詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡修『蛇』

2007-01-21 23:27:46 | 詩集
 高岡修『蛇』(思潮社、2006年12月20日発行)。
 高岡のことばはとても清潔である。透明である。
 「天網の蛇」の第1連。

火にも
凍点がある
むしろ火は
凍点の周囲に
思念の肉を燃えさせる

 むだなことばがない。だから清潔である。そして、「火」と「凍点」という、いわば反対の概念のすばやい衝突が余分なものを削ぎ落としているこのために透明な印象が強くなる。
 第2連目も似た印象がある。

蛇たちの冷血の
それゆえの情念の火
永劫に眼を閉じられぬ奈落の
それゆえの悦楽の火

 「冷血」と「情念の火」。また1連目と2連目の最終行の「思念の肉を燃えさせる」と「悦楽の火」の呼び掛け合いもすっきりしていて、とても透明な感じがする。
 対立する概念の衝突と、類似のものの呼び掛け合い。この手法は高岡の好むものらしい。2つのものが対立したり、向き合ったりして、無駄なくことばが動いていく。その清潔さが高岡のことばの特徴だと思う。
 そう理解した上で、私にはひとつの疑問がある。不満がある。あまりに清潔すぎる。透明すぎる。なぜこんなに清潔で透明でなければならないのか。
 たとえば「思念の肉」「悦楽の火」ということばがあるが、私には「肉」や「悦楽」が実は感じられない。ことばとしては理解できるが、そこに書かれている「肉」も「悦楽」も手触りがない。私のどんな感覚も呼び覚まさない。ただ頭脳のなかでことばが結びつき、そういうことばの結びつきというものがあるということしか明らかにしない。頭で読まされているような感じがする。
 「笛」に象徴的な行がある。

蛇たちはかつて
外耳を捨てた
蛇たちは
地の声のみを
脳凾で聴く

 高岡がつかっていることばを借りて言い換えれば、高岡が書いていることは、すべては「脳」の世界なのである。
 そして、高岡のことばの運動は、いわば「数学」なのである。
 「肉」にしろ、「悦楽」にしろ、そういうものは個人個人の生活、体験によってどうしようもなく汚れているし、その汚れゆえにうさんくさく、うさんくさいがゆえにひきこまれてしまうものだが、高岡のことばにはそういうものがまったくない。すべてのことばは「数字」と同じように、そのものを指しているのではなく、それを動かして思考するときの抽象的な概念の形なのである。
 5センチの鉛筆も10センチの鉛筆もそれぞれ1本であり、1+1=2。あるいは赤鉛筆も青鉛筆もそれぞれ1本であり、1+1=2。ほんとうは1+1=2といえないものがあるにもかかわらず、そんなふうに処理してしまって困らないという部分が「数学」にはある。5センチの鉛筆ではいやだなあとか、赤鉛筆がほしかったのにとか、これでもがまんするか、とかというような思いを除外しても成り立つある関係というものが「数学」にはある。そういう「頭脳」でのみ通用する便宜上の関係をなんとなく感じるのである。
 「火」と「凍点」、「思念」と「肉」、「冷血」と「情念」、「肉」と「情念」と「悦楽」と「火」。これらを結んでいるのは「肉体」の深い闇というよりは、「頭脳」のなかでおこなわれる加減乗除のようなものである。
 そして、この「数学」は、何といえばいいのだろうか、あまりにも整然としている。つまり、間違いがない。「正解」へ向かって、まったくむだな過程をたどらない。一直線に最短距離で進む。そのことがいっそう「頭脳」のなかの世界を印象づける。

 「水の空」という作品のなかに次の2行がある。

ほんとうの洪水は
こころの中にこそ起こる

 この「こころ」も「肉」や「悦楽」と同じように、私にはとても抽象的なものに感じられる。「こころ」というより「頭脳」と置き換えた方がわかりやすいような感じがする。「こころ」というには何かあまりにも具体性に欠ける感じがするのである。「こころ」さえも高岡にとっては「頭脳」なのだろうと思う。ことばの「数学」のなかで動く抽象的な概念なのだと思う。

 だから「肉体」「情念」を描けば描くほど、そこから「肉体」「情念」が消えて行く。美しい「数式」のような関係のみが浮かび上がる。「眼裏」の最後の部分。

死んだ蛇たちは
ついに
月光の情欲そのものとなって
永劫を
飢えるだろう
性愛の果てに咲くという
桔梗の花弁のような眼裏に焦がれたまま

 「性愛」も「性愛の果て」も、私には、この作品からは実感できない。いやらしい、けれどしてみたい、うらやましくて、憎らしいとも、じれったいとも感じない。気持ち悪いとも感じない。ぜんぜん「焦がれ」ないのである。
 刺激されるのは「頭脳」だけである。
 「月光の情欲」ということばが美しく感じられるとしたら、それは「月光の悲しみ」というような「常識」(既成概念、常套表現)を裏切る「数学」がそこにあるからだ、そういう「数学」をつかえば「詩」はできるのだ、という刺激だけである。最初に引用した「火」と「凍点」の関係も同じである。既成概念を裏切る「数学」、想定したことがなかったものの出会いという「数学」が「詩」を、頭脳のなかにつくりだすときの、不思議な快感がそこにあるだけなのだと思う。
 「言語の数学」を楽しみたい人にはとても楽しい詩集だろう。「言語の数学」ではなく、「言語の混沌」を読みたい人にはあまり向いていないだろうと思う。



 これまで書いてきたことと少しずれるのだが……。
 詩集中、「笛」の次の部分だけは、私は非常に好きである。そこには「頭脳」ではないものがある。「数学」ではないものがある。あるいは、私の「数学」では計算できないというだけのことかもしれない。

脱いでも脱いでも
おのれ自身が
やってくる
脱いでも脱いでも
いのちに鱗が
生えてくる
 
 特に「生えてくる」に肉体を感じた。こころを感じた。情念と言い換えてもいいし、ほかのどんなことばに換えてもいいのだが、ようするに「頭脳」ではないものを感じた。手触りを感じた。
 こういう行がもっとあれば、私は『蛇』が大好きになったと思う。

コメント
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