詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(8)

2023-02-20 21:16:52 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(8)

 「声」は「死者の声」をテーマにしている。「私を捨てた人」だかけれど、私は思い出す。「ことば」ではなく、「声」を。そしてその「声」には「音調」がある。その「声/音調/音楽」を聞く瞬間を中井久夫は、こう訳している。

わが人生の最初の詩から帰ってくる。

 もちろん訳詩なのだから、そのことばはカヴァフィスが書いたものがもとになっているのだが、この一行は、訳詩の「間接性」を感じさせない。つまり、完全にカヴァフィスになって「声」を発している。
 それを印象づけるのが「わが人生の最初の詩」。
 この「わが人生の最初の詩」とは、いつ書いたものか。「私を捨てた人」に出会う前か、「私を捨てた人」に出会ったときか。出会う前にいくつも詩を書いていたとしても、出会ったあとに書いた詩が「わが人生の最初の詩」である。「私を捨てた人」に出会うことで、カヴァフィスの「人生」ははじまったのだ。
 中井久夫の「訳詩」、詩の翻訳者としての人生は、カヴァフィスの詩を訳すことではじまったと私は感じている。
 「帰ってくる」ということばも、とても強い。カヴァフィスが「思い出す」のではなく、「思い出す」という意識を超えて、「帰ってくる」。それは、詩人には制御できない何かである。ちょうどインスピレーションのように。詩のように。

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三木清「人生論ノート」から「旅について」

2023-02-19 21:41:08 | 考える日記

 今回の文章はかなり長いので、時間内に読了できるかどうか不安だったが、30分以上余ってしまった。作文の指導に30分くらいかけているので、実質1時間で読んだことになるが、これには驚いてしまった。
 もちろんまだ読めない漢字も多いのだが「解放乃至脱出」の「乃至」を「ないし、と読む。意味はイコール(ひとしい)に近い」と説明すると「いわゆる、または、に似た感じ?」という鋭い指摘。
 三木清は反対概念を結びつけたり、ひとつのことばを別のことばで説明し直したりしながら、彼の「思想(ことば)のニュアンス」を明確にしていくところに特徴があるが、その運動を的確に追いかけることができる。
 簡単な例だが、たとえば

 旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的関係から逃れることである。

 ここには繰り返し(言い直し)がある。その言い直しの説明を求めると「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」とてきぱきと答える。「日常の生活環境を脱ける」が理解できなくても「平生の習慣的関係から逃れる」が理解できれば意味がわかる。そういう「文体」を、ほぼ完璧に把握している。(これは、多くの著述家が採用している文体であり、また日本語に限らず、他の言語でもみられることだが、この言い直し=繰り返しを発見するというのは「読解」の重要なポイントである。)
 「旅」のひとつのテーマである「発見」についても、「発明」との違いを、三木清の文章を踏まえながら、自分自身のことばで語りなおす。
 今回むずかしかったのは、最後に出てくる「動即静、静即動」の「即」の把握の仕方である。「即」は単なるイコールではない。「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」のイコールとは違う。「即」は「切り離すことのできない」であり、それが、その直後に出てくる「自由」の説明にもなっている。
 この「真の自由」を理解するためには、その前に書かれている「物からの自由」と「物においての自由」を理解しないといけない。「物からの自由」は、いわゆる「脱出」、しかし「物においての自由」は、そこに存在する「物」を形成しなおす構想力(能力)のことである。
 私の説明で、どこまで「即」の意味が通じたか、すこしこころもとないが、「物からの自由」と「物においての自由」について話し合ったとき、彼の方から「形成」という三木清のキーワードが出てきたので、たぶん半分くらいは理解できただろうと思う。

 日本語の勉強もさることながら「三木清の文章がほんとうに大好き」と言ってもらえるのは、テキストに三木清を選んだものとして、こんなにうれしいことはない。次は、最終回。「個性について」。

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小池昌代『くたかけ』(2)

2023-02-18 15:31:26 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(2)(鳥影社、2023年01月26日発行)

 「葡萄の房」は、どう形を変えるのか。「7 ダルマさんが転んだ」に、唐突に新宿駅近くの歩道橋で「首吊り自殺」という形であらわれる。この自殺者は、どうなったか。いろいろ描写されたあとの、その最後。

 消防隊員が梯子をかけ、長く公衆の目に晒された死者に、ようやく青いビニールの覆いをかけた。その下から、どこにでもあるようなカジュアルシューズを履いた、二本の足が垂れて出ていた。

 この死者は、いったいどうなったのか。当然、道路に降ろされたあと救急車に乗せられたのだろうが、そういう動き、上にあるものは必ず下に降ろされることを、「二本の足が垂れて出ていた」で強調し、小説は、後半へ動き出す。それを加速させるのが、母の変化なのだが。
 もうひとつ、この「7章」には、「葡萄の房」の変形がある。
 これは「自殺者」に比べると地味なので見落としてしまうが、こちらの方が大事だろう。佐知の少女時代の思い出。植物園へ両親といっしょに行った。植物園に、母の家(実家)にある萩があり、そこから思い出が語られる。

植物園に、この萩の作る、見事な花トンネルがあり、父と母に連れられて潜った記憶がある。(略)三人家族で撮った写真があって、だからそれは、家族以外のだれかが撮ってくれたのだと思うが、両親二人に挟まれ、少女の佐知は、怒ったように不機嫌そうな顔でカメラを睨みつけていた。

 ここが、この小説の「伏線」のハイライトである。「葡萄」は「萩のトンネル」に変わったのであり、「自殺者」はこの「伏線」を見えにくくする「余分な補助線」だったのである。もちろん「死」を暗示する要素ではあるのだが。
 「萩」だけでは、「葡萄の房」(吊り下がったもの)にはならないが、「萩のトンネル」となれば事情が違う。萩の花は上にあり、そこから花びらが降ってくる。
 そして何よりも重要なのは、ここに「家族以外のだれか」がとても自然な形で、わざわざ書かれていることである。
 この小説では、小磯という男(家族以外のだれか)が、自然な形というか、拒否できない形で家族に侵入してくる(ある意味では、安部公房「友達」の逆バージョン)のだが、その「拒否できない形」というのが、たとえば、記念写真を撮っている家族連れに「三人一緒のところを撮ってあげましょうか」というような形の接近なのである。拒むことはできない。しかし、少女だった主人公は「怒ったように不機嫌そうな顔で」、その親切な人を見ている。
 これが、今後の小説の「展開」になっていく。
 このことを強調するかのように、先の文章には

だからそれは、

 という、非常になまなましい小池自身の「声」が書かれている。この「だからそれは」、書く必要のない「キーワード」であり、無意識に書かずにはいられなかったことばである。(この「だからそれは」は、また別な意味でのこの小説のテーマでもある。何かが起きた。その何かをどうして防げなかったのか。「だからそれは」という弁明スタイルが、この小説の時間を動かしているのだから。しかし、今回は、そのことには触れず「葡萄の房」の変化を中心に書いておく。)
 そして、「葡萄の房」は「自殺者」という異質なものをくぐり抜けたあと、「萩の花」をさっと駆け抜け、「声」に変わる。「声」は、ことばでもある。「ことば」と言い換えると、「小磯」が家族にどう影響しているかがわかりやすくなる。
 「萩の花」から「声」への変化は、(私は見落としているかもしれないが)、最初は別なものとして書かれる。
 母との同居を娘、麦に打診する。

 --いいじゃない。
 麦が言った。その声はどこか、上の方から降ってきた。

 「上の方から降ってきた」。上にあるものが、吊り下げままそこにあるのではなく、
下に「降ってくる」。「降ってくる」には、そういう「意味合い」がある。
 この「降ってくる」(降る)という動詞は、「12 鶏小屋」では、テニスコート(クレーコート)を見るシーンで、こんな具合につかわれる。

〈確か、この色、和名では「たいしゃいろ」というのだわ〉
 いつ、どこで知ったのかはまるでわからない。どんな字をあてるのかもわからないのに、そのとき佐知に、たいしゃいろという音だけが、確信のようにまっすぐに降ってきた。

 「声(ことば)」はさらに「音」になる。そこには「字(漢字=意味)」はない。それが「降ってくる」。しかも、それは「確信」である。「確信」というのは、その人の「内部」にあるはずのものだが、それが上から「降ってくる」。
 小磯は家族以外の人間である。しかし、彼のことばが「確信」として家族を動かしていく。その運動を、「葡萄の房」→(首吊り自殺)→「萩の花のトンネル」という名詞の変化のあと、「降る」という動詞を中心にして、「声(ことば)」→「音」→「確信」へと変化させながら、作品世界を粘着性(だからそれは、という「説明/説得力」)のあるものにしていく。(最初に登場する「キッチンテーブル」も、巧みにつかわれている。)

 短編小説において「小道具」がどんな具合につかわれているかを中心に書いてみた。私は「ストーリー」には興味がない。「文体」には興味がある。「思想」は「結末」として要約できるものではない。「文体」が「思想」なのである。

 


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(7)

2023-02-17 21:26:05 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「憧れ」は、死んだ男を見ている。「贅を凝らした廟」に収められた男を。簡潔に、その贅が描写されたあと、

それはそっくり--、

 この口語の一行が、体の奥を揺さぶってくる。ことばを整える(ことばの外観を整える)ひまがない。その「時間のなさ」が、主人公と死んだ男の「距離のなさ」を強調する。
 最近では、人が死ぬと、だれに対しても「亡くなった」ということばをつかう人が多い。「母が亡くなった」とか。私は「亡くなった」ということばは、「儀礼」というか、「距離を置いたことば」だと思う。つまり、知らない人に対してつかうことばだと思っている。でも、親しい人、肉親なら「距離」を置きたくない。だから、私は「母が死んだ、父が死んだ」と言う。
 中井久夫を、私は「知っている」と言えるほど知っているわけではないが、非常に影響を受けている。だから、やっぱり「亡くなった」とは言えない。どうしても「死んだ」ということばが出てくる。中井久夫が死んだ、と書かずにはいられない。
 これは、いま中井久夫と「敬語」をつけずに書いたこととも関係している。中井久夫は、私の「認識」とは関係なく「事実」として存在した人物である。それを「事実」として受けとめたいから、敬称をつけない。手放したくない。

 「憧れ」とは手の届かないものを指して言うが、やはり「手放したくない」ものだと思う。その「手放したくない」という生々しい欲望が「それはそっくり」という素早い口語のなかに動いている。「それはそっくり」ということばを挟んで、客観的な描写が、主観があふれる描写にかわっていく。そのことさえ予感させる、とてもすばらしい一行だ。

 


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Estoy Loco por España(番外篇302)Obra,Julián Vega Lavado

2023-02-16 08:13:33 | estoy loco por espana

Obra, Julián Vega Lavado 

 Las sombras en los árboles y en el agua.
 Pero tengo una ilusión. La arboleda parece un reflejo en el cielo.
 Las nubes del cielo parecen la superficie del agua mecida por el viento.
 Creo que también influye el hecho de que los árboles desnudos rompen la simetría y agrandan el espacio del lado derecho. Las olas parecen moverse.
 Me olvido de las sombras en la superficie del agua y me fijo en las "sombras" del cielo y en el resplandor del "agua fantasma" que las refleja.
 La inamovible quietud del árbol hace brillar las "olas fantasma".

 木立と水面に映った影。
 だが、私は錯覚する。木立は、まるで空に映っているようではないか。
 空の雲が風に揺れる水面のように見える。
 裸の木が左右対称を崩し、右側の空間を大きくしていることも影響していると思う。波が動いているように見える。
 私は水面に映った影を忘れ、空に映った「影」と、それを映す「幻の水」の揺らめきに見入ってしまう。
 木の、不動の静けさが、「幻の波」をきらめかせる。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(6)

2023-02-14 20:50:28 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「野蛮人を待つ」。いつの時代か。正字が頽廃している。だからこそ、敵が攻めてくる。それを待っているのだが、やって来ない。

「さあ、野蛮人抜きで わしらはどうなる?

 「野蛮人」だから、そこには蔑視が含まれている。しかし、憧れもある。野蛮な力は、破壊する力である。
 その野蛮人と対比される「わしら」。
 「わし」には何か自己卑下の響きがある。そして、それにつながる「ら」にと、十把一絡げの響きがある。
 「私たちはどうなる?」「我々はどうなる?」では、群衆(市民)の印象が違ってくる。
 「わしら」が「無力」をくっきりと浮かび上がらせる。それは「帝国」の無力ともつながる。「帝国」が無力なのか、「国民」が無力なのか。両方である。

 

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小池昌代『くたかけ』

2023-02-14 11:07:28 | その他(音楽、小説etc)

 

小池昌代『くたかけ』(鳥影社、2023年01月26日発行)

 小池昌代『くたかけ』は、15の章で構成された小説。「1 麦と佐知」を読んだだけだが、感想を書いておく。

 海の方角に面した窓が、一斉にがたがたと激しく鳴った
「わっ、地震?」麦が驚き、佐知はとっさに、キッチンに吊り下がっているペンダントライトを確かめた。少しの揺れもなく、静かである。

 強風のために窓が音を立てたのだが、なんだかわけのわからない「キッチンに吊り下がっているペンダントライト」が、しばらくしてこういう描写のなかによみがえってくる。

 総じてぶらさがっているモノには、落下の予兆が呼ぶ緊張感があって、その危うさが、空間に独特の美しさを広げる。床と天井とのあいだ、不安定な中空にとどまるものは、葡萄の房にしろ、室内のライトにしろ、佐知にとっては見飽きない魅力がある。今はおとなく吊り下がってはいても、いつ吊り紐が切れ、電球がテーブルを直撃し、食卓の秩序が破壊して家族がばらばらになっても、ふしぎはない。(略)佐知はそこに自分の心までもが吊り下げられているように感じ、何も起きていない日常を、束の間の均衡にふるえる奇跡のように思った。

 ああ、うまいなあ、と思った。「落下」「予兆」「緊張感」「秩序」「破壊」「均衡」「奇跡」という抽象的なことばが、今後の展開を予想させる。読まずにこんなことを書いていいのかどうか悩まないでもないが、きっと、ここに書かれている抽象的なことばが日常の変化をとおして展開するのだろう。
 意地悪く言うと、ここまで読めば、あとは「斜め読み」してもストーリーは把握できる。そういう小説だろう。
 しかし、私があえて、そういう「予想」を書くのは、小説は(あるいは文学はと言い直してもいいが)、ストーリーを読むものではないと考えているからだ。
 いま引用した文章で私が注目するのは、実は、今後を予想させる抽象的なことばの凝縮度ではない。「葡萄の房」である。突然、葡萄が出てくる。そして、そのことが全体を豊かにしている。「葡萄の房にしろ」という一文は、なくても「意味」は通じる。だから、「葡萄」の一節は、ある意味では「余剰」なのだが、その「余剰」が世界を押し開いていく。
 「葡萄の房」がどんなふうに形をかえてあらわれるのか。それを楽しみに読むという方法があると思う。

 

 

 

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田原「言葉から言葉へ」

2023-02-13 16:42:09 | 詩(雑誌・同人誌)

田原「言葉から言葉へ」(「すばる」2023年03月号)

 田原「言葉から言葉へ」は、谷川俊太郎と高橋睦郎の対談「詩の生まれるところ」のあとに編集されている。対談と、何か関係があるのか、ないのか、よくわからない。対談が田原のことばではじまっているので、「詩のはじまりと、ことばの関係」について考えるというテーマがあったのかもしれない。
 野沢啓の『言語隠喩論』のことを少し思った。
 田原は、こう書き始めている。

 詩はいったいどこからやってきたのだろう。(略)言葉から来ているのは間違いないし、言葉から言葉へと進む行為であるのも間違いない。では、言葉とは何だろう。それは言語から生まれてくるとしか考えられない。

 「言葉」と「言語」と、「ことば」をあらわす用語がふたつある。それは、どう違うのか。田原は、「言語」を、こう定義している。

言語は、思考とコミュニケーション(意思伝達)の道具であり、人間の思惟活動と密接な関係性を維持している。世界中に様々な言語が存在しているが、どの言語もだいたい文字、音声とボディーランゲージという三種類からなっている。

 この定義で私が注目したのは「世界中に様々な言語が存在している」ということばである。「様々な言語」とは、「様々な国語」と言い換えることができるかもしれない。しかし、これには保留が必要である。「国語」ではない「ことば」があるからだ。言い直すと「公用語」と認定されていない「ことば」があるからだ。単純に「国語」と私が「言い換え」をしたのは、田原が問題にしているのは「言語」はある一定の人々のあいだで共有されている「ことば」と読むことができるからである。
 日本語が「言語」であるのは、日本に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されているからであり、そのことによって「日本語」と呼ばれる。「中国語」は、中国に住む多くのひと(ほとんど大多数)によって共有されている「言語」ということになる。
 これに対して、田原が「言葉」と呼んでいるものは、「言語」と違って、同じ「日本語」「中国語」を共有するほとんどのひとによって共有されるとは限らない。谷川俊太郎の詩、高橋睦郎の詩、田原の詩の「ことば」は、多くのひとによって共有されるとは限らない。むしろ、わずかなひとにしか共有されない。
 小説には、ときどき百万部を超す発行部数のものがあるが、だからといって、そこに書かれている「ことば」が百万人に共有されたかどうか考えると、必ずしも共有されたとは言えないだろう。ここに書かれている「ことば」は嫌い、もう読まない、と途中で放り出しても、それは「国語(共有された言語)」にとっては、事件にはならない。何も起きたことにはならない。
 なぜか。
 田原の表現を借りて言えば、「言葉」とは、ある一定のひとによって共有されている「言語」から生まれてきたもの、「言語」から独立した存在だからである。日本語(国語/言語)は、個人のことばがどうなろうが気にしない。
 「ことば」につかわれる「文字」「音」がたまたま共通するから、「共通の言語」であると混同されるが、それは別の存在である。別の「ことば」である。(ボディーランゲージについても田原は書いているが、私は、それによって何かをあらわそうとした経験が少ないので、考えないことにする。)私は、この田原の考え方に賛成である。
 私は、だから、しきりとこんなふうに言う。たとえば詩の講座で、谷川俊太郎の詩を読みながら、こういうことを言う。「日本語で書かれている。その日本語は、たいていの場合、全部、理解できる。しかし、それは日本語ではなく、谷川語で書かれている。そこに書かれていることばを日本語として知っていても、そして、それを日本語としてつかっていても、そこには自分のつかっている日本語とは違うものがある。それをみつけることが大切。谷川語で書かれているのが詩なのである」。
 そして谷川語をみつけるということは、実は、自分の「ことば」と谷川語の違いを探すことでもある。自分のなかにも「日本語」ではないものがある、と気づくことでもある。でも、これに気づくのは非常にむずかしい。私はそんなにむずかしいことではないと思っていたのだが、先日の詩の講座で、谷川の「父の死」を受講生のみんなといっしょに読んだときに、むずかしいということに気づいた。
 私は「父の死」のなかに、自分が体験しなかったことが書いてないか、と質問した。しかし、みんな、答えられない。「谷川語」を「日本語」に翻訳してしまって、「日本語」として把握してしまう。
 私は、念押しのようにして問いかける。「天皇から香典のようなものがくる。これ、経験した? 私は父も母も死んだけれど、天皇からそんなものをもらっていない」。こう言っても、谷川徹三が死んだのなら、天皇が香典をおくるというのは理解できる、とそこに書かれていることを「要約」してしまう。ゴム印で三万円と書いてあることに対しても、同じである。私は、そのことにほんとうに驚いてしまった。そこに書かれていることは、どれもこれも、「日本語」として「意味」を理解できるが、いままでに一度も聞いたことのない「ことば」であり、体験だった。谷川が「ことば」にすることによって、初めて読む体験であ、り「ことば」である。
 こんなふうに考えることもできる。私がたとえば天皇から香典を受け取る。その袋に、ゴム印で三万円と書いてある。そのことを私はどんな「ことば」で書くことができるか。谷川と「同じ文(ことば)」になるか。きっと、ならない。「意味」は同じになるかもしれないが、「ことば」は違う。
 つまり、それは「谷川語」としか言いようのないものなのである。「言語」は「意味」に要約できるものを含み、「ことば」は「意味」に要約できないものを含む。「谷川語」は谷川によってしか話されていない。書かれていない。だから、それを「日本語」に翻訳するのではなく、自分の「ことば」に翻訳しないといけない。「日本語」に翻訳してしまうと、それは「要約」になってしまう。

 少し脱線するが。
 昨年の夏、私は「ことば」をめぐって、おもしろい体験をした。スペインの彫刻家を訪問したときのことである。双子の兄弟がいる。そのひとりとは「ことば」が通じるが(会話ができるが)、もうひとりとは「食い違い」が起きる。簡単に言えば、「ことば」が通じない。すると兄が弟に「私が言うことを通訳して、修三に言え」と言う。えっ、スペイン語をスペイン語に「通訳」する? それで何か解決する? これが、実は、解決するのだ。兄が言ったことは理解できないのに、弟が言い直す(通訳する)と通じる。
 「言語」はスペイン語で共通しているが、「兄語(兄のことば)」と「弟語(弟のことば)」は違い、それは「修三語(私のことば)」とは別の存在なのである。「ことば」はそれぞれ個人に属しているから、それはときとして「意味の伝達」を邪魔するのである。
 冗談みたいな話だが、冗談ではない。
 文学ではない世界でもそうなのだから、文学の世界では、この「ことば」の問題、「翻訳の不可能性(あるいは可能性)」は、もっと深刻である。
 ある外国文学作品で、だれそれの翻訳はぜんぜんわからないが、別の訳者のものはとてもよく理解できる、というようなことが起きるのは、翻訳者が「日本語」で訳しているのではなく、それぞれが「翻訳者個人のことば」で訳しているからだろう。
 
 こういう問題を、田原は、こんなふうに書いている。

一流の文学作品はいつも個人化という基礎の上に、世界性あるいは人類の普遍的な認知とある種の内在的な関連が発生するとも思われる。

 「個人化」とは「個人語(ことば)」であり、「世界性、人類の普遍的認知」とは「言語」であると読むことができる。「言葉(私は、ことば、と書く)」と「言語(それぞれの国語)」とのあいだで発生する「内在的な関連」に、「詩」というものが存在する。それはいつでも「言語(国語、共有されたことば)」とは違ったもの、「要約できないもの」を含んでいる。だれにも「要約」できない何かを含んだ「絶対的なことば」「一回性のことば」というものが詩であり、文学である。
 この「一回性」に向き合うには、自分自身のことばを「一回性のことば」にする覚悟がないといけない。
 私のことばが「日本語」でなくなってもかまわない、と覚悟したときから、「文学」が魅力的になる。「谷川語」「高橋語」がおもしろくなる。

 田原は、このことを田原自身の経験に則して、こう書いている。

私にとって、母語と非母語の翻訳と、悲母語で言葉を書くことはどちらも重要だと思うが、もし二者択一をするなら、私は後者を選ぶ。なぜなら、非母語での執筆は言葉の冒険をする快感、あるいは創造する快感を与えてくれるからだ。

 「言語」ではなく「言葉」。田原は、それを選んだのである。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇301)Obra,Joaquín Llorens

2023-02-13 08:43:48 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens 

 Esta obra tiene una extraña inocencia. Es como un niño que se levanta y grita "Hola, estoy aquí" a alguien que está lejos. Esto se convierte naturalmente en movimientos de baile y rebote.
 Al mismo tiempo, también pienso esto. Esta pieza no se cortó de una gran plancha de hierro; se hizo con trozos de acero que habían caído alrededor de Jpaquín. Como un niño que hace un juguete con restos de hierro. Siento esa sencilla alegría en las suaves curvas.

 この作品は、不思議な無邪気さがある。子どもが背伸びをし、遠くのひとに「おーい」と呼びかけている感じ。それが、自然に踊り、跳ねる動きになっていく。
 同時に、私はこんなことも思う。この作品は、大きな鉄板から切り出して作ったのではない。Jpaquin のまわりに落ちていた鉄板の断片を組み合わせて作っている。子どもが廃材をつかっておもちゃを作るように。その素朴な喜びを、やわらかなカーブに感じる。

 

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三木清「人生論ノート」から「希望について」

2023-02-12 22:39:30 | 考える日記

  希望を、人生(生きること、いのち)、偶然と必然と関連づけながら、三木清は考えを進めていく。人間存在とはどんなものなのか、考えていく。「哲学」だから、ふつうのことばとは違う、というか、ふつうの「定義」ではないところへ踏み込んで行く。
 一読したあと、一段落ずつ読んでいくのだが、最初に出てくる「偶然」「必然」のほかに、私たちが日常的につかうことばで「然」を含むことばがある。
 それは何? 私は18歳のイタリア人に聞く。
 「自然」。
 その「自然」とは、どんなものだろう。そんなふうに話を向けると、
 途中に「間」ということばがあった、
 と三木清が問題にしている「核心」に切り込んで行く。「間」では、「間」にはなかったものが形成されていく。
 何が書かれているか、一読して、頭に入っている。これは、すごいことだと思う。

 さらに、希望を、欲望、目的、期待と三つのことばで言い直し(見つめなおす)部分では、目的は計画と関係する。目的を達成するためには計画が必要と言う。計画ということばは三木清の文章には出てこない。
 これも、すごいことである。

 ちょっと感心しすぎて、質問しなければならないことを忘れてしまった。
 339ページに、「間」を「根源的」と三木清は呼んでいるのだが、その理由は何か。宿題として、質問してみることにする。

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Estoy Loco por España(番外篇300)Obra,Jesus del Peso

2023-02-12 17:26:55 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso 

 Cuando vi esta obra de jesus, me vinieron a la mente las palabras WABI y SABI.
 La definición de WABI y SABI es difícil. Wabi" está vinculado a "WABISHII o triste, sombrío". Sabi" también se relaciona con "SABISHII o soletario, triste", pero la primera palabra que me viene a la mente es "SABI o óxido".
 Cuando las cosas se vuelven viejas y sucias, si es de metal, aparecerá óxido. Cuando veo cosas así, me siento solo, triste y sombrío. Estoy seguro de que el término "WABI-SABI" significa percibir la historia de la existencia en las cosas viejas y sucias, y aceptarlas (o saborearlas tranquilamente).
 Esta obra tiene una sencillez y una belleza que me reconforta el corazón.


 Jesus のこの作品を見た瞬間、わび、さび、ということばが思い浮かんだ。
 わび、さびの定義はむずかしい。「わび」は「侘しさ」につながる。「さび」は「寂しさ」にもつながるが、まず思いだすのは「錆」だろう。
 ものが古くなって、汚れる。金属ならば、錆が出てくる。そういうものを見ると、寂しい気持ちになる。きっと、古びたもの、汚れたもののなかに、その存在の歴史を感じ取り、それを受け入れる(静かに味わう)ということが、「わび・さび」というのだろう。
 この作品には、私のこころを落ち着かせる素朴さと美しさがある。

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最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』

2023-02-12 12:22:08 | 詩集

 

 

最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』(PARCO出版、2023年02月01日発行)

 最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』を半分くらいまで読み進んだ。「ぼく」「きみ」あるいは「あなた」、「愛」(恋)ということばが何度も出てくるように思う。「愛」のかわりに、「悲しい」「寂しい」「美しい」かもしれない。数えたわけではない。
 ふと思ったのだが、たとえば「愛」はどこにあるのか。「ぼく」のなかにあるのか(「ぼく」から生まれてくるのか)、「きみ」のなかにあるのか(「きみ」から生まれてくるのか。
 きっとちがうだろう。
 それは「ぼく」と「きみ」のあいだにあって、それがあいだにあるときだけ、「ぼく」が「ぼく」であり「きみ」がきみ」である、というものなのだろう。言い直すと、いま書いたようなものは、すべて、ほんとうは存在しない。
 「あいだ」すら、存在しない。
 でも、それが、ときどき「生まれてくる」。それは偶然なのか、必然なのか、わからないが、そういう瞬間があるのだ。
 そして、その瞬間に、こういうことが起きる。

ぼくはあなたのせいでぼくは誰とも混ざり合うことのない固有の存在なのだと思い知り、
                                (一等星の詩)

 「ぼく」は「あなた」がいるから、ここにいる。「ぼく」は「あなた」によって産み出された存在であると言える。
 で、このときの。
 「混ざり合うことのない」ということばが、私にはとてもおもしろく思える。「混ざり合うことのない」ものは、「混ざり合ったものがない」ものであり、それは別なことばで言えば「透明」。しかし、透明なものは「見えない」。つまり存在しないように感じられる。その「見えない、透明」なものが「固有の存在」、そこにあるものとして見える。「見えない」のに、ある。
 「混ざり合うことのない」ものは、どうなるのだろうか。「愛」とは「混ざり合う」ものだろう。
 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。
 そして、もうひとつの大切なことばが、この行のなかにある。「思い知る」という動詞。すべてはことばのなかで動く。「現実世界(物理的世界)」には「矛盾」はない。「矛盾」は、ことばのなかだけに存在する。もし世界に矛盾があるのなら、世界は存在しない。動いていかない。世界が動いている限り、世界に矛盾はない。ことばが世界に追いついていかないとき、「ことば」のなかに「矛盾」があらわれるだけである。

きみのさみしさはいつも、だれかから借りてきたものだったね、だからさみしくても、美しいものを見ると、美しいとおもえた、            (periodo)

 「きみ」は、「きみ」の感情(さみしさ、美しいと思う気持ち)は、固有のものではない。だから、次々にかわっていく。これを先の詩の「ぼく」にあてはめることができるのではないか。
 「ぼく」は「あなた」の借り物。「混ざり合うことのない」つまり、混ざりけのない」透明な「ぼく」は、「あなた」の「愛(と、仮に書いておく)」によって、「ぼく」という色(と、仮に書いておく)になるが、それは「借り物」だから、「愛」ではなくて「憎しみ」を見さみしさ」「うつくしさ」がると、もう「愛」ではいられなくなる。別れてしまう。
 そのとき「ぼく」と「あなた」のあいだ(間)は広がるのではなく、なくなってしまう。
 「矛盾」でしか語ることのできないもの、「混ざり合うことのない」ものが、そのとき、ことばのなかを通過していく。そして、それは「輝き」であり、目に見えない「光」だ。

ぼくとあなたが
消えてしまった街では、
雪の代わりに夏が降る。

溶けていくのはいつも世界の方で、
いつか夏だけが降り積もって、あ、まぶしい、             (雪の夏)

 この「あ、まぶしい」が、そのとき、感じられる。まぶしさのなかで、何も見えなくなる。何もかもが消える。そして、消える瞬間に、存在した「ぼく」が「きみ」が、そして「愛」や「さみしさ」や「美しさ」が見える。そういう「矛盾」。
 それは、どう名付けてもいいものであるからこそ、「ぼく」「きみ」、「愛」「さみしさ」「美しさ」ということばにならなければならない。「矛盾」は、ことばを必要としている。「矛盾」は「ことば」よって、発見されたがっている。

 


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Estoy Loco por España(番外篇299)Obra,Jesus del Peso y Laura Iniesta

2023-02-12 08:08:13 | estoy loco por espana

Obra, Jesus del Peso y Laura Iniesta

 La fuerza de las líneas rectas es característica de la obra de jesús. Son tan rectos como los rayos del sol. Y esa impresión de recta hace transparente la existencia. No puedo ver la otra cara de obra, porque es de hierro, y de hierro oxidado. Pero la impresión de recta crea una extraña ilusión, como para decirnos que lo transparente no se ve. 

 La obra de Laura también presenta línea recta intensa y transparente. Su línea recta no está en un plano, sino que rompe el plano y penetra en sus profundidades. Las profundidades del espacio vistas a través de las nubes. La negrura que lo hace estallar. El negro es el color de la oscuridad. Como es oscuridad, nada debería ser visible, pero veo luz absoluta. El recuerdo de ver la transparencia absoluta, la profundidad absoluta, existe.

 jesus の作品の特徴は直線の強さである。まるで太陽光線のようにまっすぐだ。そして、そのまっすぐな印象は、存在を透明にする。鉄、しかも錆びた鉄だから、向こう側は見えないのだが、それは透明なものは見えないということを教えてくれるような、不思議な錯覚を引き起こす。 

 Laura の作品にも、強烈で、透明な直線がある。それは平面上にあるのではなく、平面を破ってその奥へ突き進んでいく。雲の隙間から見えた宇宙の深さ。それを噴出させる黒。黒は闇の色。闇だから何も見えないはずなのに、絶対的な光が見える。絶対的な透明、絶対的な深さを見てしまった記憶が存在している。

 

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井戸川射子「この世の喜びよ」

2023-02-11 14:00:45 | その他(音楽、小説etc)

井戸川射子「この世の喜びよ」(「文藝春秋」2023年03月号)

 井戸川射子「この世の喜びよ」は第168回芥川賞受賞作。井戸川は詩人。中原中也賞も受賞している。
 この小説は気持ちが悪い。ひたすら気持ちが悪い。ことばが、気持ちが悪い。(引用のページ数は「文藝春秋」)

 あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。(292ページ)

 書き出しの一行だが、この一行で、私はもう気持ち悪くなってしまった。何が気持ちが悪いか。「迂回」というか、「補助線」というか、次のことば(必要なことば)を後出しする「方法」が気持ちが悪い。「あなた」が「柚子」を選んでいることは、そのあとすぐにわかるのだが、その「すぐにわかる」ことをわざと隠して遠回りすることばの運動が気持ちが悪い。
 言い直すと、そこには「私は何でも知っています」という「視点」を感じるからである。そして、知っているだけではなく、あとでわかるように教えます、という視点を感じるからである。
 そして、その対象は「私」にも向けられる。
 昔の私小説なら「私」を主人公にして、私が知ったこと(体験したこと、あるいは考えたこと)をことばにするのだが(あるいは、「私」を第三者に託して書くのだが)、井戸川はそうではなく、「私はあなたのことを知っている、どんなふうに生きてきたか、どう生きているか、これからどう生きていくか全部知っている。それをこれから少しずつ教えて上げる」という具合に書いていくのだ。
 この小説にはいろいろな人物が出てくる。喪服売り場の店員である「あなた」と、「あなた」が働いているショッピングセンターにいりびたっている「少女」の交流を中心に描かれる。「あなた」は「少女」のことを知らないはずだが、何もかも知っている。「あなたは」仕事だから、毎日、働いている。だから、

だから最近少女が一人、夕方から暗くなるまでここにある席にへばりつくように、長い時間座っていることにあなたは気づいていた。(298ページ)

 「気づいた」ではなく「気づいていた」。この文体がこの小説の特徴である。「運動」よりも「状態」として、世界を描く。もちろん、ふつうの「運動」も書かれる。書き出しの文章も「探した」で終わっているが、これは、

 「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」た。

 であり、

「私があなたを見たとき」あなたは摘まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探し「てい」たのに「気づいていた」。

 である。
 どの文章も「私があなたを(あるいはだれかを)見たとき、あなたが(あるいはだれかが)何かをしている(していた)ことに気づいていた」と読むことができる。そして、それは「あなたは私が気づいていることを知らないでしょ? これから何が起きるか知っていることを知らないでしょ?」なのである。「私(井戸川)」がそれを教えて上げる。
 私が、この文体、この視線に気持ち悪い恐怖を感じるのはなぜか。たぶん、「学校」を思い出すからだ。井戸川が教師であることを、私は「略歴」で初めて知ったのだが、ああ、学校の先生が、生徒に授業をするときの「文体」なのだ。
 あなたたち(読者、生徒)は、「答え」を知らないでしょ? 私は知っています。でも、「答え」を言ってしまうとつまらないので、少しずつヒントを出していきます。そのヒントに従って進めば「答え」に自然にたどり着きます、と言われている感じ。
 なぜ、こんなことを思うかというと。
 この小説には「ハプニング」がない。緩急がない。どの部分も、同じスピード(予め予定された授業計画)のように進んでいくからだ。そして、それが井戸川を困らせるということがないからだ。
 ある小学校の算数の先生がおもしろい話をしてくれた。四則計算。そのことを復習するために、「いままで、いろんな計算を習ったね。計算にはどんなものがある?」と質問した。「足し算、引き算」などの答えを期待してのことだった。しかし、最初の児童が「暗算」と答えたのだ。私は、笑い出してしまったが、先生は困っただろうなあ。暗算も計算。間違いじゃない。どうやって、ここから「四則計算」に戻る?
 そういう、「予想外」が起きない。ただ、学校の授業がそうであるように、「予定内」ですべてが、整然と進んでいく。たぶん「暗算」と自慢げに叫ぶ児童のような存在を排除したまま。
 で。
 小説とは関係がないのかもしれないが、「文藝春秋」には、井戸川へのインタビューが載っている。これが、また、なんというか気持ち悪い。国語の授業で「羅生門」を取り上げたときのことを話している。

「猿のような老婆」とか、動物の比喩がめっちゃ出てくるので、生徒に「なんでだろうね」と問いかけて、私のことを動物に喩えてもらいます。(略)ひと通り答えを聞いてから、「人間様が一番上だと思っているわけじゃないけど、動物に喩えられるのは、やっぱりあんまり嬉しくないね。それが多いのは、荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかったのかもね」と。言い切らずに、「そういう可能性があるね」で止めて、「次行きます」みたいな感じです(笑い)。(231、232ページ)

 これ、ほんとうに、こういう授業しているのかなあ。「言い切らずに」と井戸川は言っているが、もし、井戸川が「羅生門に、動物の比喩が多く出てくるが、その理由を述べよ」という問題が出たら、よほど不注意な生徒でない限り、「荒れ果てた京都で人間らしい生活ができていない、人間らしい心を忘れているという状況を描写したかった」と書くだろう。
 それと同じことが、小説のなかで起きている。井戸川は「言い切っていない(誘導していない)」つもりかもしれないが、私は「強制的に誘導されている」と感じる。そして、同時に、この「強制的誘導」に井戸川は気づいていないだろうなあ、と思う。「気持ちが悪い」のは、そういうことだ。授業で言ったことを忘れて、「私の教えた生徒は、みんな優秀な回答をする」と思っているかもしれない。「気持ち悪い」ではなく「ぞっとする」。
 生徒は先生の求めている「回答」を書けば、それが「正解」になることを知っている。知っている生徒と知っている先生が「結託」し、「いい教育(正しい羅生門の解釈の仕方)」を自慢するというのが、いまの「学校教育」の大きな問題だと思うが、その「学校教育」が芥川賞にまで波及してきたということかな? ぱっと読んだだけだが、選考委員で井戸川の「文体の問題」を、そんなふうに指摘したひとはいないようだ。どちらかというと、高く評価されている。「気持ち悪い」と感じたひともいるらしいが、その「気持ち悪さ」は肯定の評価だった。

 


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https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇299)Obra, Sergio Estevez

2023-02-10 21:52:28 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez
 "Sueños de un pasado" 

 

 las palabras fueron escritas. recordando el momento en que se separaron. entonces volvieron las palabras que se habían ido. el perfil viendo la silla vacía, ese perfil se resquebrajó en el espejo. era una frase que no quería recordar. así que se borraron rápidamente. pero el recuerdo permaneció. como un hoyuelo dejado en una silla vacía. las palabras trilladas aparecían una y otra vez, cambiando de forma, atormentando al poeta.

 ことばを書いた。別れたときのことを思い出しながら。すると去って行ったことばが戻ってきた。だれもいない椅子に向き合っている横顔が、鏡のなかで割れた。思い出したくないことばだった。だから、それはすぐに削除された。しかし、記憶が残った。だれも座っていない椅子に残るくぼみのように。その、つまらないことばは、何度も何度も形を変えながら繰り返しあらわれ、詩人を苦しめた。

 

 

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