詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中田敬二『夢幻のとき』

2007-01-08 23:03:47 | 詩集
 中田敬二夢幻のとき』(思潮社、2006年12月25日発行)。
 「対話・死の町をゆく」は次のようにはじまる。

-エトルリアへ行くんだ
-エッ?!  エトルラ…… ?
-墓をさがしに行くんだ
-エッ?!  (はだしでふるえてる) オヤ おでこにたんこぶが!
-自転車で転んだんだ 荷物をとりにもどった 忘れたんだ
-船は出てしまいましたよ
-ここはサルデーニャではないのか?
-エッ?!  ……ここは伊豆の大島ですよ
-ストロンボリが見えている
-ミハラ山でしょ

 この対話は2人の対話ではなく、1人のうちなる対話だろう。エトルリアへの墓探しの旅。その旅は常に中田の現実、日常をひきつれての旅である。中田は一方で紀元前5世紀をロレンスもひきつれて旅をする。時空を超えて旅をする。その一方で現実を意識しつづける。その「現実」がたとえば「伊豆の大島」ということばであらわされている。現実があるからこそ、時空を超えた「夢幻」の旅が可能なのである、ということかもしれない。中田の旅は「夢幻」一方に傾き、現実離れしてしまうということがない。つまり、そこには必ず現実からの視点、批判というものが入り込む--これは中田のことばの強みだろう。批評が中田のことばを抒情にまみれることから救っている。これは中田の詩のひとつの美点である。
 一方、中田は「夢幻」を簡単に「夢幻」と断定してしまっている。中田のなかの1人が見た風景の「夢幻」性を一瞬足りとも信じていないようなところがある。「夢幻」と「現実」を描くことで、「夢幻」をより鮮やかにするのだ、という手法を意識しすぎて、「夢幻」の種明かしをしすぎてしまう。

-ストロンボリが見えている
-ミハラ山でしょ

 この対話は、2人がほんとうに他人なら成り立たない。ほんとうに他人なら相手のいっていることがわかるはずがない。対話は次のようになるはずだ。

-ストロンボリが見えている
-エッ?!  なんのこと?
-あの山だ
-あれはミハラ山ですよ

 中田の対話では「ストロンボリ」が山であることを、「ミハラ山でしょ」とこたえた人物は知っていることになる。
 この詩は、あらゆることが何を指しているのか、あらかじめ知っている人間によって受け止められ、その結果として対話になっている。その結果、「夢幻」はあくまで「夢幻」にとどまり、現実へ侵食してこない。そこが物足りない。
 ロレンスも、その友人も登場するが、彼らは(あたりまえのことかもしれないが)中田の知っているロレンスであり、友人にすぎない。つまり中田を裏切らない。中田を裏切って、とんでもないところへと行ってしまわない。中田の知っていることを範囲内で動き回る。
 ここに書かれているのは、つまり発見ではなく、発見されたものの要約なのだという印象が残る。
 「夢幻」のななかへどこまでも突っ走り、それをつききったら突然新しい現実があらわれてこそ、「夢幻」を旅する意味があると思うのだが……。
 中田には中田なりの考えがあって、知っているものの視点を動かしているのだろうけれど、私にはそれが本当は何を探しているのかよくわからない。



 詩集中、一番おもしろく感じたのは「ナイ アル」。

オンナニヨクボウハナイトオモッテイタ
ナイハズダ ト
アッテハナラナイ ト
アルハズガナイ ト

 「ない」が「ある」を否定する形で言いなおされる。その言い直しの中に「詩」がある。意味はかわらない。かわらないけれど、言いなおさずにはいられない。そこに本当は「夢幻」があるのではないだろうか。「詩」があるのではないだろうか。
 たとえば「グランド・ゼロを行く」。その風景は多くの人が見た。そして多くの人がことばにしただろう。それでも中田はことばにせずにはいられない。他人のことばではなく中田のことばで言いなおさずにはいられない。そうした欲望の中に「詩」があるのだと思う。
 「グランド・ゼロを行く」のなかには「ナガサキ」が登場する。「浦上天主堂」が登場する。そうした中田の現実によって、もう一度言いなおす--グランド・ゼロを見つめなおす。その瞬間に「詩」があらわれる。「言い直し」が「詩」なのである。
 「対話・死の町をゆく」では、その「言い直し」が私には切実につたわってこなかった、ということなのだと思う。


コメント
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