詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポール・マクギガン監督「ラッキーナンバー7」

2007-01-14 22:42:11 | 映画
監督 ポール・マクギガン 出演 ジョシュ・ハートブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ベン・キングズレー

 冒頭に非常に気味の悪いシーンがある。中央に小さなテーブル。そのうえに電話。左右にベッド。幾何学模様の壁紙。何が気味が悪いかというと、その左右対称の感じが気味が悪いのである。そして、その左右対称の気味の悪さがこの映画のテーマでもある。
 左右対称というのは、実は安定していない。安定しているように見えるがそれは錯覚であり、ほんの少しの変化でその対称は崩れる。常に崩れることを孕んだ緊張が左右対称なのである。たとえば冒頭のシーン。電話が鳴る。電話の左下のランプが光る。ただそれだけでもう左右対称は崩れるのである。これが第二のテーマである。
 左右対称であるものが少しの変化で均衡を崩し、なだれるように変化して行く。映画はそうしたことをストーリーとして展開して行く。
 きっかけとなる競馬。この勝ち負けは、奇妙な言い方かもしれないが、やはり左右対称である。勝者と同等の敗者がいる。儲ける者と同じだけ負ける者がいる。それが事故(ほんとうは仕組まれた事故)のために狂い、その狂いの中で翻弄された者が行動を起こし、そこからすべてが始まる。
 左右対称は、ボスとラビの事務所(?)が通りをはさんで左右対称に存在すること、ともに一人息子がいて、溺愛していることという構図にもあらわれている。主人公を拉致する(?)それぞれのチンピラが2人ずつというのも左右対称である。さらには悪役が悪役が2人なら、それに立ち向かう方も2人。悪役の側に1人の刑事がいれば主人公の側には1人の検死官がいる、という具合である。
 監督が、あるいは脚本家がやりたいこと、やろうとしていることは、そうした構図、映像から明らかだが、見え透いている。そのために緊張感がない。あまりにきちんと対称にこだわったためだろう。刑事(男)、検死官(女)という対称の崩れさえも、男と女という想定済みの対称の乱れである。あるいは、こういう乱れは、もう乱れとはいえず、一方が味方なら片方は悪役ということの伏線というにはあまりにも図式的な対比であろう。
 モーガン・フリーマンとジョシュ・ハートのチェス、モーガン・フリーマンとブルース・ウィリスのチェスとなると、それは左右対称の乱れどころか、ジョシュ・ハートとブルース・ウィリスが「一体」であるあからさまな種あかしである。
 ていねいに伏線を張ったつもりかもしれないが、こういう手のこみ方は、逆に不自然である。対称形にこだわりすぎていて、それが気味悪いのであるのかもしれない。
 その気味の悪さは、ひたすら対称を目指すために仕組まれた行動の中で、ひとり犠牲になっていく7番目の登場人物「ニック」へと収斂する。おいおい、ストーリーのためなら、左右対称の構図のためなら、罪のない青年を殺してしまっていいのかい? 娯楽映画とはいえ、こういう処理の仕方は無責任じゃないのかい?                                    (★★)


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粕谷栄市「呪詛について」

2007-01-14 14:06:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 粕谷栄市「呪詛について」(「ガニメデ」38、2006年12月01日発行)。
 粕谷栄市「呪詛について」を読みながら虚無について考えた。虚無とは何か。何かわからないけれど、粕谷栄市のことばを読むと私は虚無というものを思い浮かべる。それにつてい書いてみようと思った。

 いかにも、それは、古い年代の人々が好みそうな、陳腐な絵葉書の風景だ。ただ、その日、私にできることは、そこに佇んでいることだけだから、それが、偽りの風景であっても、一向、差し支えないのだ。

 「それが、偽りの風景であっても、一向、差し支えないのだ。」偽りであっても差し支えない。こういう視線、ものの見つめ方に私は虚無を感じる。真と偽の区別を気にしないという視線に虚無を感じる。

 やがて、その町の舗道の街灯が灯り、遠い三日月が、そこに立つ女たちの胸に、一本ずつ、刺された匕首を、見ているだけになったとしても、それは同じなのだ。

 「同じなのだ。」その「同じなのだ」と見てしまう視線に虚無を感じる。「差し支えない」とは結局、あらゆる存在を区別せず、「同じ」ととらえてしまう視線に虚無を感じる。だが、何と「同じ」だというのだろうか。たぶん、あらゆるものが「全体」の「一部」であるという意味だろう。
 真も偽も、そしてこの作品に登場する全裸の女も死にかけた老人も、それは「全体」の「一部」であるということにおいて何の区別もなく、「同じ」なのだ。「一部」であることに変わりはないのだ。
 別のことばで、粕谷は言い換えている。

 呪詛さえも静謐である。それが、死にかけた老人のものである場合には。誰にも知られずに、一切を、そこで、完了させている完了させているということなのである。

 「完了」。全体と言いながら、粕谷は実は全体など見つめてはいないのである。粕谷(死にかけた老人を、粕谷の自画像と読めば)自身は「完了」している。この完了とは、他者とはなんのつながりをも持っていない。つながりを持っていないがゆえに、粕谷の周辺に存在するもの、起きていることが真であっても偽であっても、なんの「差し支えもない」。すべてはまったく「同じ」である。
 自己が「完了」している、という感覚が、虚無の出発点であり、また到達点である。
 そこまで考えて、それでは虚無には何があるのか。自己が「完了」していると感じている粕谷は何をみつめているのか。何を書く必要があるのか、と私は再び考えはじめる。そうすると、ひとつのことばが、繰り返し繰り返しつかわれていることに気がつく。書き出しの1行にすでにそのことばはつかわれている。

 静かな秋の日、その古い運河の町を行こうと思う。

 「その古い運河の町」の「その」。「その」ということばは先行することばを受けてつかわれるのが普通である。「その」は発話者によってすでに意識されている存在をあらわす。しかし、この書き出しには、「その」に先行するものがない。いきなり「その」が登場する。「その」が指し示すもの、「その」の現物(?)は読者には知らされない。「その」が指し示すものは、ただ粕谷の意識の中にだけある。
 粕谷は、たとえばこの作品では「古い運河の町」について書いているふりをしながら、実は、粕谷の意識しか書いていない。それは実在の町ではなく、たとえ実在の町があったとしても、それは問題ではなく、粕谷の意識の中に存在することが問題なのである。粕谷の意識の中にあり、意識の中にあるものが粕谷のことばを動かしていく。意識なのかで真であると判断されたものであれ、偽と判断されたものであれ、それは判断されたということにおいて「同じ」ように存在するものである。それが真であれ偽であれ、意識を動かすという運動の中では同じなのである。
 「その」は粕谷においては、「意識の中の」ということばと同義である。

 私は、死にかけている老人だ。その日、私にできることといえば、それだけだから、黒い大きな蝙蝠傘をさして、懐かしい、その古い運河の町へ行くのだ。
 そのためだろう。黒い大きな蝙蝠傘をさして、その私の歩く町には、何一つ動くものはない。灰色の顔をして、その運河の橋の上にいる私も、そうなのだ。

 繰り返される「その」、あるいは類似の「それ」。それはすべて粕谷の「意識の中の」と言い換えることができる。いや、それ以外に言い換えることができない。
 粕谷は、ただただ「その」(それ、そこを含む)を読者に提示する。粕谷のことばを引き受けているものは(支えているものは)、粕谷の意識だけである。そういうことを、粕谷の「その」は明らかにしている。
 だからこそ、虚無なのである。
 虚無とは意識しか存在しないという考えの中に存在する。死にかけた老人も裸の女も真も偽も存在していたとしても、それはそれを真、あるいは偽と意識する意識の中にのみ存在する。死にかけた老人も裸の女も、死にかけた老人と意識する意識の中にのみ、裸の女も裸の女と意識する意識の中にのみ存在する。--こういう考えのもとに指し示される世界、それが虚無なのだ。
 粕谷の「その」は虚無の代名詞である。

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