詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(11)

2007-01-01 23:38:16 | 詩集
 掌篇小説集『夢を植える』から「バナナの皮」。
 プールで水をすくって対角線上の隅にいる男に向かって投げつける。その中に次の行がある。

 私はくりかえし水を飛ばしはじめている。しかし、今度は手ですくってそうするのではなく、コップに入れた水を飛ばすのである。どこからコップを手に入れたのか? それはわからないが、とにかくそのコップは、バナナを横に半分に切り、中身を取って捨てたところのバナナの皮である。

 タイトルはここからきている。バナナの皮のコップも魅力的だが、私はなぜか「くりかえし」ということばに惹かれた。「くりかえすこと」で清岡はなにかを探している。
 「遠足の弁当」にも「くりかえす」はでてくる。

 これでもう二度目だ。おにぎりの弁当を失くすのは。この前は、春の遠足のときであった。まったく同じようなぐあいにして失くしたのだ。私はどうして、こんな馬鹿げたことをくりかえすのだろう?

 この自問に、清岡は次のように「結論」を出す。

 遠足の弁当はどうしても見つからないだろう、と私は絶望しているのに、なぜそれを探しつづけるのだろう? ほんとうは絶望していないのだろうか? それとも絶望の味を深く味わうために、空しい努力をやめないのだろうか?

 くりかえすのは、今、清岡が感じているものを深く味わうためである。
 すべてはここにある。くりかえすことで、そこに存在するものを深く味わう。これはそのまま書くという行為の定義にもなる。感じていることを明瞭にし、味わう。
 そして、ここには書かれていない「と」が存在する。
 ぼんやりと感じていること「と」それが深く味わわれたあとの感覚。ふたつは連続している。切れ目はない。その切れ目のない部分に「と」(書かれなかった「と」)の力で分け入り、いままで存在しなかった意識の動き、意識として認識されなかった意識を浮かび上がらせる。それが清岡の作品だと思う。


コメント
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