詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井口幻太郎「指」ほか

2007-01-16 23:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
 井口幻太郎「指」ほか(「すてむ」36、2006年11月25日発行)。
 日本語はこういう使い方をするのか--読んだ瞬間、そう思う作品に出会うことがある。書かれたことばの「意味」というより、気持ちが何の説明もなしに、何かものの固まりのようにつたわってくる。たとえば井口幻太郎「指」の2連目4行目の「負い目」。

狭い工場(こうば)にプレス機を据え
一人で製缶の下請けをしている高広さんに
弟がいた
世間を呪い 毎日のように泥酔して来るので
錠を開けずにいたら 仕舞いに
アルミの門扉を鶴嘴で壊していった

若い頃仕事にあぶれているので
手伝いをさせてみたところ
指を飛ばしてしまった
七〇幾つになってもそれだけが負い目だ

 この「負い目」の美しさは、私のことばでは説明できない。ただ「負い目」とは、こういうときに、こんなふうにつかうのだ、と感じた、教えられた、というしかない。
 仕事を持たない男。その男に仕事をさせた。これは「負い目」とはまったく違った何かである。「負い目」を感じることではけっしてない。しかし、その仕事でその男が指をなくしてしまった。これは井口の責任ではない。それでも「負い目」を感じる。そのこころの動きに、なんというのだろうか、人間の気持ちというのはほんとうはこんなふうに動かなければならないのだ、と教えられた気持ちになるのである。
 泉鏡花の何という小説だったろうか。雪の道で人に出会う。相手は必ずしも好ましく感じている人間ではない。それでも、その人物はすれ違った相手に、「この道を行くと、道が崩れているところがある、気をつけなさい」という。吹雪だから、そのまま知らずに行ったら道を踏み外し転落して死んでしまう。そのことを恐れ、注意を喚起する。その作品の語りかけに何かが似ている。
 他人の命、他人の肉体をないがしろにしない。そういう人間としての基本的なものがここにあるのだ。



 青山かつ子「くりーむぱん」に、井口の「負い目」とは逆のことばがあることに気がついた。逆といっても他人の命をないがしろにしない、という生き方と逆というのではない。「私も生きているよ、わかるかい」という図太い声を感じた。ないがしろにするなよ、といっているわけではないが、何だか命がそこにある、わかるかい、という声である。

くりーむぱんを食べていると
祖母がきて
これは観音様の足なんだよ
そういって
切れ目からわって
端から口に入れる

-ふっくらと甘くて
ありがたい味がするねぇ-
歯のない闇が
ゆっくりパンをとかしていく

あちらでは観音様の足なんだ
妙に納得して わたしも
親指から順番に食べる

 「これは観音様の足なんだよ」というのはもちろん嘘である。嘘であるけれど、そこには「命」がある。祖母は、青山がこどものときクリームパンを食べているのを見て、それが食べたくなった。そして口実を作って食べた。その「口実を作る」ということのなかに「命」があるのだ。
 こういうことばは現実を作りかえるとか、ものの見方をかえるとか、というものではない。「新しい思想」というものではない。しかし、それは「思想」である。人間を人間らしく、個人を個人らしくする、絶対的な肉体そのもののような「思想」である。いや、「思想」というより、肉体にそなわった欲望、本能……、そうではなく、肉体と言い切った方が適切かもしれない。
 青山のこの作品の最終連。

もっと食べたい というと
祖母は
ほらッ と
じぶんの足をさしだした

 祖母はことばを差し出さない。「足」という肉体そのものを差し出す。祖母にとって、ことばと肉体は同じものである。嘘と肉体、方便と肉体は同じものである。いや、肉体は、ことばや嘘以上のものである。「ばかだねえ、ことばを真に受けるなんて。体を真に受けなよ、受け止めてみなよ」。ことばは「頭」で受け止めることができる。しかし、肉体を受け止めることができるのは肉体だけである。命だけである。

 こうした作品を読みながら、私は、私たちはいつ、どうやって、ことばと肉体が同じものであることを忘れてしまったのだろうか、とふと思うのだ。
コメント
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