詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(39)

2019-12-07 10:45:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夕虹のような)

一枚の春のスカーフにぼくは巻き込まれた

 この「春のスカーフ」は幸福というよりは、幸福の記憶である。それは虹が消えるように消えてしまう。一瞬、美しいものを見せて。
 人は、幸福なときに、幸福な情景に出会うとは限らない。

雨の日に
遠い田舎へ帰つて行こう

 虹と春のスカーフに、嵯峨は自然を思い描く。田舎は、たぶん、虹が出なくても美しい。都会と違って。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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山本テオ「チューとも言わない」

2019-12-06 22:37:19 | 詩(雑誌・同人誌)
山本テオ「チューとも言わない」(「gui 」118、2019年12月01日発行)

 山本テオ「チューとも言わない」はネズミの死骸を見たときのことを書いてる。

日陰のない時間
毛並みのいいネズミが 一匹
警察署の脇で死んでいた
突っ伏して顔をそむけ
アスファルトの熱を確かめるように

 「毛並みのいい」がおかしい。「警察署の脇」もおかしい。ネズミの死骸と警察署と、どちらを先に気づいただろうか。わからないけれど、山本はネズミにかえっていく。「アスファルトの熱を確かめるように」が、なんというか、「親身」である。それが、非常におかしい。
 途中を省略して。

急に 風と大粒の雨
警察署の前に戻ると
さっきのネズミが いない
生き返って走り去ったのか
ポリスが見つけて検死に回したか

ネズミだとしても死骸が
雨にうたれるのは忍びないが
私は濡れてもかまわない
生きているから

夕立があらゆるものを叩く音
きっと地下にも届いている
今ごろは健康なネズミたちに囲まれて
死に損ないと 笑われているだろう
一匹が生きていたなら

 ありえないこと(たぶん)が書かれているのだが、不自然さがない。むりに笑わせようとはしていない。
 一連目に感じた「親身さ」がつづいている。「検死に回したか」ということばにさえ、妙にあたたかいものを感じる。
 この「親身さ」は、どこから来ているのか。

私は濡れてもかまわない
生きているから

 この「生きているから」だな、と思う。「生きているから」親身になる。それは人間の「義務」というより、本能(欲望)なのだろう。生きているから、どうしても生きている相手に向き合ってしまう。死んでいたとしても、死んでいるではなくて、生きているかもしれないと思ってしまうのだ。
 だから「毛並みのいい」と言ってみたり、「日陰のない」アスファルトでは、「顔をそむけ(顔がくっつかないようにして)」いると書いてしまう。熱いとわかっているから、顔をそむけるのだが、その苦しさを直接語らずに「熱を確かめるように」と言い直している。
 このユーモアは素敵だなあ。
 「一匹」とネズミを言い直すのも、とてもいい感じだ。「親身」とは常に「ひとり(一匹)」に対して向けられる。大勢が相手では、「親身」という感じは、なかなかむずかしい。
 死んでいるはずのネズミ(死んでいたと思ったネズミ)を「生きていたなら」と想像するのも、山本の人柄を感じさせる。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(38)

2019-12-06 11:27:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (午後になると顔が火照つてくる)

わが肺臓のうえに穴のように休んでいるものはなんであろう
小さな蝶のように息づいているものは何んであろう

 「穴」は「小さな蝶」と言い直され、「休む」は「息づいている」と言い直される。「なんであろう」「何んであろう」と疑問が、その言い直しを束ねる。書かれていないが「小さな蝶」の前には「わが肺臓のうえに」が省略されている。

わが肺臓のうえに穴のように「息づいている」ものはなんであろう
わが肺臓のうえに小さな蝶のように「休んでいる」ものは何んであろう

 「休んでいる」と「息づいている」を入れ替えると、「穴」が「小さな蝶」に変身、生まれ変わっていることがわかる。「穴」は「欠乏/虚無」をあらわすかもしれない。それが「小さないのち/希望」に生まれ変わる。そういう変化を生み出す「肉体」の力に、嵯峨は顔を火照らせている、と読みたい。




*

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2019年12月05日(木曜日)

2019-12-05 23:42:14 | 考える日記
 抽象的なことがらだけではなく、たとえば「水」について書かれたものを読むときにだけ「水」というものがわかる。そして、その「わかった」ことを自分のことばで言おうとすると、あいまいになる。つまり「わかっていない」ということが、わかる。
 ことばは、この「わかる」と「わかっていない」をつなぐ。
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一方井亜稀『青色とホープ』

2019-12-05 10:12:44 | 詩集
一方井亜稀『青色とホープ』(七月堂、2019年11月01日発行)

 一方井亜稀『青色とホープ』には、書き出しが「外国小説(翻訳小説)」のような作品がある。「遠景」も、そのひとつ。

すれ違う電車に人の影は認められず
吹き溜まりの埃は揺れている
がらんどうの車内は
夜の口にすっぽりと収まり
遥か向こうにコンビニの灯りが見える
失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 「人影は認められず」。ふつうにつかうことばかもしれない。しかし、わたしはそこにつまずく。「認められず」は「肉体」のことばではなく、精神(知性)のことばである。「肉体のことば」では「見えない」という。
 一方井は、つまり、一気に「知性」の世界へ入っていく。このスピードが、私には「翻訳小説」の文体に近いように思える。「目の前」(七行目に出てくることば)にある現実を描くにしても、「存在」として描くのではなく、あくまで「認識対象」として描く。
 「見える」が登場するのは五行目だが、この「見える」も「肉体」のことばであるようで、「肉体」のことばではない。「遥か向こう」に見えるものを「コンビニの灯り」と認定する(認識する)のは、一方井がすでにその存在を知っているからだ。「見えた」(見える)のではなく、一方井は存在を確認しているのだ。
 この「認識/確認」の運動が、

失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 と、「認識(意識)」そのものを問うようなことばを運動をうながす。
 「与えられていない」のなら「喪失」ということはありえないのだが、「事実の時系列」と「認識の時系列」は違う。
 「遥か向こう」はほんとうに「遥か向こう」とは限らない。すぐ近くにあっても「遥か向こう」と感じるときがある。認識するときがある。それはコンビニの存在が距離を生み出しているのではなく、認識そのものが距離を生み出すということであり、それはもっと正確に言い直すと認識が存在を遠ざけるのである。認識が先にあり、それにあわせて「事実」を定義しなおす(描写しなおす)。そこに「喪失」という「概念」が生まれる。いや、違うな。まず「喪失」という概念(認識)があり、その影響で現実の風景が変形し始める。近くにあるのに「遥か向こう」にしてしまう。
 こういうことは、一種の「錯誤」である。あるいは「混乱」である。「知性」にとって「錯誤/混乱」というものは好ましいものではない。だから、それをととのえなおすために「論理」が必要になる。その「論理」が、「失う前に与えられていない」という矛盾を含んだことばなのである。「ない」の発見、ギリシャ哲学が発見した「ない」が「ある」ことをめぐる論理が、ここでも動いていることになる。
 言い直すと、一方井は「喪失」感をを認識論を媒介にすることで「新しい詩(一方井だけの詩)」にしようとしている。
 「認識」と「現実」の「ずれ」のなかで、「認識(知性)」に基点をおいてとこばをととのえようとするのは、

滑り込むホームを前に
やがて辿るであろう路は窓外に開けており

 というような、もってまわった言い回しに見ることができる。「やがて辿るであろう」と書いているが、その「やがて」というのは単に電車を降りたらの意味でしかない。そういうことは「肉体」はいちいちことばにしないで、習慣としてやってしまう。それなのにわざと「やがて」という「時間的距離」を挿入する。「遥か向こう」と「やがて」は同じ働きをしている。
 一方井が「認識(知性/論理)」にことばの運動の基点を置いていることは、

幾度も通りすぎた
その根拠となる過去を手繰り寄せる度ありきたりな
取り繕う隙もない幸福を前に
身体はシートに埋まるばかりで
窓外は遠い

 この部分の「根拠」ということばにも象徴的にあらわれている。
 「肉体」は「幾度も通りすぎた」路(コンビニのある路)を「過去」として「手繰り寄せる」こともなく、いま、そのものとして動いていける。わざわざ、肉体でおぼえている路をことばにし、ことばにすることで「窓外」の「現実」と「車内」にいる「私の認識」の間に「遠い」距離があるとは思いはしない。

 と、書くと。

 まるで一方井のことばを批判しているだけのように思えるかもしれないけれど、こういうことばの運動が一方井の詩であると私が思ったというだけのことである。
 この、一種「生硬」な文体をどこまでつらぬいてゆくか。
 私には、書き出しと終わりを比較すると、そのことばの運動がだんだん硬度を失っていくように思える。批判するならば、その点である。

コンビニの灯りは僅かなカーブとともに一棟のマンションに隠れ
だがやがて
この身はその内に差し出すのだから
傘は置いたまま
ここをあとにする
新しいビニール傘を受け取るために雨雲は更新されるだなんて
嘘のように
手続きはいつでも簡略化された
それが望みであるように
電車はホームに滑り込んでゆく

 電車に傘を忘れてしまう。コンビニについたころ、また雨が降りだして、傘を買う羽目に陥る。そういうことがまた繰り返される。それを、「客観(知性/認識)」を装って、こんなふうに言い直している。
 ここがつまらないのは、この部分には、

失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 というような、「矛盾した論理」がないからだ。
 「矛盾」とは、他人にとっては理解できないものだが、本人にとっては「必然」である。
 最後の部分では、それが消えてしまっている。誰だって、電車のなかで傘を忘れ、コンビニにはいっているうちにふたたび雨に降られ、その瞬間、「あ、傘を忘れた」と思い出し、仕方がないなあと新しい傘を買う。
 こんなことを、一方井だけが経験したことでもあるかのように、面倒くさい「認識言語」を交えて書く。

*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(37)

2019-12-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたの手紙の余白は)

 ふたたび「あなた」にもどって、詩はつづく。

夕顔の花のような匂いがする

 この一行は不思議である。「夕顔の花のような」は「匂い」を修飾している。そして「夕顔の花のような」というのは、そのまま「比喩」でもある。
 だが。
 それは「余白」の「比喩」なのか。
 「余白」の「比喩」は「匂い」ではないのか。
 ことばが動いている。「意味」の「固定化」を拒否している。そして、こんなふうに展開する。

昨日も 今日も
晴れた日も 雨の日も




*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(36)

2019-12-04 15:26:40 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはおまえの部厚い白い胸を力いつぱい踏みつけたい)

 「白」がつづいている。しかしこの部分では「あなた」ではなく「おまえ」ということばがつかわれている。「おまえの部厚い白い胸」の「おまえ」はこれまで書かれてきた「あなた」とは違う人間なのか。「ぼく」はあいかわらず「ぼく」であるが、同じ「ぼく」であると言えるのか。
 きのう「転調」ということばをつかったが、この詩では「転調」しているのだ。

おまえの弾力のある白い胸を
ぼくは天までとどけと踏みつけたい

 「天までとどく」のは何だろうか。「白い胸」ではないだろう。白い胸は踏みつけられている。天に届くはずがない。踏みつけられる「おまえ」の「声」か。あるいは踏みつける「ぼく」の「声」か。「怒り」か。
 「踏みつけたい」ということばに目を向けてみる。「踏みつける」ではなく「踏みつけたい」。つまり、踏みつけてはいない。思っているだけだ。その思い、「怒り」を届けたいのだ。


*

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「読解力」低下を批判できるのか

2019-12-04 11:34:39 | 自民党憲法改正草案を読む
「読解力」低下を批判できるのか
             自民党憲法改正草案を読む/番外309 (情報の読み方)

 2019年12月04日の読売新聞(西部版・14版)の1面と3面。国際学力調査の結果が載っている。
 1面の見出し。

 日本「読解力」急落15位/長文読み書き減 要因か

 3面の見出し。

「情報探し出す」苦手

 私は、この見出しを見て笑い出してしまった。
 「長文の読み書き」をさせないようにしているのは誰か。「情報の探し出し」をさせないようにしているのは誰か。
 「現実」の問題から考えてみよう。
 「桜を見る会」で安倍の「公金私物化」が問題になった。いろいろなひとが、いろいろな「情報」を探し出してきて、問題点を指摘した。「招待者名簿」を野党が要求した。ホテルニーオータニの「前夜祭」の参加料金が5000円というのは、ホテルニューオータニの「宣伝資料」と比較すると安すぎる。共産党の田村は、郵送資料の「仕分枠」に目をつけ「60」という番号でくくられているのは「安倍枠」ではないか、と推論した。
 これに対して安倍(自民党)は、どうしたか。「名簿」は廃棄した。「料金はホテルが設定した」「名簿がないので60枠がどのようなものであるか確認できない」。
 「現実」では、安倍にとって不都合なことはすべて隠蔽される。そして、安倍の都合にあわせて、国会答弁がおこなわれる。
 日本で求められている「読解力」は、安倍がどう考えているか、その考えを「正しい考え(正解)」にするためにはどうすればいいかだけが求められている。不都合なもの(安倍の答弁と矛盾するもの)は廃棄される。問題点の指摘に対しては「わからない」と答える。そういうことが横行している。
 そして、その安倍の「正解の押しつけ」を支えているのが、官僚である。学校で優秀な成績を納め、偏差値の高い大学に入り、国家公務員の試験に合格した人間である。彼らは高給取りである。彼らはいずれも「求められる答えにあわせて答える人間」である。「求められない答えは絶対に答えない人間」である。日本では、権力者が求める「解答」以外の「考え」をもつことは禁じられている。そういう現実のなかで、どんな「読解力」が育つだろうか。どんな「情報の探し方」が求められるだろうか。
 3面には「コピペ解答」ということばがあった。自分で考えず、答えになりそうなものをコピーして張り付ける。それが日本で求められていることである。
 学校は学校で、「進学校」が重視され、どの大学に何人合格者を出したかが「進学校」の評価付けに利用されている。大学は大学で、きっと何人官僚を出したかを競うのだろう。あるいは、どれだけ有名企業に就職させたか、を競うのだろう。企業は企業で、いかに企業がもうかるかだけを追及し、それ以外の視点を排除する。

 こんな現実のなかで「読解力」など育つわけがない。しろ白、批判するにしろ、自分の考えを論理的に展開するためには、自分の考えを支える別の情報が必要になる。「書かれていないこと」を自分の「知っていること」のなかから探し出し、それを組み立てて論理にする。そういうことばの作業が必要である。
 いまは、ほとんどのひとが、そういうことをしていない。安倍に気に入られるための「論理」を組み立てることに夢中である。「求められている答え」を「忖度」し、先取りして用意する。そういうことが権力者から「評価」される。
 新聞そのものが、そういう姿勢である。
 共産党・田村が予算委員会で展開した「60枠」の追及を、すべて文字起こしし、新聞に掲載してみればいい。そうすれば「読解」とはどういうことか。「情報」を見抜くとはどういうことかを学ぶための貴重な資料になる。同時に、安倍を初めとする権力者が、どういう具合に情報を隠すかという「手口」もわかる。
 そういうことをしないから、「読解力」が下がるのだ。
 田村と安倍の議論を小中学生、高校生は読まない。だから、それを新聞に載せてもこどもの学力向上につながらない、と言うひとがいるかもしれない。しかし、「学力」というのは「学校」で教えられれば、それで身につくというものではない。周囲のひとの「ことば」や「態度」から知らず知らずに身につける部分もたくさんある。大人が安倍批判をしているのを聞く。問題点の追及の仕方を聞く。そいうことが影響するのだ。「学力」ではなく「人間力」というものが、大人の振る舞いを見て、自然に身につき、それが「学力」に反映するのだ。「人間力」をともなわない「学力」は、自分を出世させるための「忖度力」にすぎない。
 これを、逆の言い方でいうと、先に書いたことになる。
 こどもたちは大人の生き方をみる。権力にこびへつらう姿をみる。そして、「そうなのか、権力に迎合すること、権力の求めることを先取りして言えば、貧乏をせずにすむ」と判断する。権力の用意した解答を「コピー&ペースト」すのことを学ぶ。
 「学力」というのは「学校現場」だけで形成されるのではなく、社会全体の力で形成されるものなのだ。
 「読解力」を向上させるには、いま社会で起きていることを、どう「読解」するか、そのためには何が必要かから出発する必要がある。
 読売新聞の1面には「読解力」の推移が載っている。
 民主党政権が誕生した2019年には8位。第二次安倍内閣が誕生した12年には4位。つまり、民主党政権下では「読解力」が向上している。ところが第二次安倍政権下では、12年の4位が15年には8位、そして18年には15位と下がっている。「読解力」が「忖度力」にすり変わったことが、「読解力低下」の要因といえないだろうか。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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甲田四郎『大森南五丁目』

2019-12-03 10:44:28 | 詩集
大森南五丁目行
甲田四郎
土曜美術社出版販売


甲田四郎『大森南五丁目』(土曜美術出版販売、2019年05月30日発行)

 甲田四郎『大森南五丁目』の「床屋」。床屋にいったときのことを書いている。客の来ない床屋だ。「理髪店」ではなく。ここがポイント。

大声出したらしばらくして
おじさんが出てきた
客がない時は寝ているんだ私のように

 「私のように」が味わい深い。「おじさん」は「寝ていた」とは説明しない。でも、わかってしまう。「おじさん」ではなく「おじいさん」なのだが、「私」は「私をおじさん」と思っているから(そういう気持ちが残っているから)、「おじさん」と呼ぶのである。「私のように」おじさん、と。この三行のなかに、そういう「書かれていないこと」が「書かれている」。

どっちも自分の腕で食う細々と生き残って
味わっている平和である

 「どっちも」は「私のように」を言い換えたもの。「細々と」は甲田の勝手な思い込みだが、外れてはいない。わかるのである。聞かなくても、わかることがある。
 わざわざ「平和」と書くのは、「平和」があやしくなっているからである。
 そこに甲田の強い思いがあるのだが、きょうは、それについては触れない。

おじさんわざわざ鏡を頭の後ろに当てて
トシだと念を押してくれる
奥さんは今日は出てこない 寝ているのか

 こでも甲田は、想像している。ここにも「私のように」が省略されている。「私のように」寝ている、と。あるいは「奥さん」だから、「私の妻のように」かもしれないが、「妻」も含めて「私のように」なのだ。

いつまでしょうばい出来るか
いつやめるか考えているのか

 この二行は、店に出てこない「奥さん」が考えていることか。私が考えていることか。それとも「床屋のおじさん」が考えていることか。区別がつかない。この区別のつかないものがあるということが大事。区別のつかないものを「共有」という。「共有」しているものがある。そして、それは「ことば」にしなくても、つまり直接言わなくても、言って確認しなくても、「共有」しているのである。
 そして、「共有」とは、こういうことである。

ここがなくなったら私困る
おじさんだけが私の首の曲げかた知っている
おじさんの剃刀のくせを私知っている

 「共有」とは同じものを持つことではなく、違うものを持つことである。おじさんが、私の首の曲げ方を知っている。それに合わせて剃刀を動かす。いやそうではなく、おじさんの剃刀の当て方のくせを知っているので、私が首を曲げる。どちらが先で、どちらが後か。区別できない。区別する必要がない。それがほんとうの「共有」だ。二人が違うことをすることで「ひとつ」のことをする。それが「共有」である。そしてそれは「知る」ということでもある。
 だから、こんなふうに展開する。

そうか それなら
私の作る菓子を知っている人が
数は少ないがいるんだろう
私が止めたら困るという人が
必ずいるんだろう

 「知る」は「できる」でもある。自分で髪を切ることができないから床屋にゆく。自分で菓子を作ることができないから菓子を買いにゆく。小さな小さな「違い」をつみかさね、それを「共有」するとき、そこに「共同体」が生まれる。ひとりひとりが「できる」ことをする。どんなことでも「知っているひと(できるひと)」にまかせる。それはお互いの「助け合い」である。(こういうことを、日本の憲法では「公共の福祉」と定義している。)この小さな世界を、たとえば安倍は「発展性がない」というかもしれない。そのときの「発展性」とは「経済の発展性」。でも、経済の発展性だけが人間の幸福ではない。喜びではない。平和の基礎ではない。私が誰かを必要とするように、誰かが私の何かを必要としている、と感じる以上の喜び、平和な時間はないだろう。

 この詩は、いま、日本で起きていることへの、強い抗議である。「私」から出発して、「私」からはみ出さない。しかし、いっしょに生きる。その平和と喜びを「共有する」。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(35)

2019-12-03 09:12:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたは直立ている)

日光と空気とをあつめた太い白樺の幹のように
白樺の幹のなかには千の蜜蜂の唸りがきこえる

 ここでも「白」が目立つ。「日光」の「日」は「白」に似ている。しかし、「蜜蜂」の比喩を経たあと、「白」は変化する。

あなたの豊かな肉体のなかには
海のような熱量の響がする。

 「あなたの肉体」は「白い肌」を持っているだろう。海は「白い波」を持っているだろう。それは隠されて、かわりに「唸り」からはじまった比喩が「響」になる。「千」は「熱量」と言い直され、「響」も抽象的になる。
 「転調」の準備だ。



*

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表現と主張(私は猫ではない)

2019-12-02 11:01:03 | 自民党憲法改正草案を読む
表現と主張(私は猫ではない)
             自民党憲法改正草案を読む/番外308(情報の読み方)

 2019年12月02日の読売新聞(西部版・14版)の1面から2面にかけて、山崎正和の寄稿が載っている。「表現と主張 履き違え」というタイトルがついている。
 そこに書かれている「表現」と「主張」の定義が、とても奇妙である。

表現は本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている。ひとは相手の好意を得ようとして顔かたちや仕草をととのえるわけだが、その相手が自分の尊敬する人でなければ努力の意味がない。(略)(だから)猫を相手に身繕う人はいない。

主張は一種の自己拡張行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている。敵意からであれ好意からであれ、相手を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする。早い話が、主張なら猫を相手にしてもできるのであって、それが飼い主の躾けというものだろう。

 読んだ瞬間、ぽかーんとしてしまう。開いた口がふさがらない。「反論」の方法がみつからない。
 「反論」したいことは、いろいろあるが

主張は(略)相手を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする

 という定義、それを補足して

主張なら猫を相手にしてもできる(略)、躾けというものだ

 というのは、山崎の(そして、安倍の)考え方を露骨に語っている。(安倍は、猫、とは言わずに「あんな人たち」と言うだろうが。)

 まず、「表現と主張 履き違え」という山崎の「文章」が「表現」か「主張」か、どちらであるかということから始めよう。山崎は読者を「自分の尊敬する人」と考えているか。考えていないだろう。人間ではなく、猫を例に引いているところに、それが端的にあらわれている。だから、この文章で、山崎は何かを「表現」しようとは思っていないことになる。「表現」でなければ「主張」ということになる。だから、山崎は、

読者を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする

 を実践していることになる。つまり、読者を猫のように「躾け」ようとしている。
 これはなんとも読者をばかにした態度ではないだろうか。

 山崎は、これに対して、「表現と主張」という一般的なテーマではなく、「あいちトリエンナーレ」をめぐってのことを書いた、というだろう。つまり「芸術における表現と、芸術における主張」と限定して書いたというだろう。
 でもねえ。
 「芸術」って猫にみせるためのもの? あいちトリエンナーレは、金を払えば猫に見せられるもの? 猫を例に出した段階で、山崎は、読者は猫と同じだから、「躾け」ればいいと思っている。読者を「躾ける」ために、これを書いたことになる。

 「芸術」については、こんなふうに定義している。

かつては全面的に芸術家の表現であった造形は20世紀初めから性格を変え、今では大部分が作家の自己主張の産物に成り果ててしまった。
 長い間、芸術はパトロンを相手とする表現だったものが、パリの印象派、ウィーンの分離派あたりから立場を変え、大衆を相手とする啓蒙を目指し始めた。21世紀の今日では造形は百花繚乱、芸術家の「個性」と称する自己主張の展示場と化している。

 「全面的に芸術家の表現であった造形」は、「芸術はパトロンを相手とする表現」と言い直されている。前に書かれている文章と関連づけると、山崎にとって「芸術(造形)」とは、パトロンを相手に「敬意」をあらわし、パトロンの「好意を得る」ためのものということになるだろう。パトロンは「出資者」と言い換えることができる。たしかにパトロンの好意を得て、芸術家は金をもらい食っていたのだ。
 ところがあいちトリエンナーレに出品された慰安婦少女像は、そうではない。パトロン(安倍?/税金の再配分を監督・指揮する者)に敬意をあらわしていないし、安倍の好意を得ようともしていない。だから、それは山崎の定義に従えば芸術ではない。税金を払っているひとの中には、安倍批判者もいるのに、そういう人は無視して、税金を安倍批判につかうな、というのがあいちトリエンナーレへの批判の主力であった。名古屋市長も、そういう「主張」をしていた。
 (一方、いまでも「芸術」は、その鑑賞者が払ってくれる金で生計を立てている。貴族のようなパトロンはいないが、ふつうの市民が、パトロンには見えないけれどパトロンであるということは、ちょっと面倒になるので、これ以上書かない。あくまで、山崎のつかっている「パトロン」に限定して書いておく。)
 ここから逆に、山崎の「芸術表現に対する定義」を言い直せば、パトロンである権力者に敬意をあらわし、パトロンである権力者の好意を得るためのものが「芸術」である、ということになる。
 では、そのとき山崎の言う「芸術表現(パトロンの気に入るもの)」は「主張」を持たないのか。そんなことはないだろう。こうすれば権力者に対して敬意を持つことを表現できるし、こうすれば権力者の好意を得られるという「主張」を隠し持っていることになる。だれでも権力者に気に入られるようにしなさい、その方法を教える(啓蒙する)のが芸術の仕事ということになる。
 山崎は、あいちトリエンナーレの作品には「反論の自由」が欠如していたとも主張している。
 しかし「反論の自由欠如」というのは、単に、開催時に山崎がどこにも批判を書かせてもらえなかった(注文が来なかった)ということにすぎないだろう。だれもあいちトリエンナーレを批判してはいけないとは言っていないし、批判はネットにはあふれていた。あふれていたからこそ、名古屋市長はそれを「支援者」として利用して、展覧会を中止させた。
 どんな展覧会も、わざわざ「展覧会批判のための場」というものを併設はしていない。展覧会を見て、よかったというのも、つまらなかったというのも、鑑賞者の自由であり、それを制限しているような展覧会はない。書きたいことがあれば書き、言いたいことがあれば言う。それだけである。山崎に、あいちトリエンナーレに対する批判を書かせてくれるパトロンが読売新聞以外になかった、ということが山崎にとっての問題なのだ。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(34)

2019-12-02 08:35:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (白樺の幹から)

雨雲がずりおちるように
あなたの白い豊満(ゆたか)な肩から
重い衣裳がずりおちる

 「ずりおちる」は「ずれて、おちる」。そこにあるべきものが、そこから「ずれて」、その結果「落ちる」ということだと思うが、私はこの音になじめない。「ずれる」は「すれる(こすれる)」でもあると思う。接触がある。摩擦がある。それがそのまま「音」になる感じだ。重苦しい音だ。不快な音だ。
 この印象は、次の行の展開と不思議な向き合い方をする。

嘘のなかのしずかな雪渓よ
舞い落ちる沈黙よ

 「しずかな」「沈黙」。ふたつのことばには「音」がない。「ずりおちる」といっしょに音は書かれていないが、私は音を感じる。その、私の感じた音を消すように「しずかな」と「沈黙」がある。
 「雪渓」は、どう動いているのか。「しずかに」とどまっているのか。「沈黙」は舞い落ちる。まっすぐに落ちるのではなく、揺れる。ときには「舞い上がる」という逆の動きを含めながら「落ちる」かもしれない。

 「音」の印象は定まらない。その、さだまらない動きのなかから、「白」という色彩が見えてくる。「白樺」「白い肩」。「雪渓」のなかにも「白」が隠れている。
 きのう読んだ詩のなかにも「白」があった。
 「白い雨」(雨の白さ)を嵯峨は書こうとしているのだろうか。


*

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たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』

2019-12-01 22:32:54 | 詩集
たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』(七月堂、2019年11月20日発行)

 たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』を読む。わからない。何がわからないかというと「意味」がわからない。しかし「意味」というものは、ひとりひとりにとって違うから、「意味がわかる」ということなど、実際にはありえない。どこかで完全に違っている。そう考えてしまうと、「読む」こと、つまり感想を書くことは、むずかしくはない。
 「意味がわからない」というのは「たなかの書いている意味」と「私の読んでいる意味」にはつながりがない。重なり合うもの、共有できるものがない、ということであり、それは逆に言えば、これから書くことは「たなかの意味」ではなく、あくまでも「私(谷内)の意味」にすぎない。
 私が書いているのは、いつでもそういうことだから、とくに変わったことを書くわけではないが、ちょっと「前置き」を書いてみた。こういうものを書かないと、ことばが動かない。そういう「抵抗感」のある詩(ことば)なのである。

 「前置き」が「前置き」になるかどうか、わからないが。

 「P・S(a)goggleといえば文字の歯間ブラシのように」という作品がある。「google」かと思ったが、違っている。最初は「google」と思って読み始めたのだが、二行目で、あ、違っている。「google」ではない、と気づいた。
 気づくのはそういうことだけではない。私はいつでも自分勝手に「世界」を見ている。自分が見慣れたものに置き換えて見ている。「goggle」とたなかが書いているのに「google」と、自分の知っていることばに置き換えて読んでいる。そのことに気づく。
 今回は、たまたま気づいたが、たいていの場合は気づかない。だから、これから書くことには、多くの「気づかない誤読」がある。私が「転写」することばは、たなかのことばを正確にコピー&ペーストしていない。間違えて転写しても、私は、気づかないまま、ことばのなかに入っていくことになる。

視界不良のあらゆる曇天を度外視した
goggleの原綴には二本の立棺
あのボスポラス海峡の両岸を跨ぐ膝蓋骨
&頭蓋骨、極細の鳥の骨よ

 私が「理解できる」のは「度外視した(する)」と「跨ぐ」という動詞だけである。「度外視する」は、私の場合「無視する」というのに近い。これは「肉体の運動」というよりは「精神(知性?)」の運動である。「違い」があっても「違い」を無視する、「違い」を「度外視して」考える。「あのボスポラス海峡の両岸を跨ぐ」は「両岸に足を置く」ということだと思う。「海峡の両岸を跨ぐ」とたなかは書くが、私は「海峡を跨いで、両岸に足を置く」という「意味」に理解する。「海峡」と「両岸」という「違い」を「度外視して」、「跨ぐ」という私の知っている動詞をつかって、たなかの書いていることをつかみなおすのである。
 「goggle」と「google」は違う。違うけれど、私はその違いを「度外視して(無視して)」こう考える。「goggle」と「google」は「ボスポラス海峡の両岸」のようなものである。左岸と右岸は違う。海峡だから、左岸、右岸とは言わず、西岸、東岸かもしれないし、北岸、南岸かもしれないが、そういう「違い」を「度外視」すれば「両岸」である。「跨ぐ」という動詞は、跨いだ瞬間「左岸」「右岸」を気にしない。左足、右足も気にしない。「跨いでいる」だけを重視する。違いがある。そして、その違いの間には、違いを生み出す何かがある。海峡だったり、左右という意識だったりする。海峡は「実在」するが左右は「知性」が生み出した便宜上の区別である。前向き、後ろ向きと体の位置を変えるだけで左右は逆になるから、左右なんてほんとうは存在しない。左右はいつでも度外視できる。だが、状況によっては絶対に度外視できないということもある。私たちは、たぶん、そのつどの都合で「知性(認識)」を変化させながら、「世界」に向き合っている。しかし、そのときも、この詩で言えば「跨ぐ」という動詞だけは「度外視(無視)」できない。確実な「運動」である。この「確実」だけを私は信じる。それは、とても少ないが、つまり、先に引用した4行ではたったひとことだが、これを手がかりに、私はたなかは「似ている(あるいは同じもの)」を繋いでいくことばの運動と、それを「繋ぐ」ではなく「跨ぐ」という感覚で移動していくことを詩の運動だと考えていると読み始める。
 このとき「視界不良」はある意味で絶対条件である。明瞭に見えすぎていては、こわくて「跨ぐ」ことができないことがある。「海峡」に似た例を借りて言えば、幅1メートル50センチの「亀裂」がある。亀裂の底が「視界不良」で、深さが30センチだと思う。このときひとは簡単に亀裂を「跨ぐ」ことができる。しかし、それが 100メートルの深さだとわかる(見える)と「跨ぐ」ことはむずかしくなる。「視界不良」であることが、ひとの行動を楽にする。あらゆる「認識」も「不明瞭」の方がいいときがある。「goggle」と「google」は違う。でも、どっちが正しい? これは、わからない方が簡単。どっちも似たようなもの。そうやって、「跨ぐ」。「認識の裂け目」を私は気にしない。
 どこまでこの「気にしない」運動を続けることができるか。その結果、どこにたどりつくことができるか。そういうことをたなかは書いているのだと思う。違いを跨ぎ続け、違いをなかったものにする。その想像力の暴力、想像力の暴走を、どれだけことばの洪水(過剰)で押し進めるか。そう思って読む。
 二連目を省略して、三連目。

あるいはうかつにも水中のカモノハシの水掻きの動線のように
すっくと二本脚で歩哨に立つプレリードッグのように
あるいは東京のもろダークイエロウに暮れなずむ
工事現場の《安全+第一》という楷書体の表示盤を
口腔内の風船もどきのキシリトールガムとてちぎれた舌平目

 ことばがことばを跨いで、そのあいだにある違いを跨いで、どこまでも暴走する。
 この連で私が注目するのは、繰り返される「あるいは」と「のように」。「あるいは」は言い直し、「のように」は比喩。どちらも「元」というか「対象」がある。これを「もの(実在)」ではなく「知性(知による認識、知がつかみ取った何ものか)」と仮定してみる。それはまだ「実在」になっていない。それを「言い直し」「比喩」で「感覚」にもわかるものにしようとする運動がある。そして、そのとき大事なのは「感覚的にわかるもの」になるかどうかではなく、「わかるものにしようとすることばの運動」が「ある」ということ。「知的認識」から「感覚的実在」への「跨ぎ行動」があると言い直せば、そこには「跨ぐ」という運動があるだけということになる。
 それでいいのか。「意味」はなくて、いいのか。
 たぶん、そういうことが「評価」の分かれ目になるのだと思うが、私はもともと「意味」というのは個人のものであって、ひとそれぞれが違う「意味」を生きているのだから、「意味」なんてなくていい。つまり、わからなくていい、と考える。
 「意味」がわからなくても、「跨ぐ」という「運動」がわかればそれでいい。「運動」が「わかる」というのは、とても感動的なことなのである。私に言わせれば。
 たとえて言えば。
  100メートル競走がある。9秒80で走る。マラソンを2時間2分で走る。そういうことの「意味」はわからなくても、その「走り」(肉体の動き)を見れば、すごいと感動する。この感動が「わかる」。ことばの動きを見るときも、私は、それを感じるのだ。「ことばの肉体」の動きが、「私のことばの肉体」の動きをはるかに超えている。「私のことばの肉体」では不可能な「跨ぎ」(ときには、跳ぶ、さらには飛ぶ)がある。スピードがある。距離がある。それを感じれば、それでいい。
 これを抽象的なことばで言い直せば、ことばとことばの切断と接続。その距離とスピード。軽さ、明るさ。リズムの正確さ。そういうものを感じるとき、私は「意味」など気にしない。「ことばの肉体」の運動能力に、ただみとれる。
 たなかの詩を読み、感じるのは、そういうことだ。
 「意味」を、そして「意味」がもっている「思想」に対する共感をたなかは求めるかもしれないが、私は、それに対しては「わからない」というしかない。私がわかるのは、ことばからことばへの切断と接続、その飛躍とスピードが、読んでいて「快感(酔い)」をもたらすものであるとき、それを「好き」というだけである。
 好きな部分もあれば、嫌いな部分もある。日によって、嫌いな部分をここは大嫌いと延々と書くこともあるし、好きな部分を繰り返し繰り返し取り上げるときもある。そういう違いがあるだけだ。きょうは好きな部分を引用して、好き放題に書いてみた。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(33)

2019-12-01 11:53:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
田舎の雨

* (雨が降りしきつている)

そのはしばしに白い数字を連らねながら
雨は単一の思想を現わしている

 白い雨、ならば秋の雨だろうか。
 「白い数字」は「思想」の比喩と思って読む。その思想の特徴は「単一」であるということか。「数字」は0から無限まであるが、それを貫いているのは「単一」の思考である。1+1が無限につづいていく。
 だが、この詩は、そういう読み方を裏切って、次のように閉じられる。

--雨は昨日の感情のうえに降りつづける

 なぜ「きょう」ではなく「昨日」なのか。なぜ「知性(理性)」ではなく「感情」なのか。
 考えてみなければならないのは、「昨日の感情」というのは、「いつ」存在しているかということだ。「昨日の感情」をきょう思い出すとき、それは「きょうの感情」ではないのだろうか。きょう思い出しているにもかかわらず、それを「昨日の感情」と呼ぶとき、そこには「理性」が働いている。「数字」のようなものが働いている。
 さて。
 では「理性」と「感情」と、どちらが世界を存在させているのか。
 嵯峨の抒情詩は、感情を理性でととのえる形で動くものが多い。理性が真理であるけれど、真理は「感覚」としてはとらえにくい。「理性」が論理の力でつかまえるものである。そうやってつかまえた論理を、具体的なものの中に還していくとき、その感覚世界が感情と言う形、抒情になるのかもしれない。




*

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