詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(52)

2019-12-20 08:58:02 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (駝鳥は熱い砂地をもとめて身を焦す)

そして感情に熱い風が吹きはじめる

--地平線にはげしい豪雨が来ている

 「豪雨」は「感情」が招きよせたものだろう。
 この駝鳥が動物園にいるのだとすれば、砂地も熱い風も地平線も豪雨も想像かもしれない。しかし、それがひとつになるとき、その「感情」は想像ではなく「事実」になる。
 そして「感情」には「事実」しかないのだ。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(51)

2019-12-19 10:01:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (象は)

海の重圧の底から生まれる
象は千年の昔から言葉を忘れている

 たしかに海の底の重圧を生き延びるには巨大なからだが必要だろう。重圧に耐えるということが千年つづけば、ことばを忘れるだろう。堪えることだけで精一杯でことばを語ることを忘れるだろう。
 象の大きなからだのなかには、ことばにならなかったことばが詰まっている。語られなかったことばが象の肉体をつくっている。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

2019-12-19 08:21:22 | 映画
ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター

 この映画の最後は非常に複雑だ。複雑にさせているのは原題の「Sorry We Missed You 」ということばにある。私は英語を話さない。イギリス人の友人もいない。だから「誤読」するしかないのだが。
 もし父親が家族を捨てて家を出ていく。もちろんよりよい収入を求めて出て行くのだろうが、そのとき「we」と書くかどうか。主語は「I 」だろう。さらに過去形ではなく「I will miss you 」(きみたちが恋しくなるだろう)ではないのか。
 なぜ「we」であり、また「missed」と過去形なのか。
 手がかりは映画の中にある。
 父親が窃盗集団に襲われてけがをする。病院へゆく。妻が付き添っている。夫の会社から苦情の電話が入る。その電話を奪い取って、妻が叫ぶ。「私たち一家をばかにしないで」(英語で何と言ったかわからないが、字幕は、そういう感じだった)。このとき「私たち(we)」がつかわれている。「私を」ではなく「わたしたちを」。
 さらに、父の車のカギを隠した娘が、カギを渡すときこんなことを言う。「このカギさえなければ、元の家族にもどれると思って隠してしまった」と。元の家族は「私たち(we)」であり、その「元の」につながるのが「missed」なのだ。「昔の家族がなつかしい、いまはどうしてこんなのだろう」と想い続けている。少女の気持ちは「missed」ではなく「miss」という「現在形」だと想う。
 息子の反抗も同じだ。「昔のおとうさんにもどって」というようなことを言う。昔が恋しい。
 これは父親も、その妻も同じである。いまは苦しい。昔がなつかしい。
 それが最後で「We Missed You 」と過去形に変わる。「過去形」に変わるのは(あるいは変えるのは、と言った方がいい)、主語が「I 」(ひとり)ではなく「we」(複数、私たち)に変わったからだ。父は、いったん家族を捨て去る。けれど、そのとき父は「ひとり」ではない。「私たち」であることを強く実感している。もう、負けない。「私たちをばかにするな」という妻のことばの「私たち」が生きている。「昔が恋しい」(昔がなつかしい)を通り越して、「かつては昔がなつかしい」だった。いまは家族が「団結」し直している。いろいろなことがあって「we」にもどっている。だから「過去形」で語るのだ。
 「未来」が見えない結末だが、その見えない「未来」に立ち向かう気持ちが、「いままで」を「過去形」にしてしまう。そこに希望がある。生きていく力がある。父はいったん家族を捨てる。家族はそれを止めようとする。けれど受け入れる。「we」は形式的には破壊されているが、こころは「we」にもどっている。
 この複雑なことばの中に、ケン・ローチのふつうの人々によりそう「祈り」のようなものを感じる。
 それにしても。
 世の中はいつからこの映画に描かれるように、ただひたすら合理主義を追求するだけのシステムになったのか。しかも、それは「資本家」にとっての合理主義である。利益が出るなら利益を分け与えるが、利益が出ないならそれは労働者の責任、というシステムである。ひとりひとりには「家族」がある。つまり、「事情」というものがあるのだが、それは「合理主義的契約」のなかには含まれない。「事情」を捨てる。「事情」をすべて「自己責任」にしてしまう。
 そうしたなかにあって、訪問介護の仕事をしている妻と向き合う、介護される人の生き方に、何か救われるものがある。介護される老人が、妻の髪をブラッシングすることを「生きる喜び」にしている。ひとと触れ合い、人の役にたつ。それはブラッシングは単に髪をととのえることではない。肉体が触れ合うことで疲れをとかしてしまうのだ。老人に髪をまかせている妻の姿は、髪を梳いてもらっているというよりも、ゆったりと湯船にひたっているような解放感にあふれていた。
 そこには、もうひとつの「家族」(we)がある。
 父親のところに警察から電話がかかってくる。息子が万引きをしたのだ。それを知った同僚が父親を心配する。父親の「家族」を心配する。そこにも「we」(家族)の姿がある。
 「家族」の経済的敗北を描きながら、経済的敗北には負けないという「意思表示」を感じる。「負けさせないぞ」というケン・ローチの怒りのこもった、苦しくなるけれど、同時に胸が熱くなる映画である。

(2019年12月15日、KBCシネマ1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(追加)

2019-12-18 22:10:32 | 詩集
山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(追加) (「博物誌」43、2019年12月15日発行)

 少し他のことをしていたら、「08ことばの羽音」について大事なことを書き漏らしていると気がついた。それは後半の詩について書くために残しておく「手がかり」のようなもののことである。前の文章では、それを「予告篇」というようなことばで書いたのだが、こういうやり方は、やはりよくないなあと思ったのだ。書いてしまっておこう。

その双子の姉妹はこちらを見て笑っている
「ふたごのしまい」ということばが
その姿から少し離れたところに
ひっそりとゆれながら浮かんでいる

そう思ってみると
歳月は川のように流れ
あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる
気になるといえばなるがそれらはあくまでも
仮のものでパタパタと羽音を立てて
変わっていく
その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る

 この詩の一連目には「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」が出てくる。「双子の姉妹」はいわば「実在の人間」、「ふたごのしまい」は「ことば」である。「もの」と「ことば」と言い直すことができるし、「もの」と「概念」と言い直すこともできる。「ことば/概念」というのは「もの」を整理するときにつかう。「認識の経済学」のようなものである。
 つまり。
 「双子の姉妹」には、私の世代で言うと「ザ・ピーナツ」がいる。「こまどり姉妹」がいる。そして、私の姪には「昭子・和子」がいる。そういう実際の人間から、それぞれの「個性」を取り去って「ふたごのしまい」という「ことば/概念」で整理する。「意味」はひとりの母親から同時に生まれた「ふたり」ということになる。一卵性と二卵性という区別の仕方はあるが、それはまた別の「ことば/概念」であるので、ここでは触れない。私たちは、その「ことば/概念」で実際には違う存在を、「ひとつのありよう」として整理する。「日出子/月子」という名前を捨て去って「ザ・ピーナツ」と呼び、「ザ・ピーナツ」「こまどり姉妹」という名前を捨て去って「双子の姉妹の歌手」という具合に認識を整理する。
 これがふつうのことばの「経済学」。
 実際の「双子の姉妹」の「姿」から「少しは慣れたところ/ひっそりとゆれながら浮かんでいる」のが「ことば/概念」である--と一連目では書いている。
 そう定義した上で、一行空けて、つまり連を変えるかたちで新しくことばが動き始める。
 このとき、その二連目で起きているのは、私がいま書いたこととは逆のことである。「存在」を「ことば/概念」で整理する(思考の経済学を合理的にする/効率的にする)ということではない。
 「双子の姉妹」(ザ・ピーナツ/こまどり姉妹/昭子・和子)を「ふたごのしまい」ということばで「整理」してしまうのではなく、逆に「ふたごのしまい」という「ことば/概念」のなかへ「双子の姉妹」が逆に殴り込みをかけるのである。「ことば/概念」を破壊し始めるのである。(「01まみれず」につかわれていたことばで言い直せば「破砕する」のである。)
 「概念/ことば」が「実在」によって、破壊され、意味を持たなくなる。
 「概念」の最たるものが、誰もが知っているけれど、だれもそれを説明できない「時間」(「歳月」と山本は書いている)である。まず、それに対して攻撃をしかける。「歳月(時間)」は「川のように流れる」。この比喩も、「概念/ことば」である。だれも時間が流れるのを「見た」ことはない。「触った」こともない。(「02さわる」という詩がある。とりあえずは、触れない。)
 その「概念/ことば」へ「双子の姉妹」が攻撃をしかける。「概念/ことば」を破壊し、「意味」ではなくしてしまう、というのは、こんなふうにことばでは何となく言えてしまうが、実際にどういうことか考えるとややこしくなる。
 そのややこしいことを、山本は「あらゆるものたちの右肩に/ふるえることばが/よりそっていることがわかる」という「双子の姉妹」を見たときの「実感」で押し切ってしまう。
 この「実感」というのは「概念」か、それとも「現実」なのか、なかなか判断はむずかしいが、「ことば」になるまえの、「概念」になるまえの何かなので、「概念/ことば」でないとだけは言える。山本はこの中途半端な「実感」というものを「羽音」と呼び、「仮のもの」と名づけている。「名づけられないもの/ことば以前」ということになる。「ことば以前」なので、それを「ことば」にするとぜんぜん様にならない。あたりまえである。
 結果として「ことばの経済学/概念」が壊れた世界が断片として放り出される。詩になりそこねたもの(抒情になりそこねたもの)が無残に放り出される。しかし、ここには「抒情の病」はない。これが大事だ。
 「おごそかなシンフォニーのように響き渡る」というのは山本の「欲望」としてはそのとおりなのだが、他人の「欲望」が「欲望」として見えてくるのは、もっと、その「欲望」と山本が丁寧につきあっているときだけである。「08」の詩は、「過渡期」であり、山本自身が「方法」を手に入れた段階のなまなましさで動いている状態ということになると思う。これから「欲望」を探しに行くのだ。
 「ことば/概念」を「現実」で「破砕する」というのは、たぶん、そういうことだ。



*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇

2019-12-18 15:26:21 | 詩集
山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇 (「博物誌」43、2019年12月15日発行)

ソクラテス、孔子、キリスト、仏陀(釈迦?)を世界の四大聖人と呼ぶらしい。釈迦のことは知らないが(読んだことがないが)、ソクラテス、孔子、キリストに共通することは、「書かなかった」ということである。話したが、書かなかった。ことばを書き留めたのは「弟子」である。ここには、ことばの「重大な秘密」があると思う。
 話しことばは完結しない。対話者(聞いているひと)が何かことばを発すれば、そのままつづいていく。聞き取った人間が、聞き取ったことを再現するとき、「完結」が仮の形であらわれる。書き留めたひとは「完結」と思うが、語ったひとが「完結」を意識していたかどうかはわからない。
 私は、このことに、とても興味を持っている。
 そして、「完結」というものを信じない。「完結」を「完結」ではない形にして、そのことばの運動のなかへ入っていきたいと思っている。「対話」を根こそぎやりなおすと言えばいいのか。こういうとき、目的というか、これからどうなるかというメドのようなものはない。ただ、何かが気になる、その気になるものにぶつかってみる。それから先は、ことばを動かしてみるだけだ。
 こんなことを書いたのは……。

 山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇の「01まみれず」を読んだとき、あ、これは閉ざされている(完結している)と感じたからなのだ。あ、つまらない。ほんとうに完結しているか、つまらないかどうかは読み直してみないとわからないのだが、瞬間的に、そう感じた。ことばの動きが円を描いて、閉じて、「つるり」とした印象になっている。

川から上がった犬のように
渾身の力で身震いする
全身からザーッと
ことばがふるい落ちる
それらが浮かびあがり
意味のかたちに結ばれていく
それを次々に破砕する
微塵にミジンコに未踏に
新しい意味に出会うために

 「ことば」と「意味」の関係が「完結」している。つまり「論理」になっている。意味を「破砕する」と書いているけれど、この「破砕する」ということ自体が意味を否定するという「意味」になってしまっている。意味の否定が「新しい意味」というのは「論理」としてそれ以上言いようがなく、「反論」を拒んでいる。よくある「学者の論文」の「結論の閉ざし方」に似ている。「犬」の比喩、「ザーッ」という擬音、「微塵にミジンコに未踏に」という行の「み」の頭韻をつなぎあわせたところに山本の「肉体」を感じないわけではないが、「論理」が完結を目指しすぎている感じがする。
 ここしばらく山本の詩を読み続けてきたので、私が山本のことばの動きになれてしまって、ほんとうは「開かれている」のに、私が「閉ざしたかたち」で簡単に向き合うようになってしまったのか。

06それから

記号がことばに変わるときはいつか
どのようにして
それはいつも謎だった
ことばが記号と化すのはいつか
どのようにして
ことばが限りなく記号に近づくのは
ことばの遠近法を廃したからだ
おそらく
ことばは奥行きをなくし
ペラペラになり
限りなく記号に近づいてもなお
ことばでありつづけたいと考えた
それから

 「記号」ということばがつかわれている。「01」について書いたことは「記号」ということばを使えば、簡単に言い直せるかもしれない。「01」の詩は、私には「記号」に見えたのだ。「記号」は何かを代弁する。それは「誤読」してはいけない。女子トイレをあらわす「記号(マーク)」を男子トイレと「誤読」すると問題が起きる。「記号」は「意味」を完結させ、その「完結された意味」が共有されることで効力を発揮する。一種の「論理の経済学」である。
 いちばん最初に書いたことを、ここでもう一度言い直せば、私は「記号」を「ことば」に戻したい。だから、ここで山本が「ことばが記号に化すのはいつか」と問うているけれど、私は逆に、山本の「ことばが記号に化したのはいつか」と批判したくなったのである。山本は山本で、作品のなかで、その「答え」を出そうそしているが、そんな「答え」など出しても意味はないと批判したくなった。
 「遠近法を廃した」を「奥行きをなくし」と言い直し、そのあと「ペラペラになり」と言い直している。その「ペラペラになり」ということばには、まだ「記号」になっていない「山本のことば」が残っている。とくに「なり(なる)」という動詞に、その「開かれた何か」を感じるのだが、でも、ここは批判したい、と強く感じるのだ。
 どう批判すればいいのか、まだ見当がつかないのだが。

 しかし、「08ことばの羽音」を読んだ瞬間、批判したいと思ったことを忘れてしまう。「08」以降、詩のことばの展開が違ってきている。「完結」しようとしていない。「06」も「それから」いうことばで突然終わっているから「完結ではない」といえるのかもしれないけれど、「未完」を装った「完結」というものもあるからね。
 私はどこに「どきり」としたのか。「完結(意味)」ではない「ことば」そのものを感じたのか。

その双子の姉妹はこちらを見て笑っている
「ふたごのしまい」ということばが
その姿から少し離れたところに
ひっそりとゆれながら浮かんでいる

 「双子の姉妹」という実在、「ふたごのしまい」ということば、あるいは「音」。現実が「実在(仮にそう呼んでおく)」と「ことば」に分裂する。「現実」は「もの」と「ことば」の両方で成り立っている。その「ことば」を「実在」から少し「離れた」ところにあると書いている。
 こういう認識論というのか、言語論というのかはわからないが、この問題は、机の上に「リンゴ」があり、リンゴを指し示すために「リンゴ」ということばがある、と言い直すと山本の書いていることに重なるようだが。
 実は、違う。
 山本は「リンゴ」とか「コップ」ではなく「双子の姉妹」と向き合うことで、問題を「肉体」の方へひっぱってきている。「認識論/言語論」ではないものとして動かしている。ふたご。そっくりの肉体がふたつある。それは一方が「実在」であり、他方が「ことば」という関係に似ている。ふたごはそっくりだが、ふたごであるかぎり、絶対に「ひとつ」にはならない。ぴったりとは重ならない。かならず「離れて」いなければならない。
 「ことば」は「もの」ではない。「もの」から必ず「離れて」いないといけない。「離れる」ことに「意味」がある、とここで「意味」ということばをつかっていいかどうかわからないが、この「分離」を「双子の姉妹」という肉体と結びつけて考え始めているところに、私は山本の「なまなましさ」を感じる。「双子の姉妹」を「ふたごのしまい」という「ことば」に向き合わせたときから、「記号」であるはずの「ことば」がゆさぶられる。現実的に言い直すと、「双子の姉妹、そのふたりのどっちが姉? どっちが妹?」と問われたとき、「双子の姉妹」に親しくないひとは「迷う」。どっちでもいいとさえ思う。
 私の体験でいうと、私には双子の姪がいる。見分けがつかない。だからひとりのときは名前を呼ばない。二人いるときだけ、どちらかの名前を呼ぶ。「昭子」、あるいは「和子」。どっちが返事をしても困らない。そんなふうにしてやり過ごしてきた。「昭子」「和子」という「記号」は存在するが、「記号」を無視して、その後のことをつづけるのだ。「和子、向こうの部屋にある本をとってきてくれ」という具合に。現実は、そういう「暴力」を許してくれるところがある。
 「双子」という肉体を登場させることで、「もの」と「ことば」の「双子性」がゆさぶられる。それをゆさぶる。ゆさぶったうえで、詩は、こう展開する。

そう思ってみると
歳月は川のように流れ
あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる
気になるといえばなるがそれらはあくまでも
仮のものでパタパタと羽音を立てて
変わっていく
その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る

 「ことば」はもう「双子」を追いかけない。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の違いを発見したときに見えたものを追いかける。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の違いというものなど現実には存在しないのだが、ことばにはその違いを存在するものに変えてしまう力がある。その力に触れてしまうと、ことばの暴走は止まらない。

あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる

 なんだこれは、と思うでしょ? なぜ「右肩」なんだ、と思うでしょ? ほんとうに「よりそっている」のか、「脅しているんじゃないのか」とか言ってみたくなるでしょ?
 言ったってしようがない。「無意味」だから。「無意味」というのは「答え」を拒絶している、ということでもある。「ことば」が「意味」を拒絶して、ここでは「もの」にもどってしまっているのだ。
 つまり、詩になっている。
 これが他のひとに「見える」(実感できる)かどうかは、知らない。
 私が「見えた」(実感した)と感じたものが正しいかどうかは知らない。しかし、「なんだこれは」と書いたかぎりは、わたしはそのとき「もの」としての「ことば」に出会っているのだ。「もの」だから「なんだこれは」と言ってしまったのだ。変なものを見たら、「これは何?」と思うでしょ?
 あえて言えば、「ことば」にしないかぎりは存在しなかった「ことば」の「あり方」のようなものだが、こんな同義反復のような「定義」は私が私を納得させるだけのものであって、いわゆる「誤読」である。
 この何だかわからない「ものとしてのことば」は、このあとそれ自体が「双子の姉妹」になって、「ふたごのしまい」を生み出していく。その「ふたごのしまい」は「音」と呼ばれるのだが、「パタパタ」という、どちらかというと、どうでもいい音。なのに、それが……。

その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る

 「シンフォニー」というのは「パタパタ」の集まりではなく、もっと違うものじゃないのか。「おごそか」というのは「パタパタ」とはかけ離れたものではないのではないかと思わないわけでもないが、はじまりが「パタパタ」というだけで、それがどんな「ふたごのしまい」としての「音」を誘い出すかはわからないわけだから、それが「おごそかなシンフォニー」に変わっても不自然ではない。それは「パタパタ」の疾走が小林秀雄を感動させたモーツァルトより「おごそか」ではないとは誰もいえない。いまのところ、その「音楽」を聞いたのは山本だけなのだから。私たちは「おごそかなシンフォニー」という「ふたごのしまい的ことば」を読んでいるだけで「双子の姉妹」を「聞いている」わけではないのだから。

 ああ、だんだん書いていることがわからなくなる。最初にもどろう。山本はこの詩で「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」ということばを発見した。その「事実」がある。そこから出発して、山本は「おごそかなシンフォニー」というところへまで行ってしまった。私は、その「おごそかなシンフォニー」を私よりもずっと遠くにあると感じるので、そのことについては触れない。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の発見へ引き返すことを繰り返しながら、山本の詩の「結論」を叩き壊し、次の詩を読む準備に変えたい。
 実際、私が、後半の「詩集」に読み取るのは、「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の「結論」を目指さないなまなましい闘いである。このことは、後日書こう。きょうは、その「予告編」のようなものだ。「予告編」だけで終わるかもしれないが。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(50)

2019-12-18 08:40:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
動物詩篇

* (駱駝は砂漠のなかを大きな数字を踏んで歩いていく)

 「大きな数字」とは何か。

「無限」ということを考えよう

 嵯峨は「無限」と言い換える。駱駝は砂漠を無限を踏んで歩いてく。無限に向かってではなく、踏んで。
 そのあと「蛇」と「蝶」の比喩があり、最後にこう書かれる。

--いま「僕」というものを考えている

 「駱駝」も「蛇」も「蝶」も、「無限」も「僕」である。ことばにするとき、つまり「考える」とき、すべては「僕」になる。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網屋多加幸「どこへ」、池田清子「其のままに」、青柳俊哉「空中の葉」

2019-12-17 12:06:35 | 現代詩講座
網屋多加幸「どこへ」、池田清子「其のままに」、青柳俊哉「空中の葉」(朝日カルチャー講座福岡受講生作品、2019年12月16日)

どこへ  網屋多加幸

お前はどこへ行くのか
ゆっくりと命は溶け
銀の切っ先は身体を削る
氷の塊は足枷につながれ
狼は冷たい光を滴らせて
平原を見おろす

お前はどこへ行くのか
喉が凍てつき
血の滲む足枷を引き摺りながら
朝陽のまぶしさにピエールは手を翳した
眠れぬ黒い夜を過ごし雷を恐れた
唇から漏れる歌は
大地でつながる者たちに火をつけ
鉄格子の間から彼女たちの声が聞こえる

お前はどこへ行くのか
風の問いかけに
カレー市民は誇りを奪われ
はだけた胸のまま足元を見た
背中に食い込む鎖の重さに耐え
ふくらはぎを伝う血に足をすくわれ
自分の弱さに向き合えず一人涙した

お前はどこへ行くのか
陽だまりに肩寄せあい
ひとり ひとつ 同じ大地につながる
お前はいったいだれなのか
ここはいったいどこなのか
この先にいったい何があるのか
目の前には静かに引き絞った林
震える魂を抱きながら
ひとり ひとつ 自分の道を歩む
大切なものが奪われないために

 前回の講座のとき「誕生」というタイトルで発表されたものを推敲したもの。そのときは、「氷狼」と「ピエール」ということばが何を指しているのかわからない。全体の構造がわかりにくいので、リズムを工夫してみれば、という意見が出た。その意見を参考にして、推敲された作品。
 池田「『氷狼』がなくなったのが寂しい。『氷狼』はなんのことかわからなかったけれど、印象に残ることばだった。ピエールとカレー市民のことは前回も聞いたけれど、やっぱりよくわからない。」
 (ピエールはロダンの「カレー市民」に出てくる男のひとり)
 青柳「文体に前回よりも統一感がある。カレー市民とピエールのことは背景の歴史がわからないとむずかしいかもしれないけれど、全体のことば強さ、緊張感から、ピエールの意思、それを書いた作者の意思のようなものはつたわってくる。ただ、行数が多く、生命が多いのと、ことばの強さが同じなので、響いてこない部分もあるように感じられる」
 網屋「一行目を同じことばにして、リズムをそろえるようにした。だいぶ削ったつもりだけれど、もっと削った方がいいのかなあ」
 池田「前回の詩にあった『それでも/おまえは行くのか』というのも好きだったんだけれどなあ」
 谷内「私も『氷狼』(網屋の造語)はあった方がいいと思う。一連目の『氷狼』を二連目で『ピエール』と言い直し、三連目で『カレー市民』と説明しなおす。そういう展開の仕方で、書こうとしていることがだんだん見えてくる。最初の連では言えなかったことを次の連で言い直す。そうすることで世界も広がってくる。とても整理されて、イメージが掴みやすくなったと思う。リズムのことでいうと、『お前はどこへ行くのか』の繰り返しをもっと効果的にするには、最後の連の『お前はいったいだれなのか』の位置を変えてみるといいかもしれない。連の途中に置くのではなく、一行だけ独立させて六連目にしてしまう。また、『お前はいったいだれなのか』は、すでに名前も、経歴もわかっていることなので、私も前回の詩にあった『それでもお前はいくのか』の方が悲劇性というか、ドラマチックな感じになると思う」



其のままに     池田清子

川の水は流れる
其のままに、其のままに
雲も流れる
其のままに、其のままに
時も、世界も、人も
流れる、流れる
私も、流れる
其のままに、其のままに

 網屋「自然な感じがいい。そのまま、自然そのままという感じ」
 青柳「リズムがいい。リズムに感情を載せるのが池田さんの詩の特徴だと思う。『其のままに』に感じがつかわれているが印象的」
 網屋「ふつうは漢字では書かない」
 池田「ひらがなだと穏やかすぎる。川の水も雲も穏やかなときもあれば、そうでないときもある。漢字の方が穏やかだけではない強さのようなものがということがつたわるかなと思って書いた」
 谷内「『時も、』からの三行が、それまでのリズムを踏まえながらも、すこし変化している。『時も、世界も、人も』と名詞を重ねたあとで『流れる、流れる』と動詞を繰り返す。その部分に、穏やかなだけではない、単調ではないという感じが含まれていると思う。さらにそのあと『私も、流れる』と「川の水」「雲」のときにはなかった読点「、」があるのも印象的。読点自体はその前に出てくるけれど、そういうことも自然なリズムになっていると思う。少ない変化だけれど、歌謡曲でいうサビとかヤマのような働きをしていると思う」



空中の葉     青柳俊哉

落ち葉をふみしめながら
精神が空中の葉のいく枚かを投射する
空の暗い色にそまりながら
真冬の風にさびしい音をたてている
早朝の公園の高い木の葉のいく枚かを投射する
その音が心にしみて不安をつのらせる
散ることが不安なのではなく
いつ散るかもしれないことが不安なのでもなく
生きていることを 
生きて風にふかれ音をたてていることを
音をたててなにかを感じている
そのいのちを 
精神が投射するのだ

 網屋「いままでの作品とは色調が変わった。視覚的な美しさというよりも、精神の強さを描いている。『音』が詩のなかにはいることで、膨らみ、音が立体感を与えている」
 池田「落ち葉と空の感じ、空間の広がりがいいなあ」
 谷内「二行目に、精神ということばがでてくるけれど、これはほかのことばで言い直すとどんなふうになりますか」
 池田「心」
 網屋「魂、かなあ」
 青柳「心、魂は個人的なもの、という感じがする。そうではなくて、もっと個人を越えるものとして、精神ということばを使っている」
 谷内「『投射する』ということばを手がかりに読みましょうか。投射するって、どういう意味? どういうときにつかう?」
 網屋「最後の行の『投射する』は反映という感じがする」
 谷内「投射すると反映するは、違う感じがするなあ」
 池田「でも、だれが投射するんですか?」
 谷内「それを考えましょう」
 二行目の「精神」を「心」や「魂」と言い直してしまうと、青柳にとっては個人的なものになるという発言が手がかりになると思う。
 青柳の詩には形而上学的な匂いがする。個人的というよりも、何か普遍的なものを書こうとしている。
 この詩には簡単に要約すると精神と自分と落ち葉が出てくる。青柳が落ち葉を空に投射する(投げる)というよりも、精神というものが自分をつきぬけるようにして落ち葉を投げつけてくる。自分を超える精神が、その自分を超えた領域から現実の自分へ向かって落ち葉を投げつけてきて、それが自分のからだを射抜く。そのとき、青柳は、空中を舞う落ち葉そのものになる。また、それは精神の具体的な形そのものでもある。そういうことを書いているだと思う。
 空中に舞う落ち葉。そういう存在になりながら、「さびしい音をたてる」とき青柳は落ち葉を越えて「音」になる。そういう変化も起きる。こういうとき、それでは「私」とは何かということは特定できない。特定してもしようがない。「落ち葉」であり「音」であり「暗い色」であり「空」でも「風」でもある。渾然一体となって、精神世界(情景)をつくっているのだと思う。
 私はまた、「散ることが不安なのではなく」から始まる五行がとてもおもしろいと感じた。「散る」「不安」「生きる」「音をたてる」が、前のことばを追いかけるようにして(尻取りのようにして)、つながりながら変化していく。ことばが重複するのは無駄であり、もっと整理して書けるという意見もあると思うけれど、重複しながらゆらぐ感じが、青柳のこれまでの世界とは違った開かれた感じを生み出していると思う。

受講生募集中です。
次回は1月6日(月曜日)午後1時から2時30分まで。
詳細は朝日カルチャーセンター福岡へ。
一回かぎりの受講、見学も可能です。








*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(49)

2019-12-17 08:45:17 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (かの女の紅葉の一枚のような言葉の周りを)

 この詩は何度か転調するが、なかほどあたりに次の二行がある。

あなたはぼくらのステージに白い鴎を放たないか
豪雨を越えてきたあの白い鴎を

 「紅葉」から「白い鴎」への変化は色の変化とともに、落下から舞い上がる運動への変化でもある。また「放つ」という動詞の主語は「あなた」である。ここから「主語」が「ぼく」から「あなた」へ変化していることもわかる。「あなた」に「ぼく」は希望のようなものを託している。
 「白」は最終行で、もう一度復活してくる。

誰も知らない白いハンカチのようなふたりの小さな幸福のために

 「ぼく」と「あなた」は「ふたり」に変わり、「ふたり」であることによって「誰も知らない」存在にもなる。そして、それは「白」に象徴される生き方なのだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(48)

2019-12-16 08:14:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (山火事のようなものが)

あなたの眼のなかからずり落ちた
その向うに暗い海が見える

 「山火事」と「暗い海」の対比。
 「山火事(のようなもの)」が「眼のなかからずり落ちた」ために、「暗い海が見える」と書いているが、「山火事」は嵯峨にはずっと見えていたのだろうか。たぶん、違うだろう。何かのきっかけで「山火事」が見えた。それは「あなた」の怒りのようなものかもしれない。燃え上がる激情。それがおさまったあと「暗い海」が見えた。
 これは逆にとらえなおすこともできる。
 最初は「あなた」の眼のなかにあるものが何かわからなかった。「のようなもの」は、不確定さをあらわしている。「暗い海」に気づいたあと「のようなもの」が「山火事のようなもの」ということばになった。
 「暗い海」には「のようなもの」ということばがついていない。比喩なのだから、ついていてもいいのだが、ついていない。直喩と暗喩。その違いのなかにこそ、嵯峨の詩がある。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田清子「歩こう歩こう」、青柳俊哉「落葉の空」

2019-12-15 16:01:59 | 現代詩講座
朝日カルチャー講座福岡受講生作品(2019年12月02日)


歩こう歩こう  池田清子

何のために生きるのか
問うた
答えを出さぬまま
生きたので

また
同じことを問う

詩が何なのか
定義をせぬまま
詩をかいた

同じか

ならば
片道5分から
始めよう

 最終連の「ならば」ということば強い。「それじゃあ」「そうなら(ば)」と口語では言う。その「それ」「そう」を省略してしまう。その結果として「文語」になってしまうのだが、「文語」っぽくもない。
 「それ」「そう」は意識的に省略したのではなく、無意識に省略してしまった。「それ「そう」が指し示すものが池田にはわかっているからである。
 その直前に「同じか」という短い一行だけの連がある。この「同じか」は「問い」だが、「答え」でもある。問うことと答えること(自問自答)が一体になっている。すっかり池田の「肉体(思想)」になっている。だから余分なことばが入ってこない。そういう強さがある。
 「何のために生きるのか」は「詩が何なのか」と言い直されているが、「答えを出さぬまま/生きた」「定義をせぬまま/詩をかいた」が、それこそ「答え」でありながら、池田を突き動かす「問い」であり続ける。「問い」と「答え」は「同じ」。
 そう読み直すとき、最初に書いた「それじゃあ」「そうなら(ば)」は「同じならば」にかわる。「それ」「そう」というあいまいなものではなく「同じ」と認識する力、認識の力が「ならば」にこもっている。
 「片道5分」とは、どこからどこまでの距離だろう。抽象的だが、「同じ」ということばと同じように、池田には「わかりきっている」ことである。「10分」にかえても同じだ。「わかっている」ことがあるいというのは、いつでも、強い。

落葉の空      青柳俊哉

惜しげもなく
あなたはいのちの皮膚をちらす
季節をもたないわたしたちに
変移を告げようとして
あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる
きりひらかれた窓から
ひとひら ひとひら 光がしみ入るように
深紅のいのちをちらしながら
あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として

 「あなた」とはだれか。「落葉」か。いや「落葉」は「いのちの皮膚」と言い直されているから、「あなた」は「木」だろう。「わたしたち」とは、まちがいなく「人間」だ。木と向き合い、落葉をみつめ、生きるとは何かを問うている--と読んでしまうと、窮屈になる。
 私がこころを動かされたのは、

あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる

 この三行である。
 「あなた」を「木」の別の呼称と読んだが、ここでは「落葉」というか、落ちてくる前の「葉」のようにも思える。葉はまだ木に(枝に)残っているのだが、空に束ねられている、空にあるように思える。葉は時とも言い直されている。直前の「変移」は「時の変移」(季節の変移)であり、ことばはいくつもの存在(対象)のあいだを行き来している。意味を特定せず、「あなた」は木であり、葉であり、また時(季節)でもあると読んでみる。さらにはそれは「空」でもあるだろう。「空」は「葉」たばね、「葉」はたばねられることで「空」にもなる。
 そういう渾然一体とした感じ、ものが融合し、ものではなくなる。
 「たばねる」が「かさねる」と言い直され、「あなた」と「わたし」が重なり、融合すれば、それはそのままセックスである。「わたし」が「あなた」をみつめるのではなく、みつめるはずの「わたし」が「あなた」の皮膚になり「わたし」をみつめる。「鏡のような」という比喩があるが、「鏡」が比喩なのか、「皮膚」が比喩なのか、「あなた」が比喩なのか,「わたし」が比喩なのか。ことばは、いくつもの「存在(対象)」をつらぬいて動いていく。「具体」を貫いて「抽象」が比喩として、瞬時にいれかわる。「いのち」とは、そういう運動の形だろう。
 激しい運動なのに、透明に結晶してしまう。それが、

ひとひら ひとひら 光がしみ入るように

 という一行の「光」のなかにある。「光がしみ入る」のではなく「光になって、しみ入る」。
 同じように「……になって」と「なる」を補って読んでみると、世界の交錯がより美しくなる。「あなた」は「わたし」になり、「わたし」は「あなた」になる。「落葉」は「空」になり、「空」は「落葉」になる。「わたし」は「落葉」になり、「あなた」は「わたし」を「落葉」として受け入れる「空」になる。

あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として

 地上に落ちるのではなく、「空」に向かって落ちる。まいあがる。「群れ」から自由になるだけではなく、この詩には具体的は書かれていないが「重力」からも自由になる。意味の重力を振り切って、軽快な想像力そのものになる。
 「ひとりの葉」という比喩、比喩を生み出す力が、空に放たれているということだ。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

2019-12-15 10:49:34 | 映画
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 アイドゥン・ドウ・デミルコル、ムラト・ジェムジル、ベンヌ・ユルドゥルムラー

 フー・ボー監督「象は静かに座っている」の対極にある映画である。出演者はひたすらしゃべりまくる。主役の息子、両親だけではない。脇役の友人や、書店で出会った小説家も、延々とことばを語る。それは精神なのか、感情なのか。イブン・アラビーを語るときでさえ、それは神学論なのか、哲学なのか、現実社会への憤りなのかわからない。あらゆるものに区別はなく、ただ「語る」ということだけがある。そして、こんなにしゃべりまくるにもかかわらず、彼らには「言い足りないこと」「言い残したこと」がある。その瞬間に「言えなかったこと」がある。つまり、「理解」しあわないのだ。
 映画だから、最後は「理解」に至るのだが、感動的なのは「理解」ではなく、こんなにも理解しあわずに、他人を拒否しながら、それでも「共存」しているということである。なにが彼らをつないでいるのか。逆説的な言い方になるが、「ことば」なのだ。
 「理解しない」というのは不思議なことで、「理解できる」何かがあって、そのうえで「理解しない」という決断に至る。私のことばは、そのようには動かない。私の肉体はそのようには動かない。そう判断するときの「そのように」という部分。そのとき動いている何か。「理性」と言っていいのかもしれない。「意味」をつかみとる力。いや「意味」をささえる「ことば」。「ことば」のなかに意味があるのか、「意味」の動きとしてことばがあるのか、これも区別はできないし、区別する必要のないものかもしれないけれど、何らかのことを「共有」したうえで、それを拒絶するとき「理解しない」(私は違う)という態度になる。
 「象は静かに座っている」のとき、「肉体」が先に動いて、その「肉体」をことばが追いかけるということを書いた(ように、思う)。この映画では、むしろ逆だ。「ことば」が先に動いて、それを肉体が追いかける。しかし追いつけない。肉体が残されてしまう。そしてそれは、ことばとは逆に、ひとが自然に受け入れてしまうものなのだ。
 こういうシーンがある。
 主人公が村からの帰り道、友人に会う。リンゴの木にのぼって、リンゴをとっている。友人はイスラム教徒の「聖職者」である。彼は友人をつれており、友人も「聖職者」である。そこで、神学論か社会論か哲学か何かわからないけれど議論が始まる。三人のアップもあるが、三人は村のなかを歩きながら話し続ける。そのときの三人の姿(遠景)、さらに村の姿がスクリーンに映し出される。「声」によって三人は区別できるし、「論理」によっても三人は区別できる。もちろん遠景とは言え「姿(肉体)」によっても区別はできるのだが、このときの肉体は「三人」という存在であって、それ以上ではない。「意味」の入れ物が三つある、その「入れ物」という感じである。いいかえると、このとき私は「入れ物」としての「肉体」があるということを受け入れて、それを見ている。たぶん歩いて議論している三人も、それぞれの「肉体」を「ことば」の入れ物として見ているように感じられる。「入れ物」は「入れ物」であって、「内容」ではないので、それがどんな形をしていても、それなりに存在してしまう。受け入れてしまうものなのだ。
 では、このとき「ことば」は何とつながっているのか。何を「共有」しているのか。
 イブン・アラビーが出てきたせいかもしれないが、「ことば」は「神」とつながっているのだ、と思った。それぞれひとりひとりが「神」と直接、「ことば」でつながっている。友人とつながっている、家族とつながっているのではなく「神」とつながっている。そのつながりのなか(ことば=意味)のなかに他人は入っていくことはできない。何か、イスラム教徒には、独特の「個人主義」がある。「ことば=神」の「個人的契約」のなかに他人は入ることができない。彼らが語っているのは、「私は神とこういう関係にある」ということだけなのだ。共通の話題が語られているようでも、そこには「絶対的な差異」というものがある。先に書いた「理解する/理解しない」は「あなたが神とどういうことばで契約するか、その内容は私には無関係(理解しない)だが、あなたのことばが神とつながっているということは理解する」ということになるかもしれない。
 「神」ということばがあいまいすぎるなら(あるいは、個人的すぎるなら)、「真理」と言い換えてもいいかもしれない。リンゴがある。リンゴという呼び名(ことば)がある。一個のリンゴは具象であり、それをリンゴと呼ぶことばは抽象である。そのときの具象と抽象を結び、イコールにするのが「真理」。ひとはそれぞれの「真理」を持っている。つまり、自分自身の「抽象能力」を「具象」と結びつけ、具象と抽象を行き来しながら、世界を把握している。そのときの「世界像」は無数になる。この「無数」を理解することはできない。「無数」を「一」にひきもどす「肉体」の存在を「意味を生きているもの」として受け入れるしかない。そういうことを、イスラム教徒(この映画に出てくるトルコ人)はやっているのだと思う。こういう生き方しかできないのだ。
 こんなことを書いても映画の「感想」にはならないし、「批評」にもならないとはわかっているのだが、私は、こう書くしかない。映画を見ながら考えたこと、感じたことは、いま書いたようなことなのだ。書きすぎているかもしれないし、書き足りないために、ごちゃごちゃになっているのかもしれない。
 しかし、この映画の「読まれなかった小説」というのは、なかなか味わい深いタイトルである。ひとりひとりの「ことば(人生)」は、結局「読まれなかった小説」なのである。ひとは「語る」。「ことば」を生きる。しかし、それは「神との個人契約」なので、他人に読まれ、共有されることはない。共有があるとすれば、夫婦という肉体、親子という肉体、さらには友人という肉体(ひとりひとりは、絶対的に違う)という感じを持ったまま、時間を生きているということだけなのだ。言い換えると「小説」を読んで「理解」できるのは、「肉体」を共有したことがある限られた人間だけである。その「共有」にも「誤読」が入り込むし、そうではない人間との間では、ただ「誤読」だけが存在するということにもなる。
 自己弁護をしておけば、私は「誤読」を生きる人間である。「誤読」しかしない人間である。私は生き方として「誤読」を選んだ。この映画の感想も、そういう意味では「誤読」の産物である。

(2019年12月13日、KBCシネマ1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(47)

2019-12-15 08:21:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あるおもいがことごとく崩れさろうとも)

やがて川の水が澄みはじめるのをじつと待つていよう
ひややかな早春の水面に帽子の影が生あるもののように映るとき

 詩を読むとき、一行一行読む。詩につづきがあっても、つづきがないかのように、一行終わるごとに、ことばの動きを確かめる。味わう。
 この詩にもつづきがあるのだが、私は、つづきがないものとして読む。そうすると書き出しの三行は、倒置法で書かれたことばのように動き始める。
 早春の川もに帽子姿の自分が映る。たぶん学生帽だろう。嵯峨はまだ学生だ。そして、川の流れのなかで「あるおもい」が崩れて流れていく。崩れるときに、それは濁る。しかし、濁りもかならず澄む。そう信じて、川の流れを見ている。
 「早春」は「青春」でもある。青春のある時間に、そういう思いで、川の流れを見たことがあるひとは多いだろう。青春は駆け抜けてゆくが、同時に青春には何かを「待つ」時間もたっぷりあるのだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉本徹『天体あるいは鐘坂』

2019-12-14 22:14:06 | 詩集
天体あるいは鐘坂
杉本 徹
思潮社


杉本徹『天体あるいは鐘坂』(思潮社、2019年09月30日発行)

 杉本徹『天体あるいは鐘坂』。
 繊細ということばがある。感想を書くとき、このことばがあると、とても便利である。「繊細な感覚の、一見弱いような、けれど硬質なものを含んだことばの運動」というようにつづけ、「新しい抒情」と名づければ、なんとなく「感想」になってしまう。

それはなんて遠い未来--きっと幾度も
夜が明けるだろうそして深い昼は閉じられるだろう
きっと歩き疲れて行き着く新緑の、葉叢ごしに              (裏窓)

 たとえば、この三行の(あえて、前後を省略しているのだけれど)リズムが引き起こすうねるような流れを破壊するように、「夜明け」を「昼を閉じる」と言い直す論理のなかに、杉本独自の鋭敏な感覚がある。それはさらに「歩き疲れる」というリズムを「新緑」ということばで破壊し、そのあとで「葉叢」で統合する形で展開される。そこに「新しさ」がある。
 でも、私がいま書いたようなことを書きつらねていくのは、一種のでっち上げで、実は何も語っていない。単にそれらしいことばをつなげているだけだ。読まなくても書ける「感想」である。
 そういうことを私はしたくない。私がしたいのは「誤読」である。だから、「裏窓」については、こんなふうに書くのだ。。

港区と隣接する某区との、境に、川と階段があり、ある日そこを直線に走り抜
けていった驟雨ののち、光を呼ぶ器のひとつも身を、ひそめる。「ソラ、ソラ
ノ、ウツロ」……青白い、雨の珠、ひそかな、クラクションの陽炎。等間隔に
風が影をはこぶ、そのさまをながく橋の上からみた。月と太陽の対話を窓にう
るませ、三階は空室、やがて二階だけ、落日。

 この冒頭で、私はまず「港区」につまずく。「某区」が「港区」を固有名詞ではなく、「港のある区」という具象と抽象のいりまじったものにしてしまう。交錯は、「境」ということばによっていっそう鮮明になる。そこにあるのは「固有名詞」ではなく、何かを何かとわけるもの、「境」だけである。わけるもののひとつに「川」があり、またそのひとつに「階段」がある。「階段」が具体的にどういうものか、とてもわかりにくいが、そのわかりにくさ(説明しないこと)が「階段」をさらに抽象的にする。比喩にしてしまう。  この「状況設定」だけで、杉本が書こうとしているのは、「港区」を「港のある区」と呼ぶような「名づけ」の行為のなかにあるものだとわかる。「港のある区」を「港区」と呼ぶという「名づけ」でもいいのだが、どちらにしろ、そこには「具象/現実/実物」と「抽象(精神)」の衝突がある。
 こういう「状況設定」のなかで「ある日そこを」ということばが選ばれるのは必然である。「ある日」というような「抽象的日付け」は現実にはない。「そこ」という「指示」を示すだけの現実もない。「ある」にしろ「そこ」にしろ、そのことばが抱え持っているのは「指し示す」という抽象的な精神の動きと、その抽象を具体化しようとする感覚の動きである。それが、

                             直線に走り抜
けていった驟雨ののち、光を呼ぶ器のひとつも身を、ひそめる。

 という、奇妙に屈折した「文」になる。
 驟雨が走り抜ける。そうすると光がさす。あらゆるものが雨によって洗われ、輝く。まるで光の入れ物(器)のように。だが、それは輝くと同時に、

身を、ひそめる

 この「身を、ひそめる」ということばに、私は、完全につまずく。とくに読点「、」に。なぜ「身をひそめる」ではなく「身を、ひそめる」なのか。
 ことばがすぐには出てこなかったのだろう。
 「港区」に始まる「具象」と「抽象」の拮抗が「光を呼ぶ器」ということばに結晶し、それを「身」と言い直した瞬間に、杉本の「肉体」そのものが動いたのだ。ことばの前に、「肉体」が動いた。その痕跡がここにある。
 この読点「、」は、たとえて言えば森繁久弥の芝居の呼吸のようなものである。ことばの前に、まず「肉体」が動く。「肉体」がことばになる前の、ことばにならない感情で「肉体」を動かす。それを追いかけて、ことば(セリフ)がやってくる。こういう演技は、とても説得力がある。芝居だからことばはきまっているはず(森繁久弥は言うべきことを知っているはず)なのに、いま、はじめてことばを発しなければならないという状況に出会っているという生々しさを感じさせる。
 それと同じものが、「身を、ひそめる」の読点「、」にある。
 なんだろう。なぜ、杉本の「肉体」は「ひそめる」を選ぶ前に、一瞬、呼吸を止めたのだろう。なぜ、自分を隠そうとしたのか。それは、ここだけでは、わからない。
 「ひそめる」は「ひそかな」ということばのなかに変化してゆく。「等間隔」という非常に客観的なことば、しかし、それが指し示すのは「風がはこぶ影」という奇妙なものだ。影を見ているか、風を見ているのか、はこぶという動きを見ているか。判然としない。だからそれは「そのさま」と言い直され、さらに「ながく」と「時間」とともに言い直される。「身を、ひそめ」「ながく」「みた」。やっと出てきた「肉体」のことば。「みた」。「身を、ひそめ、みた」。この変化のなかにある「肉体」そのものの動きが、詩だ。
 しかし、何を見たのか。
 「落日」を、見た。太陽は、空室の三階の窓には射さず、二階の窓にだけ輝く。三階、二階ということばのなかに、最初に書かれていた「階段」がよみがえってくる。そのよみがえり方は、杉本が、その三階の部屋が空室であることを知っていることを教えてくれる。空室は、だれもいないために空室なのか、それとも杉本がいないという意味で空室なのか、それは読者の想像に任される。
 この、「罠」のなかに、詩がある、とも私は感じる。「罠」は読者にとっての読点「、」である。そこへ飛び込むか、立ち止まるか、引き返すか、跨ぎ越すか。途中に隠れている「うるませる」という動詞も、いろいろなことを感じさせる。「肉体」が何をおぼえているかと問いかけてくる。
 書きながら隠す何ごとかがあり、隠しながら書いてしまう何ごとかがある。それにつまずきながら、杉本の「肉体(過去/思想/体験)」を読むのではなく、私自身の知っている「港」や「川」や「窓」(部屋)を読み返す。私の「肉体」のなかにある「具体」へと動いていくもの、杉本の書いているはずの「具体」と私の知っている「具体」をつないでいく「抽象」というものに巻き込まれ、何度もつまずく。私の「肉体」のなかにひとつの情景と、私の記憶が交錯する。それは杉本の書いていることばによって生まれてきたものだが、杉本が書いていることと一致するかどうかはわからない。わからないから、私は私の読んだままに、自分のおぼえていることをことばに置き換える。つまり「誤読」する。
 こういうことは、どうでもいいことだから、とても楽しい。

 いま書いてきたことは、何か意味を持っているか。持っていない。つまり「批評」になっていないし、「感想」とも呼べないものだろう。だが、私は杉本の詩を読みながら、そう考えたのだ。そう考えさせるのものが、杉本のことばのなかにある、ということだろう。
 「裏窓」はとても長い詩だが、私は、冒頭の五行だけで詩として完結していると思う。書きたいことがあるから書いたのだと思うけれど、後半はことばの「強さ」が稀薄になっていると感じた。

どこだろう、裏窓のような滞留の、約束の、場所は、

 この最終行は、「抽象」になりすぎていて、私の「肉体」は、それを追いかけたいとは思わなくなってしまう。






*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(46)

2019-12-14 08:24:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくをゆるしてくれ)

流れる水はぼくを涯のない悲哀へおしながす
水よ どうしてその手でなにもかもゆするのか

 私は、この部分を「誤読」する。私は、こう読んでしまった。

水よ どうしてその手でなにもかもゆるすのか

 「ゆする(揺する)」ではなく「ゆるす(許す)」。悲哀へおしながすこと、それが「許す」。悲しむことで「許される」ことがある、と。
 ひとは、ときには悲しむことが必要なのだ、と。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フー・ボー監督「象は静かに座っている」(★★★★★)

2019-12-13 15:41:26 | 映画


フー・ボー監督「象は静かに座っている」(★★★★★)

監督 フー・ボー 出演 チャン・ユー、パン・ユーチャン、ワン・ユーウェン、リー・ツォンシー

 窓がある。あるいはドアがある。出口がある。そして、そこに人物がいる、という映像(シーン)が非常に多い。しかし、外も内部も、人物も「全体」が見えない。人物のアップの背後(脇、そば、周辺)が、どこかにつながっているけれど、「全体」が見えないので、どこにつながっているかわからない。逆に「外部」があることが、「内部」が閉ざされているという印象を強くする。
 「外部」はすべてのひとによって共有されるものであるのに対し、「内部」というのは人物に関して言えば「ひとり」ひとりのものであって他人とは共有できないものである。
 しかし、映画を見ているうちに、それが逆のことのように感じられてくる。
 「ひとり」ひとり違うはずの「内部」がどうしようもなくつながってくる。閉ざされたまま「共有」されてくる。だれも他人の「内部」など知らないはずなのに、それぞれが相手の「内部」を知っている感じがしてくる。主役の四人の「内部」だけではなく、その周辺の人物の「内部」も「違う」はずなのに、共通のものがどんどん増えてくる。
 逆に、「外部」はだれに対しても開かれているのに、それは「遠い」。たしかに存在するのに、それを「共有」したいのに、たどりつけない。
 こういう「抽象」的なことを、この映画はあくまでも「具体」として描き続ける。「抽象」にならずに、「具体」そのままでつたわってくる。「具体」のままで表現されている。そう感じるのはなぜだろうか。
 演出といえばいいのか、カメラアングルといえばいいのか、それに特徴がある。役者は「全身」で演技している。しかし、カメラは常に(と言っていいと思う)、「肉体」の「部分」しか映さない。「全身」で演技をさせておいて、「部分」しか見せないという、とても贅沢な撮り方(表現の仕方)をしている。スクリーンに映しだされることのない隠されたものを、観客は常に自分の「肉体」で補いながら映画のなかに引き込まれていく。自分の「肉体」で補った分は、常に自分の「過去」である。自分が体験し、「肉体」が「おぼえている」ことである。そういう「肉体」がおぼえていることは、たいていはいちいちことばにしない。自転車の乗り方、泳ぎ方をことばで説明できないけれど、そこに自転車があり、そこにプールがあれば、転ばずに自転車を漕ぎ、おぼれずに泳ぐのににている。無意識のうちに「過去」を復元し、「ああ、これは知っている」「こういうことは体験したことがある」という感じを、自分の「内部」に積み重ね続ける。
 この強烈な「説得力」を支えるのは、色彩計画である。舞台は地方都市。季節は冬。(晩秋かもしれないが。)雨が降っている。あるいは雨が降りそうな気配がある。光が鮮明ではない。ものの「輪郭」が明確ではない。色も「輪郭」が明確ではない。あいまいさに統一されている。この「輪郭」のなさが、別々のものである人間の「内部」を外にはみ出させ、また「外部(他人)」を内に引き込む。そういうことを「自在に」というのではないが、しつこく揺さぶる。
 「音楽」も、それによくにている。断片的である。明確な「輪郭」、つまりすぐにおぼえられるような「旋律」を持っていない。不安定に、何かがきらめき、何かが沈黙のなかへおちていく。
 「セリフ」も巧みだ。ストーリー(人間で言えば、全身)はことばとして語られない。逆に、ストーリーを要約して語ろうとすれば、その瞬間に抜け落ちていくような「日常会話」、あるいは会話というよりは言いたいことを封印したままのの「言い差しの断片」ばかりである。親子がけんかするときも、ことばで怒りを爆発させてしまうわけではない。「どうせ、わかってもらえない」という怒りを「肉体」に封印して、「言われなかったことば」を浮かび上がらせる。この「セリフ」の「構造」がスクリーンに展開される人物の映像、全身は映し出さずに、アップだけをぶつけてくる構造と非常に緊密につながっている。
 映画でしかできないことを、映画でやっている。映画でしかないから、映画を超えてしまっている。その強さに圧倒される。
 映画のラストも非常にすばらしい。主役の四人のうちの三人は、「座っているだけの象」を見るために(同じものを見る、外部を共有するために)満州里を目指す。(三人だが、脇役のこどもが加わり、四人という構造はかわらない)。その、どうでもいいような「バスの内部」と、窓から見える夜の風景が映し出される。途中だけが展開される。満州里へ向かっているかどうかは、風景だけではわからない。特徴的な風景(日本で言えば東京から京都へ行くとき、富士山が見える)というものがない。その延々とつづくバスの旅。途中で、トイレ休憩があり、息抜きがある。からだをほぐすために、ヘッドライトの光ので「羽根蹴り」をする。何にもならないゲーム。でも、そこにはただ「時間の共有」がある。
 あ、これなのだ。
 ひとは、時間を共有する。他人の「過去」は共有できない。共有した気持ちになる、共感する、ということはできるが、それは「共有」とは言えない。けれども、何にもならないことをするとき、ゲームをするとき、ひとはたしかに時間を共有する。そういう時間の共有の仕方がある。三人(四人)が旅をしているのも、その無駄な時間の共有かもしれない。これが、しかし、人間をつないでいるのだ。
 主役の四人は、誰かと時間を共有したいと思っている。でも、共有できない。「過去」を「共有」できない。だから「いま」を「共有」できるはずがないし、「いま」を「共有」できないとしたら「未来」はさらに「共有」できない。だから、絶望する。
 でも、どこかに「時間を共有する瞬間(共有できる瞬間)」がある。そのことを告げて、この映画はぱっと終わる。このシーンだけ、はるかな「遠景」であり、鮮明な「輪郭」と光、登場人物の全身が、とても小さく輝く。「羽根蹴り」の「羽根」さえも。蹴り損ねる足の動きさえも。
 傑作。
 文句なしの、2019年のベスト1。
 「ジョーカー」を見たとき、ここ数年のベスト作と思ったが、これはここ十年のベスト。「長江哀歌」を見たとき以来の感動である。

(2019年12月11日、KBCシネマ2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする