詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Vicente Barbera Albalatの詩

2021-12-13 09:02:55 | estoy loco por espana

Vicente Barbera Albalatの詩

SI UN DÍA, AMOR, ME VISITARAS

I

Si un día, Amor, me visitaras 
y entraras en mi casa lacerada y perdida 
vagando en este mar de ambiguas tempestades,
no sé qué pensarías.
Vecina de ciruelos, perales y algarrobos,
con el silbar del aire en el tejado
y el hogar recordado de brasas hoy dormidas,
la gozaron los ojos de mis días alegres.
No sé si ver podrías aquella puerta vieja,
sus hojas entreabiertas 
para oler en la brisa el perfume a geranio
y aquellos muros blancos en vertical caída.
Tal vez entonces vieras con tu luz
en la casa cerrada
lo que ocultan mis sueños al renacer el día,
lo que sufren mis brazos al recordar sumisos
cuando el arado viejo limaba con su reja 
los ásperos terrones de los surcos:
          mi tierra de secano, de abrojos y de espinas,
          quemada por los llantos de la guerra.
Ya no existe en su seno 
                                        el firme amor de madre.

 「SI UN DÍA, AMOR, ME VISITARAS」は三部構成。引用したのは「I」。
 たぶん詩人の母は「認知症」なのだと思う。「Ya no existe en su seno」は「もう彼女の胸は存在しない」である。Senoは、胸や乳房を意味する。同時に「内部の深いところ」を指す。日本語でも「胸」を「こころ」と同義につかうことがある。「胸が痛む」は「こころがいたむ」である。何が存在しないのか。詩に書いたことがらが存在しない。でも、ふとそれを思いだすことがあるかもしれない。そのときは、その記憶のなかを訪ねてきて、記憶のなかの私に会いに来て、と呼びかけている。
 呼びかけながら、詩人は「記憶」のなかで母と会っている。母と一緒に見つめたものを思いだすことは、母に会うことだ。
 詩人は何を思いだしているのか。
 プラム、ナシ、イナゴマメ、風に音を立てる屋根、古いドア、ゼラニウム、壁に映る木の影。それらはきっと母が愛したものだ。大切な火を守りながら、母は詩人に、母が好きなものを語った。荒れた大地。茨の野。戦争の記憶。つらいものも混じるから、好きとは言わなかったかもしれないが、詩人には、それらを母が愛していたことがわかる。生きることは、ともに存在するものを愛すること(好きになること)だからだ。
 だから言うのだ。「プラム、ナシ、イナゴマメ……」。きっとことばは届く。そして、詩人は母と記憶の中だけではなく、現実でも再開する。いつの日か、愛は(母は)私を訪ねてくる。
 とても美しい詩だ。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(4)

2021-12-12 11:10:27 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(4)

(明日より今日が)

明日より
今日が
大事

波立つ海
裸の子
歓声

いつまでも
新しい
夏の
姿

風は
発電し
獏は
夢に食傷


 「新しい」は形容詞。だが、ここでは動詞のように働く。「いつまでも/新しい」は「いつでも/新しくよみがえる」であり、よみがえるは「なる」でも「する」でもある。今日は、明日新しくよみがえる。だから大事。

 

 

 

 

(世間の罅)

世間の
罅から
世界が
覗く

日々に
かかずらう
私を余所に

無限の

永遠の

舌に
馴染まぬ
無味だけれど

 言い換えがある。「無限」は「永遠」、「幻」は「夢」。そこにかすかな「罅」。一方、反対のことばがつくりだす罅もある。「余所に」の反対は「馴染む」。「馴染まぬ」と書かれることで不思議な罅が生まれる。

 

 

 

 

 

(夜 座っている)


座っている
足下に
地球

頭上に
限りない
人外

夢に
たゆたう

かたわらに
想う
ひとりの
ひと

 そのひとは、かたわらにはいない。だから「想う」。そのひとは「人外」にいる。「想う」とき「夢」のようにやってきて、そこにいる。「たゆたう」は、このとき存在の証。動くものだけが命の証。そうこころは動く。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(3)

2021-12-11 10:00:43 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

 

 

 

 

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(3)

(老いて一日は)

 

老いて
一日は

朝から
昼へ
己れに
躓き

昼から
夕へ
散らばる

幻の
明日の
星影


 動詞はふたつ。「躓き(く)」と「散らばる」。躓くのは肉体である。しかし、肉体の動きはどこかでこころにつながる。そのとき肉体は「散らばる」ことはないが、こころは「散らばる」。肉体を少し離れて。

 

 

 


(じっと)

じっとしていると
今が
音楽とともに
遠ざかる

時間が駆け
時は
うずくまる

音楽の額縁で
世界は
名画

美に
涙して
醜に
耐える

 「駆けて」「遠ざかる」とき「うずくまる」ものがある。動かない。「うずくまる」は「涙して」「耐える」に似ているか。「うずくまる」のは何だろう。音楽からこぼれた沈黙だろうか。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(2)

2021-12-10 11:17:25 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(2)

(気配が)

気配が
ある
姿なく
いる気配

夢ではない
すぐ傍らに
いる

歓びが
思い出す
悲しみ

時を
まとった
懐かしいひとの
気配

 「まとう」が「まとった」と「連体形」でつかわれている。「思い出す」も「連体形」である。何かとつながっている、ふれている感じが「気配」だろうか。「歓び」「悲しみ」は入れ換えることもできる。

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Miguel Caturla Martinez「Viaje de amor a Lisboa」

2021-12-10 10:06:41 | 詩集

Miguel Caturla Martinez「Viaje de amor a Lisboa」

 

 フェイスブックで知り合ったMiguel Caturla Martinezから詩集「Viaje de amor a Lisboa」が届いた。200ページを超す詩集だが、そのなかから一篇。

 

ROSABEL

 

Rosa bella carmesi,

luz de luna y jazmin,

amapolas,

sol y nieve,

primavera de un mes de abril

 

Ojos grandes como alcobas

que enmudencen con el mar,

rimas lentas en las olas;

lentas gotas de perfume de azahar.

 

Tu dulzura es armonía,

tu calor es flor de miel;

tu piel divina estampa

de nostalgia de un querer.

 

Mi almas es la estancia

que te espera merecer;

mi pluma solo el arma

para acercarme a tu ser.

 

 詩の翻訳は難しい。しかし、スペイン語をスペイン語のまま理解できるほどスペイン語を知らないので、日本語にしてみる。

 

ロサベル

 

美しい深紅のバラ

月影とジャスミン

ポピー

太陽と雪

春のはじめの四月

 

大きな目はまるで寝室のよう

海に抱かれ、

波にあわせてゆっくりと韻を踏む

オレンジの花の香りの滴がゆっくりとしたたる

 

あなたの甘さは調和

あなたの暖かさは蜂蜜の花

あなたの肌に記された神聖な刻印

郷愁という名の愛

 

私の魂はあなたから遠くにいる

あなたに値することを願いながら

私のたったひとつの武器は詩

あなたの存在に近づくために

 

 「ROSABEL」は「rosa(バラ)」と「bella(美しい)」を組み合わせたことばだろうか。「バラのように美しい(美しく)」という願いがこもった名前と思って読んだ。

 最後の連の「mi pluma」が難しい。私の持っている辞書には「羽、ペン、文筆家」というような訳が並んでいる。昔、ペンといえば羽ペン、それをつかうのは文筆家ということだろうか。だから「ことば」と訳せばいいのかもしれない。あなたは、遠い。あなたに近づくために「ことば」を捧げる。それはあなたに向かって飛んでゆく私の心。

 私は「ことば」といったん書いて、それから「詩」と書き直した。「詩」の方が「こころ(感情/気持ち)」というニュアンスを込められると思ったからだ。

 ミゲールが詩人だからである。あなたに捧げるのが詩だからである。詩は、翼を持ったことばだからである。

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「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社)

2021-12-09 10:57:53 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社)

佐藤モニカ「一本の木のように」

男の人生が幸せだったか 不幸せだったかなど
わたしが知るよしもない

 こう書いたあとで、佐藤はこう詩をしめくくる。

ただひとつ
ゆたかであったことは
確かであろう

 他人の(佐藤の)「意見」なのだから、私が口をはさむ必要はないのかもしれないが。いやだなあ。「幸せ/不幸せ」と「ゆたか」が別の「概念」であるというのは。不幸せの連続でも、それを「ゆたか」と呼べるのか。もちろん呼んでもいいだろうが、それは本人だけだろうと思う。
 「人生訓」は、いやだなあ。

杉本真維子「毛のもの」

すけるような身体に深くわたしはじぶんの身をいれて
あなたを暴れる、内側の骨肉であろうとして

 「あなたを暴れる」か。この「肉体のことば」のねじれを要求するのは、「すけるような身体に深くわたしはじぶんの身をいれて」と「内側の骨肉であろうとして」という認識だ。そのとき「身体」は「骨肉」ということばへと変化していく。同時に「内側」ということばが働く。書かれていないが「外側」の身体と「内側」の身体があり、内側が「骨肉」であるというのなら、「外側」は皮膚か。「皮膚(外側)」が「すける」と「内側」が見える。
 この「交錯」。ここを見つめつづけていくと、杉本の「肉体」が見えてくると思うのだが……。私がつまずくのは「身体」ということばである。私はどうにもなじめない。で、何か、追いきれないものを感じる。
 杉本にかぎらないが、ほかにもなじめないことばがいろいろあって、私は、つかわない。私がつかわないことばを集めて、私なりの辞書をつくってみると、私がどういう人間なのかわかるかもしれないなあ、と考えたりした。
 詩の感想ではないように見えるかもしれないけれど、これが私の感想。特に「意味」などない。「意味」はあるのだろうけれど、それはまだ、ことばになろうとはしていない。

千石英世「八月」

弥勒川の土手に
夏草が繁茂して
流れる川は見えない

 「弥勒川」というのはどこにあるのだろうか。知らないけれど「川」ではなく「弥勒川」と明確に書いているところがいいなあ。「川」と書いただけでは、千石は落ち着かないのだ。

鶏が鳴いてやかましい

地面が熱い
足もとで石がゆらぐ
すきとおってゆくところだ

 あ、西脇だねえ。「弥勒川」とはっきり書くことで、千石は「旅人」になる。この旅人は具象から抽象へと入っていく。「すきとおってゆく」の「ゆく」がいいなあ。

田口犬男「ハイドンの朝」

ハイドンはいつだって御機嫌だ
スプーンに映された嘘を歪めて真実に変え

 「嘘を歪めて真実に変え」。でも、それは自分のついた嘘ではなくて「スプーンに映された」だれかの嘘、ということか。「映された」という「受け身」のことば。受け身というよりも、デパートでは高級品が「売られている」のように、動詞の主体を隠した「客観表現」ということかな?

田中庸介「ぴんくの砂袋」

それが自分なのだ、と腑に落ちる。腑ってどこなんだ、とわからないが、
ともかくそこに堕ちる。

 「落ちる」と「堕ちる」。つかいわけている。これは、

ぴんく色とぐりーん色とどちらがいいですかと言われてじゃあぴんくでお願いしますと言って選択した砂袋。

 の「選択」のようなものだろうか。他人から見れば、どっちでもいい。田中にしても、どちらかでなければならないという理由はないだろう。「落ちる/堕ちる」については、まあ、理屈はつけられるだろうけれど。でも、それは「理屈」だから、「腑に堕ちる」ことばかどうかはわからない。
 引用はしなかったが、田中も杉本と同じように「身体」ということばをつかっている。「身体」か……、とやっぱり思ってしまう。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想

2021-12-09 09:30:01 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

 

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想

(椅子を引き)

椅子を
引き
立ち上がる

手が掴み
足が踏む
心は知る
己が自然を

世界は
愛おしく
世界は
恐ろしい

大気が
香る
この時空

 世界は「香る大気」。手で掴めない。足で踏めない。でも、「肉体」は反応する。そこに「世界」が存在することを。「嗅ぐ」ではなく「香る」。主語が「私」から「私以外のもの」に交代する瞬間がある。

 谷川俊太郎『虚空へ』(新潮社、2021年9月25日発行)は短い詩篇。私の感想は、いつもだらだらと長いのだが、谷川にならって短くしてみた。毎回「百字以内」と決めて書いてみる。

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「現代詩手帖」12月号(4)

2021-12-08 17:21:19 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(4)(思潮社)

小林坩堝「HOMEBODY」

--おれを歴史にしてくれるなよ

 という行が何度か繰り返される。気障だね。この気障は、こうまとめられる。

誰にも発見されない為に
わたしたちはここに来たのではなかったか
愛に似た血まみれのさよなら
あらかじめ行き倒れている明日めがけて
進む無数の足音に
おのが歩みを重ねながら
徹底的に孤立しろ

 「わたしたち」か。久々だなあ。「わたし」ではなく「わたしたち」、それなのに「孤立」。この矛盾は、なんといえばいいのか、私には1960年代を思わせる。それは私の青春ではない。私の幼年期だ。幼年期というのは不思議なもので、「ことば」が「世界」から切り離されている。「ことばの肉体」が確立されていないからだ。「アンポ、ハンタイ」ということばをまねながら、子ども同士が電車ごっこをするみたいに「アンポごっこ(デモごっこ)」をやってみても、それは「お医者さんごっこ」よりもわけのわからない世界だ。お医者さんごっこの方が、私の暮らしていた田舎では、わからないながらも「肉体のことば」と「ことばの肉体」が交錯する。「ちゃんぺ」という女性性器をあらわすことばを口にすれば、大人たちの顔色(肉体のことば)が変わる。それは、何か、まだ知らない何かが世界にあることを「肉体」に教えてくれる。田舎だったせいか、私があまりに無知だったせいか知らないが、「アンポごっこ」が「肉体」として見えてきたのは、それから何年もあとのことだった。あのころは「時代」の動きがゆっくりしていたから「アカシアの雨に打たれて」なんて、いつまでも歌っていた。
 くだくだと書いたが。
 清水昶の時代を思い出すのは、私だけだろうか。清水昶は、私が詩を書き始めたころは、大スターだった。ほんとうは、もっと大スターがいたのだろうけれど、売り出し中の方が、初心者の私には大スターに見えた。そういう「ズレ」も思い出した。

藤田晴夫「さざ波」

気がつくと水鏡に
あなたの顔が映っている
空にあなたがいるわけもなく
あなたは
水から浮かびあがってくる
待ちかねた春だから
そんなことがあってもいい

 「待ちかねた春だから/そんなことがあってもいい」が静かだ。とくに「そんなことがあってもいい」がとても静かだ。
 この二行がない方がイメージが鮮烈になるかもしれないが、それでは「ことばの詩」になってしまう。「肉体」が追放されてしまう。「ことばの暴走」をおさえているのがいいなあ。
 もちろん小林の「おれを歴史にしてくれるなよ」のように、ことばが暴走するのも楽しいけれどね。でも、暴走させるのなら、50年以上も前の世界を連想させない別次元へ暴走させてほしい。
 あ、藤田の詩の感想ではなくなってしまうなあ。

水下暢也「小さく光ってなるべく光って」

薄ずむほどに積った  雪の心地を踏んで
ゆえしらぬ音の荒ぶ  その寄せ返りが
ぬきあしさしあしの間合から
一拍外れて  聞こえてきた

 「ゆえしらぬ音の荒ぶ」。このことばを受けて「一拍外れて」と呼応する、この「ことばの肉体」には思わず、ほーっと声が漏れてしまうが、水下はこういうことばをどこで肉体化してきたのだろうか。
 そのことが気にかかる。

赤司琴梨「羽化する声」

成虫の肉体よ、共振しろ
強く、強く、強く、く、く
やわらかな翅音よ、響き続けろ
もっと、もっとだ、だ、だ、だ
「こ、こ、こ、と、り、で、す」「こ、こ、こ、と、り、で、す」

 「肉体」と「共振」。「ことばの肉体」と「肉体のことば」。つなぐのは「肉体」であって、「ことば」ではない。「つなぐ」と私は書いてしまうが、赤司の書いているように「共振」が正しいのだろうと思う。離れながら「振動」が「共有」される。
 

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「現代詩手帖」12月号(3)

2021-12-07 11:12:03 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(3)(思潮社)

井坂洋子「水渡り」

くる日くるう日
晴れ ときどき影

 「来る日狂う日」だろうか。「狂う日」は「影」だろうか。こういうことは「結論」を出さずに、ただ、ぼんやりと思っているのがいい。「狂う」にはいろんな「次元」がある。時計が「狂う」という言い方もある。「計画が狂う」という言い方もある。それは困るときもあれば、うれしいときもある。「うれしい誤算」。
 私は、「決定」せずに、ぼんやり揺れているときが好きだ。自分の肉体のなかで、ぼんやりしたものが動いている。

とろ火にかけた鍋のりんごの甘い香り
遠足の日を待つ
少年のように
よろこびをよろこびとして生きている切なさ

 いいなあ。
 特に何かを声高に主張しているわけではない。
 でも、そこに思想がないかというと、そうではない。思想はある。ただ、私はそれをいわゆる「(現代)思想」のことばで言いなおすことができないだけである。

江代充「やさしい道の再話/山」。

どこからも
枝が見えないほど柔らかな葉をいっぱいに身に付けた
下の低木のなかへとふたたび入っていく

 「柔らかな」ということばに引きつけられてしまう。「枝が見えないほど葉をいっぱいに身に付けた」とどう違うのか。ふつうの感覚では、違わないだろうなあ。というより、私は「柔らかな」ということばを、ここで、書くだろうか。たぶん、書かない。それが私と江代の違い。その違いに気づいて、その瞬間、江代がそこにいると感じる。
 こういう瞬間が好き。
 井坂の詩も「くる日くるう日」ということばを読んだ瞬間、あ、私はこんなふうなことばをつかわないなあ、こんなふうにことばを動かさないなあ、と感じ、そこで立ち止まる。「肉体」が立ち止まるのである。「意識」というようなものではなく、「肉体」が止まる、と感じる。それから、遅れて、意識(ことば)が動く。
 江代の「柔らかな」でも、そういうことを感じるのだ。
 野沢啓が「身分け=言分け」ということばをつかっている。私は「肉体のことば/ことばの肉体」という言い方をするが、私が詩を読むとき、あるいは他の文学を読むとき感じているのは、あることばに出会った瞬間、私の「肉体」が止まる。それから、少し遅れて「ことば」がさまよいだす。「肉体」の奥から何かが変わり始める。それは明確にことばにできるときもあれば、ことばにならないまま「保留」するときもある。それは、いつか知らない間に「肉体」になって動き出すときがある。
 きっと私にも「あの葉っぱは柔らかい」と思った瞬間があって、その瞬間を、江代のことばにふれて思いだすのだろう。つまずくのだろう。それは、私が向き合わなければならない「世界のあり方/思想」のひとつなのだ。まだ、ことばにならない。しかし、いつか必ずことばにしなければならないときがくる。
 人は、結局、知っていることしかわからない。

川瀬滋「獣」

若い猟師は金属バットを握りしめた
獣が完全に息絶えるまで殴打するのだ

 これを、川瀬は何度も言いなおす。「握りしめる」「殴打する」。その「肉体」が、そのことばだけでは足りない何かを求めてくる。
 そのあとに、

猟師は自らが森に溶け どこかに消えてしまうような気がした

 肉体はことばになり(身分け)、ことばは「ことばの肉体」を確立する。「肉体」は消えてしまうが、「ことば」が残る。その「ことば」はいつの日か、だれかの「肉体」を立ち止まらせる。
 思い出させるのだ。
 「ことば」が「肉体」に呼びかける。おまえの肉体にも、これができる。知っているだろう、と。そう、知っている。
 私は獣を叩き殺したことはない。しかし、蛇だとか、蛙だとか、殺さなくてもいいものを殺したことはある。「殺す」(絶対的な暴力になる)ということが、どういうことか。そういうことは、いちいち「定義」しないが、「肉体」のなかに「ことば(思想)」にならないまま、残っている。
 川瀬の書いていることは、もちろん、私が思い出しているようなことをはるかに超えている。この「はるかに超えている」という感覚を、私は「肉体」と「ことば」で、ただ実感する。私の知らない「リアリティ」。これが、いま、ここにある。そして、このことばを読んだという記憶が、いつか、どこかで「肉体化」されて、あらわれる。
 それこそ「くる日くるう日」である。井坂が、そういう意味でつかっているのではないにしても、そういうことは関係がない。
 「意味」というものなど、もともと完全に個人のものだ。他人に共有されるものではないし、私は、世界に存在するのは私の肉体だけという究極の「一元論」へ向けてことばを動かしているので、「他人の主張する意味」にはとらわれない。つまり、私は私の考えたいことだけを考える。

北川透「コロンブスの声 三篇から/石ころ」

投げられた石ころが
空に描いたあざやかな抛物線には
言葉を欠いた甘い静けさがあった

 「抛物線」をどう定義するか「あざやか」だけでは足りない、と北川は感じる。「甘い静けさ」とつけくわえる。
 私の肉体は、ここで完全に立ち止まる。
 「甘い」と「静けさ」はすぐには結びつかない。甘い食べ物、甘い飲み物。甘いは味覚である。舌と口で感じる。一方、「静けさ」は聴覚であり、それはもっぱら「耳」で感じる。肉体のなかの「舌」と「耳」が突然結びついて「甘い静けさ」になる。
 こういうことって、あり得るのか。
 いままではあり得なかった。しかし、北川が書いた瞬間から「あり得る」に変わった。そして、それはいま初めて誕生したものなのに、私は「知っている」と錯覚する。「甘い静けさ」がある、あった、と感じる。だれか、遊び友達が石を投げる。それはきれいな曲線を描いて飛んで行く。(志賀直哉の「たき火」の放物線のようなものだろうか--作品の名前は違っているかもしれない。)それを、「ほーっ」という感じて見とれる。その瞬間の、一瞬「声」が消える「静けさ」。聞こえないはずの「静けさ」を聞く。その酔ったような感覚はたしかに「甘い」ものに酔った感じかなあ。
 「甘い」に「酔う」というのは変な言い方だが、「酔う」は酒に酔うだけではない。違うつかい方がある。「美しものに酔う」。美術に、音楽に、そして女に。酔って、狂う。狂うことの喜び。愉悦。
 脱線しながら、私は「あざやか」と「甘い」と「静けさ」がどこかで結びつくことを、「肉体」として理解する。思い出す。そういうことがたしかにあったと思う。これは、私の「肉体」が反応しているのである。「ことばの肉体」(甘いもの、美しいもの、美人に酔う=夢中になり、狂う)が「肉体」に働きかけてくる。重なり合いながら、舌や耳、目だけではなく、「肉体」全体に働きかけてくる。その働きかけは、上手く説明できない。
 北川は、非常に冷静(?)に「言葉を欠いた」と書いている。そう、そこには「ことば」がまだ存在しないのだ。北川が書くことによって初めて存在するのだ。
 「身分け=言分け」だから、それは、分離できない。方便として、私は「肉体のことば」「ことばの肉体」という表現で、テキトウに整理するふりをしているだけだ。「テキトウ」というのは半分「保留」ということである。「結論」ではなく、いつでも言いなおす用意があるということである。
 
石ころはそれに酔った
石ころの眼はますます見えなくなった

 北川は「酔う」というこばをつかって、念押ししている。いや、そうではなく「酔う」ということばがあったから、私(谷内)は、先に書いたことを書けたのだと北川はいうかもしれないが。

 

 


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緒方淑子「山下時計店」、青柳俊哉「裸木が 透明な光を」、池田清子「謎の世界」、徳永孝「メッセージ」

2021-12-05 16:48:18 | 現代詩講座

緒方淑子「山下時計店」、青柳俊哉「裸木が 透明な光を」、池田清子「謎の世界」、徳永孝「メッセージ」(2021年11月15日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

山下時計店  緒方淑子

となりのとなりのとなり町まで クルマで
ふと降りて
歩いて
閉まりかけた店々店に 並んで
あ時計屋さん
私 直してほしい時計があるの
     もうずっと持ってるの
誰も直してくれなくて

クルマに積んでた掛時計 見せたら

時間をもらえば直せます

家にもあるの 誰も直してくれないの
持って来てもいいですか

1コめ直って受け取って
   2コめ直って受け取って
3コめ直して渡すとき
時計屋さん ニッと笑って
あ待って

その時計の裏側に なにかをペタンと
            貼りました

それは金色のシール。
Yのイニシャルつきの。
「山下時計店 09 21」。

 「ことばがやわらかくて気持ちがいい。となりの……、店のくりかえしがリズミカルで最後の1コ2コ3コも繰り返しが気持ちがいい」「誰も直してくれない、ということばから、わたしのこころも直してほしい、という気持ちを感じる。時間をもらえれば直せると重なり合う。最後のシールもいいなあ。時計屋との関係が切れるのではなく、関係が残る感じがある」「やさしいエッセイ、という感じ」「時計を直すということと、時間をなおす(わたしのこころを直す)というふたつの主題が、気持ちよく重なっている」
 受講生が、すべてを語ってくれた。
 時計を直す、わたしの時間をなおす。ふたつのことを結びつけているのが「ずっと」ということばだろう。「ずっと持っている」は「ずっと待っている」。
 「その時計の裏側に なにかをペタンと/貼りました」の二行は「ました」をつかうことで、「文体」を変化させている。その変化があって、最終連への転調がスムーズになっていると思う。
 なお「Y」は、原文は〇のなかにY。

裸木が 透明なかげを 青柳俊哉

裸木が 透明なかげを地に射す 
寂しい田舎 モノクロームの窓に
かなしみがふっていた 枯れていく空 
茫々と波うつ田 氷の野を
そめて 荘重なかなしみが
ふりしきっていた

雪は わたしたちの脊柱の空に結ぶ 
地上に降りる神聖なものの 表象である
命を溯る 石の神経の無限のラセンのうえにも
それは結晶していた 繁茂する空の巨木の
線的な内面も おおいつくし消していく 
地上を超えるものの 心象である 

 「かなしみがふっていた、ふりしきっていた、に胸がしめつけられる」「命を溯る、にはもう一度春がくる予感が感じられる」「景色だけではなく、人間を超えたもの、詩のなかのことばで言えば、神聖なものを書こうとしている。地上を超えるもの、にもそういうことを感じる」「無機質な石に対してさえ、生命的なものを感じる力がすごいなあ」「脊柱の空、がわからない」
 たしかにわかりにくい。
 一連目の「裸木」は視覚的なイメージ。「脊柱の空」は視覚を装っているが抽象的なイメージといえるだろうか。共通するのは垂直のイメージ。その垂直は「ふる/降りる」によって強調される。時間は、一般的に水平方向の直線でイメージ化されるが、この詩では垂直方向の存在としてイメージ化されているのではないだろうか。
 雪が、かなしみとしてふってくる。地中に埋もれた石が、地中から垂直に立ち上がる。その力が裸木にのりうつる。天と地。その間にふる雪。何かが交錯する。意識が交錯する。

 「図形だろうか、グラフだろうか。帰って来たここがどかかわからないが、また、ということばがいい。最初と最後に出てくる」「数学の先生なのだろうか。図形が詩になるのは美しい」「図形は、どこから始まってどこへ行くのか。帰ってくる、がいい感じ」
 何を書いていいかわからないときがある。何を書いていいかわからない、と書いても、それは詩になる。

メッセージ  徳永孝

夕暮れの空に広がる
薄墨と朱の雲
空のお習字

空の言葉は
人の言葉と違うので
何て書いてあるのか
分からないけれど

素的な言葉が
そこに存りそう

 「空の表情は変化が激しい。それをことばにするのは難しいが、それを書いているのがいい」「朱ということばから、習字の先生が朱色の墨で指導するのを思いだした。朱という色が、次の習字のイメージとしっかり結びついている」
 この指摘は、とても鋭い。薄墨の「墨」とも呼応している。ふつう、夕暮れの雲は赤とか、茜とかいう。朱もその一種に入るが、朱によって「習字」が自然に登場する。さらに、その「習字」から「言葉」も必然のようにして生まれてくる。「字」が「言葉」を連想させるからだ。
 連想の呼応が、とても自然だ。

 

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La MEMORIA

2021-12-04 00:01:19 | 

La MEMORIA

 

La memoria se ha ido como el agua de un río.

Nunca volverá.

En esa habitación había un jarrón.

El sol poniente se colaba por una fina cortina.

La sombra del ciclamen en la mesa.

"Esta flor florece mirando hacia abajo"

Tus ojos la miran suavemente desde abajo.

Me ayudaste a quitarme la camisa.

Tus dedos se detuvieron por un momento en mi pecho.

Contuve la respiración y esperé

Que ellos comiencen a moverse de nuevo.

Cuando no pude soportarlo y exhalé,

tus dedos se habian movido..

No recuerdo después de eso.

La memoria se ha ido como el agua de un río.

 

La memoria está esperando

en esa habitación que nadie visita

con el ciclamen.

 

yachishuso

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「現代詩手帖」12月号(思潮社)

2021-12-03 11:22:42 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(思潮社)

 1月8日、福岡に雪が降った日、私は転び、骨折。3か月入院した。それだけが原因ではないのだが、今年は、あまり詩を読まなかった。「現代詩手帖」が「2021年代表詩選140篇」を掲載している。以前、一回やったことがあるが、全作品を読んでみる。初出詩誌の紹介は省略する。

石松佳「sonf of experiencia 」

きみが完璧なあらしの絵を描いてみせたとき、驚いて水銀体温計を割ってしまった子がいた。その子はぽろぽろと顔をこぼしはじめて、帽子を目深に被った。カーテンと林檎。潮の匂いのする、朝だった。

 書き出しの部分。体温計の水銀が「ぽろぽろ」と転がるシーンと、子どもの涙の「ぽろぽろ」が呼応する。石松は「水銀のぽろぽろ」「涙がぽろぽろ」とは書かない。書かないけれど「ぽろぽろ」でふたつを結びつける。書かないこと(書いていないこと)を読者にまかせる。そのまかせ方が堂にいっている。「ことばの肉体」が生きている。だから高く評価されるのだろう。(「ことばの肉体」という表現で、他人が評価しているかどうかは、私は確認していないが、私は「ことばの肉体」ということばをつかいたい。最近、野沢啓の文章を読んで、その問題を考えているので。)
 ただ、私は石松の「ことばの肉体」は、かなり古いと思う。秋亜綺羅がH賞の選考で、石松の詩は古い、と言っていたが、私もそう思う。この詩で簡単に言えば「水銀時計」である。いま、それを見る機会があるだろうか。私の家には15年ほど前までは「水銀体温計」があったと思うが、いまは、ない。デジタル式の体温計だ。そのなかに水銀がもしかしたら入っているかもしれないけれど、知らない。つまり、意識しない。もちろん、忘れられた存在をもう一度ことばのなかに復活させるというのは、それはそれで楽しいが、何か違うなあ、と感じる。「ことばの肉体」は「正確」だと感じるが、「肉体のことば」が交錯してこない。あくまで「ことばの肉体」だけが動いている。
 この詩で「肉体のことば」を探すとすれば「潮の匂いのする、朝だった」の読点「、」だろうか。「潮の匂いのする朝だった」ではなく、途中に読点「、」がある。「匂いを感じる」ときの「肉体」、それが「朝」ということばに結びつくまでの「呼吸」の「深さ」、その実感が「、」に託されている。それをわかった上で言うのだが、私は、この読点「、」が嫌いだ。生理的に受け付けない。私の肉体が受け付けない。「意味」に飲み込まれすぎている、整いすぎているからだ。つまり「肉体のことば」が「ことばの肉体」のなかに完全に飲み込まれている。いや、読点「、」による「切断」があるというかもしれないが、逆に「、」による「接続」とも言えるだろう。私は、ぞっとするのである。
 私が大好きな「乾河」の齋藤健一なら、この部分を「潮の匂いがする。朝だった。」と句点「。」にするだろうと思う。鴎外も、そうするかもしれない。「ことばの肉体」よりも、「肉体のことば」を優先させるだろうと思う。

石田瑞穂「夜の雄牛」

     体の形に凹んでは
  忘れられた干し藁をおもわせる
  生き物が寝息をたてている
だれにも聴こえないし
聞く者もいない でもかすかに

 牛を見ながら(牛でなくてもいいが、つまり「牛」を比喩と考えてもいいが)、牛ではなく牛の重さによって凹む干し藁を見る。見えないものを見る。ここに「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯する。干し藁に寝転んだことがある。そのときの石田の肉体の記憶がことばになって見えない現実を浮かび上がらせる。詩の冒頭がふぞろい、しかも書き出しがぐんと沈んでいるのも、この記憶の干し藁のためかもしれない。技巧的である。
 石松もそうだが、石田も非常に技巧的だと思う。
 さて。
 私は、ここでも石松に対して抱いた疑問を繰り返そう。わかるけれど、ほんとうに牛を見たことがある? 干し藁を見たことがある? 私は山の中の小さな農村で育ったので牛も干し藁も見ているし、触ったこともある。耕運機のない時代、牛は田を鋤くのに駆り出されていた。でも、その牛を見たのも半世紀以上も前だ。中学を卒業して以来、見ていない。
 どうして「牛」と「干し藁」と書いたのか。比喩なら、もっとほかにも考えられるだろう。

榎本櫻湖「Helvetica Actibiy 、(浜辺で、あの頃のわたしたちはいつも溺れていた)」

そこからくわえてイヤフォン、あるいはヘッドフォンの、ビニールにくるまれた銅線が長く海岸線をひく彼方にあわくあらわれた伝説上の大陸の均衡をたもった巨大な土台のしたに、さらに巨大な頭足類の吸盤が嵌めこまれた時計仕掛けの触腕が、深夜の街道を走るタクシーのバックミラーに映りこんでいるので、水と泥によってなりたっているひとびとの記憶と肉体の関連のなかに、ではそのときあなたはなにを殺めようと手をのばしたのだったか?

 私が注目したのは「あるいは」「さらに」「では」ということばである。それまで語ったことばでは足りない何かがある。だから「あるいは」と言いなおす。「さらに」と追加し、その上で「では」と結論まで求める。この「ことばの肉体」に必然性があるか。あるのだ。そう書かずにはいられないという欲望。それは本能だろう。
 他人の本能や欲望というのは、わかるときもあるし、わからないときもある。引用した部分に「均衡」ということばがある。「イヤフォン(ヘッドフォン)」という小さなもの、あるいはコードの中の「銅線」という細いものと「伝説」「巨大」ということばが指し示すものの対比。「吸盤」から「触腕」「手」ということばがつならるときの、なんというか、しつこさ。その「しつこさ」が再び「あるいは」「さらに」「では」を思いださせる。

岡本啓「野ウサギ」

なにを眺め
なにを見落としているのだろうか
しゃがむと
野ウサギはまだあたたかたった

 「水銀体温計」「牛」「野ウサギ」。こういう郷愁をさそうものから書き出すのが、いまの詩の「流行」なのだろうか。
 岡本の詩の場合、このあとハイウェイが出てきて、「野ウサギ」の場所が、ありうる場所として書かれているのだが、作為的に感じられる。
 実際の体験を書いているのかもしれないけれど、「ことばの肉体」が勝手に動いているのかもしれない。

あと数分でついえてしまう
野のむき出しの魂

 私は「魂」というものを見たことがないので、とくにそう感じるのかもしれない。

海東セラ「窓辺だけの部屋」

あのときことばがあってよかったのは曲がったさきにないものを見破ってくれるためで、何ごとかを書きつけるうちについ窓枠を踏み越えて、と千鳥はいうのです。

 「ことば」とは、「(見え)ないものを見破ってくれる」。「書く」と境界線を「踏み越え」ることがある。「ことばの肉体」を「肉体のことば」で制御しながら動いていく。交渉しながら、と言い換えることもできる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇125)Jose Enrique Melero Blazquez

2021-12-02 10:51:38 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez

El espíritu del Quijote

 

En el momento en que lo veo, entiendo que él es Quijote. ¿Por qué?

Por la barba y las bigotes. Ellas sobresalen de la cara.

Probablemente exista el espíritu del Quijote en este verbo "sobresalir". (はみだす、en japones: HAMIDASU) Al "sobresalir", el viejo hidalgo se convierse en Quijote.

El anciano se ve atraído y se sumerge en la historia del "Caballero andante", que puede reformularse como "sobresaliendo" del "mundo real"..

 

Lo interesante de este trabajo son los ojos y la boca.

Los ojos ven cosas. La boca habla cosas.

Lo que ve el Quijote es invisible para nosotros.

Pero cuando él habla algo lo que ve, sabemos lo que él ve a través de sus palabras.

Los ojos son las ventanas del corazón, y las palabras son también las ventanas del corazón. Las palabras son la ventana del espíritu.

Las bigotes y la barbas enfatizan la presencia de la boca y la "ventana" por donde salen las palabras. Los dientes, también, enfatizan la boca. Se enfatizan las palabras y la voz.

Pues recuerdo al Quijote.

 

見た瞬間、キホーテとわかるのはなぜなのだろう。

髭のせいだろう。顔からはみ出している。

この「はみだす」という動詞のなかに、たぶんキホーテの精神がある。「はみだす」ことが、キホーテになることなのだ。

キホーテ自身は「遍歴の騎士」の物語のなかに飲み込まれていったのだが、それは「現実の世界」から「はみだす」と言いなおすことができる。

何かに飲み込まれるのは、はみだして生きることなのだ。

たとえば、恋に飲み込まれれば、だれでも世間からはみだす。世間が気にならない。間違っているのは世間。恋に間違いがあるはずがない。

 

この作品でおもしろいのは、目と口である。
目はものを見る。口はことばを発する。

彼が見ているものは、私たちには見えない。

しかし、その見たものをことばにして語るとき、私たちはことばをとおして彼が見たものを知る。

目は心の窓というが、ことばもまた心の窓なのだ。ことばは精神の窓なのだ。

三本(?)の髭は、口のありか、ことばが出てくる「窓」を強調している。歯も、髭と同じように、口を強調している。ことばを、声を、強調している。

だから私はキホーテを思い出す。

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野沢啓「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」

2021-12-01 14:18:03 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」(「走都」27、2021年11月30日)

 野沢啓「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」は『言語隠喩論』のつづき。感想を書く前に、少し私自身の基本的な考え方を書いておく。野沢が書いている「身分け=言分け」と関係している。
 私は「一元論」を目指している。かなり極端な「一元論」である。簡単に言えば、この世界に存在するのは「私の肉体」だけ。ほかは何も存在しない。他の存在は「私の肉体」が必要に迫られて生み出したもの、ということである。いわゆるこころとか、精神とか、魂というものは存在しない。肉体が生み出すことができるものに「ことば」がある。声がある。「ことば」はこころや精神に似ていて、つかみどころがないようにも感じるが、「文字」によっても確認することができる。その「ことば」と「世界」との関係は、「ことば」がとどくところ(ことばとして、声にだし、書くことができる、読み返すことができるところ)までが「世界」である。「私の肉体」は「ことば」によって「肉体」の領域からはみ出し、その周辺に、いわゆる「他者」を生み出し、その「他者」と「私の肉界」の交流のなかで世界は複雑化していくが、同時に単純化もされる。いつもすべての「他者」を存在させて「関係」を維持しているわけではない。必要に応じて「他者」を呼び出し、そこで「世界」を確認していることになる。そうであるはずなのに、「世界」は存在しているようにも見える。なぜなんだろう。私は「ことばの肉体」という言い方で、それと向き合っている。「私の肉体」があるように、生み出された「ことば」はさまざまな「ことば」と関係しながら「ことばの肉体」として存在をたしかなものにしていく。「ことばの肉体」を確立していく。
 それは、ときには「私の考え」を裏切る。つまり「私の考え=私の肉体」を否定しようとする。そういうとき、それははっきりした「他者」という形をとる。どう向き合っていいか、わからない存在として目の前にあらわれてくる。「私の肉体/私のことばの肉体」が何らかの形で変化しないと、世界というものが一瞬にして消えてしまう。再び、最初からやりなおさないといけない。つまり、「私自身(私の肉体)」をつくりかえないといけないことになる。そうしないと「一元論」ではなくなる。究極の「多元論」になってしまう。もちろん「多元論」になってしまっていもいいのだけれど、私は我が儘な性格だから、「多元論」ではなく「多様論(?)」として共存したいのである。「多様な私の肉体」という形にならないかなあ、と思ったりする。
 何のことか、わからない、と言われそうだが、それはそうなのである。私は「結論」をもっていいないし、結論を壊しながら考えるというのが私のやっていることである。つまり「ことば」を書いているときだけ、そのことばのとどく範囲で私が存在していると考えているのである。そして、いま書いたようなことを、さまざまな「ことば」を読むたびに繰り返しているというのが私の生き方なのだ。

 で。
 「立原道造の詩のかたち--言語隠喩論のフィールドワーク」。野沢は、「のちのおもひに」を取り上げて「完成度の高い作品」と評価し、「日本の抒情詩の最高傑作」(郷原宏)と呼ばれる理由を考えている。そして、こう書いている。

〈だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……〉のフレーズこそ、立原がこの詩を駆動させる決定的な原点であったのではないか。すくなくともわたしの言語隠喩論の立場からはそう見えるのである。(略)〈だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけ〉るしかないことを立原は最初からわかっていたはずである。ひとは他人の細かい来歴やその見たもの聞いたことなどには関心をもたないものである。そういうありきたりな現実を若き立原がどこまで理解していたかはともかく、その鋭い直感が他者という存在との懸隔感をとらえないはずはない。しかし、にもかかわらず、立原はその懸隔感を書かずにはいられなかった。

 私がつまずくのは、立原の「だれもきいてゐないと知りながら語りつづけた」の「きいてゐない」を「関心をもたない」と野沢が言いなおしていることである。私はこの「きいてゐない」を「関心をもたない」とは受け止めなかった。「わからない」と受け止めた。
 「関心をもたない」か「わからない」か。
 この違いの中に、私と野沢の「身分け=言分け」という表現に対する違いがある。
 「だれも聞いていない」をいう表現を、どういうときにつかうか。たとえば、会社か何かのあつまりで上司が「開会の挨拶」をしている。「だれも聞いていない」。これは、野沢の言うように「関心を持たない」である。私の場合は。
 でも、ほかにも「だれも聞いてない」のつかい方がある。野沢は『言語暗喩論』でとても大切な問題提起をしている。しかし、だれもとまではいわないが、多くの人は「聞いていない」。これは「関心をもたない」ということもできるが、野沢から見れば、「だれもわかっていない」の方が近くないか。
 「だれにもわからない」。けれど、書かずにはいられない。
 これが、この一行を書いたときの、立原の実感ではないのか。主観ではないのか。
 「関心を持たない」では、なんというか、客観的すぎる。

 「主観」「客観」と「一元論」を考えるとき、「一元論」は「主観」である。「私の肉体」しか存在しない。「主観」しか存在しない。私は「客観」というものを、疑っているのである。
 ことばを読むときは、そのことばの「主観」を読むのであって、「客観」など読みはしない。「主観」に「主観」を重ねて、「主観」そのものになる。
 ちょっと脱線した。脱線でもないかもしれないが。いや、ほんとうにいいたいのは、このことなのだ。野沢のことばは「客観」的でありすぎる。

 別な例で考えてみる。言いなおしてみる。親が子どもに「ちゃんと聞いて」と叱る。これは「関心を持って」ではなく「わかって」であろう。そしてその「わかって」は「わかったことを実行しなさい」である。つまり「肉体」を「わかったように」動かしなさい、である。
 「聞く」という「動詞」は、その先に別の「動詞」を必要とする。「肉体」を必要とする。
 もちろん「関心を持つ」も「持つ」という「動詞」を呼び寄せるのだが、あいだに「関心」という別なことばがはさまってくる。「直接性」がそこなわれる。「間接性」によって「客観性」を確立するとも言えるが、これは、綿の感じ方ではまだるっこしい。
 親の「ちゃんと聞きなさい」は「関心を持って」ではない。「わかって」をさらに通り越して、「こうしなさい/こうしろ」という命令にもなる。親が子どもの肉体を強制的に動かそうとしている。親の「聞きなさい」は、親の肉体を通り越して子どもの肉体に働きかける。
 立原の「きいてゐない」は、どちらなのか。こういうことは「好み(主観)」の問題だから、どうでもいいといえるが、逆に「主観」の問題だから大切だとも言える。

 繰り返しになるが。
 いま書いたことに関連して言えば、私が野沢の書いていることについて不満を持つのは、野沢の書いていることが「客観的」すぎるからである。この「客観」は、もちろんイヤミである。「客観」を野沢は何によって「客観」にするかと言えば、西洋の哲学である。野沢が引用している西洋の思想家は日本の現代詩について語っているわけではない。そういうことばを日本の現代詩の問題を解説する「証拠」としてつかっても「証拠」にはならない。ときには日本の文献もつかっているが(この評論では日本の文献をつかっているが)、西洋哲学の方が多い。そして、それぞれの思想家の主張は、それぞれの個人と向き合うだけでも膨大な時間が必要である。「主観(もちろん私の主観にすぎない)」が入り込みにくいテキストを引用している。引用されている西洋哲学を「主観(自分自身の実感)」として把握し、そこから(つまり引用されている外国人哲学者の瞬間から)野沢の書いていることを点検することは、よほどその哲学者を研究した人しかできないだろうと思う。
 これは、つまり、なんというか。
 引用されているテキストが「絶対」であるという前提に立って、野沢のことばを補強するという「関係」がそこには存在している。こういう「補強」を、私は、うさん臭いと思う。外国の哲学者がこういっている。だから野沢の書いていることは間違いがない。
 政治家が新しい事態を説明するのに、やたらとカタカナ語をつかうのに似ている。このことばを知らないヤツは何も知らない。何も知らないヤツは、黙って従え。
 それはそれでいいときがあるかもしれないけれど、文学に関しては、私はいつでも「正解」を求めているわけではない。だいたい「文学」というのは、まったくの個人のもの。自分だけのものである。それに「一元論」なのだから「正解/誤解」というものはない。そのとき、ある世界がそういう姿として私には見える、というだけなのであるから。
 言いなおすと、野沢が「客観」を目指せば目指すほど、私には野沢の「主観」が見えなくなる。いったい私は野沢の文章を読んでいるのか、それとも外国のだれかが言ったことばを読んでいるか。だれと向き合って対話すればいいのかわからなくなる。 

 もう一か所引用する。

軽井沢追分と思われる風土とそこに存在した自身の姿がおのずから投影されたひとつの世界があらわれたのだが、それこそ立原自身の言語的営為がもたらした世界で唯一無二の隠喩的世界なのである。言うまでもなく、この独自の世界は立原の言語がみずからの意志で構築したものである。

 「言語がみずからの意志で構築したもの」を、私は「ことばの肉体」と呼んでいる。そこに「立原の(個人の名前)」をつけくわえると「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯する。結びつき、分離できない形でうごめく。ここにも「身分け=言分け」という考えが関係してくる。ただし、私の言う「身分け=言分け」と野沢の言う「身分け=言分け」はまったく「出自」が違う。私は野沢が参照した本を一冊も読んでいない。
 「きいてゐない(聞いていない)」にもどって言うと、私は立原の書いている「きいてゐない」(聞かない)を、野沢が書いているように「関心を持たない」だけではなく、駄々っ子相手の親の「聞いていない(親)/わからない(子)」に広げ、さらに「しなさい」という命令にも広げる。そこから逆に、子どもの「聞いて/わかって(ほしい)」という欲望も聞く。そういういろいろなことが重なり合って「聞く」ということばの「意味」は複雑になっていく。これは「私の肉体」のなかにだけではなく、「ことば」そのもののなかにも蓄積してくる。そして、その蓄積が、いくつもの場面で、いくつもの形で、そのつどあらわれてくる。その「蓄積」を、たとえば私は「文学」のなかに見る。それは「私の肉体」を超越している。
 この問題を追いかけていくと「一元論」は破綻するように見える。しかし、「論理」というのはどんなときでもそうだが、結論のためなら何でも捏造してしまうから、「この問題を別の角度から点検すると」というような便利な方便でやってのけることも可能とは言える。だからこそ、私は「結論」とか「論理」というものを信じていないというか、常に自分の考えたことを否定するためにだけ考えようとするのだが……。
 また脱線。
 たとえば、この「ことばの肉体」の愛好者として、私は高貝弘也や那珂太郎を思い浮かべるが、西脇順三郎もそこに連ねようと思えば連ねることもできるし、それこそ立原道造もつなげることができる。「文学」に関係している人なら(関係していなくても)、すべてのことばが「文学の肉体/ことばの肉体」と関係している。立原が採用している「ソネット」という形式は「ことばの肉体」のひとつである。それは立原が独自につくりだしたものではなく「ことばの肉体」がつくりあげたものとして、立原がことばを動かすときにすでに存在していた。
 一方、「肉体のことば」というものもあって、これは駄々っ子の「買って、買って」というときの「肉体」そのものの動きのなかにもある。「ダメ」というのは「わかっていて」、それでも「買って」というとき、ことばだけではたたないものを「肉体」そのものとして動かすのである。そしてこのときいちばんややこしいのは、子どものなかには親の「ことば」が「わからない」のではなく、「わかっている」子どももいるということである。「聞かない」のではなく「聞いてしまっている」。心底わかっている。わかっているからこそ、わかりたくない。「ことばの肉体」を超えたいと思う子どももいる。「ことばの肉体」を超える「ことばの肉体」が必要だが、それを子どもは持たない。だから「肉体のことば」に頼るしかない。「ことばの肉体」と「肉体のことば」は、すれ違っているか、入れ代わっているか、ときにはわからない。
 私は、こういうことは、わからないままにしておく。「わからないままにしておく」ということが「わかる」ということでもあるからだ。なるようにしかならないのである。
 いまこの文章も、それに似ているかもしれない。

 

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