詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

葉山美玖『約束』

2019-09-17 09:54:36 | 詩集
約束
葉山 美玖
コールサック社


葉山美玖『約束』(コールサック社、2019年07月20日発行)

 葉山美玖『約束』の巻頭の「生まれる」は説明が不十分なところが詩になっている。散文になる寸前で中断してしまう。

1964年9月25日
東京広尾の愛育病院の一室で
私は生まれた

 これは「事実」だろう。「事実」だけれど「一室」が実は余剰である。そして、そこに詩の萌芽がある。なぜ「一室」と書いたのか。「一室」と書くことで、葉山は葉山を葉山にしている。「ひとり」を意識している。

新幹線開通の年
さびれた単線電車のプラットフォームで
私は生まれた

 二連目で、「一室」は「プラットフォーム」にかわる。新幹線のプラットフォームではなく「さびれた単線電車の」と書くところに、「一室性」があらわれている。すべてのひとに認識されているわけではない。「孤」、あるいは「個」への指向がここにある。

東京オリンピックの年
アベベ・ビキラの踏みつけた足の裏で
私は生まれた

ベトナム戦争勃発の年
トンキン湾で
私は生まれた

ビートルズが初来日した年
熱狂するファンの女の子の子宮に
私は生まれた

1964年
私は
そこかしこで生まれた

 「そこかしこ」は孤立しているが、葉山によって結びつけられる。その結合体として葉山が存在する。それはいつでも「個(孤)」へ分離していくということでもある。
 この接続と分離(切断)を葉山は、次々に別の詩のなかで展開する。

「帝国の逆襲」のTシャツを着た私は
一番近くのコンビニで
ベトナム男子の店員から
フライパンとほうじ茶ラテを袋に入れてもらう
ここが私の夜の休憩所
グエン君の黒縁眼鏡は
日本へ来るために
毎日がり勉した名残りなのかもしれない

 「日本へ来るために/毎日がり勉した名残りなのかもしれない」は過剰(余剰)である。そしてひとは過剰/余剰によって自分をはみ出し、他人と接続する。あふれだしていかなければ、それは自分をこわしてしまうものでもある。過剰/余剰を受け止めてくれるものを葉山は探している。それを「孤独」と呼ぶと、過剰/余剰は抒情になる。

いつも通行人に挨拶を欠かさない
ネパール料理店の看板の
慣れない手つきのひらがなが目に鮮やかで
店の裏に積まれたキャンベルのトマトスープ缶が
24時間働け!と嘯いている
深夜営業のタクシーが流してゆく
客も乗せずに
夜のジャングルを流してゆく

 「24時間」以降が、「事実」になりきれていな感じがする。特に「夜のジャングル」というのは葉山が見たものというよりも、すでに多くのひとが見て、「定型」にしてしまった風景である。グエン君の黒縁眼鏡やネパール料理店のひらがなのような「個」になっていない。そういうものをまぜることによって、「個」を際立たせているのかもしれないが。







*

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谷川俊太郎「ミライノコドモ」

2019-09-16 22:55:08 | 現代詩講座
谷川俊太郎「ミライノコドモ」(岩波書店『ミライノコドモ』、2013年06月05日発行)

 朝日カルチャーセンター・福岡「谷川俊太郎の世界」(09月16日)は『ミライノコドモ』を読んだ。そのうちの「ミライノコドモ」について語り合ったことをまとめてみた。参加者は、青柳俊哉、池田清子、谷内修三。

ミライノコドモ

キョウハキノウノミライダヨ
アシタハキョウミルユメナンダ
ダレカガアオゾラヤクソクシテル
ミドリノノハラモヤクソクシテル
コレカラウマレルウタニアワセテ

    *

ミライノコドモハ
オトウサンヲシカッテル
ミライノコドモハ
オカアサンヲアヤシテル
マチヲコエテ
ハタケヲコエテ
オカヲコエテ
ミズウミヲコエテ
チヘイセンノムコウカラ
ミライノコドモハスキップシテキタ

ナニガスキ?
ナニガキライ?
ドコカラキタノ?
ナニヲキイテモ
ミライノコドモハシズカニワラウダケ

コカゲニスワッテミエナイモノヲミツメテイル
ブランコニノッテキコエナイオトヲキイテイル
ミライノコドモノアタマノウエヲ
サヨナラトコンニチハガ
チョウチョミタイニヒラヒラトンデル

--好き嫌いからはじめましょうか。池田さん、どこが好きでした?
「カタカナで書いてあるところが嫌いです。字を読めないこどもにはいいのかもしれないけれど。でもひらがなを読めないとカタカナも読めないだろうし。なぜカタカナなのかなあ」
「まだ生まれていないこどものイメージ。生まれてくる前のこどもを思い浮かべた。そのこどもの片言のイメージがした」
--それいいなあ。谷川が喜ぶ感想かなあ。いまの感想、私も喜んでるんですが。私はカタカナが苦手で、きょうはこの詩を読むので、きのう何度か読み返して、やっと読めるようになったんだけれど。
「ミライノコドモハシズカニワラウダケ、という行は好き」
「コカゲニスワッテミエナイモノヲミツメテイル/ブランコニノッテキコエナイオトヲキイテイルの二行が好き」
--最初の二行はどうですか? キョウハキノウノミライダヨ/アシタハキョウミルユメナンダ。意味が強すぎるかな?
「よくいわれることかなあ、と思う」
「いかにも谷川さんらしい言い回しだと思う」
--この連と、ほかの連を比較したとき、何か感じます? 感じません? 間に一行空きだけではなく*マークがつていてい、谷川は書き分けているのだと思うのだけれど。
「これはミライノコドモが言ってるんですか」
「ユメはまだ現実にはなっていない。それがミライノコドモにつながるかな」
--私はこの一連目、音のリズムがいいなあ、と思いました。ミライダヨ、ユメナンダという口語のリズムが明るい。5音と7音が基本になっていて、それこそコレカラウマレルウタのよう。後半は意味がはっきりしているけど、ここは音楽性が強い。
「実際に話してるみたいですね」
--ヤクソクシテルの繰り返しも不思議。何が約束されているかというのも大事だけれど、ヤクソクシテルということの方がもっと大事な感じがする。繰り返すことでダレカガアオゾラヤクソクシテルが確かなものになる。
「心地いいですよね。最初の部分を漢字をつかって書いたら、この味は出ないですよね。ぜんぜん違うものになると思う」
--意味にしたくなかったと思います。漢字を見ると、意味が前に出てくる。意味をつかみとるよりも音を聞いてほしかったのだと思う。
 二連目、この部分では、どんなことを思いました?
「叱ったりあやしたり、大人とこどもが逆転しているところがおもしろい。このまま読んだら、ミライノコドモは、そういうことができていいなあと思うかもしれない」
「そういうことは現実としてもあるかもしれないけれど、何か意図的な感じがして、その部分は好きじゃないなあ」
--ミライノの「の」の意味の取り方では、いまの状況のような感じもしますね。こどもが成長し、未来になって、そのとき両親は介護を受けている。こどもに叱られたり、あやされたりしているという状況を書いているようにも見えますね。こどもと親の関係は、いつまでもこどもと親、世話されるものと世話するものという関係に固定されていないというか。ただ、そう読んでしまうと、あまりにも現実的すぎて、おもしろくないんですけどね。たぶん、人間のもっている本能的な力、青柳さんがミライノコドモを生まれてくる前のこどもと言ったんだけれど、そういうものがパッと出てきて、父を叱ったり、母をあやしたりと読む方が楽しいと思う。「お父さん、そんなことしたらいや」と言うのも、傍から見ればこどもがお父さんを叱っていることになるかもしれない。
「スキップシテキタが、いい。マチヲコエテ/ハタケヲコエテ、とはずんでくる感じがいい。谷川は、こどものときの感情をそのままもっていて、それを書いている。スキップにそれがとてもよく出ている」
--みんなこどもだった時代があるはずなので、そういうことを覚えていていいはずなのだけれど、忘れてしまう。谷川はそれを覚えている。あるいは、いろいろなひとに触れて、それを思い出しつづけているのだと思う。
 次の連、ナニガスキ?からはじまることばもリズムがいいですね。それが自然にシズカニワラウダケにつながっていると思う。
 最後の連、青柳さんがいちばん好きといった部分、もう一度読みましょうか。
「私は、サヨナラトコンニチハガ/チョウチョミタイニヒラヒラトンデルがよくわからない」
「まだ生まれていないこどもなので、サヨナラになるのかコンニチハになるのか、まだわからない。決まっていないということかな」
--その前に書いてあるミエナイモノヲミツメテイル、キコエナイオトヲキイテイルと関係づけて読むことができると思います。見えないものを見つめるというのは矛盾。ありえない。反対のこと。さよならとこんにちはも反対のもの。それが区別なく、一つになっている、出会っているということかな、と私は読みました。サヨナラがコンニチハになるかもしれないし、コンニハハがサヨナラになるかもしれない。まだきまっていないものが世界にはあるということかな、と。
「コカゲニスワッテ、ブランコニノッテがおとなっぽいですね。ミエナイモノヲミツメ、キコエナイオトヲキイテイルが、さらにおとなっぽい」
--そうですね。それは確かにこどもにはできない表現かもしれない。けれどこどもは表現する前に直感的に知っていて、行動してしまうかもしれない。
「だからやっぱり、形にならない前の存在なんだと思う。すごく深い世界だと思う」
--そうですね。カタカナで書かれているので最初読んだときは読みづらい。何が書いてあるのか、すっと入ってこない。でも思い出すと音が耳に残っていて、その音の感じがきもちいいなあ、と私は思いました。
「そう思います。最初から漢字まじりで書いてあると違うと思います」
--きょうは、「ルネ」と「ミライノコドモ」を読んだのだけれど、どっちが好きです?「私は、ルネ。私は何を待っていたのだろうという行がとても印象的」
「私は、ミライノコドモ。さびしさがない」
--ああ、さびしさがないというのはいいなあ。




*

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朝日カルチャーセンター福岡、2019年09月02日

2019-09-15 21:47:15 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(朝日カルチャーセンター福岡、2019年09月02日)

 受講生の作品を読み、感想を語り合った。

まっすぐに   池田清子

すっくと
立ち上がれたらいいな
腰を伸ばして
背すじを伸ばして
肩を自然におとして
顔を前に

そうしたら
すたすたと
歩いていけるような気がする

--どんな感想を持ちましたか?
「立ち上がれたらいいな、伸ばして、伸ばしてというリズムが、肩を自然におとしてにつながっていくのがいい。肩をの一行が特にいい」
「顔を前に、に前向きな気持ちが表れている。すたすたというリズムも気持ちがいい。そうしたらという一行は少し理屈っぽい。なにか、小競り合いがあるような感じがする」
「私はあまり身体表現をつかわないので、すたすたとか、印象に残る」
--私は、すっくということばから始まるのがいいなと思いました。立ち上がるときの描写なのだけれど、どういうことばからはじめるか。すっくのなかに、そ以後のことばの動きがすでに含まれている。
 肩を自然におとしてというのも、いいなあ、と思いますね。それまでの「立ち上がる」「伸ばす」という動詞とは方向が逆なのだけれど、反対のものを含むことで肉体に広がりが出てきている。緊張感だけではない「自然」が生まれてきている。「威張らずに」という感じにもつながって、いいなあ、と思いますね。
 立ち上がり、歩きだすまでのからだの動きが、腰、背筋、肩、顔と自然に下から上へ動いている。これも詩を自然な感じにしていると思います。立ちあがるときの視線の変化がそのままあらわれている。無意識なリズムがむりがなくいいなあ、と思います。
 池田さんは、どの行にいちばん思い入れがありますか?
「すたすた、を読んでもらいたい。すたすたと生きていきたいと思いがあるので」
--さっき、そうしたら、について、小競り合いという批評があったのですが……。
「二連目は詩の結論なので、必要かなあと思います。結論を導くためのことば」
--書いた池田さんは「そうしたら」に、どういう気持ちをこめました?
「立ち上がって、背筋を伸ばしてというからだの基本ができて、そうしたら、すたすたと歩いていける、という気持ち」
--そうしたら、は接続詞。接続詞があるぶんだけ、ことばの動きがゆっくりしてしまうのかもしれないですね。なくても「意味」は通じるけれど、でも、書かずにはいられない。書いている人は、それを書かないとことばが動かないと感じるけれど、読む人は読みとばしてしまうのが接続詞かもしれないですね。
 でも、池田さんは書きたかった。そうしたら、には意味がある。からだの基本ができる、準備ができる、そうしたら歩いていける。からだがととのったことを池田さん自身が確認している。そういう意味をこめている。だから、ここに池田さんの「思想」がいちばんあらわれているかもしれない。
 そうしたら、も、すたすたも誰もがつかうことばであり、「意味」はわかっているつもりだけれど、でも言いなおそうとするとむずかしい。そういうことばが、詩では重要だと私は思っています。
 言いなおすことがむずかしいといえば、書き出しの、すっくも言いなおしにくいですね。どう言いなおせます? ここに外国人がいると仮定して、すっくというのはどういう意味ですか?と聞かれたら、どう説明できるか。
「しゃんと、かなあ。足を地につける感じがする」
「気軽に、力まずに、かな。でも、ほかの擬態語では言えない」
--すたすたは、どうですか?
「自然に、止まることなく、という意味をこめたかったんですが。跳んだりはねたりしないで、自然に」
--あ、いまの説明いいなあ。じゃあ、逆に聞いてみよう。すたすたの反対のことばって、なにがありますか?
「ばたばた」
「あたふた」
「ぐいぐい」
「もたもた」
--そうやってことばを並べてみると、すたすたの意味がよくわかりますね。軽くて無理がないのが、すたすた、なんでしょうねえ。書かれていなことばを思い浮かべると、書かれていることばの「奥」(深み)が見えてくる。
 この詩はすっくではじまり、そうしたら、すたすたとつながっていく。「さ行」のことば。それがひびきあってリズムと音楽をつくっている感じもします。無意識にそうなるのだと思うけれど、こういう無意識が重要だとも思います。


水脈に帆をはって   青柳俊哉

炎暑のさなか
夜明けの枕元から
森のひぐらしの声がまいあがる
その下で鳥の群れのように自由に形をかえて
かえるとさぎとせみが輪唱する
そして遠いむかし
森の高い木から雪原にむかってなく漆黒のとり
それらの声は
野のひろがりにふれながら水脈深く大きく帆をはって
海へかえっていく心的な羽である

それらは
雪原をとびたち郷愁のようにわたしにかえってくる
生物的な空間である

今 この部屋をとびまわるあまずっぱい羽音のはえも
海へおぼれる

--いま、網屋さんと池田さんにも朗読してもらったのだけれど、青柳さん、どう感じました?
「最後の二行がきざだったかなあ」
--網屋さん、池田さん、読んでいて気持ち良くなったとか、つまずいたとか、そういうことはなかったですか?
「野のひろがりにふれながら水脈深く大きく帆をはって/海へかえっていく心的な羽である、が印象に残った。気になったのは、心的な羽、生物的な空間ということば。唐突な感じがする」
「いろいろな声が聞こえてきて、いいなあと思った」
--池田さんの詩に比べると、ことばも多く、行の長さも変化に富んでいますね。読みながら、ここは大きい声で読みたいなあ、ここはつまずくなあというのは、書いているひとよりも読んでいるひとの方が意識できるかなあと思って、聞いてみました。
 気持ちがいいなあと思うのは、意味をつかみとれなくても共感している部分と思うですよ。
 網屋さんが指摘した、心的な羽、生物的な空間というのは、硬いイメージがするのかな? でも青柳さんは、こういうことばが書きたいんですよね。
 池田さんは、野のひろがりからはじまる二行と、雪原からはじまる二行のどちらが好きです?
「郷愁のようにわたしにかえってくる、という部分が好き」
--網屋さんは?
「野のひろがりの方が好き。イメージが広がっていく。ひろがりが気持ちがいい」
「イメージが正確につかみとれているかどうかわからないけれど、でも、すばらしい」
--あ、いまの指摘、とても大事だと思います。イメージがはっきりわからない。けれど、好き、というのは。イメージを受け止めるとき、どのことばを核にするかによって世界が違ってくると思う。そこに読む人の個性が出てくる。
 たとえば、水脈に深く大きく帆をはってというのは、むずかしいと思う。帆をはるのは水脈の上ですね。でも水脈に深く、と書いている。そうすると水にもぐりこんでしまう。だから、矛盾しているのかもしれないけれど、そのわからなさのなかに魅力がありますね。
「深い森の中の深い水脈を思い浮かべ、すごいなあと思う」
--ことばの順序とは関係なく、読み手がことばの別の順序をみつけだし、読んでしまう。そういうことが起きるのが詩なのではないかな。書いた人の意図は意図としてあるんだけれど、読む人は読む人で、自分の好きなように読む。それが間違っていても困らないのが詩かな。
 散文の場合は、意味がちゃんとつたわらないと、わからない、と言われてしまう。けれど詩は、意味はわからないが瞬間的なイメージがそこにある、という感じで感動が生まれる。意味にならなくもいい、というか。
 書いている人もわからない部分があるのが詩かな。何か書こうとして書き始める。そのことばを別なことば(イメージ)が追い抜いていってしまって、姿を現わす。そういうことが詩では起きていると思う。そういう部分に、私も、すごく魅力を感じる。
 それがこの二行では、うねりのように動いている。うねりをだすには、こういう長さが必要なんだと思う。
 そして、こういう大きなうねりのようなことばの動きがあるから、心的な羽や生物的な空間という、いままでとは違ったことば、異質なものがぱっと飛び出してくることができると思う。イメージがどういうものか、それを具体的に説明することはできないけれど、あ、これはイメージなんだとわかるといえばいいのかな。羽といっても具体的な、たとえば一連目に出てくるさぎの羽ではなく、イメージに昇華された羽といえばいいのかな。この、ふつうのことばでは言えないイメージそのものを書くために、前の、うねりのようなことばの運動があると思って、私は読みました。
 生物的な空間については、青柳さんがどういうつもりで書いたのか、聞いてみましょうか。
「心的と生物的は、一見違うようだけれど、朝、めざめたときに聞いたいろいろな声とひとつになるような感じ、いのちのざわめきのようなものに入っていく感じを書きたかった。生物的というのは、自分を含めて過去からある鳴き声、それが自分にもどってくる感じ。生物としてつながっている感じをあらわしたかった」
--いま、青柳さんが、いのちがずっとつづいてきているというようなことを語ったのだけれど、それにつながるようなことばが詩の中に書かれていませんか?
「郷愁」
--そうですね、私も郷愁のようにわたしにかえってくるという部分に、何かとひとつになるという感じがあるかなあと思う。池田さんが最初に、郷愁の行が印象に残ったというのは、たぶん、青柳さんが書こうとしているものと共通するものを予感のようにしてつかみとっているからではないかな、と思う。
 郷愁というのは昔ともつながりますね。一連目に遠いむかしということばもある。そういうことば同士のひびきあいみたいなものが詩を作っていると思う。
 で、いま、詩の後半がいいなあ、と語り合ったのだけれど、前半部分で、ここは気に食わない、ここはおかしいんじゃないかというようなところはありませんか? 読みにくいところはなかったですか?
「最初は、いまのことを書いている。途中に、遠いむかしが出てくる。森の高い木から、というのは昔なんですか?」
--どう思います? 実際問題として、いまとは時間が違う遠い昔かどうかということだと思うのだけれど。網屋さんは、どう思いますか。
「遠いむかしは、あとにつづくことばにつながっている。それがまた、自分にかえってくる」
--具体的に遠いのか。遠いものとして思い浮かべているむかしなのか。同じことなのかもしれないのだけれど、私は、遠いむかしからは具体的な描写ではなく、想像としての描写だろうと思って読んだ。それこそ「心的」の世界。歴史的な年代をつけられるむかしではなく、抽象的なむかし。思い出すときだけあらわれてくるむかし。だから、ある意味ではすぐ近くにある。
 前半は、実際の現実の世界。
「私は、森のひぐらし、が奇妙だなあと感じた。ひぐらしって朝鳴くかなあ」
--いま、言ったこと、やっぱり大事だと思う。読みながら、これはどうして、と思うことが。その瞬間、よみづらいと感じると思う。
「かえるとさぎとせみが輪唱するのかなあ、というのも気になりますね」
--最初に、青柳さんは最後の二行がきざかなと言ったんだけれど、私も、前半の具体的な描写の方がちぐはぐで変だなあと感じました。書きたいことはわかるのだけれど、どうも頭で書いてしまっている感じがする。もちろん後半の思念の世界が現実に反映してきているので、普通のリアリズムではなく、思考のリアリズムとして朝の世界を描いたということもありうるので、簡単に、リアリズムに反するとは言えないんだけれど。ただその場合、書き出しがナチュラルすぎるかなあ。どこまで思念(思考)の世界として徹底させるかというのはむずかしい。
 私が、このひぐらし、かえるとさぎとせみの輪唱につまずいたので、みなさんがどう読んだかなと思い、聞いてみました。
「さぎはよくなかったかな」
--さぎは、ギーというような、汚い声ですからね。
「輪唱まではしないし」
--青柳さん自身がきざといった最後の二行は、どこがいちばんきざなんだろう。
「この二行がなかったら、生物的な空間であるでおわったら、あまりにも突き放す感じがするかなと思って書いたんだけれど。あまずっぱい羽音がよくないのかな」
--詩を書いていて、いいことばがかけたなあと思ったあと、ここでおわったら中途半端かなあと思って、どうしても何か付け足してしまうということがあると思う。でも、読者は意外と中途半端と感じないし、途中でおわった方が余韻があると思うかもしれない。
 池田さんの詩にもどると、顔を前に、までだとまだ何か書き足したい。それで最後の三行があるのだと思うけれど。
 青柳さんの詩の場合は、生物的な空間であるまでだと、池田さんの顔を前にまでのような気がするんだと思う。それで、どうしても付け足してしまう。
「生物的な空間である、で終わると、抽象のまま。どうしても現実に戻しておきたいという気持ちになる」
--網屋さんだったら、どうします? この二行。
「どうしますって(笑い)。青柳さんは、海へおぼれるというのは、どういう気持ちで書かれたんですか?」
「水脈を通って海へかえっていくという流れのなかで、海を出したんだけれど。これを書いているとき、たまたまハエが飛んでいたので、それを書いたんだけれど」
「あまずっぱいというのは、恋とか、郷愁とか、そういうものにつながっているのかなあと思って読んだのだけれど。恋を書きたかったのかとも」
--前に海へかえっていくということばがあるので、最後にもう一度海をだす事で世界を閉じたかったのかな、と私は読みました。
 海へおぼれるというのはいいけれど、その前の今を何によって表現するかというのがむずかしいですね。


風になりたい   網屋多加幸

僕の旅はいつも突然やってくる
旅の目的を数えたら数えきれない

硬い机に縛られた日々
どしゃぶりの雨に行き場もなく
棺に入れられる
他人の噂話はシャボン玉となって
僕の傍を過ぎると雨雲の中へ溶けてゆく
僕はリズミカルに頷きながら
酸欠の金魚のように
どす黒いものを吐き出していた

 夢は崖から転げ落ち
 墓地に枯れた花が活けられた

タンスの奥に折り目正しく畳まれていた
破れたジーンズとよれよれのTシャツは
物干し台の上で風に巻き上がる

 乾いた布は水を吸い込み
 色を取り戻した

バックパッカーは日本を抜け出す
手には片道切符と世界地図だけ
硬いマンフォールの蓋を押し上げて
星あかりの道を歩く
人間は吐き出したものが多いほど
美味しいものを食べたくなるようだ
だが、歩きながら料理はできない
立ち止まるところが求めている処だ

知らない言葉の世界で身ぐるみ脱がされる
温かいスープも笑顔も優しさも
全部そこに用意されている

僕には旅に出る目的なんて一つもない
手のひらを広げよう
握られたこぶしの隙間から
砂がこぼれだす

「印象が、すぐにはまとまらない」
--池田さん、声に出して読んでみてください。声に出して他人の作品を読むと、なんなく自分の声と重なる部分を感じると思うけれど。たとえば、タンスの奥にからの三行などを読むと、これは自分でも知っているな、と思うところがあると思うけれど。
「最初の、風になりたいん、という気持ちがわかる」
--青柳さんはどうですか?
「バックパッカーの連がいいなあと思います。星あかりの道を歩く、が印象的」
--網屋さん自身は、どこがよく書けたと思います?
「いろいろ書きすぎたけれど、知らない言葉の世界に旅を徴させた」
--いろいろなイメージが書かれているけれど、たとえば池田さんは酸欠の金魚を見たことがあります? 
「口をぱくぱくさせている様子ですね」
--それを、この詩では、どす黒いものを吐き出すと表現している。
「口からどす黒いものを吐き出しているのは、見たことはないですね」
--私も見たことはないのだけれど、そういう実際には見えないものを、ことばにして存在させる、そういうことが詩の方法のひとつとしてある。金魚のあえぎみたいなものと、自分の感じるあえぎ、肉体のつらさみたいなものを重ね、金魚を自分の象徴にする。金魚になって、網屋さんが生きている。
「どしゃぶりの雨に行き場もなく、棺に入れられる、という感じとかもそうなりますね」
--棺に入るというのは体験できないけれど、土砂降りの雨に降られという経験はだれでもあると思う。そういう自分の経験と重なる部分を手がかりに読んでいくと、作者が書こうとしたことを追体験しやすくなるかなと私は思います。
「立ち止まるところが求めている処だ、というのがいいですね」
--硬いマンフォールの蓋を押し上げて、星あかりの道を歩く、というのはどうですか?
「硬いマンフォールの蓋を押し上げて、というのは現実そのものというよりも、現実のありようのようなもの。それがあるから、星あかりの行が美しくなる」
--わからない部分があると、逆にそのことがわかる部分を輝かせるというような感じですね。そういうことが、この詩のなかにはたくさんあると思う。
 乾いた布は水を吸い込み、色を取り戻したというのも鮮やかなイメージですね。
 こうした行が印象的なのは、たぶん最初に書いてある、硬い机に縛られた日々ということばがあるからだと思う。サラリーマン、公務員の生活なのだろうけれど、それに対比して、別な世界が生き生きと動くのだと思う。
「書いているうちに、予定していなかったことばを思いついて、それをたくさんいれてしまったかなあ、と少し反省している。旅に出て、いろいろな人と出会う感じを書きたかった」
--ジーンズとバックパッカーの組み合わせは、ごく自然だと思うけれど。物干し台で風に巻き上がるという現実の風景と、それに重なるようにして乾いた布が別のイメージをぶつけてくるところは刺戟的だと思う。対比が美しいなと思う。
 書いてあることはたしかに多いのだけれど、書けるときに書いておいて、あとで整理すればいいのだと思う。いろいろな世界つながっていく可能性がある。楽しくなると思う。
「最後の連の意図がよくわからない」
「世界を歩いている夢みたいなものを書きたかった。最後の砂は、最初薄汚れた砂にしようかと思ったけれど、それでは夢が出てこないと思い、砂にした。旅の目的は数えられないくらい多いと書き、最後に旅の目的は一つもないと終わる。この対比を書きたかった。二連目に、旅の理由をあれこれ書き始め、でも、結局そういうことは旅の目的ではない、ということを一つもないということばで言いなおす。結局、世界のひとたちと出会う、その出会いのなかにだけ旅の目的がある、人と出会うという一つのことが旅の目的、といえばいいのか。逆説的な言い方だけれど」
--最初はいくつもあったけれど、実際にやってみると一つもないというのは、よくあることだと思う。そういうことに気づくまでにはいろいろな変化がある。それが、いくつものイメージの展開になっているのだと思う。
「イメージの変化が唐突で、実際に旅している感じがする。そこがおもしろいなあと思う」
--夢は崖からの二行、乾いた布の二行は、一字下げになっていて、イメージが独立していて、効果的だと思う。
「最後の砂がこぼれる、というのは広がっていくんですか」
「イメージとしてはいくつもあって、一つに限定しなくていいかなと思う」
--私だけの印象かもしれないけれど、他人の噂話はシャボン玉となって、というのはわかるけれど、それが、僕の傍を過ぎると雨雲の中へ溶けてゆくが、非現実的な感じがする。イメージだから非現実でもいいのだけれど。書いている人がそう感じるといわれれば、それまでのことなのだけれど。
「それをリズミカルに頷くんですよね」
「どしゃぶりの雨を受けて、雨雲が書かれているのだと思う。噂話と現実との対比が書かれているのかも。噂話は必ずしも現実ではない。しゃぼん玉のようなもの。でも、棺かはない方がいいかなあ。景色というか、全体の調和がとれない」
--全体の調和は、そのうちに生まれてくるので、とりあえず書いてみるというのも楽しいと思う。こうやって感想を語り合うと、自分のことばの脈絡と、他人が感じる脈絡の違いがわかり、それが参考になるかなあと思います。
「でも、単純なイメージの羅列ではなく、複雑につながってる感じがする。そこがおもしろい」




*

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渡辺めぐみ『昼の岸』

2019-09-14 10:51:17 | 詩集
昼の岸
渡辺 めぐみ
思潮社


渡辺めぐみ『昼の岸』(思潮社、2019年09月01日発行)

 渡辺めぐみ『昼の岸』のことばはとても清潔だ。この純粋な清潔さ、ことばの運動の正確さ、ゆるぎなさが渡辺の詩の特徴だと思う。
 しかし、この清潔さは安水稔和『辿る 続地名抄』(編集工房ノア)とはかなり違う。
 「雪解け」という作品。

高原にだけ咲く花の
高すぎる茎の背が怖いと思ったことは
ありませんか
その群生の仕方が
上を向き続ける花の意志が
瞼に焼きついて眠れなかったことは
ありませんか

 --手首切り取っても生えてくる夢に夏の戦意は鮮やかなりき

 「短歌は、家人の石川美南氏が本作品とのコラボのために書き下ろして挿入してくださったもの」という注が末尾についている。
 時系列から言うと、渡辺の作品が先にあり、それにあわせて石川が短歌を書いたということなのだが、順序は逆でも可能だろうと思う。それくらいことばが呼応し合っている。なぜか。渡辺も石川も「ことば」から出発して作品をつくっているからだ。
 近藤久也「あっち」の作風(ことば)と比較するとはっきりすると思う。
 近藤はほんとうに草っぱらに寝転んでいたのかどうかわからないが、草っぱらという現実がある。何よりも「あっち行け、しっしっ」という声がなまなましい。渡辺はほんとうに高原にいたのかもしれない。高原の植物を見たのかもしれないが、「現実感」がない。「上を向き続ける花の意志」ということばがあるが、その「意志」がそういうことを強く感じさせる。「現実」があるとしても、それは「メタ現実」である。意識としての現実。花を花としてみるのではなく、そこに「意志」を見る。さらにそれが「瞼に焼きつく」、その結果「眠れない」となると、これは完全に「ことば」の世界である。「ことば」がなければ、渡辺の書いていることは存在しない。
 そういう意味では、たしかに渡辺は詩を書いている。ことばにすることによってはじめて出現する世界を書いている。
 でも、よくよく考えてみれば、近藤の書いた「あっち行け、しっしっ」もことばにしないかぎり存在しない。近藤の書いた世界は、ことばにしないときは「肉体」のなかにただあるだけのどうでもいいような一瞬の感情、そこで完結してしまう何かだが、それだってことばにしないかぎりは出現しない。ただし、出現したからといって、そこから何か新しいもの、未知のものがはじまるのではなく、むしろ、知っていたと思っていたことの「奥」へもどっていくような世界である。「現実」から「現実の奥」、「肉体の奥」へと帰っていくために、「それでどうした?」と言いたくなるような、言い換えると、誰もが「肉体」で知っているどうでもいいことを書いたって……という気持ちになる。
 渡辺の詩は、「どうでもいいこと」という印象は、たぶん、生まれない。あ、そういう世界があるのか、と驚かされる。そうか、世界はこんなふうに見れば、明確な「輪郭」をとるのか、とひきつけられる。
 渡辺の詩(ことば)は、世界の新しい可能性、清潔な美しさへ向かって動いていく。「抽象」へ向かって動いていく。近藤のことばは逆に、誰もが知っている「輪郭」のあいまいな、ただそこにそのときあっただけの、なんといえばいいのか、「だらしない」と形容してもいいようなもの、「具象」としか言えないものへと帰っていく。
 「抽象」と「具象」を比較すると、なんとなく、「抽象」の方がかっこいいというか、「頭がいい」感じがする。評価に値するものという印象が生まれる。「具象」には美しいものも、醜いものも、だらしないものもあるのに対し、「抽象」には美しいもの、「真理(真実)」があるという印象がある。そして「具象の事実」と「抽象の真実」を比較すると、「真実」ということばとなじむためか、「抽象」の方が「上位」のもののような印象を引き起こす。
 これはしかし、簡単に結論を出すわけには行かないぞ、と私は思う。

 少し別な角度から書き直してみる。
 渡辺は「コラボ(レーション)」ということばをつかっているが、渡辺のことばは「現実」とコラボレーションするというよりも、あくまで「ことば」とコラボレーションする。対話する。向き合っているものが、最初からととのえられた「抽象」だから、それは不透明なものを含みようがないのだ。不透明なもの、ことばにならない奇妙な「肉体が覚えているもの」を含まないから、透明になるしかない。美しく輝くしかないのである。
 「睦月を急ぐ」にこんな行がある。

洗練される前の
泥だらけの素敵な思い出が
坂の未来を決めるだろう
目ばかりがぎらぎらと輝く
ぼろ布をまとった
老人が行く
あの人は誰だろう

 「泥だらけ」「ぼろ布」ということばが出てくるが、どんなふうに汚れているのか、「具体的」な感じがしない。「抽象」としか読めない。「目ばかりがぎらぎらと輝く」も常套句に過ぎず、人間の「欲望」をつかみきっているとは思えない。
 この「抽象性」がそのまま「老人」を通り抜けて、「誰だろう」ということばに結晶する。どんなに汚れた姿をしていても「誰だろう」と「抽象化」して(?)いえるときは、ぜんぜん汚くない。自分と無関係だからだ。でも、その「老人」が自分の身内だったりすると、まるで自分自身の汚れた姿をひとに見られているような気持ちになるものだ。もし、友人(知人)といっしょに歩いているときに、その老人を見たら、「あ、父だ。だれも私の父であると気づきませんように」と思ったりする。気づかれないうちに、「あっち行け、しっしっ」とこころのなかで叫んだりするかもしれない。
 渡辺の詩には「不純物」がない。なぜか。「物語」がどこかにあり、それを土台にしてことばが動いているからだと思う。渡辺自身の「現実」というよりも、「完成された物語」がつねに想定されていて、それを出発点とするから「あっち行け、しっしっ」というようなひとに聞かれたくないことばが入り込みようがない。
 「指定区域外」の次のような行。

骨が溶けるまで笑おうね
誰しも溶けるから笑おうね
大陸間弾道弾が見えない彼方をゆこうとも
僕ら わたしら
夕涼みの木蔭のように
つながろう
一期一会の旅人としてちらりと目を合わせ
はにかみながら笑おうね

 「意味」はわかる。しかし、その意味がわかるということが、もしかすると渡辺のことばの「強み」ではなく「弱み」かもしれない。そんなことも思うのである。しかし、この感想は、私が、先に近藤の詩を読んだからかもしれない。渡辺の詩を先に読み、そのあとで近藤の詩を読んだのだったら、こういう感想にはならなかっただろうとも思う。
 池井昌樹や安水稔和の詩を先に読まなければ(先にその感想を書かなければ)、きっと違ったものになっただろうとも思う。




*

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安水稔和『辿る 続地名抄』

2019-09-13 08:30:49 | 詩集
安水稔和『辿る 続地名抄』(編集工房ノア、2019年09月15日発行)

 安水稔和『辿る 続地名抄』はタイトルどおり「地名」を題材にした詩の連作である。「父の村 四篇」の一部を読んでみる。

甲山 かぶとやま

甲山に登ると
父の村が見下ろせる。
すっかり色づいた稲田
刈り入れが始まっている。

東の山と西の山のあいだ
帯のような平地。
雲が流れてきて
流れていく。

 淡々と書いている。なんでもない風景のようにも見える。しかし、二連目の「雲が流れてきて/流れていく。」に、こころがひきつけられる。ここには「時間」がある。「雲の流れ」を「流れ」として認識するための「時間」。これは「瞬間」ではなく「継続/連続」であり、同時に「反復」でもあると思う。「流れてきて」と「流れていく」はひとつづきの動き(連続したもの)だが、私には「繰り返し」に感じられる。たぶん、これと同じことを安水はかつて見ているのだ。その「記憶」を「反復」している。その「反復」がことばをととのえている。
 父と見たことがあるのだろう。そしてそのとき、父はきっと言ったのだ。「雲が流れてきて/流れていく。」と。
 一連目も同じことが言えるだろう。いつか父と一緒に甲山に登った。頂上から父が言ったのだ。「村(のすべて)が見下ろせる。」と。そのことばになっていない「すべて」は「すっかり色づいた稲田/刈り入れが始まっている。」のなかにある。もちろん、それが「すべて」ではないが、「いま」の「すべて」である。「時間」のすべてである。「いま」だから、それは「一瞬」だが、繰り返される「暮らし」、「反復」されることで「永遠」になっていく「時間」。そういう「すべて」。
 安水は、いま父と対話しているのだ。
 三連目。

なんという鳥なのか
尾の長い鳥が。
枝伝いに次々と数十羽
背後の茂みに消えた。

 この鳥を、私は安水の父と読む。「数十羽」は父の「ひとり」という数とはあわないが、それは単に「ひとりの父」ではなく、引き継がれている「父」なのだ。「父の系譜」なのだ。
 「尾の長い鳥が。」と「動詞」を省略して中断されたことばは、鳥の一羽に焦点があたっている。まず、父があらわれたのだ。それから、それにつらなる父があらわれ、雲のように動き、動いていく。飛んで行く。そして消える。

 「父」との「対話」は、「仁豊野 にぶの」という二篇に直接的に書かれているが(とはいっても、何を語ったかは書かれていないが)、具体的には父が登場しない作品の方がより「対話」を感じさせる。
 「豊富 とよとみ」、甲山をおりたところの地名か。秋の風景が語られる。その三連目。

土塀
気持ちよく乾き。
土塀に乾した子供の運動靴
気持ちよく乾き。

 この「土塀」と「子供の運動靴」が「父」と安水に見える。それは「気持ちよく乾き。」という同じことばで結びつけられている。
 この「気持ちよく乾き。」という中断されたことばは、安水の記憶のことばだろう。「気持ちよく乾いているなあ」というようなことを安水の父は言ったのだと思う。聞けばなんでもないことばだが、「乾いた」状態を「気持ちよい」ということばで修飾することは、こどもにはむずかしい。特に「土塀/気持ちよく乾き。」はこどもには言えない。
 秋の光、空気の感触。そういうものを含めて「気持ちよく乾き。」ということばがある。ああ、こういうことを「気持ちよく」と言うのか、と安水は学んだのだ。それが「肉体」の奥に残っていて、いま、ここに噴出してきている。
 最終連。

ゆっくりと曲がる
村なかの道。
無人
蒼空。

 この「無人」は、単にひとが出歩いていないということではない。父がいないということだ。かつては父といっしょに歩いた道。そこをいま安水はひとりで歩いている。
 蒼空は「蒼穹」と読んだ。宇宙だ。

 こういう比較は変かもしれないが。

 池井昌樹のことばは「父」を超えて、その向こうにまでたどりつこうとする。あるいは「父」のさらに向こうから「いのち」を呼び寄せようとする。そういう広がりをもつ。
 それに対して安水のことばは、「父」を超えてやはりどこか遠いものとつながっているはずなのに、あえて、その遠くへは踏み込まない。「父」で踏みとどまる。「知っている」領域で踏みとどまる。
 「土地」がある。「土地」は「名前」がある。「名前」は「存在」をはっきりと記憶するためのものである。そういう「明確」なものを、安水はつかみとる。それ以上を求めない。そこに清潔な美しさがある。




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近藤久也「あっち」

2019-09-12 09:24:49 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「あっち」(「ぶーわー」42、2019年09月10日発行)

 「声」は不思議だ。私は「ことば」の「意味」よりも、「声」そのものの方に引きつけられてしまう。好きな「声」と、なじめない「声」、はっきり言って「嫌い」な声がある。
 何度も書いている池井昌樹には、「好きな声」と「嫌いな声」がある。「嫌いな声」の方が多いのだが、その方が安心する。池井の場合は。
 近藤久也は、どんな「声」か。いままであまり考えたことがなかったが、「あっち」という詩では近藤自身が「声」について書いている。

草っぱらかどっか
目のまぶしさで
目さます

あっち行け、しっしっ
誰かがおっぱわれている
(おれかも)
あっちてどっちだ?

じっときいていると
あっちはずっと前から
からだの中、片隅にちっちゃく在るように
きこえてくる いったい
どんなやつがどんなやつを
おっぱらってるんだ?

乱暴な声がだんだんだんだん
親しげに低く小さく
ひびくひびいてくる

しっしっ

あっち行け、叱 叱

 これは、どういう状況なのか。たぶん草むらでうたた寝をしていて、目をさます。虫がいる。じゃまだなあ。「あっち行け、しっしっ」と言ったかどうかわからないが、ふと、思ったのだろう。しかし、思った瞬間、もしかしたら虫の方が近藤に対して「あっち行け、しっしっ」と行っているのかもしれない。草っぱらは虫の棲家だ。
 それから、まあ、自己を相対化して反省している、というとめんどうくさくなるが。
 簡単に言いなおすと、自分というものについて考えたということだろう。別に考えなくてもいいのだが、考えてしまう。この、無駄、余分なところに「詩」がある。
 で、無駄なことというのは、近藤にとっても無駄なことなのだけれど、近藤にとって無駄ならば、私には関係ないことである。だからというわけではないのだが、つまり、私自身のことではないのだから「こんな無駄なことを書いて」と思いながら、その「思い」のなかで、私は「誤読」する。

じっときいていると
あっちはずっと前から
からだの中、片隅にちっちゃく在るように
きこえてくる

 この部分で、私は「あっちはずっと前から」を「あっち行け、しっしっという声はずっと前から」と読んでしまうのだ。自分の肉体の中に「あっち行け、しっしっ」ということばがひそんでいて(つまり、そういう「声」を聞いた記憶がしっかり残っていて)、それが「いま」噴出してきている。近藤の中心になっている。
 そしてその「声」は「あっち」を必然のようにもっている。抱え込んでいる。「あっち」はどこなのか、まるっきりわからないけれど「あっち」として在る。いや、これは正確ではなくて、きっと「ここ」ではないところという意識として、しっかり存在している。
 「あっち」ということばは「こっち」ではない。「こっち」は隠されている。無意識に了解している。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。書いている人は書くことさえ忘れている意識になじんだ無意識の思想。そういうものとして「こっち」(近藤は、これを「からだの中」と言い換えていると思う)があり、それが「あっち」を浮かび上がらせる。
 「あっち」というとき、「いったい/どんなやつが」「こっち」を認識し、「あっちへ行け、しっしっ」と言っているのか。
 それははっきりとは書かれていない。「無意識の思想」だからはっきりとは書けない。でも、ことばには、その「印」みたいなものがあらわれてしまう。

乱暴な声がだんだんだんだん
親しげに低く小さく
ひびくひびいてくる

 「親しげ」に「ひびく」「ひびいてくる」のは、「あっち」を浮かび上がらせる「こっち」が近藤にとって深くなじんでいるものだからだ。
 それを近藤は「しっしっ」という「意味」以前の「声」で追い払おうとしている。
 「あっち行け、しっしっ」という「声」そのものを。

 池井は「肉体にひそむ声」を「至上のもの」として信じている。
 近藤は逆だ。「肉体にひそむ声」(肉体になってしまっている思想)というものは「絶対的」ではあるが、それは「至上のもの」とは呼べない。言い換えると「善」として無条件に受け入れるべきものではない。むしろ、「悪」として存在する。なぜなら、人間は誰でも自分がいちばん大切でかわいいからだ。邪魔する奴は「あっち行け、しっしっ」。
 でも、その「悪」を、それでは完全にないものにしてしまう、とっぱらい、捨ててしまうかというと、そんなことはできない。そういうものがあるんだと納得して、「肉体」のなかに「同居」させて生きていこうとしている。「同居」を納得するために、こんな具合に「詩」にしてしまうのだ。

 で、また、思うのだ。
 こんなばかばかしい無駄を、よくもまあ書くもんだねえ、と。
 すると、ほら。
 ここに最初に書いた「無駄」ということばが出てきてしまう。「無駄」こそが「詩」という定義が、復活してきてしまう。
 詩とは、そういうものなのだ。
 いままでなかったような美しいことでも、ひとを感動させることでもなく、人間が必要としてしまう「無駄」としかいいようのないもの、役に立たないものが「詩」なのだ。
 こう書くと近藤に叱られるかもしれないけれど。
 「こんな感想を書くやつは、あっち行け、しっしっ」と言われてしまうかもしれないが、そういうことをきょうは考えた。



 私は、詩の感想を書く。しかし、それは「評価」ではない。どの詩が優れているかというようなことは、私は考えない。「好き」「嫌い」は言うが、これはもう完全に「個人的な感情」であり、ひとと共有できるとしても「瞬間的」なものだ。すぐ変わってしまうものにすぎない。
 私は、書かれていることばに出会い、出会ったときに、私のことばがどう動いたかだけを書いている。
 私のなかにあるあいまいなものが、あることばによって励まされ、ととのえられ、形になるときがある。ととのえられればいいのかどうか、よくわからないが、ととのえてくれる力があればそれを借りてととのえてみる、ということ。でも、次の日は、それをこわしてみたくなる。とどまりたくないし、たどりつきたくない。
 私は誰にも与したくない。私自身に対しても与したくない。どうしても私自身に与してしまうことが多いので、それには、われながらうんざりするけれど。
 (近藤の詩とは関係がないことなのかもしれないが、感想を書いたあと思ったことなので、つづけて書いておく。)



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夜の言の葉
近藤 久也
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チャン・イーモウ監督「SHADOW影武者」(★★★★)

2019-09-11 20:47:33 | 映画
チャン・イーモウ監督「SHADOW影武者」(★★★★)

監督 チャン・イーモウ 出演 ダン・チャオ、スン・リー、チェン・カイ、ワン・チエンユエン

 チャン・イーモウと言えば「赤」。「紅いコーリャン」の「赤」もそうだが、そのあとも「赤」が美しかった。日本の赤とは違うチャイニーズレッド。それと拮抗するさまざまな原色。たとえば補色の緑。(アメリカ映画にはだせない色。イギリス映画とも違う輝き。)やっぱり大陸の空間が影響するのだと思うが、原色が同居しても、うるさくない。明るいバランスが強烈だった。
 それが、なんと。
 今度の映画は、まるで「墨絵」(水墨画)。降り続ける雨が、必然的に遠近感のなかに「灰色」のグラデーションを抱き込むが、登場人物の衣装も白と黒、灰色。さらに城のなかにはシャの懸垂幕(掛け軸?)みたいなものがかかっていて、そこには文字(詩)が隅で書かれている。最初の内は(ほとんど最後までだが)、色彩は「人間の顔」くらいなもので、モノクロ映画の世界に飛び込んだよう。
 この白と黒に「陰陽」が重なる。光と影。「影」にはいろいろな意味がある。「陰謀」などというのも「影」だろう。ストーリーは、いわば「陰謀(影)」と「戦闘(光/現実)」とのからみあいで進んで行くのだが。さらに「陰陽」は、「男」を「陽」と呼ぶときは、女は「陰」になり、そのからみあいと読むこともできる。実際、「男/女」はいろいろな意味でストーリーを動かす。
 でも、見どころはストーリーではない。(歴史に詳しい人は、ストーリーが重要だというかもしれないが。)
 主人公が「武術」を完成させるシーン。薙刀のように長い刀をあやつる武将とどう戦うか。その訓練をするシーン。長刀(陽)に対して、傘(影)で立ち向かう。長刀(男)の力を、傘(女)のしなやかさで吸収しながら、相手の武器を奪い取ってしまう。
 このシーンがまるで一幕ものの「ダンス(バレエ?)」のよう。二つの琴をつかった音楽にあわせて、男と女の肉体が融合して動く。そこに雨と光が陰影を与える。水溜まりを踏み荒らす足、飛び散るしぶき。それも一緒にダンスする。予告編でもちらりと紹介されていたが、「あ、もっと見たい」と思わす叫んでしまいそうだ。(このシーンだけで、★10個つけたいくらい。)
 傘を武器に変えての市街戦も、まあ、見どころではあるのだけれど、これは「予告編」だけで充分という感じ。
 そのあとの、やや入り組んだ「ストーリー」は、私の「関心外」で、私が考えたのは「陰陽」という中国の思想というか、中国人というのはやはり「対」感覚が強いということ。それは逆に言えば、世界は「1+1=2」という関係で「安定」するという感覚。「2」を超える数字は中国人には存在しない。「3」は、あってはならない数字(世界の向こう側)なのだ。
 これは、音楽のありかたを通しても描かれている。琴の合奏というのは、違う琴を違う二人が演奏し、違う音を奏でながらひとつの世界をつくりだすこと。ここにも「1+1=2」、「2」こそが世界の絶対的な完成の形という思想がある。そこにもし、もうひとつ「1」が加わることは、完璧が崩壊するか、完全に違った何かが誕生することであり、中国の思想ではない。
 だから。
 この映画、主人公の「影(余分な1)」の存在が「世界」を不安定にする。いつでも、どこでも「1対1」のはずが、別なところに「1(本物であったり、影武者であったりする)」がいて、「2」におさまりきれない。どうしたって「陰」か「陽」か、どちらかを消して「1」にしないことには世界は不安定になる。そういう意味では、わかりきった「結末」なのだが。
 この「中国式予定調和」が、まあ、映画の結末としてはしかたがないのだろうけれど、残念。★5個にならない理由。
 
 (中洲大洋スクリーン3、2019年09月11日)
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池井昌樹『遺品』(2)

2019-09-11 10:14:31 | 詩集
池井昌樹『遺品』(2)(思潮社、2019年09月20日発行)

 池井昌樹の詩について、きのう「論理」「倫理」というめんどうくさいことを書いてしまった。まだ、頭の中に残っている。これを捨て去って、別なことを書きたいのだが、ことばはなかなか簡単には捨てきれない。
 「めをとじて」

ふうりんのねにききほれた
すずむしのねに
ふるゆきのねに
はなひらくねにききほれた
あさゆうかわすあいさつや
かきねごしでのかたらいや
おおむかしからかわらない
もじにかいてはあじけない
もじにできないあのねいろ

 私は、実は、池井の音(音楽)に嫌いな部分がある。この詩に出てくる「ね」という音。この粘着質の音がどうしてもなじめない。私が「おと」ということばでつかみとっているものを池井は「ね」と音にしている。(「あのねいろ」は、私も「ね」という音をつかうが。)
 「もじにかいてはあじけない」と、言いなおすと「おととかいては(よんでは)あじてけない」である。池井は「ね」に「味」を感じているのだ。そしてその「ね」は私にとっては非常に気持ち悪い「味」なのだ。
 これは、私が池井の詩をはじめて読んだ「雨の日のたたみ」からかわらない。
 この絶対的な「拒絶感」のようなものがあるから、ある意味では、私は安心して池井の詩を読んでいるかもしれない。
 いつでも、池井の詩は嫌いだ、と言える。そういう自信(?)のようなものがあるから、「好きだ」といえる。
 あ、脱線したか。
 で、この「ね」についての「もじにかいてはあじけない」というのは、なんとなく、「論理」を含んでいるように感じられる。「論理」というのは、どこかで「制御」を含んでいて、その響きが「もじにかいてはあじけない」という文体のなかにあると感じる。
 でも、こういうことを書くと、どうしてもめんどうくさいし、しつこいものになるので、きょうは避けたい。

 視点を変えて。
 この「ね」は、別のことばでも語られなおす。それを見てゆく。

あのこえに
めをとじて
ふうりんのねはいつしかたえて
すずむしのねはいつしかたえて
ゆきはやみ
はなはかれ
あさゆうかわすあいさつも
かきねごしでのかたらいも
とうにたえたが
わたしのなかにたえないものが
もじにならないあのねいろ
あのこえが
よせてはかえすなみのよう
よごとまたたくほしのよう
いのちのように
いまもまだ
めをとじて

 「ね」は「声」である。私が音と感じるものを、池井は「声」と感じる。ややこしいことだが、私は「ね」には拒絶感でしか近づけないのだが、「声」には非常に引きつけられてしまう。
 「声」は肉体のなかから出てくる。
 風鈴のなかから出てくる声、すずむしの肉体のなかから出てくる声、雪の肉体のなかから出てくる声、花が開くとき、花の肉体から出てくる声。
 そう読み替えた瞬間に、私の「好き」という気持ちは非常に強くなる。
 「あさゆうかわすあいさつや/かきねごしでのかたらい」は「ことば」(意味)ではなく「声」なのだと思う。
 その「声」を池井は、

わたしのなかにたえないもの

 と言いなおしていると思う。前半部分の「おおむかしからかわらない」を言いなおしたものだ。
 「私の肉体のなかにたえないもの」と私は読み直す。「いのち」。それは「もじにならないあのねいろ/(ではなくて)あのこえ」と私はつづける。私は「いのち」のつづき(耐えない接続/連続)を、池井の「倫理」として感じていることになる。
 「音」と書けば「論理」になる。けれど「ね」と書けば「倫理」になる、かどうかはわからないが、私はそういうことを漠然と考える。

 「用」という詩はとても美しい。

つまといて
ようもないのに
こえをかけたくなることが
なにかいいたくなることが
ようもないから
だまっているが
ひとはひとりになることが
いつかひとりになることが

 この前半部分には「ある」が省略されている。省略しても「ある」があることがわかる。これが、たぶん「いのち」の感じ、「つづいている/接続している」であり、「たえないもの」につながっている。

たったひとりで
ひとりっきりで
だからなによりたいせつな
どんなことよりたいせつな
たいせつな
ようがあるから
だまってせなかみていたら
いぶかしそうにふりむいた
つまのめに
めをふせて

 「ようがあるから」と一回だけ出てくる「ある」。
 池井は、いつでも「ある」をみている。つかみとっている。
 秋亜綺羅は、いま目の前に「ある」ものを論理の力で否定し、「ない」があることをことばとして噴出させる。それを「現在詩/現代詩」と呼ぶが、池井はそういう「トリック(論理)」に近づかずに、「論理以前」の「なま」へと分け入っていく。するとそれが突然「いま」になる。誰もが経験したことのある「事実」としてあらわれ、誰もが知っているから「真実」になる。
 用もないのに声をかけたくなる、そういう瞬間がたしかにある、と誰もが「実感」する。
 そのとき、たぶん私たちは「私はここにいる/私はこの世にある(生きている)」と納得するのだろう。



 「遊ぶひと」には、一か所、わからなことばがある。 113ページ。

ながいゆめからさめたよう
おはうちからしたそのひとは
ひときわふかくしわぶきながら

 「おはう力したそのひとは」「おは打ち枯らしたそのひとは」。どういう「ことば」が書かれているのか。「漢字」をあてはめることができない。「意味」につながることばにならない。





*

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池井昌樹『遺品』

2019-09-10 09:48:02 | 詩集
池井昌樹『遺品』(思潮社、2019年09月20日発行)

 池井昌樹『遺品』のタイトルとなっている「遺品」は少し変わった作品だ。

髪の毛すこし
歯がすこし
金冠も
銀冠もない
カネにはならない
カネならおれのかくしのなかに
錆びた小銭がなんまいか
それだけだ
なにかのたしにするがいい
なんのたしにもなるもんか
はきすてるようその子がいった
そのときからだ
かくされてきた
遺品がかがやきはじめたのは
それがなにかはしれなかったが
どこにあるかもしれなかったが
なにもほしいとおもわなかった
そのときからだ
ひめられてきた
遺品がかがやきつづけたのは
どこのだれともしれなかったが
だれのものともしれなかったが

 私が、ふと立ち止まったのは、少し変わっている、いやかなり変わっているかもと思ったのは、

そのときからだ
かくされてきた
遺品がかがやくはじめたのは

 この部分だ。
 池井が知らず知らずに受け継いできた「遺品」が、「なんのたしにもなるもんか」という声に刺戟されて「かがやきはじめた」。否定されることで、否定をはね返すように、肯定的なものがあらわれた。
 ここに「論理」がある。
 これは、かなり風変わりである。
 以前、秋亜綺羅と話したことがある。秋が言うには「しかし、池井の詩は現代詩か」。こういうとき、秋は何を考えていたのか。秋の詩と池井の詩はどこが違うか。「論理」を書くかどうかが大きな違いだ。秋は「流通している論理」をひっくりかえしてみせる。無効にしてみせる。その瞬間、気づかなかった何かがあらわれる。その「噴出」が秋にとっての「いま(現在/現代)」である。
 池井のことばは、そういうものには触れてこなかった。「流通している論理」だけではなく、「流通している何か(抒情、でもいい)」に接近することなく、独自に自分の世界を掘り下げていた。「現在性」がない。だから秋は「池井の詩は現代詩か」と批判したのである。
 池井がこの詩に書いている「論理」は「現在性」をもっているか、どうか。あまり、もっていない。社会とうまく適合していない息子が、父親(池井)に向かって「そんな小銭(端金)が何のたしになる」と批判したのだと読めば、そこに現代のある家庭の問題が浮かび上がるかもしれないが、池井の視線は、そういう現在性へは向いていない。「たしにする/たしにならない」ということばのなかの「たし」が端的にそれをあらわしている。「たし」ということばが人の口から出てくるのを、私は、最近は聞いたことがない。せいぜいが「腹の足しにならない」を聞いたことがあるかもしれないと思うくらいで、「たし」ということば自体に、はっ、とするところもあった。
 あ、脱線したか。
 もとにもどって。
 池井は、この詩を書いているとき「論理の否定」によって、「論理以前を輝かせる」ということを意識していたかどうか。それは、わからないが、ここに書かれていることは、そういうことだ。
 社会には、ものを「たしになる/たしにならない」を基準にして評価する風潮がある。「小銭」は「たしにならない」。いまは、簡単に、そう言ってしまう。けれども、「小銭」はなぜ存在するのかと考えるとき、違うものが見えてくる。「小銭」だけれど、それは社会に存在するものと等価のときがある。その「等価」が指し示すもの、そこにこそ「価値」がある。「等価」を手に入れるために、ひとは働き続ける。そして、「等価」を少しずつ貯める。いや、貯めるのではなく、「等価」という考えを引き継ごうとしているのだ。「小銭」によって。
 この引き継がれていくもの、多くの人が見すてていく「小さなもの」、けれども「等価」をつなぎとめるもの。その「意識/精神」を「遺品」と呼んでいる。
 と、私は、ここに書かれている「論理」を私なりのことばで言いなおす。「誤読」し、自分にわかる「意味」に書き換える。
 その瞬間。
 あれっ、こういう読み方をしてきたかなあ。池井の詩を読んで、こんな面倒くさいことを考えたことがあったかなあ、と思い返す。
 これは、私にとって、はじめての「池井体験」である。だから「少し変わっている」と書いたのだ。

 では、いままで読んできた「池井詩」とはどんなものか。
 「詩は」とか「掌」という作品が、これまで私がなじんできた池井のことばだ。「掌」を引用してみる。

あきかぜのたつころともなると
そぼはおはぎをつくりはじめる
きなこにあんこにあおのりに
あかるくてのひらそめながら

あんたにたべさせとおてのう

はるかぜのたつころともなると
そぼはぼたもちつくりはじめる
きなこにあんこにあおのりに
あかるくてのひらそめながら

あんたにたべさせとおてのう

 これは書き出しだが、「あきかぜ」が「はるかぜ」に、「おはぎ」が「ぼたもち」変わる以外は何も変わらない。「おはぎ」と「ぼたもち」は名前こそ違うが、その「もの」は変わらない。だから、ここにあるのは「論理」ではない。「論理」は「名前」が変われば、それにふさわしい「論理」に転換していかないといけない。そうしないと、そこにあるのは「論理」ではなく、「習慣」、あるいは「惰性」になってしまう。
 でも、ここに書かれているのは、単なる「習慣」、季節ごとを「惰性」ではない。
 それが何か。それを決定づけるのは、

あんたにたべさせとおてのう

 という祖母のことばである。
 これは、さらにくりかえされる。

そぼもおはぎもぼたもちも
きなこもあんこもあおのりも
なにかわらないのだけれど
あかるくてのひらそめながら

あんたにたべさせとうおてのう

 これは「論理」ではなく、祖母の「論理を必要としない愛情」である。これを「論理」に近いことばで言いなおせば「倫理」である。
 池井はいつも「論理」ではなく「倫理」を書いてきた。「言」ではなく「人」を書いてきた。「言のつくる道」ではなく、「人のつくる道」を書いてきた。「道」だから、それはどこまでもつづいている。過去からつづいてきて、これからもつづいていく。そこには「方向」はなく、ただ「つづく」という運動だけがある。「つづく」だけて満足できるのが「倫理」なのである。池井は詩を書くことで「論理」ではなく「倫理」(人の道)に出会っている。

 こういう言い方は「古くさい」かもしれない。
 でも、私は池井の詩を読むと、古くさい人間になるのである。

 詩集は、半分近くまで読んだ。あした、またつづきを書くかもしれない。もう書いたから書かないかもしれない。読んでみないとわからない。





*

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最果タヒ『恋人はせーので光る』(3)

2019-09-09 00:00:00 | 詩集
恋人たちはせーので光る
最果 タヒ
リトル・モア


最果タヒ『恋人はせーので光る』(3)(リトルモア、2019年09月07日発行)

 最果タヒ『恋人はせーので光る』の「まぶた」は、こう始まっている。

横たわっていると、地平線の形がきこえることがあるんです。

 この行について、何か書きたいと思う。何かは、書き始めてみないとわからない。読んだ瞬間と、それについて何か書くために引用するために書き写す間に、それは生まれてくる。書きたいと思ったこととは違うことばが先に出てくることもある。
 この一行で思ったのは「形がきこえる」という動詞のつかい方だ。
 でも、そう思うだけで、まだ何が書きたいかは、はっきりわからない。わからないから、行を読み進む。

二段目のアイスクリームのように地球の表面にぼくは広がり、
球面を描く。それでもぼくは生きていて、地球は死んでいるの
だということが、とてもつらくおもいます。

 「二段目のアイスクリーム」は生々しい。言い換えると、私の想像しなかった「もの」がそこに「事件」のようにして出現している。そのあと「死んでいるのだ」ということばがある。最果の詩には「死」がいつも見え隠れしている。
 このことと「形がきこえる」はつながるか。
 「形(視覚)」を超越して「きこえる(聴覚)」が動く。聴覚が動いたのは、視覚が死んだからか。でも「二段目」「表面」というのは聴覚がとらえるものではない。
 何を書きたいのか、「保留」したまま、ほかの詩を読む。ほかの詩のなかに、「形がきこえる」に通じるものがあるかもしれない。
 「約束した」では、次の一行に私は惹かれる。

ぼくの手のひらが熱くなる、海水に触れて、

 海に触ったときの記憶が蘇る。この一行は、しかし海の記憶を書こうとしているわけではない、とすぐに知らされる。「海水に触れて、」は倒置法ではなく、次の行につづいているのだ。

生き返るように、誰かの体温をもらったよう
に、そうして眠たくなるのだ、そうして赤ん
坊に帰っていく、ぼくの体の内側にまだ、ま
るまっている、小さな子。

 この「裏切り」というか、私の勝手な「誤読」を追い抜いて動いていくことば。「熱く」は「体温」へつながり、「眠る」へつながる。そして、それは「赤ん坊」にかわる。生まれてきたけれど、まだ生まれてきていない「一部」。「8月」の「私の1%」のようでもある。
 「赤ん坊」は「いのち」なのだが、「生まれていない」感じが死ともつながっているようにも感じる。
 最果のことばは、いつも、生と死を行き来している。

 「氷河期」の、

わたしは、誰とも友達でないから、
誰とも恋人でないから、誰のことも殺せてしまうのだ、
記憶の中で。

 を読んだとき、私はふと秋亜綺羅を思い出した。ここには「論理」が書かれているのだが、秋のことばから「論理の罠」を取り外したら最果の詩になるかなあ、と思ったのだ。ことばの軽さ、明るさ、きれいさが、秋のリズムとも似ている。(軽い、明るい、きれい、という印象が秋亜綺羅の「綺」という文字に象徴されている--これは、寺山修司がつけたペンネームなのだが、たぶん、軽い、明るい、きれいなことばとつながるものを名前のなかに刻印したかったのだろうと思う。「本名」で書いていたら、秋の詩は違った印象になる--というのは脱線だが。)
 でも、最果のことばは、秋ほど「論理」を強く表に出さない。むしろ、少し「ゆるい」部分があって、そこに新しさもある。
 次の部分。

春の光が、まだ冷たさに競り負けて、
ぱらぱらと上空で砕けていくのが見える。
どうしても、愛は愛として成立してしまう。
歪んだ世界でも、歪んだ愛が、
まるで垂直な雨のように、降り注いでいる。
そんな、うつくしい偽りがあるんだと知っているから、
もう誰のことも愛しているよ。

 最終行の「もう」は、ふつうなら「愛していない」につながると思うが、最果は肯定のことばにつないでゆく。
 ことばの乱れなのか、わざと乱れさせることで自己主張するのか。
 そういう「文体」の内部に入り込んで、感想を書いてみたいという気持ちも生まれる。でも、まだ、どう書いていいのかわからない。
 そうしているうちに、「0時の水」という作品に出会う。

わたしは、わたしの喉奥から、
背骨の鳴く声を聞く、
クジラもイルカもセイウチも、
わたしと同じ生き物であると、
骨の芯が知っていて、語り合える、
本当は、わたしも海を泳いでいるし、
光の筋をひろいながら、夜の音を聞くことができる、

そう思いながら深夜のコンビニから、外の景色を見つめて
いると、光が、生き物のよう。わたしとコミュニケーショ
ンなど取ることのできない生き物のように、通りすぎてい
く。わたしはしらない、この星のほとんどの生き物はわた
しの考えていることを、知ることができないのだというこ
とを。わたしが読んでいる本、わたしが食べているもの、
何一つ理解ができなくて、彼らがもし、わたしを好きなら、
とほうもない孤独におそわれているということを。

かわいそうと思う。
そう思えた途端に、明日が頭上に降りてくる。

 これを読んだ瞬間、私は、それまで考えていたこと、ことばにしたいなあと感じていたことを忘れてしまう。
 この詩はすごい。傑作だ。
 それから、私はことばを探し始める。
 私は何に感動したのか。
 「肉体」の書き方に感動した。「背骨が鳴く」。その「声」を「喉奥から」「聞く」。私は聞いたことはないが、聞いたことがないことを忘れて、「あ、その声を覚えている」と感じる。私も知っている、と。
 これはもちろん私の錯覚だが、そういう錯覚を引き起こす力が最果のことばにある。
 この「背骨の鳴く声」が「クジラもイルカもセイウチも」とつながっていくが、そのすべてが「わかる」。それから、それにつづく「骨の芯」も。
 そのとき私は海を泳いでいる。クジラかイルカかセイウチか、どれになっているのかわからないが、たぶん、それは名前が違うけれど、同じ「背骨」をもった「生き物」である。
 そう思うのである。
 しかし、最果は、そこにとどまらない。
 クジラ、イルカ、セイウチを突き放してしまう。一体にならない。

何一つ理解ができなくて、彼らがもし、わたしを好きなら、
とほうもない孤独におそわれているということを。

かわいそうと思う。
そう思えた途端に、明日が頭上に降りてくる。

 「孤独」という使い古されたことばが、しかし、まったく新しい形で、そこに存在している。
 「彼ら」を「孤独」と呼ぶとき、最果は「孤独」以上に「孤独」である。名づけられない「孤独」のなかにいる。なぜ、名づけられないのか。どう名づけてみても、結局「孤独」というこことばのなかに取り込まれてしまうからだ。
 違うのに、同じことば。
 ひとりひとり、というか、最果が感じていることは、ほかの誰かの感じていること(たとえば私が感じていること)とは違うのに、「同じことば」になってしまうのだ、ことばにした瞬間。
 そう知りつつ、あるいは知っているからこそ、最果は詩を書く。

 「かわいそうと思う」と書いているが、だれを「かわいそうと思う」のか。それは私たち読者がひとりひとり感じとるしかない。最果に「答え」を聞くのではなく、感じたことが、私の「答え」なのだ。





*

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最果タヒ『恋人はせーので光る』(2)

2019-09-08 10:08:05 | 詩集
恋人たちはせーので光る
最果 タヒ
リトル・モア



最果タヒ『恋人はせーので光る』(2)(リトルモア、2019年09月07日発行)

 最果タヒの詩の中心的なイメージ(私がもっているイメージ)は、たとえば「日傘の詩」にある。(原文は横書き)

大人になってから、殺したいと思うこと
がなくなったけど、たぶん、すこしずつ
殺す方法を、覚えたからだと思います。
花がきれい、朝がきもちいい、そういう
私の中に、しまいこまれた殺意は全部、
優しさに変換されていく。大人ってどう
ですか、汚く見えますか? どれほど美
しい自分が過去にいようと、私は今どこ
よりも静かな場所を、手に入れている。

 「殺す」という動詞、「殺意」という名詞が、「きれい」「きもちいい」「優しい」「美しい」と対等に変換される。交換される。入れ代わる。つまり、「殺す」を「優しい」「美しい」と肯定的にとらえると同時に、「優しい」「美しい」を「殺す」という否定的な「意味」でとらえなおす。その切断と接続の接点に、詩が存在する。それを青春の危うさと呼ぶことができる。(最果はもう「大人」の年齢だと思うが、詩のなかに何度も出てくる「大人」は、逆に最果の青春性を浮かび上がらせている。)
 こういう詩を真ん中におき、「殺す」というようなことばを密閉すると、たとえば「8月」の世界が広がる。

夏の供養はナンバーガール。
放置したソーダ、まだシュワシュワし
てる。10代のころ、深夜の車道に寝転
がって星を見つけて叫んだせいで、ま
だ私の1%が車道に転がったままでい
る。大人って、記憶喪失にならんとな
れんのな。消えてく夏に期待したもの、
全部外れて全部背負って秋に深まるよ、
                  赤黄茶色土の色。

 「シュワシュワ」のソーダから「深夜の星」への移行の間に、「深夜の歩道に寝ころがって」がある。「殺す」はあらわれていないが、「死」が隠れている。
 最果の「殺す」と「殺意」というよりも、「死へのあこがれ」が呼び覚ます本能だろう。「死へのあこがれ」と書いてしまうと青春の抒情になるので、それを「殺す」という暴力でたたきこわそうとしている。抒情にはなりたくないという意思がある。
 「喪失」ということばは、しかし、まだ抒情を抱え込んでいる。
 こういう矛盾の強さが、「全部外れて全部背負って」という拮抗する行為としてあらわれている。
 この対極にあるのが「4、5、6」と言える。「美しい棘を研いで」と始まる詩のなかほど。

       この街には、どこに続くかわからないトンネル
がある。それは私の瞳であり、耳であり、鼻である。どこかに
いけたとしても、穴は穴であることを知っているのは、私だけ。
清々しく、人であることを疑うことなく、愛を信じ、この街で
まっとうしましょう、まっとうしましょうという態度を、はい。
呪います。私は、いつかなんにもない体の中から、私には手に
負えない感情がひとつ、こぼれでて、この街に巨大な穴をあけ
ることを、期待している。

 肉体を(最果は「体」と書いているが、私は「肉体」と読む)、「穴」ととらえている。「穴」とは、しかし、存在しないから「穴」である。「穴」はそれ自体として存在するのではなく、「穴」をつくるものによって存在するものである。
 この拮抗が、とてもおもしろい。興味深い。「全部外れて全部背負って」は抽象だが、肉体の「穴」は抽象ではない。
 その存在、「穴」の存在を認識できるのは、そして最果自身でしかない。まさに「穴は穴であることを知っているのは、私だけ」なのである。
 これまで、最果は、こういう肉体感覚を書いてきたか。私は何でもすぐ忘れてしまうのでよく覚えていないが、はじめてではないかと感じる。私は、最果にこういう肉体感覚があるということを、はじめて知った。
 最果の肉体の「穴」から、「手に負えない感情」(たとえば、あこがれとしての「殺す」ではなく、欲望としての「殺す」、快楽としての「殺す」かもしれない)があふれ、こぼれたと同時に、街に「巨大な穴」が空く。それは街が最果の「肉体」そのものと入れ替わるということだ。
 暴力による破壊と統一。カタルシス。そういうものをいま、最果は純粋へ傾く感情ではなく、不透明を許容する肉体を通して、手さぐりしている。そんなことを感じた。
 まだ半分読んだだけだが、この「穴」の向こう側へ、最果が突き進んで行くというのは、わくわくする感じがする。この先を読みたい、と強く思う。




*

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最果タヒ『恋人はせーので光る』

2019-09-07 11:03:44 | 詩集
恋人たちはせーので光る
最果 タヒ
リトル・モア


最果タヒ『恋人はせーので光る』(リトルモア、2019年09月07日発行)

 最果タヒ『恋人はせーので光る』。文字が小さいので、私のように目の悪い人間には読むのがかなりむずかしい。途中まで読んで、一休み。その一休みに、少し感想を書いてみる。
 巻頭に「果物ナイフの詩」。横書き。

人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもな
く美しくなる部分が心にあって、嫌いにはな
れない。

 この書き出しはとても魅力的だ。人を傷つけるときの「自覚」を書いているのだが、人を傷つけると「美しくなる」、だから人を傷つけることを「嫌い」になられない。
 魅力の一つは、人を傷つけることを「美しい」と「嫌い」という「感情」のことばでとらえていることである。「感情」はどうしようもないものである。抑制できない。自然に生まれてくる。この自然さを肯定するというのは最果の思想であり、とくに新しいことを書いているとは思えない。
 でも、私は、ここにひきつけられた。
 なぜだろう。
 もう一度読み直す。(詩のスタイルを無視して、一文にして、読み直す。)

人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもなく美しくなる部分が心にあって、嫌いにはなれない。

 「心」ということばが、そこにある。私は、この「心」が気になった、そこにつまずいたのだとわかる。これが、この詩のキーワード、必要不可欠なことばだと思う。ただし、「必要不可欠」とはいっても、それは最果にとって必要不可欠なのであり、私には必要不可欠とはいえない。
 言いなおすと。この一行を、私は、最初、

人を傷つけるとき、ぼくにはどうしようもなく美しくなり、(人を傷つけることを/あるいは、ぼく自身を)嫌いにはなれない。
 
 と読みとばしている。そういう「意味」でつかみとっている。言い換えると、私なら、そう書いてしまう、ということだ。
 でも、最果は、私のつかみとった「意味」以外のことを書いている。何かが「意味」の奥からあらわれてくる。
 「部分」と「心」と「ある」。
 あ、ここがポイントなのだと気づく。
 「心」というものが「ある」かどうか、私にはよくわからない。何よりも「ある」としたら、「どこに」あるのか、それがわからない。それで、私は、わからないことは避けるようにしてことばを読んでしまう。
 でも、読み直すと違ってくる。
 最果は「心」というものに「部分」というものも「ある」ととらえていることがわかる。そこにも私はつまずき、「そうか」と思うのである。しかし、この「そうか」は、それ以上ことばにはならない。「そうか、最果は心というものをことばにしたいのだ」と気づいた、と言いなおせる。
 でも、それはどんなもの? どこにある?
 最果は、「心」をどんなふうに言いなおしているか。

   言葉は人を殺せるし(当たり前だ)、
呼吸も、影も存在も人を殺すことができる。
それを、鋭くしてはいけない、木の鞘におさ
めるようにそっと、ぼくはそれらを肉体で包
んで、慎重に生きるだけだ。誠実や、愛と呼
ぶな、これは低く呻くように続くぼくの怒り
として、祈りとして、震えている。だれも、
誰かを傷つけずに、生きてくれ。

 「言葉」が最初に登場する。「言葉は人を殺せる」は「心は人を殺せる」と言いなおしても「意味」はかわらないと思う。「言葉は」は「言葉で」であり、「心は」は「心で」でもあるのか。
 「呼吸」「影」「存在」と、「言葉」ほど簡単には「心」とは入れ替えられない。入れ替えたときに「意味」になるかどうかわからない。それは「比喩」にとどまっている。抽象になっていない。そこに、なまなましさがある。
 それを「木の鞘で包む」と補足し、さらに「肉体で包む」と補足するとき、そこに「心」が突然復活する。

肉体で「心を」包む

 私は「心」を補って読む。そうすると「意味」がすっきりする。
 「心」は「肉体」のなかにあるという言い方は論理の「定型」だし、「肉体」と「心」の対比は論理の運動の「定型」である。誰もが似たようなことを言う。共有されている考え方だ。
 一方、最果は「心」を「誠実」「愛」と呼ぶなとも言う。すっきりした「意味」を拒絶する。
 拒絶することで、詩に向かって加速する。飛翔する。
 「呻く(呻き)」「怒り」と呼びたいのだ。ととのえられない何か、と呼びたいのだ。
 しかし、それはさらに「祈り」と言いなおされる。
 「誠実」「愛」が「祈り」ではなく、「呻き」「怒り」が「祈り」である。しかも、しっかりと存在するものではなく、「震えている」。頼るものがない、ということかもしれない。
 それが「心」であり、「心の部分」でもあるのだが、「心全体」よりも「部部としての心」の方が「ある」を強く主張している。「部分」は「個」ということかもしれない。(孤という文字をあてると、抒情になってしまう。)
 その「個」は共有されにくい。だが、美しいのだ、と最果は言っている。

 あ、だんだん「意味」になっていく。
 この詩の感想は、ここでやめておこう。最果は「心」というものを書いていると、私は気づいたとだけ言っておく。

 四分の一くらい読んだところに「人はうまれる」という作品がある。この詩も横書き。

すべてを肯定したくなるほど、朝はまぶしい、人はまぶしい、
噴水のような公園で、公園のような家族たちが、花のように揺れている、
現実のようには思えない、それはぼくがその一員ではないからで、
でも、ぼくもまた人間だから、リードなどなくても公園を歩いている、
公園のような家族の中を、歩いている。
記憶を辿るように朝を迎えて、この先すべては走馬灯。
いつから、死んでしまった者があらたな命に生まれ変わると、
ひとは思い込んだのだろう。
遡る雨のように、一人だけ生まれてくる、
未来の果てから、ぼくらに会いに。

 「現実のように思えない」という、この部分だけ取り出すと、非常に散文的なことば(詩からは遠いことば)だが、私にはこの詩のなかではいちばん鋭く感じられた。そこに、やっぱりつまずいたのだ。
 「現実のように思えない」なら、なんだと思うのか。「走馬灯」や「輪廻(死んでしまった者があらたな命に生まれ変わる)」か。
 私は、ふいに、最初に読んだ「心」を思い出してしまう。
 「現実のように思えない」、「心のように思ってしまう」のである。そして、その「心」と最果はつながっていない。「ぼくが(は)その一員ではない」からだ。逆に言えば「心」がつながれは、あらゆることが「現実」になる。
 最後の二行を、私は、次のように読み替える。

遡る雨のように、「心は」一人だけ生まれてくる、
未来の果てから、ぼくらに会いに。

 詩とは「こころを書くもの」と言ってしまえばそれまでだが、最果は、だれにも共有されて来なかった「心の部分」をことばにしようとしている。「一人だけ」が「部分」とつながる。呼応する。「部分」がなければ「心」にはなれない、と言っているように聞こえる。
 「部分」は最果の詩のなかでは、「傷」とか「血」とかの「比喩」になって姿を見せる。「傷」「血」は美しい肉体にとても似合う。美しさを築かせてくれる「否定」である。否定されるものがあって、その反動で美しさが生まれるという「論理」を、美しさを否定することで美しさが生まれるのなら、美しさを否定したものの中にこそ、ことばにならない美しさがあるからだと言いなおすこともできるだろう。
 しかし、私の、こういう面倒くさい感想は、最果の読者には関係がないことだろうなあ。






*

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山本育夫 書き下ろし詩集「ごはん」十八編

2019-09-06 10:32:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫 書き下ろし詩集「ごはん」十八編(「博物誌」40、2019年09月01日発行)

 山本育夫の書き下ろし詩集「ごはん」十八編は、写真と詩が合体している。写真の上に文字を焼き込んでいる。写真は加工(?)されていて、不鮮明である。その影響で、文字も読みやすいとはいえない。
 最初の一篇(一枚)を掲載する。



 詩も、別個に転写しておく。

1 夕餉(ゆうげ)

ごはんの時間だ
その先に
人生の曲がり角
ってやつだよ
ことばの
大断崖
きっぱりと
ことばごとすべりおちる
垂直に
ごはんの商店街の夕暮れだ
冒険王が風切って
帰っていく
カバン放り投げて
ふっくら炊きたてことばを
ホフホフいいながら
食べる

 詩だけを読むと、この詩がいい詩なのか、読み散らかしてほっておけばいい詩なのか、よくわかない。
 最後の三行は、こどもが「ごはんだよ」と大声で呼ばれて帰って来て、そのままごはんに食いつくようすを描いている。「ごはん」は「ことば」ではないが、「ごはん」のまわりには「ことば」がある。特に吟味はしない。ただ食らいつく。その食らいつく感じが「ホフホフ」という、「ことば」にならない肉体の息として描かれている。ここに山本の書きたいことが集約している、と思う。
 思うが。
 私は違うことも思うのである。
 私と山本はたいして年齢が違わないはずだが、この「ホフホフ」は、私の「子供時代」と重ならない。私は山の中の小さな集落で育った。昔は、「炊きたてごはん」というものを食べなかった。かならず「ひつ」に移して、湯気を吹き飛ばしてからよそった。言いなおすと、少し冷まして食べた。子供のときは「ホフホフ」はなかった。「ホフホフ」を体験するのは、たぶん電器がまが登場してからである。食卓に(あるいはすぐ近くに)電器がまを置けるようになってからである。竈でごはんを炊いていた私の家では、「ホフホフ」が可能になったのはいつのことか、はっきり思い出せないが、少なくとも外で遊び呆けている小学生のときは、それはなかった。
 だから、思うのである。
 ここには「現実」と「現実ではないもの」が入り混じっている。「事実」と「事実ではないもの」が入り混じっている。
 でも、詩は「社会学」のテキストではないのだから、「時代」を正確に再現していなくてもいい。ここに書かれている「カバン放り投げて」「炊きたてことば」に食らいつくのが少年時代の山本でなくてもかまわない。だいたい、こどもは「炊きたてことば」というものを知らないだろう。ただそこにある食い物を食う。なんでもうまい。いちばん味覚が発達している(どんなものにも「おいしい」を発見できる)のだから、いちいち「味わう」ということなどしない。ただ食らいつく。急いで食らいつくから「ホフホフ」になるのだ。
 それが、どうした。
 どうもしない。私はただそういうことを思う。そして、そう思うことが「人生の曲がり角」を曲がってしまったからなんだろうなあ、とも思う。子供には「人生の曲がり角」などというものは、わからない。「ホフホフ」食らいついていたときが「曲がり角」なのか、「ホフホフ」食らいついていたことを思い出すのが「曲がり角」なのか。
 その「曲がり角」にしたって、

ってやつだよ

 と、ちょっとずれているというか、「曲がり角」と直面していない。この「ずれ方」というか、ずらし方というか。
 これはなんだろう。
 私は、突然、「ノイズ」(雑音)ということばを思い出すのだ。
 「人生の曲がり角」ということばが「ノイズ」なのか、「ってやつだよ」という批判がノイズなのか。区別がつかない。瞬間的に入れ代わってしまう。「ノイズ」にぶつかりながら、自分の「声」をもう一度、出してみる。「ノイズ」を突き破って、「声」を遠くへ届けることができるか。「ノイズ」にかき消されてしまうか。いや、待てよ。この「ノイズ」を利用して、「音楽」のように、まったく違う「音」を出現させることはできないか。でも、「調和」ではおもしろくないぞ。
 いろんな思いが、思いそれぞれに自己主張する。これは、めんどうくさい。ととのえようとすると、めんどうくさいし、どうととのえてしまっても「嘘」を含んでしまう。それならそれで、最初から「嘘」でもかまわないのだ。「嘘」でしか言えないことがある。「ノイズ」にしか言えないこともあれば、対抗心(反抗心)でしか言えない「純粋」もある。そして、それは互いに「ノイズ」であると同時に「純粋な音」でもある。

 あ、書いていることがだんだんめんどうくさくなってきた。「抽象」に踏み込んでしまった。

 だから、いままで書いたことはぱっと捨てて、(必要なところだけ、もう一度拾い集めて)、私は書き直す。
 山本にとって「視覚」でとらえた「風景」が「ノイズ」なのか、「視覚」に誘われて出てきてしまったことばが「ノイズ」なのか。
 奇妙に加工された写真、たとえば「夕餉」の写真は、右側の交差点の路面あたりから空にかけてが、ムンクの絵「叫び」のように渦を巻いている。修正した後拡大したために、修正の跡が残っている感じだ。この歪みを見ると、「風景」のなかに「ノイズ」がひそんでいる。山本が生きている「現場」に「ノイズ」がひそんでいる。それと戦うために(ノイズに巻き込まれないようにするために)、山本はことばを書いているのだ、と言いたくなる。
 それはしかし一瞬のことだ。
 「ノイズ」と戦うには「純粋な声」なんかではだめだ。山本自身が「ノイズ」にならないと、「風景(現実)」の「ノイズ」の「輪郭」をたどって、わかりやすいように提出するというだけのことになってしまう。「輪郭」のような、「完結」したもの(スタイル)であってはいけないのだ。
 「ノイズ」の輪郭を破る「不定形」としての運動、動きそのものの「ノイズ」にならなければならない。エネルギーにならなければならない。
 「ノイズ」を破る「ノイズ」の瞬間を、山本のことばは手さぐりでつかみとる。
 それは「ってやつだよ」や「ホフホフ」というような、「わかる」けれど、それを言いなおす(ととのえてわかりやすくする)ことができないことばのなかにある。

 もう一篇、感想を書いてみる。

7 同調圧力

あの人がいったのに
どうしてあなたはいかないの
恥ずかしいわよ
あなたもいったほうがいい
つきあいが悪いって
いわれるでしょ
のしょ
のトーンがかわいいよ
(それはねドウチョウアツリョク
っていうんだよ、ドウチョウアツリョク
ソノドガウガチガヨガウガアガツガリガヨガクガ
ポロポロのつぶてになって
そこら辺をブンブン
飛び回り
ぶつかってくる
みんなが右、といったら左
左といったら、右
頑固な親父だった
その背中が
夕暮れの中に沈んでいく

 「ソノドガウガチガヨガウガアガツガリガヨガクガ」という強烈な音。「ドウチョウアツリョク」という音の一つ一つの間に「ガ」が侵入している。それは音を切断すると同時に接続している。意味を切断する「ノイズ」であり、意味を浮かび上がらせる「ノイズ」でもある。「ガ」は「我」であるというと、大学入試のなぞときクイズになってしまうし、どこかに書かれている「哲学」になってしまうかもしれないが、そういうところに「ノイズ」をおとしめてしまってはいけない。
 これは「ガ」。もしかすると、マンガに出てくるような、「ア」の濁音のようなもの。肉体の奥から音として出てくる「ことば」にならない「声」である。
 それはたとえて言えば「みんなが右、といったら左/左といったら、右」というようなものかもしれないが、そんなふうにととのえることのできない、我慢できない「声」なのだ。人間には、直感のようなものがある。本能の欲望がある。
 「頑固」というのは、「論理」を守ることではなく、論理になる前、意味になる前の、「欲望」を貫くことである。他者に対して「ノイズ」のままでいることである。それはもしかすると自分自身にとっても「ノイズ」かもしれない。そうわかっていても、「ノイズ」を選ぶのである。 







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仲田有里『植物考』

2019-09-05 09:21:34 | 詩集
植物考
仲田 有里
思潮社


仲田有里『植物考』(思潮社、2019年07月08日発行)

 仲田有里『植物考』のタイトルにもなっている「植物考」の一連目。

仕事の帰り、
街灯が葉っぱを緑に
照らしている。
こういうものを見るために
私は生きている

 二、三行目は複雑な書き方である。「街灯が緑の葉っぱに/照らしている。」ではない。「葉っぱの緑に」である。そこにある木、あるいは草かもしれないが、その存在自体は「ひとつ」である。しかし、「葉っぱの緑に」ということも、「緑の葉っぱを」ということもできる。「葉っぱを緑に」と書いているのは、街灯に照らされなければ、その緑は見えないからだろう。照らされることで「緑」とわかった。最初から「緑」であるのだが、照らすものがあることによって「緑」という応答がある。
 この「応答」のために、私は生きている、ということになる。

植物が生きているというのは、
それは雨の夜によく分かる。
例えば雨のベランダで。

ベランダで植物を
育てている。
私のお皿越しに
見える植物。

 一連目の「生きている」の主語は「私」、二連目の「生きている」の主語は「植物」。違う存在がひとつの「動詞」のなかで結びつく。これは「呼応」がつくりだす世界である。
 この詩には、もうひとつ「呼応」がある。
 一連目の「見る」が三連目では「見える」という形になっている。この変化のなかには「街灯が緑の葉っぱに/照らしている。」と似た、説明しようとするとうるさくなるだけの、微妙なものがある。
 仲田は「目」で「呼応」を確認する「視力型」の人なのだろう、とだけ指摘しておく。この「視力型」の生きたかは、「歩道橋」にもあらわれている。

歩道橋の、
雨に濡れた
コンクリートの
階段、

後ろから来た女高生に、
目新しいことを
教わる。
吐く息はきれい

 「新しい」ではなく「目新しい」。そこに「目」がある。さらに、教わったことが「吐く息はきれい」ということばが意識しているのは、「息」の「匂い」「音」ではないだろう。雨のなかで息が白くなっている。たぶん、秋から冬にかけての「色」が書かれているのだろう。
 「雨」の一連目。

みかんの汁がしたたるように
一歩が雨になる
ここに花を飾る

 このことばの動きは、少し「短歌」に似ている。短歌になるようなイメージの変化、揺らぎがある。








*

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クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

2019-09-04 18:52:45 | 映画
クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

監督 クエンティン・タランティーノ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、犬

 シャロン・テート事件というのは、映画をつくっている人間にとっては何としても映画にしてみたい事件なのだろうか。「身内」の事件だからね。
 でも、描くのはむずかしい。結末は誰もが知っている。どうしても「残忍」になる。
 クエンティン・タランティーノは、これをとても奇妙な方法で再現する。
 シャロン・テートを殺害しようとしていた三人組(四人組?)は、現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じる役者を殺してしまえ、という「結論」に達し、テレビで人気があったレオナルド・ディカプリオを襲うことにする。映画ではシャロン・テートの「隣人」である。
 「論理のすり替え」というか「対象のすり替え」というか。まあ、理屈の言い方はいろいろあると思うけれど。
 で、これを、いかに「唐突」に見せないか、ということに知恵を絞っている。その「仕掛け」として、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの組み合わせがある。ひとりはスター、ひとりはお抱えのスタントマン。
 テレビの視聴者はレオナルド・ディカプリオを見ているつもりでいるが、それは危ないシーンではブラッド・ピットが演じている。ブラッド・ピットと知らずに、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットを見ている。でも、この「知らずに」は、「知る必要がない」ということでもある。どっちでもいいのだ。「役者」を見ているときもあれば、「役者」ではなく「ストーリー」だけを見ているときもある。そういうことをいちいち区別はしない。
 これは、だれを殺害するかという計画(?)にも反映される。シャロン・テートを狙っていたのだが、特にシャロン・テートでなければならないわけではない。誰かを殺すことで何かを訴えたかった。だから簡単にレオナルド・ディカプリオに、標的を変えてしまう。とくに変えたという意識もないままに。
 そうなると、そこで再現されるのは「どたばた」になる。コメディーになってしまう。暴力的コメディー。殺す方も、殺そうとして殺される人間も、もう、目的も何もない。訳が分からないまま、銃がぶっぱなされ、殴り、殴られる。犬が男の急所にかみつくというようなコメディーならではのシーンもある。バーナーで焼き殺すというシーンまである。そのすべてが、ぜんぜん美しくない。あの殺しのシーンをもう一度見てみたい、ということはない。ばかばかしい、としか言いようがない。
 映画は映画、娯楽なのだから、「どたばた」でかまわないといえばかまわないのだけれど。
 この最後の「どたばた」を無視して、60年代の風景(ファッション)を思い出してみる、というだけなら、それはそれで楽しい映画だろうけれど。でぶでぶになったレオナルド・ディカプリオを、自分自身で笑って見せる(批判して見せる)クレジットの部分など、傑作ではあるのだけれど。
 唯一、素直に(?)感情移入できたのは、ブラッド・ピットが飼っている犬だけだったなあ。
 (ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン5、2019年09月04日)

コメント (1)
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