種村季弘「夢記」ほか(「たまや」03、2006年2月26日発行)。
種村季弘「夢記」は文字通り夢を記述したものである。夢の不思議さは夢とわかっているのに、それが夢ではなく、現実だと感じることである。「わかる」ことと「感じる」ことは、どこかで交差しながら、しかも互いを断ち切るようにして共存するのだろうか。
こういうことを、種村は作品そのもののなかにも書いている。「のらいぬ」。モスクワで原発が爆発した。その夢。
「知っている」。ここに「夢」の間違い(?)、悪夢の理由がある。「知っている」(わかっている)ことを土台にして、私たちは、起きていないことを推測できる。「知る」というのは現実に縛られない。「知」は現実をねじまげてゆく力を持っている。想像力とは「知」の力なのである。だから「想像力」とは「創造力」でもあるのだ。
一方、感じる力は、「知」のように今、ここ以外のものを想像することはできない。現実を捩じ曲げて、何かを想像することはできない。ただ、今、ここに起きて、自分にかかわってくるものを感じることしかできない。未来を、自分の肉体として感じることはできない。
この未来を想像(創造)する力と、今にこだわる感覚が交錯するために、夢は私たちの手に負えない。奇妙に今からずれてゆきながら、常に今にひきずり戻されるのである。
「知っている」。このひとことで、夢の正体を暴いてしまう種村のことばの力、暴きながら、なおかつ悪夢を持続させる力に驚いてしまう。
私がもっとも好きなのは「夢2 78・12・30」である。いとことの性愛を描いているが、夢ならではの矛盾というか、わかっているのにどうしようもないという苛立ちが次の部分にくっきりと描かれている。
「分かっている」。このつらさ。思わず笑ってしまう。この笑いはもちろん同感の笑いである。同感が感動にまで高まると笑いとなってはじけるものなのである。(私の場合だけだろうか。)
*
時里二郎「原っぱの向こう」。「夢」というより「記憶の間違い」のようなものを点検する作品である。そこに、次の行がある。
時里が書いている「理由」ではなく、私は、単純にここに書いてある感覚と記憶の関係がとても正直で、それがおもしろいと思った。
時里は「夢」を見ていない。今、目覚めている。そして、「感覚をもう一度取り戻したい」と思っている。感覚を今へ引き寄せようとしている。これが夢と現実のいちばんの違いなのだ。夢の中では感覚はいつでも生々しい。ところが記憶の中では感覚は生々しくない。だからこそ、それを取り戻したいと願うのだ。現実では、いつも、今、ここにないものを人は求める。感覚がないときは感覚を追い求め、理性(知識)がないときは理性を求める。それが現実だ。
そして、時里のことばはどう動くか。
眠りが運んでくる夢ではなく、目覚めたままの夢、つまり空想へと動く。空想の中で、記憶を、そして記憶のなかの感覚を点検する。このことを時里は認識している。認識しながらことばを動かしている。
時里は「空想」と明確に書き記している。そして「水音」という感覚(聴覚)がとらえるものの欠如もきちんと書いている。時里は夢と現実と空想の違いを認識し、ことばでそれを描いている。その強靱なことばの運動が、時里の文体を清潔なものにしているのだとあらためて思った。
種村季弘「夢記」は文字通り夢を記述したものである。夢の不思議さは夢とわかっているのに、それが夢ではなく、現実だと感じることである。「わかる」ことと「感じる」ことは、どこかで交差しながら、しかも互いを断ち切るようにして共存するのだろうか。
こういうことを、種村は作品そのもののなかにも書いている。「のらいぬ」。モスクワで原発が爆発した。その夢。
ところで私はどうすればよいのか。私は旅行中で、ここは宿屋の一室なのか。それならはやく空港に駆けつけなければならないはずだが、その空港はもう群衆で一杯でとうに封鎖され、一部暴徒は射殺されたらしい。テレビが放映したわけではないのに私はもうそれを知っている。
「知っている」。ここに「夢」の間違い(?)、悪夢の理由がある。「知っている」(わかっている)ことを土台にして、私たちは、起きていないことを推測できる。「知る」というのは現実に縛られない。「知」は現実をねじまげてゆく力を持っている。想像力とは「知」の力なのである。だから「想像力」とは「創造力」でもあるのだ。
一方、感じる力は、「知」のように今、ここ以外のものを想像することはできない。現実を捩じ曲げて、何かを想像することはできない。ただ、今、ここに起きて、自分にかかわってくるものを感じることしかできない。未来を、自分の肉体として感じることはできない。
この未来を想像(創造)する力と、今にこだわる感覚が交錯するために、夢は私たちの手に負えない。奇妙に今からずれてゆきながら、常に今にひきずり戻されるのである。
「知っている」。このひとことで、夢の正体を暴いてしまう種村のことばの力、暴きながら、なおかつ悪夢を持続させる力に驚いてしまう。
私がもっとも好きなのは「夢2 78・12・30」である。いとことの性愛を描いているが、夢ならではの矛盾というか、わかっているのにどうしようもないという苛立ちが次の部分にくっきりと描かれている。
そのビニール紐のようなものをなんとかこちらへ取らなければならないのだが、形体のあやうい均衡を崩すと一切の儀式はおじゃんになるのは分かりきっている。輪をこちらへ取る行為に性的快感が予想され、それがうまく行かなければ射精は不発に終るだろう。
「分かっている」。このつらさ。思わず笑ってしまう。この笑いはもちろん同感の笑いである。同感が感動にまで高まると笑いとなってはじけるものなのである。(私の場合だけだろうか。)
*
時里二郎「原っぱの向こう」。「夢」というより「記憶の間違い」のようなものを点検する作品である。そこに、次の行がある。
その時のしびれるような惑乱の感覚をもう一度取り戻したいと思いいたって、こうして記憶をたどりなおしているのには理由があった。
時里が書いている「理由」ではなく、私は、単純にここに書いてある感覚と記憶の関係がとても正直で、それがおもしろいと思った。
時里は「夢」を見ていない。今、目覚めている。そして、「感覚をもう一度取り戻したい」と思っている。感覚を今へ引き寄せようとしている。これが夢と現実のいちばんの違いなのだ。夢の中では感覚はいつでも生々しい。ところが記憶の中では感覚は生々しくない。だからこそ、それを取り戻したいと願うのだ。現実では、いつも、今、ここにないものを人は求める。感覚がないときは感覚を追い求め、理性(知識)がないときは理性を求める。それが現実だ。
そして、時里のことばはどう動くか。
眠りが運んでくる夢ではなく、目覚めたままの夢、つまり空想へと動く。空想の中で、記憶を、そして記憶のなかの感覚を点検する。このことを時里は認識している。認識しながらことばを動かしている。
それこそ他愛のない空想に過ぎないが、そういえば、黄色い水たまりを幾つも踏んで、ぼくに向かって走ってくる男のたてる水音も水しぶきも、殊更に記憶から排除されているのはどうしてだろうか。
時里は「空想」と明確に書き記している。そして「水音」という感覚(聴覚)がとらえるものの欠如もきちんと書いている。時里は夢と現実と空想の違いを認識し、ことばでそれを描いている。その強靱なことばの運動が、時里の文体を清潔なものにしているのだとあらためて思った。