詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)

2022-05-01 17:30:36 | 映画

マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)(2022年05月01日、中州大洋、スクリーン4)

監督 マイク・ミルズ 出演 ホアキン・フェニックス、ウッディ・ノーマン

 「ジョーカー」でアカデミー主演男優賞をとったホアキン・フェニックスが、わがままな子役を相手にどういう演技をするか。それを期待して見に行ったのだが、おもわぬ収穫もあった。物語の舞台が次々にかわっていくのだが、モノクロの映像が、登場人物の表情に焦点を当てるので、見ていて意識が散らばらない。舞台(都市)の変化をきちんととらえながらも、それがうるさくない。都市の表情、その情報量が抑制され、人間の心理の変化が際立つ。画面の切り替えが多いし、「字幕情報」も多いのだが、モノクロの映像が、そのままストーリーの中心になる感じがする。モノクロ映画は、やっぱりすばらしい。
 ホアキン・フェニックスは演技をしているというよりも、子役のウッディ・ノーマンにあわせて反応している感じ。自分で演技し、世界をつくっていくという感じではない。「ジョーカー」と正反対の演技をしている。しかも、それがこの映画にはぴったりなのだ。なんといっても、ストーリーは感情の起伏が激しい子ども(甥)にふりまわされるおとなという役所なのだ。しかも彼は単に子どもにふりまわされるだけではない。彼は自分なりの信念をもっていて、その信念ゆえに妹とも対立している。いわば「理想」をもった頑固者なのだが、それが子どもに揺さぶられて、かわっていく。
 しかもね。ホアキン・フェニックスの映画の中での職業が、子どもをインタビューしてまわるラジオ局員というのも、とてもおもしろい。子どものことをある程度わかっているはずが、わかっているつもりだが、実際に子どもと暮らしてみると、知っている子どもとはぜんぜん違う子どもが大暴れする。どう対処していいかわからない。そういう、なんというか、大人の「自信」を打ち砕かれる過程を描いているのである。「自信」というのは、他者に対して、おうおうにして「殻」のような働きををしてしまう。それが破れたとき、彼自身も解放される。その、不思議な幸福感。
 さらに、その変化の結果として、子どもとの信頼関係ができ、一線を越えるというと変だけれど、まるで「理想の父親」のようになってしまう。しかし、そこから「叔父」にもどらなければならない。そうしないと、ほんとうの父の方が不幸になってしまう。で、当然のことだけれど、そこから引き返す。その瞬間に広がる、彼の世界の幸福の多様さ。これが、とてもいい。
 そこから耳を澄ませてみれば、それまでにインタビューしてきた子どもたちの「未来」に対する考えの、なんという美しさ。子どもがインタビューに答えたことばに変化があるわけではないが、子どもの声が「純粋」に響いてくる。ラストのクレジットで、その声がかなり長く紹介されるのだが、とてもいい。
 それにしても、ホアキン・フェニックスの、自然な演技のすばらしさ。「クレイマー、クレイマー」のダスティン・ホフマンの演技よりも自然に感じられる。そして、この演技を自然なものにしているもうひとつの理由が別にある。「ジョーカー」では非常に痩せた肉体で、存在の異様性を前面に打ち出したホアキン・フェニックスだけれど、今回はシャツの上からも(背中からの映像だけでも)、でっぷりと太った「ふつうの中年男」になっている。このふつうの感じが、ほんとうに、とてもいい。ここに描かれているのは、どこにでもあり、またどこにもない幸福である。どこにもない幸福が、どこにでもある(どこででも実現できる)ように具体的に描かれている。その細部の美しさ、確かさ(存在感)がホアキン・フェニックスのだらしない(?)太った肉体にあると書くと、叱られるかな? ホアキン・フェニックスのファンからは。しかし、太っても、美形だね。

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最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)

2022-05-01 10:55:21 | 詩集

 

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「紫陽花の詩」は、タイトルが最後に書かれている。とつぜん本文が始まり、最後がタイトル(だと思う)。

ぼくはきみの友達ではない、
インターネットを見るとき、街を見るとき、
いつも思っていることがあなたには伝わらない、
ぼくはきみの友達ではないが、きみは生きている、
そのことがよくわからない。

血を出すような怪我をしたときや、
優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた人間たちは、
誰もが生きていると口々に言うがそれは、
恋をしているだけなんだ。節操もなくぼく以外、
誰も彼もに恋をして、雨に濡れた葉っぱさえ美しく見えるんでしょう。
季節なんて、腐り落ちてしまえ。


紫陽花の詩

 同じようにタイトルが最後に書かれた作品があるかどうか、まだ、わからない。私は、読んだ順序にしたがい、思いついた順序にしたがい、書いているので、「全体」のことは考えない。
 この詩では、一連目の、

いつも思っていることがあなたには伝わらない、

 がとても印象に残る。思っていることは、いつだって相手に伝わらないだろうなあ。それが生きていることだと私は半分納得している。だから、あ、そうか、最果もそう思うことがあるのか、と親近感を覚えるのである。
 この行の後で「きみは生きている、」があり、その「生きている」が「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」と交錯し、ひとつになる。切り離せないことばとして動く。でも、そこにほんとうに「脈絡/論理」があるか。「そのことがよくわからない。」「論理」がなくても、まあ、つながるのだと思う。「感じる」と言いなおせばいいのかもしれない。ここには、明確な論理にはできないけれど、出会いながら、瞬間的に照らしあうことばがある。
 二連目は一連目を言い直しているのかもしれない。「思っていることが伝わらない」とはどういうことか。それは「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」ということなんだろうなあ。優しくしたのに、優しさを誤解される。思っていることが伝わらない。そして、それだけではなく「そのままにされる」、つまり放置される。それは「こころが(優しさが)血を出す」、つまり「こころが(優しさが)怪我をする」ということなのだ。
 きっと、行を逆に読んでいけばいいのだ。
 「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」、それはこころが「血を出すような怪我をした」ということだ。そして「「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」というのは「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」ということでもある。
 「生きる」ということは「誤解される」ということ。そして、この「誤解」は「恋」と呼ばれる。「誤解してそのままにされた」とき、恋しているのだと気づく。恋して、誰かのために何かをしたのに誤解され、そのままにされる。その、どうしていいかわからない瞬間の「こころの出血、怪我」。「生きている」と感じる。もし、誤解されず、思いが伝わってしまうならば、それは恋ではない。
 矛盾だね。
 「ぼく」だけではなく、「節操もなく」「誰も彼も」、「雨に濡れた葉っぱさえ美しく見える」のが、しかし、「恋」でもあるのだ。「ぼく」に対して恋しているからこそ、ほかのものすべてが「美しく見える」。それは恋しているというか、恋して恋されていると感じるときにそうなのかもしれないが。
 「季節なんて、腐り落ちてしまえ。」と叫びたい衝動。ここから、少しずつ落ち着き「ぼくはきみの友達ではない、」と自分自身に納得させる。その過程で、「恋」について思う。生きているということについて思う。

 ことばは、たぶん、どこから読み始めてもいい。最初から読もうが、最後から読もうが、そこに書かれていることに変わりはない。途中から読んでもいい。「結論」というものはないからだ。「ことば」は瞬間的に入り乱れたまま、同時に生まれてきて、同時にさまざまな方向へ散らばっていく。
 だから、「結論」ではなく、ことばが「生まれる瞬間の、その場」が大事なのだ。和泉式部は、「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」と書いたが、ことばが生まれる場が「魂」かもしれない。私は「魂」というものが存在するとは思っていないが、最果が「魂はある」というなら、それを信じたいという気持ちになる。
 「魂」はきっと透明なのだろう。そのため、私のような、テキトウな人間には、その「透明」が見えないのだろうと、ふと思うのである。最果の「透明」はたとえばダイヤモンドや何かのように光を反射して輝くというよりも、「透明」ゆえにそのなかに知らずに入り込んでしまうような世界だ。「透明な繭」に閉じ込められて、うまく他人と接触できない苦悩の原因のような、やわらかくて、静かな苦しみ。その乱れる「軌跡」としての「ことば」が動いている。

 

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戦争とことば

2022-05-01 09:36:54 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻、その戦争。この報道をめぐることばには様々な問題がある。読売新聞を引用しながら何度か書いてきたが、別の問題(たぶん他紙にも共通するだろう)について書くことにする。
 読売新聞は、自民党寄り、あからさまにアメリカ戦略の宣伝機関となって報道している。しかし、その読売新聞(西部版、朝刊14版、夕刊4版)が、こんな見出しをつけている。①は2022年05月1日朝刊、②は2022年04月30日夕刊。

①ウクライナ/露軍 東部拠点で「停滞」/イジューム 激しい抵抗受け
②ウクライナ/露軍 東部作戦に遅れ/米分析「補給維持へ慎重」

 私は、ロシアの侵攻を正しいとは一度も思ったことはないし、かならずロシアが敗退するだろうと思っているが(その理由はすでに書いた)、つまり、ロシアを支持するのではなく、ウクライナを支持するのだが。
 その私が、この見出しを読んで感じることは、ただひとつ。
 この見出しはロシア側からの視点で書かれていないか。主語が明確になるように助詞を補えば、こうなる。

①ロシア軍がウクライナ東部の拠点で停滞している。
②ロシア軍のウクライナ東部での作戦が遅れている。

 これでは、ロシア軍の活動に対して、「もっとがんばれ」と言っている印象を引き起こさないか。少なくとも、私は「ロシア軍、がんばれ」と言っているように読んでしまう。これは、「露軍」を「日本軍」と書き換えれば、すぐわかる。

①日本軍 東部拠点で「停滞」
②日本軍 東部作戦に遅れ

 こうだったら、私は愛国者ではないけれど、多くの日本人はどうしたって「日本軍、がんばれ(負けるな、勝て)」と思うだろう。書かれた「主語」にあわせて、読んだ人間の感情は動く。
 もしほんとうにウクライナの人々のことを思うなら(読売新聞が、単に自民党の政策にしたがっている、アメリカの政策を宣伝しているのではないと主張するなら)、もっとウクライナの人々の立場で見出し、記事を書くべくだろう。読売新聞(日本語版)をウクライナの人が読むわけではないと考えるから、こういう見出しがつくのかもしれない。日本に避難してきているウクライナの人もいるが、その人たちがこの見出し、記事を読んだらどう思うか、考えたこともないのだろう。
 ウクライナを主語にするなら、こういう見出しが考えられる。

①ウクライナ 東部制圧許さず
②ウクライナ 侵攻拡大阻止

 これなら、私は、「ウクライナ軍はがんばっている。ロシアの侵攻を許すな」という気持ちになれる。
 「新聞には文字数の制限がある、だからウクライナを主語にして見出しをつけるのは困難」というかもしれない。でも、それを工夫するのがジャーナリズムズ働いている人間の務めだろう。

 で、ここから翻ってあれこれ思うのだが。
 読売新聞にしろ、その主張の基盤になっているアメリカの方針にしろ、ウクライナの側に立って、ウクライナの安全を守り、戦争を終結させる、奪われたウクライナの領土を取り戻すという「思い」がないのだろう。
 では、読売新聞やアメリカは、どう思っているのか。
 戦争の長期化、拡大を心配するふりをしながら、実は、戦争の長期化を願っている。戦争がつづく限り、米の軍需産業はもうかる。経済制裁により、ロシア経済は弱体化し、ヨーロッパとロシアの経済関係も破綻する。(ロシアはヨーロッパでは金を稼ぐことができなくなる、ヨーロッパ市場をアメリカが支配できる。)核戦争は困るが、戦争がウクライナでつづいているだけなら、これはアメリカ経済にとっては好都合なのだ。
 もちろんアメリカでも市民は「物価高」に苦しんでいる。しかし、それは「プーチンのせい」と言ってごまかすことができる。アメリカでは、軍需産業だけではなく、たぶん「石油産業(化石燃料産業)」も膨大な利益を上げているはずである。それだけではなく、以前書いたことだが、どうやらこの「石油危機」に関係づけて、ベネズエラにもさらに圧力をかけるつもりらしい。読売新聞は、いちはやく、ベネズエラ難民をテーマにした記事を書いている。ベネズエラの現政権を倒さないと、ベネズエラの市民の生活はよくならない、と「アメリカの主張」を代弁している。
 さて、「戦争」を利用した「石油産業(化石燃料産業)」の金儲けは、「戦争」の影響でわかりにくくなっているが、「地球温暖化問題」を「情報」のわきへ押しやっている。電気自動車のことがときどき書かれるが、電気自動車が主流になるまでに、いったい石油はどれだけ売れるのか。「石油危機」(たとえばガソリン高騰)という大宣伝のかげで、いまこそアメリカの石油産業は金儲けのチャンスと喜んでいるだろう。だれもアメリカの石油産業に対して「石油の消費は地球温暖化を招く、売るな」とはいわないだろう。「石油が足りない、売ってくれ」というだけだろう。「石油産業」は批判の対象ではなくなったのだ。
 ウクライナの戦争で、多くの市民が死んでいく。同時に、経済戦争が引き起こした物価高が原因で死んでいく人も増えるだろう。さらに、地球温暖化のせいで死んでいく人もいるだろう。戦争での犠牲とは違って、物価高(貧困)も地球温暖化のために死んでいく人というのは「視覚化」されにくい。死ぬまでの時間も長期間であるから、原因の特定にはなりにくい。
 でも、問題は、そういう見えにくいところにある。
 私たち市民は、そのひとりひとりは「権力」からは「見えにくい」を通り越して「見えていない」だろう。
 この「見えにくい」ところで動いていることばを、なんとしてでも、明確にしていかなければならない。戦争が起きているいまこそ。

 銃を持たない(銃をつきつけられたら反撃できない)というふつうの市民、物価高が進めば生きていけない市民、地球温暖化のために起きる環境破壊によって死んでいく市民。そこから世界をとらえ直し、そのことばで世界を描きなおし、それを提示することがことばにたずさわる人間の仕事だろう。
 「ことば」は思想であり、その思想というものは、たとえばヨーロッパの思想家の著作の中にだけあるのではなく、「えっ、カップラーメンも値上がりするのか」という市民の声のなかにもある。そして、そういう市民の声の方が、より切実で、大切な思想なのである。そういうことを、いまのジャーナリズムは忘れている。それが戦争を報道するときの「視点」のでたらめさに、端的にあらわれている。
 誰の立場から書かれているか、そのことに注目しながら、新聞を読みたい。

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