付けっぽい、と私は感じる。



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安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)

2017-10-17 01:49:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)
            自民党憲法改正草案を読む/番外127(情報の読み方)

 2017年10月16日の朝日新聞(西部版・14版)の1面。

自公 経済成果を前面/野党 増税や格差批判/選挙サンデー 街頭へ

 この見出しを読んで奇妙に感じるのは私だけだろうか。
 安倍は、今回の選挙(国会解散)を「消費税増税の使い道を変更する。借金返済に充てるのではなく、全世代型社会保障をすすめるために使う。税金のつかい方を変えるのだから、国民に信を問わなければならない」と言って強行した。
 ところが、いまは、そんなことをまったく言っていない。
 朝日新聞は、安倍の主張を、こう紹介している。

(安倍は)民主党政権時代の経済状況を「日本中が黒い雲が覆っていた」と批判。国内総生産(GDP)や株価、パートの時給などが自民党の政権復帰後改善したとしてアベノミクスの優位性を訴えた。

 民進党を初めとする野党が「アベノミクスは失敗した。責任をとれ」と言って内閣不信任案を提出し、それが可決された結果、今回の選挙がおこなわれているのなら、この安倍の言っていることは「論理」として成り立つ。
 そうではないだろう。
 なぜ、こんな「争点」ではないことを大問題であるかのように前面に押し出して報道するのか。

 ここに、「選挙報道」の罠がある。

 私は昨年の参院選の最中、7月3日に、この罠に気づいた。選挙期間中は活気づくはずの私の職場が異様に静かだった。選挙報道に「大異変」が起きていたのだ。
 安倍と懇意らしい籾井NHKが率先しておこなったのだが、「選挙報道をしない」という作戦が展開されたのだ。「選挙報道」をしないと、大政党の政策(意見)しか報道されないことになる。
 選挙報道にはルールがある。
 ひとつは、ある政党(候補)に肩入れしない。味方しない。公平に報道する。言い換えると、どの政党の主張も同じような時間、同じような記事量で紹介するというルールがある。(このルールは、籾井NHKが率先して破った。政党の議席数に合わせて時間は異聞をした。)
 もうひとつは、政党の主張を紹介するときは、現有議席の多い順(勢力順)におこなうということ。つまり、いまなら自民党の政策を真っ先に紹介する。そのあとで、希望の党、立憲民主党、公明党、共産党という具合だ。与党・野党という順を考えるときは、公明党が先に来るかもしれないが、いずれにしろ自民党(安倍)の紹介が真っ先である。
 これは、論争がはじまるにしろ、それをリードするのは自民党であるということだ。安倍が論点をかえれば、野党はその論点に合わせて反論(反撃)の内容をかえないことには「論争」にならない。
 ここに大きな罠がある。
 最初、安倍は、消費税の使い道を「全世帯型社会保障」にかえる、と言った。教育費の無償化も言った。後者はすでに民進党(民主党)が主張していたものだ。政策の横取りだと批判されると、論点を変え、「北朝鮮の脅威」とか「アベノミクスの拡大」とか、別のことを言い始めた。最初に引用した主張は「アベノミクスのさらなる推進」の一環として言われたことである。民主党の経済政策はひどいものであった。そのために日本経済は失速した、と安倍は言いたいのだ。
 論点が「消費税の使い道」ではなく、アベノミクスが成功しているか失敗しているかに変わってしまうと、野党はどうしても「増税や格差批判」をしなくてはならないことになる。そうしないと「論点」がかみ合わない。
 「論争」は、つねに最初に紹介される安倍の声にあわせて要約されてしまう。

 野党は、もっと別の問題も言っているはずである。
 たとえば森友学園・加計学園の問題について語っているはずである。核軍縮の問題、原発の問題も語っているはずである。しかし、マスコミは報道しない。安倍の主張を最初に紹介してしまうので、その論点とかみ合わない野党の主張は切り捨てられてしまうのだ。
 「争点」を明確にし、どちらの政権を選択すべきかという「情報」を提供しなければならない報道機関は、どうしても安倍の主張に対して、野党はどう言っているかを中心に報道するしかなくなる。安倍が森友学園・加計学園について語らず、アベノミクスについて語り続ける限り、野党の経済政策を最初に書かざるを得なくなる。
 野党の主張を先に書き、それにあわせて安倍が何を言っているかを書けば、ちがう「論理構造」の文章になるはずだが、第一党の主張を先に紹介するというルールがあるために、それができない。「争点(論争)」が安倍にリードされてしまうのである。
 そういうことが起きている。

 報道機関は、この安倍の仕組んだ「罠」に簡単にはまってしまってはいけない。
 最初の「争点」が何であったのか、そのことを常に安倍に問い続ける形で報道しないことには、安倍の思うがままの報道になってしまう。
 安倍批判派とみられている朝日新聞でさえ、こんな具合だから、ほかの報道機関はもっとひどい。
 安倍の「論点」が、どんなふうにずれてきているか、まったく検証せずに、ただ安倍の「論点ずらし」をそのまま追認している。
 報道の「基準」が定まっていないのだ。
 安倍が何を先に言おうが(あるいはいちばんたくさんの時間を割いて語ろうが)、国会解散を強行したときに言った「全世帯型社会保障と消費税の使い道」についてを出発点にして、安倍の論を紹介するなら、報道の内容は様変わりするはずである。安倍がどんなふうに論理をずらしたのか、それは何のためなのか、それを必然的に追及する報道になるはずである。
 野党は、今回の選挙が、森友学園・加計学園にまつわる「疑惑」隠しのためにおこなわれていると言っている。そのことを出発点として、なぜ、いま安倍がアベノミクスを持ち出し、さらには何年も前の民主党のことを引き合いに出すのか、その安倍の論理の有効性を追及すれば、もっと安倍の「腹黒さ」が浮き彫りになるはずである。
 「論点」をかみ合うように、きちんと紹介しないといけない。
 「論点」を「論点」として独立させていかなければならない。

 「言論」に意味(価値)があるとすれば、それは「論理」を独立させ、論理そのものを問い詰めることにある。
 「論理」がずれるのは、その「論理」に最初から問題があったということだろう。
 そのことを知らせる工夫をしないと、「言論」は死んでしまう。
 もうほとんど死んでいるが、ことばに携わる気持ちがあるなら、「言論」に息を吹き込む努力を報道機関はしなくてはならない。
 他人の「論理」にひきずられて、そのまま他人の「言い分」を追認していくのでは、「言論」とは言えないだろう。



 今回の「選挙サンデー(投票日前週の日曜日)」は、昨年の参院選以上に異様だった。もうみんな選挙結果がわかっている、という感じでたんたんとしている。関心を失っている。安倍に楯突けば、「収入の道」が閉ざされると、恐れている。
 アベノミクスが生み出したのは、この「経済恐怖心」だけである。安倍についていかないかぎり、アベノミクスの恩恵にあずかれない。少しでもずれると、確実に「低所得層」に切り捨てられる。恩恵は受けられない。その恐怖心がマスコミを支配している。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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