詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(45)

2019-12-13 08:32:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (わたしが夢のなかで手折つた花を見せましよう)

これをあなたの心の一輪ざしに挿しましよう
すると未知の世界がそつとあなたのものとなるでしよう

 美しいイメージだが、このイメージを「厳密」に追いかけようとすると、かなり困惑する。「あなたの心に」花を挿すのは、「わたし(嵯峨)」の空想である。その空想のなかで「未知の世界」が「あなたのものとなる」。これもまた空想なのである。
 でも、きっと、そんなふうには「厳密」に考えない。
 「あなたのために花を持ってきました。あなたのこころに挿してください。そうすればあなたのこころに、未知の世界が広がるでしょう」と呼びかけている、いや呼びかけようとしている嵯峨の姿を思い浮かべる。同時に、その花を受け取った女の気持ちにもになる。
 ことばのなかでは作者と読者はあっと言う間に入れ代わるし、作品のなかの「わたし」と「あなた」も瞬時に入れ代わってしまう。そして、この入れ代わりの速さ(スムーズさ)が「美しい」と感じるひとつの要素だろう。嵯峨は、そのスピードを加速させる方法として「すると」という論理的なことばをつかっている。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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2019年12月12日(木曜日)

2019-12-12 10:09:20 | 考える日記


 ルシアーノ・ゴンサレスの作品は「ことば」である、と書き始めてみる。
 それぞれの部位を、たとえば目、鼻、口(唇)、額、頬、首ということばで指し示す。指し示されたものは固有の形を持った具体的なものである。しかしその具体的な部位は現実ではない。
 ルシアーノの作品は、私が「ことば」と呼ぶものと同じように、現実の目ではない、鼻ではない、口ではないが、その形から私は私の知っている目、鼻、口を思い出し、それを結びつけている。目、鼻、口という「ことば」から、私が現実に存在する目、鼻、口を思い描くように。
 ルシアーノの作品と向き合うとき、思い描く意識、結びつける意識、その「思い描く」「結びつける」という意識のあり方(動き)そのものが問われていることになる。なぜなら、ルシアーノの作品は「具象」的ではあるが、彼の作品と同じ顔(頭)をした人間はいない。「具象」的に見えるが、「抽象」なのだ。「ことば」と同じように、意識を具象に向けて動かす「何か」なのだ。
 「抽象」の力、精神の力、「もの」のなかから「意識」を分節し、さらに統合するという力(エネルギー)と、運動の可能性が問われている。

 目に戻って見る。
 ルシアーノの作品には、目がひとつしかない。しかし、目がひとつしかなくても目である。いまは開かれているが、閉じられても目である。何をみつめようが、あるいはみつめることを拒否しようが目である。
 この「目である」ということが「抽象」の極点である。精神が「目性(目らしさ)」を把握し、「目」と名づける。そして、「目」がその瞬間に、分節され、「目」になる。
 私が、いま「ことば」でしたことを、ルシアーノは彫刻でおこなっている。

 さて、ここからがほんとうに考えなければならないことである。
 私が「目性(目らしさ)」と考えているものは何なのか。私は、それを「ことば」で完全に定義できない。その定義できないものは何なのか、それを知りたいと思うし、それを「知れ」と意識を揺さぶってくるのが、ルシアーノの作品なのだ。
 それだけではない。なぜ私たちはそこにあるものを、目と呼ばなければならないのか。目と呼ぶことで、何をしようとしているのか。それを「知れ」と、厳しく詰問してくる。


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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(44)

2019-12-12 08:31:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (われは海に住む青銀の飛び魚)

きみは空に咲く一抹の雲の花

 「ぼく」と「あのひと」から、「われ」と「きみ」へと呼称が変わっている。この詩は、こうつづく。

あこがれて飛びはすれど
落ちてはかなしもとの寂しら

 描かれるのは「われ」のことだけである。「きみ」はどうなったか書かれない。そして、「われ」の描写には、意味がわからないわけではないけれど、いつもとは違うことば(ふるめかしいことば)がつかわれる。
 「かなしも」「寂しら」
 直接的な「響き」がない、と感じるのは私だけだろうか。










*

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estoy loco por espana (番外33)

2019-12-11 15:18:19 | estoy loco por espana


Luciano Gonzalezの作品

Tengo algo que quiero escribir sobre este trabajo.
Pero aún no puedo hablarlo.
Tal deseo y ansiedad se mueven en mí cuando veo este trabajo.
El arte me hace querer. El arte me pone ansioso.
Pero todavía no sé cuál es mi deseo.
Todavía no sé cuál es mi ansiedad.

ルシアーノの作品の特徴のひとつは全体が細いこと。
この作品も細い。頭部(顔)なのだが、細くて長い。細さのために、目はひとつしかない。耳もない。
具象であるけれど、抽象でもある。具象と抽象が共存している。
目は好奇心に見開かれている。
口は官能的である。唇が濡れ、何か言いたそうである。
その間にある鼻は、無表情に見える。しかし、芯が強い。はみ出した頬骨も、この人物の精神の強さを語っているかもしれない。
でも、なぜ顔に見えるのだろう。
顔と持った瞬間から、この人物はどういう人間なのだろうと考えてしまうのだろう。
ひとは具象を見ても、抽象的なことを考える。
抽象的なものを見た場合は、さらに思考が強くなる。

人間は肉体を持っている。
肉体は世界共通だ。
その「共通」という考えは「抽象」である。
どんな具象のなかにも「抽象」が潜んでいて、それが具象の細部の違いを超える。
逆かもしれない。どんな抽象のなかにも「具象」が潜んでいる。それが抽象を共有する手がかりになる。

私は書きたいことがある。
しかし、私はそれをまだことばにできない。
そういう欲望と不安が、この作品を見ていると、私のなかに動く。
芸術は、私を欲望させる。芸術は、私を不安にさせる。
だが、私は、私の欲望が何であるか、まだ知らない。
私は、私の不安が何であるか、まだ知らない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(43)

2019-12-11 10:39:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (薊の花が蝶をひきつけるように)

愛情が時間をひきつける

 このとき「時間」とは何だろうか。「過去」だろうか、「未来」だろうか、「いま」だろうか。時間をひきつけると時間は、どうなるのだろうか。「愛情」ということばは抽象的すぎるが、愛のさなか、とくに肉体の愛のさなかには、時間は消える。時間を忘れてしまう。
 ひきつけられたものは、自分の存在を忘れてしまう。「愛情」にひきつけられ、「愛情」は「愛情」がどういうものであるか、忘れてしまうだろうか。
 簡単には言えないのは、「愛情」も「時間」もかわりつづけるものだからだろうか。

水が空気をひきつけるように
憎悪が壁をひきつける

 「憎悪」は「愛情」、「壁」は「時間」を言い直したものか。











*

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桜を見る会の問題点(FBからの転載10)

2019-12-11 08:27:58 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル版(https://www.asahi.com/articles/ASMDB5J3KMDBUTFK018.html)(2019年12月10日19時17分)に次のように書かれている。

政府は10日、首相主催の「桜を見る会」に出席していたとされ問題になった「反社会的勢力」について、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」とする答弁書を閣議決定した。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
この決定は二つの問題点を含んでいる。
①「反社会的勢力」の定義が揺らぐのは当然だとしたら、いま、「反社会的勢力」をどう定義するかが語られていない。いまの「定義」をいわずに、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」といってもしようがない。
これは、次のように言い換えることができる。
問題の桜を見る会に参加していたひと(菅と握手をしていたひと)が、かつて暴力団にいた。刑事事件も起こした、と仮定する。しかし、いまは反省し、刑期も終え、完全に更生し、ふつうの市民として暮らしている。もし、そうであるなら、菅と握手しているひとの「過去(経歴)」にこだわって排除するというのは正しいことではない。正義に反する。
「反社会勢力」の定義を、特定の人物にあてはめた場合、それをそのままにしておくというのはおかしい。そのひとの「いまの状態」から定義しなおす必要がある、という具合に論理展開することができる。
ただし、この場合は、「いまの状態」がどういうものであるか、具体的に説明する必要がある。
「反社会勢力」を「いま、同定義するか」、ある人物を「いま、同定義するか」が問題である。
②ここから、次の問題が生まれる。
たとえば、安倍が街頭演説をする。それに対して市民が「安倍辞めろ」とヤジを飛ばす。こうした行為を「反社会的」と定義してしまえば、ヤジを飛ばしたひとは「反社会的勢力」の一員となる。
実際、札幌で起きたことは、こういうことである。
警官が出動し、ヤジを飛ばしたひとを拘束し、排除した。
このときの「反社会勢力」の「定義」は公表されていない。
自民党は2012年の改憲草案に「緊急事態条項」を盛り込んでいるが、「社会的秩序の混乱」ということばの「定義」などは、いくらでも変更できる。
あらゆることは「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」である、という言い方を容認すれば、どんなことでもあとから「定義」して「反社会的」と言えるということだ。

今回の閣議決定は、単なる「言い逃れ」の方便ではなくて、「自民党改憲草案」の「先取り実施」なのだ。
ブログで、すでに何度も何度も、そういう事例を指摘してきた。
もう、いくつ指摘してきたか、思い出せないくらいである。
今回、その具体例が、また追加になったのだ。
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2019年12月10日(火曜日)

2019-12-10 23:17:11 | 考える日記


 考えの対象になることを好まない、という書き置きをして、その「ことば」は一冊の本のなかから逃げ出した。
 その「ことば」は、その本のなかには存在しないが、その本のことを考える読者の思索のなかには存在する。あるいは、その「ことば」について考えるひとの思索のなかに存在する。「ことば」の意志に反して、そういうことが起きる。
 「ない」というのは、そういうことだ。
 「ない」になろうとした「ことば」がある。そして、その「ない」ということに反するように、「ある」が存在してしまう。

 可能的なものは、その根底に非存在を持つのか。
 (安部公房『他人の顔』を、このことばから対象化できるか。)
 これは、また別のメモである。
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萩野なつみ「うたかた」

2019-12-10 11:07:32 | 詩(雑誌・同人誌)
萩野なつみ「うたかた」(「ガーネット」89、2019年11月01日発行)

 萩野なつみ「うたかた」。「うたかた」ということばは聞いたことがある。しかし、私は、自分の口からそのことばを発したことはない。朗読や引用のことばとして聞いたことはあるが、現実のなかで、何かを指し示すことばとして聞いたこともない。知人の声を通して、現実にはなされるのを聞いたことがない。つまり、知識としては知っているが、肉体としてはそれをおぼえていない。
 どんなふうに萩野はつかうのか。

その爪に
いつかしのばせた海が
息絶える時の色を
おぼえていて

 この「おぼえている何か」が「うたかた」かもしれない。「うたかた」を先取りしてことばが動いているのだろう。有名な「よどみにうかぶうたかたの」と「海」は水という部分で重なるし、「かつきえ、かつむすび」(あるいは「かつむすび、かつきえ」だったか)は「息絶える」ということばともつながる。
 「おぼえている」というこことばが「肉体」を刺戟する。
 萩野は「うたかた」を「おぼえている」のだ。それが「爪」「海」「息絶える」「色」と交錯して、いまよみがえってこようとしている。

夏のぬけがらが
打ち明けそこねた夢のかたちで
もう遠いえりあしにからまる
うた、かた
あの日
残照にうずめるまなざしの角度で
いっしんに泳ぎきろうとした
微熱のあわい

 「肉体」は「えりあし」ということばで具体化される。「うたかた」は、そのあたりに「ある」ということだろう。「ぬけがら」とか「そこねた」ということばが、とてもおもしろい。
 そして、

うた、かた

 えっ? 「うたかた」ではなく「うた、かた」?
 でも、これでいい気がするのだ。
 私は「うたかた」を知らない。でも「うた」と「かた」ならよくわかる。「えりあし」あたりのちかくに「かた(肩)」はある。耳も近くにある。「うた」は耳に聞こえてきたのだろう。「うた(声)」はセックスへの誘いだったかもしれない。「うずめる」「いっしん」ということばが、そういうことを連想させる。
 そして「うた、かた」は「あわい」と言い直されて、ふたたび「うたかた」にもどる。この二連目の呼吸の変化はとても気持ちがいい。どんな「誤読」でも受け入れてくれそうな広がりがある。いいかえると、どんなセックスの妄想を投げ込もうと、そこには夏の一日、海辺で過ごした愛の情景が成り立つ。それは「うたかた」のように「あわい」。けれども、その情景のなかには「うた(声)」と「肩」という「事実/現実」がある。それを萩野は「おぼえている」。

間違いではないよといいながら
踏みしだく花野
いま
はぐれた唇から放たれたひかりは
いとしい名をかたどる

 「おぼえている」ことは、いつだって「間違い」であるはずがない。ひとはおぼえていたいことだけをおぼえる。そこには「欲望」というか「本能」というか、「正直」がある。それは「ことば」という形になろうとする。そうすることで「正直」をあらわそうとする。
 「うたかた」が「かつきえ、かつむすぶ」(かつむすび、かつきえる)ように、「はぐれていく」。「うた」と「かた」になる。でも、それは読点「、」を取り除けば、いつでも「うたかた」として萩野を漂いのなかへ巻き込んでしまう。「かたどる」という動詞が強くて美しい。「かつきえ、かつむすぶ」たびに、そこに「いとしい」ものがかたどられる。詩だから、それは「正直」を秘めた「名」になる。



*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(42)

2019-12-10 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (花藤の下に立つて)

朝に夕にあのひとを憎むこころは癒えない

 「花藤の下に立つても」ではない。花藤の下に立って、憎むこころが、その憎しみを暴走させているのを見ているのだ。想像しているのだ。こころは、どんなふうに、あのひとを憎むのか、と。

砂の上にその名を書きちらし
はては罵りつつ力をこめて踏みつける

 「名」を踏みつけるとき、こころを踏みつけるのだろう。あのひとの、こころを。そのとき、嵯峨のこころと、あのひとのこころが直に触れ合うのだ。










*

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2019年12月09日(月曜日)

2019-12-09 19:54:03 | 考える日記


 精神は見えない。
 見えないものを「絶対」と規定することは危険だ。
 もし精神が間違えても、その間違いを知ることができるひとは少ない。
 精神(ことば)を過信しない方がいい。

 感性も同じではないか。
 見えているのは「感性(感覚)」ではなく、感性がとらえたものである。感性が間違えても、その間違いを指摘できるかどうか、わからない。
 感性によってとらえられたものが「ことば」として表現されないかぎり、それは他者には認識されないからである。

 これは、しかし「ことば」で書かれていること、つまり「精神」の錯乱が噴出しているだけなのではないか。

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若尾儀武「どんど焼き」

2019-12-09 15:39:10 | 詩(雑誌・同人誌)
若尾儀武「どんど焼き」(「タンブルウィード」6、2019年09月20日発行)

 若尾儀武「どんど焼き」は、全行を引用すれば、もうそれだけで、感想や批評は何も書かなくていい作品である。だからこそ、私は、あえて「ぶつぶつ」に切って、感想を書く。

タモッちゃんゆうたら
いつもいつも端(はじ)にいて
こっち来(き)い
と ゆうた時だけ心持ち寄ってきて
何べんゆうても
次にはまた端に戻る
そんなところからなんぼ手ぇ
伸ばしても
温くうなれへん

 方言である。というより、口語といった方がいいだろうなあ。いや、口調の方がいいかもしれない。自然にしゃべっている感じがする。しゃべるのは、ひとと近づくためである。そういうことを感じさせる、「開かれた」口調。「こっき来(き)い」というために、ひとは声を出すのだと思う。

輪をつくって座ったら
誰にでも自分の尻ぴったりの場所はある
教室の席みたいに名前はついてへんけど
タモッちゃんがおるかぎり
そこはタモッちゃんの場所で
他のひと
座られへん
そやさかい

 「誰にでも自分の尻ぴったりの場所はある」。この、飾り気のないことばがいいなあ。飾り気がないけれど、あたたかい。なんといえばいいのか、きっと若尾が思いついたことばというよりも、ずーっと、そういうふうに言われてきた感じがするところがいい。
 ひとに呼びかけるときの、智恵、のようなものが動いている。
 飾り気がないから、「裸」の感じ。裸あたたかさとの安心感、と言い直せばいいか。

タモッちゃん
こっちに来い
正月の燃やしもん
多かろうが
少なかろうが
そんなこと

 「そんなこと」のあとには「関係ない」ということばが省略されている。それを省略したまま、この詩の最終連。

カラの場所あたためて
どんなに温くうなったとしても
タモッちゃんおらんと
そこ
すうすうと
風の通り道や

 ね。
 私の書いてきたこと、みんな無駄でしょ?
 余計なことを書かずに、なぜ、全行をそのまま引用して、この最後が好きと書けばいいのに、と怒りたくなるでしょ?
 私は、これを読んでいるひとに、怒ってもらいたくて、あえて書いたのです。
 詩には、「好き」というだけで充分な詩がある。
 好きと感じたら、どうしてもそれを自分で独占したくなる。俗なことばで言うと、ツバをつけたくなる。「これ、私のだからね」と。ちょっとツバつけるだけでは不安になって、ぺろりと舐めてみせたくもなる。

 9月に出た雑誌なので、すでに誰かがどこかで批評しているかもしれないけれど、私はあえて「これ、私のだからね」と、遅ればせながらツバをつけておくのである。ツバつけたくらいじゃ、横取りされるかもしれないけれどねえ。
 他のひとにも食べてもらいたい。
 でも、やっぱりひとりで独占したい。
 そういう「矛盾」した気持ちを誘う、とてもいい詩だ。
 ていねいにつくられた菓子のように、そこには新しくはないけれど、繰り返されてきたものだけがもっている美しさがある。「口調」のなかには、そのひとの暮らしをつらぬくものが生きている。思想がある。--と、余分なことを書いておく。
 ツバつけというよりも、ひとかじりしておく、ということだね。

*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(41)

2019-12-09 08:27:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (一輪の花ということはできよう)

 「一輪の花」は比喩。女を「一輪の花」ということはできる。嵯峨は、その「一輪の花」を、次のように言い直す。

瞬時の風ということはできよう

 比喩を重ねるとき、比喩を貫くものは何だろうか。感覚か、知性(精神)か。区別はむずかしいが、そこに「ない」ものを結びつけることで、いままでつかみきれなかったものを明確にする。それは精神の運動といえるだろう。ことばは「精神」なのだ。
 だから、こんな描写が可能になる。

あのひとはつつましい足どりで感情のうえをたち去つていつた

 女を対象としてみているだけではなく、「感情」を対象としてみている。「精神」で世界をとらえなおしている。嵯峨の感情の上をと読むのが一般的だろうが、私は、女が女の感情の上を、と読みたい。愛が消えるとは、女そのものが変わることだからだ。








*

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2019年12月08日(木曜日)

2019-12-08 16:09:40 | 考える日記
 「それ」は存在するか。
 「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。
 「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。
 そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。
 このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。
 ここにいちばんの問題があるのだが。
 「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させてしまう。
 これは「比喩」を語るときに動くことばのあり方に似ている。

 これは、「それ」というタイトルの本を読んだときに勝手に動いたことばなのだが、どうも矛盾したところがある。どこかで「論理」を間違えている。「誤読」したために、つまずいたのだろう。
 それを正すためにはもういちど「それ」を読まないといけないのだが、どうにも見つからない。最初から「ない」本だったのかもしれない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(40)

2019-12-08 15:27:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (いつになつたらぼくの口の中が銀色の夜明けになるのだろう)

 これは、どういう感覚なのか、私にはわからない。後半に女との交渉が「今日もまだぼくの舌は海鼠のように腫れあがつている」ということばとともに書かれているから、セックスの疲れが口の中にも広がっているということか。「銀色の夜明け」は疲れがとりはらわれる感じだろうか。
 しかし、冒頭の一行は、

二日つづきの休日が晴れた日と雨の日で、
ぼくは黒白の市松模様に染まつてしまつた

 とつづいている。
 これが、わからなさに、さらに拍車をかける。




*

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堤美代『日の傘』

2019-12-07 22:17:45 | 詩集
堤美代『日の傘』(詩的現代叢書38)(書肆山住、2019年11月16日発行)

 堤美代『日の傘』の「招魂」。

柄杓で水を汲むように
手のひらの淵で

ホタルの青い光を
汲もうとした

おおかたは
手のひらの外の草の闇に
こぼしてしまった

 「水を汲む」という手の動きを思い出す。水が零れないようにするのだけれど、一方で上の方は開かれている。「水を汲む」は「水を閉じ込める」ではない。同じ動きがホタルをつかまえるときにも起きている。完全に閉じ込めるのではなく、開かれたところを残して、そっとつつむ。逃げるなら逃げてかまわない。
 三連目で「おおかたは」「こぼしてしまった」と書いているが、むしろ、こぼすことが目的ではなかったかとさえ思える。それはつかまえるではなく、触れ合うということにもなるだろう。手のひらに一瞬おさまる。手のひらを一瞬照らして、すーっと去っていく。来て、去っていくという「動き」こそ、堤がホタルに求めているものだとわかる。
 途中を省略して、最後。

川辺の青い水を汲むと
手のひらはもう
ホタルの青い光の記憶が泌みて
草の形に伸びているだろう

 美しいなあ、と思う。
 二連目に書かれている「草の外の闇」が、ここに静かによみがえってくる。ホタルは堤の手のひらを草の一葉と信じてやってきて、しばらくとどまり、ふたたび去っていった。川辺の水に手のひらを浸すと、青い光が動くようだ。水の感触をホタルの感触のように感じ、自分の手を草のようにも感じている。


*

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