詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

利岡正人「流出点」ほか

2007-01-19 14:12:50 | 詩集
 利岡正人「流出点」ほか(「鰐組」219 、2006年12月1日発行)。
 利岡正人「流出点」は書き出しにひかれ、同時に書き出し(といっても2連目だが)に疑問を感じた。

わたしたちはよく喋る。
本当によく喋る。
喋りながらわたしたちは漏洩する。

わたしたちは河川に垂れ流しだ。
川下に向けて
ひたすら喋りながら
わたしたちそのものが垂れ流しだ。

 「何を」漏洩するか、省略されている。省略されているが、それでいいのだと感じさせるリズムである。「何を」が省略されることで、実は「わたしたちそのもの」が漏洩するということが暗示されているからである。「何を」とは特定できないもの、すなわち「わたしたちそのもの」という全体が漏洩してしまうということが暗示されているからである。
 これは「何を」を言わないことによってはじめて可能なことがらである。
 この暗示を有効にしているのはリズムである。最初の3行によくあらわれていると思うのだが、ここで明らかにされているのは、そこに存在するのものが繰り返しのリズムであるということだけだ。そして繰り返しのリズムがあるということは、そのリズムをつくりだしているものがあるということ、すなわち「わたしたち」が存在するということである。漏洩するものは存在するものだけである。存在しないものは漏洩しない。がたらこそ、「わたしたちそのもの」が漏洩していくということがわかるのである。
 このことをもっと明確にするためとに何が必要か。何も言わない、ということだ。リズムだけ存在させ、新しい内容(ことば)をもちださない。その禁欲さが楽しい。そして、同じリズムを繰り返すことで、内容、あるいは意味を引き延ばし、遅延させることで、読者のなかに何かが生じてくるのを待つ。「わたしたち」が徐々に、それしか存在しないのだと感じられるまでになってくるのを待つ。これは同時に、利岡自身もひとりの読者となって、その引き伸ばし、遅延の果から「わたしたち」が生じてくるのを待つということでもある。
 そういうふうに解釈(?)したうえで不満をいうとしたら、利岡自身が待ちきれていない。引き延ばし、遅延というのは、もっともっと引き延ばし、遅延しつづけなければいけない。
 「川下に向けて」流れ出してしまっては「海」へたどりつくのはわかってしまう。予定調和というと変かもしれないけれど、2連目で「川下」がでてきた段階で、最終連の「海」が見えてしまう。「海」を見せてしまったのだから、「海」ではなく、延々と、くねくねと運河となるか、どぶ(溝?)となるかは別にして、街をたゆたいつづけないとおもしろくない。「海」へたどりついてしまったら、がっかりしてしまう。「海」ではなく、垂れ流しが洗い続ける「岸」をこそ見たい。何かにぶつかりながら「淀み」となってにごってしまうところを読みたい。流れて行ってしまうものが「わたしたち」ではなく、流れながらもそこに存在し続けるものが「わたしたち」なのだろうから。
 「遅延」の楽しみは、「淀み」の深さ、不透明さにある。不透明さとしてどうしようもなく存在してしまうのが「わたしたち」というものではないのだろうか。
 繰り返し、遅延を狙いながら、まるで急流である。「海」へ行ってしまったのでは、「わたしたち」はどこにも残っていない。「何を」を省略した意味がない。



 仲山清「鳥居から鳥居」は何が書いてあるのかわからない。わからないけれど、後半、思わず引き込まれた。特に次の3行。

わたしはゆれる羊水に浮かんでいた
ゆれるのは、母なるひとが男と言い争っているからだった
生まれるのがいやな気がした

 利岡の詩について「遅延」ということばで私が期待したのは、こういう3行のことである。「羊水」と「水」が出てくるからいうのではないが、「流れ」が遅延するとは単にそこにとどまり、淀むだけではなく、淀みを引き起こすきっかけとなった障害物に水がぶつかることで生じる小さな逆流のようなもものもあり、それが流れそのもの、「源流」を汚染し、いっそう淀む。「いやな」感じ。そして「いやな」感じがわかってしまうこと。それが遅延のもっとも魅力的なことではないだろうか。「わたしたち」がどうしようもなく存在してしまうおもしろい部分ではないだろうか。
 仲山の詩では、「母なるひとが男と言い争っている」ということが引き金となって「いやな」気持ちを引き出す。そのことに注目するなら、逆流というのは過去の突然の噴出かもしれない。
 こういう噴出があると、詩の中の時間が急に豊かになる。そして「誤解」「誤読」の楽しみが増えてくる。つまり、かってな想像をする楽しみが増えてくる。
 仲山の詩は、どこか短編小説ふうなところがある。この詩などは、主人公の父は母に妊娠させはしたけれど、結婚は別の女と結婚した。主人公は、事情があって、(たとえば母が重病で、最後に「父」と会いたいと言っているとか……)、男に会いにゆく。そのときの気持ちだけを取り出して書いているように読むことができる。
 利岡が「何を」漏洩するか明らかにしなかったように、仲山は男の正体(男と主人公の関係)を明らかにせず、明らかにしないことで出会いを遅延させ続ける。そして、その遅延のさなかに時間の逆流(過去の噴出)を描くことで、ことばが遅延し続けなければならなかった理由を明らかにする。
 引用した3行によって、遅延そのものが、単なる遅延ではなく、感情・こころとして立ち上がってくる。
 遅延が読みたいのではなく、遅延を選択するしかなかった人間の悲しみ、苦しみが読みたいのである。人間そのもの、「わたしたちそのもの」が読みたいのである。仲山は、そういう読者の(私の?)欲望にこたえてくれる。利岡と仲山の作品を並べて見たとき、私には、仲山の作品の方が、何が書いてあるのかわからないにもかかわらず、大切なものに思えてくるのだった。

コメント
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