詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今敏監督「パプリカ」

2007-01-28 15:57:36 | 映画
監督 今敏 制作 マッドハウス

 キャラクターのアニメーションが特徴的である。陰影が強調される。影がスムーズに描かれるのではなく、真夏の真昼の影のように深く刻まれる。網膜に強烈に焼きつく感じがする。それがそのまま潜在意識を照らす強い光になり、「夢」そのものを感じさせる。特に、悪夢を。逃れたいのに逃れられない悪夢を。夢がなんといっても怖いのは、それが異常なまでにくっきりと見えることである。見たくないものまでくっきり見えてしまう。その怖さが、網膜そのものを刺激する。
 アニメならではのシーンの連続--というところなのだと思う。この映画の評価はアニメの可能性を最大限に生かしているということにつきると思う。思うけれど……。
 私はアニメを見ながら、これを実写で見ることができたらどんなにおもしろいだろうと感じた。アニメなのに、アニメを忘れ、実写を切望していた。
 焦点がすべての存在にあたって、何もかもがくっきり見える。そして、それをどうすることもできない。何かしようとすると必ず障害物があらわれる。それも理不尽な形で。そういうことは実際の世界ではありえない。ありえない世界であるからこそ、それを実写で見たい、という欲望がわきおこる。
 筒井康隆がパンフレットで「もしかするとこの作品、おれの一番の傑作だったかもしれない」とつい思わされてしまいました、と書いているが、そう、そんなふうに、アニメであることを忘れるのである。小説のすごさを感じさせるし、これが実写だったらと、とてもとても強く感じるのである。アニメを見ながら、欲望のなかで、ほとんど実写を見ている。そんな錯覚に陥る。アニメだから、という安心感がない。というより、そういう安心感を拒否してスクリーンを見つめてしまう。
 ちょっと、いや、かなり異常な体験であった。この体験は、まだことばにできない。ことばにならない。

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難波律郎『難波律郎全詩集』(1)

2007-01-28 13:23:09 | 詩集
 難波律郎難波律郎全詩集』(書肆山田、2006年12月25日発行)。
 文体の美しさにひかれる。『十四中隊』の冒頭の「野」。その書き出し。

秋の 日の終わりの
かわいた溶暗を風の手が拡げる

 余分なものが何もない。それでいて、余分なものというか、過剰なものというか、今ここに書かれていないものが書かれているという予感のようなものがある。何かが、ことばとことばのあいだに広がっている。
 難波の詩は、そのことばとことばの間隔(間合い)が美しいのだと思う。
 第1行の「秋の 日の終わりの」の「秋の」のあとの1字あき。その呼吸のようなものが全体を支配している。1字あきはあってもなくても文の論理上の意味はかわらない。しかし、その呼吸がととのえるリズムには大きな違いがある。1字あきの一呼吸があって「日の終わりの/かわいた溶暗を風の手が拡げる」という改行を含めたリズムが生き生きとしてくる。
 「溶暗」という一瞬意識を立ち止まらせる漢語。それを「風」という日常的なことば、冒頭の「秋」と同様、誰にでもなじみのあることばが引き受け、つづいて「手」というこれもまた日常的なことばがつづき、こらに「拡げる」と一気に進む。
 そのリズムのなかに、何か不思議なものが見えるのである。「溶暗」ということばで難波が書こうとしたもの、書こうとして、そのことばだけでは書き表せない何か、まだ形にならない不定形なものが予感のように感じられるのである。
 この不思議な感じはどこからきているのか。
 「溶暗を」と「風の」のあいだにこそ、ほんとうは深い断絶のようなものがあるはずである。少なくとも、この詩を読んでいる私には、その二つのことばは容易につながらない。何かむりやりというとおかしいけれど、そこには難波独自のことばの連絡がある。難波にはわかりきっているけれど、しかし、わかりきっているがゆえにことばにできないような、つまり「肉体」になってしまっている連絡がそこにあり、その連絡が「あき」を拒んでいるのだと思う。
 そして、この連絡は、「秋の 日の終わりの」の1字あきとが、どこかで関係しているのだと思う。ふつうなら「1字あき」はない部分に「断絶」の強調があり、ふつうなら「断絶」があるはずなのに、いっきの飛躍が、そこにあるはずの「架け橋」を吹き消してしまう。その不思議な「1字あき」の存在と、「1字あき」以上の隠された断絶の存在。そのふたつがつくりだすリズムが、難波のことば全体に不思議な予感を引き込むのだと思う。

剃刀程の流れを懐に
野は絞首後の広場のように
贓物臭い

吊るされたままからびる果実……
……たゆむ樹の骨 茜の狂気

 「断絶」をつなぐ「橋」がすべて省略されている。剃刀、絞首、臓物、からびる果実、樹の骨、狂気。「溶暗を」から「風の」へのつながりと同様、そこには何がそのことばを連絡しているかが省略されている。そういうことばを呼び込むものが難波の「肉体」であるとだけ唐突に宣言されている。
 この省略を引き受ける難波の「肉体」、そのリズムが美しいのだと思う。

 このリズムはいったい何だろう。どういう具合にことばにすれば私の感じているものを明確にできるのだろうか。「古い写真によせて」のなかの一語がその役に立ってくれるかもしれない。

風は窓から 鏡のうえをすべる
鏡に写るカンナ カンナのうしろで光る海 遠い海……

……その伸び縮みする青い響きに しずかな午後のとき

 「伸び縮みする青い響き」。これは波音の比喩だろう。その比喩のなかの「伸び縮み」ということば。難波の書くことばとことばの間合いは自在に伸び縮みするのである。そしてそれがリズムになり、音楽になる。そして、その音楽は「青い響き」のように、いつも透明である。そのときどきで色々な色がついているかもしれないが、透明さを感じさせる。
 そして、その透明さを支える「肉体」。それを私は「正直」と呼びたいと思う。難波のなかにあるどうしようもない「正直」な部分。それがある部分で不思議な「一字あき」となり、ある部分で不思議な「間のない」つながりとなる。
 人間には語れることとと語れないことがある。あるいは語ってはいけないこともあるかもしれない。そういうものを人間は「肉体」で引き受ける。そうしたものを引き受けてきた「肉体」が、難波のことばを支えている。
 そう感じるのである。
 「十四中隊」もすばらしいが、「アブダラ--古い写真によせて--」がとてつもなく美しい。正直さ、正直であることの一種の恥じらい、美しくあることの一種の恥じらいのようなものが「アブダラ」ということばに凝縮している。「アブダラ」が「アブダラ」であることを難波の「肉体」が引き受けて、そして、どうすることもできなくなって泣き崩れる。
 難波の詩について何か批評するとすれば、ほんとうは、この正直さと私がどう向き合ったかということを書かなければならないのだと思うが、圧倒されて、書くべきことばがみつからない。最後の2連を引用する。全体は、ぜひ、詩集で読んでください。

とにかく愉快なやつだったが
それからあとは もう歌えない

アブダラ 本名虻田 良 特別操縦見習士官
昭和十九年十月十五日未明 享年二十 レイテ湾で死んだ

 書いても書いても書けないものがある。それを見つめる難波の「肉体」の悲しみが、書かれたことばの深い深い場所から、ことばをかきわけるようにして立ち上がってくる。そういうことばの自然な動きを引き出すのが難波のリズムなのだと思う。



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