山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇 (「博物誌」43、2019年12月15日発行)
ソクラテス、孔子、キリスト、仏陀(釈迦?)を世界の四大聖人と呼ぶらしい。釈迦のことは知らないが(読んだことがないが)、ソクラテス、孔子、キリストに共通することは、「書かなかった」ということである。話したが、書かなかった。ことばを書き留めたのは「弟子」である。ここには、ことばの「重大な秘密」があると思う。
話しことばは完結しない。対話者(聞いているひと)が何かことばを発すれば、そのままつづいていく。聞き取った人間が、聞き取ったことを再現するとき、「完結」が仮の形であらわれる。書き留めたひとは「完結」と思うが、語ったひとが「完結」を意識していたかどうかはわからない。
私は、このことに、とても興味を持っている。
そして、「完結」というものを信じない。「完結」を「完結」ではない形にして、そのことばの運動のなかへ入っていきたいと思っている。「対話」を根こそぎやりなおすと言えばいいのか。こういうとき、目的というか、これからどうなるかというメドのようなものはない。ただ、何かが気になる、その気になるものにぶつかってみる。それから先は、ことばを動かしてみるだけだ。
こんなことを書いたのは……。
山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇の「01まみれず」を読んだとき、あ、これは閉ざされている(完結している)と感じたからなのだ。あ、つまらない。ほんとうに完結しているか、つまらないかどうかは読み直してみないとわからないのだが、瞬間的に、そう感じた。ことばの動きが円を描いて、閉じて、「つるり」とした印象になっている。
川から上がった犬のように
渾身の力で身震いする
全身からザーッと
ことばがふるい落ちる
それらが浮かびあがり
意味のかたちに結ばれていく
それを次々に破砕する
微塵にミジンコに未踏に
新しい意味に出会うために
「ことば」と「意味」の関係が「完結」している。つまり「論理」になっている。意味を「破砕する」と書いているけれど、この「破砕する」ということ自体が意味を否定するという「意味」になってしまっている。意味の否定が「新しい意味」というのは「論理」としてそれ以上言いようがなく、「反論」を拒んでいる。よくある「学者の論文」の「結論の閉ざし方」に似ている。「犬」の比喩、「ザーッ」という擬音、「微塵にミジンコに未踏に」という行の「み」の頭韻をつなぎあわせたところに山本の「肉体」を感じないわけではないが、「論理」が完結を目指しすぎている感じがする。
ここしばらく山本の詩を読み続けてきたので、私が山本のことばの動きになれてしまって、ほんとうは「開かれている」のに、私が「閉ざしたかたち」で簡単に向き合うようになってしまったのか。
06それから
記号がことばに変わるときはいつか
どのようにして
それはいつも謎だった
ことばが記号と化すのはいつか
どのようにして
ことばが限りなく記号に近づくのは
ことばの遠近法を廃したからだ
おそらく
ことばは奥行きをなくし
ペラペラになり
限りなく記号に近づいてもなお
ことばでありつづけたいと考えた
それから
「記号」ということばがつかわれている。「01」について書いたことは「記号」ということばを使えば、簡単に言い直せるかもしれない。「01」の詩は、私には「記号」に見えたのだ。「記号」は何かを代弁する。それは「誤読」してはいけない。女子トイレをあらわす「記号(マーク)」を男子トイレと「誤読」すると問題が起きる。「記号」は「意味」を完結させ、その「完結された意味」が共有されることで効力を発揮する。一種の「論理の経済学」である。
いちばん最初に書いたことを、ここでもう一度言い直せば、私は「記号」を「ことば」に戻したい。だから、ここで山本が「ことばが記号に化すのはいつか」と問うているけれど、私は逆に、山本の「ことばが記号に化したのはいつか」と批判したくなったのである。山本は山本で、作品のなかで、その「答え」を出そうそしているが、そんな「答え」など出しても意味はないと批判したくなった。
「遠近法を廃した」を「奥行きをなくし」と言い直し、そのあと「ペラペラになり」と言い直している。その「ペラペラになり」ということばには、まだ「記号」になっていない「山本のことば」が残っている。とくに「なり(なる)」という動詞に、その「開かれた何か」を感じるのだが、でも、ここは批判したい、と強く感じるのだ。
どう批判すればいいのか、まだ見当がつかないのだが。
しかし、「08ことばの羽音」を読んだ瞬間、批判したいと思ったことを忘れてしまう。「08」以降、詩のことばの展開が違ってきている。「完結」しようとしていない。「06」も「それから」いうことばで突然終わっているから「完結ではない」といえるのかもしれないけれど、「未完」を装った「完結」というものもあるからね。
私はどこに「どきり」としたのか。「完結(意味)」ではない「ことば」そのものを感じたのか。
その双子の姉妹はこちらを見て笑っている
「ふたごのしまい」ということばが
その姿から少し離れたところに
ひっそりとゆれながら浮かんでいる
「双子の姉妹」という実在、「ふたごのしまい」ということば、あるいは「音」。現実が「実在(仮にそう呼んでおく)」と「ことば」に分裂する。「現実」は「もの」と「ことば」の両方で成り立っている。その「ことば」を「実在」から少し「離れた」ところにあると書いている。
こういう認識論というのか、言語論というのかはわからないが、この問題は、机の上に「リンゴ」があり、リンゴを指し示すために「リンゴ」ということばがある、と言い直すと山本の書いていることに重なるようだが。
実は、違う。
山本は「リンゴ」とか「コップ」ではなく「双子の姉妹」と向き合うことで、問題を「肉体」の方へひっぱってきている。「認識論/言語論」ではないものとして動かしている。ふたご。そっくりの肉体がふたつある。それは一方が「実在」であり、他方が「ことば」という関係に似ている。ふたごはそっくりだが、ふたごであるかぎり、絶対に「ひとつ」にはならない。ぴったりとは重ならない。かならず「離れて」いなければならない。
「ことば」は「もの」ではない。「もの」から必ず「離れて」いないといけない。「離れる」ことに「意味」がある、とここで「意味」ということばをつかっていいかどうかわからないが、この「分離」を「双子の姉妹」という肉体と結びつけて考え始めているところに、私は山本の「なまなましさ」を感じる。「双子の姉妹」を「ふたごのしまい」という「ことば」に向き合わせたときから、「記号」であるはずの「ことば」がゆさぶられる。現実的に言い直すと、「双子の姉妹、そのふたりのどっちが姉? どっちが妹?」と問われたとき、「双子の姉妹」に親しくないひとは「迷う」。どっちでもいいとさえ思う。
私の体験でいうと、私には双子の姪がいる。見分けがつかない。だからひとりのときは名前を呼ばない。二人いるときだけ、どちらかの名前を呼ぶ。「昭子」、あるいは「和子」。どっちが返事をしても困らない。そんなふうにしてやり過ごしてきた。「昭子」「和子」という「記号」は存在するが、「記号」を無視して、その後のことをつづけるのだ。「和子、向こうの部屋にある本をとってきてくれ」という具合に。現実は、そういう「暴力」を許してくれるところがある。
「双子」という肉体を登場させることで、「もの」と「ことば」の「双子性」がゆさぶられる。それをゆさぶる。ゆさぶったうえで、詩は、こう展開する。
そう思ってみると
歳月は川のように流れ
あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる
気になるといえばなるがそれらはあくまでも
仮のものでパタパタと羽音を立てて
変わっていく
その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る
「ことば」はもう「双子」を追いかけない。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の違いを発見したときに見えたものを追いかける。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の違いというものなど現実には存在しないのだが、ことばにはその違いを存在するものに変えてしまう力がある。その力に触れてしまうと、ことばの暴走は止まらない。
あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる
なんだこれは、と思うでしょ? なぜ「右肩」なんだ、と思うでしょ? ほんとうに「よりそっている」のか、「脅しているんじゃないのか」とか言ってみたくなるでしょ?
言ったってしようがない。「無意味」だから。「無意味」というのは「答え」を拒絶している、ということでもある。「ことば」が「意味」を拒絶して、ここでは「もの」にもどってしまっているのだ。
つまり、詩になっている。
これが他のひとに「見える」(実感できる)かどうかは、知らない。
私が「見えた」(実感した)と感じたものが正しいかどうかは知らない。しかし、「なんだこれは」と書いたかぎりは、わたしはそのとき「もの」としての「ことば」に出会っているのだ。「もの」だから「なんだこれは」と言ってしまったのだ。変なものを見たら、「これは何?」と思うでしょ?
あえて言えば、「ことば」にしないかぎりは存在しなかった「ことば」の「あり方」のようなものだが、こんな同義反復のような「定義」は私が私を納得させるだけのものであって、いわゆる「誤読」である。
この何だかわからない「ものとしてのことば」は、このあとそれ自体が「双子の姉妹」になって、「ふたごのしまい」を生み出していく。その「ふたごのしまい」は「音」と呼ばれるのだが、「パタパタ」という、どちらかというと、どうでもいい音。なのに、それが……。
その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る
「シンフォニー」というのは「パタパタ」の集まりではなく、もっと違うものじゃないのか。「おごそか」というのは「パタパタ」とはかけ離れたものではないのではないかと思わないわけでもないが、はじまりが「パタパタ」というだけで、それがどんな「ふたごのしまい」としての「音」を誘い出すかはわからないわけだから、それが「おごそかなシンフォニー」に変わっても不自然ではない。それは「パタパタ」の疾走が小林秀雄を感動させたモーツァルトより「おごそか」ではないとは誰もいえない。いまのところ、その「音楽」を聞いたのは山本だけなのだから。私たちは「おごそかなシンフォニー」という「ふたごのしまい的ことば」を読んでいるだけで「双子の姉妹」を「聞いている」わけではないのだから。
ああ、だんだん書いていることがわからなくなる。最初にもどろう。山本はこの詩で「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」ということばを発見した。その「事実」がある。そこから出発して、山本は「おごそかなシンフォニー」というところへまで行ってしまった。私は、その「おごそかなシンフォニー」を私よりもずっと遠くにあると感じるので、そのことについては触れない。「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の発見へ引き返すことを繰り返しながら、山本の詩の「結論」を叩き壊し、次の詩を読む準備に変えたい。
実際、私が、後半の「詩集」に読み取るのは、「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の「結論」を目指さないなまなましい闘いである。このことは、後日書こう。きょうは、その「予告編」のようなものだ。「予告編」だけで終わるかもしれないが。
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