文貞姫(ムン・ジョンヒ)「水を作る女」韓成禮(ハン・ソレン)訳(「something 」4、2006年12月16日発行)
自分と他者が一体になる感じ--それは誰にとっても楽しいものだと思う。そして、その一体感が予想外のものであって時、それはとても楽しい。文貞姫「水を作る女」に、それを強く感じた。
女の中の「川」。大地の中の「川」。それが一体になる。ただ一体になるのではない。女が「大地の母になって行く」ことで一体になる。女が大地をのみこんで行くのだ。そのとき大地の中に流れる「川」(水脈)は女の中に流れる「川」であり、それにそって草が生い茂る。草の音から吸い上げられた水が草の茎を通り葉っぱのすみずみまでゆきわたる。大地の中の「川」は単に土の中の「川」ではない。大地に育っているすべてのもの、すべての水分とともにあるものの中を、下から上へと逆流するように動いていく「川」なのである。草の葉が揺らぐ時、「川」は揺れるのだろう。草が伸びる時、その草の葉が伸びた先まで「川」は伸びて行くのだろう。--書いていないけれども、そんな様子が目に浮かぶ。
2行目。「青い木の下」の「木」もまた「草たち」のひとつになるだろうか。木もまた女の水を吸い上げて大きく育つのだ。その太い幹を通り、幾つもに分かれる枝を通って幾つにも分かれながら、その葉の先端にまでさかのぼっていく女の中の水。--これも書いてはいないけれど、その水の流れが目に浮かぶ。
草の中を通り、木の中を通り、広がりつづける水。変化しながら、変化することで生きつづける水。
この水を、文はただイメージ(映像)として描いているのではない。そこに音楽がいっしょにある。「暖かいリズム」がいっしょにある。「歓呼する音」がいっしょにある。この感じが、この詩をとてもすばらしいものにしている。
水の行方を「視力」が追っているだけではない。「耳」がいっしょに旅をしている。というより、「聴覚」が水の動きをおしている。促している。女の中にあるリズムと女の外にあるリズムが融合し、ひとつになる。音楽になる。すべてが融合し、動いて行く。拡大して行く。女が女の肉体を超越して世界全体になる。「大地の母」を超越し、宇宙の音楽になる。「お前が大地の母親になって行く音」。その「音」のひとことから始まる衝撃のビッグバンの音楽。それに引き込まれてしまう。
音、音楽--それは性差を超越した官能だ。
「リズム」「音」--その音楽につながることばがなくても文の詩はすばらしいと思うけれど、「リズム」「音」によって音楽を引き寄せることで、いっそう官能的で魅力的なものになっていると思う。
「なる」。この感覚が文の詩を大きく感じさせるのだとも思う。「お前が大地の母親になって行く」の中の「なる」。「なる」とは自分が自分でなくなるということ、自分を超越するということである。「髪を洗う女」の中にも「なる」をつかった美しい表現、女の肉体を超越し、大地に、自然になるという行がある。(長くなるので、その部分だけ引用する。)
ここでは「なる」が「千年」といっしょにつかわれている。「千年」とは時間を超越した時間という意味だろう。「永遠」というのに等しいだろう。「大地」の超越が「宇宙」であり、「時間」の超越が「永遠」だろう。そして、この「永遠」を文は概念として描いているのではなく、「子供を生む」(産む)ということをとおして把握している。肉体として把握し、揺るぎない自信として宣言している。女は「永遠」だと告げている。圧倒されてしまう。
こうした作品を読むと、男というのは、文の詩を借りていえば、「頑強な岩に/小便をかけて」いたずらしているような存在である。男は、たぶん、頑強な岩を見つけたら、小便で絵を描いたり、字を書いたりして遊ぶだけなのだ。日が差して小便が乾いてしまえば、どんないたずら書きをしたのか、もう誰にもわからない。そんなことしかできない存在なのかもしれないと思ってしまう。
*
文の作品にはハングル文字の原文でも紹介されている。私はハングル文字が読めない。また読めたとしても韓国の伝統的なことばづかいがわからないので、文の詩がそうなのか、韓の訳がその日本語を選んだのかよくわからないのだが「青い」という訳にとてもこころを動かされた。
「青い木」「青い生命」(水を作る女)「青い自然」(髪を洗う女)。日本語では「青」は「みどり」の意味でもつかう。たとえば「青葉」。新しい、若い、という意味がそこには含まれている。韓国語ではどうなのだろうか。韓国語も同じだろうか。それとも韓が新しい、若い、みずみずしいなどの意味を込めたくて「青い」という訳を選んだのだろうか。「髪を洗う女」には「みどりの密林」ということばも出てくるので、とても気になった。密林については、普通、日本語では「青い密林」とは言わないようだから、たぶん韓は「青い」を意識的につかっているのだと私は判断したのだが、そうだとすると、この韓の訳はとても日本語に精通した訳ということになる。
ああ、こんろふうにきめこまかく、日本語と韓国語を読み分けるのか、訳し分けるのかと、そのこころの誠実さというか、ことばへのていねいさに感動してしまった。文の詩を日本語に紹介してくれた韓に感謝をこめて、記しておきたい。
自分と他者が一体になる感じ--それは誰にとっても楽しいものだと思う。そして、その一体感が予想外のものであって時、それはとても楽しい。文貞姫「水を作る女」に、それを強く感じた。
娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて
青い木の下にすわって静かにしなさい
美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って
土の中に染みる音に耳を傾けてごらん
その音に世界の草たちが生い茂って伸び
お前が大地の母になって行く音を
時々、偏見のように頑強な岩に
小便をかけてやりたい時もあろうが
そんな時であるほど
祭祀を行うように静かにスカートをまくり
十五夜の見事なお前の下半身を大地に軽くくつけておやり
そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が
暖かいリズムに乗って土の中に染みる時
初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん
青い生命が歓呼する音を聞いてごらん
私の大事な女たちよ
女の中の「川」。大地の中の「川」。それが一体になる。ただ一体になるのではない。女が「大地の母になって行く」ことで一体になる。女が大地をのみこんで行くのだ。そのとき大地の中に流れる「川」(水脈)は女の中に流れる「川」であり、それにそって草が生い茂る。草の音から吸い上げられた水が草の茎を通り葉っぱのすみずみまでゆきわたる。大地の中の「川」は単に土の中の「川」ではない。大地に育っているすべてのもの、すべての水分とともにあるものの中を、下から上へと逆流するように動いていく「川」なのである。草の葉が揺らぐ時、「川」は揺れるのだろう。草が伸びる時、その草の葉が伸びた先まで「川」は伸びて行くのだろう。--書いていないけれども、そんな様子が目に浮かぶ。
2行目。「青い木の下」の「木」もまた「草たち」のひとつになるだろうか。木もまた女の水を吸い上げて大きく育つのだ。その太い幹を通り、幾つもに分かれる枝を通って幾つにも分かれながら、その葉の先端にまでさかのぼっていく女の中の水。--これも書いてはいないけれど、その水の流れが目に浮かぶ。
草の中を通り、木の中を通り、広がりつづける水。変化しながら、変化することで生きつづける水。
この水を、文はただイメージ(映像)として描いているのではない。そこに音楽がいっしょにある。「暖かいリズム」がいっしょにある。「歓呼する音」がいっしょにある。この感じが、この詩をとてもすばらしいものにしている。
水の行方を「視力」が追っているだけではない。「耳」がいっしょに旅をしている。というより、「聴覚」が水の動きをおしている。促している。女の中にあるリズムと女の外にあるリズムが融合し、ひとつになる。音楽になる。すべてが融合し、動いて行く。拡大して行く。女が女の肉体を超越して世界全体になる。「大地の母」を超越し、宇宙の音楽になる。「お前が大地の母親になって行く音」。その「音」のひとことから始まる衝撃のビッグバンの音楽。それに引き込まれてしまう。
音、音楽--それは性差を超越した官能だ。
「リズム」「音」--その音楽につながることばがなくても文の詩はすばらしいと思うけれど、「リズム」「音」によって音楽を引き寄せることで、いっそう官能的で魅力的なものになっていると思う。
「なる」。この感覚が文の詩を大きく感じさせるのだとも思う。「お前が大地の母親になって行く」の中の「なる」。「なる」とは自分が自分でなくなるということ、自分を超越するということである。「髪を洗う女」の中にも「なる」をつかった美しい表現、女の肉体を超越し、大地に、自然になるという行がある。(長くなるので、その部分だけ引用する。)
豊かな多産の女達が
みどりの密林の中で罪なく千年の大地になる
濡れた髪そのままで
千年の青い自然になろうか
ここでは「なる」が「千年」といっしょにつかわれている。「千年」とは時間を超越した時間という意味だろう。「永遠」というのに等しいだろう。「大地」の超越が「宇宙」であり、「時間」の超越が「永遠」だろう。そして、この「永遠」を文は概念として描いているのではなく、「子供を生む」(産む)ということをとおして把握している。肉体として把握し、揺るぎない自信として宣言している。女は「永遠」だと告げている。圧倒されてしまう。
こうした作品を読むと、男というのは、文の詩を借りていえば、「頑強な岩に/小便をかけて」いたずらしているような存在である。男は、たぶん、頑強な岩を見つけたら、小便で絵を描いたり、字を書いたりして遊ぶだけなのだ。日が差して小便が乾いてしまえば、どんないたずら書きをしたのか、もう誰にもわからない。そんなことしかできない存在なのかもしれないと思ってしまう。
*
文の作品にはハングル文字の原文でも紹介されている。私はハングル文字が読めない。また読めたとしても韓国の伝統的なことばづかいがわからないので、文の詩がそうなのか、韓の訳がその日本語を選んだのかよくわからないのだが「青い」という訳にとてもこころを動かされた。
「青い木」「青い生命」(水を作る女)「青い自然」(髪を洗う女)。日本語では「青」は「みどり」の意味でもつかう。たとえば「青葉」。新しい、若い、という意味がそこには含まれている。韓国語ではどうなのだろうか。韓国語も同じだろうか。それとも韓が新しい、若い、みずみずしいなどの意味を込めたくて「青い」という訳を選んだのだろうか。「髪を洗う女」には「みどりの密林」ということばも出てくるので、とても気になった。密林については、普通、日本語では「青い密林」とは言わないようだから、たぶん韓は「青い」を意識的につかっているのだと私は判断したのだが、そうだとすると、この韓の訳はとても日本語に精通した訳ということになる。
ああ、こんろふうにきめこまかく、日本語と韓国語を読み分けるのか、訳し分けるのかと、そのこころの誠実さというか、ことばへのていねいさに感動してしまった。文の詩を日本語に紹介してくれた韓に感謝をこめて、記しておきたい。