現代詩文庫165 「続続・清岡卓行詩集」(思潮社、2001年11月20日発行)。
『初冬の中国で』(1984年、青土社)は中国旅行を題材にしている。現代の中国を旅行し、清岡は古代の中国に、たとえば李白に会う。時間と場所の交錯。その瞬間が「円き広場」である。「蘭陵酒」。そのなかで「わたしの頭はこころよく混乱しはじめた。」と清岡は書く。「蘭陵(ランリョウ)ノ美酒(ビシュ) 鬱金(ウコン)ノ香(カオ)リ/玉椀(ギョクワン) 盛(モ)リ来(キタ)ル 琥珀(コハク)ノ光(ヒカ)リ。」と李白が詩に書いた酒と今、そこにある酒が違っているからである。
李白の詠んだ蘭陵酒「と」清岡が今のんでいる蘭陵酒。そのあいだに広がる差。それを埋めようとして清岡の「頭」はいろいろ考える。「円き広場」の放射状の道のように、それはあらゆる角度へ伸びて行く。さまざまなものを結びつける。「比喩」という「頭」のなかのことばさえひっぱりだす。そんなふうに広がり、交錯することで「頭」は「肉体」になる。李白のことばが李白のことばのまま清岡を動かすのではなく、清岡自身のことばが動き回り、「円き広場」そのものになってしまう。
「こんがらがってきたぞ」。清岡はそう書いている。「頭」はこんがらがることはない。「肉体」になってしまったからこんがらがるのである。「頭」がいつも同じ場所で動かないのと違って、手や足は方々に動いて、ときには邪魔さえする。ごんがらがりながら存在するのが「肉体」である。
答えは一つであるはずなのに、「円き広場」になってしまった肉体は、どの答えだっていい、と主張する。それは、どの答えだって間違っている、ということでもある。正しくて、同時に間違っている。あるいは、正しいから間違える。間違えるからこそ正しい。それが「肉体」化した「頭」のありようである。清岡は、いつもそういう世界を描いている。正確に書こうとすればするほど間違いが増え、間違いが増えれば増えるほど、正しくなる。「円き広場」はそうした世界である。「円き広場」からどこかへ行く。そのとき、そのたどった道はそれぞれ別個のもの(重なり合わない、合致しない--間違っている、というのは何かと合致しないということだ)だが、必ず「円き広場」とつながっているという「正しさ」とつながっている。
この「こんがらがり」、混乱、あるいは錯乱を「美」と言う。
清岡は「美」に酔い、放心する。放心したときのみ、「肉体」はひとつになる。「美」を呼吸する存在になる。そのとき「肉体」は充実し、「頭」は「空白」になる。「地平線を走る太陽」の最終連。
*
「望郷の長城--海の匂い」と「長城で--境界線の矛盾」は一対の形で読まれるべき作品かもしれない。
清岡は万里の長城で大連を、その海を思い出している。海から遠い場所で、遠い遠い海--思い出の海を思い出している。
その海は、ほんとうに海なんだろうか。
海「と」夜空の出会い。まるで海ではなく、夜空を見上げて、そのまま夜空を海と間違えてダイビングするような不思議な感じ。落下と昇天が同時に存在する。その錯乱の「美」。海「と」空を分け、同時につなぐ「わたし」。
海は自然がつくった「長城」であり、中国と日本をわける。そして隔てながら、同時に結びつける。分離する力が同時に分離しているものを結びつける。海「と」夜空が「わたし」によって分離され、「わたし」によって結びつけられ、融合するように。
この混乱のなかに「美」があり、「詩」がある。
「長城で」には「わたしは 自分の顔を忘れる。」という美しい行がある。なぜ、清岡は清岡の顔を忘れるのか。長城がつくりだす境界線によって対立するものをまざまざと思い描くからだ。
万里の長城は「円き広場」ではない。しかし、人間の想像力は、ある世界を区切る存在さえも、それが区切るという働きをするがゆえに、そこから逆に、結びつけるものをもつかみとる。
これは矛盾である。矛盾であるがゆえに、そこに思想がある。
万里の長城によって区切られた北と南。そこに住む人間。その人間たちは、北と南に区切られていても同じように死んで行く。そういう死を思い描くこと。その死をなげく人がいる、たとえば娘がいると思い描くこと。万里の長城の意図に反して、そういうものを思い描くこと、その矛盾こそが思想である。そして、詩である。
清岡の描く「美」がいつも私をとらえるのは、それが思想だからである。「円き広場」、その対極にある「万里の長城」。そこから始まることばの運動は、逆方向に見えても、ほんとうは同じである。区切りながら結び合う。結び合いながら別れる。その混乱、あるいは混乱ゆえの自在さ。その酩酊。その放心。矛盾ゆえに、それは世界そのものになる。
『初冬の中国で』(1984年、青土社)は中国旅行を題材にしている。現代の中国を旅行し、清岡は古代の中国に、たとえば李白に会う。時間と場所の交錯。その瞬間が「円き広場」である。「蘭陵酒」。そのなかで「わたしの頭はこころよく混乱しはじめた。」と清岡は書く。「蘭陵(ランリョウ)ノ美酒(ビシュ) 鬱金(ウコン)ノ香(カオ)リ/玉椀(ギョクワン) 盛(モ)リ来(キタ)ル 琥珀(コハク)ノ光(ヒカ)リ。」と李白が詩に書いた酒と今、そこにある酒が違っているからである。
今ここにある蘭陵酒は 無色透明で
いかにも白酒(パイチュウ)らしい匂いだ。
盛唐のころ 蘭陵酒の美酒は
別の匂い 別の色をもった
醸造酒であったということか?
それとも 今と同じ蒸溜酒ではあったが
多年草である鬱金の根茎を
香料としてそのなかに浸したため
アジア熱帯ふうの香りを放ち
琥珀色に近い黄色が滲み出たということか?
いや それとも 鬱金の香りの実体はなく
それは酒の匂いについて 選び抜かれた
きらびやかな比喩であったということか?
そして 琥珀の光りは
詩人が手にした玉椀が
白玉製や緑玉製ではなく
琥珀色の玉でできていたということか?
とにかく へんにこんがらがってきたぞ。
李白の詠んだ蘭陵酒「と」清岡が今のんでいる蘭陵酒。そのあいだに広がる差。それを埋めようとして清岡の「頭」はいろいろ考える。「円き広場」の放射状の道のように、それはあらゆる角度へ伸びて行く。さまざまなものを結びつける。「比喩」という「頭」のなかのことばさえひっぱりだす。そんなふうに広がり、交錯することで「頭」は「肉体」になる。李白のことばが李白のことばのまま清岡を動かすのではなく、清岡自身のことばが動き回り、「円き広場」そのものになってしまう。
「こんがらがってきたぞ」。清岡はそう書いている。「頭」はこんがらがることはない。「肉体」になってしまったからこんがらがるのである。「頭」がいつも同じ場所で動かないのと違って、手や足は方々に動いて、ときには邪魔さえする。ごんがらがりながら存在するのが「肉体」である。
答えは一つであるはずなのに、「円き広場」になってしまった肉体は、どの答えだっていい、と主張する。それは、どの答えだって間違っている、ということでもある。正しくて、同時に間違っている。あるいは、正しいから間違える。間違えるからこそ正しい。それが「肉体」化した「頭」のありようである。清岡は、いつもそういう世界を描いている。正確に書こうとすればするほど間違いが増え、間違いが増えれば増えるほど、正しくなる。「円き広場」はそうした世界である。「円き広場」からどこかへ行く。そのとき、そのたどった道はそれぞれ別個のもの(重なり合わない、合致しない--間違っている、というのは何かと合致しないということだ)だが、必ず「円き広場」とつながっているという「正しさ」とつながっている。
この「こんがらがり」、混乱、あるいは錯乱を「美」と言う。
清岡は「美」に酔い、放心する。放心したときのみ、「肉体」はひとつになる。「美」を呼吸する存在になる。そのとき「肉体」は充実し、「頭」は「空白」になる。「地平線を走る太陽」の最終連。
より爽やかな到着のためには たぶん
天変地異にすこし似た
たいへん美しいものによって
意識を しばし
空白にしておくといいのだ。
*
「望郷の長城--海の匂い」と「長城で--境界線の矛盾」は一対の形で読まれるべき作品かもしれない。
清岡は万里の長城で大連を、その海を思い出している。海から遠い場所で、遠い遠い海--思い出の海を思い出している。
その海は、ほんとうに海なんだろうか。
澄みきった水の底には
波で円くなった 無数の小石の
絨毯が敷かれている。
それは 太古の夜空から
落ちて 砕けて 散らばった
星のかけら。
幼いわたしは ボートのふちから
童話めいたその伝説の
水の底を覗きこむ。
頭から
真逆さまに落ちるまで。
海「と」夜空の出会い。まるで海ではなく、夜空を見上げて、そのまま夜空を海と間違えてダイビングするような不思議な感じ。落下と昇天が同時に存在する。その錯乱の「美」。海「と」空を分け、同時につなぐ「わたし」。
海は自然がつくった「長城」であり、中国と日本をわける。そして隔てながら、同時に結びつける。分離する力が同時に分離しているものを結びつける。海「と」夜空が「わたし」によって分離され、「わたし」によって結びつけられ、融合するように。
この混乱のなかに「美」があり、「詩」がある。
「長城で」には「わたしは 自分の顔を忘れる。」という美しい行がある。なぜ、清岡は清岡の顔を忘れるのか。長城がつくりだす境界線によって対立するものをまざまざと思い描くからだ。
やがて夜がきて
月の眼が地球の長城の線に
くりかえし驚くとき
わたしは 北の丘で死んで行く
遊牧騎馬の 若い奴隷の兵士だろう。
馬乳酒(コスモス)のきのうの宴(うたげ)
別れを思わず
そこで舞った 異族の娘よ!
そして同時に わたしは
南の林で死に絶えようとする
農耕定住の 若い徴募の兵士だろう。
万里の長城は「円き広場」ではない。しかし、人間の想像力は、ある世界を区切る存在さえも、それが区切るという働きをするがゆえに、そこから逆に、結びつけるものをもつかみとる。
これは矛盾である。矛盾であるがゆえに、そこに思想がある。
万里の長城によって区切られた北と南。そこに住む人間。その人間たちは、北と南に区切られていても同じように死んで行く。そういう死を思い描くこと。その死をなげく人がいる、たとえば娘がいると思い描くこと。万里の長城の意図に反して、そういうものを思い描くこと、その矛盾こそが思想である。そして、詩である。
清岡の描く「美」がいつも私をとらえるのは、それが思想だからである。「円き広場」、その対極にある「万里の長城」。そこから始まることばの運動は、逆方向に見えても、ほんとうは同じである。区切りながら結び合う。結び合いながら別れる。その混乱、あるいは混乱ゆえの自在さ。その酩酊。その放心。矛盾ゆえに、それは世界そのものになる。