詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(16)

2007-01-24 13:11:36 | 詩集
 現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
 散文詩集『夢のソナチネ』(1981年、集英社)は文字通り夢を描写している。夢でしかありえない不思議な飛躍、ずれが、強靱な文体で描かれている。「青と白」「便器と包丁」のように「と」を含んだものもある。その「便器と包丁」は野球連盟の事務局につとめていたときの夢である。何度か事務所が引っ越している。その引っ越しの何回目か。清岡は尿意を覚え、トイレに駆け込む。すると、便器のなかに包丁が沈んでいる。

 私の仰天は二つの思いに分裂していた。一つは恐怖である。私の下腹部に秘かに擬せられていたかのような包丁。それはペニスあるいはホーデンの切断という脅しをかけているのではないか?(略)
 二つに分裂した思いのうちのもう一つは、審美的な感嘆である。どちらもまっさらなものである便器と包丁が、澄みきった水によって結びつけられるという奇妙な組合わせに、ある緊張の魅力を覚えたのである。それを一つの美、一つの歪んだ美と呼ぶことは、滑稽だろうか?

 二つの思いのうちの後半のもの。そこに清岡の「詩」の原形のようなものがくっきりと説明されている。何かと何か。その組み合わせを清岡は「結びつけられる」と書いている。そして、その結びつきを「緊張」と呼んでいる。
 この「緊張」はとても不思議な定義である。清岡独自の定義であると思う。
 便器と包丁には、私の感じではどんな「緊張」もない。野菜と包丁なら、そこには野菜を切るという緊密な関係がある。そしてそのとき指を誤って切るなら、指と包丁の間には緊張した関係が生まれる。便器と包丁では、そのどちらも相手に作用することはいっさいない。無関係である。単なる出会いである。
 それが「緊張」したものに感じられるのは、実は一つ目の恐怖、ペニスやホーデンが包丁で切断されるかもしれないという恐怖があってのことである。「澄みきった水によって結びつけられる」と清岡は書いているが、ほんとうは、「尿意」によって、トイレという場所で、清岡の肉体と便器が出会い、清岡のペニス(肉体)と包丁が出会っている。緊張の奥には肉体が潜んでいるのである。また、「尿意」の「尿」、その黄色く肉体の老廃物にまみれた水(肉体)と、便器のなかのまっさらな水の出会いも、ほんとうはそこに隠れている。「澄みきった水によって結びつけられる」は目に見える現象であり、ほんとうは「尿意」(肉体のなかの尿)によって便器と包丁は結びつけられているのである。
 清岡の文体は清潔であり、また論理的であるために、そのことばは精神・頭脳というものに強く支配され、リードされているように感じるけれど、実は、その奥にはかならず肉体がある。肉体感覚がある。それがことばにふくらみを与えている。このことを忘れてはならないと思う。
 そして、この「緊張」を清岡は「美」と呼んでいる。
 あるものとあるものが出会い、結びつく。そのあるものとあるものが、日常のなかではほとんど出会うことのないものである場合、その結びつきは、「緊密」(包丁と野菜のような関係)ではなく、「緊張」(包丁と無防備な肉体)になる。肉体の危機、とは自分が自分でなくなってしまう可能性を秘めている。そうした「緊張」が「美」である。もちろん肉体が危機にさらされるだけでなく、それが実際に危害を加えられてしまえば、そういうものを「美」などとは呼べないけれど、危害が加えられないあいだは「美」である。いわば「歪んだ美」である。
 そして、この日常ではありえない出会い、というものを考えるとき、また「円き広場」が思い浮かぶ。どこからかやってきて「広場」にたどりつく。そしてそこから目的とは違った道に間違って入ってしまう。すると、そこには予想外の出会いが生まれる。人間とものとの関係が一気に緊迫する。ときには危険なものにもなる。そういうスリルを含んだ世界のありようが「円き広場」を中心にした世界なのである。そして、清岡は、そういう緊張した世界に「美」を感じるのである。

 清岡は「と」による出会い、結びつき、その緊張と「美」。 清岡は常に「美」を描こうとしている。「美」の体験を描こうとしている。「牡丹のなかの菩薩」(『駱駝のうえの音楽』)には次の行がある。

現世を愛するための唯一の通路は
真理ではなく
慈悲でもなく
ほかならぬ美であるということを
あの顔は教えてくれたのであった。

 清岡は「真理」も「慈悲」も描こうとはしていない。「美」だけを追い求めているのである。引用部分のつづき。

白く大きな 満開の牡丹の花に
その魅惑のまぼろしを
わたしはきょう 生き生きと感じた。
幻影となることによって
美は確実なものとなる。

 「魅惑」はこれまで何度か書いてきた「放心」につながる。魅惑され、人間は「放心」する。自分が自分であることを忘れる。それは自分の「枠」を見失い、自分以外のものと融合することでもある。そして、そうやって自分を見失ってしまうとき、人間は「生き生きと感じる」。もちろん自分の肉体がとけて、何か別なものと融合してしまうということなど実際にはありえない。そういう思いは「幻想」(幻影)である。だからこそ、その幻影は絶対的な「美」なのである。
 清岡は精神と肉体の関係も、どこまでも徹底的に追い詰めていく。そして、そこにことばの運動を展開する。
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