監督 ポール・マクギガン 出演 ジョシュ・ハート、ブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ベン・キングズレー
冒頭に非常に気味の悪いシーンがある。中央に小さなテーブル。そのうえに電話。左右にベッド。幾何学模様の壁紙。何が気味が悪いかというと、その左右対称の感じが気味が悪いのである。そして、その左右対称の気味の悪さがこの映画のテーマでもある。
左右対称というのは、実は安定していない。安定しているように見えるがそれは錯覚であり、ほんの少しの変化でその対称は崩れる。常に崩れることを孕んだ緊張が左右対称なのである。たとえば冒頭のシーン。電話が鳴る。電話の左下のランプが光る。ただそれだけでもう左右対称は崩れるのである。これが第二のテーマである。
左右対称であるものが少しの変化で均衡を崩し、なだれるように変化して行く。映画はそうしたことをストーリーとして展開して行く。
きっかけとなる競馬。この勝ち負けは、奇妙な言い方かもしれないが、やはり左右対称である。勝者と同等の敗者がいる。儲ける者と同じだけ負ける者がいる。それが事故(ほんとうは仕組まれた事故)のために狂い、その狂いの中で翻弄された者が行動を起こし、そこからすべてが始まる。
左右対称は、ボスとラビの事務所(?)が通りをはさんで左右対称に存在すること、ともに一人息子がいて、溺愛していることという構図にもあらわれている。主人公を拉致する(?)それぞれのチンピラが2人ずつというのも左右対称である。さらには悪役が悪役が2人なら、それに立ち向かう方も2人。悪役の側に1人の刑事がいれば主人公の側には1人の検死官がいる、という具合である。
監督が、あるいは脚本家がやりたいこと、やろうとしていることは、そうした構図、映像から明らかだが、見え透いている。そのために緊張感がない。あまりにきちんと対称にこだわったためだろう。刑事(男)、検死官(女)という対称の崩れさえも、男と女という想定済みの対称の乱れである。あるいは、こういう乱れは、もう乱れとはいえず、一方が味方なら片方は悪役ということの伏線というにはあまりにも図式的な対比であろう。
モーガン・フリーマンとジョシュ・ハートのチェス、モーガン・フリーマンとブルース・ウィリスのチェスとなると、それは左右対称の乱れどころか、ジョシュ・ハートとブルース・ウィリスが「一体」であるあからさまな種あかしである。
ていねいに伏線を張ったつもりかもしれないが、こういう手のこみ方は、逆に不自然である。対称形にこだわりすぎていて、それが気味悪いのであるのかもしれない。
その気味の悪さは、ひたすら対称を目指すために仕組まれた行動の中で、ひとり犠牲になっていく7番目の登場人物「ニック」へと収斂する。おいおい、ストーリーのためなら、左右対称の構図のためなら、罪のない青年を殺してしまっていいのかい? 娯楽映画とはいえ、こういう処理の仕方は無責任じゃないのかい? (★★)
冒頭に非常に気味の悪いシーンがある。中央に小さなテーブル。そのうえに電話。左右にベッド。幾何学模様の壁紙。何が気味が悪いかというと、その左右対称の感じが気味が悪いのである。そして、その左右対称の気味の悪さがこの映画のテーマでもある。
左右対称というのは、実は安定していない。安定しているように見えるがそれは錯覚であり、ほんの少しの変化でその対称は崩れる。常に崩れることを孕んだ緊張が左右対称なのである。たとえば冒頭のシーン。電話が鳴る。電話の左下のランプが光る。ただそれだけでもう左右対称は崩れるのである。これが第二のテーマである。
左右対称であるものが少しの変化で均衡を崩し、なだれるように変化して行く。映画はそうしたことをストーリーとして展開して行く。
きっかけとなる競馬。この勝ち負けは、奇妙な言い方かもしれないが、やはり左右対称である。勝者と同等の敗者がいる。儲ける者と同じだけ負ける者がいる。それが事故(ほんとうは仕組まれた事故)のために狂い、その狂いの中で翻弄された者が行動を起こし、そこからすべてが始まる。
左右対称は、ボスとラビの事務所(?)が通りをはさんで左右対称に存在すること、ともに一人息子がいて、溺愛していることという構図にもあらわれている。主人公を拉致する(?)それぞれのチンピラが2人ずつというのも左右対称である。さらには悪役が悪役が2人なら、それに立ち向かう方も2人。悪役の側に1人の刑事がいれば主人公の側には1人の検死官がいる、という具合である。
監督が、あるいは脚本家がやりたいこと、やろうとしていることは、そうした構図、映像から明らかだが、見え透いている。そのために緊張感がない。あまりにきちんと対称にこだわったためだろう。刑事(男)、検死官(女)という対称の崩れさえも、男と女という想定済みの対称の乱れである。あるいは、こういう乱れは、もう乱れとはいえず、一方が味方なら片方は悪役ということの伏線というにはあまりにも図式的な対比であろう。
モーガン・フリーマンとジョシュ・ハートのチェス、モーガン・フリーマンとブルース・ウィリスのチェスとなると、それは左右対称の乱れどころか、ジョシュ・ハートとブルース・ウィリスが「一体」であるあからさまな種あかしである。
ていねいに伏線を張ったつもりかもしれないが、こういう手のこみ方は、逆に不自然である。対称形にこだわりすぎていて、それが気味悪いのであるのかもしれない。
その気味の悪さは、ひたすら対称を目指すために仕組まれた行動の中で、ひとり犠牲になっていく7番目の登場人物「ニック」へと収斂する。おいおい、ストーリーのためなら、左右対称の構図のためなら、罪のない青年を殺してしまっていいのかい? 娯楽映画とはいえ、こういう処理の仕方は無責任じゃないのかい? (★★)