詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(13)

2007-01-06 23:44:19 | 詩集
 現代詩文庫126 「続・清岡卓行詩集」(思潮社、1994年12月10日発行)。
 「萩原朔太郎『猫町』私論第十二章」は萩原朔太郎のことばについて書いているのだが、そのなかに清岡自身のことばにもあてはまる部分がある。

 『猫町』の本体というか、その第一章から第二章へとつづく展開は、その組み立て方を横から見ると、日常的な表現から出発してロマンティックなものへ旅行し、そこからまた日常的な現実へ戻ってくるという話を、いわば微妙な変奏によって、四回ほどくりかえすことから成立していると言っていいだろう。くりかえされるその旋回は、もちろん、内面により深く錘鉛をおろそうとすると同時に、外部の現象の背後により遠く迫ろうとするためのものである。

 「より遠く迫ろうとする」という表現が象徴的にあらわしているが、ここで書かれている「くりかえし」は「遠心求心」に通じる「くりかえし」である。くりかえすことで外部と内部を固く結びつけ、その結びつけを「宇宙」「世界」としてしまう。それは清岡自身の詩の世界である。
 清岡の多くの作品も日常的な表現から出発してロマンティックなものへ旅行し、あるいはより精密な細部へと旅行し、また日常へと戻ってくる。その往復をくりかえすことで、世界の構造をすこしずつふくらませる。その1回1回の往復は、たとえて言えば「円き広場」の放射状に広がる10本の道の1本1本である。往復をくりかえすことで、その世界は「円」に近付く。「円」はこのとき「完全」な形の象徴である。円の中心を通る直径は円の遠くと遠くを結ぶ最短のものであり、同時に最長のものである。清岡の表現しようとしているものは、「円」と「中心」と「交錯する道」である。そして、その「中心」が「と」ということばである。

 「「現代詩」という言葉」のなかにシュールレアリスムについて触れた部分がある。その言及にも清岡の詩を自身で解説しているように思えることばがある。

 (シュールレアリストたちは政治的に左翼、右翼に拡散していった。--谷内補記)このことは、既成の諸価値の否定のうちに夢みられた人間の新しい全体性と、選ばされた実際行動との間にある矛盾を告げているものだろう。しかしまた、こうした矛盾のうちに生じる緊迫にこそ、シュルレアリストたちの自由は宿っていたといえるかもしれない。


シュルレアリスムの展開は、外部現実の投影におびやかされた裸形の自我の、ぎりぎりの一線を示して、逆襲の拠点を構成しているように見える。

 「矛盾のうちに生じる緊迫」。これは「遠心求心」の緊迫である。そして、その緊迫が「自由」でもある。清岡は「遠心求心」の緊迫感に満ちた世界が同時にあらゆる自由へ通じることを知っていた。清岡が「と」を中心にして「円き広場」的な世界を言語で構築するのは、その構築によって精神が自由になることを知っているからである。
 そして「円き広場」の中心点、すべての道があつまる地点、「と」の場所は、あらゆる逆襲の拠点でもある。そこから一直線に精神は外部へ向けて噴出する。「直径」という最短の道を通って、円周のもっとも遠い場所へと一気に噴出する。
 『猫町』について触れていた文章にでてきた「より遠く迫ろうとする」とは、こういう緊迫感のある精神のありようを表現したものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする