詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安川奈緒『MELOPHOBIA』

2007-01-07 21:23:12 | 詩集
 安川奈緒MELOPHOBIA』(思潮社、2006年11月23日発行)。
 最初、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。84ページまで読み進んできて、やっと安川のことばの動き、思想がわかったような気持ちになった。
 《愛人X》から《夫》への手紙のなかの文章。

話は変わりますけど、最近また電柱が増えていると思いませんか?いったい宅地造成になにがあったのでしょうか。あと、昼ご飯のスパゲティにお洒落なイヤホンが混入していたのですが、私は人から嫌われやすいのでしょうか。

 「あと、」が安川の思想である。電柱が増えていることと、スパゲティのなかのイヤホンは本来何の関係もないものである。それを「あと、」ということばで呼び出し、つなげていく。このとき存在するのは《愛人X》という肉体だけである。一個の肉体が無関係なものを「あと、」ということばでつないでゆく。そうすることで《愛人X》の時間を明確にする。
 手紙には「追伸」があるが、この追伸は「あと、」を書き換えたものである。前に書いたことに追加して何ごとかを書く。それが追伸。
 そして、この「あと、」というのは、実は「過去」のことである。手紙のなかの「現在」の時間、たとえば電柱が増えているという現在の問題からこぼれ落ちていた「過去」。それが「あと、」ということばで呼び出されている。
 芝居(戯曲)と小説の違いを説明するのに、三島由紀夫は「過去」の描き方に注目していた。(「文章読本」だったと思う。)小説はことの次第を順々に描いてゆける。芝居は登場人物が常に過去を現在のなかに呼び出しながらことばを動かす。--それに通じる「過去」が「あと、」で呼び出されているのである。「あと、」によって「過去」が呼び出され、「現在」が活性化し、「未来」へと時間を動かしてゆくのである。
 安川の詩は、したがって「あと、」を補って読むと、とてもわかりやすくなる。「あと、」が省略されているのは、それが安川にとって自明のこと、肉体にしみついた思想だからである。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。
 たとえば、「週末のおでかけ」。そのもっとも魅力的な5行。

どうやって耐えるのか
びんかんな右の耳に
「あそびにいこうよ」
穴のあいた左の耳に
「しんでほしいよ」

 この唐突な5行の前に「あと、」を補うと、それが《愛人X》の手紙の「スパゲティのなかのイヤホン」と同様、ふいに侵入してきた「過去」であることがわかる。いま、そのことばが語られたのではない。スパゲティのなかにイヤホンが投げ入れられたのが食べている現在ではなく過去であるように、右の耳、左の耳にことばが囁かれたのは現在ではなく過去であり、その過去が唐突によみがえっているのだ。それも前に書かれたことがらとは無関係に、つまり文脈を無視して。
 この文脈の無視は、手紙の「追伸」がそうであるように、第三者にとっては文脈の無視ではあるけれど、当人たちにとっては語られなかった文脈の過去がある。共通の過去がある。
 「あと、」は文脈の無視であると同時に、過去の文脈、置き去りにしてきた文脈の復活でもある。この過去による現在の活性化によって安川のことばは刺激的なものになっている。

 ただし。
 「《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》」という作品に関していえば、この「あと、」が効果的なのは先の引用部分だけである。同じ「あと、」の使い方が、《妻》から《愛人X》への手紙にも出てくる。

あと、夫に「逆走するのが下手ではないね」と言われました。意味がまったくわかりません。あと、夫の洗濯槽への柔軟剤をたらすそのたらし方が気にさわりました。

 妻=愛人Xであることの種あかしだろうか。それとも安川は安川自身の「キーワード」に気がついていなくて無造作に「あと、」を使ってしまったのか。たしかに「キーワード」とは作者にとって無意識のことばだが、(というか、意識せずに使ってしまうことばだが)、読み返し、整理すべきだったろうと思う。
 ことばが上滑りして動いていってしまうところがあるのが残念だ。


コメント (2)
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高橋睦郎「詩人を殺す」、北川透「窯変論」

2007-01-07 01:28:47 | 詩集
 高橋睦郎「詩人を殺す」、北川透「窯変論」(「現代詩手帖」2007年01月号)。
 高橋睦郎の作品の末尾の2行。

私たちのなかの詩人を殺す以外に
詩を救う方策はない

 これは痛切なことばである。「詩は病んでいる」。詩の内側からむしばまれている……というようなことが語られ、 100年前にひとりの中国の詩人が身を投げたという人工湖のほとりに立って、高橋は、そういう結論に達した。

その頃すでに 詩は救いがたく病んでいた
病因はほかでもない 詩人なのだ
詩人が内側から 詩を蝕んでいる
詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったに違いない

 この行を読んだとき、私はふいに谷川俊太郎の「詩人の墓」を思い出した。「何か言って詩じゃないことを」という1行を思い出した。「詩」は「詩じゃないこと」のなかにしかない。これは矛盾だが、矛盾だからこそ真実なのだ。
 「詩」と呼ばれるものを一つ一つ否定していく。そこからはじまることばの運動。そこにしか「詩」は存在しない。「詩は何か」という既成事実のようなものを拒絶する、それまでの「詩人」のすべてを拒絶する。そういうことを高橋は「殺す」と言い換えている。

*

 北川もまた「詩」を殺すことに懸命である。

黄とは何でござりましょう。アッ、ハン、漢字の世界でしょうな。
バカ言っちゃ、いけない。黄は黄変し、漢字は妖変する。
黄は黄であって黄ではない、正体不明の熱量。
漢字は弱い葦をたぶらかす、有毒物質。
見ていろ。やがて黄に炙られた空が、大音響とともに落下してくる。

 何を書いているのか。おそらく高橋が書いていることと共通する。中国の詩人との交流で考えたことを書いている。北川は高橋のように「意味」を正確にしようとはしない。「意味」という病を詩が病んでいると感じているからだ。意味になる前の、ことばにならないものをことばにしようとしている。矛盾であるが、その矛盾が「詩」である。
 「意味」を拒絶するというよりも「意味」を破壊する。そんなことは、本当は、しかしできない。どんなふうにでたらめを書いても、それがことばとして書かれてしまったときから、それは解読され、解読をとおして「意味」に堕落する。詩はいつでも「意味」に堕落するものとして存在する。--ということさえ、「意味」になってしまう。
 どこまで、それに対してあらがえるのか。

 北川の作品に出会うと、私はいつでも、「ああ、私は呑気な感想を書いているなあ」と思ってしまう。私の思考は、どうすればもっとも破壊的でありうるかというようなことより、その破壊のなかにさえ、何かを構築しようとする力を感じ、それに対して、いいなあ、と思ってしまうのだ。
 北川が破壊しようとしているもの、それを私ならこんなふうに破壊することができる、というような提案がほんのちらりとも思い浮かばない。
 そのことは北川の作品が非常にすぐれているということなのだが、北川は、そんな呑気な感想など誰にも求めていないだろう。北川のことばの運動を越えて、だれかが、北川の破壊しそこねていることば、詩というものを、徹底的に破壊することの方こそ望んでいるに違いないと感じる。
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