詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「螺旋/多島海」ほか

2007-01-10 23:24:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 杉本徹「螺旋/多島海」ほか(「鐘楼」10号、2006年12月発行)。
 「鐘楼」ははじめて読んだ。新井豊美門下生(?)の詩人が中心になって発行されている同人誌らしい。魅力的な詩がならんでいる。杉本徹「螺旋/多島海」。

さまよう曇り空に鳩クララの血を
……探しつづける光は、人さし指をつたい
一滴、落ちた一滴、蝶番の音に射す
(わたしたちは、ふるえて、)
(日付のあかるむ螺旋、……)
ほら、惑星はみるみる一刻を賑わすんだ
    ……懐かしい舟の残像がショーウィンドーを過ぎ
甲州街道の岬の一節を、五時のの闇にくちずさんだ

 久しぶりに「抒情詩」を読んだと思った。「抒情」はどこからくるか。「一滴」「一刻」「一節」。繰り返される「一」から杉本の抒情は生まれてくる。それは断片であることへの決意、個(孤)であることへの決意から生まれてくる。書き出しの3行は、空にある血を(飯島耕一みたいだ)を探す光が蝶番に落ち、聞こえない音(しかし見える音)を響かせたというふうに、強引に「意味」を読み取ることもできるけれど、こうした「意味」を読み取ること(意味をつむぎだすこと)は、杉本のことばを疎外するだろう。「意味」を追うのではなく、先行する1行が次の1行によって否定され、否定しながら2行目は飛躍する。2行目は3行目によって否定され、3行目は2行目を否定することで飛躍する。そのとき、もう1行目は存在しない。常に、今という2行だけが孤立して存在し、悲鳴をあげるのだ。その悲鳴が杉本の「抒情」なのである。
 1行目の「鳩クララ」の「クララ」。その唐突な孤立から、すでに杉本の「抒情」は完璧にはじまっている。おもしろかった。



 小笠原鳥類「デザイン」。

水がいつまでも、流れる水の中で健康な
涼しいナマズを飼育する、流れと水圧、
この水槽であれば、深海魚も飼育できるので
科学雑誌の夢の写真では、深海魚の顔の写真が並び
この口で、大きな魚も食べます 映画になった
説明の文章もあった。ここには説明の文章もある。

 小笠原のことばは孤立するというより、ことばが行き来する、往復することで、その往復の間に広がるあいまいさ、あるいは往復がつくりだす意識の空間の幅の豊かさをつくりだす。往復するたびに、ことばは底力をためてどこかへ飛躍するというより、むしろ飛躍を拒絶する。飛躍を拒絶し、何ごとかを遅延する。遅らせることのできる快感に身をまかせてゆく。そう、ことばの運動も遅らせることができるのだ。一直線に、あるいはさらには飛躍することだけがことば(論理、イメージ)の仕事ではないのだ。遅延させ、なおかつその遅延を生き抜くこと--そういう体力があるのだ、というような喜びがある。遅延の中で、(遅延の中だからこそ)、「飛躍」ではなく、寝そべるようにして横へ横へとずれて行く。なだれて行く。寝そべりながら、ときどき手で空中をかき回すように、宙に浮かんだことばも引き寄せる。そういう肉体を感じた。



 キキダダマママキキ「最後の抜け道を壊ス」。引用がとても難しい作品である。文字の配列の仕方がうまく再現できないのである。(同人誌でぜひ確認しなおしてほしい。)

          水
                 水
 水
              水

 本文はもちろん縦書きなのだが、最後にあらわれるこの「水」が零れて散らばった水滴のように輝いている。縦書きなのに、というのも変な話だが、水平に広がった感じが眼に浮かぶ。引用して横書きにした瞬間、その輝きが消える。まるで文字そのものが水の肉体をもっているのに、それは縦書きの紙面の中だけに存在し、それ以外では存在しないように感じられる。
 キキダダマママキキは私の印象では「耳の詩人」(あるいは「声の詩人」)だったが、視力もとてもいいのかもしれない。



 新井豊美「草花丘陵」。私は長い間、新井豊美の作品が嫌いだった。いまでも好きとはいえないかもしれない。嫌いと感じるのは、たとえば書き出しの2行。

とある日の多摩川で
下着のような自我を濯ぐのだ

 この「自我を濯ぐ」という表現が嫌いなのである。「自我」という音と「濯ぐ」という音がつくりだす音楽が嫌いなのである。声が聞こえない。頭のなかで「意味」だけが動く。7行目に「ぬめる首筋を洗うのだ」とあるが、2行目の「濯ぐ」と7行目の「洗う」が逆だったら、ちょっと違った印象になったかもしれない。こういうことはもちろん新井の方に責任(?)があるのではなく、私の感じ方に責任があるのだが、どうもしっくりこないのである。意味も、イメージも、きちんとわかる(わかったつもり)。それなのに、私の耳が新井のことばを拒むのである。
 しかし、次のような部分はとても素敵だ。

(それにしても頭骨ひとつに付けられた名前の不思議
(「スズキイ」くん
(三十八年前の化石少年「スズキ」くん、この崖の
(灰色の縞目にも高校時代のきみに似た
(フタバサウルス・スズキイ
(細い目で面長の、おとなしい首長竜が眠っているかもしれない
(孵化する時を夢みる詩の卵も
(おさないきみの発見も

 1行を屹立させる強引さがない。しかし、そのかわりに自然な声の音楽が聞こえる。そういう声があってはじめて「フタバサウルス・スズキイ」という音が笑いになって立ち上がる。それは「頭」を笑わせるというより、肉体を笑わせる。なぜそれがおかしいのか、と問われても困るのだ。「頭」ではおかしいことなど何もない。しかし肉体は笑ってしまう。こういう、なんというか、どこかで肉体を刺激することばが、初期のころの新井のことばにはあったような気がする。それに再び出会えたようで、この部分だけは非常に好きだ。

コメント
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