安藤元雄『安藤元雄詩集集成』(水声社、2019年01月25日発行)
安藤元雄『安藤元雄詩集集成』は読み始めたばかりなのだが、『秋の鎮魂』(1957年)「初秋」について書きたくなった。書いてしまわないと、先に進めない。
草に埋もれた爪先上がりの道が、その白壁に尽きている。
もしも空の美しい日、ひび割れた漆喰に影を落して佇むなら、お
まえはどうしても気づかずにはいないだろう、午後の日ざしがあら
ゆるものを睡らすとき、その壁からかすかに磯波の音がとどろき、
海鳥の声が落ち、遠く潮が風のように匂うのを--
いぶかしげに見まわすおまえの目に、しかしむろん海もその波も
映りはしないだろう。ここは落葉松の林にかこまれた山あいのひっ
そりした村はずれ、おまえの吸う空気にも樹の肌の匂いがするばか
りで、鳥たちの啼声もとだえがちのようだ。だが、そこには少しか
しいでその廃屋の白壁がある……
ああ、おまえは信じるだろうか、この壁に遥かに海が秘められて
いるということを。
私は海から離れた山の中で育った。子供の頃は虚弱体質で、泳ぐことは禁じられていた。海は知ってはいるが、遠いあこがれだった。
山の中の集落なので、どの家も貧しい。白壁というのは、めったにない。白壁を見ると、その白壁の向こう側に「異界」がある、と感じる。私が思い出すのは白壁の「蔵」。だから、よけいに、その奥には「宝物」がある、そこは「異界」だという感じがする。
私は、「海」を感じなかったが、安藤のことばを読むと、ああ、海だったのかもしれないと思い出すのだ。
その白壁の蔵の横には小さな池があった。その池に、ある日、その家の幼い子供が落ちて死んだ。そんなことも思い出した。
あこがれと、近づいてはいけない禁忌のようなものが、ある。
安藤の詩では、白壁の蔵ではなく、「廃屋の白壁」。
でも、この「廃屋の白壁」はほんとうにあったのだろうか。
詩には、「もしも空の美しい日、ひび割れた漆喰に影を落して佇むなら」とある。この「もしも」が、私の「誤読(幻想)」を刺戟する。
廃屋の壁に自分の影を落として佇む。その壁が「もしも白壁だったなら」。そう想像している「少年」を思う。そこには、何することがなくて、納屋の板壁に自分の影が映るのを見て、「もしもこの納屋が白壁の蔵だったなら」と思った私の少年時代がいるのかもしれない。「もしもこの納屋が白壁の蔵だったなら、私は違う世界へ行くことができる」と思っていたかもしれない。その違った世界は「海」だったかもしれない。禁じられた、遠い海。海鳥が鳴いている。波の音が聞こえる。潮の匂いもする。
安藤の詩が「もしも」ということばを持たずに「空の美しい日、ひび割れた漆喰に影を落して佇むんだとき、私は気づいた」とはじまり、「壁から磯波の音がとどろき、海鳥の声が落ち、潮が匂った」ということばで文章が完結するなら、私は、そんなことを想像しなかっただろう。
現実が夢(あこがれ)を運んでくるのではなく、空想(想像力)が現実を変えてしまうということが、ここでは起きているのではないか。こういうことは、少年時代には多くの人が体験することだと思うが。
それを証明するというと強引になりすぎるだろうが、この詩の主人公が「おまえ」と呼ばれているのも、とてもなつかしいものを感じさせる。「少年」時代を思い出させる。
「私(ぼく)」なのに、それを「おまえ」と呼んで、空想の中で動かしている。
これは空想を語るための空想なのだ。
「午後の日ざしがあらゆるものを睡らすとき」というのも、私の現実としては、昼前の農作業でつかれた父や母が昼飯のあと昼寝をしている。自分だけが眠らずに起きている。ぼんやりと幻想を見ている、幻想を動かしている、という感じだ。
「落葉松の林にかこまれた山あいのひっそりした村はずれ」、つまり海から遠いからこそ、海が語られる。
行ってごらん、足音をしのばせて。
--藻の香り漂う浜の風が、季節を過ぎたおまえの夏帽子のリ
ボンを、ふとそよがせるかも知れないのだから。
現実から出発してことばを動かすのではなく、ことばを動かして現実をととのえていく、夢想の動きを美しくする。
詩人は現実よりも先に、ことばにつかまえられてしまう人間のことかもしれない。ことばを解放するというよりも、ことばによって自分をととのえていくという安藤の詩のスタイルの原点がこの詩にあると感じた。
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